あぢきなき松の風かななけばなき小琴をとればおなじ音を弾く
晶子
東の院が美々しく落成したので、花散里(はなちるさと)といわれていた夫人を源氏は移らせた。西の対(たい)から渡殿(わたどの)へかけてをその居所(きょしょ)にとって、事務の扱所、家司(けいし)の詰所(つめしょ)などもそなわった。源氏の夫人の一人としての体面を損じないような住居にしてあった。東の対に明石(あかし)の人を置こうと源氏はかねてから思っていた。北の対をばことに広く立てて、かりにも源氏が愛人と見て、将来のことまでも約束してある人たちのすべてをそこへ集めて住ませようという考えをもっていた源氏は、そこをいくつにも仕切って作らせた点で北の対はもっともおもしろい建物になった。中央の寝殿はだれの住居にも使わせずに、時々源氏が来て休息をしたり、客を招いたりする座敷にしておいた。
明石へはしじゅう手紙が送られた。このごろは上京をうながすことばかりをいう源氏であった。女はまだ躊躇(ちゅうちょ)をしているのである。わが身の上のかいなさをよく知っていて、自分などとはくらべられぬ都の貴女たちでさえ捨てられるのでもなく、また冷淡でなくもないような扱いを受けて、源氏のためにもの思いを多く作るという噂(うわさ)を聞くのであるから、どれだけ愛されているという自信があってその中へ出て行かれよう、姫君の生母の貧弱さを人目にさらすだけで、たまさかの訪問を待つにすぎない京の暮しを考えるほど不安なことはないと煩悶(はんもん)をしながらも明石は、そうかといって姫君をこの田舎(いなか)に置いて、世間から源氏の子としてとり扱われないような不幸な目に合せることもひじょうに哀れなことであると思って、出京は断然しないとも源氏へ答えることはできなかった。両親も娘の煩悶するのが道理に思われて嘆息ばかりしていた。入道夫人の祖父の中務卿親王(なかつかさきょうしんのう)が昔もっておいでになった別荘が嵯峨(さが)の大井川のそばにあって、宮家の相続者にしかとした人がないままに別荘などもそのまま荒廃させてあるのを思い出して、親王のときからずっと預かり人のようになっている男を明石へ呼んで相談した。
「私はもう京の生活を二度とすまいという決心で田舎へ引籠ったのだが、子どもになってみるとそうはいかないもので、その人たちのためまた一軒京に家をもつ必要ができたのだが、こうした静かなところにいて、にわかに京の町中の家へはいっては気もおちつくものでないと思われるので、古い別荘の方へでもやろうかと思う。そちらで今まで使っているだけの建物は君の方へあげてもいいから、そのほかのところを修繕して、とにかく人が住めるだけの別荘にこしらえあげてもらいたいと思うのだが」
と入道がいった。
「もう長いあいだ持ち主がおいでにならない別荘になって、ひどく荒れたものですから、私たちは下屋(しもや)の方に住んでおりますが、しかし今年の春ごろから内大臣さんが近くへ御堂(みどう)の普請(ふしん)をおはじめになりまして、あすこはもう人がたくさん来るところになっておりますよ、たいした御堂ができるのですから、工事に使われている人数だけでもどんなに多いかしれません。静かなお住居がよろしいのならあすこはだめかもしれません」
「いや、それはかまわないのだ。というのは内大臣家にも関係のあることで、そこへ行こうとしているのだからね。家の中の設備などは追い追いこちらからさせるが、まず急いでだいたいの修繕の方をさせてくれ」
と入道がいう。
「私の所有ではありませんが、もっていらっしゃる方もなかったものですから、一軒家のようなところを長く私が守ってきたのです。別荘についた田地なども荒れる一方でしたから、お亡(な)くなりになりました民部大輔(みんぶたゆう)さんにお願いして、譲っていただくことにしまして、それだけの金は納めたのでした」
預かり人は自身のもののようにしている田地などを回収されないかと危(あや)うがって、権利を主張しておかねばというように、鬚(ひげ)むしゃな醜(みにく)い顔の鼻だけを赤くしながら顎(あご)をあげて弁じ立てる。
「私の方では田地などいらない。これまでどおりに君は思っておればいい。別荘その他の証券は私の方にあるが、もう世捨人になってしまってからは、財産の権利も義務も忘れてしまって、留守居料も払ってあげなかったが、そのうち精算してあげるよ」
こんな話も相手は、入道が源氏に関係のあることを匂わしたことで気味悪く思って、私欲をそれ以上たくましくはしかねていた。それからのち、入道家から金を多く受けとって大井の山荘は修繕されていった。そんなことは源氏の想像しないことであったから、上京をしたがらない理由はなんにあるかと怪んでは、姫君がそのまま田舎に育てられていくことによって、のちの歴史にも不名誉な話が残るであろうと源氏は嘆息されるのであったが、大井の山荘ができあがってから、はじめて昔の母の祖父の山荘のあったことを思い出して、そこを家にして上京するつもりであると明石から知らせてきた。東の院へ迎えて住ませようとしたことに同意しなかったのは、そんな考えであったのかと源氏は合点(がてん)した。聡明な仕方だとも思ったのであった。惟光(これみつ)が源氏の隠しごとに関係しないことはなくて、明石の上京の件についても源氏はこの人にまずうちあけて、さっそく大井へ山荘を見にやり、源氏の方で用意しておくことはみなさせた。
「ながめのよいところでございまして、やはりまた海岸のような気のされるところもございます」
と惟光は報告した。そうした山荘の風雅な女主人になる資格のある人であると源氏は思っていた。
源氏の作っている御堂は大覚寺(だいかくじ)の南にあたるところで、滝殿(たきどの)などの美術的なことは大覚寺にも劣らない。明石の山荘は川に面したところで、大木の松の多い中へ素朴に寝殿の建てられてあるのも、山荘らしい寂(さび)しい趣きが出ているように見えた。源氏は内部の設備までも自身の方でさせておこうとしていた。親しい人たちをもまたひそかに明石へ迎えに立たせた。
まぬがれがたい因縁(いんねん)にひかれていよいよここを去るときになったのであると思うと、女の心はなじみ深い明石の浦になごりが惜しまれた。父の入道を一人ぼっちで残すことも苦痛であった。なぜ自分だけはこんな悲しみをしなければならないのであろうと、朗らかな運命をもつ人がうらやましかった。両親も源氏に迎えられて娘が出京するというようなことは、長いあいだ寝てもさめても願っていたことで、それが実現される喜びはあっても、その日をかぎりに娘たちと別れて孤独になる将来を考えると堪えがたく悲しくて、夜も昼ももの思いに入道は呆(ぼう)としていた。いうことはいつも同じことで、
「そして私は姫君の顔を見ないでいるのだね」
そればかりである。夫人の心もひじょうに悲しかった。これまでもすでに同じ家には住まず別居の形になっていたのであるから、明石が上京したあとに自分だけが残る必要も認めてはいないものの、地方にいるあいだだけの仮の夫婦の中でも月日が重なってなじみの深くなった人たちは別れがたいものに違いないのであるから、まして夫人にとっては頑固(がんこ)な我意の強い良人(おっと)ではあったが、明石に作った家で終る命を予想して、信頼してきた妻なのであるから、にわかに別れて京へ行ってしまうことは心細かった。光明を見失った人になって田舎の生活をしていた若い女房などは、蘇生(そせい)のできたほどにうれしいのであるが、美しい明石の浦の風景に接する日のまたないであろうことを思うことで心の滅(め)入ることもあった。これは秋のことであったから、ことにものごとが身にしんで思われた。出立の日の夜明けに、涼しい秋風が吹いていて、虫の声もするとき、明石の君は海の方をながめていた。入道は後夜(ごや)に起きたままでいて、鼻をすすりながら仏前の勤めをしていた。門出の日は縁起を祝って、不吉なことはだれもいっさい避けようとしているが、父も娘も忍ぶことができずに泣いていた。小さい姫君はひじょうに美しくて、夜光の珠(たま)と思われる麗質のそなわっているのを、これまでどれほど入道が愛したかしれない。祖父の愛によくなじんでいる姫君を入道は見て、
「僧形(そうぎょう)の私が姫のそばにいることは遠慮すべきだとこれまでも思いながら、片時だってお顔を見ねばおられなかった私は、これから先どうするつもりだろう」
と泣く。
「行くさきを遙(はる)かに祈る別れ路に
たへぬは老の涙なりけり
不謹慎だ私は」
といって、落ちてくる涙をぬぐい隠そうとした。尼君が、京時代の左近中将の良人に、
「もろともに都は出できこのたびや
一人野中の道に惑はん」
といって泣くのも同情されることであった。信頼をし合って過ぎた年月を思うと、どうなるかわからぬ娘の愛人の心をたのみにして、見捨てた京へ帰ることが尼君をはかなくさせるのであった。明石が、
「いきてまた逢ひ見んことをいつとてか
限りも知らぬ世をば頼まん
送ってだけでもくださいませんか」
と父にたのんだが、それは事情がゆるさないことであると入道はいいながらも、途中が気づかわれるふうが見えた。
「私は出世することなどを思いきろうとしていたのだが、いよいよその気になって地方官になったのは、ただあなたに物質的にだけでもじゅうぶんつくしてやりたいということからだった。それから地方官の仕事も私に適したものでないことをいろんな形で教えられたから、これをやめて地方官の落伍(らくご)者の一人で、京で軽蔑(けいべつ)される人間にこのうえなっては親の名誉をはずかしめることだと悲しくて出家したがね、京を出たのが世の中を捨てる門出(かどで)だったと、世間からも私は思われていて、よくいさぎよくそれを実行したと私自身にも満足感はあったが、あなたが一人前の少女になってきたのを見ると、どうしてこんな珠玉を泥土(でいど)に置くような残酷なことを自分はしたかと私の心はまた暗くなってきた。それからは仏と神をたのんで、この人までが私の不運にひかれて一地方人となってしまうようなことがないようにと願った。思いがけず源氏の君を婿(むこ)に見る日がきたのであるが、われわれには身分のひけ目があって、よいことにも悲しみが常に添っていた。しかし姫君がお生れになったことで私もだいぶ自信が出てきた。姫君はこんな土地でお育ちになってはならない高い宿命をもつ方に違いないのだから、お別れすることがどんなに悲しくても私はあきらめる。何ごとももうとくにあきらめた私は僧じゃないか。姫君は高い高い宿命の人でいられるが、暫時(ざんじ)のあいだ、私に祖父と孫の愛をつくって見せてくださったのだ。天に生れる人も一度は三途(さんず)の川まで行くということにあたることだと、それを思って私はこれで長いお別れをする。私が死んだと聞いても仏事などはしてくれる必要はない。死に別れた悲しみもしないでおおきなさい」
と入道は断言したのであるが、また、
「私は煙になる前の夕(ゆうべ)まで姫君のことを六時の勤行(ごんぎょう)にまぜて祈ることだろう。恩愛が捨てられないで」
と悲しそうに言うのであった。車の数の多くなることも人目をひくことであるし、二度に分けて立たせることもめんどうなことであるといって、迎えに来た人たちもまたひじょうに目立つことを恐れるふうであったから、船を用いてそっと明石親子は立つことになった。
午前八時に船が出た。昔の人も身にしむものに見た明石の浦の朝霧に船の隔(へだ)たって行くのを見る入道の心は、仏弟子(でし)の超越した境地に引きもどされそうもなかった。ただ呆然としていた。
長い年月をへて都へ帰ろうとする尼君の心もまた悲しかった。
かの岸に心寄りにし海人船(あまぶね)の
そむきし方に漕(こ)ぎ帰るかな
といって尼君は泣いていた。明石は、
いくかへり行きかふ秋を過しつつ
浮木(うきぎ)に乗りてわれ帰るらん
といっていた。追風であって、予定どおりに一行の人は京へはいることができた。車に移ってから人目をひかぬ用心をしながら大井の山荘へ行ったのである。
山荘は風流にできていて、大井川が明石でながめた海のように前を流れていたから、住居の変った気もそれほどにしなかった。明石の生活がなお近いつづきのように思われて、悲しくなることが多かった。増築した廊(ろう)なども趣きがあって園内に引いた水の流れも美しかった。欠点もあるが住みついたならきっとよくなるであろうと明石の人々は思った。源氏は親しい家司に命じて、到着の日の一行の饗応(きょうおう)をさせたのであった。自身でたずねて行くことは、機会を作ろう作ろうとしながらもおくれるばかりであった。源氏に近い京へ来ながらもの思いばかりがされて、女は明石の家も恋しかったし、徒然(つれづれ)でもあって、源氏の形見の琴の絃を鳴らしてみた。ひじょうに悲しい気のする日であったから、人の来ぬ座敷で明石がそれをすこし弾(ひ)いていると、松風の音が荒々しく合奏をしかけてきた。横になっていた尼君が起きあがっていった。
身を変へて一人帰(か)へれる山里に
聞きにし似たる松風ぞ吹く
女(むすめ)がいった。
ふるさとに見し世の友を恋ひわびて
さへづることを誰か分くらん
こんなふうに、はかながって暮していた数日ののちに、以前にもまして会いがたい苦しさをせつに感じる源氏は、人目もはばからずに大井へ出かけることにした。夫人にはまだ明石の上京したことはいってなかったから、ほかから耳にはいっては気まずいことになると思って、源氏は女房を使いにしていわせた。
「桂(かつら)に私が行って指図をしてやらねばならないことがあるのですが、それをそのままにして長くなっています。それに京へ来たらたずねようという約束のしてある人も、その近くへのぼって来ているのですから、すまない気がしますから、そこへも行ってやります。嵯峨野(さがの)の御堂になにもそろっていないところにいらっしゃる仏様へもご挨拶に寄りますから、二三日は帰らないでしょう」
夫人は桂の院という別荘の新築されつつあることを聞いたが、そこへ明石の人を迎えたのであったかと気づくとうれしいこととは思えなかった。
「斧(おの)の柄(え)を新しくなさらなければ(仙人の碁(ご)を見物しているあいだに、時がたって気がついてみるとその樵夫(きこり)のもっていた斧の柄はくちていたという話)ならないほどの時間はさぞ待ち遠いことでしょう」
不愉快そうなこんな夫人の返事が源氏に伝えられた、
「また意外なことをおいいになる。私はもうすっかり昔の私でなくなったと、世間でもいうではありませんか」
などといわせて夫人の機嫌(きげん)をなおさせようとするうちに昼になった。
微行(しのび)で、しかも前駆(ぜんく)には親しい者だけを選んで源氏は大井へ来た。夕方前である。いつも狩衣(かりぎぬ)姿をしていた明石時代でさえも美しい源氏であったのが、恋人に会うがために引き繕(つくろ)った直衣(のうし)姿はまばゆいほどまたりっぱであった。女のした長い憂いもこれに慰めれられた。源氏はいまさらのようにこの人に深い愛を覚えながら、二人の中に生れた子どもを見てまた感動した。今まで見ずにいたことさえもとりかえされない損失のように思われる。左大臣家で生れた子の美貌(びぼう)を世人はたたえるが、それは権勢に目がくらんだ批評である。これこそ真の美人になる要素のそなわった子どもであると源氏は思った。無邪気な笑顔の愛嬌(あいきょう)の多いのを源氏はひじょうにかわゆく思った。乳母(めのと)も明石へ立って行ったころの衰えた顔はなくなって美しい女になっている。今日までのことをいろいろとなつかしいふうに話すのを聞いていた源氏は、塩焼き小屋に近い田舎の生活をしいてさせられてきたのに同情するというようなことをいった。
「ここだってまだずいぶんと遠すぎる。したがって私がしじゅうは来られないことになるから、やはり私があなたのために用意したところへお移りなさい」
と源氏は明石にいうのであったが、
「こんなふうに田舎者であることがすこしなおりましてから」
と女のいうのも道理であった。源氏はいろいろに明石の心をいたわったり、将来をかたく誓ったりしてその夜は明けた。なお修繕を加える必要のあるところを、源氏はもとの預かり人やあらたに任命した家職の者に命じていた。源氏が桂の院へ来るという知らせがあったために、この近くの領地の人たちの集って来たのはみなそこから明石の家の方へ来た。そうした人たちに庭の植込みの草木をなおさせたりなどした。
「流れの中にあった立石がみな倒れて、ほかの石といっしょにまぎれてしまったらしいが、そんなものを復旧させたり、よくなおさせたりすればずいぶんおもしろくなる庭だと思われるが、しかしそれは骨を折るだけかえってあとでいけないことになる。そこに永久いるものでもないから、いつか立って行ってしまうときに心が残って、どんなに私は苦しかったろう、帰るときに」
源氏はまた昔をいいだして、泣きもし、笑いもして語るのであった。こうしたうちとけたようすの見えるときに、源氏はいっそう美しいのであった。のぞいて見ていた尼君は老いも忘れ、もの思いもあとかたなくなってしまう気がしてほほえんでいた。東の渡殿(わたどの)の下をくぐってくる流れの筋をし変えたりする指図に、源氏は袿(うちぎ)を引きかけたくつろぎ姿でいるのがまた尼君にはうれしいのであった。仏の閼伽(あか)の具などが縁に置かれてあるのを見て、源氏はその中が尼君の部屋であることに気がついた。
「尼君はこちらにおいでになりますか。だらしのない姿をしています」
といって、源氏は直衣をとり寄せて着かえた。几帳(きちょう)の前にすわって、
「子どもがよい子に育ちましたのは、あなたの祈りを仏様がいれてくだすったせいだろうとありがたく思います。俗をお離れになった清いご生活から、私たちのためにまた世の中へ帰って来てくだすったことを感謝しています。明石ではまた一人でお残りになって、どんなにこちらのことを想像して心配していてくださるだろうとすまなく私は思っています」
となつかしいふうに話した。
「一度捨てました世の中へ帰って参って苦しんでおります心も、お察しくださいましたので、命の長さもうれしくぞんぜられます」
尼君は泣きながらまた、
「荒磯(あらいそ)かげに心苦しくぞんじました二葉(ふたば)の松も、いよいよたのもしい未来が思われます日に到着いたしましたが、ご生母がわれわれ風情(ふぜい)の娘でございますことが、ご幸福の障(さわ)りにならぬかと苦労にしております」
などというようすに品のよさの見える婦人であったから、源氏はこの山荘の昔の主(あるじ)の親王のことなどを話題にして語った。なおされた流れの水はこの話に言葉を入れたいように、前よりも高い音を立てていた。
住み馴(な)れし人はかへりてたどれども
清水ぞ宿の主人(あるじ)がほなる
歌であるともなくこういうようすに、源氏は風雅を解する老女であると思った。
「いさらゐははやくのことも忘れじを
もとの主人や面(おも)変りせる
悲しいものですね」
と嘆息して立って行く源氏の美しいとりなしにも、尼君は打たれて茫(ぼう)となっていた。
源氏は御堂へ行って毎月十四五日と三十日(みそか)におこなう普賢講(ふげんこう)、阿弥陀(あみだ)、釈迦(しゃか)の念仏の三昧(さんまい)のほかにも日を決めてする法会のことを僧たちに命じたりした。堂の装飾や仏具の製作などのことも御堂の人々へ指図してから、月明の路(みち)を川沿いの山荘へ帰って来た。
明石の別離の夜のことが源氏の胸によみがえって感傷的な気分になっているときに、女はその夜の形見の琴(きん)をさし出した。弾きたい欲求もあって源氏は琴を弾きはじめた。まだ絃の音が変っていなかった。その夜が今であるように思われる。
契(ちぎ)りしに変らぬ琴のしらべにて
絶えぬ心のほどは知りきや
というと、女が、
変らじと契りしことを頼みにて
松の響きに音(ね)を添へしかな
という。こんなことが不似合いに見えないのは女からいえば過分なことであった。明石時代よりも女の美に光彩が加わっていた。源氏は永久に離れがたい人になったと明石を思っている。姫君の顔からもまた目は離せなかった。日陰の子として成長していくのが、堪えられないほど源氏はかわいそうで、これを二条院へ引きとってできるかぎりにかしずいてやることにすれば、成長後の肩身の狭さも救われることになるであろうとは源氏の心に思われることであったが、また引き放される明石の心が哀れに思われて口へそのことは出ずにただ涙ぐんで姫君の顔を見ていた。子心にはじめはすこしはずかしがっていたが、今はもうよく慣れてきて、ものをいって、笑ったりもして見せた。あまえて近づいてくる顔が、またいっそう美しくてかわいいのである。源氏に抱かれている姫君はすでに類のない幸福に恵まれた人と見えた。
三日目は京へ帰ることになっていたので、源氏は朝もおそく起きて、ここから直接帰って行くつもりでいたが、桂の院の方へ高官がたくさん集って来ていて、この山荘へも殿上役人がおおぜいで迎えに来た。源氏は装束をして、
「きまりの悪いことになったものだね、あなた方に見られてよい家でもないのに」
といいながらいっしょに出ようとしたが、心苦しく女を思って、さりげなくまぎらして立ちどまった戸口へ、乳母は姫君を抱いて出て来た。源氏はかわいいようすで子どもの頭をなでながら、
「見ないでいることは堪えられない気のするのもにわかな愛情すぎるね、どうすればいいだろう、遠いじゃないかここは」
と源氏がいうと、
「遠い田舎の幾年よりも、こちらへ参ってたまさかしかお迎えできないようなことになりましては、だれもみな苦しゅうございましょう」
など乳母はいった。姫君が手を前へ伸して、立っている源氏の方へ行こうとするのを見て、源氏は膝(ひざ)をかがめてしまった。
「もの思いから解放される日のない私なのだね、しばらくでも別れているのは苦しい。奥さんはどこにいるの、なぜここへ来て別れを惜しんでくれないのだろう、せめて人ごこちが出てくるかも知れないのに」
というと、乳母は笑いながら明石のところへ行ってそのとおりをいった。女は会った喜びが二日でつきて、別れのときのきた悲しみに心を乱していて、呼ばれてもすぐに出ようとしないのを源氏は心のうちであまりにも貴女ぶるではないかと思っていた。女房たちからもすすめられて、明石はやっといざって出て、そして姿は見せないように几帳(きちょう)のかげへ入るようにしているようすに気品が見えて、しかも柔らかい美しさのあるこの人は内親王といってもよいほどに気高く見えるのである。源氏は几帳の垂絹(たれぎぬ)を横へ引いてまたこまやかにささやいた。いよいよ出かけるときに源氏が一度ふりかえって見ると、冷静にしていた明石も、このときは顔を出して見送っていた。源氏の美は今が盛りであると思われた。以前は痩(や)せて背丈(せたけ)が高いように見えたが、今はちょうどいいほどになっていた。これでこそ貫目のある好男子になられたというものであると女たちがながめていて、指貫(さしぬき)の裾(すそ)からも愛嬌(あいきょう)はこぼれ出るように思った。解官(かいかん)されて源氏について漂泊(さすら)えた蔵人(くろうど)もまた旧の地位にかえって、靫負尉(ゆげいのじょう)になったうえに今年は五位も得ていたが、この好青年官人が源氏の太刀(たち)をとりに戸口へ来たときに、御簾(みす)の中に明石のいるのを察して挨拶をした。
「以前のご厚情を忘れておりませんが、失礼かとぞんじますし、浦風に似た気のいたしました今暁の山風にも、ご挨拶をとりついでいただく便(びん)もございませんでしたから」
「山にとり巻かれておりましては、海辺のたよりない住居と変りもなくて、松も昔の(友ならなくに)と思って寂しがっておりましたが、昔の方がお供の中においでになって力強く思います」
などと明石はいった。すばらしいものにこの人はなったものだ。自分だって恋人にしたいと思ったこともある女ではないかなどと思って、驚異を覚えながらも蔵人は、
「また別の機会に」
といって男らしく肩をふって行った。りっぱな風采(ふうさい)の源氏が静かに歩を運ぶかたわらで先払いの声が高く立てられた。源氏は車へ頭中将(とうのちゅうじょう)、兵衛督(ひょうえのかみ)などを陪乗(ばいじょう)させた。
「つまらない隠れ家(が)を発見されたことはどうも残念だ」
源氏は車中でしきりにこういっていた。
「昨夜はよい月でございましたから、嵯峨のお供のできませんでしたことがくやしくてなりませんで、今朝(けさ)は霧(きり)の濃い中をやって参ったのでございます。嵐山の紅葉はまだ早うございました。今は秋草の盛りでございますね、某朝臣(あそん)はあすこで小鷹狩(こたかがり)をはじめて、ただいまいっしょに参れませんでしたが、どういたしますか」
などと若い人はいった。
「今日はもう一日、桂の院で遊ぶことにしよう」
と源氏はいって、車をその方へやった。桂の別荘の方では、にわかに客の饗応の仕度がはじめられて、鵜飼(うがい)なども呼ばれたのであるが、その人夫たちの高いわからぬ会話が聞えてくるごとに海岸にいたころの漁夫の声が思い出される源氏であった。大井の野にのこった殿上役人が、しるしだけの小鳥を萩(はぎ)の枝などへつけてあとを追って来た。杯がたびたびめぐったあとで川辺の逍遙を危ぶまれながら、源氏は桂の院で遊び暮した。月がはなやかにのぼってきたころから音楽の合奏がはじまった。絃楽の方は琵琶、和琴(わごん)などだけで笛のじょうずがみな選ばれて伴奏をした曲は秋にしっくり合ったもので、感じのよいこの小合奏に川風が吹きまじっておもしろかった。月が高くのぼったころ、清澄な世界がここに現出したような今夜の桂の院へ、殿上人がまた四五人づれで来た。殿上に伺候(しこう)していたのであるが、音楽の遊びがあって、帝(みかど)が、
「今日は六日の謹慎日がすんだ日であるから、きっと源氏の大臣(おとど)は来るはずであるのだ、どうしたか」
と仰せられたときに、嵯峨へ行っていることが奏されて、それで下された一人の御使(みつか)いと同行者なのである。
「月のすむ川の遠(おち)なる里なれば
桂の影はのどけかるらん
うらやましいことだ」
これが蔵人弁(くろうどのべん)である御使いが源氏に伝えたお言葉である。源氏はかしこまってうけたまわった。清涼殿での音楽よりも、場所のおもしろさの多く加わったここの管絃楽に、新来の人々は興味を覚えた。また杯が多くめぐった。ここには纏頭(てんとう)にするものがそなえてなかったために、源氏は大井の山荘の方へ、
「たいそうでない纏頭の品があれば」
といってやった。明石は手もとにあった品をとりそろえてもたせて来た。衣服箱二荷(か)であった。御使いの弁は早く帰るので、さっそく女装束が纏頭(てんとう)に出された。
久方の光に近き名のみして
朝夕霧も晴れぬ山ざと
というのが源氏の勅答の歌であった。帝の行幸を待ち奉る意があるのであろう。「中に生(お)ひたる」(久方(ひさかた)の中におひたる里なれば光をのみぞ頼むべらなる)と源氏は古歌を口ずさんだ。源氏がまた躬恒(みつね)が「淡路(あわじ)にてあはと遙(はる)かに見し月の近き今宵(こよい)はところがらかも」とふしぎがった歌のことをいいだすと、源氏の以前のことを思って泣く人も出て来た。みな酔ってもいるからである。
めぐりきて手にとるばかりさやけきや
淡路の島のあはと見し月
これは源氏の作である。
浮き雲にしばしまがひし月影の
すみはつるよぞのどけかるべき
頭中将である。右大弁は老人であって、故院の御代(みよ)にもむつまじくお召使いになった人であるが、その人の作、
雲の上の住みかを捨てて夜半の月
何(いず)れの谷に影隠しけん
なおいろいろな人の作もあったが省略する。歌が出てからは、人々は感情のあふれてくるままに、こうした人間の愛し合う世界を千年もつづけて見ていきたい気を起したが、二条院を出て四日目の朝になった源氏は、今日はぜひ帰らねばならぬと急いだ。一行にいろいろなものをかついだ供の人が加わった列は、霧のあいだを行くのが秋草の園のようで美しかった。近衛府(このえふ)の有名な芸人の舎人(とねり)で、よく何かのときに源氏について来る男に今朝も『その駒』などを歌わせたが、源氏をはじめ高官らの脱いで与える衣服の数が多くて、そこにもまた秋の野の錦のひるがえる趣があった。大騒ぎにはしゃぎにはしゃいで桂の院を人々の引きあげて行く物音を大井の山荘では、はるかに聞いて寂しく思った。ことづてもせずに帰って行くことを源氏は心苦しく思った。
二条院についた源氏はしばらく休息をしながら夫人に嵯峨の話をした。
「あなたと約束した日が過ぎたから私は苦しみましたよ。風流男どもがあとを追って来てね、あまりとめるものだからそれにひかれていたのですよ。疲れてしまった」
といって源氏は寝室へはいった。夫人が気むつかしいふうになっているのも気づかないように源氏は扱っていた。
「比較にならない人を競争者ででもあるように考えたりなどすることもよくないことですよ。あなたは自分は自分であると思いあがっておればいいのですよ」
と源氏は教えていた。日暮れ前に参内しようとして出かけぎわに、源氏は隠すように紙をもって手紙を書いているのは大井へやるものらしかった。こまごまと書かれているようすがうかがわれるのであった。
侍(さむらい)を呼んで小声でささやきながら手紙を渡す源氏を女房たちは憎く思った。その晩は御所で宿直(とのい)もするはずであるが、夫人の機嫌のなおっていなかったことを思って、夜はふけていたが源氏は夫人をなだめるつもりで帰って来ると、大井の返事を使いがもって来た。隠すこともできずに源氏は夫人のそばでそれを読んだ。夫人を不愉快にするようなことも書いてなかったので、
「これを破ってあなたの手で捨ててください。困るからね、こんなものが散らばっていたりすることは、もう私に似合ったことではないのだからね」
と夫人の方へそれを出した源氏は、脇息(きょうそく)に寄りかかりながら、心の中では大井の姫君が恋しくて、灯をながめて、ものもいわずにじっとしていた。手紙はひろがったままであるが、女王が見ようともしないのを見て、
「見ないようにしていて、目のどこかであなたは見ているじゃありませんか」
と笑いながら夫人にいいかけた源氏の顔には、こぼれるような愛嬌(あいきょう)があった。夫人のそばへ寄って、
「ほんとうはね、かわいい子を見て来たのですよ。そんな人を見るとやはり前生(ぜんしょう)の縁の浅くないということが思われたのですがね、とにかく子どものことはどうすればいいのだろう。公然、私の子どもとして扱うことも世間へはずかしいことだし、私はそれで煩悶しています。いっしょにあなたも心配してください。どうしよう、あなたが育ててみませんか、三つになっているのです。無邪気なかわゆい顔をしているものだから、どうも捨てておけない気がします。小さいうちにあなたの子にしてもらえば、子どもの将来を明るくしてやれるように思うのだが、失敬だとお思いにならなければ、あなたの手で袴着(はかまぎ)をさせてやってください」
と源氏はいうのであった。
「私を意地悪な者のようにばかり決めておいでになって、これまでから私にはだいじなことをみな隠していらっしゃるのですもの、私だけがあなたを信頼していることもあらためなければならないとこのごろは私思っています。けれども私は小さい姫君のお相手にはなれますよ。どんなにおかわゆいでしょう、その方ね」
といって、女王はすこしほほえんだ。夫人はひじょうに子ども好きであったから、その子を自分がもらって、その子を自分が抱いて、だいじに育ててみたいと思った。どうしよう、そうはいったもののここへつれて来たものであろうかと源氏はまた煩悶した。
源氏が大井の山荘を訪うことは困難であった。嵯峨の御堂の念仏の日を待って、はじめて出かけられるのであったから、月に二度より会いに行く日はないわけである。七夕(たなばた)よりは短い期間であっても、女にとっては苦しい十五日がくりかえされていった。