源氏物語

與謝野晶子訳



薄雲(うすぐも)



さくらちる春の夕のうすくもの涙となりておつるこゝちに
晶子

 冬になってきて川沿いの家にいる人は心細い思いをすることが多く、気のおちつくこともない日のつづくのを、源氏も見かねて、
「これではたまらないだろう、私のいっている近い家へ引き越す決心をなさい」
とすすめるのであったが、「宿変へて待つにも見えずなりぬればつらき所の多くもあるかな」という歌のように、恋人の冷淡に思われることも地理的に斟酌(しんしゃく)をしなければならないと、しいて解釈してみずから慰めることなどもできなくなって、男の心を顕(あら)わに見なければならないことは苦痛であろうと明石(あかし)は躊躇(ちゅうちょ)をしていた。
「あなたがいやなら姫君だけでもそうさせてはどう。こうしておくことは将来のためにどうかと思う。私はこの子の運命に予期していることがあるのだから、その暁を思うともったいない。西の対(たい)の人が姫君のことを知っていて、ひじょうに見たがっているのです。しばらく、あの人に預けて、袴着(はかまぎ)の式なども公然二条院でさせたいと私は思う」
 源氏は懇(ねんご)ろにこういうのであったが、源氏がそう計らおうとするのでないかとは、明石が以前から想像していたことであったから、この言葉を聞くと、はっと胸がとどろいた。
「よいお母様の子にしていただきましても、ほんとうのことは世間が知っていまして、なにかと噂(うわさ)が立ちましては、ただいまのご親切がかえって悪い結果にならないでしょうか」
 手放しがたいように女は思うふうである。
「あなたが賛成しないのはもっともだけれど、継(まま)母の点で不安がったりはしないでおおきなさい。あの人は私のところへ来てずいぶん長くなるのだが、こんなかわゆい者のできないのを寂(さび)しがってね、前斎宮(ぜんさいぐう)などはいくつも年が違っていない方だけれど、娘として世話をすることに楽しみを見いだしているようなわけだから、ましてこんな無邪気な人にはどれほど深い愛をもつかしれない、と私が思うことのできる人ですよ」
 源氏は紫の女王の善良さを語った。それは真実(ほんとう)であるに違いない、昔はどこへ源氏の愛はおちつくものか想像もできないという噂が田舎(いなか)にまで聞えたものであった源氏の多情な、恋愛生活が清算されて、みな過去のことになったのは今の夫人を源氏が得たためであるから、だれよりもすぐれた女性に違いないと、こんなことを明石は考えて、なんの価値もない自分はけっしてそうした夫人の競争者ではないが、京へ源氏に迎えられて自分が行けば、夫人に不快な存在と見られることがあるかもしれない。自分はどうなるもこうなるも同じことであるが、長い未来をもつ子はけっきょく夫人の世話になることであろうから、それならば無心でいる今のうちに夫人の手へ譲ってしまおうかという考えが起ってきた。しかしまた、気がかりでならないことであろうし、徒然(つれづれ)を慰めるものを失っては、自分はなんによって日を送ろう、姫君がいるためにたまさかにたずねてくれる源氏が、立ち寄ってくれることもなくなるのではないかとも煩悶(はんもん)されて、けっきょくは自身の薄幸を悲しむ明石であった。尼君は思慮のある女であったから、「あなたが姫君を手放すまいとするのはまちがっている。ここにおいでにならなくなることは、どんなに苦しいことかはしれないけれど、あなたは母として姫君のもっとも幸福になることを考えなければならない。姫君を愛しないでおっしゃることでこれはありませんよ。あちらの奥様を信頼してお渡しなさいよ。母親しだいで陛下のお子様だって階級ができるのだからね。源氏の大臣がだれよりもすぐれた天分をもっていらっしゃりながら、み位にお即(つ)きにならずに一臣下で仕えていらっしゃるのは、大納言さんがもう一段出世ができずにお亡(か)くれになって、お嬢さんが更衣(こうい)にしかなれなかった、その方からお生れになったことでご損をなすったのですよ。まして私たちの身分は問題にならないほどはずかしいものなのですからね。また親王様だって、大臣の家だって、良い奥様から生れたお子さんと、劣った生母をもつお子さんとは人の尊敬の仕方が違うし、親だって公平にはおできにならないものです。姫君の場合を考えれば、まだ幾人もいらっしゃるりっぱな奥様方のどっちかで姫君がお生れになれば、当然、肩身の狭い方のお嬢さんにおなりになりますよ。いったい女というものは、親からたいせつにしてもらうことで将来の運も招くことになるものよ。袴着の式だっても、どんなに精一杯のことをしても大井の山荘ですることでははなやかなものになるわけはない。そんなこともあちらへお委(まか)せして、どれほど尊重されていらっしゃるか、どれほどりっぱな式をしてくだすったかと聞くだけで、満足をすることになさいね」
と娘におしえた。賢い人に聞いてみても、占いをさせてみても、二条院へ渡す方に姫君の幸運があるとばかりいわれて、明石は子を放すまいと固執(こしゅう)する力が弱っていった。源氏もそうしたくは思いながらも、女の気もちを尊重してしいていうことはしなかった。手紙のついでに、袴着の仕度(したく)にかかりましたかと書いた返事に、
 何ごとも無力な母のそばにおりましては気の毒でございます。先日のお言葉のようにおいさきが哀れに思われます。しかし、そちらへこの子が出ましてはまたどんなにおはずかしいことばかりでしょう。
といってきたのを源氏は哀れに思った。源氏はいよいよ二条院ですることになった姫君の袴着の吉日を選ばせて、式の用意を命じていた。
 式は式でも紫夫人の手へ姫君を渡しきりにすることは、今でも堪えがたいことに明石は思いながらも、何ごとも姫君の幸福を先に考えねばならぬと悲痛な決心をしていた。乳母(めのと)と別れてしまわねばならぬことでもあったから、
「気が滅(め)入ってならないときとか、徒然(つれづれ)なときとかに、どんなにあなたの友情が私を助けてくだすったかしれないのに、これから先を思うと、お嬢さんのいなくなることといっしょにまたそれがどんなに寂(さび)しいことでしょう」
と乳母にいって明石は泣いた。
前生(ぜんしょう)の因縁(いんねん)だったのでございましょうね、ふいにお宅でごやっかいになることになりましてから、長いあいだどんなにご親切にしていただいたことでしょう。私の心にご好意は彫(え)りつけられておりますから、これきり疎遠(そえん)にいたしますようなことはけっしてないと思われますし、またごいっしょに暮させていただく日の参りますことも信じておりますが、しばらくでも別々になりまして、知らない方たちの中へはいって参りますことは苦しゅうございます」
と乳母もいうのであった。こんなことを毎日いっているうちに十二月にもなった。雪の降る日が多くて、心細い気のする明石は、いろいろな形でせねばならない苦労の多い自分であると悲しんで、平生よりもしみじみ姫君を愛撫(あいぶ)していた。大雪になった朝、過去未来が思いつづけられて、平生は縁に近く出るようなこともあまりないのであるが、端(はし)の方に来て明石は汀(みぎわ)の氷などにながめいった。柔らかな白を幾枚か重ねたからだつき、頭つき、うしろ姿は最高の貴女というものもこうした気高さのあるものであろうと見えた。こぼれてくる涙をはらいながら、
「こんな日にはまた特別にあなたが恋しいでしょう」
と可憐にいって、また乳母にいった。
  雪深き深山(みやま)のみちは晴れずとも
    なほふみ通へ跡(あと)たえずして
 乳母も泣きながら、
  雲間なき吉野の山をたづねても
    心の通ふ跡絶えめやは
と慰めるのであった。この雪がすこし解けたころに源氏が来た。平生は待たれる人であったが、今度は姫君をつれて行かれるかと思うことで、源氏の訪れに胸騒(むなさわ)ぎのする明石であった。自分の意志で決ることである、謝絶すればしいてとはおいいにならないはずである、自分がしっかりとしておればよいのであると、こんな気も明石はしたが、約束を変更することなどは軽率(けいそつ)に思われることであると反省した。美しい顔をして前にすわっている子を見て源氏は、この子があいだに生れた明石と自分の因縁は、並々のものではないと思った。今年から伸した髪がもう肩先にかかるほどになっていて、ゆらゆらとみごとであった。顔つき、目つきのはなやかな美しさも類(たぐい)のない幼女である。これを手放すことで、どんなに苦悶していることかと思うと哀れで、一夜がかりで源氏は慰め明かした。
「いいえ、それでいいと思っております。私の生みましたという傷も隠されてしまいますほどにしてやっていただかれれば」
といいながらも、忍びきれずに泣く明石が哀れであった。姫君は無邪気に父君といっしょに車へ早く乗りたがった。車の寄せられてあるところへ明石は自身で姫君を抱いて出た、片言の美しい声で、袖(そで)をとらえて母に乗ることをすすめるのが悲しかった。
  末遠き二葉(ふたば)の松に引き分れ
    いつか木高きかげを見るべき
とよくもいわれないままでひじょうに明石は泣いた。こんなことも想像していたことである。心苦しいことをすることになったと源氏は嘆息した。
 「生(お)ひ初(そ)めし根も深ければ武隈(たけくま)の
    松に小松の千代を並べん
 気を長くお待ちなさい」
と慰めるほかはないのである。道理はよくわかっていて抑制しようとしても明石の悲しさはどうしようもないのである。乳母と少将という若い女房だけがしたがって行くのである。守刀、天児(あまがつ)などをもって少将は車に乗った。女房車に若い女房や童女などをおおぜい乗せて見送りに出した。源氏は道々も明石の心を思って罪をつくることに知らず知らず自分はなったかとも思った。
 暗くなってからついた二条院のはなやかな空気はどこにもあふれるばかりに見えて、田舎に慣れてきた自分らがこの中で暮すことはきまりの悪いはずかしいことであると、二人の女は車からおりるのに躊躇さえした。西向きの座敷が姫君の居間として設けられてあって、小さい室内の装飾品、手道具がそろえられてあった。乳母の部屋は西の渡殿(わたどの)の北側の一室にできていた。姫君は途中で眠ってしまったのである。抱きおろされて目がさめたときにも泣きなどはしなかった。夫人の居間で菓子を食べなどしていたが、そのうちあたりを見まわして母のいないことに気がつくと、かわゆいふうに不安な表情を見せた。源氏は乳母を呼んでなだめさせた。残された母親はましてどんなに悲しがっていることであろうと、想像されることは、源氏に心苦しいことであったが、こうして最愛の妻と二人でこのかわゆい子をこれから育てていくことはひじょうな幸福なことであるとも思った。どうしてあの人に生れて、この人に生れてこなかったか、自分の娘として完全に瑕(きず)のないところへはなぜできてこなかったのかと、さすがに残念にも源氏は思うのであった。当座は母や祖母や、大井の家で見慣れた人たちの名を呼んで泣くこともあったが、だいたい、やさしい、美しい気質の子であったから、よく夫人に親しんでしまった。女王は可憐なものを得たと満足しているのである。専心にこの子の世話をして、抱いたり、ながめたりすることが夫人のまたとない喜びになって、乳母も自然に夫人に接近するようになった。ほかにもう一人、身分ある女の乳の出る人が乳母に添えられた。
 袴着はたいそうな用意がされたのでもなかったが、世間並みなものではなかった。その席上の飾りが雛(ひな)遊びのもののようで美しかった。列席した高官たちなどはこんな日にだけ来るのでもなく、毎日のように出入りするのであったから目立たなかった。ただその式で姫君が袴の紐(ひも)を互いちがいに襷形(たすきがた)に胸へかけて結んだ姿が、いっそうかわゆく見えたことをいっておかねばならない。
 大井の山荘では毎日子を恋しがって明石が泣いていた。自身の愛が足らず、考えが足りなかったようにも後悔していた。尼君も泣いてばかりいたが、姫君のだいじがられている消息の伝わってくることはこの人にもうれしかった。じゅうぶんにされていて袴着の贈物など、ここからもたせてやる必要は何もなさそうに思われたので、姫君づきの女房たちに、乳母をはじめ新しい一重(ひとかさね)ずつの華美な衣裳を寄贈(おく)るだけのことにした。子さえとればあとは無用視するように女が思わないかと気がかりに思って、年内にまた源氏は大井へ行った。寂しい山荘住居(ずまい)をして、唯一(ゆいいつ)の慰めであった子どもに離れた女に同情して源氏は絶え間(ま)なく手紙を送っていた。夫人ももうこのごろではかわゆい人に免じて恨むことがすくなくなった。
 正月がきた。うららかな空の下に二条院の源氏夫婦の幸福な春があった。出入りする顕官たちは七日に新年の拝礼をおこなった。若い殿上(てんじょう)役人たちもはなやかに思いあがった顔のそろっている御代(みよ)である。それ以下の人々も心の中には苦労もあるであろうが、表面はそれぞれの職業に楽しんでついているふうに見えた。
 東の院の対の夫人も品位の添った暮しをしていた。女房や童女の服装などにも洗練されたよい趣味を見せていた。明石の君の山荘にくらべて近いことは花散里(はなちるさと)の強みになって、源氏はひまなときを見計らってよくここへ来ていた。夜をこちらで泊っていくようなことはない。性格がきわめて善良で、無邪気で、自分にはこれだけの運よりないのであるとあきらめることを知っていた。源氏にとってはこの人ほど気安く思われる夫人はなかった。なにかの場合にも紫夫人とたいした差別のない扱い方を源氏はするのであったから、軽蔑(けいべつ)する者もなく、その方へも敬意を表しに行く人が絶えない。別当も家職も忠実に事務をとっていて整然とした一家をなしていた。
 山荘の人のことを絶えず思いやっている源氏は、公私の正月の用がかたづいたころのある日、大井へ出かけようとして、ときめく心に装いをこらしていた。桜の色の直衣(のうし)の下に美しい服を幾枚か重ねて、ひととおり薫物(たきもの)が焚(た)きしめられたあとで、夫人へ出がけの言葉を源氏はかけに来た。明るい夕日の光に今日はいっそう美しく見えた。夫人は恨めしい心をいだきながら見送っているのであった。無邪気な姫君が源氏の裾にまつわってついて来る。御簾(みす)の外へも出そうになったので、立ちどまって源氏は哀れにわが子をながめていたが、なだめながら「明日帰りこん」(桜人その船とどめ島つ田を十町作れる見て帰りこんや、そよや明日帰りこんや)と口ずさんで縁側へ出て行くのを、女王は中から渡殿の口へ先まわりをさせて、中将という女房にいわせた。
  船とむる遠方人(おちかたびと)のなくばこそ
    明日帰りこん夫(せな)とまち見め
 もの慣れた調子で歌いかけたのである。源氏ははなやかな笑顔をしながら、
  行きて見て明日もさねこんなかなかに
    遠方人は心おくとも
という。父母がなにをいっているとも知らぬ姫君が、うれしそうに走りまわるのを見て夫人の「遠方人(おちかたびと)」を失敬だと思う心も緩和(かんわ)されていった。どんなにこの子のことばかりを考えているであろう、自分であれば恋しくてならないであろう、こんなかわゆい子どもなのだからと思って、女王はじっと姫君の顔をながめていたが、懐(ふところ)へ抱きとって、美しい乳を飲ませるといって口へくくめなどして戯(たわむ)れているのは、ほかから見てもひじょうに美しい場面であった。女房たちは、
「なぜほんとうのお子様にお生れにならなかったのでしょう。同じことならそれであればなおよかったでしょうにね」
などとささやいていた。
 大井の山荘は風流に住みなされていた。建物も普通の形式離れのした雅味のある家なのである。明石は源氏が見るたびに美が完成されていくと思う容姿をもっていて、この人は貴女に何ほども劣るところがない。身分から常識的に想像すれば、ありうべくもないことと思うであろうが、それも世間と相容(い)れない偏狭な親の性格などが災いしているだけで、家柄などはけっして悪くはないのであるから、かくあるのが自然であるとも源氏は思っていた。会っているときが短くて、すぐに帰邸を思わねばならぬことを苦しがって、「夢のわたりの浮橋か」(うち渡しつつ物をこそ思へ)と源氏は嘆かれて、十三絃の出ていたのを引き寄せ、明石の秋の深夜に聞いたじょうずな琵琶(びわ)の音も思い出されるので、自身はそれを弾(ひ)きながら、女にもぜひ弾けとすすめた。明石はすこし合せて弾いた。なぜこうまでりっぱなことばかりのできる女であろうと源氏は思った。源氏は姫君のようすをくわしく語っていた。大井の山荘も、源氏にとっては愛人の家にすぎないのであるが、こんなふうにして泊りこんでいるときもあるので、ちょっとした菓子、強飯(こわいい)というふうなものくらいを食べることもあった。自家の御堂(みどう)とか、桂(かつら)の院とかへ行って定った食事はして、貴人の体面はくずさないが、そうかといって並々の妾(しょう)の家らしくはして見せず、ある点まではこの家と同化した生活をするような寛大さを示しているのは、明石にもつ愛情の深さがしからしめるのである。明石も源氏のその気もちを尊重して、出すぎたと思われることはせず、卑下(ひげ)もしすぎないのが、源氏には感じよく思われた。相当に身分のよい愛人の家でも、これほど源氏がうちとけて暮すことはないという話も明石は知っていたから。近い東の院などへ移って行っては源氏に珍しがられることもなくなり、飽(あ)かれた女になる時期を早くするようなものである。地理的に不便で、特に思い立って来なければならぬところにいるのが自分の強みであると思っているのである。明石の入道も今後のいっさいのことは神仏に任(まか)せるというようなこともいったのであるが、源氏の愛情、娘や孫の扱われ方などを知りたがってしじゅう使いを出していた。知らせを得て、胸のふさがるようなこともあったし、名誉を得た気のすることもあった。
 この時分に太政(だじょう)大臣が薨去した。国家の柱石であった人であるから帝もお惜しみになった。源氏も遺憾(いかん)に思った。これまではすべてをその人に任せて閑暇(ひま)のある地位にいられたわけであるから、死別の悲しみのほかに責任の重くなることを痛感した。帝(みかど)はお年齢(とし)のわりにおとなびた聡明な方であって、ご自身だけで政治をあそばすのにあぶなげないのであるが、だれか一人のご後見の者は必要であった。だれにそのことを譲(ゆず)って静かな生活から、やがては出家の志望もとげえようと思われることで源氏は太政大臣の死によって打撃を受けた気がするのである。源氏は大臣の息子や孫以上に至誠をもってあとの仏事や法要を営んだ。今年はだいたい静かでない年であった。何かの前兆でないかと思われるようなことも頻々(ひんぴん)として起る。日月星などの天象の上にもふしぎが多くあらわれて世間に不安な気がみなぎっていた。天文の専門家や学者が研究して政府へ報告する文章の中にも、普通に見ては奇怪に思われることで、源氏の内大臣だけには解釈のついて、そしてやましく苦しく思われることがまじっていた。
 女院は今年の春のはじめからずっと病気をしておいでになって、三月にはご重体にもおなりになったので、行幸などもあった。陛下の院にお別れになったころはご幼年で、何ごとも深くはお感じにならなかったのであるが、今度のご大病についてはひじょうにお悲しみになるふうであったから、女院もまたお悲しかった。
「今年はきっと私の死ぬ年ということを知っていましたけれど、はじめはたいした病気でもございませんでしたから、賢明に死を予感していうらしく他に見られるのもいかがと思いまして、功徳(くどく)のことの方も例年以上なことは遠慮してしませんでした。参内(さんだい)いたしましてね、故院(こいん)のお話などもお聞かせしようなどとも思っているのでしたが、普通の気分でいられるときがすくのうございましたから、お目にも長くかからないでおりました」
と弱々しいふうで女院は帝へ申された。今年は三十七歳でおありになるのである。しかしお年よりもずっとお若くお見えになってまだ盛りのご容姿をおもちあそばされるのであるから、帝は惜しく悲しく思召された。お厄年(やくどし)であることから、はっきりとされないご容体(ようだい)の幾月もつづくのをすら帝は悲しんでおいでになりながら、そのころにもっとよくご養生をさせ、熱心に祈祷(きとう)をさせなかったかと帝は悔(くや)んでおいでになった。ちかごろになってお驚きになったように急にご快癒(ゆ)の法などをおこなわせておいでになるのである。これまではお弱い方にまたご持病が出たというように解釈してゆだんのあったことを源氏も深く嘆いていた。尊貴な御身(おんみ)はご病母のもとにも長くはおとどまりになることができずに、まもなくお帰りになるのであった。悲しい日であった。女院はご病苦のためにはかばかしくものもおいわれになれないのである。お心の中ではすぐれた高貴の身に生れて、人間の最上の光栄とする后(きさき)の位にも自分はあがった。不満足なことの多いようにも思ったが、考えればだれの幸福よりも大きな幸福のあった自分であるとも思召した。帝が夢にも源氏との重い関係をごぞんじないことだけを女院はおいたわしくお思いになって、これがこの世に心の残ることのような気があそばされた。
 源氏は一廷臣(ていしん)として太政大臣につづいてまた女院のすでに危篤(きとく)状態になっておいでになることは嘆かわしいとしていた。人知れぬ心の中では無限の悲しみをしていて、あらゆる神仏にたのんで宮のお命をとどめようとしているのである。もう長いあいだ、禁制の言葉としておさえていた初恋以来の心を告げることが、このさいになるまで果しえないことを源氏はひじょうに悲しいことであると思った。源氏は伺候(しこう)して女院のご寝室の境に立った几帳(きちょう)の前でご容体などを女房たちに聞いてみると、ごく親しくお仕えする人たちだけがそこにはいて、くわしく話してくれた。
「もうずっと前からのお悪いのを我慢あそばして、仏様のお勤めをすこしもお休みになりませんでしたのが、積り積ってどっとお悪くおなりあそばしたのでございます。このごろでは、柑子類(こうじるい)すらもお口にお触れになりませんから、ご衰弱が進むばかりでご心配申しあげるようなご容体におなりあそばしました」
と嘆くのであった。
「院のご遺言をお守りくだすって、陛下のご後見をしてくださいますことで、今までどれほど感謝して参ったかしれませんが、あなたにおむくいする機会がいつかあることと、のんきに思っておりましたことが、今日になりましては誠に残念でなりません」
 お言葉を源氏へおとりつがせになる女房へ仰せられるお声がほのかに聞えてくるのである。源氏はお言葉をいただいてもお返辞ができずに泣くばかりである。見ている女房たちにはそれもまた悲しいことであった。どうしてこんなに泣かれるのか、気の弱さをあらわに見せることではないかと人目が思われるのであるが、それにもかかわらず涙が流れる。女院のお若かった日から今日までのことを思うと、恋は別にして考えても惜しいお命が人間の力でどうなることとも思われないことで限りもなく悲しかった。
「無力な私も陛下のご後見にできますだけの努力はしておりますが、太政大臣の薨去(こうきょ)されましたことで大きな打撃を受けましたおりから、ご重患におなりあそばしたので、頭はただ混乱いたすばかりで、私も長く生きていられない気がいたします」
 こんなことを源氏がいっているうちに、あかりが消えていくように女院は崩御(ほうぎょ)あそばされた。
 源氏は力を落して深い悲しみに浸(ひた)っていた。尊貴な方の中でもすぐれたご人格の宮は、民衆のためにも大きな愛をもっておいでになった。権勢があるために、知らず知らず一部分の人をしいたげることもできてくるものであるが、女院にはそうしたおあやまちもなかった。女院をお喜ばせしようと当局者の考えることも、それだけ国民の負担がふえることであるとお認めになることはお受けにならなかった。宗教の方のことも僧の言葉をお聞きになるだけで、派手(はで)な人目を驚かすような仏事、法要などのおこなわれた話は、昔の模範的な聖代にもあることであったが、女院はそれを避けておいでになった。ご両親のご遺産、官から年々定って支給せられるものの中から、実質的な慈善と僧家への寄付をあそばされた。であったから僧の片端にすぎないほどの者までもご恩恵に浴していたことを思って崩御を悲しんだ。世の中の人はみな、女院をお惜しみして泣いた。殿上の人もみなまっ黒な喪服姿になって寂しい春であった。
 源氏は二条院(にじょうのいん)の庭の桜を見ても、故院の花の宴の日のことが思われ、当時の中宮(ちゅうぐう)が思われた。「今年ばかりは」(墨染(すみぞめ)に咲け)と口ずさまれるのであった。人が不審を起すであろうことをはばかって、念誦堂(ねんずどう)にひき籠って終日源氏は泣いていた。はなやかに春の夕日がさして、はるかな山のいただきの木立の姿もあざやかに見える下を、薄(うす)く流れていく雲が鈍色(にびいろ)であった。何一つも源氏の心をひくもののないころであったが、これだけは身にしんでながめられた。
  入日射(さ)す峰にたなびく薄雲(うすぐも)は
    物思ふ袖に色やまがへる
 これはだれも知らぬ源氏の歌である。ご葬儀に付帯したことのみな終ったころになってかえって帝はお心細く思召した。女院のご母后の時代から、祈りの僧としてお仕えしていて、女院もひじょうにご尊敬あそばされ、ご信頼あそばされた人で、朝廷からも重い待遇を受けて、大きなご祈願がこの人の手で多くおこなわれたこともある僧都(そうず)があった。年は七十くらいである。もう最後の行(ぎょう)をするといって山に籠っていたが、僧都は女院の崩御によって京へ出て来た。宮中からお召しがあって、しばしば御所へ出仕していたが、ちかごろはまた以前のように君側のお勤めをするようにと、源氏から勧(すす)められて、
「もう夜居(よい)などはこの健康でお勤めする自信はありませんが、もったいない仰せでもございますし、お崩(かく)れになりました女院様へのご奉公になることと思いますから」
といいながら夜居の僧として帝に侍していた。静かな夜明けにだれもおそばに人がいず、いた人はみな退出してしまったときであった。僧都は昔ふうに咳(せき)払いをしながら、世の中のお話を申しあげていたが、そのつづきに、
「まことに申しあげにくいことでございまして、かえってそのことが罪をつくりますことになるかもしれませんから、躊躇はいたされますが、陛下がごぞんじにならないでは相当な大きな罪をお得になることでございますから、天の目の恐ろしさを思いまして、私は苦しみながら亡(な)くなりますれば、やはり陛下のためにはならないばかりでなく、仏様からも卑怯(ひきょう)者としてお憎しみを受けると思いまして」
 こんなことをいいだした。しかもすぐにはあとをいわずにいるのである。帝はなんのことであろう、今日もまだ意志の通らぬことがあって、それの解決を見たうえでなければ清い往生(おうじょう)のできぬような不安があるのかもしれない。僧というものは俗を離れた世界に住みながら、嫉妬(しっと)排擠(はいせい)が多くてうるさいものだそうであるからと思召して、
「私は子どものときからつづいてあなたをもっとも親しい者として信用しているのであるが、あなたの方には私にいえないことを持っているような隔(へだ)てがあったのかと思うとすこし恨めしい」
と仰せられた。
「もったいない。私は仏様がお禁じになりました真言(しんごん)秘密の法も陛下にはご伝授申しあげました。私個人のことで申しあげにくいことが何ございましょう。この話は過去未来に広く関連したことでございまして、お崩(かく)れになりました院、女院様、現在国務をお預かりになる内大臣のおためにも、かえって悪い影響をお与えすることになるかもしれません。老いた僧の身の私はどんな難儀になりましても後悔などはいたしません。仏様からこの告白はおすすめを受けてすることでございます。陛下がお妊(はら)まれになりましたときから、故宮はたいへんなご心配をなさいまして、私にご委託あそばしたある祈祷がございました。くわしいことは世捨人の私に想像ができませんでございました。大臣(おとど)が一時失脚をなさいまして難儀にお会いになりましたころ、宮のご恐怖はひじょうなものでございまして、重ねてまたお祈りを私へ仰せつけになりました。大臣がそれをお聞きになりますと、またご自身の方からも同じご祈祷をさらにましてするようにとご下命がございまして、それはみ位にお即(つ)きあそばすまでつづけました祈祷でございました。そのお祈りの主旨はこうでございました」
といって、くわしく僧都の奏上するところを聞し召して、お驚きになった帝のお心は、はずかしさと、恐ろしさと、悲しさとの入り乱れて名状しがたいものであった。なんとも仰せがないので、僧都は進んで秘密をお知らせ申しあげたことをご不快に思召すのかと恐懼(きょうく)して、そっと退出しようとしたのを、帝はおとどめになった。
「それを自分が知らないままですんだなら後世までも罪を負っていかなければならなかったと思う。今までいってくれなかったことを私はむしろあなたに信用がなかったのかと恨めしく思う。そのことのほかにも知った者があるだろうか」
と仰せられる。
「けっしてございません。私と王命婦(おうみょうぶ)以外にこの秘密をうかがい知ったものはございません。その隠れた事実のために恐ろしい天の譴(さとし)がしきりにあるのでございます。世間になんとなく不安な気分のございますのもこのためなのでございます。ご幼年でなんのおわきまえもおありあそばさないころは、天もとがめないのでございますが、おとなにおなりあそばされた今日になって天が怒りを示すのでございます。すべてのことは御両親の御代から始められなければなりません。なんの罪とも知(しろ)し召さないことが恐ろしゅうございますから、いったん忘却の中へ追ったことを私はまたとり出して申しあげました」
 泣く泣く僧都の語るうちに朝がきたので退出してしまった。
 帝は隠れた事実を夢のようにお聞きになって、いろいろとご煩悶(はんもん)をあそばされた。故院のためにもすまないこととお思われになったし、源氏が父君でありながら自分の臣下となっているということももったいなく思召された。お胸が苦しくて朝の時が進んでもご寝室をお離れにならないのを、こうこうと知らせがあって源氏の大臣(おとど)が驚いて参内した。お出ましになって源氏の顔をごらんになるといっそう忍びがたくおなりあそばされた。帝はご落涙になった。源氏は女院をお慕いあそばされるご親子の情から、夜も昼もお悲しいのであろうと拝見した。その日に式部卿(しきぶきょうの)親王の薨去が奏上された。いよいよ天の示しが急になったというように帝はお感じになったのであった。こんなころであったから、この日は源氏も自邸へ退出せずにずっとおそばに侍していた。しんみりとしたお話の中で、
「もう世の終りがきたのではないだろうか。私は心細くてならないし、天下の人心もこんなふうに不安になっているときだから、私はこの地位におちついていられない。女院がどう思召すかとご遠慮をしていて、位を退くことなどはいいだせなかったのであるが、私はもう位を譲って責任の軽い身の上になりたく思う」
 こんなことを帝は仰せられた。
「それはあるまじいことでございます。死人が多くて人心が恐怖状態になっておりますことは、必ずしも政治の正しいのと正しくないのとによることではございません。聖主の御代にも天変と地上の乱のございますことは支那(しな)にもございました。ここにもあったのでございます。まして老人たちの天命が終って亡くなって参りますことは、大御心(おおみこころ)におかけあそばすことではございません」
などと源氏はいって、譲位のことを仰せられた帝をお諫(いさ)めしていた。
問題が問題であるからむつかしい文字は省略する。
 じみな黒い喪服姿の源氏の顔と竜顔とは、常よりもなおいっそうよく似てほとんど同じもののように見えた。帝も以前から鏡に写るおん顔で源氏に似たことは知っておいでになるのであるが、僧都の話をお聞きになった今は、しみじみとその顔におん目がそそがれて熱いご愛情のお心にわくのをお覚えになる帝は、どうかして源氏にそのことを語りたいと思召すのであったが、さすがにお言葉にはあそばしにくいことであったから、お若い帝は羞恥(しゅうち)をお感じになっておいいだしにならなかった。そんなあいだ、帝はただの話も常よりはなつかしいふうにお語りになり、敬意をお見せになったりもあそばして、以前とは変ったごようすがうかがわれるのを、聡明な源氏は、ふしぎな現象であると思ったが、僧都がお話し申しあげたほど明確に秘密を帝がお知りになったとは想像しなかった。帝は王命婦にくわしいことを尋(たず)ねたく思召したが、今になって女院が秘密を秘密とすることに苦心されたことを、自分が知ったことは命婦にも思われたくない、ただ大臣にだけほのめかして、歴史の上にこうした例があるかということを聞きたいと思召されるのであったが、そうしたお話をあそばす機会がお見つかりにならないために、いよいよご学問に没頭あそばされて、いろいろの書物をごらんになったが、支那にはそうした事実が公然認められている天子も、隠れた事実として伝記に書かれてある天子も多かったが、この国の書物からはさらにこれにあたる例をご発見あそばすことはできなかった。皇子の源氏になった人が納言(なごん)になり、大臣になり、さらに親王になり、即位される例はいくつもあった。りっぱな人格を尊敬することに託して、自分は源氏に位を譲ろうかと思召すのであった。
 秋の除目(じもく)に源氏を太政大臣に任じようとあそばして、内諾を得るためにお話をあそばしたときに、帝は源氏を天子にしたい、かねての思召しをはじめておもらしになった。源氏はまぶしくも、恐ろしくも思って、あるまじいことに思うと奏上した。
「故院はおおぜいのお子様の中で特に私をお愛しになりながら、み位をお譲りになることはお考えにもならなかったのでございます。そのご意志にそむいて、及びない地位に私がどうしてなれましょう。故院の思召しどおりに私は一臣下として政治に携(たずさ)わらせていただきまして、いますこし年をとりましたときに、静かな出家の生活にもはいろうとぞんじます」
と平生の源氏らしくご辞退するだけで、御心を解したふうのなかったことを帝は残念に思召した。太政大臣に任命されることも、いましばらくのちのことにしたいと辞退した源氏は、位階だけが一級進められて、牛車で禁門を通過するご許可だけを得た。帝はそれもご不満足なことに思召して、親王になることをしきりにおすすめあそばされたが、そうしては帝のご後見をする政治家がいなくなる、中納言が今度大納言になって右大将を兼任することになったが、この人がもう一段昇進したあとであったなら、親王になって閑散な位置へ退くのもよいと源氏は思っていた。源氏はこんなふうな態度を帝がおとりあそばすことになったことで苦しんでいた。故中宮のためにもおかわいそうなことで、また陛下にはご煩悶をおさせする結果になっている秘密奏上をだれがしたかと怪しく思った。命婦は御匣殿(みくしげどの)がほかへ移ったあとの御殿に部屋をいただいて住んでいたから、源氏はその方へたずねて行った。
「あのことをもしなにかの機会にすこしでも陛下のお耳へお入れになったのですか」
と源氏はいったが、
「私がどういたしまして。宮様は陛下が秘密をお悟りになることをひじょうに恐れておいでになりましたが、また一面では陛下へ絶対にお知らせしないことで、陛下がみ仏の咎(とが)をお受けになりはせぬかとご煩悶をあそばしたようでございました」
 命婦はこう答えていた。こんな話にも故宮のご感情のこまやかさが忍ばれて源氏は恋しく思った。
 斎宮(さいぐう)の女御(にょご)は予想されたように源氏の後援があるために後宮のすばらしい地位を得ていた。すべての点に源氏の理想にする貴女らしさのそなわった人であったから、源氏はたいせつにかしずいていた。この秋、女御は御所から二条院へ退出した。中央の寝殿を女御の住居にきめて、輝くほどの装飾をして源氏は迎えたのであった。もう院へのご遠慮も薄らいで、万事を養父の心で世話しているのである。秋の雨が静かに降って植込みの草の花のぬれ乱れた庭をながめて、女院のことがまた悲しく思い出された源氏は、湿(しめ)ったふうで女御の御殿へ行った。濃い鈍色(にびいろ)の直衣(のうし)を着て、病死者などの多いために政治の局にあたる者は謹慎(きんしん)をしなければならないというのに託して、実は女院のために源氏はつづいて精進(しょうじん)をしているのであったから、手にかけた数珠(じゅず)をみせぬように袖に隠したようすなどが艶(えん)であった。御簾(みす)の中へ源氏ははいって行った。几帳だけをへだてて王女御はおあいになった。
「庭の草花は残らず咲きましたよ。今年のような恐ろしい年でも、秋を忘れずに咲くのが哀れです」
 こういいながら柱に寄りかかっている源氏は美しかった。御息所(みやすどころ)のことをいいだして、野の宮に行ってなかなか会ってもらえなかった秋のことも話した。故人をせつに恋しく思うふうが源氏に見えた。宮も「いにしへの昔のことをいとどしくかくれば袖ぞ露けかりける」というように、すこしお泣きになるようすがひじょうに可憐で、身じろぎの音も類(たぐい)のない柔らかさに聞えた。艶な人であるに相違ない。今日までまだよく顔を見ることのできないことが残念であると、ふと源氏の胸が騒いだ。困った癖(くせ)である。
「私は過去の青年時代に、みずから求めてもの思いの多い日を送りました。恋愛をするのは苦しいものなのですよ。悪い結果をみることもたくさんありましたが、とうとうしまいまで自分の誠意がわかってもらえなかった二つのことがあるのですが、その一つはあなたのお母様のことです。お恨ませしたままお別れしてしまって、このことで未来までの煩(わずら)いになることを私はしてしまったかと悲しんでいましたが、こうしてあなたにおつくしすることのできることで私はみずから慰んでいるものの、なおそれでもおかくれになったあなたのお母様のことを考えますと、私の心はいつもくらくなります」
 もう一つの方の話はしなかった。
「私の何もかもが途中で挫折(ざせつ)してしまったころ、心苦しくてなりませんでしたことが、どうやらすこしずつよくなっていくようです。今、東の院に住んでおります妻は、寄辺(よるべ)のすくない点で絶えず私の気がかりになったものですが、それも安心のできるようになりました。善良な女で、私と双方でよく理解し合っていますから朗らかなものです。私がまた世の中へ帰って朝政にあずかるような喜びは私にたいしたこととは思われないで、そうした恋愛問題の方がたいせつに思われる私なのですから、どんな抑制を心に加えてあなたのご後見だけに満足していることか、それをごぞんじになっていますか、ご同情でもしていただかなければかいがありません」
と源氏はいった。めんどうな話になって、宮はなんともご返辞をあそばさないのを見て、
「そうですね、そんなことをいって私が悪い」
と話をほかへ源氏は移した。
「今の私の望みは閑散な身になって風流三昧(ざんまい)に暮しうることと、のちの世の勤めもじゅうぶんにすることのほかはありませんが、この世の思い出になることを一つでも残すことのできないのは、さすがに残念に思われます。ただ二人の子どもがございますが、老いさきははるかで待ちどおしいものです。失礼ですがあなたの手でこの家の名誉をおあげくだすって、私の亡くなりましたあとも私の子どもらを護(まも)っておやりください」
などと言った。宮のお返辞はおおようで、しかも一言(ひとこと)をたいした努力でおいいになるほどのものであるが、源氏の心はまったくそれにひきつけられてしまって、日の暮れるまでとどまっていた。
「人聞きのよい人生の望みなどはたいしてもちませんが、四季ときどきの美しい自然を生かせるようなことで、私は満足を得たいと思っています。春の花の咲く林、秋の野のながめを昔からいろいろに優劣が論ぜられていますが、道理だと思って、どちらかに荷担(かたん)のできるほどのことはまだだれにもいわれておりません。支那では春の花の錦(にしき)が最上のものにいわれておりますし、日本の歌では秋の哀れがだいじにとり扱われています。どちらもそのときそのときに感情が変っていって、どれがもっともよいとは私らに決められないのです。狭い邸(やしき)の中ででも、あるいは春の花の木をもっぱら集めて植えたり、秋草の花を多く作らせて、野に鳴く虫を放しておいたりする庭をこしらえてあなた方にお見せしたく思いますが、あなたはどちらがお好きですか、春と秋と」
 源氏にこうおいわれになった宮は、返辞のしにくいことであるとはお思いになったが、何もいわないことはよろしくないとお考えになって、
「私などはましてなにもわかりませんで、いつもみなよろしいように思われますけれど、その中でも怪しいと申します夕(ゆうべ)(いつとても恋しからずはあらねども秋の夕は怪しかりけり)は私のためにも亡くなりました母の思い出されるときになっておりまして、特別な気がいたします」
 お言葉じりのしどけなくなってしまうようすなどの可憐さに、源氏は思わず規(のり)を越した言葉を口に出した。
 「君もさは哀れをかはせ人知れず
    我が身にしむる秋の夕風
 忍びきれないおりおりがあるのです」
 宮のお返辞のあるわけもない。腑(ふ)に落ちないとお思いになるふうである。いったんおさえたものが外へあふれ出たあとは、その勢いで恋も恨みも源氏の口をついて出てきた。それ以上にも事を進ませる可能性はあったが、宮があまりにもあきれてお思いになるようすの見えるのも道理に思われたし、自身の心もけしからぬことであると思いかえされもして、源氏はただ嘆息をしていた。艶な姿ももう宮のお目にはうとましいものにばかり見えた。柔らかに身じろぎをしてすこしずつうしろへ引き込んでお行きになるのを知って、
「そんなに私が不愉快なものに思われますか、高尚な貴女はそんなにしてお見せになるものではありませんよ。ではもうあんな話はよしましょうね。これから私をお憎みになってはいけませんよ」
といって源氏は立ち去った。しめやかな源氏の衣服の香の残っていることすら宮は情けなくお思いになった。女房たちが出て来て格子(こうし)などをしめたあとで、
「このお敷物の移り香のけっこうですこと、どうしてあの方はこんなにすべてのよいものを備えておいでになるのでしょう。柳の枝に桜を咲かせたというのはあの方ね。どんな前生(ぜんしょう)をおもちになる方でしょう」
などといい合っていた。
 西の対に帰った源氏はすぐにも寝室へはいらずにもの思わしいふうで庭をながめながら、端の座敷に身を横たえていた。燈籠(とうろう)をすこし遠くへかけさせ、女房たちをそばに置いて話をさせなどしているのであった。思ってはならぬ人が恋しくなって、悲しみに胸のふさがるような癖がまだ自分には残っているでないかと、源氏は自身のことながらも思われた。これはまったく似合わしからぬ恋である。おそろしい罪であることはこれ以上であるかもしれぬが、若き日の過失は、思慮の足らないためと神仏もおゆるしになったのであろう、今もまたその罪を犯してはならないと、源氏はみずから思われてきたことによって、年がいけば分別ができるものであるとも悟った。
 王女御は身にしむ秋というものを理解したふうにご返辞をなされたことすらお悔みになった。はずかしくて苦しくて、不気味で病気のようになっておいでになるのを、源氏は素(そ)知らぬふうで平生以上に親らしく世話など焼いていた。
 源氏は夫人に、
「女御の秋がよいとおいいになるのにも同情されるし、あなたの春が好きなことにも私は喜びを感じる。季節季節の草木だけででも気に入った享楽(きょうらく)をあなた方にさせたい。いろいろの仕事を多くもっていてはそんなことも望みどおりにはできないから、早く出家がとげたいものの、あなたの寂しくなることが思われてそれも実現難になりますよ」
などと語っていた。
 大井の山荘の人もどうしているかと絶えず源氏は思いやっているが、ますますきゅうくつな位置におしあげられてしまった今では、通って行くことが困難にばかりなった。悲観的に人生を見るようになった明石を、源氏はそうした寂しい思いをするのも心がらである、自分のすすめにしたがって町へ出て来ればよいのであるが、他の夫人たちといっしょに住むのがいやだと思うような思いあがりすぎたところがあるからであると見ながらも、また哀れで、例の嵯峨(さが)の御堂の不断の念仏に託して山荘をたずねた。住み慣れるにしたがって、ますますすごい気のする山荘に待つ恋人などというものは、この源氏ほどの深い愛情をもたない相手をも引きつける力があるであろうと思われる。まして、たまさかに会えたことで、恨めしい因縁のさすがに浅くないことも思って嘆く女はどうとり扱っていいかと、源氏は力かぎりの愛撫を試みて慰めるばかりであった。木の茂った中からさす篝(かがり)の光が流れの螢(ほたる)と同じように見える庭もおもしろかった。
「過去に寂しい生活の経験をしていなかったら、私もこの山荘で会うことが心細くばかり思われることだろう」
と源氏がいうと、
 「いさりせしかげ忘られぬ篝火は
    身のうき船や慕ひ来にけん
 あちらの景色によく似ております。不幸な者につきもののような灯(ほ)影でございます」
 と明石がいった。
  「浅からぬ下の思ひを知らねばや
    なほ篝火の影は騒げる
 だれが私の人生観を悲しいものにさせたのだろう」
と源氏の方からも恨みをいった。すこしひまのできたころであったから、御堂の仏勤めにも没頭することができて、二三日源氏が山荘にとどまっていることで、女はすこし慰められたはずである。