源氏物語

與謝野晶子訳



乙女(おとめ)



雁(かり)なくやつらをはなれてただ一つ初恋をする少年のごと
晶子

 春になって女院のご一周年が過ぎ、官人が喪服(もふく)をぬいだのにつづいて四月の更衣期(こういき)になったから、はなやかな空気の満ち渡った初夏であったが、前斎院はなお寂(さび)しく徒然(つれづれ)な日を送っておいでになった。庭の桂(かつら)の木の若葉が立てる匂いにも若い女房たちは、宮のご在職中の加茂(かも)の院の祭りのころのことを恋しがった。源氏から、神の御禊(みそぎ)の日もただいまはお静かでしょうという挨拶をもった使いが来た。
 今日はこんなことを思いました。
  かけきやな川瀬の波もたちかへり
    君が御禊の藤(ふじ)のやつれを
 紫の紙に書いた正しい立文(たてぶみ)の形の手紙が藤の花の枝につけられてあった。斎院はもののすこし身にしむような日でおありになって、返事をお書きになった。
  藤衣きしは昨日と思ふまに
    今日はみそぎの瀬にかはる世を
 はかないものと思われます。
とだけ書かれてある手紙を、例のように源氏は熱心にながめていた。斎院が父宮の喪のすんでお服なおしをされるときも、源氏からたいした贈物がきた。女王はそれをお受けになることは醜(みにく)いことであるというようにいっておいでになったが、求婚者としての言葉が添えられていることであれば辞退もできるが、これまで長いあいだ何かの場合に公然の進物を送りつづけた源氏であって、親切からすることであるから返却のしようがないようにいって女房たちは困っていた。女五(にょご)の宮の方へもこんなふうにしてしじゅう物質的にご補助をする源氏であったから、宮は深く源氏を愛しておいでになった。
「源氏の君というと、いつも美しい少年が思われるのだけれど、こんなにおとならしい親切を見せてくださる。顔がきれいなうえに、心までも並みの人に違ってできあがっているのだね」
とおほめになるのを、若い女房たちは笑っていた。西の女王とお会いになるときは、
「源氏の大臣から熱心に結婚が申しこまれていらっしゃるのだったら、いいじゃありませんかね、今はじめての話ではなし、ずっと以前からのことなのですからね、お亡(な)くなりになった宮様もあなたが斎院におなりになったときに、結婚がせられなくなったことで失望をなすってね、以前宮様がそれを実行しようとなすったときに、あなたの気の進まなかったことで、話をそのままにしておいたのをご後悔してお話しになることがよくありましたよ。けれどもね、宮様がそうお思い立ちになったころは左大臣家の奥さんがいられたのですからね、そうしては三の宮がお気の毒だと思召して第二の結婚をこちらでおさせにはなりにくかったのですよ。あなたと従妹(いとこ)のその奥様が亡くなられたのだし、そうなすってもいいのにと私は思うし、一方ではまた新しく熱心にお申しこみがあるというのは、やはり前生(ぜんしょう)の約束ごとだろうと思う」
などと古めかしいご勧告をあそばすのを、女王は苦笑して聞いておいでになった。
「お父様からもそんな強情者に思われてきた私なのですから、いまさら源氏の大臣の声名(せいめい)が高いからと申して結婚をいたしますのは、はずかしいことだと思います」
 こんなふうに思いもよらぬようにいっておいでになったから、宮もしまいにはお勧(すす)めにならなかった。邸の人は上から下まで、みながみなそうなるのを望んでいることを女王は知って警戒しておいでになったが、源氏自身は至誠で女王を動かしうる日は待っているが、しいて力で結婚をとげるようなことをしたくないと女王の感情を尊重していた。
 故太政(だじょう)大臣家で生れた源氏の若君の元服(げんぷく)の式をあげる用意がされていて、源氏は二条院でおこなわせたく思うのであったが、祖母の宮がごらんになりたく思召すのがもっともで、そうしないことはお気の毒に思われて、やはり今までお育てになった宮の御殿でその式をした。右大将をはじめ伯父君たちが、みなりっぱな顕官になっていて勢力のある人たちであったから、母方の親戚(しんせき)からの祝品その他の贈物もおびただしかった。かねてから京中の騒ぎになるほど華美(かび)な祝いごとになったのである。初めから四位(しい)にしようと源氏は思ってもいたことであったし、世間もそう見ていたが、まだきわめて小さい子を、何ごとも自分の意志のとおりになる時代にそんな取り計らいをするのは、俗人のすることであるという気がしてきたので、源氏は長男に四位を与えることはやめて、六位の浅葱(あさぎ)の袍(ほう)を着せてしまった。大宮(おおみや)が言語同断(ごんごどうだん)のことのようにこれをお嘆きになったことはお道理でお気の毒に思われた。源氏は宮にご面会をしてその問題でお話をした。
「ただいまわざわざ低い位においてみる必要もないようですが、私は考えていることがございまして、大学の課程を踏ませようと思うのでございます。ここ二三年をまだ元服以前と見なしていてよかろうとぞんじます。朝廷のご用の勤まる人間になりますれば自然に出世はしていくこととぞんじます。私は宮中に育ちまして、世間知らずにご前で教養されたものでございますから、陛下おみずから師になってくだすったのですが、やはり刻苦精励を体験いたしませんでしたから、詩も作りますことにも素養の不足を感じたり、音楽をいたしますにも音(ね)足らずな気もちを痛感したりいたしました。つまらぬ親にまさった子は、自然にまかせておきましては出来ようのないことかと思います。まして孫以下になりましたら、どうなるかと不安に思われてなりませんことから、そう計らうのでございます。貴族の子に生れまして、官爵(かんしゃく)が思いのままに進んで参り、自家の勢力に慢心した青年になりましては、学問などに身を苦しめたりいたしますことはきっとばかばかしいことに思われるでしょう。遊びごとの中に浸(ひた)っていながら、位だけはずんずんあがるようなことがありましても、家に権勢のありますあいだは、心で嘲笑はしながらも追従(ついしょう)をして機嫌(きげん)を人がそこねまいとしてくれますから、ちょっと見はそれでりっぱにも見えましょうが、家の権力が失墜(しっつい)するとか、保護者に死に別れるとかしましたさいに、人から軽蔑(けいべつ)されましても、なんらみずからたのむところのないみじめな者になります。やはり学問が第一でございます。日本魂(やまとだましい)をいかに活(い)かせて使うかは学問の根底があってできることとぞんじます。ただいま目前に六位しかもたないのを見まして、たよりない気はいたしましても、将来の国家の柱石たる教養を受けておきます方が、死後までも私の安心できることかとぞんじます。ただいまのところは、とにかく私がいるのですから、窮迫した大学生と指さす者もなかろうと思います」
と源氏がいうのを、聞いておいでになった宮は嘆息をあそばしながら、
「ごもっともなお話だと思いますがね、右大将などもあまりに変ったお好みだと不審がりますし、子どももね、残念なようで、大将や左衛門督(さえもんのかみ)などの息子の、自分よりも低いもののように見下(みくだ)しておりました者の位階がみな上へ上へと進んでいきますのに、自分は浅葱(あさぎ)の袍(ほう)を着ていねばならないのをつらく思うふうですからね。私はそれがかわいそうなのでした」
とおいいになる。
「おとならしく父を恨んでいるのでございますね。どうでしょう、こんな小さい人が」
 源氏はかわゆくてならぬと思うふうで子を見ていた。
「学問などをいたしまして、ものの理解のできるようになりましたら、その恨みも自然になくなって参るでしょう」
といっていた。
 若君の師から字(あざな)をつけてもらう式は東の院ですることになって、東の院に式場としての設けがなされた。高官たちはみなこの式を珍しがって参会する者が多かった。博士たちは晴れがましがって気おくれもしそうである。
「遠慮をせずに定(きま)りどおりに厳格にやってください」
と源氏からいわれたので、しいて冷静な態度を見せて、借り物の衣裳の身に合わぬのも恥じずに、顔つき、声づかいに学者の衒気(げんき)を見せて、座にずっと並んでついたのは、はなはだ異様であった。若い役人などは笑いがおさえられないふうである。しかもこれは笑いやすいふうではない、おちついた人が酒瓶(しゅへい)の役に選ばれてあったのである。すべてが風変りである。右大将、民部卿などがていねいに杯をすすめるのを見ても作法に合わないとしかり散らす、
「ご接待役が多すぎてよろしくない。あなた方は今日の学界における私を知らずに朝廷へお仕えになりますか。まちがったことじゃ」
などというのを聞いてたまらず笑いだす人があると、
「鳴りが高い、おやめなさい。はなはだ礼に欠けた方だ、座をおひきなさい」
などとおどす。大学出身の高官たちは得意そうに微笑をして、源氏の教育方針のよいことに敬服したふうを見せているのであった。ちょっと彼らの目の前で話をしても博士らはしかる、無礼だといってなんでもないこともとがめる。やかましく勝手きままなことをいい放っている学者たちの顔は、夜になって灯がともったころから、いっそう滑稽(こっけい)なものに見えた。まったく異様な会である。源氏は、
「自分のような規律に慣れないだらしのない者はそそうをしてしかりまわされるであろうから」
といって、御簾(みす)の中に隠れて見ていた。式場の席が足りないために、あとから来て帰って行こうとする大学生のあるのを聞いて、源氏はその人々を別に釣殿(つりどの)の方でもてなした。贈物もした。式が終って退出しようとする博士と詩人をまた源氏はとどめて詩を作ることにした。高官や殿上(てんじょう)役人もその方の才のある人はみな残したのである。博士たちは律(りつ)の詩、源氏その他の人は絶句(ぜっく)を作るのであった。おもしろい題を文章(もんじょう)博士が選んだ。短夜(たんや)のころであったから、夜がすっかり明けてから詩は講ぜられた。左中弁(さちゅうべん)が講師の役をしたのである。きれいな男の左中弁が重々しい神さびた調子で詩を読みあげるのが感じよく思われた。この人はことに深い学殖のある博士なのである。こうした大貴族の家に生れて、栄華に戯(たわむ)れてもいるはずの人が、螢雪(けいせつ)の苦を積んで学問に志すということをいろいろのたとえを借りて賛美した作は句ごとにおもしろかった。支那(しな)の人に見せて批評をさせてみたいほどの詩ばかりであるといわれた。源氏のはむろん傑作であった。子を思う親の情がよくあらわれているといって、列席者はみな涙をこぼしながら誦(じゅ)した。
 それにつづいてまた入学の式もあった。東の院の中に若君の勉強部屋が設けられて、まじめな学者を一人つけて源氏は学ばせた。若君は大宮のところへもあまり行かないのであった。夜も昼もおかわいがりにばかりなって、いつまでも幼児であるように宮はお扱いになるのであったから、そこでは勉強ができないであろうと源氏が認めて、学問所を別にして若君を入れたわけである。月に三度だけ大宮をご訪問申してよいと源氏は定めた。じっと学問所に籠(こも)ってばかりいる苦しさに、若君は父君を恨めしく思った。ひどい、こんなに苦しまないでも出世をして世の中に重んぜられる人がないわけはなかろうと考えるのであるが、いったいがまじめな性格であって、軽佻(けいちょう)なところのない少年であったから、よく忍んで、どうかして早く読まねばならぬ本だけはみな読んで、人並みに社会へ出て立身の道を進みたいと一所懸命になったから、四五カ月のうちに史記(しき)などという書物は読んでしまった。もう大学の試験を受けさせてもよいと源氏は思って、その前に自身の前で一度学力をためすことにした。例の伯父の右大将、それから左大弁、式部大輔(しきぶたゆう)、左中弁などだけを招いて、家庭教師の大内記に命じて史記の中の解釈のむつかしいところの、寮試の問題に出されそうな所々を若君に読ますのであったが、若君はひじょうに明瞭に難解なところをいくとおりにも読んで意味を説明することができた。師の爪(つま)じるしは一カ所もつける必要のないのを見て、人々は若君に学問をする天分の豊かにそなわっていることを喜んだ。伯父の大将はまして感動して、
「父の大臣が生きていられたら」
といって泣いていた。源氏も冷静なふうをつくろうとはしなかった。
「世間の親が愛におぼれて、子に対しては正当な判断もできなくなっているなどと私は見たこともありますが、自分のことになってみると、それは子がおとなになっただけ親はぼけていくのでやむをえないことだと解釈ができます。私などはまだたいした年ではないが、やはりそうなりますね」
などといいながら涙をふいているのを見る若君の教師はうれしかった。名誉なことになったと思っているのである。大将が杯をさすともう深く酔いながらかしこまっている顔つきは気の毒なように痩(や)せていた。変人と見られている男で、学問相当な地位も得られず、後援者もなく貧しかったこの人を、源氏は見るところがあってわが子の教師に招いたのである。たちまちに源氏の庇護(ひご)を受ける身の上になって、若君のために生れ変ったような幸福を得ているのである。将来はましてこの今の若君に重用(ちょうよう)されていくことであろうと思われた。
 大学へ若君が寮試を受けに行く日は、寮門に顕官の車が無数にとまった。あらゆる廷臣(ていしん)が今年はここへ来ることかと思われる列席者の派手(はで)に並んだところへ、人の介添えを受けながらはいっ来た若者は、大学生の仲間とは見ることもできないような品のよい美しい顔をしていた。例の貧乏学生の多い席末(せきまつ)の座につかねばならないことで、若君が迷惑そうな顔をしているのももっともに思われた。ここでもまた叱(しか)るもの威嚇(いかく)するものがあって不愉快であったが、若君はすこしも臆(おく)せずに進んで出て試験を受けた。昔、学問の盛んだった時代にも劣らず大学の栄えるころで、上中下の各階級から学生が出ていたから、いよいよ学問の見識のそなわった人が輩出するばかりであった。文人(もんじん)と擬生(ぎしょう)の試験も若君は成績よく通ったため、師も弟子もいっそう励(はげ)みが出て学業を熱心にするようになった。源氏の家でもしじゅう詩会が催されなどして、博士や文士の得意な時代がきたように見えた。なんの道でも優秀な者の認められないのはないのが当代であった。
 皇后が冊立(さくりつ)されることになっていたが、斎宮の女御は母君から委託された方であるから、自分としてはぜひこの方を推薦(すいせん)しなければならないという源氏の態度であった。母后も内親王でいられたあとへ、またも王氏の后(きさき)の立ったことは一方に偏したことであると非難を加える者もあった。そうした人たちは弘徽殿(こきでん)の女御がだれよりも早く後宮(こうきゅう)にはいった人であるから、その人の后に昇格されるのが当然であるともいうのである。双方に味方が現われて、だれもどうなることかと不安がっていた。兵部卿(ひょうぶきょう)の宮と申した方は今は式部卿になっておいでになって、当代のご外戚(がいせき)として重んぜられておいでになる宮の姫君も、予定どおりに後宮へはいって、斎宮の女御と同じ王女御で侍しているのであるが、他人でない濃い親戚関係もあることであって、母后のおんかわりとして后に立てられるのが合理的な処置であろうと、その方を助ける人たちはいって、三女御の競争になったのであるが、けっきょく梅壺(うめつぼ)の前斎宮が后におなりになった。女王の幸運に世間は驚いた。源氏が太政大臣になって、右大将が内大臣になった。そして関白の仕事を源氏はこの人に譲ったのであった。この人は正義の観念の強いりっぱな政治家である。学問を深くした人であるから韻塞(いんふた)ぎの遊戯には負けたが公務を処理することにかしこかった。幾人かの腹から生れた子息は十人ほどあって、おとなになって役人になっているのはつぎつぎに昇進するばかりであったが、女は女御のほかに一人よりない。それは王家の姫君から生れた人で、尊貴なことは嫡妻(ちゃくさい)の子にも劣らないわけであるが、その母君が今は按察使大納言(あぜちだいなごん)の夫人になっていて、今の良人(おっと)とのあいだに幾人かの子女が生れている中に置いて継父(けいふ)の世話を受けさせておくことはかわいそうであるといって、大臣は引きとってわが母君の大宮に姫宮をお託ししてあった。大臣は女御を愛するほどにはけっしてこの娘を愛してはいないのであるが、性質も容貌も美しい少女であった。そうしたわけで源氏の若君とこの人は同じ家で成長したのであるが、双方とも十歳を越えたころからは、別な場所に置かれて、どんなに親しい人でも男性には用心をしなければならなぬと、大臣は娘を訓(おし)えて睦(むつ)ませないのを、若君の心にものたらぬ気もちがあって、花や紅葉(もみじ)を贈ること、雛(ひな)遊びの材料を提供することなどに真心を見せて、なお遊び相手である地位だけは保留していたから、姫君もこの従弟(いとこ)を愛して、男に顔を見せぬというような普通のつつしみなどは無視されていた。乳母(めのと)などという後見役の者も、この少年少女には幼い日からついた習慣があるのであるから、にわかに厳格に二人のあいだを隔(へだ)てることはできないと大目に見ていたが、姫君は無邪気一方であっても、少年の方の感情は進んでいて、いつのまにか情人の関係にまでいたったらしい。東の院へ学問のために閉じこめ同様になったことは、このことがあるために若君を懊悩(おうのう)させた。まだ子どもらしい、そして未来の上達の思われる字で、二人の恋人が書きかわしている手紙が、幼稚な人たちのすることであるから、抜け目があって、そこらに落ち散らされてもあるのを、姫君つきの女房が見て、二人の交情がどの程度にまでなっているかを合点(がてん)する者もあったが、そんなことは人に訴えてよいことでもないから、だれも秘密はそっとそのまま秘密にしておいた。后の宮、両大臣家の大饗宴などもすんで、ほかの催しごとがつづいて仕度されねばならぬということもなくて、世間の静かなころ、秋の通り雨が過ぎて、荻(おぎ)の上(うわ)風も寂しい日の夕方に、大宮のお住居へ内大臣がご訪問に来た。大臣は姫君を宮のお居間に呼んで琴などを弾(ひ)かせていた。宮はいろいろな芸のおできになる方で、姫君にもよく教えておありになった。
琵琶(びわ)は女が弾くとちょっと反感も起りますが、しかし貴族的なよいものですね。今日はごまかしでなくほんとうに琵琶の弾けるという人はあまりなくなりました。何親王、何の源氏」
などと大臣は教えたあとで、
「女では太政大臣が嵯峨(さが)の山荘に置いておく人というのがひじょうにうまいそうですね。さかのぼって申せば音楽の天才の出た家筋ですが、京官から落伍して地方にまで行った男の娘に、どうしてそんなじょうずが出てきたのでしょう。源氏の大臣はよほど感心していられると見えて、何かの折りにはよくその人の話をせられます。ほかの芸と音楽はすこし性質が変っていて、多く聞き、多くの人と合せてもらうことでずっと進歩するものですが、独習をしていて、その域に達したというのは珍しいことです」
 こんな話もしたが、大臣は宮にお弾きになることをお勧(すす)めした。
「もう絃(いと)をおすことなどが思うようにできなくなりましたよ」
とおいいになりながらも、宮はじょうずに琴をお弾きになった。
「その山荘の人というのは、幸福な人であるばかりでなく、すぐれた聡明な人らしいですね。私に預けてくだすったのは男の子一人で、あの方の女の子もできていたらどんなによかったろうと思う女の子をその人は生んで、しかも自分がつれていては子どもの不幸になることをよく理解して、りっぱな奥さんの方へその子を渡したことなどを、感心なものだと私も話に聞きました」
 こんな話を大宮はあそばした。
「女は頭のよさでどんなにも出世ができるものですよ」
などと内大臣は人の批評をしていたのであるが、それが自家の不幸な話に移っていった。
「私は女御を完全でなくても、どんなことも人よりも劣るような娘には育てあげなかったつもりなんですが、意外な人に負ける運命をもっていたのですね。人生はこんなに予期にはずれるものかと私は悲観的になりました。この子だけでも私は思うような幸運をになわせたい、東宮のご元服はもうそのうちのことであろうかと、心中ではその希望をもっていたのですが、今のお話の明石(あかし)の幸運女が生んだお后の候補者があとからずんずん生長してくるのですからね。その人が後宮へはいったら、ましてだれが競争できますか」
 大臣が嘆息するのを宮はごらんになって、
「必ずしもそうとはいわれませんよ。この家からお后の出ないようなことは絶対にないと私は思う。そのおつもりで亡くなられた大臣も女御の世話を引き受けて、みななすったのだものね。大臣がおいでになったらこんな意外な結果は見なかったでしょう」
 この問題でだけ大宮は源氏を恨んでおいでになった。姫君が小ぢんまりとした美しいふうで、十三絃の琴を弾いている髪つき、顔と髪の接触点の美などの艶(えん)な上品さに大臣がじっと見入っているのを姫君が知って、はずかしそうにからだをすこし小さくしている横顔がきれいで、絃をおす手つきなどの美しいのも絵に描いた人のように思われるのを、大宮もひじょうにかわゆく思召されるふうであった。姫君はちょっとかき合せをした程度で弾きやめて、琴を前の方へおし出した。内大臣は大和琴(やまとごと)をひき寄せて、律(りつ)の調子の曲のかえって若々しい気のするものを、名手であるこの人が、粗(あ)ら弾(び)きに弾き出したのが、ひじょうにおもしろく聞えた。外では木の葉がほろほろとこぼれているとき、老いた女房などは涙を落しながら、あちらこちらの几帳(きちょう)の陰(かげ)などに幾人かずつ集って、この音楽に聞き入っていた。「風(かぜ)の力蓋少(ちからけだしすく)なし」(落葉俟二微※一以隕(らくようびふうをまつてもつておつ)而風之力蓋寡(しこうしてかぜのちからけだしすくなし)、孟嘗遭二雍門一而泣(もうしようがようもんにあいてなく)、琴之感以末(きんのかんもつてすえなり))[*漢文中の「一」「二」は返り点]と文選(もんぜん)の句を大臣は口ずさんで、
琴(きん)の感ではないが身にしむ夕方ですね。もうすこしお弾きになりませんか」
と大臣は大宮にお勧めして、秋風楽(しゅうふうらく)を弾きながら歌う声もよかった。宮はこの座の人はご孫女ばかりでなく、大きな大臣までもかわゆく思召された。そこへいっそうのご満足を加えるように源氏の若君が来た。
「こちらへ」
と宮はおいいになって、お居間の中の几帳をへだてた席へ若君は通された。
「あなたにはあまり会いませんね。なぜそんなにむきになって学問ばかりをおさせになるのだろう、あまり学問のできすぎることは不幸を招くことだと大臣もご体験なすったことなのだけれど、あなたをまたそうおしつけになるのだね、わけのあることでしょうが、ただそんなふうに閉じこめられていてあなたがかわいそうでならない」
と内大臣はいった。
「時々は違ったこともしてごらんなさい。笛だって古い歴史をもった音楽で、いいものなのですよ」
 内大臣はこういいながら笛を若君へ渡した。若々しく朗らかな音を吹き立てる笛がおもしろいためにしばらく絃楽の方はやめさせて、大臣はぎょうさんなふうでなく拍子(ひょうし)をとりながら、「萩(はぎ)が花ずり」(衣がへせんや、わが衣は野原篠(しの)原萩の花ずり)など歌っていた。
「太政大臣も音楽などという芸術がお好きで、政治の方のことからお脱(ぬ)けになったのですよ。人生などというものは、せめて好きな楽しみでもして暮してしまいたい」
といいながら甥(おい)に杯をすすめなどしているうちに暗くなったので灯が運ばれ、湯漬、菓子などがみなの前へ出て食事が始まった。姫君はもうあちらへ帰してしまったのである。しいて二人をへだてて、琴の音すらも若君に聞かせまいとする内大臣の態度を、大宮の古女房たちはささやき合って、
「こんなことで近いうちに悲劇の起る気がします」
ともいっていた。
 大臣は帰って行くふうだけを見せて、情人である女の部屋にはいっていたが、そっとからだを細くして廊下を出て行くあいだに、少年たちの恋を問題にして語る女房たちの部屋があった。ふしぎに思って立ちどまって聞くと、それは自身が批評されているのであった。
賢(かしこ)がっていらっしゃってもあまいのが親ですね。とんだことが知らぬ間(ま)に起っているのですがね。子を知るは親にしかず、などというのはうそですよ」
など、こそこそといっていた。情けない、自分の恐れていたことが事実になった。うっちゃっておいたのではないが、子どもだからゆだんをしたのだ、人生は悲しいものであると大臣は思った。すべてを大臣は明らかに悟ったのであるが、そっとそのまま出てしまった。前駆(ぜんく)がたてる人払いの声がぎょうさんなのに、はじめて女房たちはこの時間までも大臣がここにとまっていたことを知ったのである。
「殿様は今お帰りになるではありませんか。どこのすみにはいっておいでになったのでしょう。あのお年になって浮気(うわき)はおやめにならない方ね」
と女房らはいっていた。内証話をしていた人たちは困っていた。
「あのとき、ひじょうにいい匂いが私らのそばを通ったと思いましたがね、若君がお通りになるのだとばかり思っていましたよ。まあこわい、悪口がお耳にはいらなかったでしょうか。意地悪をなさらないともかぎりませんね」
 内大臣は車中で娘の恋愛のことばかりが考えられた。ひじょうに悪いことではないが、いとこ同士の結婚などはあまりにあり触れたことすぎるし、野合(やごう)の初めを世間の噂(うわさ)にのぼされることもつらい。後宮(こうきゅう)の競争に女御をおさえた源氏が恨めしいうえに、また自分はその失敗にかえてあの娘を東宮へと志していたのではないか、僥倖(ぎょうこう)があるいはそこにあるかもしれぬと、ただ一つの慰めだったこともこわされたと思うのであった。源氏と大臣との交情はむつまじくいっているのであるが、昔もその傾向があったように、負けたくない心がだんぜん強くて、大臣はそのことが不快であるために朝まで安眠もできなかった。大宮もようすを悟っておいでになるであろうが、ひじょうにおかわゆくお思いになる孫であるから、勝手なことをさせて、見ぬ顔をしておいでになるのであろうと女房たちのいっていた点で、大臣は大宮を恨めしがっていた。腹が立つと、それを内におさえることのできない性質で大臣はあった。
 二日ほどしてまた内大臣は大宮をご訪問した。こんなふうにしきりに出て来るときは宮のご機嫌がよくて、おうれしいごようすがうかがわれた。形式は尼になっておいでになる方であるが、髪で額(ひたい)を隠して、お化粧もきれいにあそばされ、はなやかな小袿(こうちぎ)などにもお召しかえになる。子ながらも晴れがましく思われになる大臣で、ありのままのお姿ではお会いにならないのである。内大臣は不機嫌な顔をしていた。
「こちらへあがっておりましても私ははずかしい気がいたしまして、女房たちはどう批評をしていることだろうかと心が置かれます。つまらない私ですが、生きておりますうちはしじゅううかがって、ものたりない思いをおさせせず、私もその点で満足を得たいと思ったのですが、不良な娘のためにあなた様をお恨めしく思わずにいられませんようなことができて参りました。そんなに真剣にお恨みすべきでないと、自分ながらも心をおさえようとするのでございますが、それができませんで」
 大臣が涙をおしぬぐうのをごらんになって、お化粧あそばした宮のお顔の色が変った。涙のために白粉(おしろい)が落ちてお目も大きくなった。
「どんなことがあって、この年になってからあなたに恨まれたりするのだろう」
と宮の仰せられるのを聞くと、さすがにお気の毒な気のする大臣であったが、つづいていった。
「ご信頼しているものですから、子どもをお預けしまして、親である私はかえってなんの世話もいたしませんで、手もとに置きました娘の後宮の激しい競争に敗残の姿になって、疲れてしまっております方のことばかりを心配して世話を焼いておりまして、こちらにごやっかいになります以上は、私がそんなふうに捨てておきましても、あなた様は彼を一人並みの女にしてくださいますことと期待していたのですが、意外なことになりましたから、私は残念なのです。源氏の大臣は天下の第一人者といわれるりっぱな方ではありますが、ほとんど家の中どうしのような者のいっしょになりますことは、人に聞えましても軽率に思われることです。低い身分の人たちの中でも、そんなことは世間へはばかってさせないものです。それはあの人のためにもよいことではけっしてありません。ぜんぜん離れた家へ、はなやかに婿(むこ)として迎えられることがどれだけ幸福だかしれません。従姉(いとこ)の縁でしいた結婚だというようにとられて、源氏の大臣も不快にお思いになるかもしれませんよ。それにしましても、そのことを私へお知らせくださいましたら、私はまた計らいようがあるというものです。ある形式を踏ませて、すこしは人聞きをよくしてやることもできたでしょうが、あなた様が、ただ年若な者のする放縦(ほうしょう)な行動そのままにお捨ておきになりましたことを、私は遺憾(いかん)に思うのです」
 くわしく大臣がいうことによって、はじめて真相をお悟りになった宮は夢にもお思いにならないことであったから、あきれておしまいになった。
「あなたがそうおいいになるのはもっともだけれど、私はまったく二人の孫が何を思って、何をしているのかを知りませんでした。私こそ残念でなりませんのに、同じように罪を私が負わせられるとは恨めしいことです。私は手もとへ来たときから、特別にかわゆくて、あなたがそれほどにしようとお思いにならないほどだいじにして、私はあの人に女の最高の幸福を受けうる価値もつけようとしてました。一方の孫を溺愛(できあい)して、ああしたまだ少年の者に結婚をゆるそうなどとは思いもよらぬことです。それにしても、だれがあなたにそんなことをいったのでしょう。人の中傷かもしれぬことで、腹をお立てになったりなさることはよくないし、ないことで娘の名に傷をつけてしまうことにもなりますよ」
「なんのないことだものですか、女房たちも非難して、陰では笑っていることでしょうから、私の心中はおだやかでありようがありません」
といって大臣は立って行った。幼い恋を知っている人たちは、この破局に立ちいたった少年少女に同情していた。先夜の内証話をした人たちは逆上もしてしまいそうになって、どうしてあんな秘密を話題にしたのであろうと後悔に苦しんでいた。
 姫君は何も知らずにいた。のぞいた居間に可憐(かれん)な美しい顔をして姫君がすわっているのを見て、大臣の心に父の愛が深くわいた。
「いくら年がいかないからといって、あまりに幼稚な心をもっているあなただとは知らないで、われわれの娘としての人並みの未来を私はいろいろに考えていたのだ。あなたよりも私の方が廃(すた)り物になった気がする」
と大臣はいって、それから乳母(めのと)を責めるのであった。乳母は大臣に対してなんとも弁明ができない。ただ、
「こんなことではだいじな内親王様方にもあやまちのあることを昔の小説などで読みましたが、それはご信頼を裏切るおそばの者があって、男の方のお手引きをするとか、また思いがけないすきができたとかいうことで起きるのですよ。こちらのことは何年もしじゅうごいっしょに遊んでおいでになったあいだなんですもの、お小さくはいらっしゃるし、宮様が寛大にお扱いになる以上にわれわれがお制しすることはできないとそのままに見ておりましたけれど、それも一昨年ごろからははっきりと日常のことがご区別できましたし、またあの方が同じ若い人といってもだらしのない不良なふうなどはすこしもない方なのでしたから、まったくゆだんをいたしましたわね」
などと自分たち仲間で嘆いているばかりであった。
「で、このことはしばらく秘密にしておこう。評判はどんなにしていても立つものだが、せめてあなたたちは、事実でないと否定をすることに骨を折るがいい。そのうち私の邸へつれて行くことにする。宮様のご好意が足りないからなのだ。あなた方はいくらなんだっても、こうなれと望んだわけではないだろう」
と大臣がいうと、乳母たちは、大宮のそうとられておいでになることをお気の毒に思いながらも、また自家のあかりが立ててもらえたようにうれしく思った。
「さようでございますとも、大納言(だいなごん)家への聞こえということも私たちは思っているのでございますもの、どんなに人柄がごりっぱでも、ただのご縁におつきになることなどを、私たちは希望申しあげるわけはございません」
という。姫君はまったく無邪気で、どう戒(いまし)めても、教えてもわかりそうにないのを見て大臣は泣きだした。
「どういうふうに体裁を繕(つくろ)えばいいか、この人を廃(すた)り物にしないためには」
 大臣は二三人と密議するのであった。この人たちは大宮の態度がおよろしくなかったことばかりをいい合った。
 大宮はこの不祥事を二人の孫のために悲しんでおいでになったが、その中でも若君の方をお愛しになる心が強かったのか、もうそんなにおとなびた恋愛などのできるようになったかと、かわゆく思われにならないでもなかった。もってのほかのようにいった内大臣の言葉を肯定あそばすこともできない。必ずしもそうであるまい、たいした愛情のなかった子どもを自分がたいせつに育ててやるようになったために、東宮の後宮というような志望も父親がもつことになったのである、それが実現できなくて、普通の結婚をしなければならない運命になれば、源氏の長男以上のすぐれた婿があるものではない。容貌をはじめとして、何からいっても同等の公達(きんだち)のあるわけはない、もっと価値の低い婿をもたねばならない気がすると、やや公平でないご愛情から、大臣を恨んでおいでになるのであったが、宮のこのお心もちを知ったなら、まして大臣はお恨みすることであろう。
 自身のことでこんな騒ぎのあることも知らずに源氏の若君が来た。一昨夜は人が多くいて、恋人を見ることのできなかったことから、恋しくなって夕方から出かけて来たものであるらしい。平生、大宮はこの子をお迎えになるとひじょうにおうれしそうなお顔をあそばしてお喜びになるのであるが、今日はまじめなふうでお話をあそばしたあとで、
「あなたのことで内大臣が来て、私までも恨めしそうにいってましたから気の毒でしたよ。よくないことをあなたははじめて、そのために人が不幸になるではありませんか。私はこんなふうにいいたくはないのだけれど、そういうことのあったのを、あなたが知らないでいてはと思ってね」
とおいいになった。少年の良心にとがめられていることであったから、すぐに問題の真相がわかった。若君は顔を赤くして、
「なんでしょう。静かなところへ引き籠りましてからは、だれともなんの交渉もないのですから、伯父様の感情を害するようなことはないはずだと私は思います」
といって羞恥(しゅうち)に堪えないように見えるのを、かわいそうに宮は思召した。
「まあいいから、これから気をおつけなさいね」
とだけおいいになって、あとはほかへ話を移しておしまいになった。これからは手紙の往復もいっそう困難になることであろうと思うと、若君の心は暗くなっていた。晩餐(ばんさん)が出てもあまり食べずに早く寝てしまったふうは見せながらも、どうかして恋人に会おうと思うことで夢中になっていた若君は、みなが寝入ったころを見計らって姫君の居間とのあいだの襖子(からかみ)をあけようとしたが、平生は別に錠(じょう)などをかけることもなかった仕切りが、今夜はしかと鎖(とざ)されてあって、向こう側に人の音も聞えない。若君は心細くなって、襖子(からかみ)によりかかっていると、姫君も目をさましていて、風の音が庭先の竹にとまってそよそよと鳴ったり、空を雁の通っていく声のほのかに聞えたりすると、無邪気な人も身にしむ思いが胸にあるのか、「雲井の雁もわがごとや」(霧深き雲井の雁もわがごとや晴れもせず物の悲しかるらん)と口ずさんでいた。そのようすが少女らしくきわめて可憐であった。若君の不安さは募(つの)って、
「ここをあけてください。小侍従(こじじゅう)はいませんか」
といった。あちらにはなんとも答える者がない。小侍従は姫君の乳母の娘である。独言(ひとりごと)を聞かれたのもはずかしくて、姫君は夜着を顔にかぶってしまったのであったが、心では恋人をあわれんでいた、おとなのように。乳母などが近いところに寝ていて身じろぎも容易にできないのである。それきり二人とも黙っていた。
  さ夜中に友よびわたる雁(かり)がねに
    うたて吹きそふ荻(おぎ)のうは風
 身にしむものであると若君は思いながら宮のお居間の方へ帰ったが、嘆息してつく吐息を宮がお目ざめになってお聞きにならぬかと遠慮されて、身じろぎながら寝ていた。
 若君はわけもなくはずかしくて、早く起きて自身の居間の方へ行き、手紙を書いたが、二人の味方である小侍従にも会うことができず、姫君の座敷の方へ行くこともようせずに煩悶(はんもん)をしていた。女の方も父親にしかられたり、みなから問題にされたりしたことだけがはずかしくて、自分がどうなるとも、あの人がどうなっていくとも深くは考えていない。美しく二人が寄り添って、愛の話をすることが悪いこと、醜(みにく)いこととは思えなかった。そうした場合がなつかしかった。こんなにみなに騒がれることが至当なこととは思われないのであるが、乳母などからひどい小言をいわれたあとでは、手紙を書いて送ることもできなかった。おとなはそんな中でもすきをとらえることが不可能でなかろうが、相手の若君も少年であって、ただ残念に思っているだけであった。
 内大臣はそれきりたずねはしないのであるが、宮をひじょうにお恨めしく思っていた。夫人には雲井の雁の姫君の今度の事件についての話をしなかったが、ただ気むつかしく不機嫌になっていた。
「中宮がはなやかな儀式で立后後の宮中入りをなすったこのさいに、女御が同じ御所で滅(め)入った気もちで暮しているかと思うと私はたまらないから、退出させて気楽に家で遊ばせてやりたい。さすがに陛下はおそばをお離しにならないようにお扱いになって、夜昼上の御局(みつぼね)へあがっているのだから、女房たちなども緊張してばかりいなければならないのが苦しそうだから」
 こう夫人に語っている大臣は、にわかに女御退出のお暇(いとま)を帝へ願い出た。ご寵愛の深い人であったから、お暇をゆるしがたく帝は思召したのであるが、いろいろなことをいいだして大臣が意志を貫徹しようとするので、帝はしぶしぶおゆるしあそばされた。自邸に帰った女御に大臣は、
「退屈でしょうから、あちらの姫君を呼んでいっしょに遊ぶことなどなさい。宮にお預けしておくことは安心なようではあるが、年の寄った女房があちらには多すぎるから、同化されて若い人のつつしみ深さがなくなってはと、もうそんなことも考えなければならない年ごろになっていますから」
 こんなことをいって、にわかに雲井の雁を迎えることにした。大宮は力をお落しになって、
「たった一人あった女の子が亡くなってから、私は心細い気がして寂しがっていたところへ、あなたが姫君をつれて来てくれたので、私は一生ながめて楽しむことのできる宝のように思って世話をしていたのに、この年になってあなたに信用されなくなったかと思うと恨めしい気がします」
とおいいになると、大臣はかしこまっていった。
「遺憾な気のしましたことは、その場でありのままに申しあげただけのことでございます。あなた様をご信用申さないようなことが、どうしてあるものでございますか。御所におります娘が、いろいろと朗らかでないふうでこの節邸へ帰っておりますから、退屈そうなのが哀れでございまして、いっしょに遊んで暮せばよいと思いまして、一時的につれて参るのでございます」
 また、
「今日までのご養育のご恩はけっして忘れさせません」
ともいった。こう決めたことはとどめても思いかえす性質でないことをご承知の宮は、ただ残念に思召すばかりであった。
「人というものは、どんなに愛するものでもこちらをそれほどには思ってはくれないものだね。若い二人がそうではないか、私に隠して大事件を起してしまったではないか。それはそれでも大臣はりっぱなできあがった人でいながら私を恨んで、こんなふうにして姫君をつれて行ってしまう。あちらへ行ってここにいる以上の平和な日があるものとは思われないよ」
 お泣きになりながら、こう女房たちに宮はいっておいでになった。ちょうどそこへ若君が来た。すこしのすきでもないかとこのごろはよく出て来るのである。内大臣の車がとまっているのを見て、心の鬼にきまり悪さを感じた若君は、そっとはいって来て自身の居間へ隠れた。内大臣の息子たちである左少将(さしょうしょう)、少納言(しょうなごん)、兵衛佐(ひょうえのすけ)、侍従(じじゅう)、大夫(たいぶ)などという人らもこのお邸へ来るが、御簾(みす)の中へはいることはゆるされていないのである。左衛門督(さえもんのかみ)、権中納言(ごんちゅうなごん)などという内大臣の兄弟は、ほかの母君から生れた人であったが、故人の太政大臣が宮へ親子の礼をとらせていた関係から、今も敬意を表しに来て、その子どもたちも出入りするのであるが、だれも源氏の若君ほど美しい顔をしたのはなかった。宮のお愛しになることも比類のないおん孫であったが、そのほかには雲井の雁だけがお手もとで育てられてきて深いご愛情のそそがれているおん孫であったのに、突然こうして去ってしまうことになって、お寂しくなることを宮は嘆いておいでになった。大臣は、
「ちょっと御所へ参りまして、夕方に迎えに来ようと思います」
といって出て行った。事実に潤色を加えて結婚をさせてもよいとは大臣の心にも思われたのであるが、やはり残念な気もちがまさって、ともかくも相当な官歴ができたころ、娘への愛の深さ浅さをも見て、ゆるすにしても形式を整えた結婚をさせたい、厳重に監督しても、そこが男の家でもあるところに置いては、若い同士は放縦(ほうしょう)なことをするに違いない。宮もしいて制しようとはあそばさないであろうからとこう思って、女御の徒然(つれづれ)に託して、自家の方へも宮邸へも軽いふうを装って伴い去ろうと大臣はするのである。宮は雲井の雁へ手紙をお書きになった。
 大臣は私を恨んでいるかしりませんが、あなたは、私がどんなにあなたを愛しているかを知っているでしょう。こちらへ会いに来てください。
 宮のお言葉にしたがって、きれいに着飾った姫君が出て来た。年は十四なのである。まだおとなになりきってはいないが、子どもらしくおとなしい美しさのある人である。
「しじゅうあなたをそばに置いて見ることが、私のなくてはならぬ慰めだったのだけれど、行ってしまっては寂しくなることでしょう。私は年寄りだから、あなたの生先(おいさき)が見られないだろうと、命のなくなるのを心細がったものですがね。私と別れて、あなたの行くところはどこかと思うとかわいそうでならない」
といって宮はお泣きになるのであった。雲井の雁は祖母の宮のお嘆きの原因に自分の恋愛問題がなっているのであると思うと、羞恥の感に堪えられなくて、顔もあげることができずに泣いてばかりいた。
 若君の乳母の宰相の君が出て来て、
「若君とごいっしょの御主人様だとただいままで思っておりましたのに、行っておしまいになるなどとは残念なことでございます。殿様がほかの方とご結婚をおさせになろうとあそばしましても、おしたがいにならぬようにあそばせ」
などと小声でいうと、いよいよはずかしく思って、雲井の雁はものもいえないのである。
「そんなめんどうな話はしない方がよい。縁だけはだれも前生(ぜんしょう)から決められているのだからわからない」
と宮がおいいになる。
「でも殿様は貧弱だと思召して若様を軽蔑あそばすのでございましょうから。まあお姫様見ておいであそばせ、私の方の若様が人におくれをおとりになる方かどうか」
 くやしがっている乳母はこんなこともいうのである。若君は几帳のうしろへはいって来て恋人をながめていたが、人目をはじることなどはもうものの切迫しない場合のことで、今はそんなことも思われずに泣いているのを、乳母はかわいそうに思って、宮へは体裁よく申し上げ、夕方の暗(くら)まぎれに二人をほかの部屋で会わせた。きまり悪さとはずかしさで二人はものもいわずに泣き入った。
「伯父様の態度が恨めしいから、恋しくても私はあなたを忘れてしまおうと思うけれど、会わないでいてはどんなに苦しいだろうと今から心配でならない。なぜ会えば会うことのできたころに私はたびたび来なかったろう」
という男のようすには、若々しくてそして心を打つものがある。
「私も苦しいでしょう、きっと」
「恋しいだろうとお思いになる」
と男がいうと、雲井の雁が幼いふうにうなずく。座敷には灯がともされて、門前からは大臣の前駆の者がおおぎょうに立てる人払いの声が聞えてきた。女房たちが、
「さあ、さあ」
と騒ぎだすと、雲井の雁は恐ろしがってふるえだす。男はもうどうでもよいという気になって、姫君を帰そうとしないのである。姫君の乳母が探しに来て、はじめて二人の会合を知った。なんといういまわしいことであろう、やはり宮はお知りにならなかったのではなかったと思うと、乳母は恨めしくてならなかった。
「ほんとうにまあ悲しい。殿様が腹をお立てになって、どんなことをおいいだしになるかしれないばかしか、大納言家でもこれをお聞きになったらどうお思いになることだろう。貴公子でおありになっても、最初の殿様が浅葱(あさぎ)の袍(ほう)の六位の方とは」
 こういう声も聞えるのであった。すぐ二人のいる屏風(びょうぶ)のうしろに来て乳母はこぼしているのである。若君は自分の位の低いことをいって侮辱(ぶじょく)しているのであると思うと、急に人生がいやなものに思われてきて、恋もすこしさめる気がした。
「そらあんなことをいっている。
  くれなゐの涙に深き袖の色を
    浅緑とや言ひしをるべき
 はずかしくてならない」
というと、
  いろいろに身のうき程の知らるるは
    いかに染めける中の衣ぞ
と雲井の雁がいったかいわぬに、もう大臣が家の中にはいって来たので、そのまま雲井の雁は立ちあがった。とり残された見苦しさもはずかしくて、悲しみに胸をふさがらせながら、若君は自身の居間へはいって、そこで寝つこうとしていた。三台ほどの車に分乗して姫君の一行は邸をそっと出て行くらしい物音を聞くのも若君にはつらく悲しかったから、宮のお居間から、来るようにと、女房を迎えにおよこしになったときにも、眠ったふうをして身じろぎもしなかった。涙だけがまだとまらずに一睡もしないで暁になった。霜(しも)の白いころに若君は急いで出かけて行った。泣きはらした目を人に見られることがはずかしいのに、宮はきっとそばへ呼ぼうとされるであろうから、気楽な場所へ行ってしまいたくなったのである。車の中でも若君はしみじみと破れた恋の悲しみを感じるのであったが、空模様もひどく曇って、まだ暗い寂しい夜明けであった。
  霜氷うたて結べる明けぐれの
    空かきくらし降る涙かな
 こんな歌を思った。
 今年源氏は五節(ごせち)の舞姫を一人出すのであった。大した仕度というものではないが、付添いの童女の衣裳などを日が近づくので用意させていた。東の院の花散里(はなちるさと)夫人は、舞姫の宮中へ入る夜の、付添いの女房たちの装束を引き受けて手もとで作らせていた。二条院では全体にわたってのひととおりの衣裳が作られているのである。中宮からも、童女、下(しも)仕えの女房幾人かの衣服を、華奢(きゃしゃ)に作ってご寄贈になった。去年は諒闇(りょうあん)で五節のなかったせいもあって、だれも近づいてくる五節に心をおどらせている年であるから、五人の舞姫を一人ずつ引き受けて出すところどころでは派手が競われているという評判であった。按察使大納言の娘、左衛門督の娘などが出ることになっていた。それから殿上役人の中から一人出す舞姫には、今は近江守(おうみのかみ)で左中弁を兼ねている良清朝臣(よしきよあそん)の娘がなることになっていた。今年の舞姫はそのままつづいて女官に採用されることになっていたから、愛嬢を惜しまずに出すのであるといわれていた。源氏は自身から出す舞姫に、摂津守(せっつのかみ)兼左京大夫(だいぶ)である惟光(これみつ)の娘で、美人だといわれている子を選んだのである。
惟光は迷惑がっていたが、
「大納言が妾腹の娘を舞姫に出すときに、君のだいじな娘を出したっても恥ではない」
と責められて、困ってしまった惟光は、女官になる保証のある点がよいからとあきらめてしまって、主命にしたがうことにしたのである。舞いの稽古(けいこ)などは自宅でよく習わせて、舞姫を直接世話するいわゆるかしずきの幾人だけはその家で選んだのをつけて、初めの日の夕方ごろに二条院へ送った。なお童女幾人、下仕え幾人が付添いに必要なのであるから、二条院、東の院を通じてすぐれた者を多数の中から選(え)り出すことになった。みなそれ相応に選定される名誉を思って集って来た。陛下が五節の童女だけをごらんになる日の練習に、縁側を歩かせて見て決めようと源氏はした。落選させてよいような子どももない、それぞれに特色のある美しい顔と姿をもっているのに源氏はかえって困った。
「もう一人分の付添いの童女を私の方から出そうかね」
などと笑っていた。けっきょく身のとりなしのよさと、品のよいおちつきのある者が採(と)られることになった。
 大学生の若君は失恋の悲しみに胸が閉じられて、何にも興味がもてないほど心が滅入って、書物も読む気のしないほどの気分がいくぶん慰められるかもしれぬと、五節の夜は二条院に行っていた。風采(ふうさい)がよくおちついた、艶な姿の少年であったから、若い女房などから憧憬をもたれていた。夫人のいる方では御簾(みす)の前へもあまりすわらせぬように源氏は扱うのである。源氏は自身の経験によって危険がるのか、そういうふうであったから、女房たちすらも若君と親しくする者はいないのであるが、今日は混雑のまぎれに室内へもはいって行ったものらしい。車でついた舞姫をおろして、妻戸のところの座敷に、屏風などで囲(かこ)いをして、舞姫のかりの休息所へ入れてあったのを、若君はそっと屏風のうしろからのぞいて見た。苦しそうにして舞姫はからだを横向きに長くしていた。ちょうど雲井の雁と同じほどの年ごろであった。それよりもすこし背が高くて、全体の姿にあざやかな美しさのある点は、その人以上にさえも見えた。暗かったからよく見えないのであるが、年ごろが同じくらいで恋人の思われる点がうれしくて、恋が移ったわけではないが、これにも関心はもたれた。若君は衣服の褄先(つまさき)を引いて音をさせてみた。思いがけぬことで怪しがる顔を見て、
 「天(あま)にます豊岡姫の宮人も
    わが志すしめを忘るな
『みづがきの』(久しき世より思ひ初(そ)めてき)
といったが、藪(やぶ)から棒ということのようである。若々しく美しい声をしているが、だれであるかを舞姫は考えあてることもできない。気味悪く思っているときに、顔の化粧をなおしに、騒がしく世話役の女が幾人も来たために、若君は残念に思いながらその部屋を立ち去った。浅葱(あさぎ)の袍(ほう)を着て行くことがいやで、若君は御所へ行くこともしなかったが、五節を機会に、好みの色の直衣(のうし)を着て宮中へ出入りすることを若君はゆるされたので、その夜から御所へも行った。まだ小柄な美少年は、若公達(きんだち)らしく御所の中を遊びまわっていた。帝をはじめとしてこの人をお愛しになる方が多く、ほかには類もないようなご恩寵(おんちょう)を若君は身に負っているのであった。
 五節の舞姫がそろって御所へ入る儀式には、どの舞姫も盛装を凝(こ)らしていたが、美しい点では源氏のと、大納言の舞姫がすぐれていると若い役人たちはほめた。実際、二人ともきれいであったが、ゆったりとした美しさはやはり源氏の舞姫がすぐれていて、大納言の方のは及ばなかったようである。きれいで、現代的で、五節の舞姫などというもののようでないつくりにした感じよさが、こうほめられるわけであった。例年の舞姫よりもすこし大きくて、前から期待されていたのに背(そむ)かない五節の舞姫たちであった。源氏も参内して陪観(ばいかん)したが、五節の舞姫の少女が目にとまった昔を思い出した。辰(たつ)の日の夕方に大弐(だいに)の五節へ源氏は手紙を書いた。内容が想像されないでもない。
  少女子(おとめご)も神さびぬらし天つ袖
    ふるき世の友よはひ経(へ)ぬれば
 五節は今日までの年月の長さを思って、物哀れになった心もちを源氏が昔の自分に書いて告げただけのことである。これだけのことを喜びにしなければならない自分であるということをはかなんだ。
  かけて言はば今日のこととぞ思ほゆる
    日がけの霜の袖にとけしも
 新嘗祭(にいなめさい)の小忌(おみ)の青摺(ず)りを模様にした、この場合にふさわしい紙に、濃淡のまぜようをおもしろく見せた漢字がちの手紙も、その階級の女には適した感じのよい返事の手紙であった。
 若君も特に目立った美しい自家の五節を舞の庭に見て、会ってものをいう機会を作りたく、楽屋のあたりへ行ってみるのであったが、近いところへ人も寄せないような警戒ぶりであったから、羞恥心の多い年ごろのこの人は嘆息するばかりで、それきりにしてしまった。美貌であったことが忘られなくて、恨めしい人に会われない心の慰めには、あの人を恋人に得たいと思っていた。
 五節の舞姫はみなとどまって宮中の奉仕をするようとの仰せであったが、いったんはみな、退出させて、近江守のは唐崎(からさき)、摂津守の子は浪速(なにわ)で祓(はら)いをさせたいと願って自宅へ帰った。大納言も別の形式で宮仕えにさしあげることを奏上した。左衛門督は娘でない者を娘として五節に出したということで問題になったが、それも女官に採用されることになった。惟光は典侍(ないしのすけ)の職が一つ空(あ)いてある補充に娘を採用されたいと申し出た。源氏もその希望どおりに優遇をしてやってもよいという気になっていることを、若君は聞いて残念に思った。自分がこんな少年でなく、六位級に置かれているのでなければ、女官などにはさせないで、父の大臣に請(こ)うて同棲(どうせい)を黙認してもらうのであるが、現在では不可能なことである。恋しく思う心だけも知らせずに終るのかと、たいした思いではなかったが、雲井の雁を思って流す涙といっしょに、その方の涙のこぼれることもあった。五節の弟で若君にもていねいに臣礼をとってくる惟光の子に、ある日会った若君は平生以上に親しく話してやったあとでいった。
「五節はいつ御所へはいるの」
「今年のうちだということです」
「顔がよかったから私はあの人が好きになった。君は姉さんだから毎日見られるだろうからうらやましいのだが、私にももう一度見せてくれないか」
「そんなこと、私だってよく顔なんか見ることはできませんよ。男の兄弟だからって、あまりそばへ寄せてくれませんのですもの、それだのにあなたなどにお見せすることなど、だめですね」
という。
「じゃあ手紙でももって行ってくれ」
といって、若君は惟光の子に手紙を渡した。これまでもこんな役をしてはいつも家庭でしかられるのであったがと迷惑に思うのであるが、ぜひもってやらせたそうである若君が気の毒で、その子は家へもって帰った。五節は年よりもませていたのか、若君の手紙をうれしく思った。緑色の薄様(うすよう)の美しい重紙(かさねがみ)に、字はまだ子どもらしいが、よい将来のこもった字で感じよく書かれてある。
  日かげにもしるかりけめや少女子(おとめご)が
    天の羽袖にかけし心は
 姉と弟がこの手紙をいっしょに読んでいるところへ思いがけなく父の惟光大人(これみつのぬし)が出て来た。隠してしまうこともまた恐ろしくてできぬ若い姉弟であった。
「それはだれの手紙」
 父が手にとるのを見て、姉も弟も赤くなってしまった。
「よくない使いをしたね」
としかられて、逃げて行こうとする子を呼んで、
「だれからたのまれた」
と惟光がいった。
「殿様の若君がぜひっておっしゃるものだから」
と答えるのを聞くと、惟光は今まで怒っていた人のようでもなく、笑顔になって、
「なんというかわいいいたずらだろう、おまえなどは同年(おないどし)でまだまったく子どもじゃないか」
とほめた。妻にもその手紙を見せるのであった。
「こうした貴公子に愛してもらえれば、ただの女官のお勤めをさせるより私はその方へあげてしまいたいくらいだ。殿様のご性格を見ると恋愛関係をお作りになった以上、ご自身の方から相手をお捨てになることは絶対にないようだ。私も明石(あかし)の入道になるかな」
などと惟光はいっていたが、子どもたちはみな立って行ってしまった。
 若君は雲井の雁へ手紙を送ることもできなかった。二つの恋をしているが、一つの重い方のことばかりが心にかかって、時間がたてばたつほど恋しくなって、目の前を去らない面影の主に、もう一度会うということもできぬかとばかり嘆かれるのである。祖母の宮のお邸へ行くこともわけなしに悲しくてあまり出かけない、その人の住んでいた座敷、幼いときからいっしょに遊んだ部屋などを見ては、胸苦しさの募るばかりで、家そのものも恨めしくなって、また勉強所にばかり引き籠っていた。源氏は同じ東の院の花散里夫人に、母としての若君の世話をたのんだ。
「大宮はお年がお年だから、いつどうおなりになるかしれない。お薨(かく)れになったのちのことを思うと、こうして少年時代から慣らしておいて、あなたのやっかいになるのがもっともよいと思う」
と源氏はいうのであった。すなおな性質のこの人は、源氏の言葉に絶対の服従をする習慣から、若君を愛してやさしく世話をした。若君は養母の夫人の顔をほのかに見ることもあった。よくないお顔である。こんな人を父は妻としていることができのである、自分が恨めしい人の顔に執着を絶つことのできないのも、自分の心ができあがっていないからであろう、こうしたやさしい性質の婦人と夫婦になりえたら幸福であろうと、こんなことを若君は思ったが、しかしあまりに美しくない顔の妻は向かい合ったときに気の毒になってしまうであろう、こんなに長い関係になっていながら、容貌の醜(しゅう)なる点、性質の美な点を認めた父君は、夫婦生活などはおろそかにして、妻としての待遇にできるかぎりの好意を尽していられるらしい。それが合理的なようであるとも若君は思った。そんなことまでもこの少年は観察しえたのである。大宮は尼姿になっておいでになるがまだお美しかったし、そのほかどこでこの人の見るのも相当な容貌が集められている女房たちであったから、女の顔はみなきれいなものであると思っていたのが、若いときから美しい人でなかった花散里が、女の盛りも過ぎて衰えた顔は、痩せた貧弱なものになり、髪もすくなくなっていたりするのを見て、こんなふうに思うのである。
 年末には正月の衣裳を大宮は若君のためにばかり仕度あそばされた。幾重ねも美しい春の衣服のできあがっているのを、若君は見るのもいやな気がした。
「元日だって、私は必ずしも参内するものでないのに、なんのためにこんなに用意をなさるのですか」
「そんなことがあるものですか。癈人(はいじん)の年寄りのようなことをいう」
「年寄りではありませんが癈人の無力が自分に感じられる」
 若君は独言(ひとりごと)をいって涙ぐんでいた。失恋を悲しんでいるのであろうと、哀れにごらんになって宮も寂しいお顔をあそばされた。
「男性というものは、どんな低い身分の人だって、心もちだけは高くもつものです。あまり滅入った、そうしたふうは見せないようになさいよ。あなたがそんなに思いこむほどの価値のあるものはないではないか」
「それは別にないのですが、六位だと人が軽蔑をしますから、それはしばらくのあいだのことだとは知っていますが、御所へ行くのも気がそれで進まないのです。お祖父様がおいでになったら、冗談にでも人は私を軽蔑なんかしないでしょう。ほんとうのお父様ですが、私をお扱いになるのは、形式的に重くしていらっしゃるとしか思われません。二条院などで私は家族の一人として親しませてもらうようなことは絶対にできません。東の院でだけ私はあの方の子らしくしていただけます。西の対(たい)のお母様だけはやさしくしてくださいます。もう一人、私に本当のお母様があれば、私はそれだけでもう幸福なのでしょうがお祖母(ばあ)様」
 涙の流れるのをまぎらしているようすのかわいそうなのをごらんになって、宮はほろほろと涙をこぼしてお泣きになった。
「母を亡くした子というものは、各階級を通じてみなそうした心細い思いをしているのだけれど、だれにも自分の運命というものがあって、それぞれに出世してしまえば、軽蔑する人などはないのだから、そのことは思わない方がいいよ。お祖父様がもうしばらくでも生きていてくだすったらよかったのだね。お父様がおいでなんだから、お祖父様くらいの愛はあなたにかけていただけると信じてますけれど、思うようにはいかないものなのだね。内大臣もりっぱな人格者のように世間でいわれていても、私に昔のような平和も幸福もなくなっていくのは、どういうわけだろう。私はただ長生きの罪にしてあきらめますが、若いあなたのような人を、こんなふうにすこしでも厭世(えんせい)的にする世の中かと思うと、恨めしくなります」
と宮は泣いておいでになった。
 元日も源氏は外出の要がなかったから、のどかであった。良房(よしふさ)の大臣のたまわった古例で、七日の白馬(あおうま)が二条院へ引かれて来た。宮中どおりにおこなわれた荘重な式であった。
 二月二十幾日に朱雀院(すざくいん)へ行幸があった、桜の盛りにはまだなっていなかったが、三月は母后の御忌月(おんきづき)であったから、この月が選ばれたのである。早咲きの桜は咲いていて、春のながめはもう美しかった。お迎えになる院の方でもいろいろのご準備があった。行幸の供奉(ぐぶ)をする顕官も親王方もその日の服装などに苦心をはらっておいでになった。その人たちは、みな青色の下に桜襲(さくらがさね)を用いた。帝は赤色のおん服であった。お召しがあって源氏の大臣が参院した。同じ赤色を着ているのであったから、帝と同じものと見えて、源氏の美貌が輝いた。ご宴席に出た人々のようすも態度もひじょうによく洗練されて見えた。院もますます、清艶な姿におなりあそばされた。今日は専門の詩人はお招きにならないで、詩才の認められる大学生十人を召したのである。これを式部省(しきぶしょう)の試験にかえて作詞の題をその人たちはいただいた。これは源氏の長男のためにわざとお計らいになったことである。気の弱い学生などは頭もぼうとさせていて、お庭先の池に放たれた船に乗って出た水上で制作に苦しんでいた。夕方近くなって、音楽者を載(の)せた船が池を往来して、楽音を山風にまぜて吹き立てているとき、若君はこんなに苦しい道を進まないでも自分の才分を発揮させる道はあるであろうがと恨めしく思った。「春鶯囀(しゅんおうてん)」が舞われているとき、昔の桜花の宴の日のことを院の帝はお思い出しになって、
「もうあんなおもしろいことは見られないと思う」
と源氏へ仰せられたが、源氏はそのお言葉から青春時代の恋愛三昧(ざんまい)を忍んでもの哀れな気分になった。源氏は院へ杯を参らせて歌った。
  鶯(うぐいす)のさへづる春は昔にて
    むつれし花のかげぞ変れる
 院は、
  九重を霞(かすみ)へだつる住処(すみか)にも
    春と告げくる鶯の声
とお答えになった。大宰帥(だざいのそち)の宮といわれた方は兵部卿(ひょうぶきょう)になっておいでになるのであるが、陛下へ杯を献じた。
  いにしへを吹き伝へたる笛竹に
    さへづる鳥の音(ね)さへ変らぬ
 この歌を奏上した宮のごようすがことにりっぱであった。帝は杯をおとりになって、
  鶯の昔を恋ひて囀(さえ)づるは
    木(こ)づたふ花の色やあせたる
と仰せになるのが重々しく気高かった。この行幸はご家庭的なお催しで、儀式ばったことでなかったせいなのか、官人一同が詩歌を詠進したのではなかったのか、その日の歌はこれだけより書き置かれていない。
 奏楽所が遠くて、こまかい楽音が聞き分けられないために、楽器が御前へ召された。兵部卿の宮が琵琶(びわ)、内大臣は和琴(わごん)、十三絃(げん)が院の帝の御前にさしあげられて、琴(きん)は例のように源氏の役になった。皆名手で、絶妙な合奏楽になった。歌う役を勤める殿上役人が選ばれてあって、「安名尊(あなとうと)」が最初に歌われ、次に桜人(さくらびと)が出た。月がおぼろに出て美しい夜の庭に、中島あたりではそこかしこに篝火(かがりび)が焚(た)かれてあった。そうしてもう合奏がすんだ。
 夜ふけになったのであるが、この機会に皇太后をご訪問あそばさないことも冷淡なことであると思召して、お帰りがけに帝はその方の御殿へおまわりになった。源氏もお供をして参ったのである。太后はひじょうに喜んでお迎えになった。もうひじょうに老いておいでになるのを、ごらんになっても帝はおん母君をお思い出しになって、こんな長生きをされる方もあるのにと残念に思召された。
「もう老人になってしまいまして、私などはすべての過去を忘れてしまっておりますのに、もったいないご訪問をいただきましたことから、昔の御代(みよ)が忍ばれます」
と太后は泣いておいでになった。
「ご両親が早くお崩(かく)れになりまして以来、春を春でもないように寂しく見ておりましたが、今日はじめて春をじゅうぶんに享楽(きょうらく)いたしました。またうかがいましょう」
と陛下は仰せられ、源氏もご挨拶をした。
「また別の日に伺候(しこう)いたしまして」
 還幸の鳳輦(ほうれん)をはなやかに百官の囲繞(いにょう)していく光景が、ものの響きに想像されるときにも、太后は過去のご自身の態度の非を悔いておいでになった。源氏はどう自分の昔を思っているであろうと恥じておいでになった。一国を支配する人のもっている運は、どんな詛(のろい)よりも強いものであるとお悟りにもなった。
 朧月夜(おぼろづきよ)の尚侍(ないしのかみ)も静かな院の中にいて、過去を思う時々に、源氏とした恋愛の昔が今も身にしむことに思われた。ちかごろでも源氏は好便に託しては文通をしているのであった。太后は政治にご注文をおもちになるときとか、ご自身の推薦権の与えられておいでになる限られた官爵の運用についてとかに思召しの通らないときは、長生きをして情けない末世に苦しむというようなことをおいいだしになり、ご無理も仰せられた。年をとっておいでになるにしたがって、強いご気質がますます強くなって院もお困りになるふうであった。
 源氏の公子はその日の成績がよくて進士(しんし)になることができた。碩(せき)学の人たちが選ばれて答案の審査にあたったのであるが、及第は三人しかなかったのである。そして若君は秋の除目(じもく)のときに侍従に任ぜられた。雲井の雁を忘れるときがないのであるが、大臣が厳重に監視しているのも恨めしくて、むりをして会って見ようともしなかった。手紙だけは便宜を作って送るというような、苦しい恋を二人はしているのであった。
 源氏は静かな生活のできる家を、なるべく広くおもしろく作って、別れ別れにいる。たとえば嵯峨(さが)の山荘の人などもいっしょに住せたいという希望をもって、六条の京極(きょうごく)の辺に中宮の旧邸のあったあたり、四町四面を地域にして新邸を造営させていた。式部卿の宮は来年が五十におなりになるのであったから、紫夫人はその賀宴をしたいと思って仕度をしているのを見て、源氏もそれはぜひともしなければならぬことであると思い、そうした式もなるべくは新邸でする方がよいと、そのためにも建築を急がせていた。春になってからは専念に源氏は宮の五十の御賀(おんが)の用意をしていた。落忌(おとしいみ)の饗宴のこと、そのさいの音楽者、舞人の選定などは源氏の引き受けていることで、付帯して行なわれる仏事の日の経巻や仏像の制作、法事の僧たちへ出す布施(ふせ)の衣服類、一般の人への纏頭(てんとう)の品々は夫人が力を傾けて用意していることであった。東の院でも仕事を分担して助けていた。花散里夫人と紫の女王とは同情を互いにもって美しい交際をしているのである。世間までがこのために騒ぐように見える大仕掛けな賀宴のことを式部卿の宮もお聞きになった。これまではだれのためにも慈父のような広い心をもつ源氏であるが、ご自身とご自身の周囲の者にだけは冷酷な態度をとりつづけられておいでになるのを、源氏の立場になってみれば、恨めしいことが過去にあったのであろうと、その時代の源氏夫婦をいまさら気の毒にもお思いになり、こうした現状を苦しがっておいでになったが、源氏の幾人もある妻妾の中の最愛の夫人で女王があって、世間から敬意を寄せられていることも並々でない人が娘であることは、その幸福が自家へわけられぬものにもせよ、自家の名誉であることには違いないと思っておいでになった。それに今度の賀宴が、源氏の勢力の下でかつてない善美を尽した準備がととのえられているということをお知りになったのであるから、思いがけぬ老後の光栄を受けると感激しておいでになるが、宮の夫人は不快に思っていた。女御の後宮の競争にも源氏が同情的態度に出ないことで、いよいよ恨めしがっているのである。
 八月に六条院の造営が終って、二条院から源氏は移転することになった。南西は中宮の旧邸のあったところであるから、そこは宮のお住居になるはずである。南の東は源氏の住むところである。北東の一帯は東の院の花散里、西北は明石夫人と決めて作られてあった。もとからあった池や築山(つきやま)も都合の悪いのはこわして、水の姿、山の趣きもあらためて、さまざまに住み主の希望をいれた庭園が作られたのである。南の東は山が高くて、春の花の木が無数に植えられてあった。池がことに自然にできていて、近い植込みのところには、五葉(ごよう)、紅梅(こうばい)、桜、藤、山吹、岩躑躅(いわつつじ)などを主にして、その中に秋の草木がむらむらにまぜてある。中宮のお住居の町はもとの築山に、美しく染(し)む紅葉を植え加えて、泉の音の澄んで遠く響くような工作がされ、流れがきれいな音を立てるような石が水中に添えられた。滝を落して、奥には秋の草野がつづけられてある。ちょうどその季節であったから、嵯峨(さが)の大井の野の美観がこのために軽蔑されてしまいそうである。北の東は涼しい泉があって、ここは夏の庭になっていた。座敷の前の庭には呉竹(くれたけ)がたくさん植えてある。下風の涼しさが思われる。大木の森のような木が深く奥にはあって、田舎(いなか)らしい卯(う)の花の花垣(がき)などがわざと作られていた。昔の思われる花橘(はなたちばな)、撫子(なでしこ)、薔薇(ばら)、木丹(くたに)などの草木を植えた中に春秋のものも配してあった。東向いたところは特に馬場殿になっていた。庭には埓(らち)が結ばれて、五月の遊び場所ができているのである。菖蒲(しょうぶ)が茂らせてあって、向かいの厩(うまや)には名馬ばかりが飼われていた。北西の町は北側にずっと倉が並んでいるが、隔ての垣には唐竹(とうちく)が植えられて、松の木の多いのは雪を楽しむためである。冬の初めに初霜のとまる菊の垣根、朗らかな柞原(ははそはら)、そのほかにはあまり名の知れていないような山の木の枝のよく茂ったものなどが、移されてきてあった。
 秋の彼岸(ひがん)のころ、源氏一家は六条院へ移って行った。みな、一度にと最初源氏は思ったのであるが、ぎょうさんらしくなることを思って、中宮のおはいりになることはすこしお延ばしさせた。おとなしい、自我を出さない花散里を同じ日に東の院から移転させた。春の住居は今の季節ではないようなものの、やはり全体としてもっともすぐれて見えるのがここであった。車の数が十五で、前駆には四位五位が多くて、六位の者は特別な縁故によって加えられたにすぎない。たいそうらしくなることは源氏が避けてしなかった。もう一人の夫人の前駆その他もあまり落さなかった。長男の侍従がその夫人の子になっているのであるから、もっともなことであると見えた。女房たちの部屋の配置、こまごまと分けて部屋数の多くできていることなどが新邸の建築のすぐれた点である。五六日して中宮が御所から退出しておいでになった。その儀式はさすがにまた派手なものであった。源氏を後援者にしておいでになる方という幸福のほかにも、ご人格のやさしさと高潔さが衆望を得ておいでになることがすばらしいお后様であった。この四つに分れた住居は、塀(へい)を仕切りに用いたところ、廊(ろう)でつづけられたところなどもこもごもにまぜて、一つの大きい美観が形成されてあるのである。九月にはもう紅葉がむらむらに色づいて、中宮の前のお庭がひじょうに美しくなった。夕方に風の吹き出した日、中宮はいろいろの秋の花紅葉を箱の蓋(ふた)に入れて紫夫人へお贈りになるのであった。ややおおがらな童女が深紅(しんく)の衵(あこめ)を着、紫苑(しおん)色の厚織物の服を下に着て、赤朽葉(くちば)色の汗衫(かざみ)を上にした姿で、廊の縁側を通り渡殿(わたどの)の反橋(そりはし)を越えてもって来た。お后が童女をお使いになることは正式な場合にあそばさないことなのであるが、彼らの可憐な姿が他の使いにまさると宮は思召したのである。御所のお勤めに慣れている子どもは、ほかの童女と違った洗練された身のとりなしも見えた。お手紙は、
  心から春待つ園は我が宿の
    紅葉を風のつてにだに見よ
というのであった。若い女房たちはお使いをもてはやしていた。こちらからはその箱の蓋へ、下に苔(こけ)を敷いて、岩をすえたのをお返しにした。五葉の枝につけたのは、
  風に散る紅葉は軽し春の色を
    岩根の松にかけてこそ見め
という夫人の歌であった。よく見ればこの岩は作り物であった。すぐにこうした趣向のできる夫人の才に源氏は敬服していた。女房たちもみなおもしろがっているのである。
「紅葉の贈物は秋のご自慢なのだから、春の花盛りにこれに対することはいっておあげなさい。このごろ紅葉を悪口することは立田姫(たつたひめ)に遠慮すべきだ。別なときに桜の花を背景にしてものをいえば強いこともいわれるでしょう」
 こんなふうにいつまでも若い心の衰えない源氏夫婦が同じ六条院の人として中宮と風流な戯れをし合っているのである。大井の夫人は他の夫人のわたましがすっかりすんだあとで、価値のない自分などはそっと引き移ってしまいたいと思っていて、十月に六条院へ来たのであった。住居のなかの設備も、移って来る日の儀装のことも源氏は他の夫人に劣らせなかった。それは姫君の将来のことを考えているからで迎えてからも重々しくとり扱った。



●表記について

本文中の※は、底本では次のような漢字(JIS外字)が使われている。

落葉俟二微※一以隕(らくようびふうをまつてもつておつ)