源氏物語

與謝野晶子訳



梅(うめ)が枝(え)



天地(あめつち)に春新らしく来たりけり光源氏のみむすめのため   晶子

 源氏が十一歳の姫君の裳着(もぎ)の式をあげるために設けていたことは並々の仕度(したく)でなかった。東宮(とうぐう)も同じ二月にご元服があることになっていたが、姫君の東宮へはいることもまたつづいておこなわれてゆくことらしい。一月の末のことで、公私とも暇な季節に、源氏は薫香(たきもの)の調合を思いたった。大弐(だいに)から贈られてあった原料の香木類を出させてみたが、これよりも以前に渡ってきた物の方があるいはよいかもしれぬという疑問が生じて、二条の院の倉をあけさせて、支那(しな)からきた物をみな六条院へもって来させたのであったが、源氏はそれらと新しい物とを比較してみた。
「織物などもやはり古い物の方に芸術的なものが多い」
といって、式場用の物の覆(おおい)、敷物、褥(しとね)などの端(はし)をつけさせるものなどに、故院の御代(みよ)の初めに朝鮮人が献(ささ)げた綾(あや)とか、緋金錦(ひごんき)とかいう織物で、近代のものよりもすぐれた味わいをもった切地のそれぞれの使い場所を決めたりした。今度、大弐の方からきた綾や薄物(うすもの)は他へ分けて贈った。香の原料に昔のと今のとを両方とりまぜて、六条院内の夫人たちと、源氏の尊敬する女友だちに送って、二種類ずつの薫香を作られたいと告げた。裳着の式日の贈物、高官たちへの纏頭(てんとう)の衣服類の製作を手分けして、各夫人のところでしているかたわらで、またそれぞれ選び出した香の原料の鉄臼(かなうす)でひかれる音も立って忙しい気のされるころであった。源氏は南の町の寝殿へ、夫人のところから離れて籠(こも)りながら、どうして習得したのか承和の帝(みかど)の秘法といわれる二つの合せ方で熱心に薫香を作っていた。夫人は東の対の中の離れへ人を避ける設備をして、そこで八条の式部卿(しきぶきょう)の宮の秘伝の法で香を作っていた。こうして夫婦の中にも秘密はうかがわれまいと苦心する香の優劣を勝負にしようといっていた。姫君の親である人たちらしくない競争である。どの夫人のところにもこの調合の室に侍している女房は選ばれた少数の者であった。式用の小道具を精巧をきわめて製作させた中でも、特に香合の箱の形、壺(つぼ)、火入れの作り方に源氏は意匠を凝(こ)らさせていたが、その壺へ諸所でできた中のすぐれた薫香を、試みたうえで入れようと思っているのであった。
 二月の十日であった。雨がすこし降って、前の庭の紅梅(こうばい)が色も香もすぐれた名木ぶりを発揮しているときに、兵部卿(ひょうぶきょう)の宮が訪問しておいでになった。裳着の式が今日明日のことになっているために、心遣(づか)いをしている源氏に見舞をお述べになった。昔からことに仲のよいご兄弟であったから、いろいろなご相談をしながら花を愛していたときに、前斎院(ぜんさいいん)からといって、半分ほど花の散った梅の枝につけた手紙がこの席へもってこられた。宮は、源氏と前斎院とのあいだに以前あった噂(うわさ)も知っておいでになったので、
「どんなおたよりがあちらからきたのでしょう」
とおいいになって、好奇心を起しておいでになるふうに見えるのを、源氏はただ、
「失礼なお願いを私がしましたのを、すぐにその香を作ってくだすったのです」
 こういって、お手紙は隠してしまった。沈(じん)の木の箱に瑠璃(るり)の脚(あし)つきの鉢(はち)を二つ置いて、薫香はやや大きく粒にまるめて入れてあった。贈物としての飾りは紺瑠璃の方には五葉(ごよう)の枝、白い瑠璃の方には梅の花を添えて、結んである糸もみな優美であった。
艶(えん)にできていますね」
と宮はいって、ながめておいでになったが、
  花の香は散りにし袖(そで)にとまらねど
    うつらん袖に浅くしまめや
という歌が小さく書かれてあるのにお目がついて、わざとらしくお読みあげになった。宰相(さいしょう)の中将が来た使いを探させて饗応(きょうおう)した。紅梅襲(こうばいがさね)の支那の切地でできた細長(ほそなが)を添えた女の装束(しょうぞく)が纏頭に授(さず)けられた。返事も紅梅の色の紙に書いて、前の庭の紅梅を切って枝につけた。
「なんだか内容の知りたくなるお手紙ですが、なぜそんなに秘密になさるのだろう」
といって、宮は見たがっておいでになる。
「何があるものですか、そんなふうによけいな想像をなさるから困るのです」
といって、斎院へ今書いた歌をまた紙にしたためて宮へお見せした。
  花の枝にいとど心をしむるかな
    人のとがむる香をばつつめど
というのであるらしい。
「すこしもの好きなようですが、一人娘の成年式だからやむをえないと自分では定めまして、こうした騒ぎをしているのですが、ほめたことではありませんから、ほかの方をたのむことはやめまして、中宮を御所から退出していただいて腰結(こしゆい)をお願いしようと思っています。一家の方になっていらっしゃっても、晴れがましい気のする人格をもっておられますから、並々の儀式にしておいてはもったいない気がするのです」
などと源氏はいっていた。
「そうですね。あやかる人は選ばねばなりませんね。それにはこのうえもない方ですよ」
と宮は、源氏の計(はか)らいの当を得ていることをおいいになった。前斎院から香の届けられたことと、宮のおいでになったのを機会にして、夫人らの調整した薫香もとり寄せる使いが出された。
湿(しめ)り気のある今日の空気が、香の試験に適していると思いますから」
といいやられたのである。夫人たちからは、いろいろに作られた香が、いろいろに飾られてきた。
「これを審判してください。あなたのほかにたのむ人はない」
 こう源氏はいって、火入れなどをとり寄せて香をたき試みた。
「知る人(君ならでたれにか見せん梅の花色をも香をも知る人ぞ知る)でもないのですがね」
と宮は謙遜(けんそん)しておいでになったが、においの繊細(せんさい)な良さ悪さをかぎ分けて、微瑕(びか)もゆるさないふうに詮索(せんさく)され、等級をおつけになろうとするのであった。源氏の二種の香はこのときになってはじめてとり寄せられた。右近衛府(うこんえふ)の溝川(みぞかわ)のほとりに埋めるということにかえて、西の渡殿(わたどの)の下から流れ出る園の川の汀(みぎわ)に埋めてあったのを、惟光(これみつ)宰相の子の兵衛尉(ひょうえのじょう)が掘ってもって来たのである。それを宰相中将が受けとって座へ運んで来た。
「苦しい審判者になったものですよ。第一けむい」
と宮は苦しそうにいっておいでになった。同じ法が広く伝えられていても、個人個人の趣味がそれに加わってできあがった薫香のよさ悪さを比較してかぐことは、興味の多いものであった。どれが第一のものとも決められない中にも、斎院のお作りになった黒方(くろぼう)香は心憎い静かな趣がすぐれていた。侍従香(じじゅうこう)では源氏の製作がすぐれて艶(えん)で優美であると、宮はおいいになった。紫の女王(にょおう)の三種あった中で、梅花香ははなやかで若々しく、そのうえ珍しくさえた気の添っているものであった。
「このころそよ風にたきまぜるものとしてはこれに越したにおいはないでしょう」
と宮はおほめになる。花散里(はなちるさと)夫人はみなの競争している中へはいることなどはむりであると、こんなことにまで遺憾(いかん)なく内気さを見せて、荷葉香(かようこう)を一種だけ作って来た。変った気分のするなつかしいにおいが、それからはかがれた。冬の夫人である明石(あかし)の君は、四季を代表する香は決まったものになっているのであるから、冬だけを卑下(ひげ)させておくのもよろしくないと思って、薫衣香(くんえこう)の製法の中にも、すぐれたものとされている以前の朱雀院(すざくいん)の法を原則にして公忠朝臣(きんただあそん)が精製したといわれる百歩(はくぶ)の処方などを参考として作ったものは、製作にはらわれた苦心の効果のじゅうぶんにあらわれた、優美な香を豊(ゆた)かにもたせるものであると、どれにも同情のある批評を宮があそばされるのを、
「八方美人の審判者だ」
といって源氏は笑っていた。月が出てきたので酒が座に運ばれて、宮と源氏は昔の話を始めておいいになった。うるんだ月の光の艶な夜に、雨のあとの風がすこし吹いて、花の香があたりを囲(かこ)んでいた。だれもみな艶な気もちに酔っていた。侍所(さむらいどころ)の方では明日(あした)ある音楽の合奏のために、下ならしに楽器を出して、たくさん集っていた殿上(てんじょう)役人などが鳴らしてみたり、おもしろい笛の音(ね)を立てたりしていた。内大臣の子の頭(とうの)中将や弁(べん)少将なども伺候(しこう)のあいさつだけをしに来て帰ろうとしたのを、源氏はとめて、そして楽器を侍にこちらへ運ばせた。頭中将は和琴(わごん)の役を命ぜられて、はなやかにかき立てて合奏はおもしろいものになった。源宰相(げんさいしょう)中将は横笛を受持った。春の調子が空までも通るほどに吹き立てた。弁少将が拍子(ひょうし)をとって、美しい声で梅が枝(え)を歌いだした。この人は子どものとき韻塞(いんふたぎ)に父と来て高砂(たかさご)を歌った公子である。宮も源氏もときどき歌を助けて、たいそうな音楽会ではないが、おもしろい音楽の夜ではあった。酒杯がさされたときに、宮は、
 「うぐひすの声にやいとどあくがれん
    心しめつる花の辺(あた)りに
 千年もいたくなってます」
と源氏へおいいになった。
  色も香もうつるばかりにこの春は
    花咲く宿をかれずもあらなん
と源氏は歌ってから、杯を頭中将へさした。中将は杯を受けたあとで宰相中将へ杯をまわした。
  うぐひすのねぐらの枝も靡(なび)くまで
    なほ吹き通せ夜半(よわ)の笛竹
と頭中将は歌ったのである。
 「心ありて風のよぐめる花の木に
    とりあへぬまで吹きやよるべき
 すこしひどいでしょうね」
と宰相中将がいうとみな笑った。弁少将が、
  かすみだに月と花とを隔(へだ)てずば
    ねぐらの鳥もほころびなまし
といった。長居のしたくなるところであるとおいいになったとおりに、宮は明け方になってお帰りになるのであった。源氏は贈物に、自身のために作られてあった直衣一領(のうしいちりょう)と、手の触れない薫香二壺を宮のお車へ載(の)せさせた。
  花の香をえならぬ袖に移しても
    ことあやまりと妹(いも)や咎(とが)めん
 宮がこうお歌いになったと聞いて、
「なんといいわけをしようとご心配なのだね」
と源氏は笑った。お車はもう走り出そうとしていたのであったが、使いを追いつかせて、
 「めづらしとふるさと人も待ちぞ見ん
    花の錦(にしき)を着て帰る君
 このうえないことだとご満足なさるでしょう」
と源氏がお伝えさせると、宮は苦笑をあそばされた。頭中将や弁少将などにも目立つほどの纏頭でなく、細長(ほそなが)とか小袿(こうちぎ)とかを源氏は贈ったのであった。
 裳着の式をおこなう西の町へ、源氏夫婦と姫君は午後八時に行った。中宮のおいでになる御殿の西の離れに式の設けがされてあって、姫君のお髪上げ役の(正装の場合には前髪をすこしくくるのである)内侍(ないし)などもこちらへ来たのである。紫夫人もこのついでに中宮へお目にかかった。中宮づき、姫君づき、夫人づきの盛装した女房のすわっているのが数もしれぬほどに見えた。裳をつける式は十二時に始まったのである。ほのかな灯の光でごらんになったのであるが、姫君を美しく中宮は思召した。
「お愛しくださいますことをたのみにいたしまして、失礼な姿も御前(ごぜん)へ出させましたのです。尊貴なあなた様がかようなお世話をくださいますことなどは、例もないことであろうと感激に堪えません」
と源氏は申しあげていた。
「経験のすくない私が何もわからずにいたしておりますことに、そんなご挨拶(あいさつ)をしてくださいましてはかえって困ります」
とご謙遜して仰せられる中宮のごようすは若々しくて愛嬌(あいきょう)に富んでおいでになるのを見て、この美しい人たちはみな、自身の一家族であるという幸福を源氏は感じた。明石が陰にいてこの晴れの式も見ることのできないことを悲しむふうであったのを哀れに思って、こちらへ呼ぼうかとも源氏は思ったのであるが、やはり外聞(がいぶん)をはばかって実行はしなかった。こうした式についての記事は、名文で書かれていてもうるさいものであるのを、自分などがだらしなく書いていっては、かえってきれいなりっぱなことをこわしてしまう結果になるのを恐れて、こまかには記さない。
 東宮のご元服は二十幾日にあった。もうりっぱなおとなのようでいらせられたから、だれも令嬢たちを後宮(こうきゅう)へ入れたい志望をもったが、源氏がある自信をもって、姫君を東宮へ奉ろうとしているのを知っては、強大な競争者のあるこの宮仕えはかえって娘を不幸にすることではなかろうかと、左大臣、左大将などもまた躊躇(ちゅうちょ)していることを源氏は聞いて、
「それではお上(かみ)へすまないことになる。宮仕えは多数の中で、ただすこしのご寵愛(ちょうあい)の差を競うのに意義があるのだ。貴族方のりっぱな姫君がお出にならないでは、こちらも張合いのないことになる」
といって、姫君の宮仕えの時期を延ばした。たとえ娘を出すにしても、あとのことにしようとしていた人たちはそれを聞いて、最初に左大臣が三女を東宮へ入れた。麗景殿(れいけいでん)と呼ばれることになった。
 源氏の方は昔の宿直所(とのいどころ)の桐壺(きりつぼ)の室内装飾などを直させることなどで時日が延びているのを、東宮は待ちどおしく思召すようすであったから、四月に参ることに定めた。姫君の手道具類なども、もとからあるのにまた新しく作り添えて、源氏自身が型を考えたり、図案をこしらえたりしては専門家の名人を集めて、美術的な製作を命じていた。草紙(そうし)の箱というようなものに入れる草紙で、いずれは製本もさせて書物になるようなものを源氏は選んでいた。故人で、書道の大家といわれている人たちの書いたものが源氏のところにはたくさんあった。
「すべてのことは昔より悪くなっていく末世ではあっても、仮名(かな)の字だけは、どこまでおもしろくなっていくかと思われるほど、ちかごろの方がよくなった。昔の仮名は正確ではあるが、融通(ゆうずう)がきかないで、変化の妙がなく単調だ。巧妙な仮名を書く人は近代になってふえたが、私も仮名を習うのに熱心だったころ、無難な仮名字を手本にいろいろ集めたものだが、中宮の母君の御息所(みやすどころ)がなんともなしに書かれた一行か二行の字が手にはいって、最上の仮名字はこれだと心酔してしまったものです。それがもとになって浮名(うきな)を立てることになり、私との関係をにがい経験だったように思って、くやしがったままで亡(な)くなられたが、必ずしもそうではなかったのだ。今は中宮をおたすけしていることで、聡明(そうめい)な人だったから、あの世ででも私の誠意を認めておいでになることだろう。中宮のお字はきれいなようだけれど才気がすくない」
と源氏は夫人にささやいていた。
「入道の中宮様は、最上の貴婦人らしい品のある字をお書きになったが、弱いところがあって、はなやかな気分はない。院の尚侍(ないしのかみ)は現代のもっともすぐれた書き手だが、奔放(ほんぽう)すぎて癖(くせ)が出てくる。しかし、ともかくも院の尚侍と前斎院と、あなたをこの草紙の書き手に擬(ぎ)していますよ」
 源氏から認められたことで、夫人は、
「そんな方たちといっしょになっては、はずかしくてなりませんよ」
といっていた。
謙遜(けんそん)をしすぎますよ。柔らかな調子のとてもいいところがある。漢字はじょうずに書けますが、仮名にはときどき力の抜けた字のまじる欠点はありますね」
などとも源氏はいっていて、書かない無地の草紙もまた何帳か新しくとじさせた。表紙や紐(ひも)などをこまかく精選したことはいうまでもない。
「兵部卿の宮とか左衛門督(さえもんのかみ)とかにもおたのみしよう。私も一冊は書く。気どっておられても、私といっしょに書くことは晴れがましいだろう」
と源氏は自賛していた。墨も筆も選んだのを添えて、いつもそうした交渉のあるところどころへ執筆を源氏はたのんだのであったが、これもこの委嘱(いしょく)に応じるのを困難なことに思って、その中には辞退してくる人もあった、そんなときに源氏は再三懇切(こんせつ)な言葉で執筆を望んだ。朝鮮紙の薄様(うすよう)ふうなひじょうに艶な感じのする紙のとじられた帳を源氏は見て、
「風流好きな青年たちにこれを書かせてみよう」
といった。宰相中将、式部卿の宮の兵衛督、内大臣家の頭中将などに、芦手(あしで)とか、歌絵とか、なんでも思い思いに書くようにと源氏はいったのであった。若い人たちは競って製作にかかった。
 いつもこんなときにするように、源氏は寝殿の方へ行っていて書いた。花の盛りが過ぎて淡(うす)い緑色がかった空のうららかな日に、源氏は古い詩歌を静かに選びながら、みずから満足のできるだけの字を書こうと、漢字のも仮名のも熱心に書いていた。その部屋には女房も多くは置かずにただ二三人、墨(すみ)をすらせたり、古い歌集の歌を命ぜられたとおりに探し出したりするのに、役に立つような者を呼んであった。部屋の御簾(すみ)はみなあげて、脇息(きょうそく)の上に帳を置いて、縁に近いところでゆるやかな姿で、筆の柄(え)を口にくわえて思案する源氏はどこまでも美しかった。白とか赤とかきわ立った片(ひら)は、筆をとり直して特に注意して書いたりする態度なども、心のある者は敬意をはらわずにいられないことであった。兵部卿の宮がおいでになったということを聞いて源氏は驚いて上に直衣(のうし)を着たり、座敷へさらに褥(しとね)をとり寄せたりしてお迎えした。この宮もきれいなお姿で、階段を艶にのぼっておいでになるのを、女房たちは御簾からのぞいていた。互いに正しい礼儀でご挨拶が交わされた。
「引籠っていますのが苦しいほど退屈なおりからでしたよ。よくおいでくださいました」
と源氏はいっていた。おたのまれになった書きものを宮はもっておいでになったのである。すぐこの席で源氏は拝見した。ひじょうに巧妙な字というのではないが、一部分に澄みきった芸術味の見えるものだった。歌も常識的なものは避けて、変ったものが選ばれてあって、ただ三行ほどに字数をすくなく感じよく書かれてあった。源氏は予想に越えたおできばえに驚いた。
「これほどにもとは思いませんでした。自分の書くことなどはいやになるほどです」
ともいっていた。
「大家たちの中へまざって書く自信だけはえらいものだと思っていますよ」
と宮は冗談をいっておいでになる。すでにできた源氏の帳などもお隠しすべきでないから出して宮のごらんにいれた。支那(しな)の紙のじみな色をしたのへ、漢字を草書で書かれたのがすぐれて美しいと宮は見ておいでになったが、またそのあとで、朝鮮紙の地のきめのこまかい柔らかな感じのする、色などは派手(はで)でない艶なのへ、仮名文字が、しかも正しく熱の見える字で書かれてある絶妙なものをお見つけになった。それは見る人の感動した涙も添って流れる気のする墨跡で、いつまでもお目をお放しになることができないのであったが、また日本製の紙屋紙(かんやがみ)の色紙の、はなやかな色をしたのへ、奔放に散らし書をしたものには無限のおもしろさがあるようにもお思われになって、乱れ書にした端々にまで人を酔わせるような愛嬌がこもっているこの片(ひら)以外の物は、もう見ようともされないのであった。
 左衛門督の字は本格的に書いてあるのであったが、俗気が抜けきらずに、技巧が技巧として目についた。歌などもわざとらしいものが選ばれてある。女の手になった方の帳はすこしよりお見せしなかった。ことに斎院のなどはまったく隠してお出ししない源氏であった。青年たちによって芦手(あしで)の書かれた幾冊かの帳はとりどりにおもしろかった。源中将のは水を豊かに描いて、そそけた芦のはえた景色に浪速(なにわ)の浦が思われるのへ、そちらへあちらへ美しい歌の字が配られているような、澄んだ調子のものがあるかと思うと、またぜんぜん変った奇岩の立った風景に相応した雄健な仮名の書かれてある片もあるというような芦手であった。
「驚いたものですね。これは見るのに時間を要するものですね」
と宮はおもしろがっておいでになった。芸術家ふうの風流気に富んだ方であったから、お気に入ったものはどこまでもおほめになるのである。この日はまた書の話ばかりをしておいでになって、色紙の継いだ巻物が幾本となく席上へあらわれるのであったが、宮は子息の侍従を邸(やしき)へおやりになって、ご蔵品もおとり寄せになった。嵯峨帝(さがのみかど)が古万葉集(まんにょうしゅう)から選んでおおきになった四巻、延喜(えんぎ)の帝が古今集(こきんしゅう)を支那の薄藍色(うすあいいろ)の色紙を継いだ、同じ色の濃(こ)く模様の出た唐紙の表紙、同じ色の宝石の軸の巻物へ、巻ごとに書風を変えてお書きになったものなどがそれであった。台を短くした灯を置いて二人で見ておいでになったが、
「よくこんなに、いろいろなふうにお書きになれたものですね。ちかごろの人は、ほんのこの一部分の仕事をするのに骨を折っているという形ですね」
などと源氏はおほめしていた。この二種のものは宮から源氏へご寄贈になった。
「女の子をもっていたとしましても、たいしてこうしたものの価値のわからないような子には、残してやりたくない気のするものですからね。それに私には娘もありませんから、お手もとへおいていただいた方がよい」
などと宮はおいいになったのである。源氏は、侍従へ唐本のりっぱなのを沈(じん)の木の箱に入れたものへ高麗(こま)笛を添えて贈った。
 ちかごろの源氏は、書道といってもことに仮名の字を鑑賞することに熱中して、よい字を書くといわれる人は上中下の階級にわたって、それぞれのものを選んで書をたのんでいた。源氏の書いた帳のはいる箱には、高い階級に属した人たちの手になった書だけを、帳も巻物も珍しい装幀(そうてい)を加えて納めることにしていた。他の国の宮廷にもないと思われる華奢(かしゃ)をつくした姫君の他の調度品よりも、この墨跡の箱を若い人たちはうかがいたく思った。源氏は絵なども整理して姫君に与えるのであったが、須磨(すま)で日記のようにして書いた絵巻は姫君へ伝えたいとは思っていたが、もうすこし複雑な人生がわかるまではそれをしない方がよいという見解をもって、その中へは加えなかった。
 内大臣は宮廷へはいるおおがかりな仕度を、自家のことでなく源氏の姫君のこととして噂(うわさ)に聞くのを、ひじょうにものたらず寂(さび)しく思っていた。妙齢に達した雲井(くもい)の雁(かり)の姫君は美しくなっていた。結婚もせず結婚談もなくて引籠っているこの娘が、内大臣には苦労の種であった。宰相中将はすこしも焦躁(しょうそう)するふうを見せずに、冷静な態度をとりつづけているのであったから、こちらから、結婚談をしかけることも世間体の悪いことと思われて、熱心にかれが娘を思っていたときにゆるせばよかったなどと人知れず後悔もしていて、宰相中将の態度ばかりが悪いとも内大臣は思えないのであった。こんなふうにすこし気の折れてきたことも宰相中将は聞いているのであったが、まだしばらく恨めしい記憶のなくなるまではおちついていないではならないと思って、内大臣に求めることをしなかった。しかも他に恋の対象を作ろうとするような気もしなかった。自身ながらもこうしたきゅうくつな考え方に反感をもつこともあったが、宰相中将は、六位であったことをそしった雲井の雁の乳母(めのと)たちに対して、納言(なごん)の地位にあがることが先決問題だと信じていた。源氏はどっちつかずに宙に浮いたふうで中将が結婚もしないでいることを見かねて、
「あちらとの話をあきらめているのなら、左大臣とか、中務(なかつかさ)の宮とかからのお話がきているのだから、だれと結婚をするか決めてしまうがよい」
ともいうのであったが、宰相中将はだまって恐縮したふうを見せているだけであった。
「こんな問題ではお上(かみ)のご忠告にも昔の私はお服しすることができなかったのだから、口を出したくはないのだが、今になって考えると、そのときのご教訓は永久の真理だったとよくわかる。長く独身でいれば、実現されない幻(まぼろし)を描いているかのように人も見るだろうし、それが宿命であるかは知らないが、ついにはなんの価値もない女といっしょになってしまうような結果を生むことになっては、初めよし、後(のち)わろしになっていってしまう。思いあがっていても若いあいだは外から誘惑があるからね、多情な行為に堕(お)ちやすいものだが堕落(だらく)をしないように心がけねばならない。宮中に育って、自由らしいことは何一つできずに、ただ過失(あやまち)らしいことが一つあるだけでも世間はやかましく非難するだろうと戦々兢々(せんせんきょうきょう)としていた青年の私でも、やはり恋愛をあさる男のようにいわれて悪く思われたものなのだ。身分が低くて注目するものがないなどと思って、放縦(ほうしょう)なことをしてはいけないよ。驕慢(きょうまん)の心の盛んなときに、女の問題で賢(かしこ)い人が失敗するようなことは、歴史の上にもあることだからね。思ってならない人を思って、女の名も立て、自身も人の恨みを負うようなことをしては、一生の心の負担になる。不運な結婚をして、女の欠点ばかりが目について苦しいようなことがあっても、そうしたときに忍耐をして万人を愛する人道的な心を習得するようにつとめるとか、もしくは娘の親たちの好意を思うことで足りないことをおぎなうとか、また親のない人と結婚した場合にも、不足な境遇も妻が価値のある女であればそれでおぎなうに足ると認識すべきだよ。そうした同情をもつことは自身のためにも妻のためにも、将来大きな幸福を得る過程になるのだ」
 こんなこともいって、ひまのあるときにはよく宰相中将を教える源氏であった。この教訓の精神からいっても、かりにも初恋の人を忘れて他の女を思うようなことはできないように中将は思っていた。雲井の雁もちかごろになって、ことさら父が愁色を見せることを知ってはずかしく思い、自分は不幸な女であると深く思われるのであったが、表面はそしらぬふうを見せて、おおようにもの思いをしていた。宰相中将は思いあまる時々にだけ情熱のこもった手紙を雲井の雁へ書いた。たが誠をか(偽(いつわ)りと思ふものから今さらにたが誠をかわれは頼まん)と心に思っても、世ずれた人のようにむやみに人を疑うことのない純真な雲井の雁は、中将の手紙に身にしんで読まれるところが多いように思われた。
中務(なかつかさ)の宮が、お嬢さんと宰相中将との縁組を太政(だじょう)大臣へお申し込みになって大臣も賛成されたようです」
とこんな噂(うわさ)を内大臣に伝えた者のあったときに、内大臣の心は憂(うれ)いに塞(ふさ)がれた。大臣はそうした噂の耳にはいったことを雲井の雁にそっと告げた。
「あの人がほかの結婚をしてもよいという気になるとはひどい。太政大臣も口をお入れになったことがあるのに、それでも私が強硬だったものだから、今になって大臣はそんなふうにすすめられるのだろう。しかしその場合に、私が先方のいいなりに結婚をゆるしても体面上はずかしいことだったのだから」
などと、目に涙を浮べて父がいうのを、雲井の雁ははずかしく思って聞きながらも、一方では、なんとはなしに涙が流れ出してくるのをきまり悪く思って、顔をそむけているのが可憐(かれん)であった。どうすればいいだろう。やはりこちらから折れて出るべきであろうかなどと、煩悶(はんもん)をしながら大臣の去ったあとまでも、雲井の雁は庭をながめてもの思いをつづけていた。これはなんという愚(おろ)かな涙であろう、どう父は思ったであろうなどと心を悩ましているところへ、宰相中将の手紙が届いた。恨めしく今まで思っていた人ではあるが、さすがに手紙はすぐ開(あ)けて読んだ。情のこもった手紙であった。
  つれなさは浮世の常になり行くを
    忘れぬ人や人にことなる
とも書いてある。父がした話のことなどはすこしも書いてないことを、雲井の雁は恨めしく思ったが返事を書いた。
  限りとて忘れ難(がた)きを忘るるも
    こや世に靡(なび)く心なるらん
 この歌の意味が腑(ふ)に落ちないで、宰相中将はいつまでも首を傾けていたということである。