源氏物語

與謝野晶子訳



澪標(みおつくし)



みをつくし逢はんと祈るみてぐらもわれのみ神に奉(たてまつ)るらん
晶子

 須磨(すま)の夜の源氏の夢にまざまざとお姿をお現わしになって以来、父帝のことで痛心していた源氏は、帰京ができた今日になってそのご菩提(ぼだい)を早く弔(とむら)いたいと仕度(したく)をしていた。そして十月に法華経の八講が催されたのである。参列者の多く集ってくることは、昔のそうした場合のとおりであった。今日も重く煩(わずら)っておいでになる太后は、その中ででも源氏を不運に落しおおせなかったことをくやしく思召すのであったが、帝(みかど)は院のご遺言をお思いになって、当時もむくいがご自身の上へ落ちてくるような恐れをお感じになったのであるから、このごろはお心もちがきわめて明るくおなりあそばされた。時々はげしくお煩いになったご眼疾もよくおなりになったのであるが、短命でお終りになるような予感があってお心細いためによく源氏をお召しになった。政治についても隔(へだ)てのない進言をお聞きになることができて、一般の人も源氏の意見が多く採用される宮廷の現状を喜んでいた。
 帝は近くご遜位(そんい)の思召しがあるのであるが、尚侍(ないしのかみ)がたよりないふうに見えるのをあわれに思召した。
「大臣は亡(な)くなるし、大宮(おおみや)もしじゅうお悪いのに、私さえも余命がないような気がしているのだから、だれの保護も受けられないあなたは、孤独になってどうなるだろうと心配する。はじめからあなたの愛はほかの人に向かっていて、私をなんとも思っていないのだが、私はだれよりもあなたが好きなのだから、あなたのことばかりがこんなときにも思われる。私よりも優越者がまたあなたと恋愛生活をしても、私ほどにはあなたを思ってはくれないことはないかと、私はそんなことまでも考えてあなたのために泣かれるのだ」
 帝は泣いておいでになった。羞恥(しゅうち)に頬(ほお)を染めているためにいっそうはなやかに、愛嬌(あいきょう)がこぼれるように見える尚侍も涙を流しているのをごらんになると、どんな罪もゆるすにあまりあるように思召されて、ご愛情がその方へ傾くばかりであった。
「なぜあなたに子どもができないのだろう。残念だね。前生(ぜんしょう)の縁の深い人とあなたの中にはすぐにまたその喜びをする日もあるだろうと思うとくやしい。それでも気の毒だね、親王を生むのでないから」
 こんな未来のことまでも仰せになるので、はずかしい心がしまいには悲しくばかりなった。帝はご容姿もおきれいで、深く尚侍をお愛しになる御心(みこころ)は年月とともに顕著になるのを、尚侍は知っていて、源氏はすぐれた男であるが、自分を思う愛はこれほどのものでなかったということもようやく悟ることができてきては、若い無分別さからあの大事件までも引き起し、自分の名誉を傷つけたことはもとより、あの人にも苦労させることになったとも思われて、それもみな自分が薄幸な女だからであるとも悲しんでいた。
 翌年の二月に東宮のご元服があった。十二でおありになるのであるが、ご年齢のわりにはおとならしくて、おきれいで、ただ源氏の大納言の顔が二つできたようにお見えになった。まぶしいほどの美を備えておいでになるのを、世間ではおほめしているが、母宮はそれを人知れず苦労にしておいでになった。帝も東宮のごりっぱでおありになることにご満足をあそばして、ご即位後のことをなつかしいごようすでお教えあそばした。
 この同じ月の二十幾日に譲位のことがおこなわれた。太后はお驚きになった。
「ふがいなく思召すでしょうが、私はこうして静かにあなたへご孝養がしたいのです」
と帝はお慰めになったのであった。東宮には承香殿(しょうきょうでん)の女御(にょご)のお生みした皇子がお立ちになった。
 すべてのことに新しい御代(みよ)の光の見える日になった。見聞きする目に耳にはなやかな気分の味わわれることが多かった。源氏の大納言は内大臣になった。左右の大臣の席がふさがっていたからである。そして摂政(せっしょう)にこの人がなることも当然のことと思われていたが、
「私はそんな忙しい職に堪えられない」
といって、致仕(ちし)の左大臣に摂政を譲った。
「私は病気によっていったん職をお返しした人間なのですから、今日はまして年も老いてしまったし、そうした重任にあたることなどはだめです」
と大臣はいって引き受けない。
支那(しな)でも政界の混沌(こんとん)としている時代は、退いて隠者になっている人も治世の君がお決りになれば、白髪も恥じずお仕えに出て来るような人をほんとうの聖人だといってほめています。ご病気でご辞退になった位を次の天子の御代にあらためてちょうだいすることはさしつかえがありませんよ」
と源氏も、公人として私人として忠告した。大臣もことわりきれずに太政(だじょう)大臣になった。年は六十三であった。事実は先朝に権力をふるった人たちにあきたりないところがあって引き籠(こも)っていたのであるから、この人に栄えの春がめぐってきたわけである。一時不遇なように見えた子息たちも浮び出たようである。その中でも宰相(さいしょう)中将は権(ごん)中納言になった。四の君が生んだ今年十二になる姫君を早くから後宮に擬(ぎ)して中納言はだいじに育てていた。以前二条院につれられて来て高砂(たかさご)を歌った子も元服させて幸福な家庭を中納言はもっていた。腹々に生れた子どもが多くて一族がにぎやかであるのを源氏はうらやましく思っていた。太政大臣家で育てられていた源氏の子はだれよりも美しい子どもで、御所へも東宮へも、殿上童(てんじょうわらわ)として出入りしているのである。源氏の葵(あおい)夫人の死んだことを、父母はまたこの栄えゆく春に悲しんだ。しかし、すべてが昔の婿(むこ)の源氏によってもたらされた光明であって、何年かの暗い影が源氏のためにこの家からとり去られたのである。源氏は今も昔のとおりに老夫妻に好意をもっていて何かの場合によくたずねて行った。若君の乳母(めのと)そのほかの女房も長いあいだそのままに勤めている者に、厚くむくいてやることも源氏は忘れなかった。しあわせ者が多くできたわけである。二条院でもそのとおりに、主人を変えようともしなかった女房を源氏は好遇した。また中将とか、中務(なかつかさ)とかいう愛人関係であった人たちにも、多年の孤独が慰むに足るほどな愛撫(あいぶ)が分たれねばならないのであったから、ひまがなくて外歩きも源氏はしなかった。二条院の東に隣(とな)った邸は院のご遺産で源氏の所有になっているのをこのごろ源氏は新しく改築させていた。花散里(ななちるさと)などという恋人たちを住ませるための設計をして造られているのである。
 源氏は明石(あかし)の君の妊娠(にんしん)していたことを思って、しじゅう気にかけているのであったが、公私の事の多さに、使いを出して尋(たず)ねることもできない。三月の初めにこのごろが産期になるはずであると思うと哀れな気がして使いをやった。
「先月の十六日に女のお子様がお生れになりました」
という知らせを聞いた源氏は、愛人によってはじめての女の子を得た喜びを深く感じた。なぜ京へ呼んで産をさせなかったかと残念であった。源氏の運勢を占って、子は三人で、帝と后(きさき)が生れる、いちばん劣った運命の子は太政大臣で、人臣の位をきわめるであろう、その中のいちばん低い女が女の子の母になるであろうといわれた。また源氏が人臣として最高の位置を占めることもいわれてあったので、それは有名な相人(そうにん)たちの言葉がみな一致するところであったが、逆境にいた何年間はそんなことも心に否定するほかはなかったのである。当帝が即位されたことは源氏にうれしかったが、自身の上に高御座(たかみくら)の栄誉をねがわないことは少年の日とすこしも異(ことな)っていなかった。あるまじいことと思っている。多くの皇子たちの中にすぐれてお愛しになった父帝が人臣の列に自分をお置きになったご精神を思うと、自分の運と天位とは別なものであると思う源氏であった。源氏は相人の言葉のよく合う実証として今帝のご即位が思われた。后が一人自分から生れるということに明石の報(しらせ)が符(ふ)合することから、住吉の神の庇護(ひご)によってあの人も后の母になる運命から、父の入道が自然片寄った婿選びに身命をうちこむほどの狂態も見せたのであろう。后の位になるべき人を田舎(いなか)で生れさせたのはもったいない気の毒なことであると源氏は思って、しばらくすれば京へ呼ぼうと思って、東の院の建築を急がせていた。明石のような田舎に、相当な乳母がありえようとは思われないので、父帝の女房をしていた宣旨(せんじ)という女の娘で父は宮内卿(くないきょうの)宰相だった人であったが、母にも死に別れ、寂(さび)しい生活をするうちに恋愛関係から子どもを生んだという話をちかごろ源氏は聞き、その噂(うわさ)を伝えた人を呼び出して、宰相の娘に、源氏の姫君の乳母として明石へおもむくことの交渉を始めさせた。この女はまだ若くて無邪気な性質から、寂しいあばら屋でもの思いをばかりして暮す朝夕の生活に飽(あ)いていて、深くも考えずに、源氏の縁のかかったところに生活のできることほどよいこともないようにこれまでから焦(こ)がれていて、すぐに承諾してきた。源氏は田舎くだりをしてくれる宰相の娘を哀れに思って、いろいろと出立の用意をしてやっていた。
 外出したついでに源氏はそっとわが子の新しい乳母の家へ寄った。快諾を伝えてもらったのであるが、なお女はどうしようかと煩悶(はんもん)していたところへ源氏みずからが来てくれたので、それで旅に出る心も慰んで、あきらめもついた。
御意(ぎょい)のとおりにいたします」
といっていた。ちょうど吉日でもあったのですぐに立たせることに源氏はした。
「同情がないようだけれど、私は将来に特別な考えもある子なのだからね、それに私も経験してきた土地の生活だから、そう思ってまあ初めだけしばらく我慢(がまん)をすれば慣れてしまうよ」
と源氏は明石の入道家のことをくわしく話して聞かせた。母といっしょに父帝のおそばに来ていたこともあって、時々は見た顔であったが、以前にくらべると容貌が衰えていた。家のようすなどもずいぶんひどい荒れ方になっている。さすがに広いだけは広いが気味悪く思われるほど木なども茂りほうだいになっていて、こんな家にどうして暮してきたかと思われるほどである。若やかで美しいたちの女であったから、源氏が冗談をいったりするのにもおもしろい相手であった。
「私はとりかえしたい気がする。遠くへなどおまえをやりたくない。どう」
といわれて、直接源氏のそばで使われる身になれたなら、過去のどんな不幸も忘れることができるであろうと、もの哀れな気もちに女はなった。
  「かねてより隔てぬ中とならはねど
    別れは惜しきものにぞありける
 いっしょに行こうかね」
と源氏がいうと、女は笑って、
  うちつけの別れを惜しむかごとにて
    思はん方に慕ひやはせぬ
とひやかしもした。
 京の間だけは車でやった。親しい侍(さむらい)を一人つけて、あくまでも秘密のうちに乳母は送られたのである。守刀(まもりがたな)ようの姫君の物、若い母親への多くの贈物などが乳母に託されたのであった。乳母にもじゅうぶんの金品が支給されてあった。源氏は入道がどんなに孫をだいじがっていることであろうと、いろいろな場合を想像することで微笑がされた。母になった恋人も哀れに思いやられた。このごろの源氏の心は明石の浦へ傾きつくしていた。手紙にも姫君を粗略にせぬようにとくりかえしくりかえし戒めてあった。
  いつしかも袖うちかけんをとめ子が
    世をへて撫でん岩におひさき
 こんな歌も送ったのである。摂津(せっつ)の国境までは船で、それからは馬に乗って乳母は明石へついた。入道はひじょうに喜んでこの一行を受け取った。感激して京の方を拝(おが)んだほどである。そしていよいよ姫君は尊いものに思われた。恐ろしいほどたいせつなものに思われた。乳母が小さい姫君の美しい顔を見て、聡明な源氏が将来を思ってだいじにするのであるといったことはもっともなことであると思った。来る途中で心細いように、恐ろしいように思った旅の苦痛などもこれによって忘れてしまうことができた。ひじょうにかわゆく思って乳母は幼い姫君を扱った。若い母は幾月かの連続したもの思いのために衰弱したからだで出産をして、なお命がつづくものとも思っていなかったが、このときに見せられた源氏の至誠にはおのずから慰められて、力もついてゆくようであった。送ってきた侍に対しても入道は心をこめた歓待をした。あまりていねいな待遇に侍は困って、
「こちらのごようすを聞こうとお待ちになっていらっしゃるでしょうから早く帰京いたしませんと」
ともいうのであった。明石の君は感想をすこし書いて、
  一人して撫づるは袖の程なきに
    覆(おお)ふばかりの蔭(かげ)をしぞ待つ
と歌も添えて来た。怪しいほど源氏は明石の子が心にかかって、見たくてならぬ気がした。夫人には明石の話をあまりしないのであるが、外から聞えてきて不快にさせてはと思って、源氏は明石の君の出産の話をした。
「人生は意地の悪いものですね。そうありたいと思うあなたにはできそうでなくて、そんなところに子が生れるなどとは。しかも女の子ができたのだからね、悲観してしまう。うっちゃっておいてもいいのだけれど、そうもできないことでね。親であってみればね。京へ呼び寄せてあなたに見せてあげましょう。憎んではいけませんよ」
「いつも私がそんな女であるとしてあなたにいわれるかと思うと、私自身もいやになります。けれど女が恨みやすい性質になるのは、こんなことばかりがあるからなのでしょう」
と女王は恨んだ。
「そう、だれがそんな習慣をつけたのだろう。あなたは実際私の心もちをわかろうとしてくれない。私の思っていないことを忖度(そんたく)して恨んでいるから私としては悲しくなる」
といっているうちに源氏は涙ぐんでしまった。どんなにこの人が恋しかったろうと別居時代のことを思って、おりおり書き合った手紙にどれほど悲しい言葉が盛られたものであろうと思い出していた源氏は、明石の女のことなどはそれにくらべて命のある恋愛でもないと思われた。
「子どもに、私が大騒ぎして使いを出したりしているのも、考えがあるからですよ。今から話せばまた悪くあなたがとるから」
とその話はつづけずに、
「すぐれた女のように思ったのは場所のせいだったと思われる。とにかく平凡でない珍しい存在だと思いましたよ」
などと子の母について語った。別れの夕(ゆうべ)に前の空を流れた塩焼きの煙のこと、女のいった言葉、ほんとうよりも控え目な女の容貌の批評、名手らしい琴のひきようなどを忘られぬふうに源氏の語るのを聞いている女王は、その時代に自分は一人でどんなに寂しい思いをしていたことであろう、かりにもせよ、良人は心を人に分けていた時代にと思うと恨めしくて、明石の女のために嘆息をしている良人は良人であるというように、横の方を向いて、
「どんなに私は悲しかったろう」
 嘆息しながら独言(ひとりごと)のようにこういってから、
  思ふどち靡(なび)く方(かた)にはあらずとも
    我れぞ煙に先き立ちなまし
「なんですって、情けないじゃありませんか、
  たれにより世をうみやまに行きめぐり
    絶えぬ涙に浮き沈む身ぞ
 そうまで誤解されては私はもう死にたくなる。つまらぬことで人の感情を害したくないと思うのも、ただ一つの私の願いの、あなたとながく幸福でいたいためじゃないのですか」
 源氏は十三絃のかき合せをして、弾(ひ)けと女王に勧(すす)めるのであるが、名手だと思ったと源氏にいわれている女がねたましいか、手も触れようとしない。おおようで美しく柔らかい気もちの女性であるが、さすがに嫉妬はして、恨むことも腹も立てることもあるのが、いっそう複雑な美しさを添えて、この人をより引き立てて見せることだと源氏は思っていた。
 五月の五日が五十日(いか)の祝いにあたるであろうと源氏は人知れず数えていて、その式が思いやられ、その子が恋しくてならないのであった。紫の女王に生れた子であったなら、どんなにはなやかにそれらの式を自分はおこなってやったことであろうと残念である、あの田舎で父のいぬ場所で生れるとはあわれな者であると思っていた。男の子であれば源氏もこうまでこの事実に苦しまなかったであろうが、后の望みももってよい女の子にこのひけ目をつけておくことが堪えられないように思われて、自分の運はこの一点で完全でないとさえ思った。五十日(いか)のために源氏は明石へ使いを出した。
「ぜひ当日つくようにして行け」
と源氏に命ぜられてあった使いは五日に明石へついた。華奢(きゃしゃ)な祝品の数々のほかには、実用品も多く添えて源氏は贈ったのである。
  海松(うみまつ)や時ぞともなきかげに居(い)て
    何のあやもめいかにわくらん
 からだから魂が抜けていってしまうほど恋しく思います。私はこの苦しみに堪えられないと思う。ぜひ京へ出て来ることにしてください。こちらであなたに不愉快な思いをさせることは断じてない。
という手紙であった。入道は例のように感激して泣いていた。源氏の出立の日の泣き顔とは違った泣き顔である。明石でも式の用意は派手(はで)にしてあった。見て報告をする使いが来なかったなら、それがどんなに晴れをしなかったことだろうと思われた。乳母も明石の君のやさしい気質になじんで、よい友人を得た気になって、京のことは思わずに暮していた。入道の身分に近いほどの家の女もここに来て女房勤めをしているようなのが幾人かはあるが、それがどうかといえば京の宮仕えに磨(す)りつくされたような年配の者が、生活の苦からのがれるために田舎下(くだ)りをしたのが多いのに、この乳母はまだ娘らしくて、しかも思いあがった心をもっていて、自身の見た京を語り、宮廷を語り、縉紳(しんしん)の家の内部の派手なようすを語って聞かせることができた。源氏の大臣がどれほど社会から重んぜられているかということも、女心にしたいだけの誇張もしてしじゅう話した。乳母の話から、その人が別れたあとの今日までも好意を寄せて、また自分の生んだ子を愛してくれているのは幸福でなくてなんであろうと、明石の君はようやくこのごろになって思うようになった。乳母は源氏の手紙をいっしょに読んでいて、人間にはこんなに意外な幸運をもっている人もあるのである、みじめなのは自分だけであると悲しまれたが、乳母はどうしているかということも奥に書かれてあって、源氏が自分に関心をもっていることを知ることができたので満足した。返事は、
  数ならぬみ島がくれに鳴く鶴(たず)を
    今日もいかにと訪(と)ふ人ぞなき
 いろいろにもの思いをいたしながら、たまさかのおたよりを命にしておりますのもはかない私でございます。おおせのように子どもの将来に光明を認めとうございます。
というので、信頼した心もちがあらわれていた。何度も同じ手紙を見かえしながら、
「かわいそうだ」
と長く声を引いて独言(ひとりごと)をいっているのを、夫人は横目にながめて、「浦より遠(おち)に漕(こ)ぐ船の」(我をば他(よそ)に隔てつるかな)と低くいって、もの思わしそうにしていた。
「そんなにあなたに悪く思われるようにまで私はこの女を愛しているのではない。それはただそれだけの恋ですよ。そこの風景が目に浮んできたりする時々に、私は当時の気もちになってね、つい嘆息が口から出るのですよ。なんでも気にするのですね」
などと、恨みをいいながら上(うわ)包みに書かれた字だけを夫人に見せた。品のよい手跡で貴女もはずかしいほどなのを見て、夫人はこうだからであると思った。
 こんなふうに紫の女王の機嫌(きげん)をとることにばかり追われて、花散里をたずねる夜も源氏の作られないのは女のためにかわいそうなことである。このごろは公務も忙しい源氏であった。外出に従者も多くしたがえて出ねばならぬ身分のきゅうくつさもあるうえに、花散里その人がきわ立つ刺激(しげき)も与えぬ人であることを知っている源氏は、今日会わねばと心のわき立つこともないのであった。
 五月雨(さみだれ)のころは源氏も徒然(つれづれ)を覚えたし、ちょうど公務もひまであったので、思い立ってその人のところへ行った。たずねて行かないでも源氏の君はこの一家の生活を保護することを怠っていなかったのである。それにたよっている人は恨むことがあっても、ただみずからの薄命を嘆く程度のものであったから源氏は気楽に見えた。何年かのうちに邸内(やしきうち)はいよいよ荒れて、すごいような広い住居であった。姉の女御のところで話をしてから、夜がふけたあとで西の妻戸をたたいた。朧(おぼ)ろな月のさしこむ戸口から艶(えん)な姿で源氏ははいって来た。美しい源氏と月のさすところに出ていることははずかしかったが、初めから花散里はそこに出ていたのでそのままいた。この態度が源氏の気もちを楽にした。水鶏(くいな)が近くで鳴くのを聞いて、
  水鶏(くいな)だに驚かさずばいかにして
    荒れたる宿に月を入れまし
 なつかしい調子でいうともなくこういう女が感じよく源氏に思われた。どの人にも自身をひく力のあるのを知って源氏は苦しかった。
  「おしなべて叩(たた)く水鶏に驚かば
    うはの空なる月もこそ入れ
 私も安心していられない」
とはいっていたが、それは言葉の戯(たわむ)れであって、源氏は貞淑な花散里を信じきっている。なにに動揺することもなく長い留守のあいだを静かに待っていてくれた人を、源氏はおろそかには思っていなかった。当分悲しくならないがために空はながめないで暮すようにと、行く前に源氏がいった夜のことなどを思い出していうのであった。
「なぜあのときに私はひじょうに悲しいことだと思ったのでしょう。私などはあなたに幸福の帰ってきた今だってもやはり寂しいのでしたのに」
と恨みともなしにおおようにいっているのが可憐であった。例のように源氏は言葉を尽して女を慰めていた。平生どうしまってあったこの人の熱情かと思われるようである。こんな機会がまた作られたならば、大弐(だいに)の五節(せち)に会いたいと源氏は願っていたが、五節の訪問も実現がむつかしいと見なければならない。女は源氏を忘れることができないで、もの思いの多い日を送っていて、親が心配してかれこれと勧(すす)める結婚話にはとり合わずに、人並みの女の幸福などはいらないと思っていた。源氏は東の院は本邸でなく、そんな人たちを集めて住ませようと建築をさせているのであったから、もし理想どおりにかしずき娘ができてくることがあったら、顧問(こもん)格の女として才女の五節などは必要な人物であると源氏は思っていた。東の院はおもしろい設計で建てられているのである。近代的な生活に適するような明るい家である。地方官の中のよい趣味をもつ一人一人に殿舎をわりあてにしてつくらせていた。
 源氏は今も尚侍(ないしのかみ)を恋しく思っていた。懲(こ)りたことのない人のように、また危(あぶな)いこともしかねないほど熱心になっているが、環境のために恋には奔放な力を見せた女もつつましくなっていて、昔のように源氏の誘惑に反響を見せるようなこともない。源氏は自身の地位ができて世の中がきゅうくつになり、冷たいものになり、ものたりなくなったと感じていた。
 院はのんきにおなりあそばされて、よくお好きの音楽の会などをあそばして風流に暮しておいでになった。女御も更衣(こうい)も、ご在位のときのままに侍しているが、東宮の母君の女御だけは、以前とり立ててご寵愛(ちょうあい)があったというのではなく、尚侍にけおされた後宮の一人にすぎなかったが、思いがけぬ幸福に恵まれた結果になって、一人だけ離れて御所の中の東宮のご在所に侍しているのである。源氏の現在の宿直所(とのいどころ)もやはり昔の桐壺(きりつぼ)であって、梨壺(なしつぼ)に東宮は住んでおいでになるのであったから、ご近所であるために源氏はその御殿とお親しくして、自然東宮のご後見もするようになった。
 入道の宮をまたあらたにご母后の位にあそばすことはむりであったから、太上(だじょう)天皇に準じて女院にあそばされた。封国(ふうこく)が決り、院司の任命があって、これはまたいちだん立ちまさったごりっぱなお身の上と見えた。仏法に関係した善行功徳(くどく)をお営みになることを天職のように思召して、精励しておいでになった。長いあいだ、御所への出入りもご遠慮しておいでになったが、今はそうではなく自由なお気もちで宮中へおはいりになり、お出になりあそばすのであった。皇太后は人生を恨んでおいでになった。なにかの場合に源氏はこの方にも好意のある計らいをして敬意を表していた。太后としてはおつらいことであろうとささやく者が多かった。兵部卿(ひょうぶきょう)親王は源氏の官位剥奪(はくだつ)時代に冷淡な態度をお見せになって、ただ世間の聞こえばかりをはばかって、おん娘に対してなんらの保護をお与えにならなかったことで、当時の源氏は恨めしい思いをさせられて、もう昔のように親しいご交際はしていなかった。一般の人にはあまねく慈悲を分かとうとする人であったが、兵部卿の宮一家にだけはやや復讐(ふくしゅう)的な扱いもするのを、入道の宮は苦しく思召された。現代には二つの大きな勢力があって、一つは太政大臣、一つは源氏の内大臣がそれで、この二人の意志で何ごとも断ぜられ、何ごとも決せられるのであった。権中納言の娘がその年の八月に後宮へはいった。すべての世話は祖父の大臣がしていてはなやかな仕度であった。兵部卿親王も第二の姫君を後宮へ入れる志望をもっておいでになって、だいじにおかしずきになる評判のあるのを、源氏はその姫君に光栄あれとも思われないのであった。源氏はまたどんな人を後宮へ推薦(すいせん)しようとしているのか、それはわからない。
 この秋に源氏は住吉詣(もう)でをした。須磨明石で立てた願を神へ果すためであって、ひじょうな大がかりな旅になった。廷臣(ていしん)たちがわれもわれもと随行を望んだ。ちょうどこの日であった、明石の君が毎年の例で参詣するのを、去年もこの春も障(さわ)りがあって果すことができなかった謝罪もかねて、船で住吉へ来た。海岸の方へ寄って行くと、華美な参詣の行列が寄進する神宝(しんぽう)を運びつづけて来るのが見えた。楽人、十列(とつら)の者もきれいな男を選んであった。
「どなたのご参詣なのですか」
と船の者が陸へ聞くと、
「おや、内大臣様のご願はたしのご参詣を知らない人もあるね」
 供男(ともおとこ)階級の者もこう得意そうにいう。なんとした偶然であろう、ほかの月日もないようにと明石の君は驚いたが、はるかに恋人のはなばなしさを見ては、あまりに懸隔(けんかく)のありすぎるわが身の上であることを痛切に知って悲しんだ。さすがによそながらめぐりあうだけの宿命につながれていることはわかるのであったが、笑って行った侍さえ幸福に輝いて見える日に、罪障(ざいしょう)の深い自分は何も知らずに来てはずかしい思いをするのであろうと思いつづけると、悲しくばかりなった。深い緑の松原の中に花紅葉(もみじ)がまかれたように見えるのは、袍(ほう)のいろいろであった。赤袍(せきほう)は五位、浅葱(あさぎ)は六位であるが、同じ六位も蔵人(くろうど)は青色で目に立った。加茂(かも)の大神を恨んだ右近丞(うこんのじょう)は靫負(ゆげい)になって、随身(ずいじん)をつれた派手な蔵人になって来ていた。良清(よしきよ)も同じ靫負佐(ゆげいのすけ)になってはなやかな赤袍の一人であった。明石に来ていた人たちが、昔の面影とは違ったはなやかな姿で人々の中にまじっているのが船から見られた。若い顕官(けんかん)たち、殿上(てんじょう)役人が競うように凝(こ)った姿をして、馬や鞍(くら)にまで華奢を尽している一行は、田舎の見物人の目を楽しませた。源氏の乗った車が来たとき、明石の君はきまり悪さに恋しい人をのぞくことができなかった。河原(かわら)の左大臣の例で童形の儀仗(ぎじょう)の人を源氏はたまわっているのである。それらは美しく装うていて、髪は分けて二つの輪のみずらを紫のぼかしの元結(もとゆい)でくくった十人は、背丈(せたけ)もそろった美しい子どもである。近年はあまりゆるされる者のない珍しい随身である。大臣家で生れた若君は馬に乗せられていて、一班ずつをそろえの衣裳にした幾班かの馬添い童がつけられてある。最高の貴族の子どもというものはこうしたものであるというように、多数の人からだいじに扱われて通って行くのを見たとき、明石の君は自分の子も兄弟でいながら見る影もなく扱われていると悲しかった。いよいよみ社に向いて子のために念じていた。
 摂津守(せっつのかみ)が出て来て一行を饗応(きょうおう)した。普通の大臣の参詣を扱うのとはおのずから違ったことになるのはいうまでもない。明石の君はますます自分がみじめに見えた。
 こんなときに自分などが貧弱な御幣(みてぐら)をさしあげても神様も目にとどめにならぬだろうし、帰ってしまうこともできない、今日は浪速(なにわ)の方へ船をまわして、そこで祓(はら)いでもする方がよいと思って、明石の君の乗った船はそっと住吉を去った。こんなことを源氏は夢にも知らないでいた。夜通しいろいろの音楽舞楽を広前に催して、神の喜びたもうようなことをしつくした。過去の願に神へ約してあった以上のことを源氏はおこなったのである。惟光(これみつ)などという源氏と辛苦をともにした人たちは、この住吉の神の徳を偉大なものと感じていた。ちょっと外へ源氏の出て来たときに惟光がいった。
  住吉の松こそものは悲しけれ
    神代のことをかけて思へば
源氏もそう思っていた。
  「荒かりし浪のまよひに住吉の
    神をばかけて忘れやはする
 たしかに私は霊験(れいげん)を見た人だ」
というようすも美しい。こちらの派手な参詣ぶりに畏縮(いしゅく)して明石の船が浪速(なにわ)の方へ行ってしまったことも惟光が告げた。その事実をすこしも知らずにいたと源氏は心であわれんでいた。初めのことも今日のことも、住吉の神が二人を愛しての導きに違いないと思われて、手紙を送って慰めてやりたい、近づいてかえって悲しませたことであろうと思った。住吉を立ってから源氏の一行は海岸の風光を愛しながら浪速に出た。そこでは祓いをすることになっていた。淀(よど)川の七瀬(ななせ)に祓いの幣(ぬさ)が立てられてある堀江(ほりえ)のほとりをながめて、「今はた同じ浪速なる」(身をつくしてもあはんとぞ思ふ)とわれしらず口に出た。車の近くから惟光が口ずさみを聞いたのか、その用があろうと例のように懐中に用意していた柄(え)の短い筆などを、源氏の車のとめられたさいに提供した。源氏は懐紙に書くのであった。
  みをつくし恋ふるしるしにここまでも
    廻(めぐ)り逢ひける縁(えに)は深しな
 惟光に渡すと、明石へついて行った男で、入道家の者と心安くなっていた者を使いにして明石の君の船へやった。はでな一行が浪速を通って行くのを見ても、女は自身の薄幸さばかりが思われて悲しんでいたところへ、ただすこしの消息ではあるが送られて来たことで感激して泣いた。
  数ならでなにはのこともかひなきに
    何みをつくし思ひ初めけん
 田簑島(たみのじま)での祓いの木綿(ゆう)につけてこの返事は源氏のところへきたのである。ちょうど日暮れになっていた。夕方の満潮時で、海辺にいる鶴も鳴き声を立て合って身にしむ気が多くすることから、人目を遠慮していずに会いに行きたいとさえ源氏は思った。
  露けさの昔に似たる旅衣
    田簑(たみの)の島の名には隠れず
と源氏は歌われるのであった。遊覧の旅をおもしろがっている人たちの中で源氏一人は時々暗い心になった。高官であっても若い好奇心に富んだ人は、小船をこがせて集って来る遊女たちに興味をもつふうを見せる。源氏はそれを見て苦々(にがにが)しい気になっていた。恋のおもしろさも対象とする者に尊敬すべき価値がそなわっていなければ起ってこないわけである。恋愛というほどのことではなくても、軽薄な者には、はじめから興味がもてないわけであるのにと思って、彼女らを相手にはしゃいでいる人たちを軽蔑(けいべつ)した。
 明石の君は源氏の一行が浪速を立った翌日は吉日でもあったから、住吉へ行って御幣(みてぐら)を奉った。その人だけの願も果したのである。郷里へ帰ってからは以前にもましたもの思いをする人になって、人数(ひとかず)でない身の上を嘆き暮していた。もう京へ源氏のつくころであろうと思ってからまもなく源氏の使いが明石へ来た。近いうちに京へ迎えたいという手紙をもって来たのである。たのもしいふうに恋人の一人として認められている自分であるが、故郷を立って京へ出たのちにまで源氏の愛は変らずにつづくものであろうかと考えられることによって、女は苦しんでいた。入道も手もとから娘を離してやることは不安に思われるのであるが、そうかといってこのまま田舎に置くことも悲惨な気がして源氏との関係が生じなかった時代よりもかえって苦労は多くなったようであった。女からは源氏をめぐるまぶしい人たちの中へ出て行く自信がなくて、出京はできないという返事をした。
 この御代(みよ)になった初めに斎宮(さいぐう)もお変りになって、六条の御息所(みやすどころ)は伊勢から帰って来た。それ以来、源氏はいろいろと昔以上の好意を表しているのであるが、なお若かった日すらも恨めしいところのあった源氏の心のいわば余炎(よえん)ほどの愛を受けようとは思わない、もう二人に友人以上の交渉があってはならないと御息所は決めていたから、源氏も自身でたずねて行くようなことはしないのである。しいて旧情を暖めることに同意をさせても、自分ながらもまた女を恨めしがらせる結果にならないとは保証ができないというように源氏は思っていたし、女の家へ通うことなども今では人目をひくことが多くなっていることでもあって、待つといわない人をしいてたずねて行くことはしなかった。斎宮がどんなにりっぱな貴女(きじょ)になっておいでになるであろうと、それを目に見たく思っていた。御息所は、六条の旧邸をよく修繕してあくまでも高雅なふうに暮していた。洗練された趣味は今も豊(ゆた)かで、よい女房の多いところとして風流男の訪問が絶えない。寂しいようではあるが、思いあがった貴女にふさわしい生活であると見えたが、にわかに重い病気になって心細くなった御息所は、伊勢という神の境にあって仏教に遠ざかっていた幾年かのことが恐ろしく思われて尼になった。源氏は聞いて、恋人として考えるよりも、首肯される異(い)見をもつよき相談相手と信じていたその人の生命(いのち)が惜しまれて、嘆きながら六条邸を見舞った。源氏は真心から御息所をいたわり、御息所を慰める言葉をつづけた。病床の近くに源氏の座があって、御息所は脇息(きょうそく)に寄りかかりながらものをいっていた。ひじょうに衰弱の見える昔の恋人のために源氏は泣いた。どれほど愛していたかをこの人に実証して見せることができないままで死別をせねばならぬかと、残念でならないのである。この源氏の心が御息所に通じたらしくて、誠意の認められる昔の恋人に御息所は斎宮のことをたのんだ。
「孤児になるのでございますから、なにかの場合に子の一人と思ってお世話をしてくださいませ。ほかにたのんでゆく人はだれもない心細い身の上なのです。私のような者でも、もうすこし人生というもののわかる年ごろまでついていてあげたかったのです」
 こういったあとで、そのまま気を失うのではないかと思われるほど御息所は泣きつづけた。
「あなたのお言葉がなくても、むろん私は父と変らない心で斎宮を思っているのですから、ましてあなたがご病中にもこんなにご心配になって私へお話になることは、どこまでも責任をもってお受け合いします。気がかりなどはすこしもお思いになることはありませんよ」
などと源氏がいうと、
「でもなかなかお骨の折れることでございますよ。あとをたのまれた人がほんとうの父親であっても、それでも母親のない娘は心細いことだろうと思われますからね。まして恋人の列になどお入れになっては、思わぬ苦労をすることでしょうし、またほかの方を不快にもさせることだろうと思います。悪い想像ですが、けっしてそんなふうにおとり扱いにならないでね。私自身の経験から、あの人は恋愛もせず一生処女でいる人にさせたいと思います」
 御息所はこういった。意外な忖度(そんたく)までもするものであると思ったが源氏はまた、
「近年の私がどんなにまじめな人間になっているかをごぞんじでしょう。昔の放縦(ほうしょう)な生活のなごりをとどめているようにおっしゃるのが残念です。自然おわかりになってくることでしょうが」
といった。もう外は暗くなっていた。ほのかな灯(ほ)影が病床の几帳(きちょう)を透(とお)してさしていたから、あるいは見えることがあろうかと、静かに寄って几帳のほころびからのぞくと、明るくはない光の中に昔の恋人の姿があった。美しくはなやかに思われるほどに切り残した髪が背にかかっていて、脇息に寄った姿は絵のようであった。源氏は哀れでたまらないような気がした。帳台の東寄りのところで身を横たえている人は前斎宮でおありになるらしい。几帳の垂絹(たれぎぬ)が乱れたあいだからじっと目を向けていると、宮は頬杖(ほおづえ)をついて悲しそうにしておいでになる。すこししか見えないのであるが美人らしく見えた。髪のかかりよう、頭の形などに気高い美がそなわりながら、また近代的なはなやかな愛嬌のあるようすもわかった。御息所があんなに阻止(そし)的にいっているのであるからと思って、源氏は動く心をおさえた。
「私はとてもまた苦しくなってまいりました。失礼でございますからもうお帰りくださいませ」
と御息所はいって、女房の手を借りて横になった。
「私がうかがったのですこしでもご気分がよくなればよかったのですが、お気の毒ですね。どんなふうにお苦しいのですか」
といいながら、源氏が床をのぞこうとするので、御息所は女房に別れの言葉を伝えさせた。
「長くおいでくださいましては、物怪(もののけ)のきているところでございますからお危(あぶ)のうございます。病気のこんなに悪くなりました時分に、おいでくださいましたことも深い因縁のあることとうれしくぞんじます。平生思っておりましたことをすこしでもお話しのできましたことで、あなたは遺族にお力を貸してくださるでしょうとたのもしく思われます」
「だいじなご遺言を私にしてくださいましたことをうれしくぞんじます。院の皇女方はたくさんいらっしゃるのですが、私と親しくしてくださいます方はあまりないのですから、斎宮を院がご自身の皇女の列に思召されましたとおりに私も思いまして、兄弟としてむつまじくいたしましょう。それに私はもう幾人もの子があってよい年ごろになっているのですから、私のものたりなさを斎宮は補ってくださるでしょう」
などといいおいて源氏は帰った。それからは源氏の見舞いの使いが以前よりもしげしげ行った。そうして七八日ののちに御息所は死んだ。無常の人生が悲しまれて、心細くなった源氏は参内(さんだい)もせずに引き籠っていて、御息所の葬儀についての指図(さしず)を下しなどしていた。前の斎宮司(さいぐうし)の役人などで親しく出入りしていた者などがわずかに来て、葬式の用意に奔走するにすぎない六条邸であった。侍臣を送ったあとで源氏自身も葬家へ来た。斎宮に弔詞をとりつがせると、
「ただいまは何ごとも悲しみのためにわかりませんので」
女別当(にょべっとう)を出しておいわせになった。
「私にご遺言をなすったこともありますから、ただいまからは私をむつまじい者と思召してくださいましたら、しあわせです」
と源氏はいってから、宮家の人々を呼び出していろいろすることを命じた。ひじようにたのもしい態度であったから、昔は多少恨めしがっていた一家の人々の感情も解消されていくようである。源氏の方から葬儀員が送られ、無数の使用人が来て御息所の葬儀はきらやかに執行されたのであった。
 源氏は寂しい心をいだいて、昔を思いながら居間の御簾(みす)をおろし籠(こ)めて精進(しょうじん)の日を送り仏勤めをしていた。前斎宮へはしじゅう見舞いの手紙を送っていた。宮のお悲しみがすこし静まってきたころからはご自身で返事もお書きになるようになった。それをはずかしく思召すのであったが、乳母などから、
「もったいないことでございますから」
といって、自筆で書くことをお勧(すす)められになるのである。雪が霙(みぞれ)となり、また白く雪になるような荒日和(あれびより)に、宮がどんなに寂しく思っておいでになるであろうと想像をしながら源氏は使いを出した。
 こういう天気の日にどういうお気もちでいられますか。
  降り乱れひまなき空に亡き人の
    天がけるらん宿ぞ悲しき
という手紙を送ったのである。紙は曇った空色のが用いられてあった。若い人の目によい印象があるようにと思って、骨を折って書いた源氏の字はまぶしいほどみごとであった。宮は返事を書きにくく思召したのであるが、
「われわれからご挨拶(あいさつ)をいたしますのは失礼でございますから」
と女房たちがお責めするので、灰色の紙の薫香(くんこう)の匂いを染(し)ませた艶(えん)なのへ、目立たぬような書き方にして、
  消えがてにふるぞ悲しきかきくらし
    我身それとも思ほえぬ世に
とお書きになった。おとなしい書風で、そしておおようで、すぐれた字ではないが品のあるものであった。斎宮になって伊勢へお行きになったころから源氏はこの方に興味をもっていたのである。もう今は忌垣(いがき)の中の人でもなく、保護者からも解放された一人の女性と見てよいのであるから、恋人として思う心をささやいてよいときになったのであると、こんなふうに思われるのと同時に、それはすべきでない、おかわいそうであると思った。御息所がその点を気づかっていたことでもあるし、世間もその疑いをもって見るであろうことが、自分は全然違った清い扱いを宮にしよう、陛下が今すこしおとならしくものを認識されるときを待って、前斎宮を後宮に入れよう、子どもがすくなくて寂しい自分は養女をかしずくことに楽しみを見いだそうと源氏は思いついた、親切にしじゅう尋(たず)ねの手紙を送っていて、何かのときには自身で六条邸へ行きもした。
「失礼ですが、お母様のかわりと思ってくだすって、ご遠慮のないおつき合いをくだすったら、私の真心がわかっていただけたという気がするでしょう」
などというのであるが、宮はひじょうに内気で羞恥(しゅうち)心がお強くて、異性にほのかな声でも聞かせることは思いもよらぬことのようにお考えになるのであったから、女房たちもすすめかねて、宮のおとなしさを苦労にしていた。女別当(にょべっとう)、内侍(ないし)、そのほかご親戚関係の王家の娘などもおつきしているのである。自分の心に潜在している望みが実現されることがあっても、他の恋人たちの中にまじって劣る人ではないらしいこの人の顔を見たいものであると、こんなことも思っている源氏であったから、養父としてうちとけない人が聡明であったのであろう。自身の心もまだどうなるかしれないのであるから、前斎宮を入内(じゅだい)させる希望などは人にいっておかぬ方がよいと源氏は思っていた。故人の仏事などにもとりわけ力を入れてくれる源氏に、六条邸の人々は感謝していた。
 六条邸は日がたつにしたがって寂しくなり、心細さがふえてくるうえに、御息所の女房などもしだいにさがってゆく者が多くなって、京もずっと下(しも)の六条で、東に寄った京極(きょうごく)通りに近いのであるから、郊外ほどの寂しさがあって、山寺の夕の鐘の音にも斎宮のおん涙は誘われがちであった。同じく母といっても、宮と御息所は親一人子一人で、片時離れることもない十幾年のご生活であった。斎宮が母君とごいっしょに行かれることはあまり例のないことであったが、しいてごいっしょにお誘いになったほどの母君が、死の道だけはただ一人でおいでになったとお思いになることが、斎宮の尽きぬお悲しみであった。女房たちを仲介にして求婚する男は各階級に多かったが、源氏は乳母たちに、
「自分勝手なことをして問題を起すようなことを宮様にしてはならない」
と親らしい注意を与えていたので、源氏を不快がらせるようなことはつつしまねばならぬと、おのおの思いもしいさめ合いもしているのである。それで情実のためにどう計(はから)おうというようなこともみなはしなかった。院は宮が斎宮としておくだりになる日の荘厳(そうごん)だった大極殿(だいごくでん)の儀式に、この世の人とも思われぬ美貌をごらんになったときから、恋しく思召されたのであって、帰京後に、
「院の御所へ来て、私の妹の宮などと同じようにして暮しては」
と宮のことを、故人の御息所へお申し込みになったこともあるのである。御息所の方では院に寵姫(ちょうき)が幾人も侍している中へ、後援者らしい者もなくて行くことはみじめであるし、院がしじゅうご病身であることも、母の自分と同じ未亡人の悲しみをさせる結果になるかも知れぬと院参(いんさん)を躊躇(ちゅうちょ)したものであったが、今になってはましてだれが宮のお世話をして院の後宮へなどおはいりになることができようと女房たちは思っているのである。院の方ではご熱心に今なおその仰せがある。源氏はこの話を聞いて、院が望んでおいでになる方を横どりのようにして宮中へお入れすることはすまないと思ったが、宮のごようすがいかにも美しく可憐で、これを全然ほかのところへ渡してしまうことが残念な気になって、入道の宮へ申しあげた。こんな隠れた事実があって決断ができないということをお話しした。
「お母様の御息所はきわめて聡明な人だったのですが、私の若気のあやまちから浮名を流させることになりましたうえ、私は一生恨めしい者と思われることになったのですが、私は心苦しく思っているのでございます。私はゆるされることなしにその人を死なせてしまいましたが、亡(な)くなりますすこし前に斎宮のことをいいだしたのでございます。私としましては、さすがに聞いた以上は遺言を実行する誠意のある者としてたのんでいくのであると思えてうれしゅうございまして、無関係な人でも、孤児の境遇になった人には同情されるものなのですから、まして以前のことがございまして、亡くなりましたあとでも、昔の恨みを忘れてもらえるほどのことをしたいと思いまして、斎宮の将来をいろいろと考えているしだいなのですが、陛下もずいぶんおとならしくはなっていらっしゃいますが、お年からいえばまだお若いのですから、すこしお年上の女御(にょご)が侍していられる必要があるかとも思われるのでございます。それもしかしながら、あなた様がこうするようにとおおせになるのにしたがわせていただこうと思います」
というと、
「ひじょうによいことを考えてくださいました。院もそんなにご熱心でいらっしゃることは、お気の毒なようで、すまないことかもしれませんが、お母様のご遺言であったからということにして、なにもお知りにならない顔で御所へおあげになればよろしいでしょう。このごろ院は実際そうしたことに淡白なお気もちになって、仏勤めばかりに気を入れていらっしゃるということも聞きますから、そういうことになさいましてもお腹立ちになるようなことはないでしょう」
「ではあなた様のおおせが下ったことにしまして、私としてはそれに賛成の意を表したというぐらいのことにいたしておきましょう。私はこんなに院をご尊敬して、ご感情を害することのないようにと百方考えてかかっているのですが、世間はなんと批評をいたすことでしょう」
などと源氏は申していた。のちにはまた何ごとも素(そ)知らぬ顔で二条院へ斎宮を迎えて、入内は自邸からおさせしようという気にも源氏はなった。夫人にその考えをいって、
「あなたのいい友だちになると思う。仲よくして暮すのに似合わしい二人だと思う」
と語ったので、女王も喜んで斎宮の二条院へ移っておいでになる用意をしていた。入道の宮は兵部卿の宮が、後宮入りを目的にして姫君を教育していられることを知っておいでになるのであったから、源氏と宮が不和になっている今日では、その姫君に源氏はどんな態度をとろうとするのであろうと心苦しく思召した。中納言の姫君は弘徽殿(こきでん)の女御と呼ばれていた。太政大臣の猶子(ゆうし)になっていて、その一族がすばらしい背景を作っているはなやかな後宮人であった。陛下もよいお遊び相手のように思召された。
「兵部卿の宮の中姫君も弘徽殿の女御と同じ年ごろなのだから、それではあまりお雛(ひな)様遊びの連中がふえるばかりだから、すこし年のいった女御がついていて陛下のお世話を申しあげることはうれしいことですよ」
と入道の宮は人へ仰せられて、前斎宮の入内(じゅだい)の件をご自身の意志として宮家へお申し入れになったのであった。源氏が当帝のためにゆきとどいたご後見をする誠意にご信頼あそばされて、ご自身はおからだがお弱いために御所へおはいりになることはあっても、ながくはおとどまりになることがおできにならないで、退出しておしまいになるため、そんな点でもすこしおとなになった女御はあるべきであった。