すべてのはじまりに
〈本〉がインターネットに溶け出す時
エキスパンドブックの世界が広がっている。
当初は読むのも作るのもマッキントッシュだけだったが、ウインドウズでもブックを開けるようになった。一九九六(平成八)年六月には、ウインドウズ用の本作りツールが発売になり、作る方も両方で可能になった。
初代のエキスパンドブック版『パソコン創世記』は、マックでしか読めなかった。出来上がったCD―ROMを手渡すと、マイクロソフトの古川享さんから「ウインドウズ版は?」と宿題を出された。
本書の柱は、我が国のパーソナルコンピューター作りを引っ張ってきた日本電気の歴史である。その主人公が作っている機械で読めないのは、「いかにも間が抜けているな」と自分でも思っていた。気にかけて、「ウインドウズでも読めるよう、ハイブリッド化を急げ」と励まして下さる方もあった。
ボイジャーの開発チームと、ウインドウズへの移植に協力した日本電気の努力によって、ほとんどのパーソナルコンピューターでこのタイトルを開けるようになったことを喜び、力を奮われた方々に感謝したい。
私たちは、コンピューターに本を移し変える道の途上にある。課題は多いが、前進していることも間違いない。
ウインドウズでも読めるものが作れると目途がついたときには、けっこう長くかかずらってきたこのプロジェクトにも、一応の決着を見るのだなと考えていた。
だが、今は終わりよりもむしろ、始まりを意識している。
大きな新しい海に、これから泳ぎ出していくような気分だ。
エキスパンドブックに新しく付け加えられたたった一つのコマンドに、しんみりと落ち着こうとしていた気分を蹴飛ばされ、下ろそうとしていた腰がすっかり伸びてしまった。
ハイブリッド化の作業の直前までは、同じくボイジャーから出る『ヒロシマ・ナガサキのまえに』の翻訳と制作にあたっていた。
原子爆弾開発プロジェクトの中心となった物理学者、ロバート・オッペンハイマーの軌跡をたどったドキュメンタリー映画、『ザ・デイ・アフター・トリニティー』を中心に据えたタイトルだ。
「人間的な気持ちを持っていた人たちが、なぜあのような大量破壊兵器の開発に全力で取り組むことができたのか」
監督のジョン・エルスはそう問題を設定し、ねじ込むように対象に迫っている。
映画制作時、オッペンハイマーはすでに他界していたが、計画に携わった物理学者たちが貴重な証言を寄せている。ただしドキュメンタリー映画の常で、記録された言葉のうち本編に収録できたものは、ごく一部に限られていた。
一方、映画制作から十五年を経て編まれたCD―ROM版には、書き起こされたインタビューの全文が収録された。公開されたかつての秘密ファイルや関係資料もおさめられ、開発に至る流れの全体像を浮かび上がらせようと工夫が凝らされている。
翻訳の作業にあたってみて、映画とCD―ROM版を作ったスタッフの〈誠実〉は、時間をかけてじっくり実感することができた。だがもう一方で、この作品は原子爆弾を開発した側、落とした側の〈誠実〉の証であることも意識した。
もう一方には、落とされた側の真実がある。
日本に『ザ・デイ・アフター・トリニティー』を紹介しようとするのなら、この作品がもっぱら片側の声のみを拾ったものであることを自覚するべきだと、しだいにそう思うようになった。『ヒロシマ・ナガサキのまえに』として出すこのタイトルを一つの閉じた作品として完結させるのではなく、広島、長崎へとつなぐ道筋を示せないかとも考えた。
広島市のホームページで平岡敬市長の「国際司法裁判所における陳述」を読んだとき、この悲しい宝石のような証言をタイトルの最後に収録させてもらえないかとひらめいた。
公文書とはいえ、「陳述」は平岡敬氏個人の著作的色彩の強い文章である。原子爆弾は国際法に違反するとの明言を控えさせようとする外務省の圧力をはね返し、自分の凛々しい言葉で証言を綴った平岡市長への尊敬の念もあって、収録には事前の了解を得ようと考えた。だが残念なことに、広島市の担当者から、掲載は許可できないとの回答があった。
「なぜ」との悔しさと歯がゆさは、広島市にすがる中で募っていった。それがやり取りのさなか、エキスパンドブックに付け加えられた新しいコマンドのことがふと頭に浮かぶと、「そっちがその気ならこっちにも考えがあるもんね」と気持ちに風穴があいた。
エキスパンドブックの開発にあたっている祝田久さんは、錬金術師を思わせる妖しい魅力を漂わせた、芸術家肌のプログラマーだ。カフェラテのカップが小さな泡を吐く昼なお暗いコードの実験室で、彼は細い息を吐きながらキーボードをいじくっている。
おそらくは本職であるはずのエキスパンドブック開発のあいまをぬって、世紀末のコードの魔術師は、いろいろなオブジェをこしらえては周囲の者を驚かせる。ディスプレイに色彩の魔法を演じさせる『ニルヴァーナ』をはじめて見せられた時には、「こんなものばかり作っていれば、そりゃあエキスパンドブックが遅れるはずだ」と、親の敵に会ったような気がした。だが、「それもまあいいか」と妙に納得させられる、他に代えようのない不思議さと美しさとが、この作品にはあった。色彩と動きに溢れたオブジェは錬金術師のお気に入りで、突然メールで送りつけられる新しいプログラムにはいつも、好奇心の針が跳ねる。
算盤尽くの市場の理屈や、お札に書き込まれた仕様書だけでなく、美しいものへのあこがれや不思議に震えるやわらかな心の渇きもまた、人をプログラミングに誘うのだという当たり前の事実を、祝田さんの仕事は思い起こさせる。
レオナルド・ダ・ヴィンチが今、生きていれば、彼もまたコードを書いているだろう。
そんな祝田さんの手になる作品の一つに、WebPinMaker と名付けられた、これは実用性をもった小道具がある。
ウェッブ( Web )とは、英語でクモの巣を指す。
インターネットの上で、世界中の人が学園祭の展示の乗りで店開きしているホームページは、リンクという連携の機能で結びついて、ワールド・ワイド・ウエッブ(WWW)、つまり世界規模のクモの巣という大きくて複雑に絡み合ったネットワークを形成している。その中での住所を示すのが、URL(ユニフォーム・リソース・ロケーター)だ。URLを手がかりにして、目的の場所の扉を開き、中味を見るためのソフトウエアをブラウザーと呼ぶ。よく耳にするネットスケープ・ナビゲーターは、兄にあたるモザイクに一気にとって代わり、ブラウザーの代名詞になった。
ネットスケープがほとんど標準といっていいような大きな存在になると、開発元だけでなく、他の人たちもこれに新しい機能を付け加えるためのプログラムを書き始めた。自分の作っているエキスパンドブックとインターネットの世界を橋渡ししようと考えた祝田さんも、準備のためにネットスケープの分析に取りかかった。調べはじめて間もなく、ネットスケープにはちょっとした盲点があると祝田さんは思うようになった。〈住所録〉作りに、不便を感じたのだ。
URLは、アルファベットと記号で表される。
これが結構長い。
いちいちキーボードから入れていくのは、かなりめんどうだ。
「これは何度も見に来るだろうな」と関心のわいたホームページは、簡単に〈住所〉を記録して、自動的に呼び出せるようにしたい。面白いと思った場所を人に教える際も、手軽にURLを書き出せて、自動的に呼び出せる形で渡したい。
ネットスケープにも実は、こうした機能は付いている。
今見ている場所のURLは、ブックマーク(しおり)という機能で記録できる。しおりをはさむくらいの手軽さで登録できて、次からはメニューから名前を選ぶだけでいい。
ネットスケープにはさらに、リンクを付けている相手先の住所を書き出してくる機能も付いている。リンクの仕込んであるところは、表示画面の中で色変わりの文字で示される。この文字をマウスで選んでデスクトップまで引っ張ってくると、URLを記録したファイルができる。興味を持った場所を教える際は、これを人に渡すとよい。ダブルクリックでネットスケープが起動されて、そのままその場所に連れていってくれる。
とネットスケープの〈住所録〉機能は、かなり充実している。ところがリンクを仕込んだ先のURLは簡単に書き出せても、かんじんの今見ているページに関しては、ブックマークの形でしか記録できない。今開いているこのページのURLを、起動機能付きで手軽に記録する命令がない。きっと「ブックマークがあるから、そこまでする必要はない」と考えてのことだろう。それに開いているページのURLを示す欄もあるのだから、そこの文字列をコピーして電子メールに貼って渡すか、エディターやワープロで記録すればいいという判断が働いたのだろう。
けれどこれはやはり、ちょっと不便だし不親切だ。
現住所を起動機能付きで記録する「 Save location といったメニューを用意しておかなかったのは、ネットスケープの盲点だな」と祝田さんは考えた。
そこで、ネットスケープの勉強のついでに、自分で用意した。
それが WebPinMaker だ。
この小道具を使えば、今見ている場所の名前とURLを、ピンの格好のアイコンに簡単に記録できる。ピンをもらった人は、ダブルクリックで該当のページにジャンプできる。デスクトップにピンを並べ、一つの動作で直接目的地に飛んでいく、一皮むけたブックマークとして使っても良い。ちょっとした小道具だけれど、これでインターネットとのやり取りが少しスムースになる。
WebPinMaker を書き、フリーウエアとして公開した祝田さんは続いて、この機能をエキスパンドブックに組み込もうと考えた。ピンの機能を、新種の注釈として取り込んだのである。
いつも通りエキスパンドブックを読んでいる最中に、なにか注釈を付けてあるところにぶつかる。ためしにダブルクリックしてみる。さて、字が出るか絵が出るか、それとも音か動画か。これまでなら可能性があるのは、それだけだった。ところが仕込んであるのが新しく加えられたピンの機能となると、話は別だ。インターネットに接続してあるという条件は付くが、注釈のダブルクリックでブラウザーが立ち上がり、世界への扉が開いて、宛先のページが画面上に呼び出される。
仕込んでおいた住所を自動的に開くところから、この機能に祝田さんは openURL と名前を付けた。
「陳述」の収録を断られている最中に思い出したのは、エキスパンドブックに openURL が付いたという話だった。
オランダ、ハーグの国際司法裁判所で平岡市長が証言した内容の全文は、広島市のホームページで公開されている。収録を諦めざるを得ず、このタイトルを買ってくれた人、全てが読めるようにできなかったのはやはり残念だ。けれど少なくともインターネットに接続できる人に対しては、openURL で、陳述の掲載されているサイトにリンクを張れる。
広島への道筋が示しておけるのだ。
『ヒロシマ・ナガサキのまえに』は、一九九六(平成八)年二月のマックワールドエキスポで発表することができた。
両市長の陳述を掲載した広島と長崎のホームページに加えて、翻訳作業中に見つけた核兵器をテーマにしたサイトにも、リンクを張った。
インターネットの上では、さまざまなグループや個人が、核に関する情報を集めたホームページを運営している。openURL を仕込んだそのサイトからは、「核兵器の本質を見極めよう」とする志のリンクが、さらに夥しいホームページに向かって伸びていた。
当初マック専用だった『ヒロシマ・ナガサキのまえに』は、構成をあらため、ウインドウズにも対応させて、同年八月六日に再発表する運びとなった。この際、掲載を認めてくれるよう再度働きかけ、関係される方々の配慮を得て、新版には陳述を収録することができた。
だが、新しい版にも、 openURL の仕掛けはそのまま残した。
この一件を通じて、ネットワークと結び付いた電子本の新しい可能性を発見した経緯を、形として残しておきたかったからだ。
エキスポ騒動がおさまって間もなく、『パソコン創世記』のハイブリッド化にかかることになり、CD―ROMを差し込んで久しぶりにブックを開いた。
エキスパンドブックとして発表したのが、ちょうど一年前のマックワールドエキスポ。新しく書き起こした第二部の原稿がまとまったのは、その数か月前の秋だった。ただし第一部の原稿を書いてからは、もう十年以上もたっている。
その第一部の冒頭には、日本電気の会社概要を示す記述がある。なんだか肩をいからせたような書き方が恥ずかしくも懐かしくもあるが、データはあまりにも古い。
と思ったとたん、〈 openURL 〉とひらめいた。
さっそく日本電気のホームページに行ってみた。
会社概要の項目があって、最新のデータが掲載されている。この手の情報は、今後もこのページで更新され続けるだろう。とすれば、ここに道筋さえ付けておけば、いつだって最新のデータを見ることができる。
そう思ったとたん「ブックの該当の個所に openURL を組み込んでおこう」と、すぐに心が決まった。
すると今度は、関連のサイトを軒並み調べてみたくなった。
おお、みんなやっているじゃないか。ずいぶん詳しく自分たちの歩みを書き込んでいるところもあれば、「なんで」と思うほど、あっさりすませているところもある。気合いの入れ具合にはばらつきがあるが、社史を掲載しているところはかなり多い。
さらに各種の検索エンジンで調べてリンクをたどっていくと、興味深いサイトがいくつも見つかった。大学や博物館の運営しているところは、やはり充実したものが多い。だが個人のサイトでも、アップル
の克明な歩みや、コンピューターの総合年表といったものをカバーした、力の入ったものがある。本文で繰り返し触れた、ホームブルー・コンピューター・クラブのメンバーの、その後を追おうとするものとも出くわした。労力のかけ方は別として、気持ちには「わかるわかる」と肩でも叩きたくなった。パーソナルコンピューターが生まれて今日までの歩みの中から、自分のこだわり、自分の立場、自分の問題意識に従ってなにがしかを記録し、その意味を探ろうとする意思の在処を探す旅は、続けていけばいつまでたっても終わらないような気すらしてきた。
「ああ僕は、大きな意思を構成する膨大な数のアトムの一個なんだな」
そんな感慨がわき上がってきたのは、リンクをたどって、パーソナルコンピューターの歴史をめぐるネットサーフィンをえんえんと続けていた夜だった。
自分の持ち物である『パソコン創世記』から、インターネットのさまざまな関連サイトにリンクを張るつもりではじめた作業だった。だが、パーソナルコンピューターの誕生を記録し、その意味を探ろうとするたくさんの試みに触れ合う内に、僕は自分自身が、大きなものに包み込まれるような気分に捕らわれはじめた。
「日本電気を中心に歴史の一断面を記録する役割は、たまたま僕に割り振られたのかな」
そう思ったとたん、『パソコン創世記』はインターネットの上に広がる大きな海に向かって溶け始めた。
私の指の間をすり抜けて、『パソコン創世記』が溶け込もうとする巨大な意思のネットワークは、めまぐるしく変化しながら成長して行くだろう。
たくさんのホームページが生まれ、かなりの数が消えていく。URLの変更も、しばしば起こるだろう。
変化し続ける大いなるものの小さな細胞として生き続けるには、『パソコン創世記』は繰り返しネットワークとの連携を確かめなければならない。リンク先の状況を確認し、新しいリンク先を求め、変化に対応しなければ、すぐに老いてしまう。
インターネットの上で生きて、インターネットの上で読まれる、新しい〈本〉のあり方を突き詰めれば、ブックはネットワークに接続したサーバーに置くのが本当だろう。
本を所有するという習慣とは縁を切って、必要なときに読みに来てもらうというやり方だ。
これなら、リンク先の変化に、比較的素早く対応できる。
またそうなってはじめて、私自身の気持ちもおさまりどころを得る。ネットワークからただ受け取るだけなら、口を開けて餌をねだる雛のようなものだ。大きな海に溶け出していくというこの気分は、『パソコン創世記』をインターネットの上に開いてこそ形にできる。
本命は、ネットワーク上のブックであるに違いない。
一九九六(平成八)年六月、そのことは自覚しながら、「先ずは第一歩」 とインターネット対応のCD―ROM版を出した。 openURL を利用して、こちら側から一方的にリンクの腕を伸ばしたバージョンだ。
続いて九月、インターネットを通して電子本を読んでもらおうとする祝田さんの新しい企み、ネット・エキスパンドブックの公開を機に、サーバー上の『パソコン創世記』を実現することができた。
数え上げれば、課題はまだまだ残されている。英語化という、どう考えてみても死んだふりをするのが賢明そうな難物にも、手が付かないままだ。
だが、ここのところ頭の大半を占めてしまっている「本の未来」に、これでもう一歩近づけたのも間違いないと思う。
『パソコン創世記』では、やりがいのある作業にのめり込めばのめり込むほど金銭との縁が薄れていくというどつぼにはまった。
おまけにネットワークとの連携を考えはじめてからは、「自分のものだ」という著作権意識まで希薄化しつつある。
Eメールアドレスなど持たない人のことをデジタルホームレスなどと呼ぶらしいが、インターネットの上にだってホームレスの予備群は立派に育っている。
サーバー上で公開したい―。
英語版も用意したい―。
では書くことを仕事として選んだ自分の暮らしの方は、どうやって立てるのか。
その帳尻合わせをすぐに迫られると、当然分かってはいる。分かっちゃいるけど、これがどうにも止められそうもない。
とりあえず先走ってみたい。
開き直っていえば、そんな愚かとしか言い様のない振る舞いに人を誘うのだから、インターネットはやはりただものではない。
世の中を変える革新児としては、深く大量に人を狂わせてこそなんぼのもの、というわけだろう。
インターネットは世界を変えると、たくさんの人と同様に、私もまた直感的にそう信じている。
世界が変わり、社会が変わるとはつまり、人が変わるということだろう。
闇雲に駆け出してみて、自分なりの道、自分なりの落ちつきどころを、たどりついた先で見つけろと、私は今、そう言われているのだと思う。昨日までのスタイルにしがみついていないで、新しいあり方を探せよと。
走り出せ。走り出して、知と情と意の緻密な神経回路網を世界に育てよと、歴史がそういうのなら、私としてはその声に従いたい。
変わることで、必ず機会をつかめるとは限らない。可能性を閉ざすこともあるだろう。
個別には〈得〉もあれば、必ず〈損〉もある。
けれど総計を取れば、私たちはきっと前に進むのだ。
世界を覆う神経回路網を得た巨大な群としてのヒトの前進を、私は信じることができる。
そんな浮ついた夢のような話ができて、私は今、本当に幸せだ。
一九九六年三月二十五日作成
一九九六年八月二十八日修正
[#改ページ]
エキスパンドブック版のまえがき
一九八三(昭和五十八)年の初夏、大きく背伸びして見上げた青空は、瞳に痛いほど高く澄んでいた。
この年の五月、僕は五年ほど勤めていた編集プロダクションをやめた。
時代の空気が見る間に冷えていった果ての一九七〇年代半ば、大学との縁が切れた時点で考えていたのは、雑誌や本の仕事につくことだけだった。すでに学生結婚していた嫁とアルバイトで食いつなぎながら、僕は出版社だけに履歴書を送り続けていた。
学生時代、ひょんなことから仕事を手伝わせてもらうことになった社員二人だけの小さな出版社で、僕はひ弱な自分に繰り返し直面させられた。
一つの戦争がより大きな次の戦争の火口を準備し、ついに太平洋戦争へと突き進んでいった時代、人々はどう暮らし、何を考え、結果的にどのようにアジアへの侵略に動員されたのか。
その跡を掘り起こそうとする出版社の作業は、代表者が中心となって別個に組織していた現代史の研究会が支えていた。
研究会の末席に加えてもらうようになった僕が、学費と生活費にきゅうきゅうとしてアルバイトに飛び回るのを見て、雑誌を起こしていたリーダーが「うちで働くか」と声をかけてくれた。嫁の大学院進学が決まり、昼間の小さな出版社での仕事に加えて、夜は家庭教師で稼いだ。だが「自活する大学生」を免罪符にしはじめていた僕は、自分なりの問題意識を据えて現代史に切り込むことがいつまでたってもできなかった。焦りと劣等感と甘えの中で、僕は突破口を開いた親しい仲間をめめしい手口で傷つけた。
そんなことがあったあと、リーダーは「活字の仕事には向いてないよ」とうつむいた僕に言った。
歯軋りもできないままやめることになった僕は、その時、なんとしてもこの世界で自分の道を発見しようと考えた。
出版社からは軒並み申し入れを拒否されたが、気にかけてくれた人の世話で編集プロダクションにもぐり込むことができた。
原稿の整理や校正、割り付けなど、もっぱら本作りにまつわる面倒な作業だけを請け負って出版社の合理化を支える編集プロダクションには、こだわりや希望を育てる余地は乏しかった。それでも好きな本や雑誌作りにかかわっていることには充実感があった。大切な人との出会いにも恵まれた。だがやがて、本当にこれがやりたかったことなのかとの思いが募ってきた。僕は会社に籍を置いたまま、おりからの科学雑誌の創刊ブームに乗って、仕事の重点を原稿書きに移そうと考えた。どうにかこうにか原稿を受け取ってもらえるようになると、会社にとどまっている理由はもうなくなった。住み慣れた仕事場を出て大きく深呼吸をしてから、僕は久しぶりに空をあおいだ。
科学物やコンピューター物の原稿を書き、週刊誌の取材記者を引き受け、僕は個人営業のライターとして歩きはじめた。そんなとき、なにやかやと話し込むことの多かった編集者が、情報絡みの書き下ろし文庫シリーズの一冊を任そうかと声をかけてくれた。
初めての本となるこの文庫で、僕は自分なりの「現代史」を発見したいと考えた。
この国はこれでいいのかと焦れる気持ちばかりが強かった中で、一九六〇年代に出合った歌と一九七〇年代に生まれたパーソナルコンピューターには、素直に思い入れることができた。その歌とパーソナルコンピューターは、時代の気分の糸で結ばれていたのではないか。かねてからのそうした思い込みを、僕は人ひとりのためのコンピューターが生まれる跡をたどる中で確かめようと考えた。
一九八四(昭和五十九)年の秋に取材し、暮れから新年にかけて書いた原稿は、一九八五年二月に『パソコン創世記』として旺文社文庫から出た。小さな仕事だったけれど、生まれたての本は僕のてのひらの上でほっかりとあたたかかった。
僕はたくさんの人に、この本を読んでほしいと願った。
パーソナルコンピューターの誕生に向けて揺りかごを用意した時代の気分について、この本を前に話したいと考えた。
だが『パソコン創世記』はしばらくは書店の棚を与えられたものの、やがてその姿を完全に消すことになった。一般書から撤退するという方針を固めた出版社は、文庫全体の廃刊を決めた。残部を買い取ろうと気づいたときには、すでに初めての僕の本は断裁処分となっていた。
夕焼けの中で確かに相手に向かって投げたと思った僕のボールは、駆け足で陣地を広げる夜に呑まれ、そのまま底の見えない闇の中に落ちて消えた。
一九九二(平成四)年の四月、マッキントッシュの専門誌の編集者が、ソフトウエアのレビューをやらないかと声をかけてくれた。
パーソナルコンピューターに関する原稿は、それまでにもずいぶん書いてきた。だが、製品の紹介記事の類には、妙なこだわりがあってほとんど触らずにきた。ところが話を聞いてみると、その編集者がなぜ僕を今回の書き手に指名してくれたのかがよく理解できた。示されたソフトウエアは、ボイジャーというアメリカの会社が出しはじめた「コンピューターで読む本」だった。
パーソナルコンピューターの上に本を置き換える試みがあることは、すでに知っていた。大部の百科事典をCD一枚に収めたものや、組み込んだ写真が動きだし、音まで飛び出してくる図鑑の類には触ってみたこともあった。ただしエキスパンドブックと名付けられたボイジャーの本は、もう少しシンプルに書籍をコンピューターの上に置くことを狙っているように思えた。渡された三冊にざっと目を通してから、僕は本をマシンで読むことの可能性と現状の問題点を整理した原稿を書いた。
ただし原稿の最後に付け足した一言は、「電子本を読む」という設定した枠組みからは少しはみ出してしまっていた。
「電子本は大量の部数を望めない出版物を少ないリスクで刊行する手段としても生かされるだろう。マッキントッシュで書き、ハイパーカードのページにテキストを流し込み、一冊の本を作る。こうしたケリの付け方は、DTPの輪の、一つのつつましい閉ざし方だろう」
エキスパンドブックを〈読む〉ことを論じながら、僕はエキスパンドブックを〈作る〉話で原稿を締めくくった。
この年の暮れ、件の編集者からもう一度連絡があった。ボイジャーが今度は本当にエキスパンドブックを作るためのソフトウエアを出したということで、ツールキットと名付けられたこの道具のレビューをやらないかとの再度の打診だった。
あらかじめ用意しておいた原稿をツールキットに流し込んでみると、簡単に自分のエキスパンドブックを作ることができた。評価記事の構成をまとめながら、僕は指のあいだを砂のように擦り抜けていった『パソコン創世記』のことを考えていた。ツールキットを使えば、手元にももう二冊しか残っていないこの本を、エキスパンドブックとしてよみがえらせることができるのだ。
翌一九九三(平成五)年二月、幕張で開かれたマッキントッシュのショーに出かけてみると、ボイジャージャパンを名乗るところが小さなブースを出していた。かつてレーザーディスクに新しいメディアとしての可能性を感じとり、ソフトの供給子会社として設立されたパイオニアLDCに籍を置いていた萩野正昭さんは、コンピューターの上で新しいメディアを開拓しようとするボイジャーのボブ・スタインと出会って、彼の試みに深い共感を覚えた。そして北村礼明さんと祝田久さん、鎌田純子さんという若い仲間とともに会社を飛び出し、ボイジャーの志を汲む会社を起こしていた。
人込みを分けるようにして狭いブースに近寄っていくと、のちに鎌田さんというお名前を知ることになるやわらかな微笑みを浮かべた女性が、ツールキットのパンフレットをくれた。「ボイジャージャパンではツールキットの日本語化を進めている。これと並行して、日本オリジナルの出版企画も準備中です」とそこにはあった。
そのとき僕は、『パソコン創世記』をボイジャージャパンから出したいと強く願った。
ツールキットを利用すれば、自分一人でもエキスパンドブックは作れる。求められるライセンス料をボイジャーに支払えば、作ったものを商品として売ることもできる。だが、パーソナルコンピューターの黎明期を描きながら幻のように消えていった『パソコン創世記』が、もしも電子メディアを掘り起こそうと歩みはじめたボイジャージャパンの志に包まれて復活することになれば、自分にとってとても美しい物語がそこに生まれると僕には思えてならなかった。
残った二冊の『パソコン創世記』の片方を萩野さんに送り、僕は連絡を待った。
エキスパンドブック版の『パソコン創世記』は、こうして生まれることになった。
旺文社文庫版の主要な登場人物である日本電気の渡辺和也さん率いるチームは、物語の終わったあと、激しい変化の波に見舞われた。渡辺さんは日本電気を去り、新天地に活躍の場を求められた。渡辺さんたちのあとを継いだもう一つのチームは、PC―9801という機種を日本の市場で大成功させた。今回エキスパンドブックとして再刊するにあたり、あらたに取材しなおして、日本電気にパーソナルコンピューターの種をまいた人々のその後の歩みと、PC―9801の成長の過程を別章を立てて補った。
当初、若干の補遺程度のつもりで書き足しを始めてみると、パーソナルコンピューターとはなんなのか、どのようにして生まれどう育ってきたのか、PC―9801はなぜ日本市場を押さええたのか、要するに肝心なところは何も分かっていない自分に直面させられた。そこから一年半がかりで関係者を訪ねてまとめた別章は、尋常ではない分量に膨らみ、別にTBSブリタニカから書籍としても刊行することになった。
旺文社文庫版の第一部「一九七五 人ひとりのコンピューターの創造」に加え、「一九八〇 激動の一〇年をかけて何を目指すのか」として収録した第二部は、このTBSブリタニカ版によっている。
書き足しを終えて読みなおしてみると、かつての原稿には手直しを誘うところが数多くあった。迷いは大きかったが、最終的には明らかな誤記、誤植、別章との表記の統一を除いてはほとんどそのままとした。
徹底を欠いていたり誤解と紙一重だったとしても、これが僕なりの〈現代史〉の原点だったのだから。
一九九三年五月十日作成
一九九五年一月十六日修正
[#改ページ]
第一部 はじめに
日本における半導体研究のパイオニアであり、エレクトロニクスの発展に大きく貢献された菊池誠さんは、一九二五(大正十四)年に生まれえたことを感謝したいと書いておられます。この年に生まれたからこそ、大学卒業後菊池さんは一九四八(昭和二十三)年に研究者としてのスタートを切ることになりました。
一九四八年――。
その後、エレクトロニクスの世界に一大革命を引き起こすことになる、トランジスターの発明された年です。
「一九四八年、もう一つの忘れ得ぬ要素。
それはトランジスタの誕生であった。
もしもただ一つわたしが神様に感謝するとすれば、わたしの生命を大正十四年に与えてくれたことである。その故にわたしは、わたしの研究生活の原点を、トランジスタ誕生の年に重ねることができた。わたしの研究生活が、この時間軸の奇遇によってどれほど感謝とよろこびにみちたものになったことか」(『エレクトロニクスからの発想』講談社)
一九五二(昭和二十七)年に生まれた私にも、菊池さんにならって感謝してみたいことがいくつかあります。
まず一つは、十代のほとんどをビートルズが活発に音楽活動を行っていた時期に重ねえたこと。彼らがイギリスからアメリカへ進出を開始するきっかけとなった曲、「抱きしめたい」のアメリカ発売が一九六三年十二月二十六日。この曲はたちまちヒットチャートをかけ上がり、翌年二月七日に彼らがケネディー空港に降り立ってからは、すさまじいビートルズフィーバーが巻き起こります。
日本ではまず奇妙な社会現象として彼らの存在が紹介され、私が初めて彼らの歌声を耳にしたのも、おそらくテレビの海外ニュースによってだったと思います。小学校五年生だった少年の耳に、彼らの歌声はまず、大変奇異に響きました。これまでにまったく聞いたこともないスタイルの音楽に大いに戸惑い、唯一持ちえた感想は「何か、女の子が歌ってるみたい」というものでした。
しかしその後、ラジオから盛んに彼らの歌声が流れはじめると、少年はたちまち彼らの音楽の虜になってしまいます。
何から何までが、すべて新しかったのです。
ギターを抱え、演奏しながら歌うというスタイル。フルバンドをバックに従え、伴奏があってはじめて歌が成り立つのではありません。彼らは自分たちのために伴奏してくれる人など必要としておらず、自分たちだけで音楽空間を創り上げることができる。ギターとベースを弾き、ドラムを叩くことはけっして伴奏ではなく、歌うことと渾然一体となった演奏だったのです。
彼らよりうまいギタリスト、ベーシストそしてドラマーは、当時でもいくらでもいたでしょう。歌声だけはデビュー当時からなかなか見事だったと思いますが、それが果たして彼らをスーパーアイドルに押し上げる要素だったかどうか――。
むしろ、へたくそなギターを含めた彼らの世界を、彼らだけで作り上げるということに、若い世代は新鮮な驚きを感じた、この要素の方が本質的なのではないかと思います。
自分たちの世界を、自分たちだけでという原則は、彼らの演奏だけにとどまるものではありませんでした。彼らの歌う曲のほとんどは、ジョン・レノンとポール・マッカートニーの手になるものでした。
自分の歌いたい曲を自らが作り、演奏しながら歌う。
この新しいスタイルを教えてくれたのは、ビートルズでした。
一九六〇年代の音楽的潮流の一つに、フォークソングがありました。当時、ビートルズの代表する音楽とフォークソングとは、使用する楽器がエレクトリックかアコースティックかから始まって、景気のいい恋の歌かそれとも社会性を帯びた歌かなど、さまざまな点で対立的にとらえられていたように思います。
しかし、自分の歌いたい曲を自らが作り、演奏しながら歌う、という大原則のところでは、両者はまったく同一です。曲が素晴らしかったり、演奏がうまかったり、歌が上手だったりすることはそれに越したことはなかったのかもしれませんが、それよりも何よりも一つのグループが、あるいは一個人が自己完結的に表現を行っていく。欠点のない分業よりもむしろ、多少のあらはあっても自分で何から何までを受け持つというスタイルにおいて、一九六〇年代を支配した音楽の二つの潮流がまったく同じだったことは、もう少し強調されてよいことでしょう。
歌われるテーマに関しても、両者はしだいに似通っていったようです。
初期の景気のよい恋の歌でスターダムにのし上がったビートルズは、その後に発表したアルバムでは彼らの音楽に乗りまくり、リズムに合わせて体を動かしていたいファンを戸惑わせるような試みをつぎつぎに行っています。歌に盛り込まれたメッセージはより詩的になり、孤独や絶望、恋ではなく愛、政治、社会がテーマとされる。いかにもLSD体験を思わせるいささかわけの分からない歌も登場し、メッセージが多様化してくるにつれて演奏のスタイルも変化し、幅が広がっていったのです。
アイドルの変貌に驚かされたのは、ビートルズのファンだけではありませんでした。
フォークソングの代表的な旗手であるボブ・ディラン。彼のファンもまたアイドルの変身に驚かされ、一部のファンは驚きよりもむしろ怒りをもって彼に訪れた変化を受けとめました。
ビートルズのように無内容で商業的な歌ではなく、アコースティックギター一本を抱えて政治的なメッセージにあふれる自作の歌を歌うはずのボブ・ディラン。そのボブ・ディランが一九六五年のニューポート・フォーク・フェスティバルにエレクトリックギターを抱え、バンドを引き連れて登場したとき、観衆の多くは目を丸くしました。そして彼がロックビートに乗せて歌いはじめるや、観衆からはブーイングが起こり、彼は舞台を下りざるをえなかったのです。
昔ながらのアコースティックギターを持ってもう一度舞台に立った彼は、涙ながらに「新しいマッチをすって、やりなおすんだ。すべては終わったんだから」と一曲だけ歌い、ステージを下りました。この時期以降、彼のアルバムからは、狭い意味での政治をテーマとしたものはしばらく消えています。そして、ボブ・ディランの詩はより内省的になり、感覚的に研ぎ澄まされていきます。
それまでは対立的にとらえられていたボブ・ディランの歌とビートルズの歌(これは正確には、ジョン・レノンの歌といった方がよいのかもしれませんが)が互いにひとばけしたところで内省的になり似通ってくる。その後は逆に、ビートルズ、特にオノ・ヨーコと出会ったあたりからのジョン・レノンの歌には政治が顔をのぞかせるのに対し、ボブ・ディランの方はしばらくのあいだストレートには政治をテーマとしなくなります。ただここに表われた差はあくまで表面的なものにすぎず、両者はきわめて似通った作業をその後も続けていたのではないでしょうか。
もっとも、ビートルズの歌の中で「愛」という言葉が絶対的な善と位置づけられはじめたり、ボブ・ディランがキリスト教的なものに接近するようになると、私自身は彼らの選択には違和感を抱いたのですが、ことの本質は選び取られた結果にあったのではなく、彼らが自己と向き合わざるをえなかったところにこそあったという気がしてなりません。
一九六〇年代後半に、アメリカ、ヨーロッパ、そして日本で巻き起こった学生たちの反乱は、何がしか発言したり行動したりしようとすれば、自らの立場も揺らいでくる、といった傾向を持っていました。外に向かって槍を突き出そうとすれば、その槍は同時に、自らの足下をも突きくずそうとしたのです。
こうした時代精神を、ジョン・レノンとボブ・ディランという二人の天才は、多くの若者の半歩先で受けとめ、自らとの格闘を通じて表現していったのではないか。だからこそ、あれだけの大きな支持を獲得しえたのではないでしょうか。
さて、私が一九五二(昭和二十七)年に生まれたことで、感謝したいことの二つ目です。
私が大学と縁を切った一九七六(昭和五十一)年、社会に出たとはおこがましくてとてもいえない形でしたが、この年に日本におけるマイコンブームの走りとなるキット式のワンボードマイコン、TK―80が日本電気から発売されています。
ただし、私立大学の文科系に籍を置いていた私が個人で所有しうるコンピューターなるものに本当に興味を持ちはじめるのは数年後からなのですが、今こうして振り返ってみると、やはりこの偶然を多少は喜ばせてもらいたい気持ちになります。
おそらくこの本が発売された直後、一九八五(昭和六十)年の三月いっぱいで、私は大学を離れてから丸一〇年を過ごしたことになります。その一〇年間に果たして自分は何をしえたかと自問するとまったく恥ずかしい限りですが、それに引きかえ個人が所有することを大前提としたパーソナルコンピューターが示した進歩は何と大きかったことでしょう。
今はもう博物館にでも収めておくのが似合いそうなTK―80発売からまだ一〇年たっていないのです。
日立のベーシックマスターやシャープから出ていたMZ―80Kなどいくつかの先行するマシンはあったものの、おそらくほとんどの人が日本における初の本格的パーソナルコンピューターとして指摘されるだろう日電のPC―8001の発売からは、わずかまだ五年です。
ワンボードマイコンの上で個人が所有するコンピューターというアイディアが生まれ、パーソナルコンピューターという概念が誕生して急速に発展していく――。この過程はしばしば、革命的と形容されます。私自身も、けっして革命的でないとは思いません。
しかし、「パーソナルコンピューターの革命的な進歩」などという一文に出くわすと、思わず首をひねりたくなってしまいます。確かにフロッピーディスク装置や果てはハードディスク装置までが外付けの記憶装置として使えるようになったこと、半導体メモリーの記憶容量が値段に比して急激に安くなったこと、パーソナルコンピューター用のCPU(中央処理装置)として一六ビットのものが当たり前になってきたことなどなど、ハードウエアの進歩には目を見張らせるものがあります。ただし、もっぱらハードウエアの進歩だけに「革命的」なる言葉を奉っていたのでは、何か非常に重要なことを見逃してしまう気がするのです。
私は、パーソナルコンピューターの誕生は一つの革命だったと考えています。
結局この本のタイトルは『パソコン創世記』に落ちついたのですが、途中までは第一章の章名「誕生! 超貧弱マシン」をタイトルにと考えていました。
「誕生! 超貧弱マシン」
パーソナルコンピューターに興味のない人にはさっぱりイメージがつかめず、何やらコンピューターやそのメーカーを馬鹿にしているのではないかと受け取られたようです。逆に興味を持っている人からは、トレイシー・キダーの『超マシン誕生』が頭に浮かぶのか「あいつのパロディーですか」と問われました。パロディーでもなく、あとから出てきたものが似ている場合には「要するにまねた」ということになるのでしょうが、本人は結構気に入っていました。
もともとはコンピューターと思って作ったのではない代物、コンピューターとして見れば絶望的に能力がなく、使い勝手もすさまじく悪かった代物を「これは俺のコンピューターだ」ととらえなおしたとき、革命はスタートしたのだ。そんな私のイメージを、「誕生! 超貧弱マシン」というタイトルがよく伝えてくれるのではないかと考えたからです。
パーソナルコンピューターの誕生は一つの革命だった、と書きました。しかし、「革命」という言葉ほど、安売りされがちなものもありません。そこでこの本を通して、二筋の道からいったい何が起こったのかを、具体的に考えてみたいと思います。
一つは、日本電気の内部で起こった、企業内ベンチャーとも呼ぶべき動きです。
副題には「日電PC帝国」といささかぶっそうな言葉が入っていますが、最近の日電のシェアを考えると、これもそうオーバーな表現ではないように思います。しかし日本電気がパソコンの日電という一面を獲得するまでには、かなりの紆余曲折があったようです。パーソナルコンピューターという革命児は、日本電気内のコンピューターの専門家が育て上げたものではありません。そもそもはコンピューターとは直接関係のない部門、しかも純粋に技術系のセクションではなく新設された弱小の販売部門から、革命児は誕生しているのです。しかも、日電内の誰も、開発担当者までが商品としてはまったく期待しない形で――。
パソコンの日電のルーツとなった革命児、私流にいわせてもらえば超貧弱マシンはTK―80と呼ばれています。TK―80は、担当者もまったく予想しなかった七万台を売りつくすことになります。副題にある「七万人」とは、このマシンに手を伸ばした人の数を指しています。
さて、二筋の道のもう一つは、ある若者のパーソナルコンピューターによる再生の物語です。
パーソナルコンピューターの誕生にあたっては、いく人かの天才的なヒーローが大きな役割を演じています。しかし、この革命劇の真のにない手をあげるならば、それはやはり、パーソナルコンピューターに興味を持ち、これに飛びついていった数多くの無名の人々でしょう。
では、なぜ彼らは、パーソナルコンピューターに飛びついていったのか――。
その理由をたった一言に帰するほど、私は自信家でもありませんし強引でもないつもりです。いろいろな理由、さまざまな接近のパターンがあったでしょう。
しかしこの革命を同時代者として体験してきた、少なくとも眺めてきた私には、パーソナルコンピューターへの接近のパターンの中に、ある種の似通ったグループがあるように思えてなりません。
いろいろな体験や挫折を通して一度社会の枠組みからはずれてしまった人間が、パーソナルコンピューターを通じてもう一度社会に足がかりをえる。いわば一種のリターンマッチとして、パーソナルコンピューターに接近する。パーソナルコンピューターの文化は、挫折組のリターンマッチ文化としての性格をある面では備えている気がします。
もう一筋の道、再生の物語に登場する若者は、目の前にある社会の枠組みからはずれていこうとする志向を強く備えていました。そうした人物にとって、生きていくことは一種の格闘にならざるをえないようです。
そうした格闘の連続の中での挫折、そして沈滞――。
もしもあの時期にパーソナルコンピューターという奇妙な機械が登場していなければ、彼の沈滞はもう少し長く、もう少し深くなっていたことでしょう。
裏返していえば、挫折と沈滞を余儀なくされていた一つの時代精神が、パーソナルコンピューターという革命児を生み出したのではないか。少なくとも、生み出す一因となったのではないか。
そう考えていくと何やら、一九六〇年代前半のビートルズの革命、一九六〇年代後半の世界的な学生運動の渦、そして一九七〇年代後半のパーソナルコンピューターの革命を結ぶ、一本の筋が見えてくるような気がします。
さあ、言葉だけを先走らせるのは、このへんでやめましょう。
あとは、具体的に書いていきます。
日電内の企業内ベンチャー、そしてある若者の再生物語。
この二筋の道を通して、私はパーソナルコンピューターのまわりで何が起こったのか、そして今、何が起こりつつあるのかを考えてみたいと思います。
この二筋の道の交点に、願わくば革命の本質が姿を現わさんことを。
一九八四年十二月十四日
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第一部 第一章 誕生!超貧弱マシン
日本電気株式会社――。
資本金一〇〇三億三〇〇〇万円、一九八四(昭和五十九)年三月期決算の売上高一兆四六〇〇億円。従業員数は三万五〇〇〇人に及ぶ。
通信、コンピューター、半導体の超巨大企業――。規模から見ても利益率から見ても、日本のエクセレントカンパニーと呼ぶにふさわしい存在であろう。そしてさらに、日電にはエクセレントと呼ばれるにふさわしい、もう一つの要素がある。
企業イメージの明解さである。日電の戦略を示す合言葉、C&C。
C&Cとはコンピューターとコミュニケーションの略で、これまではそれぞればらばらに発展してきた二つの要素が結びつく高度情報化社会への対応こそが、日電の進むべき道であるという。
今、C&C戦略は確かに日電に明解な企業イメージを与えている。しかし、日本電気会長だった小林宏治がこの言葉を使いはじめた一九七七(昭和五十二)年当時、そしてごく数年前にいたるまで、日電は見事に引き裂かれた二つの顔を備えていた。そして、この二つの顔のあいだに存在した亀裂が埋められてはじめて、C&Cは日電全体の合言葉となりえたのである。
とすれば、日電に明解な企業イメージを与えた功績を帰すべきは、C&Cなる合言葉そのものではなく、亀裂を埋めた何物かであるべきかもしれない。
では、引き裂かれた日電の二つの顔とは何か。
胸の内で思い起こしていただきたい。かつてあなたが、日電のブランドであるNECに、どのようなイメージを抱いていたかを。もしもあなたが技術畑の人間であるなら、エレクトロニクス関係の企業に籍を置いているなら、NECブランドにはかねてからハイテックなイメージを持っていたかもしれない。しかしほとんどの日本人は、NECの三文字に日電の子会社、新日本電気の家電製品のイメージを重ね合わせていたはずである。
昭和二十年代生まれの私は、NECと聞くと「売れない家電」と思い浮かべていたことを、今もはっきりと覚えている。じつは五年ほど前、私はあるオーディオ誌の編集を行っていたのだが、内外のブランド約四〇を総まとめに紹介する記事の中でも、NECのオーディオブランド「ジャンゴ」は取り上げなかった。まったく取り上げる気にもならなかった。
だが現在、NECブランドには、そうしたしみったれたイメージはかけらも存在しない。コンピューターと通信の融合する高度情報化社会、同社流にいえばC&Cを目指す先鋭的なイメージを、NECは獲得している。
技術者の思い描くハイテックなイメージとほとんどの日本人が持っていただろう「売れない家電」のイメージ――。この両者の亀裂を埋め、NECの三文字に「C&C」の鮮明なイメージを定着させる原動力となったものは、何といっても同社のパーソナルコンピューター、PCシリーズのラインナップであろう。
しかし、このエース誕生までの道のりは、けっして平坦なものではなかった。同社のパーソナルコンピューターははじめから社内の期待を集めて市場に送り出されたわけではなく、むしろ社内の空気はわけの分からないオモチャのようなマシンに、大変冷たかったのである。
そもそも、パーソナルコンピューターを誕生させたセクションにも注目する必要があろう。日電のパーソナルコンピューターは、それまで大型コンピューターを担当していたセクションから生まれたものではない。当初、日電内のコンピューターのプロである大型コンピューターの担当者たちは、パーソナルコンピューターなど見向きもしなかった。
革命児はそれまでコンピューターとは縁のなかった集積回路部門、ICやLSIといった電気回路用の部品を取り扱うセクションから誕生した。しかも、半導体の設計や製造に携わる技術系のセクションからではなく、新設された弱小の一販売部門から革命児は誕生することになったのである。
その誕生の過程では、ある種の「熱」に取りつかれたまことに日電マンらしからぬ人物たちによって、企業内ベンチャーとでも呼ぶべき革命劇が演じられていたのである。
弱小「マイクロ部」の誕生
「これじゃマイクロコンピュータ販売部じゃなくて、マイクロ部になりかねんな」
硬くこわばったままの胃に手をそえながら、渡辺和也はつぶやいた。
新設されるマイクロコンピュータ販売部の部長にとの内示を受け、一九七六(昭和五十一)年二月の正式スタートに向けて半年ほど前から根回しを進めてきた。しかし動けば動くほど、気分は重くなり、胃の痛みは激しくなる。
販売部の部長にといわれても、営業の経験などまったくない。
電気工学を学んだ山梨大学工学部を、一九五四(昭和二十九)年、第五福竜丸がアメリカの水爆実験で被爆した年に卒業。大手の家電メーカーに就職し、技術者として脂の乗りきった時期、一九六五年に日本電気に転じた。
それ以降の一〇年間も、技術畑一筋である。
マージャンができるわけでもなければ、酒席でのとりなしが巧みなわけでもない。
さらに、営業は願い下げといきたいのに加え、売り込みを図るもの自体も難物である。
販売部のスタッフにと目星をつけていた連中に「マイクロコンピュータ販売部に来ないか」と水を向けてみると、反応はすこぶる悪い。誰も彼も露骨に尻込みしてみせ、中にはあからさまに「そんなゲテ物だけはかんべんしてくれ」と口にする者すらある。
これまで大きな図体をしていたコンピューターの中心部分の機能を、ごく貧弱な形ながらちっぽけな半導体のチップの中に押し込んでしまったマイクロコンピューター――。
確かに何やら革新的なイメージだけは強いこの代物を売り込んでいくためにマイコン販売部が新設され、自らが部長としてその先頭に立つことになったわけではあるが、営業のえの字も知らず、みながマイクロコンピューターをゲテ物扱いするようでは、スタッフも貧弱、売り上げも貧弱のマイクロ部になりかねない。
ふさぎがちになる気持ちを気力で鼓舞しようとする渡辺だったが、間断なく続く胃の痛みだけは抑えられなかった。
渡辺自身、コンピューターの持っている機能が曲がりなりにも小指の先ほどのチップに収まると聞けば夢のような話と感心はしても、果たしてそれを何に使ったらよいのか、どういった層に売り込みを図ったらよいのか、さっぱり分からなかったのである。
この時期、渡辺を大いに悩ませることになったマイクロコンピューターなる代物は、四年前の一九七一(昭和四十六)年十一月、当時日本で繰り広げられていた電卓戦争勝ち残りの秘密兵器として姿を現わした。当時、日本国内ではカシオ計算機とシャープを中心に激しい電卓の低価格化競争が繰り広げられており、その様は電卓戦争とも形容されていた。
この電卓戦争に加わったメーカーの一つに、ビジコン社がある。
国内でのシェアはごくわずかでそれゆえ知名度も低かったがアメリカ向け輸出ではトップ。一九六六(昭和四十一)年七月には、当時四〇万円台が相場とされていた電子卓上計算機界に、三〇万円を切りしかも性能面でも従来機を大きく上回った新製品をデビューさせて業界を震撼させる。さらに一九七一年一月には、ポケット電卓の先駆けとなった「てのひらこんぴゅうたあ」を発表。
技術開発の面では常にトツプに立ってきたビジコン社だが、対米輸出を経営の柱としていた同社にとって、一九七三(昭和四十八)年の石油ショックの与えた影響は深刻だった。円安による大幅な為替差損を背負い、作れば作るほど赤字となる事態に立ちいたったのである。一九七四年二月、ビジコン社はついに倒産に追い込まれる。しかし倒産後も同社は、マイクロコンピューターを生んだルーツとして歴史に名をとどめることになった。
商品の低価格化を目指し、製造コストの切り下げのために電卓メーカーがとった戦略は、いわば「輪転機方式」とでも呼ぶべきものだった。
新製品に持たせる機能が決まれば、まずマーケティングを行って、はけるだろう個数を想定してしまう。そして半導体メーカーに、新製品用LSIの設計を依頼し、設計が終わって原版にあたるマスクが作られると、ともかく想定した個数分のLSIを、輪転機を回すように作りきってしまうのである。
一般に出版社では、単価が高く部数の読みにくい書籍はそこそこの部数を刷って売り出し、市場動向を見て必要とあらば増し刷りする。一方、単価の低い雑誌に関してははけるだろう部数を読みきって輪転機で一挙に刷ってしまい、コストの低減化を図る。
電卓戦争においても、主要なメーカーは、この雑誌方式=輪転機方式を採用することで低価格化に成功し、シェアを広げていった。
それに対しビジコン社は、超輪転機方式とでも呼ぶべきまったく異なった方法によって、コストの切り下げを図ったのである。
ビジコン社は、それまでの常識からすれば半完成品のLSI、つまりは完全に印刷が終わっておらず、白い頁の残ったままのLSIを利用することを考えた。
ある機能を備えた電卓向けに開発されたLSIには、その機能を実現するために必要な回路がきわめてコンパクトに作り付けられている。それを裏返せば、ある一種類のLSIは、他の機能を備えた電卓の部品としては使えない。もしも三種類の機能の異なった電卓を作るとすれば、三種類のLSIを用意する必要があり、そのたびごとに膨大な回路の設計作業を行うことになる。
それに対し、半完成品でそこにソフトウエアを追加してはじめて機能するLSIを大量に作っておく。この半完成品LSI、いわばできそこないLSIに、付け加えたい機能を実現するソフトウエアを加えてやれば、それ用のLSIに化ける。もしもこうしたできそこないLSIが作れれば、ソフトの種類だけ化ける可能性を持ったものを一挙に作り上げてしまう超輪転機方式が可能になる。
ビジコン社は、従来の常識からは考えられないできそこないLSIの開発を、当時はまだほんの小さかった半導体メーカー、インテル社に依頼した。できそこないLSIの開発を担当していたビジコン社のスタッフ四名は、基本的な構想を固めてアメリカに渡り、インテル側の担当者と設計図の作成に着手した。
スタンフォード大学のコンピューター研究所で働いたのち、一九六八年のインテル創立とほぼ同時に同社に移っていたマーシャン・E・テッド・ホフは、ビジコンのアイディアをさらにもう一歩推し進めた。
ビジコンではあくまで、電卓用LSIでプログラム可能なもの、言い換えればソフトウエア追加によって異なった機能を持つものを望んでいた。電卓用部品として限定したものでかまわないと考えていた。
それに対しホフは、できそこないの度合いを少し高め、それによって応用範囲をさらに広げることを考えた。電卓にしかならないLSIではなく、電卓にもなるLSIを目指したのである。作業途中から担当をはずれたホフに代わってこのアイディアを設計図にまとめ上げたのは、ビジコン社の嶋正利とインテル社のフェデェリコ・ファジンだった。
世界初のマイクロコンピューター、インテル社のi4004(四ビット)は、望まれた力よりもはるかに大きな可能性を秘めて誕生した。その後、嶋正利はインテル社に引き抜かれて、八ビットの代表的なマイクロコンピューター、i8080をファジンとのコンビで開発。さらにのちには、ファジンとともにインテルを去り、ザイログ社を創設して同じく八ビットの代表格となったZ80を開発している。
4004の開発にめどがついた時点で、ビジコン社社長、小島義雄は記憶装置にたくわえたプログラムをマイクロコンピューターで処理し、インターフェイス回路を通じて情報の出し入れを行うというマイクロコンピューターのシステムに特許が取れないものかを考慮したという。だが、LSIの技術も存在し、プログラムをたくわえておいて実行するという方式もコンピューターでは行われていたことから、小島は特許の取得を断念することになった。
しかし、専門家のあいだでは、この新しい技術に特許性は認められたのでないか、とする声が強い。
歴史に「もし」はありえないとしても、これほど好奇心を刺激するものもないことも事実だろう。特許庁の馬場玄式は、『インターフェース』誌一九七七年十月号でこの魅力的なシミュレーションを行っている。
「(マイクロコンピューターに関する特許を)外国にも出願してあったとすると、この関係の売り上げが一兆〜一〇兆円としても、実施料二〜三%として二〇〇億円〜三〇〇〇億円の実施料が入ることになる。(あの『IBM帝国』の一九七六年度の利益が六〇〇〇億円である!)インテル社にMCS―4(4004を使った、マイクロコンピュータのセット)の原型を発注した日本のビジコン社が特許の権利化に二、三億円の投資をしていたら、マイクロコンピュータによる『ビジコン帝国』が誕生していたであろうに! しかし、いまとなってはすでに遅い。まさに〈幻の帝国〉である」
草むしりと評価用キットの日々
川崎の集積回路事業部から、半導体の大型工場が設置された九州日本電気熊本工場へ籍を移していた後藤富雄は、かつての上司、渡辺和也を悩ませることになるゲテ物、マイクロコンピューターを、草むしりの合間を縫って大いに楽しんでいた。
渡辺の胃痛が始まるちょうど一年前、一九七四(昭和四十九)年のことである。
前年十月に勃発した第四次中東戦争をきっかけとした石油ショックにより、日本経済は大きな不況に見舞われ、この嵐の中でマイクロコンピューターを生んだビジコン社は倒産に追い込まれる。
この不況下、半導体の需要が急激に落ち込む中で、他のメーカーは設備投資を抑えたのに対し、日電は生産ラインの強化を敢行。のちに振り返って、この時期にあえて設備投資を行ったからこそ、その後目覚ましい勢いで盛り返してきた需要に応え、日電の半導体部門がさらにいっそう飛躍しえたのだと指摘されることが多い。
ただし、石油ショック後の一時期ではあったにせよ、半導体の一大工場を抱えた九州日本電気では生産ラインが止まり、技術者までがとにかく仕事を求めて草むしりまでやらざるをえなかったことも、また事実である。
草むしりの合間を縫って、いや正確には定時までの草むしり作業を終わったあと、後藤は世界初のマイクロコンピューター4004を使ったエバリュエーションキットに熱中していた。
エバリュエーション、つまりは評価用キット――。
まだ海の物とも山の物とも分からないマイクロコンピューターに、果たしてどのような使い道があるのか技術者に評価をあおぐ。いやその前に、とにかくマイクロコンピューターなる代物のイメージをつかんでもらう。そのために作られたキットである。ただしこのキット、組み立て終わってもそれ自体では、うんともすんともいってくれない。キットには、入力のための部品も出力のための部品も、組み込まれていないのである。
入出力機器がないとは、現在のパーソナルコンピューターに当てはめれば、キーボードもディスプレイも付いてない状態にあたる。もちろんマウスもなければ、プリンターもない。これだけでは、コンピューター本体にプログラムもデータも伝えることができないし、当然のことながら処理結果を見ることもできない。
当時の評価用キットは、あくまで技術者用に作られたものである。
キットそれ自体はアマチュアっぽい代物であっても、あくまでプロ用。この超小型コンピューターキットは、テレックス通信用の端末として開発された、テレタイプ社のテレタイプ、ASR―33をつないではじめて動かすことができたのである。
キーボード、プリンター、紙テープパンチ、紙テープリーダーを一体にまとめたASR―33は、本来の用途以外にも、比較的小型のコンピューターシステムの入出力機器として使われていた。
キット程度の代物に、新品で約五五万円、中古でも三〇万円はするASR―33をつなぐというのも、今からすれば、ずいぶんとバランスの悪い話に聞こえる。だが、キットとはいえあくまで技術者用。マイクロコンピューターを理解しようとするプロのいる会社なら、テレタイプの一台や二台あって当たり前という発想だったのだろう。
事実、仕事とは無関係に4004のキットを買ってきた後藤富雄も、ちゃっかりと会社にあったテレタイプを利用している。音の大きさで悪名高かったASR―33に組み立て終わったシステムを接続し、騒音をまき散らしながらとにかく動かしてみることに、この時期、後藤は猛烈に熱中していたのである。
一九六七(昭和四十二)年、鈴鹿工業高等専門学校を卒業して後藤富雄は日電に入社。できたばかりの半導体事業部に所属し、以来半導体作り一筋に打ち込んできた後藤が、超小型とはいえコンピューターのシステムに興味を持ってこの時期いじり回していることは、けっして当たり前のことではない。
技術者でない人間、特に私のように文科系出身の人間にとっては、半導体もコンピューターも、ソフトウエアもハードウエアも、ともかく常人には近づけぬコンピューターの国のお話と、ごっちゃに見えてしまいやすい。
しかし、半導体作り、特にこの時期以前の集積回路作りは、コンピューターとはほとんど何の関係もなかったのである。集積回路とは、ちっぽけなシリコンの小片の上に、トランジスタ、コンデンサー、抵抗、そして配線と回路を構成する部品を作り付けたものである。基本的には、部品の延長線上にあるもので、発想の原点はあくまで部品をいくつまとめられるか――。コンピューターシステムという全体からの発想とは、まったく方向が逆である。それ自体部品なのだから、集積回路は電気回路を持つものなら何にでも、テレビにもラジオにも使われる。
現実に集積回路作りに携わる技術者も、物理屋や化学屋がほとんど。作業の中心は、チップ上に回路を作り付けていくために何度も重ね焼きしたり、炉で焼いたり冷やしたりの繰り返しであった。
もちろん日本電気全体を見回してみれば、コンピューターの専門家がいないわけではない。他の日本の大型コンピューターメーカーがすべて、コンピューター界の巨人、IBMとの互換路線、要するにIBMの用意した土俵に上がりIBMに合わせながら価格などで競争する方針をとったのに対し、日電は唯一独自路線を選択。あくまで従属することを前提とした互換路線に対し、IBMという強大な敵に対しては、原則的ではあるがいかにも危険な独自路線に従って大型コンピューターを育て、見事に健闘してきた情報処理の部隊がある。
しかしこと半導体事業部門に限っていえば、コンピューターに関連した仕事の経験があったり、コンピューターに興味を持ったりという技術者は、ほとんど存在していなかったのである。
その意味からいえば、後藤富雄は異色だった。
そして、彼の特異性は、かつての上司、渡辺和也の特異性でもあった。
入社後、後藤は半導体の生産設備を整備する部隊に配属されるのだが、ここで担当したのが、渡辺と組んで進めることになったICテスターの開発業務だったのである。
IC、つまりは集積回路。
誕生初期のICは、せいぜいトランジスター一〇個ほどを一つの部品に詰め込んだものだった。ところがその後、ICの集積度は飛躍的に高まり、ゲートと呼ばれる基本単位となる回路の数が一〇〇〇を超えるものに関しては、LSI(大規模集積回路)という別の名前が用意されるようになった。
変わったのは名前だけではない。仕上がった製品の検査法も、集積度の高まりに応じて変わらざるをえなかった。
ムカデのように足を出した完成品の集積回路――。
この集積回路が設計図通り仕上がっているかをチェックするためには、それぞれの足からオン、オフの二種類の信号を入れてテストしていく必要がある。
ICの集積度が低く、足の本数も少ないうちは、ICテスターも手動のものが使われていた。ところが集積度が高まってくると、そんなものではとても対応しきれなくなり、次に開発されたのが、リレーを使ったテスターである。
しかし、それでもとうてい間に合わなくなってくる。
集積度がさらに高まってくるにつれて、超高速でテストを進めていく、コンピューターを使ったテスターの開発が不可避となったのである。
そして、この業務に携わったことで、後藤と渡辺は半導体屋にはめずらしく、コンピューターもいけるという特異性を身につけることになった。
あくまでも部品の延長上に発達してきた集積回路、そして一つのまとまったシステムとしてのコンピューター――。
マイクロコンピューターとは、部分としての集積回路と全体としてのコンピューターの境界に生まれた異端児である。部分でありながら完結した全体性を持つこの異端児は、半導体屋のセンスからすればわけの分からないゲテ物に見える。また、コンピューター屋のセンスからすれば、オモチャ以下の取るに足らない存在に映る。
LSIにコンピューターの中央処理装置の機能を収めたといっても、その力はあまりに貧弱。いくら小さくできたといっても、こんな貧弱なものを何に使うか、ということになる。
こうしたマイクロコンピューターのわけの分からなさに、埼玉大学理工学部で電気工学を専攻していた加藤明も、頭を抱えていた。後藤富雄が九州で草むしりと評価用キットの日々を過ごしていた一九七四(昭和四十九)年の夏、彼もまた本業の卒業研究そっちのけでインテル社のi8008(八ビット)の評価キットに取り組んでいたのである。
「こんなものを手に入れたから、ちょっといじってみよう」と教授から声をかけられ、さっそく組み立ててテレタイプにつないでみた。
しかしそこからは、悪戦苦闘である。資料や説明書もほとんどない状態で、たとえば文字を一つテレタイプのタイプライターに印字させるにしても、制御用に組み込まれている機械語のプログラムをいちいち解析しながらの手探り状態。
そもそもマイクロコンピューターなるものの概念が、どうしてもピンとこない。
大型のまともなコンピューターの話なら、授業で叩き込まれているしイメージもつかめる。ところが、目の前にあるちっぽけなLSIにコンピューターの中央処理装置が収まっているといわれても、どうしても首をひねりたくなる。コンピューターとLSI一個とは、どう考えても結びつくように思えない。ただしこのわけの分からなさ、マイクロコンピューターの得体の知れなさは、加藤の頭を悩ませたと同時に強力に彼の好奇心を引き付けもした。卒業までの一年間を、加藤明はテレタイプと向かい合って過ごすことになったのである。
一九七五(昭和五十)年三月、加藤は埼玉大学を卒業。
試行錯誤の末、ついにマイクロコンピューターのイメージをつかみきれぬまま卒業することになった加藤だが、石油ショック後の就職難の中で、第一志望の日本電気に職を得ることができた。
アメリカからの風
一九七六(昭和五十一)年二月からのマイコン販売部のスタートに向けて、渡辺和也は準備作業に追われていた。
当時の集積回路事業部長、常木誠太郎から「マイクロコンピューターを作ることは作った。あとは、とにかく売れ」とマイコン販売部長として先頭に立つことを命じられた。確かに一個のLSIに押し込められたマイクロコンピューターは、原版にあたるマスクができればあとは写真を焼き付けるように一括して大量に作ることができる。
マイクロコンピューターの製造部隊であるマイクロコンピュータ部が集積回路事業部内に設けられた当初は、コンピューター音痴の集積回路屋集団ゆえの笑い話めいた出来事もあった。「ソフトウエア」などという言葉に出くわしても、何のことだか分からない。「きっと織物のことじゃないか」と、今から見れば冗談としか思えない言葉が交わされる。何しろ当時の電子回路の常識からすれば、機能とは回路上に作り付けになっているはずのもので、ハードウエアにソフトウエアが加わって機能が実現されるといわれても、さっぱりピンとこない。目の前にある回路上には存在しないというソフトなる代物には、何やら宙に浮かんだ幽霊のようなイメージがある。
しかし当初はそうした困難があったものの、日電内でのマイクロコンピューター作りの体制も徐々に整っていった。マイクロコンピューターの生産においては、セカンドソースの奨励という、いわば二番煎じを積極的に認める方針がとられている。もともとのオリジナルを開発した企業から他の半導体メーカーが設計のノウハウを買い取り、まったく同じ仕様のものを生産するのである。これにより、マイクロコンピューターを使う側にしてみれば仕入れ先が複数になって、供給の安定性が高まる。オリジナルの開発メーカーからすれば、自社の生産能力をはるかに超えた幅広い市場を獲得できる。そして、セカンドソースとなるメーカーにとっては、ゼロからの開発に伴う膨大な初期投資を抑えられることになる。
そして日電でも、自社オリジナルのマイクロコンピューターに加え、セカンドソースとしての生産体制も整えていったのである。ただし、生産体制が整うことと、売れることは、直接につながっているわけではない。「あとはとにかく売れ」といわれても、果たしてどこに売ればよいのか。もともとは電卓用に開発されたマイクロコンピューターだが、大量に生産される低価格機には、専用の回路を用意した方がはるかに安くつく。高度な機能を備えた関数電卓には使われているものの、数から見ればとても勝負にならない。
何しろ生産ラインができてしまえば、あとはハンコでも押すように製品ができてしまうのである。渡辺自身、マイクロコンピューターは大きな可能性を秘めていると確かに感じるものの、いざ何に使うかと自問すると答えが出てこない。家電製品ならどんなものにも組み込んで、コントロールに使えるのでは、とそこまでは思う。しかしそれを使ってどんなことができるかとなると、そこからは頭が回らない。
他に答えられる人もいない。
しかし、準備作業を進めていくうちに、いくつか見えてきたこともある。
マイクロコンピューターをどこに売っていけばよいのか、とにかくその手がかりをつかもうと、この時期渡辺は何度かアメリカに渡っていた。アメリカへの出張となれば、当然大手の電気メーカーを訪ねるのが常識である。ゼネラルエレクトリックやウェスティングハウス、RCAなどのエリート技術者たちから情報を引き出し、マイクロコンピューターの売り先を考えるべきである。
ところがそうしたエリート技術者たちからは、めぼしい情報が出てこない。
その代わり、いささか毛色の変わった連中が、このゲテ物に熱中しているのには大いに驚かされた。そろそろマイコンクラブの走りのようなアマチュアのクラブが生まれており、ネクタイにはまったく縁のなさそうなひげ面の連中が、仕事ではなく好き好んでマイクロコンピューターの使い方に頭を悩ませている。ガレージにクラブのメンバーが集まって激論をたたかわせているのだが、その内容がすこぶる高い。
そうした数々のマイコンクラブの中でも、神話的色彩を帯びて伝説として語られることの多いホームブルー・コンピューター・クラブ――。
このクラブからは、パーソナルコンピューターの代表的メーカー、アップルコンピュータ社を育て上げたスティーブン・ジョブズやパーソナルコンピューターの原器ともいうべきアップル
を生んだスティーブン・ウォズニアックをはじめ数々のパーソナルコンピューター界のヒーローが生まれていった。ホームブルー、つまりは自家醸造――。手作りコンピュータークラブとでも訳すのだろうか。ただし、手作りという気安さ、自家醸造なるしゃれっ気とは対照的に、そこでたたかわされる議論はすこぶる高度だった。
ホームブルー・コンピューター・クラブの第一回会合は、一九七五(昭和五十)年三月、設立を呼びかけたメンバーの家のガレージで開かれた。参加者が次第に膨れ上がるにつれて転々とした会場は、その後スタンフォード大学の線型加速器センターに移された。
第一回の会合から出席した天才児、スティーブン・ウォズニアックは、まわりの出席者が彼らだけが理解できるパスワード(暗号)を使ってしゃべっており、自分はすっかり疎外されたような気分を味わったという。コンピューターに関しては天才的だったウォズニアックにとっても、マイクロコンピューターはゲテ物、要するにちんぷんかんぷんだったのである。
そうしたクラブの作っている会報にも、渡辺は興味をそそられた。
ピープルズ・コンピューター・カンパニー、人民のコンピューター会社ということになるのだろう。だがここは、コンピューターを作っているのではない。クラブである。
しかしコンピューターを作らない代わり、このクラブはなかなか充実した会報『ドクター・ドブズ・ジャーナル』を出していた。
タイトルからして、いかにもちゃめっ気があり、自由な雰囲気を感じさせる。通常は、『ドクター・ドブズ・ジャーナル』と呼びならわされていたが、正式タイトルをそのまま訳すと『ドクター・ドブのコンピューターの美容体操と歯列矯正ジャーナル』となる。
さっそく定期購読の申し込みを行い、日本に送ってもらうことにした。
もう一つの常識外れの訪問先、それはオモチャ屋だった。当時はようやくテレビゲームが出はじめた時期だったが、こうした新しいオモチャが人気を集めるようになれば、オモチャ業界は当然、マイクロコンピューターの売り込み先となりうる。一個あたりの単価は低く抑えられるかもしれないが、かなりの個数がはけることになる。
「これからは、オモチャ業界へもマイクロコンピューターの売り込みを図るべきだ」とする渡辺のアメリカ出張報告には、社内の空気は冷たかった。「コンピューターを使って遊ぶなど不謹慎」といった認識が強かった時代である。
しかし渡辺は、その本質が何であるかはつかみえなかったものの、各地でつぎつぎと生まれつつあるマイコンクラブを源に、アメリカから新しい風が吹き込んでくるのを強く感じていた。たくさんのアマチュアたちが、マイクロコンピューターに何をやらせるのか、勝手に考えはじめていたのである。
簡易教材開発作戦
マイクロコンピューターをどう売るか。その答えはいまだに出ない。
しかし渡辺は、アメリカから吹き込んでくる風を受けて、ほんの少し気持ちが楽になっていくのを感じていた。「マイクロコンピューターとはどんなものなのか、そのイメージを伝えることさえできれば、使い道を考える人間は出てくるのではないか」
これまではすべての答えを自分で出さなければと思い込んでいたが、そう考えなおしてみると気持ちは楽になる。
たとえばミシンにマイクロコンピューターを組み込むとして、それで何ができるかに自分が充分答えられないとしても、考えてみれば当然ではないか。現在のミシンにやらせたいと思ってもできないでいることを一番よく知っているのは、ユーザーでありミシン屋であろう。ならば彼らにマイクロコンピューターのイメージをつかんでもらえば、マーケットはひとりでに膨らんでいくのではないか――。それには一にも二にも、マイクロコンピューターなるものを、各分野の技術者に理解してもらい、それぞれの専門の機器のコントロールにどう生かすかを考えてもらう必要がある。
もちろん、マイクロコンピューターを理解してもらうことの必要性を感じたことは、渡辺の専売特許ではない。
九州日本電気熊本工場で、後藤富雄が草むしりの合間を縫っていじり回していたのも、埼玉大学理工学部の加藤明が卒業研究そっちのけでかじりついていたのも、教育を目的とした評価用キットである。すでに日電でも、自社で開発したマイクロコンピューター用の評価用ボードを作っており、各地で技術者向けのセミナーを開いていた。
しかしこれも、本体自体はごく小さくとも、値段が高く場所ふさぎのテレタイプとつないで動かすものである。テレタイプが約五五万円、電気屋に特注で作ってもらった電源が約三〇万円。一式では一〇〇万円と、かなりの値段になる。スペースの面からも費用の面からも、三〇〜四〇人入る教室にも一台しか持ち込めない。
そうすると結局、一人ひとりに触わってもらいイメージをつかんでもらいたかったはずのものが、講師が一人でいじり回し、解説に終始することになる。それでなくてもイメージのつかみにくいマイクロコンピューターである。聞き手の多くは、わけの分からない説明が続くうちに、舟をこぎはじめることになる。「先日の講習会で使っていたシステムを貸してくれないか」と頼まれても、何しろ一〇〇万円はかかる代物である。そうそう気軽に貸し出すわけにもいかない。一人ひとりに行き渡らせることのできる安くて手軽な教材、それを作るためには、とてもテレタイプなど使っていられないのだが――。
「あの、こんなものはどうですか」
後藤富雄が紙になぐり書きしたラフなスケッチを手に渡辺に声をかけてきた。
マイコン販売部に引っ張ろうと声をかけた優秀なスタッフの多くが「そんなゲテ物と心中するのだけは勘弁してくれ」と尻込みした中で、例外的に積極的に乗ってきた男である。
「何とか一人ひとりが持てる、いい教材ができないか」との渡辺の言葉を受けて、ラフなスケッチを提出してきた。プロの技術者としての経験を積んでもいい意味でのアマチュアリズムを失わない男で、こんなオモチャじみたものの設計となると、他の人間ならふくれかねないものを、後藤はかえって嬉々としてアイディアをひねってくる。
電卓用のLSIを担当しているスタッフに相談してみると、比較的簡単に発光ダイオードの簡単な出力装置が付けられそうだということで、入力装置も簡単なテンキーのようなものでいってはという。要するに、電卓型の入出力機器を備えた超簡易システムというわけだ。
渡辺は乗った。
マイコン販売部が正式にスタートする前、教材作りはすでに始まっていた。後藤の書いたラフなスケッチにもとづいて実験を行い、細部を詰めていく作業は、入社一年にもみたない新人が担当することになった。埼玉大学理工学部出身の加藤明――。
入社そうそう、マイクロコンピューターに興味を示すという異常な行動に出て周囲を驚かせ、テレタイプにつなぐ評価用システム作りを担当させられた男。渡辺和也は、マイコン販売部のスタッフにとこの男につばを付けておくのを忘れなかった。
一九七五(昭和五十)年暮れ、クリスマスソングが師走の賑わいをあおる中で、加藤は実験の詰めに余念がなかった。
開幕のベル響く
一九七六(昭和五十一)年二月、その年の九月に電子デバイス販売事業部と改称されることになる、半導体集積回路販売事業部内に、マイコン販売部設立。
渡辺に課せられた売り上げ目標は、半期一億円。
きわめて少ないスタッフでスタートした「マイクロ部」とはいえ、常識的に見てそれほどむちゃな数字とも思えないが、正直いって渡辺には、とても目標達成の自信はなかったという。
電卓戦争の秘密兵器として開発されたマイクロコンピューターだが、こと電卓に関してはよほど複雑な機能を備えた高級タイプにしか採用されることはない。
唯一売れたと言いうるのは、キャッシュレジスター用のみ。それまでのキャッシュレジスターは機械仕掛けでガチャガチャ金額を打ち込んでいくのにかなりの力を要し、腱鞘炎はキャッシャーたちの職業病ともなっていた。
それに対し、マイクロコンピューターを使った電子式のレジスターなら、キーには軽く触れるだけですむ。一部で電子式のキャッシュレジスターが採用されはじめると、キャッシャーたちは羨望の眼差しを新式レジスターに向けはじめた。果ては、キャッシャーを募集しても、メカ式のレジスターを置いているところには人が集まらないといった事態にもいたり、ここに関してだけは、定期的にマイクロコンピューターがはけていったのである。
ただしそれだけでは、とても半期一億円のノルマは果たせそうもない。
この状況を打開し、マーケットを拡大するための教材は、TK―80と名付けられた。
TKはトレーニングキットの略。80は使用するマイクロコンピューター、インテル社のi8080のセカンドソースとして日電が作っていたμPD8080Aから付けられた。
地味な社風の日電にしてはごく風変わりな、色つきのボール箱が用意された。
あくまで、マイクロコンピューターを理解してもらうための教材である。自分で組み立ててもらえばよりいっそう分かりやすいだろうと、完成品ではなく組み立てキットとした。
価格の設定には渡辺和也がこだわった。
単純に部品を合計しただけでもかなりになったのだが、一〇万円を超える価格ではせっかく使ってもらいたい各企業の技術者たちが、上司のハンコをもらいにくいだろう――。思い切って一〇万円以下、八万八五〇〇円とした。
後藤富雄と加藤明は、マニュアルにこだわった。
ともに評価用キットを、趣味として組み立てた経験を持つ二人である。マニュアルがいかに重要であるか、特にイメージのつかみにくいマイクロコンピューターを理解してもらうためには懇切ていねいな解説が欠かせないかは痛いほど知りつくしている。何しろ学生時代の加藤明は、資料不足に泣かされて一年近くもマイクロコンピューターに取り組みながら、ついにそのイメージをつかみきれないまま卒業するという悲惨な目にあっているのである。
アメリカで作られている各社の評価用キットのマニュアルを取り寄せ、二人で子細に検討する。TK―80の記憶装置には、値段の安く電力を食わないMOS型のLSIを使うことになったが、これがまったく静電気に弱い。油断していると、すぐにいかれてしまう。では、普段LSIに縁のない技術者に、どうすれば安全に組み立ててもらえるだろうか――。
一九七七(昭和五十二)年に発売され、マイコン少年、マイコン青年たちのバイブルとでもいうべき存在となった、安田寿明(当時、東京電気大学助教授)の『マイ・コンピュータ入門』。その一節を読んで、後藤と加藤は思わずほくそえんだ。安田は、TK―80のマニュアルを、次のように評価していたのである。
「キットに付属しているカタログ・マニュアル類のうち、『μCOM―八〇トレーニング・キットTK―八〇ユーザーズ・マニュアル』(マニュアル番号IEM―五六〇)の内容は、抜群のできばえである。――TK―八〇の場合、そのマニュアルはマイクロ・コンピュータの自作・組み立てから利用にいたるまでの、懇切ていねい、微に入り細をうがった執筆ぶりである。なかでも笑い出したのは、MOS型LSIの取り扱い注意である。驚異的能力を持つにもかかわらず、MOS型LSIは、静電気に弱い。そこでTK―八〇マニュアルでは『静電気に対して万全を期したい方は、台所に行ってください。たぶん、そこには、ステンレスの流し台があると思います』とある。これは、まさに、そのとおりである。マイクロコンピュータの組み立て作業台として、台所のステンレス流し台ほど絶好最適の場所はない。ちゃんと水道管でアースがとられている。万全の静電気対策作業台である。」(『マイ・コンピュータ入門』講談社)
ここまでのTK―80作りを独断で進めてきた渡辺和也は、当時の日電の社風にはいかにもなじまない、プラスチックモデルを思わせるはでな箱に収めたキットを、役員の参加する事業会議に堤出した。独断で進めてきたといっても、ことさらに何か構えがあったわけではない。あくまでマイクロコンピューターを売るための手段。確かに値段はつけたものの、商品という意識は薄い。教材を広めるための出血大サービス価格、景品まがいといった意識だった。
会議の席でも、えらく風変わりで高級なカタログを作り、やむをえずそれに値段をつけたといったニュアンスで、すんなり受け入れられた。ただ一つ注意を受けたのは「どうせそんなもの余るから、作りすぎるなよ」との一点。一ロット三〇〇台で、せいぜい三ロット九〇〇台もはければおんの字と踏んだ。
一九七六(昭和五十一)年八月三日、TK―80発売開始。
秋葉原の電気街に流すとともに、通常、ICやLSIなどの電子デバイスを流しているルートにも乗せられた。
そして翌九月十三日、秋葉原駅前に新築されたラジオ会館の七階に、これもマイクロコンピューター普及のためのサービスルームとしてNECビット・インが開設される。
日電が働きかけ、電子デバイスの販売特約店である日本電子販売が開設したビット・イン。電子デバイスの並べられたビット・インの一角にはTK―80の修理、相談コーナが設けられ、マイコン販売部の技術スタッフ、後藤富雄や加藤明たちが交代で詰めることになった。
ビット・イン日誌に記された兆し
「おかしなことになってきたな」
ビット・イン日誌に目を通しながら、渡辺和也は首をひねった。
後藤や加藤からの報告によれば、ビット・インの修理コーナーにはかなりの台数が持ち込まれてくるという。特に土曜、日曜には、それこそ小学生からすでに定年退職したような人までがビット・インに押し掛けてくる。休日はビット・インの書き入れ時である。
ただしここで、小さな問題も生じた。
民需中心の家電メーカーなら、年末や休日などの書き入れ時に社員を量販店に送り出し、販売のサポートをさせることなど日常茶飯事である。ところが、官需一本槍の日電には、そうした経験は皆無。マイコン販売部のスタッフが休日にも必ずビット・インに詰めているとなると、労務担当者からクレームがつく。渡辺たちが無茶なわけでもなければ、労務担当者が狭量だったわけでもない。日本電気とは、そうした会社だったのである。
ただしユーザーは、日電の体質とは無関係に、休日にビット・インに押し掛けてくる。後藤や加藤たちスタッフの出した答えは、休日の返上であった。
ビット・インからの報告によれば、どうやらTK―80、出足はかなり好調のようだ。
TK―80が予想を裏切って売れてくれることは、もちろん大歓迎である。それによってマイクロコンピューターへの理解が広まれば、本業であるその販売にも、見通しがつくことになろう。
しかし渡辺はビット・イン日誌を読み進みながら、何度も首をひねらざるをえなかった。渡辺に首をひねらせたのは、相談や修理の具体的内容である。ビット・インに詰めたスタッフには、ユーザーとの対応の逐一を日誌に書き込み、はっきり答えられなかった内容に関しては、宿題事項覧に記入し社内に持ち帰って検討する体制をとった。ところがこの日誌に、予想もしなかった内容が盛り込まれてくるのである。
あくまで技術者にマイクロコンピューターを理解してもらうという、本来の目的に沿ったような相談も、あるにはあった。ところがそれにもまして多かったのが予想もしなかった人種から寄せられる、とんちんかんな相談である。「私はシンセサイザーの奏者なのだが、手だけで弾いていたのでは一度に録音できるチャンネル数が限られる。それで以前から、コンピューターを使いたいと思っていたのだが、とても手が出ない。TK―80なら私にも買えるけれど、これでそんなことができるでしょうか」
後藤富雄は、こんな相談に目を丸くした。
すでにリタイヤした高齢の技術者が「コンピューターを個人でいじれるなんて。まったく夢のようだ。嬉しい、本当に嬉しい」と涙を流さんばかりに話す姿には、驚きにもまして感動すら覚えた。
「医療保険の点数を、これで扱えないか」と、OAの走りのような相談を医師から受けたときは、なるほどとうなずいた加藤明だったが、あるとき修理に持ち込まれたTK―80には、実際あきれてしまった。
あれほどていねいなマニュアルを付けたにもかかわらず、はんだ付けがまったくといってよいほどできていない。これまで電気回路にはいっさい縁がなく、一度もはんだごてを握ったことのない人間がTK―80に飛びついている。
「彼らはTK―80を、何だと思っているのか。これで何をしようというのか」
渡辺は湧き上がってくる疑問を、抑えられなかった。
そして、TK―80に群がったアマチュアたち一人ひとりは、自分なりの使いこなしに頭を悩ませはじめた。渡辺の抱いた疑問に、一人ひとりが解答を寄せようと努力しはじめたのである。
発売当初はあくまで、ビット・インに持ち込まれる数の多さから、「かなり売れているのでは」と予測の域を出なかったTK―80の売れ行きは、しだいにはっきりと数字に現われはじめた。
とてつもない売れ方である。
発売前は、全部で一〇〇〇台もいけばと思っていたものが、月に一〇〇〇台作ってもまだ足りないとなる。ラジオ会館七階に足を運ぶ人はさらにふえ続け、ビット・インはしだいにマニアの情報交換の場となりはじめ、マイコンゲームには小学生や中学生が群がりはじめた。
後藤は、加藤は、そして渡辺は、ビット・インから新しい風が吹き込んでくるのを感じていた。
TK―80への不満
すさまじい勢いで売れはじめたTK―80。だがTK―80は、けっして好評だけをもって迎えられたわけではない。いやむしろ、TK―80を買い求めたアマチュアの多くは、胸をときめかせてプラモデルめいたキットを持ち帰り、目を輝かせてはんだごて片手に組み立て、それから絶望を味わって八万八五〇〇円のむだ遣いを悔いていた。
TK―80を求めたユーザーが、まず失望を味わうのは、電源の問題だった。TK―80のキットには電源部は付いていなかった。ユーザーは自分で、五ボルトと一二ボルトの電源を用意する必要があった。たとえば家電製品を買い求めて、いざ使おうとして「電源はそちらで用意して下さい」などという但し書きを発見したユーザーは果たして怒りだすのだろうか。それともただただあきれかえるのだろうか。
もちろん、TK―80のユーザーのすべてが、こうした家電感覚をもってキットを求めたわけではない。技術的にも難なく電源を用意することができ、精神的にもそのことにこだわりを持たなかったプロ、あるいはセミプロも多かったろう。
しかし家電感覚を多少なりとも引きずったアマチュアにとってみれば、電源のないことは失望の対象以外の何ものでもない。
さらに、電源の問題をクリアーしたとしても不満の種はいくらでもある。
まず、記憶容量の貧弱さ。
TK―80に標準装備されていた記憶装置のうち、ユーザーがプログラムを記憶させることのできる部分の容量は、わずか五一二バイト。カタカナや数字、アルファベットなら五〇〇文字ほどしか記憶させることができない。この記憶容量の貧弱さのために、TK―80ではほんの小さなプログラムしか使用できない。要するに、ろくろく役に立たないのである。一〇万円を切ったとはいっても、そこそこの大枚をはたいたユーザーは、ここでも失望を味わうことになる。
「こんなことなら、同じお金を払って関数電卓でも買っておいた方が、よほど役に立ったのに」と、思わず愚痴りたくなった人も多かったろう。
しかし、このレベルまで到達した人は、まだしも幸福だったというべきなのかもしれない。記憶容量の壁にぶつかる前に、多くのユーザーは言語の壁にぶち当たったのである。標準的なTK―80のアマチュアユーザーのたどった道を再現してみよう。
まず、マニュアルに従って組み立てを終わる。
次に、プログラムのリストを見つけてくる。たとえば、デジタル時計のプログラム。プログラムのリストを見ながら、間違わないように注意深くキーを押し、プログラムを記憶させていく。プログラムが間違いなく入力されたとして、今度はそのプログラムを走らせてみる。確かに、赤いLEDの上に、時、分、秒が表示された。その瞬間は嬉しい。達成感がある。
ところが、次に進めない。
自分がキーを叩きながら入力していったプログラムの、どこが何を表わしているのか、さっばり分からないのである。
コンピューターが直接に取り扱うことのできるのは、0と1の組み合わせでできた機械語でしかない。通常、機械語は、人間に理解しやすいようにと十六進数で表記される。しかしそれとて、人間の目に映るのは〇から九までの数字と一〇から一五までを表わすAからFまでのアルファベットの羅列である。そしてこの事情は、大型のコンピューターに関しても、TK―80のようなマイクロコンピューターに関しても同様である。
ごく一部の特殊な専門家だけによって操作されていた誕生初期のコンピューターは、機械語だけでプログラムされていた。機械語でプログラムを組んでいくためには、ハードウエアに関するくわしい知識が求められるが、コンピューターを扱う人間がごく一部の専門家に限られているうちは、それですまされていたのである。
ところが、コンピューターをより幅広く使っていこうとすれば、機械語の難解さがネックになってくる。より幅広い人間にプログラムさせるためには、数字の羅列としか映らない機械語ではなく、普段人間が使っている言語に近いプログラミング言語が求められることになる。こうして、大型コンピューターの世界では、プログラミング言語を分かりやすくするための試みが続けられることになった。
まず、機械語の数字の組み合わせを、人間に理解しやすい記号に置き換えたアセンブリー言語が生まれ、続いてコボルやフォートランなどの高級言語が開発される。高級といっても、レベルが高く難解である、という意味ではない。逆に普段人間が使っている言葉、自然言語に近く、理解しやすいというニュアンスを、「高級」の二文字は表わしている。
ただし、高級言語が開発されたといっても、コンピューターが直接に取り扱えるのは機械語だけ、という事情に変化があったわけではない。そのために、こうした人間に理解しやすいプログラミング言語を使うためには、高級言語と機械語のあいだに立って翻訳作業を行うものが必要になる。コンピューターではこうした翻訳作業もソフトウエアによって行われる。つまり、あるコンピューターである高級言語が使える状態になっているとすれば、それはその言語の翻訳プログラムを、コンピューターが記憶装置にたくわえているからである。
そして、TK―80――。
TK―80は、もともと高級言語の翻訳プログラムを持っていない。である以上、ただの数字の羅列としか目に映りにくい機械語でしか、プログラムを組むことができない。
そのために、TK―80のユーザーの多くは、一つ一つの数字の組み合わせが何を意味しているか理解できないまま、とにかくリストどおりに間違いなくキーを押していく結果になりやすい。
翻訳プログラムを自分で見つけてきてTK―80に記憶させようとすると、今度は記憶容量の壁にぶつかることになる。標準で備えられている記憶装置のうち、ユーザーが利用できる部分がわずか五一二バイトでは、そもそも翻訳プログラム自体が収まりきらない。
ただし、こうした不満の数々は、ある意味ではTK―80に対する不当なけちつけともいえよう。繰り返し指摘したことではあるが、渡辺たちが作ったのはあくまでマイクロコンピューターの機能を理解してもらうための教材である。それも、素人向けではない。いろいろな機械を設計、製作している技術者に理解してもらい、それぞれの機械のコントローラーとしてマイクロコンピューターを使ってもらうためのものである。使い勝手が悪いというTK―80に対する不満など、一種の誤解にもとづいた偏見である。
トレーニングが目的なら、自分で頭を使いながら組み立てた方がいいのは当然。確かに電源は付けておいた方がよかったかもしれないが、それでは値段から見て上司のハンコがもらいにくくなったろう。機械語は分かりにくいといっても、技術者にはそこまで上がってきてもらわざるをえない。記憶容量うんぬんに関しては、問題外。飛行機の操縦士を訓練するフライトシミュレーターが実際には空を飛べないからといって、誰が文句をいうだろう。要するにトレーニング、マイクロコンピューターのイメージがつかめればよいのであって、それでたいしたことができないからといっても文句をいわれる筋合いではない。たいしたことは、本番でやってもらえばよい。専門の機器にマイクロコンピューターを組み込み、これまでにはとてもできなかったたいしたことをやってもらえばよいのである。
ところがユーザーの一部、いや、かなりの部分が、TK―80を取り違えてしまった。彼らはこのマシンを、個人用のコンピューターだと思っているらしい。そうした誤ったとらえ方をすれば、TK―80に不満の声があがるのも当然だろう。
製品として完成しておらず、高級言語も使えず、記憶容量は絶望的に貧弱。他の周辺機器とつなぐという拡張性に対する配慮も欠けている。コンピューターと呼ぶのもおこがましい、絶望的な、超貧弱マシンである。
しかしそれはあくまで、誤解にもとづいた偏見である。それにそもそも、個人がコンピューターなぞ持って、いったい何をしようというのか。個人用コンピューターなどという代物が、果たして存在しうるのか。
だが、渡辺たちの思惑を超えて市場に出たTK―80は、一人歩きを始める。誤解にもとづいたユーザーとともに、TK―80は敷かれたレールから逸脱し、超貧弱マシンとして歩みはじめるのである。
個人用コンピューター元年
一九七七(昭和五十二)年四月、サンフランシスコで開かれたウェスト・コースト・コンピューター・フェアー(WCCF)会場の入り口には、長蛇の列ができていた。
この年の二月、アップルは初の本格的パーソナルコンピューター、アップル
を発表。続いて大手の電卓メーカー、コモドール社があとを追うようにPETを発表。この二機種が公開されるとあって、フェアーの前人気はいやがうえにも高まった。そして、熱気あふれるこの列の中に、TK―80の開発者、後藤富雄もいた。
ようやく会場内に入っても、やはり大変な混雑。しかし、そんな人込みの中でも、アップル社の展示コーナーは、いやでも目についた。
コーナーを統一しているのは、あざやかな色のイメージである。
六色に塗り分けられた今ではおなじみとなったリンゴのマーク。ブース全体もカラフルに飾り付けられている。そして肝心のアップル
自体も、家庭用テレビに六色を使ったカラーの図形を表示し、大いに観客にアピールしていた。さらにこのアップル
は、ベーシックの翻訳プログラムをあらかじめ記憶装置に収めており、電源を入れるとすぐに、ベーシックの使える状態になるのだという。しかし、それにもまして後藤をうならせたのは、コモドール社のPETである。
タイプライターを思わせるスタイルのアップル
が、家庭用のテレビと接続して使う方式となっていたのに対し、PETには専用のブラウン管が組み込まれていた。さらにPETには、外部記憶装置としてカセットデッキまで組み込まれていた。もちろん、スイッチオンとともにベーシックの使用が可能。これなら、ブラウン管を見ながら高級言語でプログラムを作り、プログラムを走らせた結果を画面上に表示できる。さらに、作ったプログラムをカセットテープに記録しておき、必要に応じて読み出してきてまた使うなど、PET一台で、一つのまとまったコンピューターとして充分使うことができる。
しかも、これだけの完成度を備えた製品がわずか六〇〇ドル、当時の為替レートで換算して約一七万円と、TK―80二台分程度の金で手に入るという。
実際には、このとき後藤が度肝を抜かれたPETはまだプロトタイプの段階にあったもので、発売開始は遅れに遅れて、約一年ほどもたってからになる。さらにその時点では、価格も当初のアナウンスよりは、かなり高めになっている。
だが、後藤の心に焼き付けられた印象は、いかにも強烈だった。
渡辺和也が購読手続きをとり、マイコン販売部に送られてきていた『ドクター・ドブズ・ジャーナル』からの情報で、TK―80のようなシステムでベーシックを使おうという動きが盛んになっているのは知っていた。だが、それどころではない。ここアメリカでは、とんでもないことが起こりつつある。何か、とてつもなく大きな波が、うねりはじめている。
しかしのちに振り返って、この時点ではまだ、後藤には「この波は、海の向こうであるアメリカのもの」とする気持ちが残っていたという。TK―80が、そして自分自身が、この波に乗って運ばれはじめたことを、このとき後藤はまだ実感していない。
後藤富雄がPETの完成度に強烈な印象を受けた同じ会場で、青年と呼ぶにはいまだに稚気を面に残した二一歳の西和彦は、目の前で起こりつつあることと日本の現状との落差に、はがゆさを禁じえないでいた。
「日本でTK―80が巻き起したのは、マイコンのブームでしかない。だが、ここアメリカでは、個人がコンピューターを使うという革命が起こりつつある。個人が自分の主体性にもとづいて、パーソナルコンピューターに向き合おうとしている」
後藤富雄がプロの技術者としての目でPETの完成度に着目していたとき、西和彦はもう少し観念的に、大げさにいえば哲学的に会場の熱気をつかまえようとしていた。
この年、先行するアップル
とPETを追って、電子機器の販売チェーン、ラジオ・シャックで知られるタンディ社はTRS―80を発表。本格的なパーソナルコンピューター三機種の出そろった一九七七(昭和五十二)年は、のちにパーソナルコンピューター元年と名付けられた。
大いなる誤解
アメリカに渡って「パーソナルコンピューター元年」の熱気にじかに触れる約半年前、早大理工学部機械工学科の学生だった西和彦は、あるミニコミ誌の創刊に参画していた。TK―80発売開始の二か月後、一九七六(昭和五十一)年十月に創刊された『I/O』。創刊号は十一月付けで三〇〇〇部を発行。取次店では相手にされず、秋葉原などの部品屋に置かせてもらった。
編集作業は新宿の西のマンションで行われたが、編集長は北大出身で西より九歳上の星正明が担当した。
ホビー・エレクトロニクス・ジャーナルと銘打った『I/O』の創刊号には、西和彦自身「TVゲーム徹底調査」と題した記事を寄せており、この記事は数か月連載されることになった。
『I/O』創刊号でもう一つ目を引くのが、「マイクロコンピュータとI/Oプログラム」と題する石木勇の記事である。目次と本文中でのタイトルが違っているなど、いかにも素人くささを感じさせる作りだが、この記事では、TK―80タイプのシステムをコンピューターとして使いこなすためにはどんな周辺機器が必要となるかが解説されており、ベーシックに関する言及もある。
TK―80を個人用のコンピューターととらえる大いなる誤解は、発売直後から始まっていたのである。いや、正確には、個人用のコンピューターを求める土壌に、誤ってTK―80という種子がまかれてしまったというべきかもしれない。
取次店には相手にされなかった『I/O』だが、創刊号はたちまち売り切れ。その後、『I/O』の発行部数は急上昇することになる。
ところがこの絶好調の中で一九七七(昭和五十二)年四月、西自身は雑誌作りを放棄してアメリカに渡り、そこで「パソコン元年」の激動を目撃することになった。
そして日本に帰るや新しい雑誌作りの準備を始め、その年の六月に『ASCII』を創刊している。
七月付けの『ASCII』創刊号巻頭言、「編集室から」。署名はないが、西和彦の手になる一文であろう。
ここで西は自らがなぜホビー・エレクトロニクス誌『I/O』から離れ、パソコン元年のアメリカで何をつかみとったかを高らかに宣言している。
タイトルは「ホビーとの訣別」。
発行部数わずか五〇〇〇の創刊号に掲載されたため、目にした人も少なかろう。長くはなるが、時代の気分を象徴的に表わしたこの一文をそのまま、ただし『ASCII』名物の誤植だけは訂正して引用したい。
「ホビーとしてマイクロコンピュータが注視されており、今までマイクロコンピュータの記事は専門紙の専売特許だったのに、ほとんど一般向けのすべての週刊誌、月刊誌が、なんらかの形で〈マイコン〉を紹介する記事を書きました。おもしろおかしくというのがそれらの記事の基本的な執筆方針ではないのかと思うこともありましたが、反面、マイクロコンピュータが実用化された時期が過ぎ、遂に日常化されるようになったきざしと考えると大きな期待を感じます
昨年の十一月に創刊した月刊ホビー、エレクトロニクスの情報誌『I/O』は、今日のマイコン・ホビー・ブームのはしりでもあり、また、そのスーパースター的急成長も今となってみればむしろ必然であったとも言えるのではないかとすら考えたくなります。
創刊号が皆様のお手もとに届く頃、米国では全米コンピュータ会議(National Computer Conference )が開かれた直後で、そこでマイクロコンピュータを個人的な目的に使用する、いわゆるパーソナル・コンピューティングが一般に学会レベルで認められるようになるようです。
ここにホビーではない新しい分野『コンピュータの個人使用・パーソナル・コンピューティング』が出現したと言うことができます。
ひととおりマイクロコンピュータのシステムをそろえるためには最低二〇万円はかかります。二〇万円を単に純粋な遊びのために投げ出す人が国民的レベルで増加することは期待できそうにありません。
何の理由でもいいのです。とにかく自分で納得のいく目的があること、それがマイクロコンピュータに取り組む人の備えなければならない最低条件になるのではないでしようか。
マイクロコンピュータは家電製品にも積極的に使われて、産業としての地位を確立しつつありますが、今まで大型が担ってきた計算とか処理などの機能を備えたコンピュータが個人の手のとどく商品となったら、それをどのように分類したらいいのでしょうか。
電卓の延長ではないと考えます。家庭や日常生活の中に入ったコンピュータ、テレビやビデオ、ラジオのような、いわゆるメディアと呼ばれる、コミュニケーションの一手段になるのではないでしょうか。テレビは一方的に画と音を送り付けます。ラジオは声を音を、コンピュータはそれを決して一方的に処理しません。誇張して言うなら、対話のできるメディアなのです。個人個人が自分の主体性を持ってかかわりあうことができるもの――これが次の世代の人々が最も求める解答であると思うのです。
『ブーム』といってさわがれているその理由が、かつてのBCLと同じように内部からの自然発生でなくて、外部からの励起によるものであることは明らかですが、これがブームから革命に移る過程は、自発的に、主体的にユーザーが行動できるかということにかかっていると思います」
『ASCII』創刊号にはもう一つ、TK―80に対する「大いなる誤解」の典型ともいうべき、印象的な記事がある。
TK―80と家庭用テレビとをつなぐインターフェイス回路、この二つを木製のレコードケースに収め、潜水艦ゲームやスロットマシンなどのゲームを楽しんでいるという浜幸平。自作のシステムを写真入りで紹介した記事で、浜は「メーカーが何を言おうと、我がマイコンは、コンピュータであるべきなのだ。そろそろコンピュータとして、働いてもらいたいのだがメーカーの謀略に落とし入れられ、まったく拡張性がないのだ! 負けてたまるか! 必ず近いうちに、何が何でも、BASICを使えるようにしたい」と噛み付いている。
二筋の道
TK―80への不満は、そのほとんどは渡辺からすれば誤解にもとづくものだったとはいえ、ビット・インからの報告やマイコン雑誌の記事を通して確実に彼の耳に入ってきた。そうした不満を耳にするたび、渡辺は自らが引き裂かれていくような奇妙な焦りを感じはじめていた。
市場に送り出したTK―80は渡辺たちの思惑を超えて一人歩きを始めた。ひょっとすると今度は、歩きだしたTK―80を自分たちが追ってみると面白いのかもしれない。TK―80用の電源を作り、いろいろな周辺機器とのインターフェイス回路を用意し、記憶容量も大きくする。確かにベーシックが使えるようになれば、TK人気はさらに高まることになろう。
そうした思いが強まってくるのを感じながらも、渡辺はそうした不満の声に応えて動きだすことができなかった。確かにTK―80は予想外に売れてはいた。だが社内には「いくらカタログがはけたってどうしようもない。本業のマイクロコンピューターを売れ」という空気が圧倒的である。とても「カタログを改良してもっと売れるようにする」といった動きはとれない。
彼を縛ったのは、周囲の空気だけではない。
自分自身、日本電気という一大組織のある部分を支えるこまとして自己を規定している。サラリーマンなら誰だってそうだろう。そのこまが、自分に与えられた役割を放り出して逸脱しはじめたら、組織はどうなる。
アメリカに出張させていた後藤富雄からの報告は、渡辺の内心の焦りをいっそう募らせた。
アメリカでは明らかにこれまでは存在していなかった「個人用コンピューター」という新しい商品が成立しはじめている。TK―80を育てていけば、日本にもこのまったく新しいタイプの商品を誕生させうるかもしれない。しかし自らの任されたセクションは、新商品の開発部門ではない。さらに、個人用コンピューターが商品として成り立ちえたとしても、それは日電のまったく苦手とする、民需向け商品となる。
渡辺和也――。
昭和二十年代後半、渡辺が山梨大学工学部電気工学科で学んだというエレクトロニクス。ところでそのエレクトロニクスとは、当時は具体的には何だったのか問うと、「我々のところは特殊ケースで」と笑ってから答えはじめた。
当時のエレクトロニクスとは、要するに通信。増幅、発振、変調、検波とこの四つが分かれば普段はどこに行っても通用したのだという。
ところが電気工学科の名物教授、角川正は、エレクトロニクス=通信とする常識をしきりにつぶしにかかった。エレクトロニクスは通信だけでなく工業一般、さらには日常生活にも幅広く応用すべきだと、盛んに学生たちに吹き込んだのである。事実、渡辺が在籍した当時、この学科では高周波加熱、現在の電子レンジの原理を応用し、木材を乾燥させたり米を乾燥させて味をよくしてみたりと、いかにも親しみやすく、逆にエレクトロニクスの常識からすれば風変わりな研究が行われていた。また渡辺自身の卒論のテーマも、超音波による加工と、本筋からはかなり離れている。
そうしたバックグラウンドを持ち、さらには中途入社という経験を持つ渡辺は、堅い一方という日電マンのイメージからはかなりはずれたところがある。
アメリカで生まれつつある個人用コンピューター。普段なら興味津々で飛びついてくるはずの話題を、苦虫を噛みつぶしたような表情で聞き流している渡辺の姿に、勢い込んで報告した後藤富雄は肩すかしをくったようなもの足りなさを感じていた。
TK―80上の革命
渡辺の困惑をよそに、TK―80は一人歩きを始めた。
ユーザーたちはさまざまなクラブを作りはじめ、マイコン雑誌上で、あるいはクラブの席上で自慢のプログラム、自慢の回路を発表しはじめる。
カセットデッキとのインターフェイス回路を組んで、カセットを外部記憶装置として使う。家庭用テレビとのインターフェイスを自作して、テレビを出力装置として使いはじめる人がいる。TK―80に付いている電卓のようなキーではなく、タイプライターに使われているようなフルキーボードを付ける人がいる。
中でも目立ったのが、ごく小さな記憶容量しか必要としない翻訳プログラムを使い、高級言語、べーシックをTK―80で使おうとする動きである。
TK―80に標準装備されているRAM(ユーザーが利用できるメモリー)、わずか五一二バイトでは、あまりメモリーをくわないようにコンパクトに作られた翻訳プログラムでもさすがに収まりようもない。そこでTK―80に手を加えてRAMを増設し、翻訳プログラムをRAMに読み込んできて、機械語ではなくべーシックでTK―80を使おうというのである。
創刊二号目の『ASCII』一九七七(昭和五十二)年八月号には、わずか二Kバイト(それでもTK―80に標準装備されたものの四倍ではあるが)のメモリー空間に収まってしまう超小型版翻訳プログラム、タイニーベーシックの記事が紹介されている。さらに翌九月号には、TK―80でタイニーベーシックを走らせるための記事が登場し、そうした記事をたよりに、多くのユーザーが自分の持っているTK―80をベーシックの使えるコンピューターに改造しようと試みはじめた。
予想もしえない事件は、別の場所でも起こった。
TK―80を発売する日電と、それを使うユーザーそのどちらにも属さない第三のグループ、サードパーティーが、TK―80に絡みはじめたのである。
スタートはTK―80の箱を開けたユーザーがまずためらうことになる、電源だった。もともとは日本電気とは何の関係もない企業が、この電源に目を付けた。TK―80の規格に合わせた電源を作り、「TK―80用」と銘打って売り出したのである。これが大いに受けた。
さらにTK―80と他の入出力機器をつなぐためのインターフェイス回路、増設メモリーなどがつぎつぎに発売されていった。
もはやユーザーは、マイクロコンピューターを理解するのでも、その使い道に頭を悩ますのでもなく、超小型のコンピューターシステムとしてTK―80をとらえようとしていた。そのためにベーシックを走らせ、他の入出力機器とつないで、TK―80を使いやすいコンピューターに練り上げようとしていた。渡辺たちは日に日に、TK―80タイプのワンボードマイコンの上で、革命が起こりつつあるのを実感していた。アメリカで生まれつつあるという個人用コンピューターなる代物が確かに日本でも姿を現わしはじめ、その上で新しい文化が築かれようとする大きな流れを、肌に感じていた。
マイクロコンピューターの販売、そしてパーソナルコンピューター――。
渡辺の心の中で、シーソーはゆっくりと傾きはじめた。足音が社内に大きく響かぬよう細心の注意を払いながら、渡辺は一人歩きを始めたTK―80を少しだけ追いかけてみることを決意した。
新人類の加入
一九七七(昭和五十二)年四月、後藤富雄がアメリカに出発する直前に入社し、マイコン販売部に配属された新人は、ある種の新人類だった。マイクロコンピューターに対するゲテ物観をなかなかぬぐいきれなかった渡辺和也はもちろん、好きこのんで評価用ボードをいじり回した経験を持つ後藤富雄と加藤明の目から見ても、この新人が新しい世代に属していることは明らかだった。
土岐泰之――。千葉大学工学部電子工学科に籍を置いていた彼が学生生活の最後の年を過ごしている夏に、日本電気からTK―80が発売され、大変な人気を集めた。その直後には、日本初のマイコン誌『I/O』が創刊され、これも急速に部数を伸ばしていった。
だが土岐は、TK―80にも『I/O』にも手を伸ばそうとはしなかった。彼は、半歩だけブームの先を行っていた。
土岐の愛読誌は『ドクター・ドブズ・ジャーナル』。渡辺がアメリカで見つけ、定期購読の手続きをとっていたマイコン誌の走りである。さらに、土岐は、あらかじめメーカーによって設計されたキットには飽き足らなかった。彼は秋葉原でマイクロコンピューターやメモリーのLSIを買い集め、自ら設計してコンピューターのシステムを自作していた。
技術的にはブームの半歩先を走っていた土岐だったが、マイクロコンピューターを中心にして組んだシステムを、個人用のコンピューターととらえるという点においては、ブームのまっただ中にいる人と変わりはなかった。土岐の目にはTK―80は最初からコンピューターに見えた。絶望的に貧弱なマシンではあったけれど――。
渡辺和也はこの新人類に、評価用キットとして生まれたTK―80をコンピューターとして育て上げる作業を命じた。
課題はすでに、土岐自身も所属する新人類のユーザーたちによって示されていた。テレビやタイプライター型のキーボードなどと接続するための回路、もっと大きなメモリー、そしてベーシック――。
のちに振り返ってみればきわめて大きな意味を持っていた作業は、入社数か月の新人の手に委ねられた。だが当時、そのことをいぶかった者は、マイコン販売部には一人もいなかった。パーソナルコンピューターに関しては、まだプロフェッショナルと呼ぶべき人間は一人も存在していなかった。新人もベテランもない。それにかかわるすべての人間が、偉大なアマチュアだったのである。
TK―80にコンピューターらしい表情を与えるために用意された製品は、TK―80BSと名付けられた。BSとはつまり、ベーシックが使えることを指している。
入社後間もない新人は、手ぎわよくTK―80BSをまとめ上げた。ベーシックの翻訳プログラムは、公開されて誰もが使うことを許されていたパロアルト版のタイニーベーシックをもとに、機能を強化、拡大して練り上げた。
TK―80に接続して使い、これを使いやすいコンピューターに変身させるTK―80BS、および関連製品の発表は、一九七七(昭和五十二)年の暮れに行われた。
一人歩きを始めたTK―80を追ったマイコン販売部は、具体的な足跡をまず一つ残した。
もう一つのベーシック
「グッドモーニング」と声をかけてアパートの一室を訪ねると、いかにも学生らしい二人が頭をかきながらベッドから起き出してきた。
マイクロコンピューター絡みの仕事を始めてから、ひげ面や学生らしさの抜けない連中との付き合いにも、渡辺和也は慣れっこになっていた。電子回路によって人間の声に近い音を作り、機械にしゃべらせようという音声合成の研究を行っているこのベンチャービジネスのスタッフ二人も、スタンフォード大学を卒業したばかりだという。
一九七八(昭和五十三)年。
TK―80BSを売り出したあとも、マイコン販売部の仕事がマイクロコンピューターの販売である事情にはいささかの変化もない。そしてこのときも渡辺はアメリカに渡り、マイクロコンピューターの新しい使い道のヒントをつかもうとしていたのである。
最初は気付かなかったけれど、部屋の中にはもう一人若者がいた。黒ぶちの眼鏡に、髪はやはり、肩までとどくほどもある。背はかなり高いが、顔付きは東洋系。どうやら日本人らしい。
「東京からおいでですか」と声をかけると、やはり日本人である。
西和彦と名乗り、マイコン雑誌の『ASCII』をやっている者だと付け加えた。『ASCII』なら、渡辺もよく知っている。アメリカでのパーソナルコンピューターの状況を見るために、しばらくこちらを歩き回っているのだという。
西との会話はここではそれっきりになったが、別れぎわに「東京でまたお会いしましょう」と声をかけた。
東京に帰って一か月後、西和彦から連絡があった。是非会いたいという。
神戸生まれの西は、関西弁のアクセントを交えながら熱っぽく語りはじめた。
「これからは絶対に、スイッチを入れたとたんに高級言語でプログラミングできるパーソナルコンピューターの時代ですよ。その中でも、ベーシックが主流になることは間違いない。そこでマークしなくちゃいけないのが、マイクロソフトというソフト会社、そこの親分のビル・ゲイツという男です」
西の説明によれば、一年前の「パーソナルコンピューター元年」に発売された三種類のマシンのいずれもが、ビル・ゲイツの開発したベーシックを使うようになったのだという。当初TRS―80とアップル
は自社のベーシックを使っていたが、その後マイクロソフト製も搭載することになり、アメリカではこれが本命になることは間違いないらしい。ビル・ゲイツ――。
一九五五(昭和三十)年十月、アメリカ北西部、カナダとの国境に近いシアトルに生まれた。小中高と持ち上がりの名門校、レイクサイドスクールに学んだゲイツは、中学二年のときコンピューターと出会うことになる。授業でコンピューターの基礎を学ぶやたちまちのうちに虜になり、一年分のコンピューター演習用の予算を、二週間で使いきってしまったという。
以降、ゲイツの中学、高校生活はコンピューター一色。コンピューターがいじりたい一心でプログラミングのアルバイトを始め、天才ぶりを発揮してひっぱりだことなり、高校時代には一年間休学して仕事に没頭している。
一九七三年六月、レイクサイドスクールを卒業したゲイツは、その年の九月、ハーバード大学に進む。専攻は法律学としていたが、数学、物理学、コンピューター科学では、大学院の課程をとることを許された。大学のコンピューターセンターで長い時間を過ごしていたゲイツだったが、結局ハーバードとは一年あまりで実質的に縁が切れた。
そのきっかけを作ったのは、『ポピュラーエレクトロニクス』誌一九七五年一月号に掲載されていた、マイコンのシステムだった。電卓のキットを発売していたMITS社のエド・ロバーツは、インテル社から発売されたマイクロコンピューター、i8080を使って、超小型のコンピューターシステムを作ろうと思いたった。入出力機器はおなじみのテレタイプである。
ロバーツのまとめた製作記事は大きな反響を呼び、アルテア8800と名付けたキットは、MITSのヒット商品となる。ビル・ゲイツもこのキットに目を付けた。ただし彼は、MITSにキットの注文をする代わり、雑誌に掲載されていた配線図とマイクロコンピューターの仕様書をたよりに、大型計算機用に開発されていたベーシックの翻訳プログラムをコンパクトに作り変え、アルテアで使える形にまとめ上げたのである。メモリー容量で見ればタイニーベーシックの二倍、四Kバイトを必要とするゲイツのベーシックには、多様な機能が見事に押し込められていた。MITSはビル・ゲイツの言語を、アルテアベーシックとして販売することを引き受けた。ゲイツはさらに機能を拡張した八Kバイト版、一六Kバイト版の開発に取り組み、マイクロソフト社を起こして大学を去った。
一方日電の社内でも、TK―80BSを担当した土岐泰之によって、ベーシックの開発はその後も続けられていた。TK―80BSではわずかに二Kバイトに収まるように作っていたものを、もう少し記憶容量の制限を緩め、その代わり機能を高度化し高速で動くプログラムの開発が進められていたのである。
西和彦の力強い説明を聞くうち、渡辺和也はビル・ゲイツなる人物、そしてマイクロソフトに興味を抱きはじめた。
〈土岐のベーシックはそれとして、ともかく一度会ってみるか〉
西和彦と別れたあと、渡辺は心の中でそうつぶやいた。
ビル・ゲイツとの出会い
一九七八(昭和五十三)年秋、アメリカに出張した渡辺の本業からの逸脱の度合いは、もう少し大きくなっていた。
出張願いには、関連するショーの見学と目的を書いた。だが、メインの訪問先は、ロサンゼルスから東へ約一一〇〇キロメートル離れたアルバカーキーにあった。ショーの見学を一日で切り上げた渡辺は、西和彦からの紹介状を手にアルバカーキーの空港に降り立った。マイクロソフトのビル・ゲイツは、空港で渡辺を待っていた。
ビル・ゲイツを一目見たとき、渡辺は肩すかしをくったような軽い失望を覚えていた。何しろ若い。ほっそりとやせ、ワイヤーフレームの眼鏡をかけたゲイツは、青年というよりも少年といった方が似つかわしい。二三歳になるかならないかで、西和彦よりはほんの少し年上のはずだが、童顔の西よりもさらに若く見える。
しかし話しはじめるや、ゲイツヘの軽い失望はたちまちのうちに、大きな驚きに変わっていった。言葉の一つ一つに、自らの開発したベーシックに賭けるなみなみならぬ執念が込められている。アップル
やPET、TRS―80といったパソコン元年を飾った機種に、いかにしてマイクロソフトのベーシックを売り込んだかをとうとうと語りはじめ、新型のパーソナルコンピューターにいかにアプローチしているかを披露する。その言葉からはマイクロソフトのベーシックに対する圧倒的な自信がうかがえる。マイクロソフトのベーシックの実力はいずれ細かく検討するにしても、ビル・ゲイツの持っているある種の勢いには大いに注目する必要がある。ビル・ゲイツとの会見を終えた渡辺は、「これからはベーシック、それもマイクロソフトのものが主流となる」という西和彦の指摘がかなり的確なものだったことを実感していた。そして、渡辺にビル・ゲイツの存在を吹き込んだ西和彦自身、その後いっそうマイクロソフトへの傾斜を強めていくことになる。『ASCII』の発行を続けるかたわら、西は強引にマイクロソフトと極東代理店契約を結ぶことに成功。日本のパーソナルコンピューターメーカーのほとんどにマイクロソフトのベーシックを採用させ、その実績によって同社の副社長にのし上がっていくのである。
苦しい決断の時
日本電気パーソナルコンピュータ開発本部長を務めた永尾守正は、「最悪のタイミングでパソコン部隊に移ってきた」という。一九五八(昭和三十三)年早稲田大学理工学部応用物理学科を卒業して日本電気に入社。以来、中央研究所で基礎的な研究一筋に歩んできた。
その永尾が渡辺の率いるマイコン販売部、実体を正確に表現すれば、パーソナルコンピュータ開発部兼マイコン販売部に配属されたのが一九七九(昭和五十四)年二月一日。当時マイコン販売部では、TK―80BSに続く新製品を市場に送り出していた。いや、正確には、半製品とでもいうべきか――。
「キットを組み立てたいのではなく、でき上がったコンピューターを使いたいのだ」とのユーザーの声に応じて送り出された新製品は、組み立て済みのTK―80とTK―80BSを組み合わせ、電源と外部記憶装置としてカセットデッキを組み込んでケースに収めたものだった。名称は、コンポBS/80と付けられた。だが本命は別に用意されていた。TK―80のにおいを引きずったコンポBSとは別に、まったく新しいパーソナルコンピューターの開発が、マイコン販売部では進められていた。
マイクロコンピューターを理解してもらうための訓練用キット、それを個人用のコンピューターに近づけるためのTK―80BS、そしてコンポBS。発想の原点はあくまでTK―80にあったものを、どの時点から「パーソナルコンピューターを作る」という意識に置き換えたのか。要するに、組織の中で敷かれたレールから承知で大きく逸脱していくことを決意したのかを問うと、渡辺は「少なくとも日本電気に籍を置いている限り、その問いには答えるべきではない。それに答えるときは、私がこの会社をやめたときだろう」としか語らない。しかし少なくとも、永尾がマイコン販売部に移った時点では、スタッフが開発に取り組んでいたものは、まぎれもないパーソナルコンピューターであった。しかも開発は大詰めにさしかかり、重要な決断を迫られるところまで進んでいたのである。
本命用のベーシックには、二種類が並行して開発されていた。
一つは、マイクロソフトで本命用に開発されたもの。
そしてもう一つは、社内で土岐泰之によって開発されたものである。
最終的にどちらを選ぶかを決めるための会議は、永尾がマイコン販売部に移って二か月後、一九七九(昭和五十四)年の四月はじめに開かれた。
土岐泰之はこの会議に向け、休日返上で二種類のベーシックのテストを行ってきた。その過程で、土岐は自らの開発したベーシックに対する自信を深めていた。
土岐のベーシックの方が、速いのである。
国電田町駅前の日本電気本社ビル。
マイコン販売部は、本社ビル横にある徳栄ビルの中にデスクを持っていた。会議は徳栄ビル五階の会議室で、渡辺をはじめとするスタッフ七名ほどを集めて開かれた。
そのときの息苦しさを、永尾は今も忘れないという。
土岐の開発したベーシックが、けっしてマイクロソフトのものに劣らず、スピードでは勝っていることを、渡辺は重々承知していた。だが渡辺は、マイクロソフトベーシックの実績と、そして何よりもビル・ゲイツの勢いに賭けてみる気になっていた。
意見を求められた永尾も、土岐の開発したものが速いことは承知していることを断わったうえで「大きくはやらせようとするなら、やはりマイクロソフトの知名度をとるべきだろう」と答えた。
本命、PC―8001にはマイクロソフトのベーシックを採用することが決定された。
逸脱への歯止め
「そんなもの作って、いったいどうやって売るんだ」
PC―8001のプロトタイプを前にして、日本電気専務、大内淳義は初めて渡辺の動きにストップをかけた。
大内淳義――。
一九六六(昭和四十一)年、当時の社長、小林宏治の抜擢によって新設された集積回路設計本部長となってから、日電の半導体事業を育て上げてきた、ミスター半導体である。
新設したマイコン販売部が、マイクロコンピューターの理解を得るために、TK―80という教材を作るという。それはいいだろう。TK―80発売の翌年、自らがまとめ役となって『マイコン入門』なるTK―80の入門書を出した。これも最終的には、マイクロコンピューターを売るという本業に結びつくと考えてのことである。
ところが七月にこの本が廣済堂から売り出されると、二か月あまりもベスト10の四、五位につけている。自分自身、「マイコンの本がこんなに売れるなんて、世の中おかしな方向に動いているな」と首をひねってはみても、本業はあくまで電子デバイスの製造と販売である。
各社が同様のワンボードマイコンを発売している中で、今度はTK―80をベーシックの使えるマシンに変身させるTK―80BSを出すという。
それもいいだろう。
さらに続いては、これまでのキットではなく、組み立て済みのTK―80とTK―80BSを組み合わせ、ケースに収めたコンポBSを売り出すという。渡辺の説明によれば、ユーザーの中から「我々ははんだごてを使って組みたいんじゃない。でき上がったものを使いたいんだ」という声が強いのだという。マイクロコンピューターの学習用ではなく、コンピューターとして使いたがっている人間が急増しているということか――。
しかし。
日本電気株式会社――。
一八九九(明治三十二)年、アメリカの電話企業、ウエスタンエレクトリック社が発起人となって設立された、第一号の外資合弁会社。一九三二(昭和七)年には住友系の傘下に入ったが、創業以来一貫して、官需中心に電話機、交換機、のちには無線通信機、コンピューター作りに携わってきたハイテック企業である。
ただし、民需へのパイプは、まったくもって弱い。
子会社の新日本電気(現在の日本電気ホームエレクトロニクス)から家電製品が売り出され、それが唯一、NECブランドと大衆との接点となっていたが、家電への進出はけっして成功したわけではない。
本丸はあくまで電気通信とコンピューター。口の悪い連中には、電電公社の下請けと揶揄されるほどの官需一本やりの会社だったのである。
それゆえ、TK―80の発売当初は誰も見向きもしなかったものが、なまじ売れてくると逆に、社内から「何でそんなオモチャを作ったりするんだ」とか「キットなど作ってクレームがついたら、社のイメージを傷付ける」といった反発が湧いてくる。さらに完成品のコンポBSとなると、これまでのように「カタログに毛のはえたようなもの」といういい方は通用しなくなるだろう。
だが大内は、ここまでの逸脱は許した。いささかフライング気味の渡辺の動きを、押さえようとはしなかった。どうせTK―80が売れているのだから、コンポBSがだめでもいざとなればケースをはずして売ってしまえばよい。ただし、「あまりはでにオモチャみたいなものを作って恥かくのもなんだから、むちゃだけはするなよ。本業はあくまで、デバイス屋なんだからな」と釘をさすのだけは忘れなかった。
ところがこの釘が、さっぱり効かなかったようである。
PC―8001のプロトタイプを前に、大内淳義はしばらくのあいだ悩み続けることになる。
決断のとき
「いくらいいもの作ったといったって、セールスルートがなきゃ売れるわけないだろう」
マイクロソフトのベーシックを積み、市場に出回っているパーソナルコンピューターを大きく上回る性能を持つと、PC―8001の素晴らしさを謳う渡辺に、大内は切り返した。
独断でマイクロソフトと契約したといっても、何億円も持ち出したわけではない。渡辺に預けた研究費で収まる程度の額である。それを問題にすることもない。
いやむしろ、日本電気のような巨大な組織では新しいアイディアは上に伝えられていくうちにつぶされてしまう傾向が強いだけに、渡辺の示した一種の勢いは貴重というべきだろう。
大内自身、組織的な決定に唯々諾々として従い、与えられた仕事だけをこなすタイプの人間ではない。一匹狼的傾向を、多分に備えている。
「自分ほど社内を転々とした人間はいない」と語る大内が当初「これこそ自分の死に場所」と考えたのは、半導体ではなく、メディカルエレクトロニクス、つまり医療用の電子機器だった。
一九四二(昭和十七)年九月、太平洋戦争のさ中に東京帝国大学工学部電気工学科を卒業した大内は、九月三十日に住友通信工業、現在の日本電気に入社、即日休職。十月一日には海軍の技術士官となり、その後敗戦まで、音波探知器に携わることになる。
戦後、すぐに復職することのできた大内だったがそれまで行ってきた仕事は続けることができない。ソナーと呼ばれる音波探知器は、軍事技術として研究を禁じられている。
その後約一〇年間、社内のさまざまなセクションを体験していた大内が、古巣のソナーにもどったのが一九五四(昭和二十九)年。この年、保安隊が改組されて陸、海、空三軍方式の防衛庁が設置され、ソナーの研究、開発が解禁となったのである。
ここまでには、大内に逸脱はない。
しかしソナーの開発を数年間続けたのち、大内は日本電気が手を染めたことのない医療機器分野に、かなり強引に進出を図っている。
多種多様な雑音のある海中に音波を発し、相手の潜水艦に当たって反射してきた信号だけを雑音の中から拾い出すソナーの技術――。この技術における水を人体に置き換えれば、海中に潜んだ潜水艦を暴き出すように、体内の状況をとらえることができる。もちろん、ソナーに使う音波の周波数はかなり低いものになるのに対し、距離の短い人体ではきわめて周波数の高い超音波を使うといった差はある。しかし両者は、技術の基礎的な部分では驚くほど以通っていたのである。
こうした発想から、大内はソナーという軍需技術を超音波診断装置という医療用機器に転用することを目指した。そして大内のまいた新しい種は生長を続け、ついには医用電子部というセクションが新設され、その初代部長に大内はおさまることになったのである。
これまで社内を転々としてきた大内は、このとき「これを一生の天職にしたい」と考えたという。
その願いを、小林宏治社長の一本の電話が打ち砕いた。
「院長が賞を受ける。是非とも表彰式に出席してくれ」との依頼を受け、四国は松山の病院に出張していた大内は、本社からの突然の電話に呼び出された。
社長である。
「今後は集積回路というのが大事なんで、その設計本部を作る。ついては君を本部長にしようと思うがどうか」
現職は医用電子部長。格からいえば本部長代理を飛び越しての本部長就任、二階級特進である。けれど大内には、自分の天職としたい医用電子へのこだわりの方が、二階級特進の魅力よりも大きかった。
「どうか、というのは社長、私の意思をお聞きなんですか」
「そうだ」
「それなら私は、始めたばかりのメディカルエレクトロニクスを続けさせていただきたいと思います」
小林はいかにも不気嫌そうな声で「そうか」とだけ答え、ガチャリと受話器を置いた。出張を終えて東京にもどった大内に、小林は今度は通告してきた。
「いちいち従業員の意思を聞いてたんじゃ会社の秩序が保てない。君、やってもらうぞ」
独走型の大内にも、それ以上の抵抗はできなかった。
「それなら最初から、そうするぞといってくだされば。私もサラリーマンですから。それを、わざわざどうかなんて聞かれるから」
わずかな反撃を試みて、大内は小林の言葉に従った。
その大内淳義が、今度は渡辺和也の独走に対し断を下す立場に立たされていた。
ケチケチ体制のスタート
大内淳義は、迷い続けていた。
もともと自分自身、新しいものには人一倍興味を持ちやすい。医用電子へののめり込みも、そうした大内の性格をよく表わしている。
しかしそうした興味と、経営者としての判断は別物である。
果たしてPC―8001を立ててパーソナルコンピューターを事業化したとして、いったいどうやって売るか。
日本電気には、オフィスコンピューターを取り扱っているディストリビューターとの関係はある。しかし彼らは、一台が何百万円、何千万円となるから売っているので、一〇万円や二〇万円のオモチャなど扱うはずがない。家電ルートで流すといっても電気屋でコンピューターが売れるわけはなかろう。カタログやちらしを作り、新聞に広告を打ち、テレビやラジオを売る調子でかりにもコンピューターが売れるとはとうてい考えられない。
新しい販売ルートを作るとなると、相当の人と金がいる。新しいルートは作ったはいいが、タマがPC―8001一つではあぶなくてとても手が出せない。
そうした一つ一つを渡辺に質していくと、即座に切り返してくる。一歩先を行くアメリカの状況を論じ、PC―8001売り込みのシナリオを解説する。何よりも切り返してくる言葉の一つ一つに、勢いがある。
ユーザーに迫られ、サードパーティーに押し上げられ、東京電機大学の安田寿明や東京大学大型計算機センターの石田晴久らのパソコンイデオローグたちにあおられ、いや何よりも一つの革命が進行しつつあるのだという自らの直観を信じて、渡辺たちは目の色を変えていたのである。
「あのときメーカー側が先に進まなければ、一種の社会的犯罪行為と指弾されかねない雰囲気があった」
渡辺和也は、今そう語る。
渡辺とのやり取りを繰り返すうち、大内はゴーサインを出す気持ちに傾いていった。しかし正直なところ、民需向け製品に乗り出す気になった最大の要因は、電子デバイス全体の好調さだったという。石油ショック後の一時的落ち込みから、半導体の需要は急速に回復していた。そしてPC―8001を扱うのはあくまで好調なデバイス部門の一セクションである、マイコン販売部。たとえこれで多少の赤が出ても、全体では楽に吸収できる。
大内は、ゴーサインを出した。ただし販売ルートに関しては、いっさい冒険はしなかった。秋葉原に続いて、横浜、名古屋、大阪に開設していたビット・イン、そして通常は電子デバイスを扱っている販売店の中で特に希望するところ数か所だけに流すという、新規の経費を抑えたケチケチ体制で臨むこととした。積極的に打って出るのではなく、まずは様子を見たのである。
狼煙上がる
一九七九(昭和五十四)年五月九日、四回目を迎えるマイクロコンピュータショウを一週間後に控えて、日本電気は新型パーソナルコンピューターに関する報道発表を行った。資料のタイトルは、「性能・経済性にすぐれたパーソナルコンピュータ」の発売について。
資料は新型パーソナルコンピューターの特徴を会話型のマイクロソフト系ベーシックが採用されているため、コンピューターの経験がない人でも容易にプログラムが組めること、簡単なプログラミングで八色のカラー表示を駆使でき、高解像度の図形表示が可能なこととまとめている。発売開始は八月を予定。
販売価格も未定だが、一六KバイトのRAMを内蔵した本体価格で一七万円程度を予定。月間二〇〇〇台の販売を見込んでおり、一週間後のマイクロコンピュータショウ'79に出展するという。
結局のところ、PC―8001の価格は一六万八〇〇〇円に落ちつくことになるが、ここに至るまでには半導体屋のセンスを武器にした渡辺の徹底したねばりがあった。
当初、定価に関しては、部品の価格や商品の競争力から見て、二二〜二三万円が妥当とする意見が大勢を占めていた。だが渡辺はねばった。
個人への売り込みを狙うなら、定価は家電製品並み、どうしても二〇万円は切りたい。できれば、一〇万円台でも真ん中に近づけたい。部品にかかるコストを考慮すれば、常識的にはそうした数字はとても出てこない。しかし半導体屋の目から見れば、ありえないはずの数字が十分可能に映ったのである。半導体の世界には、「同じ能力を持つ集積回路の値段は、六年ごとに一ケタ安くなる」という常識がある。さらに、集積回路に対する需要が高まれば、価格の下落にはいっそうの拍車がかかる。
石油ショック後の一時的落ち込みを脱し、半導体生産が急激に伸びているこの時期、渡辺には、半導体屋には、部品の値段がどんどん下がっていくだろうことは、火を見るより明らかだったのである。
定価を二〇万円台とする常識的な案と、一〇万円台とする渡辺の案は平行線をたどっていたが、最終的には日電のミスター半導体、大内淳義の裁定によって渡辺案に決した。
TK―80の販売実績から広報サイドがひねり出した月産二〇〇〇台という数字にも、反発が強かった。コンピューターといえば数値計算を行うもの、要するに電子計算機であるというセンスがまだまだ強く残っていた時期である。ゲームや音楽、さらには事務処理にさまざまな使いこなしがありうるといわれても、実感としてピンときた人が、日電に果たして何人いただろうか。
報道発表を受けて、翌日の日本経済新聞に載った記事の見出しも「個人用電算機に参入 日電 プログラムも簡単に」。
「電子計算機を月に二〇〇〇台売るなど、見通しがあまりにも甘すぎるのではないか」といった意見が、社内のあちこちから聞こえてくる。
PC―8001発表の数か月前にマイコン販売部に移り、TK―80の驚異的な売れ方を実感していない永尾守正は、当時「全部で三〇〇〇台も売れればいいところではないか」と正直なところ考えていたという。
一九七九(昭和五十四)年五月十六日以降四日間のスケジュールでマイクロコンピュータショー'79開催。
PC―8001人気は、初日から爆発した。
平和島の東京流通センターで開かれたショーは、マイコンショーとは名ばかりで、パソコンショーの様相を呈することになった。ショーの主役の座は、前回までの電子デバイスから、パーソナルコンピューターに移ってしまったのである。
日本電気の展示コーナーに、電子デバイスを並べたスペースの一角を借りて、一週間前に報道発表されたばかりのPC―8001が五台展示された。
マイコン販売部のスタッフはショーに備え、当時としては驚異的だった八色のカラー表示能力をアピールしたデモンストレーションプログラムを用意していた。テレビ画面上に表示された色あざやかな三次元図形、マンガの人気キャラクター「まことちゃん」の以顔絵も、巧みな色の使用によって観客に大いにアピールした。
総動員されたマイコン販売部のスタッフは、PC―8001に群がる黒山の人だかりの整理に追われ、つぎつぎに浴びせかけられる質問に答え続けていった。
永尾守正はいく種類かの質問のうち、「パーソナルコンピューターというのは、これまでのTK―80と結局どこが違うのか」という問いが一番多かったのではないかと記憶している。
「TK―80はあくまで訓練用キットでこちらはコンピューター。PC―8001にはさまざまな使いこなしができるよう、いろいろな周辺機器とのインターフェイス回路が組み込まれており、ブラウン管に接続できるのはもちろん、カセットデッキやプリンターとも直接につなげ、オプションのアダプターを使えばフロッピーディスク装置とも接続できます」
そう答えると、目を輝かせてさらに細かな質問を浴びせてくる人もいれば、さっぱりイメージがつかめないと首をひねる人もいる。
後藤富雄や加藤明、そして土岐泰之たちもベーシックの性能やスピードなど細かな質問に追われ、電子デバイスはそっちのけでショーの期間中、PC―8001の説明のみに忙殺されることになった。
マイコンショーの約一か月後、六月二十八日から大阪国際見本市会館で開催されたショーでも、PC―8001は大変な人気を集めることになる。
マイコン雑誌でもつぎつぎとPC―8001の特集が組まれ、高い評価が与えられる。
発売開始以前から、PC―8001には予約が殺到しはじめる。当初の予定から一か月遅れ九月に発売されてからも、数か月間製品が手に入らなかったことを、私も覚えている。
日電PC帝国誕生
「『これからのトップはマイコン(マイクロコンピュータ)ぐらい自由自在に操作できなければダメだ』――日本電気は小林宏治会長の〈鶴の一声〉で幹部全員を対象にしたマイコン勉強会をスタートさせた。「マイコン革命」の推進者を自他ともに認める日電は、これを機に全社的なマイコン派ビジネスマンを養成する教育運動を展開していくことにしている。
小林会長、関本忠弘社長をはじめ全役員と事業部長、合わせて三〇〇人が参加するこのマイコン勉強会は、六日から実施され、来年三月までの毎週土曜と日曜日に開かれる。一回に二十人ずつが休みを返上して勉強会出席を義務付けられ、朝九時から夕方五時まで東京・芝の日電第二別館十階の研修室にかんづめになり講義を受ける。日電の個人用マイコンであるパーソナルコンピューター『PC―8001』が一人に一台あてがわれ、マイコンの使い方、BASIC言語によるプロクラム作成やゴルフゲーム、英文ワードプロセッサ実習など盛り沢山な一日入門コースをこなす。この教育カリキュラムを担当する同社の笹原正隆教育訓練部長によれば、社内にはマイコンの権威は大勢いるが、会長、社長が〈生徒〉ではやりにくいだろうと配慮して、講師は日本情報研究センターの女性インストラクター二人にお願いした、という。
『マイコン入門』(廣済堂出版)の著者であり、〈ミスター半導体〉の大内淳義副社長や、わが国コンピュータ研究開発の草分けで、ソフトウエア技術の第一人者、水野幸男取締役らも、このマイコン勉強会で若い女性講師の『マイコンの動かし方』『プログラムの作り方』といった実技指導、講義の聞き役に回る。
なかには一度もマイコンにさわったこともない幹部もいるとかで、事前に手渡された『マイコン操縦法入門』と題するテキストをみながら、実際に社内のマイコンを動かし、予習に取り組む姿がチラホラ目立ち始めている。
小林会長は『C&C(コンピュータとコミュニケーション=通信の融合)戦略にマイコンは不可欠のもの。マイコンの持つ無限の能力を知るにはまず自分でキーボードをたたき、マイコンを動かしてみることが必要』という。この〈隗(会長?)より始めよ〉式のマイコン勉強会は、来年度から部課長クラスにも実施させることにしており、マイコン操縦法をマスターし、プログラムまで組めることは、これからの日電マンの必須の条件となりそうだ」
一九八〇(昭和五十五)年十二月九日付けの日本経済新聞は「マイコン革命、まず幹部から」と題して右のように報じた。前年にPC―8001が発売されて一年数か月――。
約一年を経て、日本電気会長小林宏治が「C&Cにマイコンは不可欠」との認識に至るまでには、じつはもう一つのドラマがあったのである。
「大内君、PC―8001とかいうやつは、君が勝手にやってるらしいね」
アメリカ出張を終えた小林宏治は、ニヤつきながら大内淳義に声をかけた。
しかるべき書類も提出し、ショーの会場でも説明してきたはずなのに、どうやらこれまでは、超多忙をきわめる小林の頭には、PC―8001は入っていなかったらしい。せいぜいオフィスコンピューターまでは目がとどいても、パーソナルコンピューターは小林の意識には入っていなかったのである。
発売以降、予想を大きく上回って売れはじめたにもかかわらずPC―8001、パーソナルコンピューターは、すぐに日電の社内で認知されたわけではない。
相変わらずPC―8001を担当していたのは、電子デバイス事業本部の一セクションにすぎないマイコン販売部であり、デバイス屋が内職で作ったパーソナルコンピューターにはまだまだオモチャ意識がついてまわっていた。ショーの会場で、招待客にPC―8001の説明をしようと手ぐすねひいているマイコン販売部のスタッフの前を客を連れた営業部員が「これはオモチャですから」と素通りさせ、スタッフをくやしがらせることも一度や二度ではなかった。
小林の頭に、PC―8001がはっきりとは刻み込まれていなかったことも、けっしておかしくはない。日電内でのパーソナルコンピューターに対する認識は、依然その程度のものだったのである。
その小林は、パーソナルコンピューターの本場であるアメリカで「日本電気の製品を扱いたいのだが」との依頼を受け、目を丸くすることになる。先方の話によれば、その製品とはPC―8001とかいうパーソナルコンピューターなる代物で、「そんなものは知らない」と答えると英文のパンフレットを出してくる。パンフレットには確かに、NECの三文字が入っている。
このとき初めて、PC―8001は小林の頭に刻み込まれ、アメリカ出張中に、パーソナルコンピューターが何を起こしつつあるかを、小林ははっきりと認識することになる。そして、自らの唱えるC&Cの主役ともなりかねない存在として、パーソナルコンピューターを位置づけるのである。
「これまでもちゃんと報告してきたのにな――」と内心でぼやいている大内に、小林は追いうちをかけた。
「それに、君らしくもないじゃないか。いつでまも逃げ腰で続けてるなんて」
大内は、シャッポを脱いだ。
PC―8001の出足が予想に反して好調とはいっても、日本電気のまったくもって不得意とする民需製品。どこに危険があるか分からない。へたに先走ってパソコン部隊を独立させ、一人歩きしたとたんに落とし穴にでもはまったら責任の取りようがない。
また、そんなことにでもなれば、先走り傾向の強いマイコン販売部のサムライたちに、大きな傷を負わせることになる。そこで、出足好調とはいえパソコン部隊はあくまで半導体とこみにしておき、たとえ赤字を出しても好調の半導体で吸収する腹を固めていたのである。
どうやら小林に、すっかり見抜かれてしまったらしい。
「こりゃあもう事業部に格上げして、逃げられないようにした方がいいんじゃないか」
小林はだめを押した。
一九八〇(昭和五十五)年四月、パソコン部隊は電子デバイス販売事業部内に新設された事業部に移ることになる。ただしこのときはまだ、大内はパソコン部隊を完全に独立させてはいない。新設された事業部の名は、マイクロコンピュータ応用事業部。担当はパーソナルコンピューターだけでなくマイクロコンピューターの利用分野一般。パーソナルコンピュータ事業部が設立され、パソコン部隊が完全な独立を遂げて社内に認知されるのはそれよりさらに一年後の一九八一(昭和五十六)年四月。PC―8001の発売から約一年半、TK―80の発売からは四年八か月後であった。
力はいずこより
マイクロコンピューターを売るため、その仕組みを理解してもらうための教材として作られたTK―80――。
そのTK―80をユーザーは教材としては認識しなかった。作り手の思惑を超えて、個人で所有できるコンピューターとしてとらえていった。教材として作ったTK―80をコンピューターとして見れば、絶望的に能力がなく、使い勝手を無視した超貧弱マシンと映る。
しかしすべては、この偉大なる誤解から生じたのである。
この誤解を胸に刻み込んだユーザーとサードパーティーは、超貧弱マシンTK―80を押し上げはじめる。電源が売り出され、周辺機器が接続され、ベーシックが使われるようになる。
そのエネルギーを肌に感じて、マイコン販売部は名称はそのままに、徐々にパソコン部隊へと変貌を遂げていく。官需一本やりの日本電気に新しい風穴をあける、企業内ベンチャーの主役に自己革新していく。
TK―80が生まれ、コンポBSがまとめられ、そしてPC―8001が爆発する。
では、すべての原点となった偉大なる誤解は、なぜ生じたのか。
「日本電気のパーソナルコンピューターが伸びてくるにあたっては、カスタマー、そしてサードパーティーの力が大変大きく働いた。もし日電のパソコンを、その道の専門家であるコンピュータ事業部が作っていたら、おそらくはいろいろな応用ソフトウエアは自分で作っていたでしょう。これまでのコンピューターの常識では、ソフトはハードとは切り離せないもの、ハードのおまけ的存在で価値を認められないものでしたからね。ハードを買えば、当然付いてくるものと思われていた。
ところがパーソナルコンピューターを内職で始めたデバイス屋さんには、応用ソフトを作る力などとてもない。どうしても外部の力、サードパーティーに頼らざるをえない。それも、サードパーティーを指導していく力なんてないから、とにかく自由に、勝手にやってもらうしかない。
こうした新しいスタイルは、一面でソフトウエアの独立した価値を認めさせる、という効果を生んだ。現在ではこの影響で、オフィスコンピューターのレベルでもソフトの価値が認められるようになっています。
それとそもそも、応用ソフトを日電の力だけでやったとして、パーソナルコンピューターがここまで伸びたかどうか。サードパーティーとカスタマーに引きずられ、彼らのエネルギーが注ぎ込まれたからこそここまで伸びてきたんでしょうね」
日本電気副会長、大内淳義は今そう語る。
では、日電のPCシリーズに注ぎ込まれたというサードパーティーとユーザーのエネルギーは、どこから来たのか。
取材を終えたあと、腰を上げかける日本電気支配人、渡辺和也に、もう一度日電に新しい種をまき、企業内ベンチャーを繰り返してみたいかと問うた。
「やりたい」と即座に答えてから、渡辺はしばらく考え込み「けれどあんなチャンスは、もうないかもしれない。あんな大きな波は、もうやってこないかもしれませんね――」と付け加えた。
TK―80を彼方へ運んだ大きな波――。
では、その波はどこから来たのか。
何から何までを自分たちでやっていたTK―80からPC―8001にいたる時代。
パソコン事業が組織的に展開されている現在に対し、パーソナルコンピュータ開発本部開発部主任、加藤明はときにさびしさを覚えるという。
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第一部 第二章 タケシ、君の彼岸としてのパーソナルコンピューターよ
1
陽が西に傾くと、凪が風を食う。
広島の夏の夜は熱い。
海風が陸風に吹き変わるまでの数時間、空気はゼラチンでも溶かし込んだように澱む。肌に滲み出た汗は、乾かぬままにいつまでも体毛をはりつかせる。
一九七八(昭和五十三)年九月二日、タケシは広島の熱い夜の底にいた。
三重県津市の西北、なだらかな丘陵に広がるヤマギシズムの豊里生活実顕地。ここでタケシは五か月間のコミューン生活と、二度の精神病院への入院を体験している。
そして前日の九月一日、故郷の広島に帰った。
担当の医師は「このままでは豊里と病院との往復になりかねない」と判断し、一時取りあえず帰郷してみることを勧めた。
二度の入院治療を経ても、タケシの精神の灼熱感は去らなかったのである。
〈もう、生きてちゃいけない〉
心の中で絶え間なくそうつぶやきながら、タケシは考え続けていた。
豊里を出て、妻のヨーコと京都駅のプラットホームに立ち、下りの新幹線を待った。
ひかり二五号――。
途切れなく続く思考の渦の中で、一日が二四時間から成ることの意味を考えていたタケシに、すべり込んできた列車に付けられた番号は天啓のように響いた。二五、つまりは二四の外にあるもの。
〈この列車は、一日の外に僕を運ぶのか――〉
広島に向かう車中、レールの響きに声がまじっているのが分かる。声は、何事かを繰り返し繰り返し語りかけてくる。だがその言葉の意味は、てのひらにすくった水が指のあいだからこぼれるようにつかみとれない。
ヨーコに語りかけようとすると、喉にたんがからむ。
〈しゃべっちゃいけないのか。誰かがしゃべっちゃいけないといってるんだな――〉
口をつぐんだまま、タケシは考え続けていた。そして、心の中で繰り返していた。
〈もう、生きてちゃいけない〉
広島駅に降り立った二人は、タケシの従兄弟のアパートに向かった。タケシの一家が豊里に移り住んだのち、母は広島の従兄弟の家に世話になっていた。
アパートに入ったタケシは、つけっぱなしになっていたテレビ画面に視線をやり、そのまま凍りついた。
たくさんの人が避難を続けている。ヘルメット姿の、あれは消防署員だろうか。怪我を負った人の手当てに忙しく立ち働いている。
〈大地震――〉
またあの奇妙な感覚が、タケシを襲った。自分の怒りが、物質化する。自分が怒ったとき、憎悪を感じたとき、怒りは、憎悪は、災厄となって現実の世界に姿を現わす。
この大地震もまた自分の怒りが、自分という存在が引き起こしたものではなかろうか。
テレビ画面は切り替わり、アナウンサーはその日、地震に対する大規模な総合演習が行われたことを告げた。
タケシは息をついた。
しかし、内心の声は少しだけ大きくなっていた。
〈もう、生きてちゃいけない。自分が存在していることは悪なんだ〉
そして翌九月二日の夜、ヨーコと母が話し込んでいる部屋をタケシは抜け出した。人二人がかろうじてすれちがえるほどの狭い階段を上がり、四階建てのアパートの屋上に出た。
むし暑い空気の中で、肌はじっとりと汗ばんでくる。息苦しい夜の底の隅で、タケシは格闘を続けていた。
屋上に張りめぐらされた鉄製の柵は、意外なほどに細く頼りない。その柵を目がけ、息を呑んで走るが直前で止まってしまう。何度か死の淵へのダッシュを繰り返すうち、肌をつたわる汗はいっそう熱くなった。脳の神経回路はしだいに灼熱化し、夜の闇は白くなっていった。
そして、一瞬の落下の感覚と、左肩から腕、手首を貫く衝撃――。
タケシの体は柵の向こう側にあった。鉄柵の根本を握った左腕が、タケシの体をかろうじて支えていた。
目の前に迫った死の恐怖は、タケシの心に鞭をくれた。
一瞬のうちに右手を伸ばして体を支えなおし、ねじるように体を引き上げる。柵を越えて大きく息をついたとき、白く輝いていた夜の闇は、光を失っていた。
タケシにはもう、柵と向き合う気力は残されていなかった。
狭い階段を下りるうち、だがタケシは再び考えはじめていた。生きているべきではない自分を救ったのは、いったい誰なのか。悪魔とでも呼ぶべき邪悪な意志が、自らの死すべき運命をねじ曲げたのではないか。
〈左手は、悪魔の手なのか――〉
タケシは心の中で繰り返していた。
死の淵から逃れてもなお、頭の中をかけめぐる思考の渦は止らない。
それ以降二度と、自殺への誘いがタケシを完全に支配することはなかった。
しかしその夜から約半年後、TK―80と名付けられたパーソナルコンピューターなる代物に出会うまで、タケシの精神の健康は完全に回復することはなかったのである。
2
瀬戸内海に抱かれた広島、中でも広島湾に面した広島市の気候はおだやかである。
粉雪の舞うことはあっても、積もるのはせいぜい年に一、二度。台風に直撃されることもきわめてまれで、人々の気候に対する不満はもっぱら凪の不快に集中する。
春の足音も早い。
三月末には開きはじめた桜は、四月に入り入学式の相次ぐ時期にはすっかり満開となる。市内を縦に貫く元安川沿いの桜並木は、平和公園に春めいた華やぎを与え、小高い丘といった印象の比治山に人々は酒肴をたずさえて桜を求める。
一九六九(昭和四十四)年四月、タケシは桜の時期に希望する高校の門をくぐった。
卒業生のほぼ全員が進学するこの高校の入試は、かなり難易度が高いとされていた。数学には絶対の自信を持っていたが、英語にはかなり不安があった。それだけに、この高校への合格、そして進学はタケシに昂揚感をもたらせた。
高校生活は、確かに新鮮だった。
しかしその新鮮さは、入学前にタケシの予想したものとはかなり異なっていた。伝統的な校技としてのサッカー、毎年二〇人前後は卒業生を東京大学に送り込む学力レベルの高さ。タケシを驚かせたものは、事前に予想できたそうした要素ではなかった。
高校は揺れはじめていた。
学生たち、少なくとも学生たちの一部は、タケシの頭の中にあった高校生像からはかなり逸脱しているように見えた。
新入生歓迎会は野次の応酬となり、上級生たちは新入生そっちのけで、タケシの目にはえらく高級に映った論議をたたかわせはじめた。
一九六九(昭和四十四)年――。
タケシが受験勉強に最後の追い込みをかけていた一月十八日、加藤東大学長代行の要請を受けて機動隊は安田講堂に立てこもっていた学生を排除。合計六三一人の逮捕者を出した安田講堂攻防戦の実況中継に、多くの人がテレビの前に釘付けとなった。
そして二月十八日には、日本大学が機動隊を導入して、文理学部を最後に、全学の封鎖を解除。
この二つの〈落城〉を経験したあとも、全共闘運動は即座には沈静化しなかった。紛争の炎は地方の大学へ、そして高校生へと飛び火し、学生たちの揺れは総体として見ればますます大きなものとなっていった。
そして、歌声が響きはじめた。
フォークソング自体が日本で聞こえはじめたのは、タケシの高校入学の時期よりもさらに二、三年前にさかのぼる。
ギターを抱えての弾き語りというスタイル、あるいはギターの奏法などにおいて、一九六〇年代半ばから広がりはじめたフォークソングには復古的なにおいも入りまじっていた。
しかし年若い世代は、フォークソングをまったく新しい種類の音楽として受け取った。音楽のプロたちによって作られ、演奏される、他人からの供給物ではなく、自らをとらえなおすための道具、自己表現の手段として、フォークソングを利用しようとしたのである。
この流れの中から、アメリカではボブ・ディランが生まれ、日本でも高石ともやや中川五郎、そして岡林信康といったヒーローたちが生まれてくる。彼らの多くは、音楽の専門性を否定したところからスタートしたにもかかわらず、自らがプロになっていくという自己矛盾にその後悩まされることになるが、そのことは逆にこの時期のフォークソングの持っていた一種の新しさを示しているともいえよう。
そしてこの時期、フォークソングは直接に政治の場に登場してきたのである。
安田講堂攻防戦の直後、新宿西口の地下広場で、長髪の貧相な若者たちがギターを抱えて歌いはじめた。若者たちは、毎週土曜日の夕方になると決まって現われ、彼らを取り囲む人の数もしだいにふえ続けていった。彼らはしだいに、自らを東京フォークゲリラと名乗りはじめ、マスコミで一斉に報道されるようになる五月までに、土曜日ごとに持たれた歌の集まりは、集会と呼ぶべき規模にまで膨らんでいた。
そして五月十七日、新宿西口地下のフォーク集会の規制に、初めて機動隊が動員された。だが機動隊による実力規制は、むしろ集会への参加者をふやす効果しかもたらさなかった。
それから六週間後の六月二十八日、西口広場のフォークソング集会にはこれまで最高の約七〇〇〇人が集まった。
この日の早朝、新宿郵便局に郵便番号自動読み取り機が搬入され、これに抗議するデモ隊は夜になっても局を取り巻いていた。一応歌い終わったフォーク集会の参加者は、デモ隊に合流しようと動きはじめた。
地上で待機していた機動隊員約八〇〇人はこの動きを規制。西口広場にはガス弾約一〇〇発が撃ち込まれ、六四人が逮捕された。
この事件後、警察は西口地下広場は道路交通法上の道路であると発表。駅のカンバンからは広場の文字は消え、「西口通路」と書き換えられた。
3
この時代の揺れに、タケシの入学した高校も共振しはじめていた。
受験を控えた三年生が比較的大人しく見えたのに対し、二年生にはかなり、タケシの抱いていた高校生像から逸脱し、時代の揺れに共振しはじめた連中が多かった。
そうした連中が、タケシにはひどく新鮮に見えた。
彼らの一部は「なれあいうたの会」と称する集まりを開いていた。学校に公認されたクラブでもなく、またもともと公認されようなどとかけらも思っていないこの集まりのメンバーは、利用できそうなスペースがあるとそこに群れはじめ、追い出されるまではしごくあっけらかんとそこに居座った。
彼らは自分たちの歌をフォークソングとは呼ばず、単に「うた」と称していた。たまり場には常に、ギターが放り投げてあったが、タケシの目にはギターなる代物は単なる楽器ではなく、それ以上の存在に映っていた。
「うた」を作り「うた」を歌うための道具は、詩をつづるペンであり、自己と向き合うための鏡であり、社会に目を向ける望遠鏡でもあったのである。
タケシは入学そうそうから、この集まりの輪に加わった。
逸脱分子を集めた形の「うたの会」は、議論の会であり、表現の会であり、彼らなりの政治の会でもあった。
一九六九(昭和四十四)年十月十日、ベ平連、全国全共闘会議、反戦青年委員会など新左翼系の四〇〇団体は、安保粉砕、佐藤訪米阻止などをテーマに、全国五三か所で統一行動を行った。
そのデモ隊列の中に、高校一年生のタケシもいた。
会場に指定された平和公園内、原爆資料館前の噴水近くには校内の活動家やうたの会のメンバーに加え、これまでには話したこともない、同じ高校に通う学生たちの姿が見えた。
デモの後尾について歩きはじめたタケシは、シュプレヒコールの文句を単純に繰り返すことはできなかった。「この文句は言えるか言えないか」と一つ一つ首をひねり、納得のいった言葉だけ大きな声で繰り返した。
その年の十二月、これは学校公認の新聞編集委員会からガリ版刷りのミニコミ紙が発行されはじめた。本丸の学校新聞はそれとして、「自分の考えを人に知ってもらうための私たちの広場だ」と位置づけられたこのミニコミ紙は『しかし』と名付けられていた。当時人気の高かったマンガの主人公の決まり文句「しかし、これでいいのか諸君」をもじって付けたこの紙名に、学生たちは目の前の現実に異議を唱える志を込めていたのだろう。
そしてこのミニコミ紙上で、活動家やうたの会のメンバー、さらにはその他の学生たちが発言を始める。
集会への参加呼びかけや公認のクラブでもないのに我が物顔に活動を続けるうたの会への非難、そして自作の詩などにまじって、自らの言葉や行動、日常の一つ一つを検討しようとする発言が現われる。
そう、ちょうどタケシがシュプレヒコールの文句を一つ一つ内省していったように。
タケシとともに十月十日のデモの隊列に加わったうたの会のメンバーは、その日の体験を取り込んで『しかし』の創刊号にこう記している。
「先日僕はあるデモに参加してみて、と言っても僕たちはうしろの方を歩いていただけであるが(それでも当人は非常に意義のあることだと信じている)それでも機動隊の規制をうけた。畜生メと感じたわけであるが、いっしょにフォークゲリラのギターを持った連中も歩いていたから、まあ当然歌い出したわけである。はじめのうちはかなり白々しくて、うたう気にもなれなかったが、規制をうけるとコンニャロメってわけで『友よ』や『栄ちゃんの』などをうたいだした。また、機動隊がびっしり並んでいる前で『機動隊ブルース』をうたったら、何ていうか『ザマァミロー!』って言うか『これでもくらえ』みたいな感じで非常にソウ快であった。しかし?!……?! たしかに歌は現実の闘いの中でうたわれることによって連帯感を生み出し、また闘いにある力を与えることは事実である。そしてその結果、一時、マスコミにもてはやされた〈新宿〉の様な目的に使われるようになることも事実である。もっとも新宿などの場合、もっと他にも問題があるわけであるが。つまり〈うた〉を闘争の武器として使うことによって、そのうた自体の根源的思想とか、また、うたとしての働きをまったく無視、あるいはゆがめた形でしか表現されないということである。このことは政治行動の手段としては、うたの持つ連帯促進の働きや、そのアピールするものを推し出すことによって目的を達するかもしれないが、うたの側から言った場合それは非常に危険なことなのである。うたは街頭における政治行動としてうたわれる時にもその直接的な行動を越えて、歌い、あるいはそれを聞き共に歌いはじめる人々の心をとらえ、魂を呼びさまし、ひとりの民衆としての自分を認識することへとゆり動かして行く。そういう働きをしてこそ本来の使命を持ち得るのであろう。
つまり〈うた〉は、単に問題提起であると言い切らないで、もっと深い、ヒューマンな感動を持って人々の心をゆり動かしてこそ、意義あるのではなかろうか。そのためにも我々自身のうたを持ちたいものだ。(T・N)」
運動の道具として機能する歌の有効性、デモの隊列の中で自らも声を合わせて歌うことの「ソウ快」さを味わいながら、この一文の筆者はそうした自分をもう一度対象化しようと試みている。
「うた」が道具として機能させられるとき、それの持つ可能性のいかに大きな部分が失われがちになるかをかぎとっている。事実、フォークゲリラ運動は、大阪を中心として数年前から活躍していた高石ともや、中川五郎、岡林信康といったヒーローたちの手になるうたを歌う運動としては華々しく展開したが、運動の中では新しいうたをまったくといっていいほど生み出していない。
唯一の例外はときの総理大臣、佐藤栄作を揶揄する「栄ちゃんのバラード」であろうが、これは運動の中で歌われたものの中で、間違いなくもっとも底の浅い代物であった。また、先ほどの引用文の「うた」を「自己」に置き換えてみても、かなり示唆的である。
政治であり、闘争であり、変革であるという。しかしそのための道具として自己が機能させられるとき、いかに矮小な形でしか存在しえなくなることか。
この高校生は、自ら強く引かれる「うた」を見つめることで、そうした危うさを無意識に感じとっているように見える。
彼の締めくくりの言葉、「そのためにも我々自身のうたを持ちたいものだ」を少しだけ広げ「我々自身の変革を実現したいものだ」としても、言葉の裏にある精神の改竄には当たるまい。
そしてタケシはこののち、「我々自身の変革」なる課題と格闘し続けることになる。
4
一九七一(昭和四十六)年、インテル社によって世界初のマイクロコンピューターが開発されることになる年の三月、校内の逸脱分子たちは大量に卒業していった。
四月、タケシは高校三年生になった。
二年たらずのうちに三二号まで続いた『しかし』は、卒業生からの原稿もまじえて数号続いたあと、もう出なくなった。
ずいぶんと静かになった校内で、タケシは宙に浮き上がったような奇妙な感覚を味わっていた。ハシゴを上って屋根に出たところで、突如ハシゴは倒れた。では、もう一度地上に飛びおりるのか。それともどこかへ自らがハシゴをかけ渡し、その場所を目指すのか。
では、ハシゴを渡すとして、いったいどこへ――。
その答えが出ない。
例年なら進学率が一〇〇パーセントに近いこの高校では、クラブ活動は二年生の秋、少なくとも三年になるまでには引退となり、学生たちは受験の準備に取りかかりはじめる。
一年上の逸脱分子たちも、その多くは大学を受験し、ある者は合格、ある者は失敗して浪人生活を始めた。
しかしタケシは、受験に向かう同級生たちに足並みをそろえる気にはなれなかった。
結局のところ大学なる存在は、国家なり資本家なりが大量の資金を用意して設置し、維持している空間ではないか。そこで何をやろうと、たとえ大学の現状に対して弓を引くような運動に加わろうと、所詮は大きなてのひらの中で遊ばされているようなものではないか。タケシにはそう思えた。
では、取りあえず自分なりに大学に対する拒否を宣言したところで、自分は何をやるのか。残された高校の一年を、どう過ごすのか。
タケシには答えられなかった。
高校二年の年から始められていた自主講座の一つ、コンピューター講座にはタケシも必ず出席し、高級言語の一つであるフォートランの解説を受けていた。しかし一年上が卒業してしまうと、すっかり静かになった校内からは、自主講座の継続を望む声もほとんど聞かれなくなった。
三年生の夏休みを境に、タケシは高校にほとんど興味を失っていた。
「僕の高校生活は二年で終わったのだ」と腹をくくり、かろうじて出席日数の下限をクリアーできるだけ、授業に顔を出した。
そしてこの時期、タケシはヨーコへの傾斜を深めていった。
5
「子供できたよ」
淡々とヨーコが告げたとき、タケシはむしろホッとしていた。
一九七二(昭和四十七)年一月、高校卒業は二か月後に迫っていた。
大学に進まぬことは決意していても、では高校を出て何をするのか、この時期にいたるまでタケシは決めかねていた。そんな宙に浮いたままの自分を、子供はとにもかくにもどこかにつなぎとめてくれるのではないか。ヨーコとの不安定な関係も、結婚という手続きを踏むことで落ちつくのではないか。
タケシは目的がふいに目の前に現われたことで、自らが活性化されてくるのを感じていた。ヨーコとの二人の共和国づくり、いや生まれてくる子との三人の共和国づくりは充分に生きることの目的たりうるのではないか。
一つ年上のヨーコは、高校卒業後広島市内に下宿し、保育園で保母として働いていた。タケシの目には、ヨーコもまたごくあっさりと妊娠という事件を受けとめているように見えた。
周囲には、年若い二人の結婚と出産を危ぶむ声もあったが、二人はともに歩むことを決意した。
進学一本やりの高校では、大学受験のための進路指導は手厚く行われても、就職希望者への指導には経験も力もない。
二月に入ったとき、タケシは高校を頼る気持ちを捨てた。
「悪くないな」
タケシは白い息を吐いてつぶやいた。
気候のおだやかな広島とはいえ、二月の風は肌を刺す。背中を丸め、てのひらを吐息であたためながら、タケシはポスターの文字を目で追った。
「警察官募集」
今からすぐに手続きをとれば、試験日には間に合う。合格すれば一年間、警察学校で教育を受け、そのあいだももちろん給料は支払われる。
「面白いのかもしれない」
タケシはもう一度つぶやいた。
結婚し、子供を育てていくためには、とにもかくにも定職につく必要がある。警察官という職は、その最低条件は明らかにクリアーしている。さらに警察という職場では、自分の中に緊張感を持続できるのではないか。
タケシはそう考えた。
警察という機構の果たしている機能にはかなりの幅があるのだろうが、少なくともデモの規制に駆り出される機動隊に関しては、タケシの目には国家の暴力装置としか映らなかった。しかしそうした機能も含め、警察という組織で物事がどう進められているかを自分の目で見ておくことは、面白いのではないか。
申し込み手続きをとり、試験は広島の警察学校で受けた。
タケシが就職の準備に追われていたこの年の二月、テレビカメラは軽井沢のある別荘をにらんだまま動かなくなった。
一九七二(昭和四十七)年二月十九日――。
連合赤軍の五人は河合楽器の浅間山荘に、管理人の妻を人質に立てこもった。
報道陣は軽井沢に殺到し、テレビ各局はえんえんと現場の模様を中継し続けた。
そして二月二十八日、機動隊は浅間山荘に突入、銃撃戦ののち五人を逮捕して人質を救出。警官二名が死亡、一三名が重軽傷を負った。
翌三月、連合赤軍内のリンチによる死亡者の遺体、続々と発見。発掘された遺体は一二に及んだ。
連合赤軍による事件が浅間山荘への立てこもりから内部でのリンチによる殺人へと大きくその相を変えた時期、タケシは合格の報せを受けた。
広島以外でも、東京、大阪、京都、神戸などの警察学校への入校を希望することができた。タケシには、もともと広島に残る気持ちはなかった。ヨーコとの新しい共和国建設には、新しい空間が必要だった。タケシは広島に倦んでいた。
東京にはかつての仲間が多くいたが、そこを選ぶ気にはなれなかった。昨年の十二月二十四日、ジングルベルが最高潮に達しケーキの売り子の声が大きく響くイブ、新宿の繁華街で五七歳の警察官が左足を失った。道路をはさんでデパートの伊勢丹と向かい合う派出所横で、クリスマスツリーに見せかけた爆弾がすさまじい音とともに炸裂。警察官と通行人、合わせて一二名が重軽傷を負った。
その一週間ほど前にも、爆弾テロによる死者が出ていた。
十二月十八日、東京豊島区の土田国保警視庁警務部長宅の応接間で小包に仕掛けられた爆弾が炸裂し、夫人が死亡、四男が重傷を負っている。
タケシは東京が恐ろしかった。共和国建設の空間としては、あまりに肌触りが悪かった。新しい生活のスタートは、昔からあこがれのあった京都で切ることとした。
一九七二(昭和四十七)年三月十四日、高校を卒業。卒業式のあと、その足で婚姻届けを出した。
警察学校は全寮制である。
京都と大阪を結ぶ阪急京都線の沿線に、六畳と三畳の二間、台所とトイレのいわゆる文化住宅を借り、ヨーコはそこで暮らすことになった。
6
一九七二(昭和四十七)年四月一日付け辞令。
「京都府巡査に任命する。
京都府警察学校初任科に入校を命ずる。
公安職五等級五号給を給する」
国家公務員の上級職で入ってくる者以外、警察を職場として選ぶ者はすべて警察学校に入り訓練を受けることになる。訓練期間は大卒で半年、高卒で一年。
一回九〇分の授業が午前二回午後二回の計四本。調書を書く機会の多いことから国語の授業は重視されており、様式にのっとった調書の表記法や漢字が叩き込まれる。学科のもう一つの柱は、法律。憲法、刑法、刑事訴訟法、警察法などの講義を受ける。
いかにも警察官教育らしいのは、実技課目。
犯行現場の保存や実況検分のやり方、実況検分調書の書き方など、外勤警察官に求められる要素を内容とする、外勤一、外勤二。さらに逮捕術や拳銃操法、無線の取り扱いなどの修得が図られる。
京都市南部、洛南――。
京阪本線で南に下り、深草で下車。観光客は進行方向左に折れて琵琶湖疏水を渡り、宝塔寺や石峰寺、瑞光寺を訪ね、全国に広がるおいなりさんの総本宮、伏見稲荷大社に足を伸ばす。
深草で電車を降り、観光客とは逆に進行方向右に折れると、竜谷大学と向かい合って京都府警察学校がある。
四月とはいえ、京都の春には冬の名残を思わせる日がまじる。広島ではほころびかけた桜に送られたタケシは、花見にはもう少し間遠な京都で新しい生活のスタートを切った。
タケシの同期は、高卒が二小隊、大卒が一小隊。一小隊は、四〇〜五〇人ほどで構成される。さらに秋には、中途採用の高卒組が一小隊ほど入ってきた。同期のおよそ半分は地元の京都出身者で、残りは九州出身が多かった。
基本的にはお坊ちゃん、お嬢ちゃんがほとんどだった高校の同級生たちに対し、警察学校の同僚たちは多様である。
父親や兄など家庭内に警察官がおり、ごく素直にこの職業を選んだタイプ。こうしたタイプは一般的に真面目で、警察学校内での成績のよい者が多い。
いかにも正義感が強く、社会悪を許さないといった熱血漢タイプ。高校まで柔道や剣道をやっており、警察でも続けていきたいというスポーツマン。不良っぽいツッパリタイプ。
こうした多様な人種が、二四時間の集団生活を送り、六人部屋の二段ベッドで眠る。
高校最後の一年間をまったくの宙ぶらりん状態で過ごしたタケシにとって、警察学校での日常はかなりの手応えがあった。授業で教えられる内容は課題が鮮明で具体的であり、入学前に予想していたよりもはるかに自分にとって面白かった。
授業で体を動かすことにも充実感があった。
さらに放課後のクラブ活動にはサッカーを選び、授業の終わった四時ごろから、毎日二時間ほどボールを追った。
外泊は月に二度許された。その日が近づくと、胸は躍る。
深草駅から京阪本線で四条まで上がり、鴨川を渡って京都一番の繁華街、四条河原町を少しだけ歩き、阪急京都線の河原町駅にもぐりこむ。四条河原町の賑わいにも、タケシは寄り道する気にはなれなかった。ともかくも早く、ヨーコの待つアパートへ帰り着きたかった。
ともに暮らすことを決意したばかりのタケシとヨーコにとって、一日はあまりにも短い。逢瀬の喜びが大きければ大きいだけ、深草へのもどりの時刻が近づくと、タケシの胸は染みた。
京都の冬は酷薄である。
そして、冬に失われた地熱をしゃにむに取り返すかのように、京都の夏は熾烈である。
大地がいっぱいに熱をはらんだころ、ヨーコは臨月を迎えようとしていた。
タケシの母が、広島から駆けつけた。
一九七二(昭和四十七)年九月、長子誕生。男の子は、ヒカルと名付けられた。
タケシは一八歳の父、ヨーコは一九歳の母となった。
そして翌十月、この月に行われた警察学校の試験が、タケシに揺さぶりをかけた。
タケシの成績は、高卒の同期中トップだった。
四月の入学以来、同僚たちとは仲良くやってきた。同室の人間とも、サッカー部の連中ともトラブルはなかった。
タケシが警察官の募集に応じるにいたった心の軌跡は、同僚たちほどまっすぐなものではなかった。日常のあれこれでは仲間たちとうまくやってはいても、内心は隠さざるをえない。
ただし、そうした息苦しさ、奥歯にもののはさまったような歯がゆさはあったものの、タケシは警察学校の課程を終了し、少なくとも数年は警察官として勤務するつもりでいた。
ところが試験の結果にタケシの心は揺れた。
警察学校での試験によい成績をおさめることは、当然のことながら警察官としてやっていく適性を認められたことを意味する。教官からも、試験のあとはことのほか目をかけられる。警察学校での日々に充実感を持ち、授業を面白いと感じ、警官としての適性を認められる――。
「このままいったら、やばいんじゃないか。本当の警察の人になってしまうんじゃないのか」
タケシは迷いはじめた。
卒業後、割り当てられる可能性のある仕事の内容も、タケシの迷いを深めた。成績優良者は、おうおうにして警備関係にまわされることが多い。
警察用語でいう警備とは、共産党や新左翼など左翼関係の情報収集作業である。卒業後、自らが警察官として行っていく仕事の内容が明確になってくるにつれ、タケシの迷いはいっそう深くなった。
内心の迷いは明かさぬまま、タケシは退職を申し出た。理由は「家庭が強く気にかかり警察官の重責を全うできそうもないため」とした。教官はいかにも意外といった表情で、タケシの申し出を聞いた。形ばかりではなく、強く慰留されたが、翻意する気にはなれなかった。
肩に氷の針を刺す京都の冬、タケシは深草を去った。
一九七三(昭和四十八)年一月二十四日付け辞令。
「辞職を承認する。」
この年、日本電気はインテル社のセカンドソースとしてマイクロコンピューター、μCOM―8の製造を開始した。
7
タケシが警察学校を去って三日後、一九七三(昭和四十八)年一月二十七日、アメリカ・南ベトナム、北ベトナム・南ベトナム臨時革命政府は、パリでベトナム和平協定と議定書に調印した。
翌二十八日、協定は発効。二十九日には、アメリカ大統領ニクソンがベトナム戦争の終結を宣言した。
結婚を決意してからちょうど一年後、タケシとヨーコ、そして生まれたばかりのヒカルの生活がスタートした。
ニクソンによるベトナム戦争終結宣言の直後には、タケシはもう働きはじめていた。母方の伯父は大阪で電話工事の請け負いを行う会社を営んでいた。この会社が、電電公社からの業務委託の共同の窓口となり、各実行グループに仕事を割り当てる。その実行グループの一つを従兄弟がやっており、その一員に加えてもらったのである。
電話工事の朝は早い。
午前八時には事務所に集まり、たいていは二人がペアとなって取り付けに回る。工事を行う場所にもよるが、新設工事なら一日に一〇件ほどがめど。グループによっては多少傷んでいても昔あった線をそのまま使ってしまい、手抜きで効率化を図るところもあったらしいが、タケシの入ったグループは、真面目一本やりだった。時間内びっちり働いても、アパートに帰り着くのは八時、九時となる。
生活は、単調ではあるが確実なリズムを刻みはじめた。
タケシには、新しい電話工事の仕事への不満があったわけではない。特に仕事を始めた当初は寒さの厳しい時期であり、作業内容も新興団地の構内ケーブルの配線と吹きっさらしでの作業であったため、寒さはこたえた。
電話工事の仕事になれてくるにつれ、しだいに暖かくなってきても、忙しさには変わりがなかったが、それが不満に結びつくことはなかった。繰り返しの要素の多い仕事ではあったが、その中でも小さな達成感はあった。構内ケーブルを美しく仕上げたり、工事のオーダーを少し多めに持っていって一日のうちにやり終えたりすれば、その場限りとはいえささやかな達成感はあった。
ただし、自分の毎日に充実感はあるかと問われれば、タケシはおそらく首を横に振っていただろう。
「生活に充実感はあるか」などという愚問がたずねられた当人に多少の重みを持つとすれば、それはすなわち、当人の心になにかしら渇きのようなものがあることを示しているに違いない。そのような渇きがなければ、誰が「生活の充実感」などという不確かな存在に思いをめぐらすだろう。
タケシには充実感はなかった。いや、正確には、ないのだと考えていた。
高校時代の友人たちは、ほとんどが大学に進学している。そのことを思うと、タケシの心は焦れた。
大学に進まないという選択を悔いたわけではない。大学の拒否は、自らの選びとった道である。だがタケシの内心の渇きは、友人たちの日常に幻想を与えがちになった。彼らは大学で、あるいはそれ以外の場所で、自分の手にすることのできない新しい何かをつかみとっているのではないか。
タケシは心の中に、〈明日〉を喰う虫を一匹飼っていた。
厳しくはあるが確実に繰り返されていく仕事を中心にした毎日。ヨーコやヒカルと過ごす一時。そうした連綿と続く波のない日常の中で、虫はしだいに腹を空かせはじめる。餌をよこせと、タケシの心の壁をつつきはじめる。
目の前に現実に存在しているものの総和が今日であり、〈明日〉とは、それを時間軸に沿ってちょうど二四時間だけ移動させた存在にすぎないとき、虫は腹を空かせる。騒ぎはじめた虫からの信号を、心の壁をこわばらせて閉ざしてしまえば、それでも虫はしばらくのあいだ虚しい叫びを上げ、やがては餓死しよう。
しかしタケシは、タケシの生きてきた時代は、誰の心にも棲んでいる心の虫を少しだけ大きく育てすぎてきた。そしてタケシの心の壁は、虫からの信号を閉ざしてしまうにはいまだにあまりに柔らかく、新鮮だった。
「私らのために働くんじゃなくて、もっと自分のやりたいことをやったらええじゃない」
電話工事の仕事を始めてから、ヨーコは口癖のようにタケシにそう言うようになった。おそらくはヨーコ自身、タケシに向かってそう言うことで、自らの虫からの信号と折り合いをつけようとしていたのであろう。
ヨーコの心の虫も、飢えていた。
8
一九七二(昭和四十七)年秋、タケシが警察学校を続けることを迷いはじめたころ、中国研究者で早稲田大学教授の新島淳良は心の虫に応え、ある決意を固めていた。
十一月二十日付けの毎日新聞は、「中国研究の新島教授/突然の転身/早大を去り『山岸会』へ」の見出しで彼の決意をこう伝えている。
「リンチ事件で揺れ動く早稲田大学で、政経学部の新島淳良教授(四四)=東京杉並区永福四の一二の一八=が、このほど突然辞表を出した。といっても革マル派騒動とは関係ない。気鋭の中国研究者として知られた同教授は、三重県に本部のある『山岸会』へ行き『共同生活実践の中で中国研究を続ける』という」
一九二八(昭和三)年、中華民国の政治家、張作霖が日本の関東軍によって爆殺された年、新島淳良は生まれた。中学時代から中国に興味を持ちはじめ、その後一貫して中国研究者としての道を歩み続けた。
新島にとって中国とは、希望の代名詞だったようだ。
「私にとって、中国とはなんであったか。それは私のユートピアでありました。魯迅と毛沢東を結ぶ革命の思想にみちびかれ、一〇億にちかい人間たちが人類の未来の社会をもとめて、巨人の足どりのようにあゆんでいる。地上に存在する理想社会だと、しんそこ思っていたのです」(『阿Qのユートピア あるコミューンの暦』晶文社、以下引用は同書)
その中国で、一九六六(昭和四十一)年五月、文化大革命が始まる。新島はあくまで、中国で開始されたこの新しい革命を支持するという立場を守りながらも、「巨人の足どりのようにあゆんでいる」はずの中国で、なぜそのとき新しい革命が求められるのかに悩んでいた。
中国に行き、自らの目で文化大革命を見、その本質をつかみたいと考えていた。
そして一九六七(昭和四十二)年の春を皮切りに、つごう四回にわたって中国を訪れている。
中国で、新島は貪欲だった。
機会あるごとに人々に話しかけ、ノートをとる。新聞やチラシ、パンフレットの類は手当たりしだいに集める。壁新聞は一字も読み残すまいと隅から隅まで熟読する。
そうして文化大革命の実相に触れようと動き回りながら、新島は自らのユートピアである中国が大きく揺らぐのを感じとっていた。
「私にとっていちばんショッキングだったのは、同じ毛沢東思想をかかげる若い人同士が、それこそ目をおおうほど残虐に殺しあいをし、拷問をするという事実だったのです。これが私のユートピアだろうか?」
自らが目にしたものによって、大きく揺らいだユートピアとしての中国――。新島は、揺らぎはじめたユートピアの再構築を試みる。
「私は持ちかえった資料や自分の見聞をもとにして、私のユートピアとしての中国を必死に再構築しようとしました。たくさん論文を書きましたし、本も出版しました。ある時期はひと月に百枚以上も書きました。どんなふうに書いたのかといいますと、私の目撃した生ま生ましい、否定的なものは切りすてるか水でうすめて、毛沢東のユートピアを前面におしだしたんです」
現実の中国から、毛沢東の言葉にずらすことによって自己のユートピアの再生を目指した新島は、毛沢東の未発表の演説や談話を集め、その成果を『毛沢東最高指示』(新島淳良編、三一書房)という翻訳本にまとめ上げる。
このユートピア再構築の試みの成果である『毛沢東最高指示』は結果的には新島の中国離れをいっそう促進させることになる。
中国国内で集めるさい、読むことはかまわないが国外には持ち出さないでくれと釘をさされていた資料を公表したこと、台湾から出ている、中国から見ればいかがわしい資料を使ったことなどにより、自らが肩を並べてきた親中国派の面々から猛烈な非難を浴びたのである。
どう行動し、どう発言するべきか、新島は迷っていた。
そんなとき、山岸会に出会った。
ヤマギシズム特別講習研鑽会、略して特講に参加したのである。
特講は新島を変えた。
「さて、特講を受けました。特講の内容については、何も申し上げないことになっています。今日申し上げるのは、私が特講後どう変ったかということなのです。私が受講したのは五月一日の一週間で、ちょうど季節は良いし、私はふわふわーっといい気持になったのです。私が思ったことは二つありました。ひとつは、どんなひととでも仲良くなれるんだなーということ。五四人のはじめて会った老若男女の受講生と世話係に、私はかつてない親愛の情をおぼえた、これがひとつです。もうひとつは、どんな問題でも――私がそのときたくさんのクエッション・マークをかかえていたことはすでに話しましたが、そのどの問題も自分だけで考えるのでなくて、あるいは自分が考えるのでなくて、みんなの前に『放す』、しゃべるという意味の『話す』でなく、手放すという意味の『放す』ですが、放すことによって解決されるという啓示のようなものです。自分だけでかかえこみ、答えをだそうとするのでなく、みんなのまえに公開し、問いかけ、どんな答えでも聞ける、まあ言葉にしてしまえばこういうことになるのでしょうか。――」
特講を体験した月の末、新島は「ひろい意味での解放運動に携わっている」女性の芸術家、Mから、突然の電話を受けた。彼女は、歴史学者としての新島に「朝鮮戦争は北が起こしたのか、南が起こしたのか」とたずねかけてきた。Mは切実に、その答えを欲していた。
かつての日本の植民地、満州で少女時代を過ごしたMには、朝鮮人の同級生も多かった。日本の敗戦後も彼女たちとの文通を続けていたMは、新島に電話をかけるしばらく前に韓国を訪れ、旧友たちとの再会を喜びあった。話は切れ間なく続いていったが、話題が朝鮮戦争のことになると、会話が微妙にくいちがうのに気づいた。
Mは運動の仲間がすべてそうであったように朝鮮戦争はアメリカ帝国主義と李承晩政権が起こしたものと信じて疑わなかった。そのMの発言に、韓国の古い友は愕然となった。彼女たちにとって、朝鮮戦争とは北の侵略によって起こったものに他ならなかった。帰国したMは韓国で見聞きしたことをある雑誌に書き、その中で「朝鮮戦争はいったいだれがおこしたのか」と自らの揺らぎをそのままに吐露した。
この文章に、今度は日本の古い友人たちが愕然となり、Mは彼らの批判を浴びた。
新島の中国は、Mの朝鮮だった。
新島はMに、自らの中国を「放」した。
「私も、Mサンも、一〇年二〇年と日本帝国主義のアジア侵略、アジア植民地支配という負い目を背負おうとしてきて、その罪悪感は左翼イデオロギーで倍化されて、おもりの反対側に、それだけ大きなユートピアを、中華人民共和国なり、朝鮮民主主義人民共和国なりにもっていたのですね。Mさんも、私も、そのユートピアが、じつはまったく幻想であることを、その晩に確認したんです。かつては、そのユートピアを信じることが、罪のつぐないだと思っていた、そしてそれを人にも強制していた、そのまちがいに気付いたのです。――」
自分一人では解けない中国を「放」していく作業の中で、新島の中国人の友人は彼を中国から「解」いた。中国がユートピアであるか否かを論じたり、中国にどうあってほしいと働きかけるのではなく、日本をどうするのか、自己をどうするのかという道を進むことを示唆したのである。
ユートピアを外に求めるのではなく、内に求める。では、内なるユートピアを求めるとして、そのために何をすればよいか。
新島にその問いが突きつけられた。
一九七二(昭和四十七)年一月、新島が特講を体験してから八か月目、娘が彼にヒントを与えた。
中学進学を前にした新島の長女は、もう勉強を押しつける学校で学ぶことはいやだと彼に訴え、イギリスにあるサマーヒルスクールという名の寄宿学校に行かせてくれるよう願い出たのである。そこでは子供を規則や制度に合わせるのではなく、一人ひとりの子供に学校が合わせていくのだという。子供が望まないなら、授業に出る必要はない。
長女は、この学校の創立者の著書を数冊新島に手渡した。
その年の五月、長女は一人イギリスへと旅立った。娘の出発の直後、新島は内なるユートピアを求めるための課題をつかみとった。長女が入学を希望したサマーヒルスクールの日本版を作る。子供の創造性を培う自由な学びの場を日本の農村に作り、娘も息子もそこに入れる。最初は生徒、二、三人からスタートし、いずれは人数をふやしていこう。
新島はその学びの場を、幸福学園と名付けた。
そして、幸福学園創立のため、山岸会と結ぶことを考えた。
各地にある山岸会の拠点で共同生活に入ろうとする人は、自分の体も含めた全財産をヤマギシに「放」し、財布一つの一体生活を送る。事前のやり取りで具体的に山岸会と結ぶ道を模索していた新島は共同作業実現の可能性をつかみ、自らを山岸会に「放」し、ヤマギシの中での幸福学園設立を決意したのである。
一九七二(昭和四十七)年十二月二十七日、三重県阿山郡伊賀町の春日山での一体生活に、新島は入った。当面は、全国で幸福学園設立のための呼びかけを行うことになった。
9
「私、ヤマギシカイのトッコーに行ってくるわ」
電話工事の仕事を始めてから最初の春を迎えた一九七三(昭和四十八)年の四月、ヨーコが突然言った。
「ヤマギシカイ」も「トッコー」もタケシには初めての言葉だった。
高校時代、ヨーコが唯一まともに向き合うことのできた教師が、新島による幸福学園設立の呼びかけに応じ、その年の一月、特講を体験していた。彼は妻にも特講を体験してみることを勧め、教師の妻はヨーコにも声をかけた。
山岸会の設立は、日本が独立した翌年、一九五三(昭和二十八)年の三月にさかのぼる。そして、設立当時の会の顔は、独特の養鶏技術であった。
この養鶏技術が広く知られるようになった経緯は、印象的なエピソードとして伝えられている。
きっかけは、会設立の三年前、一九五〇(昭和二十五)年九月三日に関西を襲ったジェーン台風であった。当時はアメリカでの習慣に従い、台風には女性の名前が付けられていたが、そのやさし気な名に反して、この台風は三三六人の生命を奪い、約四万戸を全半壊させた。
当時、京都府の農業改良普及員を務めていた和田儀一は、担当地域の台風による被害調査にさっそくおもむいた。穂を出す間際だった水稲は、ほとんどが倒れてしまっている。すっかり沈みきった気持ちを鼓舞し調査を続けていた和田の目が、ある一画をとらえ、そこで動かなくなった。
あたり一面の稲がことごとく倒れているにもかかわらず、その一区画では見事に立ちそろっている。和田は、自らの目を疑った。
付近の農家でたずねると、その田は山岸巳代蔵なる人物のものであるという。
和田は、山岸を訪ねた。
山岸によれば、一面の稲のほとんどが倒れたにもかかわらず自らの田の稲が倒伏をまぬかれたのは、農業に不可分の一要素として養鶏を組み込んだ経営法による成果だという。和田は山岸独自の農業経営法、そしてその大きな柱となる養鶏法に興味を抱き、これを普及させようと心進まぬ山岸を口説いて講演に引き出しにかかった。
こうして、山岸養鶏はしだいに広く知られるようになった。山岸のもとには、養鶏法を学ぼうとする人が訪れるようになった。しかしそうした人たちに養鶏を技術として伝えることに、山岸は乗り気ではなかったという。
周囲の者が山岸を説得し、山岸式養鶏普及会の結成の準備を進めているあいだにも、自らの実践してきた養鶏が技術として取り扱われることに、山岸は危惧を覚えていた。
会結成の当日、山岸巳代蔵は一つの提案を行った。
「養鶏普及会は実に結構なことであるが、養鶏普及だけの会であり運動であれば、実に危険で、むしろそれなら初めからそんな会を作らない方がよかったと気づくときが必ず来ると思う。皆さんも感じられているように、これは実は、鶏であって鶏ではない。本当は、鶏も含めた根本的な不可欠の大事なものがあると私は考えるのだが」(『Z革命集団・山岸会』ルック社)
と語り、養鶏の裏にある精神、山岸の言葉によれば「根本的な不可欠の大事なもの」をきわめ、広めていく場としてのもう一つの会、山岸会の設立を呼びかけたのである。
一九五三(昭和二十八)年三月十六日、山岸会と山岸式養鶏普及会は二〇数名の発起人を集めて設立された。
山岸式養鶏の普及を中心に動きだしたヤマギシは、徐々に活動の中心をシフトさせていく。鶏を飼う技術の改良ではなく、鶏と向き合う、農業と向き合う、いや最終的には生きること全体と向き合う精神の革命へと脱皮していく。
会設立の翌年からは会報の発行も進められ、一九五四(昭和二十九)年十二月三十日に発行された山岸会、山岸式養鶏会会報には、ヤマギシズムにのっとった社会を実現していくための「世界革命実践の書」が発表された。これはのちに開かれることになる特講のテキストとしても用いられ、ヤマギシズムでいう最後の革命の意を込めたZ革命が、会の真の目的であることが意識されはじめた。
イズム、つまりは主義――。
この言葉から人は、どのようなニュアンスを感じとるだろうか。主義と名の付くからにはそこに、自他を峻別する独自の思想的な枠組みが存在し、その主義につくとは、少なくとも考えを組み立てていく基本のところでは、確立された枠組みをそのまま受け入れる、といった印象を持つのではなかろうか。
「ヤマギシズム」という言葉には確かに「イズム」とはつくものの、その実体においては「主義」という言葉のイメージさせる範疇には収まりそうもない。主義とはすなわち、確立されたもの、揺るぎがたく、裏返していえば硬直化せざるをえないのに対し、ヤマギシズムでは固定化を恐れる。
山岸巳代蔵の書き残した言葉にしても、いかにも空白が多く、二重にも三重にも、いやいかようにも読み込みが可能である。規範を示してそれに従うことを求めるというよりは、考え方あるいは生き方の基本的な方向付けだけを示し、あとはそれぞれが進んでいくことを求める類のものである。それゆえ、ヤマギシズムを社会化していくZ革命なるものも、固定化したイメージとしてはとらえにくい。
ヤマギシには独特の用語と、独特の言葉の言い換えがある。たとえば、話すを「放」すとするのも、言い換えの一つである。いや、これを「言葉の言い換え」と表現するのは、不適当かもしれぬ。はなすという言葉に漢字を当てかえることを通じ、はなすという行為自体の検証が行われていることにこそ、注意を払うべきなのだろう。
独特の用語、独特の言いまわしは、一見ヌエ的に見えるヤマギシを解いていく鍵になる。
ヤマギシでは、何らかの意思決定が必要となったときに開く話し合いの会を、研鑽会と呼ぶ。意見が異なったときは、全員の意見が一致するまで徹底して話し合いが続けられる。だが、もしも研鑽会が単なる話し合いの会であるなら、どこまで議論を続けたところで全員の意思の一致などそうたやすく得られるものではあるまい。
会議とも打ち合わせとも呼ばずに研鑽会と呼ぶ――。
そこには、はなすに「放」の字を当てたと同じ、意思をまとめていく作業に対する検証が込められている。
研鑽会では、自分の意見を主張しながら、同時にその意見をも相対化する機能が働いている。ヤマギシの人は、そうした機能を実現するための個人の態度を「零位に立つ」と表現する。
自らの意見に無意識にさまざまな偏見や固定観念が入り込んでくる可能性を自覚し、あらゆる前提をいったん棚上げにして自らも調べなおす。そうした、主張しながらそれ自体をも相対化していく「零位に立つ」という態度を取り込むことで、研鑽会は全員の意見の一致を実現しようとする。
行動の規範なり基準を固定化してしまうのではなく、絶えることのない研鑽によってその時点時点での最良の道を探し求めていこうとする意思を、ヤマギシでは無固定・前進という言葉で表わす。
ヤマギシズムと初めて出会う人のために用意された特別の研鑽会、それがヤマギシズム特別講習研鑽会、特講である。
特講では八日間の合宿生活を通じた連続的な研鑽により、それまでの自分を調べなおしてみることが目指される。毎日テーマを変え、さまざまな角度から調べなおしてみる。そして自分の考え方や感じ方の前提になっていた思いもかけない無意識の存在に気付いていく場、それが特講である。
第一回の特講開催は、一九五六(昭和三十一)年一月十二日から。ヤマギシズム普及のための具体的な方法が明らかにされたことにより、山岸会はさらに養鶏から世界革命の側に活動の目的をシフトさせていく。
ヤマギシズムにのっとった理想社会の実現、その目的に近づくために理想社会のヒナ型となるものを作り、そこでヤマギシでいう一体生活という名の理想的生活を送ることを試みてみる。同時にもう一方で、できうる限り多くの人を特講に送り込み、ヤマギシズムと出会ってもらう。
特講によってヤマギシズムと出会った人は会員ということになる。
山岸会でいう正会員とは「絶対に腹の立たない人」である。腹を立てないのではなく、腹の立たない人――。怒りによって自己を絶対化するのではなく、常に自分を相対化する、要するに研鑽の態度が身に付いている人という意味であろう。会員には、正会員以外にもう一種類、準会員がある。準会員とは、「怒らないで研鑽しようと心がけているが、それがいまだ十分にはできない人」であるという。
この会員の資格についても、何か審査のようなものがあるわけではない。むしろ資格というよりも、常に自己点検を行っていくための一種の目安と理解すべきか。
そして山岸会の会員は、大別すれば二筋の道からヤマギシズムによる理想社会の実現を目指す。
一つは、現在ある社会の中での道である。学校に通ったり会社で働いたりと、既存の組織、既存の社会の中にあって、Z革命を目指す。まず第一に組織なり社会なりの直接的な変革を目指すのではなく、その内部に革命の主体となりうるヤマギシズムへの賛同者を作っていく。そして既存の社会の中にいる会員はできるだけ多くの人を特講に送り込むように努め、ヤマギシズムによる個人の変革を連鎖反応的に起こしていくことで、実体的に組織、社会を変革してしまおうとする道である。
そしてもう一つは、既存の社会での生活から離れ、ヤマギシズム社会のモデルを作り、即座に一体生活を始めようとする道である。こうしたモデルを山岸会では、ヤマギシズムを実際に表わすという意味と理想社会を実現するための実験を行うという意味を込めて「実顕地」と呼ぶ。
「よかったよ、あなたも行ってみたら」
八日間の特講を終えたヨーコは、特講体験を細かく語ろうとはしなかった。ただ「ともかく行ってみた方がよい」とタケシに勧める口ぶりには、いつもの淡々とした口調にはない力強さが込められていた。
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ヨーコの特講体験から七か月後、一九七四(昭和四十九)年一月、タケシは特講の会場となる春日山に向かっていた。
京都から奈良線で木津まで南に下り、関西本線を上って新堂駅で下車。駅の南、田んぼのあいだを通る道を抜けしばらく上った小高い丘の上に山岸会の本部がある。
山岸会はここ春日山に約五万坪、一七ヘクタールほどの土地を持っており、ここでもヤマギシズム社会のヒナ型を作っての一体生活が行われている。
働く者にとって特講に要する八日間の休みをとることは、それほど容易ではない。それゆえ、正月に行われる特講は特に参加者が多くなる。
カマボコ型の兵舎のような形をした、木造トタンぶきの本部棟のうち、特講の会場として使われるスペースは、四〇〜五〇畳ほどもあろうか。タケシの参加したこの回は、全国から六〇人ほどが集まり、ストーブをたきながら特講は開始された。
特講で行われることは、徹底した話し合いである。
まずテーマが与えられ、そのテーマに沿って参加者が意見を出し合っていく。この作業の目的は、互いに意見をぶつけ合うことにあるのではない。自分の意見に、無意識の前提や思い込みが反映していることにまず気付くよう、話し合いは導かれる。
そして、自らを「放」し、あらゆる前提をいったん棚上げして調べる、研鑽という行為自体を学ぶことが目指される。
えんえんと続く話し合いが始まった。
三日、四日と根を詰めた話し合いが続く中で、タケシはしだいに頭の中がからっぽになるような奇妙な感覚を味わっていた。自分の精神が少しずつ溶け出してゆき、特講に参加している人全体の集合的な意識の中に混ざり込んでしまう。心はしだいに色を失ってゆき、無感動になってくる。厳しい突き詰め合いの中でもまったく腹も立たないが、かといって今の状態が楽しかったり面白かったりするわけでは毛頭ない。
精神的なエアポケットに落ち込んだように、心は支えを失い宙に浮いている。そしてほんの少しだけ力を加えてやれば自分の精神が全体のたましいの一部になりつつあることを、楽しいと思うこともできれば、不快と感じることもできそうな気がしていた。
タケシはそれだけを感じながら、宙に浮いていた。
そして、どれだけその浮遊感に身を任せていたことだろう。内心の声がかすかにささやいた。
「倒れよう。『陽』の世界へ」
七日間の特講と一日の補習を終えたあと、タケシは絶えることのなかった〈明日〉を喰う虫からの信号が途絶えているのに気付いた。
精神にこびりついていたたくさんの殻がポロリとはげ落ち、外気に触れたみずみずしい表面が律動を始める。自分を駆り立てていた坂道が傾斜を失い、踏み出す足の一歩一歩が落ちつきと安定にみちている。
タケシはこれまでに体験したことのない解放感を味わっていた。と同時に、これまで自分のはまり込んでいた穴の姿を、思い浮かべることができるような気がした。
大学への進学を拒否し、退路を断ったところで、ヨーコとの、そしてヒカルとの共和国づくりを夢みた。しかし、生きることの意味のすべてが、家庭にあるわけではない。
手応えのある「今」をつかみとるために、自分を変えるのか、くさびを打ち込み社会を変えようと努めるのか。確かに何かを変えていかなければいけないに違いない。けれど何を変えるのか。変えるといって、どう変えるのか。
その答えがさっぱり見つからず、焦りだけが心にやすりをかけていたのである。
「あなたが変われば世界が変わる」
特講の中で与えられたこの言葉は、タケシの心に啓示として響いた。
けっして腹の立たない人、常に零位に立ち研鑽しうる人――。そうした新しい人類に、自ら生まれ変わっていく。新人類は同時に、人間の持っている可能性をより幅広く開花させうるはずである。
「特講を契機として、確かに自分の中に変わりえた部分がある。こうした変化をたくさんの人の中に連鎖反応的に起こしていけば、世の中は変わるんじゃないか」
タケシには、そう実感できた。
調和のとれた争わない新人類たちによる社会、山岸のモットーである「われ、ひとと共に繁栄せん」という精神を体現した社会にいたる道が、見えるような気がしていた。
特講から帰ったあと、タケシは自らが自分に対しても寛容となりうるのを感じとっていた。
「すべては、ここから始めればよい」
タケシには、そう思えた。過去の選択を悔いることも、今ここに立っていることを焦ることもない。今ここにいる自分が、ただ始めればよいのだと。
一九七四(昭和四十九)年、タケシが特講を体験したこの年の七月にタエコが生まれた。このころ、九州日本電気では、後藤富雄が草むしりと評価用キットの日々を過ごしていた。
11
特講体験からちょうど一年後、一九七五(昭和五十)年の一月、タケシは再び春日山を訪れた。
研鑽学校に参加するためである。
特講が初めてヤマギシズムと出会う人のための第一ステップだとすれば、研鑽学校は第二ステップといったところか。期間は二週間で半日は実顕地での作業、半日はテーマに沿った話し合い、研鑽会にあてられる。
小高い丘を上ったところにある、山岸会の本部棟。特講の会場となる本部棟から二〇〇メートルほど離れたところに、研鑽学校の会場となる二〇畳ほどの広さの建物がある。このときの参加者は、タケシも含めて一〇人ほどだった。
特講では、参加者にZ革命にいたる道が示されるのに対し、研鑽学校ではヤマギシズム社会の実現のためにどの道をとるかが問われてくる。現在自分が属している組織なり社会なりにとどまり、できるだけ多くの人を特講に送り込んで革命の主体となる個人を生み出し、革命への道を模索していくのか。それとも今すぐに実顕地に入り、革命を始めてしまうのか。
「最終的にはあなたはどうするのか」という問いかけが、二週間の労働と研鑽の日々を通じて行われる。
実顕地に入り、今すぐに革命を始めることを、ヤマギシでは「参画」するという。ここでいう参画は、加わるあるいはあずかるといった弱いニュアンスを伝える言葉ではない。参画は革命の開始であり、ヤマギシズムの中心的な理念の一つである無所有の現実化である。
参画して一体生活に入る人は、これまで築いてきた財産や自分の体、能力、そして子供も含め、いっさいを実顕地全体に「放」して所有することをやめる。
自らの体と能力も所有物ではないのだから、自分の行う労働も自分のものではない。働いた時間の長短や仕事の種類、仕上がりの良し悪しなどで、受け取るものに差がつくわけではない。実顕地外の常識からいえば、すべての労働は「タダ働き」である。
ヤマギシの人々は、実顕地を「金のいらない仲良い楽しい村」と称するが、事実実顕地内では金は使われておらず、全体が一つの財布で暮らしている。
食事は一日に二度、食堂で食べる。日用品は「村のお店」と呼ばれる場所に置かれており、必要になればそこから取ってくる。実顕地外に出て旅行でもするとなれば、村では必要のないお金がいることになる。そんなときは生活の世話係となる総務にその旨申し出て、認められれば全体の財布から金が手渡される。
実顕地には特定の固定的な指導者は置かないことになっており、世話係の総務も半年ごとに自動的に改選される。
子供も親の所有物ではない。
五歳までは親といっしょに暮らし、昼間は育児舎に預けられるが、六歳からは学育舎で子供たちによる共同生活を送り、親のところへは二週間に一度だけ帰る。
研鑽学校で過ごす二週間の半分は、参画した人々と肩を並べての労働であり、期間中の食事は彼らと席を接して食堂でとる。いわばこの二週間は、革命への体験的参加といえようか。
タケシはこの二週間を楽しんだ。
だが、研鑽学校を終えても、参画しようという気持ちにはなれなかった。山岸会は自らを縛っていた焦りを断ち切ってくれ、変革への一歩を踏み出すヒントを与えてくれた。しかしこのときはまだ、タケシにとって山岸会はすべてをかける存在ではなかったのである。
タケシに先だって研鑽学校に参加したヨーコにとっても、思いは同じであった。
タケシは電話工事の仕事を続け、ヨーコは二人の子供を育てていた。
一九七六(昭和四十一)年、タケシは二二歳、ヨーコは二三歳となった。この年の八月、日本電気からTK―80が発売された。
12
愛という、たよりない言葉がある。
愛――。
あるときはこの言葉の中に、人生のすべての扉を開く鍵が見えることがある。しかしその鍵をつかもうと腕を伸ばしたところで、何人がそれに触れうるか。触れたと実感しうるか。また、てのひらにその感触を得たとしても、それをいつまで持続しうるか。
愛という言葉は何やら、自らの思いを込める箱のようなものなのかもしれぬ。
灼熱した思いを注ぎ込んでいけばとてつもなく重くもなれば、栓が抜け落ちて注がれたものが失われれば、ちり紙のしわ一つほどの重みもなくなろう。
その愛という箱に、何を注ぐのか。
ふいに目の前に現われた壮大な白いキャンバスを前にした少年の、生きることへの恐れにもにた感動か。
生命の律動の流れに沿った、性の灼熱か。
浴びるほどアルコールを注ぎ込んでも溶け出さぬ、結晶化した執着か。
すべり落ちる砂時計の砂の、一粒一粒を数える焦燥か。
洗いものの最中、プロ野球放送に合わせて夫の上げる歓声の不快か。
隣に並んだもう一本の歯ブラシ、その毛のだらしのない乱れか。
洗い立ての下着の交差する繊維越しに浮かぶ、清潔な空虚か。
ぼってりと重い布団にくるまれたような、繰り返しめぐる快感か。
それとも、肌に刻まれたしわ越しに浮かぶ、配偶者への憎悪なのか。
ヨーコは揺らぎはじめていた。
愛という名の箱に押し込んでいた栓が腐食しはじめ、そこに注ぎ込んでいたものが徐々に漏れていくのを感じていた。
そして、失われゆくものに代え、新しい何かをその箱に注ごうと思いはじめていた。
ヨーコはその心の揺れを、タケシに「放」した。
ヤマギシズムとは、一つの固定化した価値の枠組みを提供するものではない。むしろ安定に向かおうとする価値の枠組みをこわし、その時点時点で果たして何が真実であるかを問い続けようとする姿勢であろう。その思想的実践が、あらゆる前提を棚上げにし、零位に立って自らを調べなおす、研鑽と呼ばれる行為である。
このヤマギシズムへの接近は、タケシに再生の感覚を与えた。おそらくはヨーコも、同様の感覚を味わっていたのだろう。
だが、自らが解きえない問いを集団に「放」し、その場で調べなおしていくという方法を知った二人が、互いの愛を研鑽の俎上に載せることは、ともに修羅場に立ちそこで向かい合うことを意味しよう。
愛、いやもう少し私の実感に引き寄せて言えば、性の淵に言葉を一つ一つ打ち込みながらもぐり込み、その奥底を凝視し続けるという作業ほど困難なものが、果たしていくつあるのだろう。
山岸会の会員の資格は、どんなときにも腹の立たない人であるという。
もしも私がヤマギシストたらんとして、かなりの局面で腹の立たない人でありえたとしても、性の淵を凝視するときに果たしてその資格を保ちえるだろうか。
おそらくは性に関して、私は無所有という立場を守ることにもっとも困難を感じるに違いない。
13
一九七七(昭和五十二)年十一月、TK―80でベーシックを使うためのTK―80BS発売の直前、ヨーコは二度目の研鑽学校へ出かけていった。
一度しか体験できない特講に対し、研鑽学校へは何度でも出かけることができる。
二度目の研鑽学校へ向かうヨーコの心は、一度目のときよりもかなり変化していた。一度目には、たとえ参画するか否かを問われても、その道は選ばないだろうという予感があった
だが二度目のこのとき、参画はヨーコにとってもう少し近かった。タケシとの離婚を考えていたヨーコにとって、参画によってタケシとの別離と革命のスタートを同時に実現する道は、かなり現実的に思えた。
二週間の研鑽学校を終えたとき、ヨーコは二人の子供を連れて参画する決意を固めていた。春日山から帰ったヨーコは、お決まりの淡々とした口調で「私は参画するよ」とタケシに告げ「あなたはどうする」と続けた。
ヨーコがその言葉に、別れの決意を込めたことは明らかだった。
しばらくだまりこくったあと、タケシはつぶやいた。
「そんなら、僕も行くわ」
ヨーコがすでに、愛という名の箱にタケシに向けた思いを保ちえないという事実は、タケシの胃袋に鉛を注ぎ込んだ。
しかしそうであるにしても、いっしょに暮らしていくことがまったく不可能なわけではない。苦しくはあっても、タケシはヨーコとの生活を終わらせたくはなかった。
「たとえ最終的には別れることになろうとも、最後までしがみついてみよう」
タケシはそう決意した。
高校卒業の間近、ヨーコと結婚することを決意したとき、タケシは宙に浮いたままの自分がようやく確固たるものにつなぎとめられたような感覚を味わった。ヨーコとの二人の共和国づくりは、充分に手応えのある生きることの意味に思えた。
今ここでヨーコと別れてしまうことは、タケシにとってそれ以来積み上げてきたことのすべてを失うことに思えたのである。
翌一九七八(昭和五十三)年の三月いっぱいで、タケシは足かけ六年にわたって続けてきた電話工事の仕事をやめた。
四月一日から二度目の研鑽学校に参加するとき、タケシは参画する意思を固めていた。二週間のZ革命への体験的参加を通じて、タケシの参画への決意はもう少し強固になっていた。もしかするとヨーコは参画の決意を翻すのではないか、という予感はあった。しかしたとえそうなったにせよ、タケシは参画を取りやめまいと考えていた。ヨーコが参画しないときは、要するに二人にとっての最終的な別れを迎えることになろう。とすれば、別離によって生じた精神の空白と向き合って生きるには、やはり参画してヤマギシズムによる自己変革の旅に出る以外ないのではないか。タケシには、そう思えたのである。
春日山から帰ったタケシを、ヨーコは近くの喫茶店にさそった。
「私、参画やめるわ」
目の前のコーヒーには手をつけようとせず、ヨーコはそう言った。
予想しなかったことではない。だが、言葉の裏にある離婚の決意の固さは、タケシを刺した。しかしその痛みにも、ヨーコに伸ばした腕をタケシは離さなかった。
研鑽学校から帰った翌日、タケシとヨーコは山口へ向かった。二人の子供たちは、タケシの母が見てくれていた。かつてヨーコを特講にさそった、高校教師夫妻を訪ねるつもりだった。二人では解ききれぬ問いを、「放」す場が欲しかったのである。
夜更けまで、つらい「放」し合いが続いた。
朝、目覚めたとき、ヨーコはいなかった。
「東京へ行ったよ」
教師はそう答えた。
タケシは新幹線に乗り、東京へ向かった。ヨーコが訪ねるだろう数人の友人は、タケシに思い当たった。
東京で再会したとき、二人にはもう「放」すことも残されていなかった。京都から山口、そして山口から東京へと続いたあわただしい旅は、六年間二人で歩き続けてきた旅の終わりを確認するためにのみ必要だったのだろう。
「荷作りに帰る」というヨーコを、最後は九段下で見送った。
市ケ谷から飯田橋へと続く堀端、靖国神社、そして武道館を取り巻く北の丸公園と、あたりは桜の名所である。だがタケシの目には、開きかけた桜と空の青とがひどく調子っぱずれに映った。
生命の横溢を謳う春の華やぎが、タケシには残酷だった。心に生じた空白は、体重を何倍にも増加させたようだった。重い体を引きずって、実顕地に入る準備を始めようとするが、すぐに立ちつくしてしまう。
タケシは数日、友人のアパートに転がり込んだままでいた。
四月二十日、友人のアパートにヨーコからの電話があった。受話器を受け取ったタケシは、あっけにとられていた。
「私も行くことにした」
ヨーコは確かにそう言ったのである。
精神のジェットコースターに乗って、タケシは沈鬱の底から昂揚の高みまでを駆けめぐった。
タケシの脳の神経回路は灼熱化しはじめていた。
一九七八(昭和五十三)年四月三十日、タケシとヨーコはヒカルとタエコを連れ、ヤマギシズム生活豊里実顕地へと向かった。
14
全国に三〇か所あまりある実顕地のうち、春日山実顕地、北海道別海実顕地、そしてタケシたちの参画した豊里実顕地の三つは、群を抜いて大規模である。
春日山から東へ車で四〇分、近畿自動車道伊勢線に沿った豊里実顕地――。
一九六九(昭和四十四)年に設立した当初は、草ぼうぼうの荒れ地にわずか一〇人ばかりが住みついただけだったものが、タケシが参画した時点では、四〇〇人が一体生活を送る大集落となっていた。
七ヘクタールほどの敷地には、鶏舎や牛舎、豚舎が立ち並び、ここで飼っている家畜をさばく肉処理工場、飼料の配合工場、実顕地内の建物を自前でつくるための木工場、鉄工場も用意されている。ここで暮らす人に割り当てられるアパート式の住まい、さらに食堂や共同洗濯場、五歳以下の子供を昼間預ける育児舎、六歳以上の子供が共同生活を送る学育舎などもこの敷地内にある。敷地外には借地も含めて約三〇ヘクタールの農地があり、野菜類や牧草などを栽培している。豊里では米作りは行っていないが、これも他の実顕地で作られたものが使われる。
「われひとと共に繁栄せん」と大書した看板に出迎えられたタケシとヨーコ、そして二人の子供は、この日、四〇万円ほど残っていたたくわえと自らとを豊里に「放」した。
豊里での最初の夜は、外から訪れる人のために用意された客間で過ごした。
翌日、六畳一間の住まいを割り振られた。
どのような仕事を選ぶかは、総務の人事担当者に一任した。タケシは建設部に、ヨーコは肉処理部に配属された。
昼間はヒカルとタエコを育児舎に預けて働き、夜は六畳一間に四人が集まる生活が始まった。
豊里の朝は早い。
建設部の人たちは、午前七時ごろには働きはじめる。だがタケシは、彼らよりももう少し早く起きていた。毎朝五時に起きて仲間より早く働きはじめることを、豊里での生活の取りあえずのテーマにしたのである。
朝の早い肉処理の仕事についたヨーコも、タケシが目覚めるころに起き上がり、仕事場に向かった。
ヨーコのさばくヤマギシの鶏の肉は、固く引きしまっている。ブロイラーのたよりない柔らかさとは遠く、歯ごたえがあり味が深い。
山岸会結成のきっかけとなった山岸式養鶏法、その要諦は「鶏が鶏として生きる」道を探るところにあるという。
山岸の鶏は、自らの足で自由に歩き回ることができる。
現在の養鶏の常識では、鶏を歩き回らせることはただの飼料のむだである。ブロイラーは光の射し込まない真っ暗な鶏舎にぎゅうぎゅう詰めに「密飼い」され、運動不足によって太らせられる。採卵用の鶏は、針金で仕切られたケージに一、二羽ずつ押し込められる。
それに対しヤマギシでは、ブロイラーも採卵鶏も、放し飼いに近い「平飼い」にされる。鶏舎は二五平方メートルずつに金網で区切られ、採卵鶏では一区画に一〇〇羽あまりの雌と四、五羽の雄を入れる。傲然と君臨する雄の胸の羽は、交尾を繰り返すためにすり切れている。
ヤマギシの卵は有精卵であり、殻は固く黄味にははりがある。
鶏舎の床にはワラが敷き詰められており、フンも積もるにまかされている。この保温効果により、暖房の必要がない。山岸式養鶏の別名は「ナマクラ養鶏」である。
こうして生産された有精卵、食肉、牛乳、野菜などを、実顕地外での常識でいう「消費者」に「販売」することを、ヤマギシでは「活用者」に「供給」するという。これもまた、その他のヤマギシ語と同様、単なる言葉の言い換えではない。
ものを「販売」する立場にあるものの究極の狙いは、どんな美辞をもって飾り立てたところで、とどのつまりは「いかにコストを抑え、それをいかに高く売るか」につきよう。逆に消費者の本音は「いかによいものをいかに安く買うか」である。また、その人が裕福であるなら、活用できる量には限りがあっても、金の続く限りはむだな消費を続けることはできる。
そうした販売者と消費者との関係を脱し、「われ、ひとと共に繁栄せん」とする会旨を現実化したものとして、ヤマギシでは供給者と活用者の関係を位置づける。
ヤマギシの生産物は、一般の流通ルートには流されない。全国に二〇数か所設けられた実顕地生産物供給所にまとめて輸送され、そこから活用者グループのまとめ役にとどけられ、最後に活用者一人ひとりの手に渡る。供給活動もまた、Z革命の一環である。
早朝から働きはじめ、一度目の食事は午前十一時半ごろ、愛和館と名付けられた食堂でとる。実顕地では、一日を二食で暮らす。食事を終えてから午後いっぱい、さらに陽が沈んでからも、タケシは働き続けていた。ほとんど毎日、夜八時ごろまで、一日約一四時間あまりを働き通していた。
実顕地の人々は勤勉である。
働くよう強制されるわけではなく、事実、中にはほとんど働かない人もいるが、たいていの人は長時間の労働をこなす。しかしその中でも、タケシの働きぶりはすさまじかった。
灼熱化した脳の神経回路は、タケシにすさまじい昂揚感を与えていた。
ヤマギシズムによる自己変革、ヨーコとの関係の回復の鍵が、仕事の向こう側に見えるような気がしていた。とにもかくにも働き続けることで、その鍵をつかもうとしていた。
その昂揚感の中で、タケシは考えはじめていた。
熱を帯びた神経回路を、すさまじい勢いでパルスがめぐりはじめた。そのリズムに合わせタケシはなおも働き続けた。
15
タケシは考えた。
新島淳良はなぜ山岸会を離れたのか。
幸福学園の設立を呼びかける新島の講演や彼の著作は、タケシの山岸会への傾斜を強めた。一時期、新島は山岸会のイデオローグともいった機能を果たしており、彼の言葉に引かれて特講を体験し参画した若者も多かったのである。その新島は、タケシの参画する四か月前、実顕地を去っていた。
豊里に入ってはじめて、タケシは新島が山岸会を去っていったことを知った。それはなぜなのか。彼の心に、どのような転換があったのか。
タケシは考えた。
山岸会の内部でなぜ派閥の対立があるのか。
かつてタケシが特講に参加し、一度目の研鑽学校を体験したころ、山岸会に参画するには二つの道があった。一つは中央調正機関に申し込む方法で、ここには春日山と北海道試験場が属していた。そしてもう一つはヤマギシズム生活実顕地本庁に申し込む方法で、その事務所は豊里に置かれていた。この二つの方法に制度上の差がつけられているわけではなかった。だが、意識の上では歴然と差があった。
中央調正機関が上または頭、実顕地が下または体と見られていたのである。中央調正機関に参画した人は、あらゆるものを投げ出す覚悟でZ革命実現のための実験を繰り返していく。そしてその実験によって得られた結論に従い、実顕地ではヤマギシズムによる幸福な生活を顕わしていく。
タケシが参画したとき、この二つの方法は一本化されていた。一段下に見られていた豊里の実顕地派が主導権を握り、春日山と北海道試験場も実顕地に改められたのである。だが、春日と豊里の対立の根は残っていた。
なぜ、理想社会を今ここから実現していくはずの実顕地内に、派閥の対立があるのか。タケシは、いくつかの仮説を立てていた。これは、春日の表わす父性的なるものと豊里の表わす母性的なるものの対立なのではないか。理想社会が父性原理によって貫かれるか母性原理によって貫かれるかが、今、争われているのではないか。あるいは、理想社会に一歩近づいた実顕地内で、善と悪の代理戦争が行われているのではないか。社会が次のステージに移ろうとするとき不可避に起こる闘争が、実顕地外の社会よりも一歩先を行くこの場所で起こりつつあるのではないか。
タケシは考えた。
実顕地内のさまざまな物事に目がとまり、それがきっかけとなって神経回路をめぐるパルスはますます加速された。
自らも長時間働き続けながら、「楽だ楽だ」と言いながら働いている人たちが人間に見えなくなってきた。「彼らはロボットなのではないか」豊里の生活に根を下ろしたように順応して見えるヨーコも、タケシにはその一員に思えはじめた。
参画している人が、実顕地外の人にとる態度にも、タケシは引っかかった。実顕地のよさや楽しさを強調するだけで、よいのだろうか。素晴らしさを訴え、参画を呼びかけるのなら、もっともっと理想社会の現実化を急ぎ、誰にとっても楽しい社会を用意しておくべきだろう。だが、今の実顕地に理想社会と呼ばれる資格があるだろうか。少なくとも自分がここでの生活を面白いと思わなければ、ここは自分にとっての理想ではないはずである。それは、自分に問題があるのか。それとも、社会に問題があるのか。
タケシは考えていた。
ヨーコと共通の友人の結婚式に出席するため、東京への旅行を総務に申し出た。だが、ヨーコに関しては認められたが、タケシに関しては認められない。それはなぜなのか。
新島淳良と会って話そうと、東京行きを申し出た。だが認められない。それはなぜなのか。
ヨーコが山岸会と出会うきっかけを作った教師と、会って話したくなった。山口行きを申し出て認められた。
一人で山口に向かった。
駅から外に出たとき、ふいにタケシを奇妙な感覚が襲つた。
方向感覚の座標軸が一瞬に消失し、どこに次の一歩を出してよいのか分からない。
六月の夏を予感させる鮮烈な太陽にあぶられ、熱く膨れ上がった大気の底で、タケシは立ちつくしていた。しばらくは、熱い空気が肺に染み込むにまかせたあと、タケシは脇を通り過ぎる人にようやくたずねた。
「僕は、どっちへ行ったらいいんでしょうか」
16
タケシは眠れなくなっていた。
ほんの一、二時間、うつらうつらするだけで、それでも働き続けていた。小さなささやき声が、二四時間耳から離れなかった。
ヨーコが病院に行くことを勧めたとき、タケシは素直に従う気になった。
山口で立ち往生したとき、タケシははじめて「まわりから見れば狂っていると思われても仕方ないな」と感じていた。
一九七八(昭和五十三)年六月二十四日、タケシは病院の門をくぐり、二日後に入院した。閉鎖病棟ではあったが、中での行動は自由だった。本を読み、麻雀や花札をし、卓球で体を動かす。
タケシは、眠れるようになった。
けれど、なおも考え続けていた。
この病院は、戦場に設けられた避難所なのではないか。Z革命の実践される実顕地は戦場であり、戦場で傷ついた者がこの避難所に入って傷をいやす。そして再び、戦場にもどっていく。豊里とこの病院とのあいだでは、そうした有機的な連携プレーが行われているのではないか。
だが、自分が戦場に復帰する日は、果たしてくるのだろうか。
花札をしている最中、突如一連の言葉が頭の中で響きはじめ、繰り返し繰り返し続いていった。
松、桐、坊主。
まつきりぼうず。
待つだけできりのない坊主、待つだけできりのない坊主――。
一方で自分が傷ついていることを自覚しながら、タケシは自分の内にこれまでにはなかった新しい力が生まれつつある感覚を味わっていた。
自分の心の中にあるものが、物質化してしまう。
堂々めぐりしていた思考がふと途断えたとき、一瞬空の色が反転して見えた。空の色は反転したのか。いや、あれは自分が反転させてしまったのではないか。
テレビのプロ野球中継を見ているとき、バッターボックスに立った選手に心の中で「クソ」と不快の舌打ちをくれた。するとその選手が、デッドボールをくらう。
何やら未来の予知もできそうな気がする。
そしてタケシはもう一度考えた。
絶対に腹の立たない人を目指した自分に、心の中の怒りを物質化させてしまうような力を与えたのは、いったい誰なのか。
七月十五日、いったん退院して豊里にもどった。
実顕地中でみなが働いている音が、すべて聞こえてくるような気がする。あっちで、トントン。こっちで、ガサゴソ。どの音もけっして大きくはないが、はっきりと聞こえてくる。タケシはまた眠れなくなった。
八月二日、再入院。
病院にもどると切迫感は急にうすらぐ。
三日には、中学、高校と同じだった友人が病院を訪ねてくれた。太宰治の小説と谷川俊太郎の詩集を受け取った。しばらく話し込んだが、もう一人の自分の目からも対応はまともに見えた。
だが、二度目の入院によっても、自分の心にあるものが物質化してしまう感覚は去らない。
二度目の入院のとき、豊里から少しヒビの入ったコップを持ってきた。患者の一人にそのコップを借してくれといわれ、何気なく手渡した。返されたコップには、何かしら相手の悪意が込められているような気がした。ヒビはいかにも奇妙に変質し、それによって相手は、己の力を誇示しているように思えた。
タケシは、それに対して自らが腹を立てることを恐れた。怒りが物質化し、相手に災厄が及ぶことを恐れた。
二度目の入院中、初めて死が心に浮かんだ。自分が存在していることそれ自体が、悪なのではないか。
担当の医師は、豊里にもどることを勧めなかった。
一九七八(昭和五十三)年九月一日、タケシとヨーコは豊里を出た。新堂から草津線で京都まで出、ひかり二五号で広島に向かった。
レールの響きにまじって聞こえてくるささやきに耳を澄ませながら、タケシは考えていた。
〈もう、生きてちゃいけない〉
心の中で断え間なくそうつぶやきながら、タケシは考え続けていた。
17
九月二日、悪魔の左手はタケシを救った。
死の淵に渡した細い綱の上を、蝸牛のようにほんのわずかずつ進みながら、タケシは精神の灼熱感を冷ましはじめた。
十四日、豊里にもどったヨーコから電話があった。ヒカルとタエコを連れ、実顕地を出て実家に帰るという。
六年に及ぶヨーコとの暮らしが完全に終わったことを、タケシは初めて自分自身に受け入れた。
「早く働いた方がいいと思うよ」
ヨーコは最後に、そう付け加えてから電話を切った。
九月十六日。タケシは深更を過ぎても眠らなかった。時計の針が十二時を過ぎ、十七日に入った。だが、夜に区切りはない。
ひっそりと寝静まったアパートの中で、タケシ一人が起きていた。
狭い階段を上り、屋上に出た。
二週間前、まだまだ夏の名残をとどめていた夜の空気に、秋の気配が入りまじっていた。
屋上に腰を下ろし、空を見上げた。
午前二時十六分、月はほんのわずか東側から欠けはじめた。
午前三時二十二分、白く輝く月は、夜空から完全に消えた。
だが、皆既食に入ったからといって、月がまったく見えなくなってしまうわけではない。夜空はずいぶんと暗くはなるが、大気のいたずらで月は鈍い赤銅色に見える。
タケシは飽かず、赤銅色の月を見上げていた。
午前四時四十四分、失っていた白い輝きを、月は東側から取り戻しはじめた。
鳥がさえずりはじめた。
午前五時五十分、月食が完全に終わったとき、タケシの熱は少しだけ冷めていた。
職を探す気になった。職安で紹介を受け、経験のある電話工事の仕事を決めた。
十月一日、最後の整理のために、豊里にもどった。「どうだい、もう一度ここでやれそうかい」と問われ「今はちょっと、できそうもない」と答えて、五か月の参画生活を終えた。
電話局に新設や付け替えを申し込むと、まず電電公社から元請けに仕事がまわされ、そこから下請けの作業グループに仕事が割り振られる。下請けの値段は一件あたりいくらで、仕事の出来映えは現実のところ関係がない。作業の仕様は定められてはいるが、手を抜こうと思えば抜ける。
タケシの入ったグループは、全員で六人。五年以上のキャリアはあったが、まずは先輩のやり方に従って働きはじめたタケシの目に、このグループの仕事の進め方はずいぶんと不思議に映った。
手を抜くのである。
本当は張り替えなければならない電話線をチェックしてどうにか使えそうならそのまま使ってしまう。そのままにしておけばトラブルの原因になりかねないものにも、平気で目をつぶる。
そうした働き方、労働のあり方が、タケシには不思議だった。
豊里での仕事は、「タダ働き」である。だがそこでは、生きることと働くことは、融合していたように思う。労働は生きていくために必要な金銭を得るための手段ではなく、それ自体が目的だった。だからこそ豊里の人たちは、タケシの目からはロボットのように見えたことも事実ではあるが、あれほど長い労働に自ら向かっていけるのだろう。確かに豊里にも、働かない人はいる。しかしそこには手抜きといったものはなかったように思う。
タケシは、建設部のベテランの見事な仕事ぶりを思い出していた。
豚舎のコンクリートの床には、微妙な勾配をつけて排水口に水が自然に流れ込むようにする。豊里に入ってそうそう、タケシはこてを使って床を仕上げていく人の見事な手並みに、しばらく見入っていたことがある。一つのリズムに乗って躍るように働き続けると、床が仕上がっていく。かすかな勾配を与えられて仕上がった床を見ていると、何やら排水口から床一面に、炎が広がっているように見えた。
かつて大阪でやっていたときと一日あたりの件数はほとんど変わらなかったが、朝八時半に仕事を始め、ここでは五時ごろには上がりとなった。
電話工事の仕事に移動はつきものである。街中を走り回っていることもあれば、郊外に出ることもある。
最初ははっきりとそうは意識しなかった。しかししだいに、郊外に出ることに不安を感じている自分を意識しはじめた。緑が恐いのである。
草が生い茂っている。妙に不安なくせに、そこに目がとまる。草のゆれ方がおかしい。何者かが自分の存在を知らせようと、意図的に揺らしているように思う。視線は奇妙に揺れ続ける草にはりついたまま、動かなくなる。そして、灰色の不安がこみ上げてくる。
緑は豊里のイメージにつながり、そこでの苦闘を意識下で反芻することになるのだろうか。
だが、確実に刻みはじめたおだやかな、いってみれば張り合いのないリズムは、タケシの熱をゆっくりと冷ましていった。タケシは考えることを意図的に避け、精神のおだやかさを回復することに専念した。
しかし皮肉にも、心に負った傷が治癒しはじめるにつれ、タケシはそれを促進したおだやかではあっても張り合いのない生活のリズムを意識するようになっていた。いいかげんな仕事の進め方に対し、不快感が強まった。
この生活のパターンを変えてくれる何かを求めはじめていた。
18
首都圏の若者たちは、休日、盛り場で友人にばったり会う、といった経験をするものなのだろうか。
新宿があり池袋があり、渋谷がある。放っておくと体の躍り出しそうな若者なら、原宿の歩行者天国にでも出かけるのだろう。ちょっと気どって飲むとなれば、青山、六本木あたりか。本でも探すとなれば、神田の大型書店や古書街を訪ねることになる。
そしてそのそれぞれが、かなりの規模の町であり、そこで待ち合わせてもいない同士がばったり出会うことなど、まずはあるまい。
しかし、地方の都市では、ことは別である。盛り場はたいていは一か所だけで、そこに東京でならそれぞれの町に分散しているにおいがすべて集められている。そして休みになると、皆がそこを目がけて出かけてくる。
広島一の繁華街は、東西に延びる一本の通りである。
市電の革屋町駅で降り、本通りと名付けられたこの通りを東に向かって歩くと、パチンコ店や高級食料品店が目に入り、その並びにブティックや書店があり、パン屋のアンデルセン本店のはす向かいには、何と小さな古書店がある。
雰囲気の異なった店が雑然と集まり、それぞれが独自のにおいを発しながら、アナーキーな活気を生み出している。
本通りを東に歩いて突き当たると、人波は左に折れて、金座街と呼ばれる短い通りに流れる。ここにも、他の店の華やいだ雰囲気とは似つかわしくない小さな古書店が二軒ほどあった。
本通りから金座街へと折れる通りを一、二度往復していると、学生たちはかなりの確率で同級生や友人と出会うことになる。
タケシは、この盛り場にある三軒の古書店を覗くのが好きだった。値段はそれほど安くはなっていなくとも、人の手を通った本をもう一度開く感覚が好ましかった。値引きの原因になる汚れや書き込みも、気にならなかった。むしろ書き込みの文字には、興味が湧き、前に読んだ人の肌のぬくもりが文字越しに伝わってくるような気がした。
新刊の書店が本を消費する場であるとすれば、古書店は本を活用する場に思えた。そのような雰囲気が好ましかったのである。
一九七九(昭和五十四)年二月――。
タケシはいつものように、古書店をひやかして歩いていた。
三軒の中でもアカデミーという店は、自然科学系の本が充実していることで、タケシのお気に入りだった。
何気なく棚を眺めているうちに、一冊の本が目にとまった。
カバーははがれてしまっており、グリーンの表紙に『マイコン基礎講座』とある。
手に取って開いてみた。A5判横組みの本で、著者は小黒正樹。
一、二頁めくってみた。
「何をするのか」という文字が、目に飛び込んできた。
「『何をするのか?』をはっきりさせる。
また、マイコンを勉強していく上で、何よりも大切なのは、『目標』を持つことです。マイコンを知らない人から、『マイコンで何ができるのか?』とよく聞かれるのですが、こう聞かれると、『何でもできる』と答えるしかありません。しかしこの問いは愚問というべきで、『何ができるのか?』ではなく『何をするのか?』が正しいのです。逆にいうと、私たちがマイコンに取り組む上で、『何をするのか』という『目標』を常に持っていることが大切なのです。」
「買おうかな」と思った。
二か月ほど前、一九七八(昭和五十三)年十二月に初版が発行され、定価は一五〇〇円だったこの本をそのときいくらで買ったのか、タケシは今、覚えていない。
19
『マイコン基礎講座』は、TK―80タイプのワンボードマイコンを対象として書かれており、他の機種への配慮も見られるものの、記述のほとんどは二年半あまり前に日本電気から発表されて爆発的なブームを呼んだTK―80を頭に描いて行われていた。
タケシはこの本と出会うまで、マイコンなりパーソナルコンピューターなりの言葉には、ほとんどなんのイメージも持っていなかった。新聞や雑誌で、そうした文字を目にしたことはあったのかもしれない。
しかし特講を体験して山岸会と出会い、新島淳良の幸福学園運動に共鳴し、ヨーコとの精神的格闘、そして豊里実顕地への参画にいたるこの時期、タケシの心にはパーソナルコンピューターは入り込んでいない。
それまでにも、従来のコンピューター、つまりは大型コンピューターに対してなら、多少のイメージはあった。
高校の自主講座では数学の教師が科学技術計算用の高級言語、フォートランの基礎を解説してくれた。京都大学の大学院で数理工学を専攻し、日本IBMに入社した従兄弟からも、何度かコンピューターの話を聞かされたことがある。
だが、タケシの心の中で、コンピューターなる言葉は明るく響いていたわけではない。確かにコンピューターの自主講座には欠かさず出席していたし、従兄弟の話を聞いても純粋に知的には面白そうに思う。しかしコンピューターという言葉は、何よりも管理、支配といった言葉と結びついているように感じた。
国民一人ひとりに特定の番号を割り振り、その人物にまつわるあらゆる情報を統合的に管理しようとする国民総背番号制。そうした情報の管理、それにもとづいた国民の支配を実現するためには、コンピューターの存在は不可欠である。
そしてこのコンピューターはきわめて高価で馬鹿でかく、空調のほどこされた専用の電算機室に鎮座ましましている。そうした環境を準備しうるもの、タケシの目からは天文学的な金額を支払いうるもののみが、この道具を利用することができる。
タケシにとって、そして多くの若者にとって、コンピューターは管理、支配の代名詞的存在であった。
一九六四(昭和三十九)年にカリフォルニア大学のバークレー校で始まり、六〇年代後半の世界的な学生運動の源流となったフリースピーチ運動。この運動の中で生まれた替え歌の中には、大型コンピューターの代名詞的存在であるIBMが、まさに管理・支配のシンボルとして歌い込まれている。学生たちは「旦那、あんたの富などほしくない」のメロディーに合わせて、こう歌ったのである。
IBMの機械がやみくもに与えてくれる
マスエデュケーションなどほしくない
ただ人間らしく扱ってほしいだけ
精神の自由において
コンピューター、その代名詞であるIBMは、替え歌の中で繰り返し繰り返し登場する。ベートーベンの第九のコーラスに、学生たちはこんな詞をあてた。
学問のために学生を保護し
彼らを上品に、清潔に保つ
これこそ大学の存在理由
IBMの機械に栄光あれ
賛美歌一一一番「おお、来れ、すべての信ずる者」は、次のように改竄された。
おお、来れ、すべての無思慮な者
無分別な者、いくじなし
おまえの正直をIBMに売り渡せ
(以上三つは、『時代はかわる』新報新書「バークレーよりのうた」 マーウィン・シルバー著、久保まち子訳より)
管理や支配といった言葉と強く結びついている、コンピューター。ところがどうだろう『マイコン基礎講座』の著者、小黒正樹はマイコンといえどコンピューターであるという。あまつさえ、マイコンで「何ができるのか」ではなく「何をするか」が問題であるとし、コンピューターに対して使う側が主体性を持つべきだという。
タケシは小黒のいうニュアンスを即座には理解できないままに、読み進んでいった。
TK―80の発表から二年四か月後、ワンボードマイコンのブームがいささか収まりかけた時期にこの本を出版した小黒は、いささか皮肉な仕掛けを凝らしていた。
「ある統計によると、売れたマイコンキットのうち実際にいま稼働しているのは、三割に満たない」と断ったうえで、マニュアルやカタログの問題点に触れ、マイコンの勉強法を一くさり解説し、具体的な内容には「マイコンよ目をさませ」と題して入っている。
キットを買ってきて二、三か所火傷を負いながら、まずは組み立ててみる。しばらくはマニュアルに掲載されたプログラムのリストをキーから打ち込んで遊び、それからほったらかしにされたTK―80を目覚めさせようというわけだ。
ねじ類を締めなおし、はたきで軽くほこりを払う。さらに絵を描くときに使う筆で、回路上の細かいところまでほこりを払っていく。はんだ付けをした箇所やビニール線の確認、次に電源をチェックしていく。
動作がおかしいときの原因と対策もかなり詳細に書かれているが、続いて紹介されるこの本の最初のプログラムも面白い。
「マイコンのお目ざめプログラム」では、TK―80に付いている表示装置、七セグメントのLED上にまずは両まぶたを表示する。次にこれが三度目をパチクリさせたあと、右目でウインク。続いて「OHAYOU」の文字が一文字ずつ現われる。
OHAYOU――。
おはよう――。
お早う――。
タケシはマイコンなるものに興味を持ちはじめた。この本をむさぼるように読んでいった。
意識下で、一つの言葉が響きはじめた。はじめはかすかに。そして次第に、強く、強く、強く。
お早う!
自分が強く引かれつつあるものを、タケシはうまく言葉で表わせたわけではない。ただ、「これで何かできるのではないか」というもやもやとした夢のようなものが自分の中で大きく膨らんでくる昂揚感には、確実な手応えがあった。
何をやるかは、自分で考えればよい。
タケシはこの道具が、自らの能力、自らの知脳を拡大してくれるのではないか、という、予感を抱くようになった。
何か課題がある。すると、それを解決するための手順を、頭の中で組み立てる。普段ならその手順に従って、ほとんど無意識のうちに一つ一つの処理を自らの頭を使って行っていく。ところがコンピューターを使えば、勝負は手順の組み立てまでで終わる。
これまで頭でやっていた一つ一つの処理は、すべてコンピューターに任せておけばよい。それこそ人間の頭とは比べものにならないスピードで、処理は進められていく。そして、〈魔法〉が演じられる。
人間なら、同じ処理の繰り返しには必ず飽きてくる。同じ処理手順を何千回、何万回と繰り返すといった方法は、とてもとれない。少なくとも、とりたくない。何十年もかけて円周率を追いかけた中世や近世の数学者の労には敬意を表するにしても、その人生は魅力的とは思えない。ところがコンピューターと手を結べば、こうした消耗戦も苦もなくこなしていける。
要するに、課題達成のための手段が、大いに広まったことになる。自らの組み立てた手順に従って処理を進めるという意味では、コンピューターは使う側の能力や知識を映す、何やら脳の知的な鏡といった性格を持つようだ。そしてこの鏡は、単に脳を映すだけでなく、その姿を何倍にも拡大してくれる。
人間は、さまざまな道具を発明して、自らの能力を拡大していった。自分の足で走る代わりに馬に乗ることを覚え、馬車で人を運ぶ術を身につけた。生身の馬に代わって〈鉄の馬〉、汽車を発明し、自動車を生み出した。
鋤や鍬を使って手の技をより有効に用いることを覚え、その延長上に数々の道具が生まれ、その最先端には今、ロボットが立つ。
おそらくは文字の発明や各種の計算機など、脳の働きを強化する機能を備えた道具も、これまでに人間はいくつか手にしてきたのだろう。しかし、コンピューターは、それらとは桁違いの力を人間に与えてくれそうだ。
タケシにはそう思えてきた。
いまだ霧の中にかすんではいるものの、タケシはコンピューターの向こうに、新しい世界に通じる入り口が見えはじめたような気がしていた。
人間の情報処理能力を飛躍的に増大させるコンピューター。この道具はおそらく人間それ自体をも変えずにはおかないだろう。ほんのわずかな情報処理能力しか持たないとき、人間の思考の枠組みはほんの貧弱なものとしかなりえない。さらにその枠組みに新しい情報がつぎつぎに取り込んでいかれないとすれば、枠組みは固定化した陳腐なものにならざるをえない。人は往々にして、狭小な想念に縛り付けられたまま生きざるをえない。だが、一人ひとりの人間が強力な情報処理の道具を活用できるようになれば、事情はかなり異なってくるのではないか。
異なった意見を持った者同士のあいだで意思決定を行うさいも、それぞれが自分の意見に対して持っている思い込みの強さやそれこそ声の大きさによって決定が行われるのではなく、異なった意見を自分の枠組みに取り込み、より高い次元で意思を決定していく態度が定着していくのではないか。
「ヤマギシズムでいう『零位に立つ』という態度と、個人が情報処理の道具を駆使していく行為とはどこかでつながってくるのではないか」
タケシにはそう思えてきた。
「あなたが変われば世界が変わる」
かつて特講で受けた啓示が、タケシによみがえってきた。コンピューター技術を駆使して人間の持っている可能性をより幅広く開花させ、また常に零位に立ちうる人。そうした新人類に生まれ変わっていくことで、新しい世界へ一歩近づけるのではないか。一人ひとりの人間の持つそれぞれの求めにコンピューター技術を奉仕させることで、人間は次のステージの切符を手にし、そして社会も変わりうるのではないか。
豊里を去り、一度閉ざされかけた〈明日〉への道が、タケシにはもう一度見えてきたような気がした。
今やコンピューター技術は、個人が手を伸ばすことのできるところに確かに存在しているのである。
かつてこの技術が国家や独占的な資本に占有されていた時代、コンピューターが管理・支配の代名詞となっていたのも当然だろう。なぜなら、そうした機構においてもきわめて貴重だったコンピューターは、その機構の目的にもっとも適合した形でもっとも効率よく使われることが不可欠だったからである。管理・支配を大きな達成課題とする機構にコンピューター技術が独占されている時代、コンピューターは管理・支配の強力な武器としてのみ機能せざるをえない。
だが今や、独占の壁は崩れ去っているのである。もちろんこれ以降も、コンピューターは管理のための強力な武器としても機能していこう。しかしパーソナルコンピューターを通じてコンピューター技術に接近していくことで「少なくとも相手の手の内は知ることができる」とタケシは考えていた。
それに何よりも、コンピューターは管理のための武器として機能し続ける一方で、個々人もこの道具を思い通りに使うことができる。今や、自分のどんな能力にも奉仕させることができるではないか!
20
タケシは『マイコン基礎講座』をノートを取り、書き込みを加えながら読み進んでいった。
タケシにとって幸福だったことは、この本が『マイコン基礎講座』とは題しながら、かなりハードウエアに関して突っ込んだ内容だったことだろう。著者の小黒正樹はあとがきで「いままでマイコン入門用と銘打った本は数多く出ているのですが、たいていが広く浅くマイコンを紹介しているだけで、本当にマイコンを理解できるというものは少ないと思います」と語り、この本をまとめるにあたっては、「とかく嫌われがちな機械語に正面から取り組むことに留意した」と書いている。
もしもタケシに、理科的な素養がなければ、おそらくはこうした歯ごたえのある本は、途中で投げ出していたのかもしれない。だが逆にそこまで突っ込んであることで、タケシは興味を引きつけられた。
高校の自主講座でフォートランを習ったときは、何やら語学の勉強をしているような気分になった。こうした言葉で文法に従ってプログラムを書けば、コンピューターが働いてくれるという。しかし高級言語の使い方を身につけたところで、コンピューターそれ自体は相変わらずのブラックボックスである。
ところがハードウエアにも大胆に切り込み、ハードと密接に関係した機械語を学ぶことで、タケシの中でコンピューターはしだいにブラックボックスではなくなっていった。ハードウエアとソフトウエアの境目、どこまでの機能がハードによって実現されており、どこからがソフトによっているかが見えてきた。「なるほど、これなら動くだろう」と実感できた。
もちろん、エレクトロニクスにもコンピューターにも素人同然のタケシがどうにかこうにか『マイコン基礎講座』を読み進むことができたのは、著者の能力と細かな心配り、そして何よりもTK―80がコンピューターとして見れば超貧弱なマシンであったことにつきよう。
この本を読み終えたとき、タケシはごくちっぽけなものながら頭の中にコンピューターの地図を描き終えていた。この地図をたよりに、遠くまで行きたくなった。
21
ものを所有したいという欲求を、タケシは久しぶりに味わった。
豊里の実顕地に参画するとき、それまで持っていた本はすべて、近くの図書館に引き取ってもらった。それ以来、本もたまらなくなった。広島に帰ってからもかなり本は買ってはくるのだが、読み終えると感想を添えて友人にあげてしまう。小さな本棚にしばらくとどまるだけで、本はつぎつぎに消えていった。
ところがTK―80は、たまらなく欲しくなった。広島市内にあった日本電気の電子デバイスの販売店に行ってカタログをもらってきた。
本棚にも『I/O』『ASCII』、『マイコン』といったコンピューター雑誌だけは残るようになった。
そして、学びたくなった。
大学に行くことも考えたが、金銭的に難しい。職業訓練校の電子科でエレクトロニクスの基礎を学ぼうと思い、電話工事の仕事をやめさせてくれるよう頼みにいった。「もう少しやってほしい」と、強く引きとめられた。
職があっては、職業訓練校に入るわけにはいかない。妥協案として、理数系の夜学を探した。広島には、コンピューターの専門学校しかなかった。取りたてて大型コンピューターに関して興味があったわけではなかったが、昼間は電話工事の仕事を続けながら、一九七九(昭和五十四)年四月から、専門学校に通いはじめた。
授業は週三回、午後六時から九時まで。
課目にはフォートランやコボルといった高級言語、ある仕事をコンピューターにやらせようとするとき手順をどう組み、機器をどう構成し、どのようなプログラムを作るかを組み立てていくシステム設計、それに経理絡みのタケシには唯一興味のないものもまじっていた。
まずは、警察学校以来六年ぶりに味わう、授業そのものが新鮮だった。
これまでにも『マイコン基礎講座』をきっかけとして数冊を勉強し、マイコン誌を読みはじめた。だがこうして授業を受けてみると、つくづく独学には限界があると感じる。
一人で本を読んでいるときは目からしか入ってこなかった情報が、耳からも入ってくる。さらに、先生の話を耳で追いながら、引っかかったポイントを頭の中で発展させることさえできる。
もちろんタケシが授業なるものにこうした感想を持ちえたのも、この時期、彼のコンピューターに対する傾斜がいかに強かったかを示しているのであろう。
コンピューターを動かすためには、まず記憶装置にプログラムを読み込んでくる必要がある。ところが、このプログラムを読み込んでくるという動作も、じつはプログラムによって実現されている。では、そのプログラムは――ときりがなさそうに思えるが、こうしたコンピューターを立ち上げるための方法の一つに、ブートストラップと呼ばれるものがある。
ブートストラップとは、一般には靴紐の意。最初に簡単な操作を行えば、あとは靴紐を引っ張ったようにずるずると一連のプログラムが読み込まれていく。
タケシの通った専門学校には、沖電気のOKITAC4000というミニコンピューター――ミニといっても大型機に対してミニであり、まっとうなシステムである――があったが、ブートストラップの授業はこれを使って行われた。
まずパネル上に並んでいるスイッチを上げ下げし、ごく短い機械語のプログラムを手作業で入れていく。次にこの機械語のプログラムを使って、プログラムを読むためのプログラムを入れる。その時点で、役目を終えた最初の機械語プログラムは消える。そして今度は読み込み用のプログラムが働き、高級言語と機械語とを翻訳するプログラムが入る。ここでもまた、お役ごめんとなった読み込み用プログラムは消えていく。
これでこのコンピューターは高級言語を使えるマシンとして立ち上がる。
水面を波が伝わっていくようなブートストラップのイメージをつかんだとき、タケシはある種の感動を味わった。
この日、彼は日記にこう記している。
「今日のフォートランの授業は、ブートストラップの解説だった。頭の中の霧が、強い風を受けてすべて吹き飛ばされたような気分。スミズミまでが、はっきりと手に取るように見える。すごく面白くて、頭の右後ろ半分がさえわたっているような気がした」
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自分だけのコンピューター、何に使ってもよいコンピューターを買おうと決意した人のほとんどは、しばらくはカタログを見比べながらああでもない、こうでもないと幸福な揺れを体験する。タケシも大いに迷った。
夏のボーナスをあてて、パーソナルコンピューターを買うことを決めていた。最初はTK―80の価格を性能はそのままに一万円以上切り下げた、TK―80Eを買おうと決めていた。定価は六万七〇〇〇円。これに電源を付けたりカセットとのインターフェイスを付ければ八万円から九万円にはなる。
ところが『マイコン基礎講座』を読み終えたあと、日本電気から新製品が発売された。
TK―80とTK―80BSを組み合わせてケースに収めた、コンポBS。これにはカセットデッキの有無で二種類があり、付いている方で定価が二三万八〇〇〇円、付いていない方で一九万八〇〇〇円だった。
さらに続いて、我が国初の本格的パーソナルコンピューターであるという「画期的な新製品」のニュースが飛び込んできた。
TK―80でマイコンブームを巻き起こした日本電気の製品で、名前はPC―8001という。
五月に東京で開かれたマイコンショーで発表され、大変な人気を集めたという話で、六月、七月のマイコン誌には、PC―8001絡みの記事が続々と出はじめた。
こうなると、迷いのたねはつきない。
基本的には、自分で組むところからやってみたかった。ただし、値段に対する性能の比、コストパフォーマンスを考えると、迷いが出る。TK―80Eが六万七〇〇〇円、TK―80BSが一二万八〇〇〇円で合計するともう、一九万五〇〇〇円になる。これに電源を付けることや記憶容量の大小を考慮すると、コンポBSも悪くない。
さらに、PC―8001発売のアナウンスのあったあと、コンポBSの値引きが始まっていた。当時はパーソナルコンピューターに関しては、まったくといっていいほど値引きされなかった。ところが新製品発表ののち、コンポBSはカセットなしのタイプで一五万円まで値引きされた。
PC―8001にも、魅力はあった。特にグラフィック関係は相当強力そうだし、一六万八〇〇〇円という価格も、かなりお買い得といった印象を与えた。けれどタケシは、もう少し機械語でコンピューターをいじり回してみたかった。コンポBSもベーシックが使えることは使えたが、まだ機械語のにおいがぷんぷん残っていた。さらに何よりも、PC―8001は当分手に入りそうにもなかった。発表直後から予約が殺到し、八月の時点で予約しても九月の発売時点ではとても手に入らない。早くても十二月だという。
そこまではとても待てない。
一九七九(昭和五十四)年八月、タケシは夏のボーナスをはたいて、コンポBSを買った。
自分だけのコンピューターを実際に手にした人の多くは、しばらくは睡眠不足と付き合うことになる。まずはマニュアル首っぴきでとにかくキーボードを叩きはじめ、リストを見ながらプログラムを入れて実際に動くことに感動し、今度は自分なりのプログラム作りに頭をひねることになる。
タケシの眼も、赤くなった。
念願のグローブを買ってもらった子供が寝るときも枕もとに置いておくように、タケシもコンポBSの隣で寝た。
自作プログラムへの初挑戦のテーマは、お絵かきソフトとした。コンポBSの記憶装置には、アルファベットや数字に加えていくつか記号が収められていた。ところがキーボードには、これに対応したキーがない。いわゆるグラフィック記号の中から、例えばハートを画面に出したいときは、プログラムの中でハートに割り当てられたコード番号を指定するしかなかった。
そこで、キーボードからグラフィック記号を呼び出すプログラムに挑戦してみることにした。
テレビ画面に出ている文字をクリアする。つまり消してしまうと、カーソルと呼ばれる明滅を繰り返す輝点が、画面の左上のすみの位置にもどる。本来なら原点にあたるこの位置から、カーソルは右方向と、下方向に動く。そこで、原点にもどったカーソルをさらに上の方向へ動かそうとすると、自動的にモードが切り替わってグラフィック記号を呼び出せるようにしようと試みたのである。
このプログラムを、タケシは機械語と高級言語の中間的な存在であるアセンブリー言語で書きはじめた。ただしアセンブリー言語を機械語に翻訳するためのプログラム、アセンブラーは使えない。アセンブラーに代わって翻訳作業を行うのは自分自身。手作業の、ハンドアセンブルを進めていく。
プログラムを書く作業、それは小さな自立性を備えた世界を自ら創り上げていく作業である。一つの達成すべき課題があるとして、まず求められるのはその課題を達成するための手順をつかむことである。コンピューターの世界ではアルゴリズムと呼ばれる課題達成のための手順をつかみ、次に一つ一つの手順を実現するためにプログラミング言語で手順を記述していく。
だが、プログラミング言語で記述された小さな世界に生命を吹き込んでいく作業は、そう平坦なものではない。言葉の綴り誤りや文法上のミス、さらには手順の流れに穴があいているなどの欠陥によって、小世界はなかなか動きだしてはくれない。バグ(虫)と呼ばれるミスを取り除いてはじめて、プログラムは動きだす。しかしそれでもなお、どこかに隠れている手順の穴に落ち込み、流れが止まったり乱れてしまったりする可能性はある。
タケシはコンポBSのキーボードを叩き、テレビ画面をにらみながら、デバッギングと呼ばれる虫取りの作業に夢中になっていた。自分の創り上げた小さな世界から、一つ一つ夾雑物を取り除いていく。すると、これまで生命を持っていなかった世界から鼓動が聞こえはじめる。
自らの頭脳の延長上に新しい世界を築き、そこに生命を吹き込む。タケシはこの作業を、真底楽しんだ。築き上げられ、生命を吹き込まれた世界を、心から美しいと感じていた。
週三回、専門学校で学ぶことをフォローしていくには、家でかなり自習する必要がある。それに加えてコンポBSとは、遊びたい。このときは正直、電話工事の仕事が手抜きゆえに早く終わるのがありがたかった。
専門学校は、四月から九月までの六か月間続く。卒業が近づいたころ、何かコンピューター関係の仕事を紹介してもらえないかと教師に頼んでみた。就職斡旋の制度はなかったが成績がずば抜けてよかったせいもあるのだろう、大型コンピューターのオペレーターの仕事を紹介してくれた。
一九七九(昭和五十四)年十月、タケシは電話工事の仕事をやめ、オペレーターとして働きはじめた。
オペレーターが実際やる仕事のほとんどは磁気テープや磁気ディスクの交換など、単純な作業である。コンピューターに関する知識が皆無では困るが、それほど頭を使う必要はない。長時間、機械にへばりついている必要はあるが、基本的には待ちの仕事である。
だがタケシは、オペレーターという仕事を大いに活用した。機械にへばりついている時間のほとんどを、勉強にあてたのである。
タケシの派遣された会社では、これまで使っていた機械をIBMの新しい中型機、4331に置き換えるため、人員をそちらにまわす必要があってオペレーターを補充していた。その新しい機械に付けられた膨大な教育資料が、格好のテキストとなった。
大型コンピューターを実際に使い、そして学びながら、パーソナルからコンピューターに出合ったタケシは面白い発見をしていた。
こと使い勝手に関しては、パーソナルコンピューターの方がよほど気が利いており、上なのである。
大型コンピューターの代表的な入力方式である、パンチカード。IBM仕様の八〇桁のカードに、穿孔機のキーボードを叩きながらガチャガチャ穴をあけていく。これをコンピューターに読ませることになるのだが、一つでも穴をあけ間違えるとカードごとおじゃん。最初から、カードを作りなおすはめになる。
パーソナルコンピューターでは、テレビ画面を見ながら間違った文字をスクリーン上で直すことは常識である。
「パーソナルコンピューターでできることが、なぜ大型機でできないのか。ある面では大型は遅れてるんだな」と思う一方で、タケシは大型とパーソナルとの「文化」の違いとでもいったものを感じとっていた。
パーソナルコンピューターの原点は、きわめて能力の低いそれこそ超貧弱マシンである。しかしその原点から出発して、パーソナルコンピューターは、使う側がこうあってほしいという方向に進歩してきた。それに対して大型機はこれまで、使う側が機械に合わせること、つまりこうあらねばならぬことを求めてきたのではないだろうか。
パーソナルでコンピューターと出会い、それから大型の世界を知るという逆コースをたどったタケシには、もう一つ気になる言葉があった。
「端末」である。
タケシにはどうも、この言葉に違和感があった。いつまでたっても、この言葉に慣れなかった。自らこの言葉を使いながらも、口にするたびに心の奥で引っかかるものがあった。
端末、つまりは大型コンピューターを中心としたシステムに、情報の入出力を行うための装置。身近なところでは、銀行の現金自動支払機や国鉄のみどりの窓口にある装置などがこれにあたる。中央に主コンピューターが置かれ、各端末は通信回線を通じてコンピューターに接続されており、ネットワーク化されたシステムが、効率よく業務をこなしていく。
この端末には、二種類がある。一つは、それ自体は入出力の機能しか持たない、比較的単純なもの。そしてもう一つが、端末それ自体も多少の情報処理機能を持つ、インテリジェント端末と呼ばれるものである。
そして、もともとはそれ一台で独立して使われていたパーソナルコンピューターも、高度情報化社会に向かってコンピューターのネットワーク化が進むと、インテリジェント端末として使われる機会が多くなるという。
しかし、コンピューターのネットワーク化が進みつつあり、今後それにいっそうの拍車がかかるのは当然としても、果たしてそれはパーソナルコンピューターを端末という性格におとしめ、それだけに役割を限定させるものだろうか。
端末という言葉には、あくまでもシステムに奉仕するもの、という響きがついてまわる。端末は、課題を達成するうえで必要なときだけ機能すればよいわけで、端末が勝手な処理を行ったり、端末同士がムダなおしゃべりを始めたりすれば、システム全体の効率を損なうことになる。
そしてもし、パーソナルコンピューターが端末としての性格を強めていくとすれば、それは社会全体のシステム化、つまりは管理化が進んで、社会全体として達成すべき課題が狭い範囲に絞り込まれたときではないか。パーソナルコンピューターが端末として強く機能する社会、タケシにはそれが、個々人の統合化が進んだ全体主義的な社会に思えてならなかった。
だが果たして、社会はそうした方向に進んでいくのだろうか。
たとえば、現在高度にネットワーク化が進んだものとして、電話がある。この電話は、果たして端末だろうか。
ある一つの組織がある課題を達成するために電話を利用している場合に限れば、電話は端末として機能することになろう。ただし、電話の性格はそれだけではない。私の目の前にある電話は、私の気まぐれな求めに応じて日本国中、世界中とつながってくれる。そして私は、電話を通じてさまざまな情報を得ることができる。親しい人の声を聞くという、純粋な楽しみのためだけに利用することもできる。
電話は、端末として機能することもある。しかしそれは、もっと幅の広い存在である。個人にとって電話とは、世界に向けて開かれた窓である。
そして、コンピューターのネットワーク化が進んだとき、パーソナルコンピューターもまた、個人にとっては世界に開かれた窓として機能するのではないか。そしてこの窓は、電話のそれと比べればはるかに強力な存在となることは間違いない。この窓を通じ、人ははるか彼方までを見通すことができよう。そんなとき、この魅力的で強力な道具を、人は端末などといういかにも何かの従属物といったイメージを持った言葉で呼ぶだろうか。
タケシにとって端末とは、「こうあらねばならぬ」コンピューターのイメージにつながっていた。彼はパーソナルコンピューターに、世界に開かれた窓として機能してほしかった。
「こうあってほしい」コンピューターと「こうあらねばならぬ」コンピューター――。タケシは職業としても、「こうあってほしい」コンピューターにつきたくなった。
オペレーターとして働きながら勉強を続けていく一方で、パーソナルコンピューター上でのソフトウエア開発の仕事を探しはじめた。
一九八二(昭和五十七)年三月、ソフト開発の仕事を決めてタケシはオペレーターをやめた。
しばらく前から山岸会の実顕地生産物供給所に顔を出していたタケシは、新しい仕事を始める前にもう一度ヤマギシズムに向き合う気持ちになっていた。春日山を訪れ、三度目の研鑽学校を体験した。
タケシは今、日本電気のパーソナルコンピューター、PC―9801のキーボードを叩きながらプログラム作りを職業とし、ヨーコはヒカルとタエコとともに豊里にある。
「晴耕雨コンピューター」
それが現在のタケシの夢であるという。
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第一部 おわりに
この本の冒頭で、次のように書きました。
「裏返していえば、挫折と沈滞を余儀なくされていた一つの時代精神が、パーソナルコンピューターという革命児を生み出したのではないか。少なくとも、生み出す一因となったのではないか」
こうした思いを抱くようになったきっかけは、一つではありません。何人かの友人の生き方や目にした記事、耳にしたエピソード――。そうしたものの中から一つ、代表的なパーソナルコンピューターメーカーであるアップルを友人のスティーブン・ウォズニアックと創設し現在は同社の会長におさまっている、スティーブン・ジョブズがこの革命児に出会うまでの道のりを紹介しましょう。
彼も、タケシ君と同じく一九五四年生まれです。
「ジョブスも、もうこの頃には、ウォズと同じように、エレクトロニクスといたずらが何よりも好きになっていたのだ。だが、天性の陽気さを持つウォズと違い、そのいたずらはときとして、手のつけられない反抗となることもあったようだ。ナイーブな感性は、強烈な個性とともに、激しい敵愾心をさらけ出すこともあった。一九七二年、ジョブスはホームステッド高校を卒業した。過去を語りたがらないジョブスではあるが、その夏、彼はサンタクルーズの小さな山荘でガールフレンドと共同生活をしたことを告白している。彼にとっては、かなり真剣なものだったようだが、結局、若い二人は夏の終わりとともに別れてしまう。ナイーブな内面を持つジョブスにとって、このときの精神状況がその後の人生に少なからぬ影響を与えているように思える。
秋になって、ジョブスはオレゴン州のリード大学に進んだ。彼は、リード大学以外どこへも行きたくないと言っていたが、結局は一学期間しか通わなかった。彼もまた、アカデミズムを嫌い、一九七〇年代のアメリカ社会に対してある種の疑問を抱いていたのだろうか。それから約三年の間、ジョブスの放浪が続く。
彼はエレクトロニクスを忘れ、キャンパスをさまよいながら、七〇年代の始めの社会的混乱と六〇年代の高揚した若者のエネルギーの頂点といえるウッドストックのコンサート以降、急速に衰退していた若者文化の迷路の中で、タオイズムに傾倒したり、暝想にふけったり、果てはLSDにも手を出し、ヒッピーまがいの暮らしに浸っていた。一九七四年、ジョブスはロスアルトスに帰り、当時シリコンバレーでは注目されていたアタリ社に入社する。何か心をつき動かすものが欲しかったのだろう。アタリ社は活気にあふれ、かなり自由な会社だったが、ジョブスはここでも周囲の環境にあまり馴染めなかった。
『エンジニアたちはジョブスを生意気な男だ、と思って嫌っていたようだ。そして昼間一緒に仕事をするのはご免だから、夜遅く来るように、などと言っていた』と、当時を知る元同僚は語っている。ジョブスは、アタリ社でやっている単なるビデオゲームには飽き足らぬものを感じていた。自分が打ちこむのはこれじゃない。だが、ジョブスが確実につかみとっていたものがある。アタリ社の創設者、ブッシュネルのシャープなビジネス感覚と、マイクロコンピュータの可能性だ。わずか数か月間しか在職しなかったが、ジョブスの中にはある種の手応えがあった。
彼の中では、何かが起こり始めていた」
(『 Two Steves & Apple 』旺文社)
パーソナルコンピューターとは何の関係もないと思われるのであろう、山岸会について長々と書きました。
それは、スティーブン・ジョブズをタオイズムや暝想、LSDへ接近させたものとタケシ君をヤマギシズムへ接近させたもの、そして彼ら二人をパーソナルコンピューターへと向かわせたものが、根において一つなのではないかと考えたからです。
今現在は実現されていない世界、言い換えれば彼岸にいたる道を自前で切り拓こうとする根本の精神において、彼らを動かしていたものは同じだったと思います。
けれど見方を変えれば、そうした彼岸への希求を強く備えた人物は、現在の社会にとっては逸脱者です。現在の社会の枠組みからこぼれ落ちようとする、あるいはこぼれ落ちてしまった人間です。
一九六〇年代後半から七〇年代前半にかけて、アメリカやヨーロッパ、そして日本で巻き起こったスチューデントパワーの動きは一面でこうした逸脱者を大量に用意する機能を果たしたのではないでしょうか。社会の枠組みを大きく揺さぶり、潜在的にはかなりの可能性を秘めた一群の逸脱者たちを用意しておく。そうした逸脱者の畑に、革命の種が落ちる。この畑が豊かであれば、種は急速に生長し、大きな花を開かせることになるのかもしれません。
何やらわけの分からない、海の物とも山の物とも知れぬ存在に飛びついていくのは、退路を断たれ、行くあてのない決死の人たちだけでしょう。
しかし一人ひとりの逸脱者たちにとって、その道のいかに険しいことか。もちろん私は、パーソナルコンピューターだけが彼らのリターンマッチの戦場であったなどというつもりはありません。リングはいろいろなところに用意されているのでしょう。しかしそれにしても、そうした逸脱組の中で自らのリターンマッチのリングを発見したものがどれくらいいるのでしょうか。
不断に逸脱組を生み出し、そうした連中をかなりの割合でもう一度取り込んでいく。その取り込みによって社会自体も変化していく。そうした回路が機能しているとき、社会はかなり柔軟で強力たりうると思うのですが、現実には逸脱組の多くはついにリターンマッチのリングを発見しえない場合の方が多いに違いありません。退路を断たれたままの、憤死です。
これも冒頭で、「パーソナルコンピューターの誕生は一つの革命だった」と書きました。
現在まだ進行中の革命の本質を見抜き、それに言葉を与えるほどの力は私にはありません。ただ思いつきを述べることを許していただけば、これはコンピューター技術に対する人間性の主体性獲得運動なのではないか、という予感はあります。
パーソナルコンピューター誕生のための基礎技術として、マイクロコンピューターは不可欠です。しかし、マイクロコンピューターが作られたことによって、トコロテンでも押し出すようにパーソナルコンピューターが生まれたわけではありません。もともとは別の用途のために作られていたものと、すでにあった技術を組み合わせ、パーソナルコンピューターは超貧弱マシンとして誕生し、そこから発展してきました。
パーソナルコンピューターの革命は、技術の革命というよりは発想の革命、テクノロジーに向き合う態度の革命だったのでしょう。
それまでもっぱら工業的な側面で使われてきたコンピューター技術を、全体性を持った人間に奉仕する存在に変革する。文化に奉仕する存在に変革する。
そのためにパーソナルコンピューターにかかわったすべての人が、コンピューター技術に一鞭くれたのだと思います。
ただし新しい発想の芽が社会に花開く過程は社会への取り込みの過程であり、スタート時点で備わっていた印象が色あせていく過程でもあります。
大型コンピューターのメーカー、特にその中でも世界市場を独占的に押さえていたIBMなどでは、最初は歯牙にもかけなかったパーソナルコンピューターが急成長していくのを見て大変な危機意識を持ったのではないかなどと、私はついいらぬ邪推をしてしまいます。ところが今、そのIBMが、パーソナルコンピューターの分野でも大きなシェアを占めている。そしてIBMがパソコン市場への参入を狙って打ち出してきた機械では、まず大型コンピューターの端末として使える、要するにシステムに奉仕できるという点が、他機種との差別化のポイントとしてアピールされた。さらにIBMはパーソナルコンピューターに関しても幅広いラインナップを固めつつあり、この領域でも大型機ばりの独占に向かって着実に前進しつつあるように見えます。
けれどもう一方からいえば、あのIBMがパーソナルコンピューターを作らざるをえないこと、一台売れば莫大な利益を生む大型機の世界だけにとどまっておれず、利幅のちっぽけなパーソナルの世界に踏み出さざるをえないことにも注目すべきでしょう。確かにパーソナルコンピューターの領域でもIBMの独占が進むことには大きな危惧を感じます。これまでのところ、IBMは私から見れば、パソコンの文化に何ら新しい寄与をしていないように見えますし、そうした企業が強力な資本力と販売力を武器にこの領域を独占してしまえば、また新たなる壁が生まれてくるでしょう。ただし、もう、コンピューター技術の独占時代は去ったのです。
また、文化に奉仕するコンピューターの側でもいくつか成果が生まれています。
ゲームや音楽へのコンピューターの利用、これはもっともっと、歴史的に見て評価されるべきではないでしょうか。私自身はスペースインベーダー以来はそれほどゲームに入れあげているわけではありませんが、ゼビウスというゲームの造形的な美しさには本当に感心します。コンピューターを使ったゲームは、おそらくは新しい芸術分野、ストーリーと造形、そして音楽とがミックスされた新領域として発展していくでしょう。
また、アップルのマッキントッシュと名付けられたパーソナルコンピューターにも個人に奉仕するためには何が必要かという哲学(そのルーツはゼロックス社のパロアルト研究所にありますが)が現われています。
また、こんなことも言えるでしょう。
鶴見俊輔さんは『本の雑誌』第三八号で行われたアンケート、「なぜか怒りの秋なのだ」に実に鋭く答えられています。このアンケートは、活字とその周辺について何か腹の立つことはないかと問うたものなのですが、それに鶴見さんは「他人の頭をなぐる道具として本を用いることには腹が立ちます」と答えておられるのです。
「頭をなぐる道具としての本」とは、いったいどんなものでしょう。鶴見さんは、そうした本の使い方をこうおっしゃいます。
誰かの本、たいていは欧米人の著作を読んで1何かに感心する。2次に、それに感心しないものはバカだと考えてそう言う。3自分の感心した本の感心したところとちがう思想の持ち主を、非難する。
これが、人の頭をなぐる本の使い方です。
鶴見さんにならって最近腹の立つことをあげさせてもらえば、他人の頭をなぐる道具としてコンピューターを使うこと、いやさらに、人を脅す道具としてコンピューターを使うことには腹が立ちます。
こうしたコンピューターの使い方は、残念ながらパーソナルコンピューターが急速に普及していく過程でもずいぶん見られました。ベーシックを覚えなければ、これからはサラリーマンとしてやっていけないといった脅しは、ほこりをかぶったままのパーソナルコンピューターを生み出すのに、かなり役に立ったことでしょう。
最近のテレビコマーシャルで、竹村健一さんが登場して、これからの企業はD3Cが重要でありそのなかでも特にコンピューターがポイントとなる旨を宣言なすってから、「分かる?」といかにも人を脅すように(被害妄想といわれるかもしれませんが、私にはそう聞こえます)付け加えられるものがあります。
私はこのコマーシャルを見るたび、かなり目にしているにもかかわらず、画面にスリッパを投げつけたくなります。
脅されて、強いられて踏み込まざるをえないコンピューターの世界など、当人に何の喜びも与えることはないでしょう。そんな世界からは、逃げまくるに越したことはありますまい。
ただしコンピューター技術に関しては素人の私が、大変大ざっぱにではあってもコンピューターをめぐる環境が進んでいってほしい方向に口をはさめるということは、そのピントが合っているかいなかは別にしても、やはりパーソナルコンピューターの革命による成果の一つなのではないでしょうか。もしも、超貧弱マシンを原点とした革命が存在しなければ、コンピューターを他人の頭をなぐる道具に使うという行為は、もっともっと効果的に、巧妙に、そしてコンピューター技術の独占者たち自身もそうとは意識しないうちに行われていたに違いありません。
そして、パーソナルコンピューターの革命に関して学ぶべき最大のポイントは、テクノロジーなり科学なりに対し、それが何に対して奉仕するものなのかを検証し、地球に生きる一人ひとりの人間にとってプラスとなる方向に、鞭をくれてやるという態度ではないでしょうか。
「テクノロジーよ、人に向きなさい」
科学技術がかつてない勢いで急速に進歩している現在、我々は何度でもこの言葉を繰り返す覚悟を固めるべきなのだと私は今、考えています。
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第一部 あとがき
漢字プリンターで打ち出された校正紙を、ようやく読み終えたところです。
日本電気内の動き、そしてタケシ君の足跡。この二筋の道が果たして交差しえたか。まったく関係のない二つを私自身の強い思い込みによって強引につなごうとしたのではないかと恐れますが、本人にはもうそこを客観的に判定することはできなくなっています。ここまで読み進んでくださった皆さんの一人ひとりに、判定を仰ぎます。
こうした角度からパーソナルコンピューターについて考えなおしてみるきっかけを与えてくださったのは、東海大学出版会の西田光男さんです。西田さんによる啓示を受けて『科学サロン』に書いた原稿用紙四枚ほどの拙稿が、この本の基になりました。
第一章の「誕生! 超貧弱マシン」は、『アスペクト』誌一九八五年二月号に「企業内ベンチャーの先達たち」と題して発表したものを全面的に書きなおし、補いました。日本電気の取材に際しては『アスペクト』編集部の岡本聖司さんに大変お世話になりました。取材に応じてくださった日本電気の大内淳義、渡辺和也、永尾守正、後藤富雄、加藤明、土岐泰之のみなさんにも、あらためて感謝いたします。
田原総一朗さん、『アスペクト』誌副編集長の鶴岡雄二さんからは、ほんの短い会話の一つ一つを通して数多くの示唆を受けました。社会の枠組みからの逸脱と取り込みという考え方は、広島大学総合科学部助手の杉本厚夫さんに示唆していただきました。
常に一番目の読者として容赦のない叱責と励ましを与えてくれた富田晶子さん、叱責と励ましに加えてアルコールを浴びせてくれた旺文社の椛田敏彦さん、この二人の協力を得てようやくここまでたどり着くことができました。
それにもまして何よりも、心の傷に踏み込むような質問に言葉を一つ一つ選びながら答え、長時間にわたって私とともにパーソナルコンピューターについて考える作業を続けてくれたタケシ君に、何よりも何よりも感謝いたします。
一九八五年二月一日
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第一部 参考文献
『I/O』 一九七六年十一月号〜(工学社)
『阿Qのユートピア あるコミューンの暦』(新島淳良著、晶文社、一九七八年)
『晨の村から』(ヤマギシズム出版社編集部編、ヤマギシズム出版社、一九八二年)
『ASCII』 一九七七年七月号〜(アスキー出版)
『インターフェース』 一九七七年十月号(CQ出版)
『インティメイト・マシン――コンピュータに心はあるか』(シェリー・タークル著、西和彦訳、講談社、一九八四年)
『エレクトロニクスからの発想 ある技術の軌跡』(菊池誠著、講談社、一九八二年)
『けんさん』 一九八一年九月二十五日号(ヤマギシズム出版社)
『さらばコミューン ある愛の記録』(新島淳良著、現代書林、一九七九年)
『しかし』 一九六九年十二月五日号〜
『時代は変わる フォークとゲリラの思想』(室謙二編、社会新報、一九六九年)
『図解マイコンの基礎知識』(矢田光治著、オーム社、一九八〇年)
『Z革命集団・山岸会 その理論と行動』(山岸会文化科編、ルック社、一九七一年)
『断絶への航海』(ジェイムズ・P・ホーガン著、小隅黎訳、早川書房、一九八四年)
『 Two Steves & Apple 』(プロデュース・センター2編、旺文社、一九八三年)
『パソコン誕生』(太田行生著、日本電気文化センター、一九八三年)
『ビートルズ ラブ・ユー・メイク』(ピーター・ブラウン/スティーヴン・ゲインズ著、小林宏明訳、早川書房、一九八四年)
『PLAYBOY』 一九八五年三月号(集英社)
『本の雑誌』 第三八号(本の雑誌社)
『マイコン・ウォーズ』(田原総一朗著、文藝春秋、一九八一年)
『マイコン基礎講座』(小黒正樹著、廣済堂出版、一九七八年)
『マイコン入門』(大内淳義著、廣済堂出版、一九七七年)
『マイ・コンピュータ入門』(安田寿明著、講談社、一九七七年)
『ヤマギシズム幸福学園 ユートピアを目指すコミューン』(新島淳良著、本郷出版社、一九七八年)
『私の見たヤマギシカイ』 野本三吉/野坂昭如/足立恭一郎/鶴見俊輔/真木悠介著、山岸会)
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第二部 序章 パーソナルコンピューターの誕生
一九七二 彼方のパーソナル・ダイナミック・メディア
胸の底にふっとぬくもりが兆すのを感じて、後藤富雄は目を閉じた。
小さなろうそくの炎を両手をかざして守るように、開いたままの雑誌にてのひらをあててみた。読み終えたばかりの「パーソナル・ダイナミック・メディア」と題した論文を包んでいる柔らかな気配が、両手を通してさらさらさらさらと胸に流れ込んでくる。
後藤はそのまま、あたたかな気配がゆっくりと内にみちてくる心地よさに身を委ねていた。
一九七七(昭和五十二)年、初夏。
勤務先の日本電気玉川事業場にあった中央研究室の図書館でコンピューターの雑誌をめくっているうちに、後藤の目が奇妙なタイトルの論文に止まった。流行のメディア論でも扱っているような表題は、アメリカ電気電子通信学会(IEEE)発行の『コンピューター』という専門誌には似合っていないように思えた。
タイトルの脇に添えられている挿し絵も、かなり変わっていた。
ベレー帽をかぶった絵かきが画面に向かって親指を立て、構図をとろうとしている。計算機と芸術家という取り合わせが、後藤には少しいぶかしく思えた。
だが何気なく読みはじめた論文の数行に、好奇心の針が鋭く振れた。
コピーを自宅に持ち帰り、英和辞典片手に一気に読み終えたとき、後藤はこの表題にもそしてこの挿し絵にも、素直にうなずくことができた。
ゼロックス社のパロアルト研究所に籍を置くアラン・ケイとアデル・ゴールドバーグという著者は、人が何かを生み出すための新しい道具を作ろうと考えていた。
コンピューターはまず、計算機として生まれ落ちた。
だがケイとゴールドバーグは、これまで注目されてきた計算の力ではなく、巧みな物まねというもう一つの側面に光を当てて、コンピューターをとらえなおそうとした。
ものがどう働き、どう動くのか、その振る舞いの仕組みを分析できれば、コンピューターはプログラムでルールをなぞって何物にも化けることができる。さらに動き方を正確に定義できれば、これまでには存在しなかった何かにすら、コンピューターは変身しうる。
コンピューターの本質をあらためて〈万能の物まね機械〉と定義しなおせば、電子計算機というこれまでのあり方は、単に計算機をなぞってみせた物まねの一つのパターンだったとも考えられる。
ではコンピューターを万能物まね機械ととらえなおしたうえで、何をまねようとするのか。
著者たちは、その目標に〈メディア〉を据えていた。
人間はこれまで、考えをまとめて人に伝えるために、さまざまなメディアを使ってきた。文字や絵筆、新聞やテレビなど、さまざまな媒体が人の思いを伝えた。これらすべての機能を取り込んだうえで、これまでのものを超えてしまう新しいメディアを、彼らはコンピューターを使って作りたいと考えた。
パロアルト研究所の学習研究グループのメンバーであるゴールドバーグと、グループのリーダーで主任科学者の肩書きを持つケイは、目標とするメディアを超えたメディアを「パーソナル・ダイナミック・メディア」と名付けていた。
いったん取り込まれた情報は書き直しや修正ができないという点では、これまでのメディアは焼き上げられて床の間に飾られた置物のような静的な存在だった。だがコンピューターで作る新しいメディアなら、取り込んでおいた情報の加工や修正の要求に柔軟に応じることができる。さらに人が働きかければ応えるような振る舞いも、このメディアはこなしうる。
ケイとゴールドバーグは〈ダイナミック〉という表現に、打てば響くという新しいメディアの特長を込めていた。
このダイナミックなメディアを、彼らは誰もが所有できるものに仕上げたいと考えていた。
論文で彼らが示そうとしたのは、こうした考え方の枠組みだけではなかった。
彼らはすでにパロアルト研究所で、具体的な開発目標を設定し、コンピューターを使ってパーソナル・ダイナミック・メディアを作りはじめていた。
人が創造的に考えるための目指すべき道具を定義して、彼らはダイナブックと名付けた。
想定によれば彼らのダイナブックとは、形も大きさも厚めのノートほどの、持ち運びのできる道具だった。
この小さな道具には、本の何千頁に相当する資料や、絵、アニメーション、音など、あらゆる形態の情報を収めておくことができる。記録しておいた情報は簡単に呼び出すことができ、必要に応じて自由に手を加えられる。
だが、もっぱら数値と文字だけを相手にしてきたコンピューターに、絵や音や動画を扱わせようとすれば、従来とは桁違いの処理能力と記憶容量が必要になった。これまでコンピューターは目覚ましい技術革新を繰り返してきたが、ダイナブックに求められるパワーを持ち運び可能なサイズに収められる日は、まだまだはるかに遠かった。
そこでケイらは、ハードウエアに関しては暫定的に大型のものですませ、このマシンを試験台として、ソフトウエアの側からダイナブックに向かって進もうと考えた。
ケイが性能の要求を示して研究所のハードウエアのエンジニアが作った暫定版ダイナブックは、アルトと名付けられた。
一見すればアルトは、キャビネット大の本体と縦長のブラウン管式ディスプレイ、キーボードなどの入力装置からなるミニコンピューターだった。だが細部には、ユニークな仕掛けがこらされていた。
画面と向かい合いながらコンピューターを使う形は、これまでも一部の先進的なマシンで試みられていた。だがアルトのディスプレイには、ケイの注文によって、ビットマップと呼ばれるめずらしい方式が採用されていた。
一つ一つ描いたり消したり色をつけたりと、自由に操作できる点の集まりで画面を表示するこの方式を用いれば、ディスプレイを白紙に見立てて思うままに点描でイメージを描き出すことができた。決まりきった形の文字だけを表示するのに比べれば、ビットマップでははるかに大きな処理速度とメモリーが必要となった。だがコンピューターに巧みな物まねを演じさせるうえで、ビットマップはきわめて強力な武器であり、絵や動画を扱わせようとすればこの方式の採用は欠かせなかった。
アルトへの入力のために用意されたマウスと五本指のキーボードは、先駆者からケイが受け継いだ財産だった。
原爆による自滅から
人類を救う道具の夢
マサチューセッツ工科大学(MIT)の副学長を経て、大量の科学者を動員して進められたマンハッタン計画を指揮したヴァニーヴァー・ブッシュは、一九四五年七月号の『アトランティックマンスリー』誌に「思考のおもむくままに」と題する原稿を寄せた。
おびただしい論文の中から必要な才能を見つけだし、積み上げられる書類の山をさばいて原子爆弾の開発過程をコントロールしたブッシュは、目の前に迫った平和の時代に科学者がなすべきことを思ってこの原稿の筆を執った。
理論的な研究を放棄し、兵器の開発に全力を傾けた物理学者たちを、ブッシュは「偉大なチーム」と位置づけた。だがその一方で、科学によってさまざまな恩恵を受けた人間が、きわめて残虐な兵器をもまたこれによって獲得したことを、彼は苦い思いで確認せざるをえなかった。
ブッシュの細い希望の糸は、民族の膨大な経験を蓄積し、自在に過去を振り返りうる道具を用意することで、争いによって自滅する前に人類を進化させることだった。
経験や知識を蓄積し、〈思考のおもむくままに〉情報を取り出せる装置の必要性は、ブッシュの専門である科学の分野でも明らかだった。新しい論文はますます大きな山をなす一方で、研究者は他人の発見や結論をカバーすることに追いまくられている。それぞれの領域はより専門性を高めつつあり、視野を広くとって各分野を見渡し、異なった分野のあいだに橋を架けることは、ますます困難になろうとしている。
にもかかわらず、科学者が研究成果を伝えたり、参照したりする方法が旧態依然たるものであることを、ブッシュは深刻な問題と指摘した。
「人類の経験の総体は驚くほどの速さで増加しているにもかかわらず、私たちがその結果生じた迷路をたどって、この瞬間に重要なことがらを見つけだすための手段は、帆船時代に使っていたものとなんら違いがないのである」(『ワークステーション原典★』ACMプレス編、村井純監訳、浜田俊夫訳、アスキー出版局、一九九〇年)
★ACM(アメリカ計算機協会)が企画して一九八六年一月にパロアルトで開かれた「パーソナルワークステーションの歴史」会議には、コンピューターと人とのかかわり方を決めるうえで重要な役割を果たした人々が一堂に会した。ここで行われた講演と質疑応答を原稿化し、歴史的な参考論文を再録した『ワークステーション原典』は、パーソナルコンピューターが引き継いだ技術の源流をたどろうとする者にとって、きわめて示唆に富んだ貴重な資料である。「パーソナル・ダイナミック・メディア」の共著者であり、この本では編者を務めたアデル・ゴールドバーグは、同書の前書きを「歴史は人が作る物だ」と書き起こしている。その歴史の作り手たちがたどった思考の跡を網羅的にすくい取った本書を、監訳者の村井純氏は「歴史的な知的財産」と評しているが、筆者もまったく同感である。この大部の貴重な資料を日本語で読めることは、じつにありがたい。
ただ専門領域に深く踏み込んだ困難で膨大な翻訳作業を、最終的に誰が取りまとめたかが正しくクレジットされていない点は、「歴史は人が作る」という観点からも、本書の唯一の瑕疵として引っかかる。本書の翻訳にあたったのは、偉大なるロックンロール小説『45回転の夏』の著者であり、アスキー刊行のパーソナルコンピューターの歴史に関するすぐれた著作の訳にこれまでもあたってきた鶴岡雄二氏である。「文章に関して完全なコントロールを委任されない限り、本名を使用しない」と称する鶴岡インゴウオヤジ雄二は、もともと縦組みの読み物とすることを狙ってスタートした『ワークステーション原典』の翻訳プロジェクトが横組みに変更になった時点でへそを曲げ、版元との訳語に対するいくつかの意見の相違に若干のトラブルが重なって完全に切れて、本名を取り下げた。その挙げ句どこから浜田俊夫という名前が出てきたのかといえば、腹立ち紛れに当初筆名は只野義明(〈ただの偽名〉のもじり)としたがさすがにアスキーから拒否され、そのときたまたま読み返していた広瀬正の『マイナス・ゼロ』の主人公の名をぱくってこうしたというのが真相だそうである。ただし鶴岡氏がケツをまくってからも、アスキー側は漢字を若干多めに使い、語尾を一部変更したほかは、訳文には基本的に手を加えていない。編集者とのトラブルに関しては、筆者も人のことを言えた義理ではない。だが本書の原稿を準備するためにかなり資料を読み続けた後の今は、「一時の短気のためにわけの分からない人物を一人歩きさせると、後生の人間が迷惑するぞ」と説教でもくれたい気分である。
ただ専門領域に深く踏み込んだ困難で膨大な翻訳作業を、最終的に誰が取りまとめたかが正しくクレジットされていない点は、「歴史は人が作る」という観点からも、本書の唯一の瑕疵として引っかかる。本書の翻訳にあたったのは、偉大なるロックンロール小説『45回転の夏』の著者であり、アスキー刊行のパーソナルコンピューターの歴史に関するすぐれた著作の訳にこれまでもあたってきた鶴岡雄二氏である。「文章に関して完全なコントロールを委任されない限り、本名を使用しない」と称する鶴岡インゴウオヤジ雄二は、もともと縦組みの読み物とすることを狙ってスタートした『ワークステーション原典』の翻訳プロジェクトが横組みに変更になった時点でへそを曲げ、版元との訳語に対するいくつかの意見の相違に若干のトラブルが重なって完全に切れて、本名を取り下げた。その挙げ句どこから浜田俊夫という名前が出てきたのかといえば、腹立ち紛れに当初筆名は只野義明(〈ただの偽名〉のもじり)としたがさすがにアスキーから拒否され、そのときたまたま読み返していた広瀬正の『マイナス・ゼロ』の主人公の名をぱくってこうしたというのが真相だそうである。ただし鶴岡氏がケツをまくってからも、アスキー側は漢字を若干多めに使い、語尾を一部変更したほかは、訳文には基本的に手を加えていない。編集者とのトラブルに関しては、筆者も人のことを言えた義理ではない。だが本書の原稿を準備するためにかなり資料を読み続けた後の今は、「一時の短気のためにわけの分からない人物を一人歩きさせると、後生の人間が迷惑するぞ」と説教でもくれたい気分である。
そう考えたブッシュは、記録をとり、情報を保存し、参照するための強力な新しい道具を思い描いた
第二次世界大戦中に、大砲の弾道計算を自動化するために開発されたENIAC★は、電子計算機の可能性を示してさまざまなプロジェクトにスタートのきっかけを与えた。このマシンが動きはじめる前に「思考のおもむくままに」をまとめたブッシュは、こうした道具をコンピューターを使って作るとはっきり意識してはいなかった。だが光を電気に変えることで電気的にものを〈見る〉ことを可能にする光電セルや写真技術、音声タイプライターなどを統計処理分野で使われているパンチ・カード・システムのような情報処理機械と組み合わせることで、広大な知識と経験の海を発想のおもむくままに滑る道具が作れるだろうとブッシュは予測した。
★アメリカ陸軍の依頼を受けて、ペンシルベニア大学の電気工学科、ムーアスクールが開発した電子計算機。ENIACは、電子式数値積分計算機を意味する Electronic Numerical Integrator and Computer の略。撃ち出した砲弾が大気の条件によってどんな影響を受け、初速や発射角度などに応じてどのような軌跡を描いてどこに着弾するかを示す弾道数表作りを高速化する目的で、一九四三年に開発が始まった。だが戦時中には完成にこぎ着けられず、戦後の一九四六年二月になって公表された。
ENIACはきわめて早い段階の実用機として注目されるべきマシンではあるが、コンピューターを支える技術は同機にいたるまでにも厚く積み重ねられており、またその後のコンピューターの基本原理となったプログラム内蔵方式は、ENIACには採用されていなかった。
科学の勃興は計算処理への要求を増大させ、さまざまな計算機の提案を生み出してきた。資本主義の形成に伴って拡大するビジネスの世界も、会計処理を迅速にこなす計算機を求めた。また一〇年ごとの国勢調査を憲法で規定したアメリカでは、大量の移民を引き受ける中で統計処理の機械化の要求が増大し、一八九〇年の調査データの処理には、ヘルマン・ホレリスによって開発された統計機械が利用された。軍事もまた、計算の高速化に大きな圧力をかけ続けた。アメリカ陸軍がメリーランド州アバディーンに設立した弾道研究所は、数学者を動員し、ヴァニーヴァー・ブッシュの開発した微分解析機などの計算機を駆使して弾道数表の充実に努めていった。一九三九年に第二次世界大戦が勃発して以降の戦時体制下、弾道研究所では微分解析機の改良が進められていったが、もう一方で研究所は新しい弾道計算装置の開発をペンシルベニア大学に打診した。ムーアスクール助教授のジョン・W・モークリーは、「電子式微分解析機を開発すれば弾道数表作りに要する期間を大幅に短縮できる」との構想を示し、一九四三年四月には大学院生J・プレスパー・エッカートとともに、この装置に関する提案書をまとめた。陸軍との契約は翌五月に行われ、ENIACの開発が始まった。
電子式のスイッチとして機能する真空管を使って、ともかく微分解析機に代わる計算機を作るとして開発されたENIACは、基本的なアイディアは既存の計算機から借りながら、資金にまかせて強引に電子化を推し進めるというアプローチをとった。その結果、ENIACは一万八八〇〇本の真空管、一七万個の抵抗、一万個のコンデンサー、一五〇〇個のリレー、数千のスイッチと数百のプラグを組み合わせ、五〇万か所をはんだ付けしたモンスターとなった。開発にあたったスタッフは長期間にわたって昼夜兼行で作業にあたったが、膨大な接点に紛れ込んだ不良箇所が彼らの足を引っ張った。
完成したENIACは、毎秒五〇〇〇回の加減算をこなし、当時の計算機をはるかに上回る処理能力を見せつけた。一方ハーバード大学とIBMは、従来の統計・会計機の技術をもとに、指定された計算手順に従って機能する汎用自動計算機、Mark
を一九四四年に完成させていた。紙テープに記録した命令を一つ読んでは実行し、次の命令を再びテープから読む方式を採用していたMark
では、処理速度は読みとりの際の機械的な動作によって制限されていた。それに対しENIACでは、プラグにコードを差し込んでいくことで計算の手順をセットするようになっており、電子化による高速化のメリットがそのまま生かせるように工夫されていた。ただし計算の手順を変更しようとすれば、ENIACではそのたびに配線をすべてやりなおさざるをえなかった。計算自体は高速化できても、ENIACには配線に手間がかかるという問題点が残されていた。
ハンガリー生まれのユダヤ人数学者で、ヒットラーのドイツを逃れてプリンストン大学に移っていたジョン・フォン・ノイマンは、マンハッタン計画に貢献するとともに、コンピューターの基本原理の確立においても決定的な役割を演じた。弾道研究所はENIACの完成以前から、より強力な計算機を開発するようムーアスクールに要請していたが、この次期計画は弾道研究所の顧問でもあったフォン・ノイマンの構想にもとづいて進められることになった。EDVACと名付けられた次のマシンに関する、一九四五年六月にまとめられた最初の提案書で、フォン・ノイマンは「電子的な記憶装置に収めた計算手順を読み出して実行する」プログラム内蔵方式を提案した。フォン・ノイマンとエッカートが協力して進めることになったEDVACの開発計画は、両者の発想の食い違いもあって大幅に遅れ、同方式の一号機はイギリス、ケンブリッジ大学のモーリス・V・ウィルクスによって一九四九年五月に作り上げられたEDSACとなった。
現在のコンピューターの基本技術は第二次世界大戦の終結間近に確立され、この戦いは科学技術による人類の自滅を暗示させる原子爆弾の炸裂に彩られて終わった。そしてコンピューターがその進化を加速させるだろう科学が生じさせかねない破滅を回避する小さな希望のアイディアもまた、この時点で誕生している。
始まりのその時点にすべての可能性が内包されているという教訓は、コンピューターに関しても当てはまる。
ENIACはきわめて早い段階の実用機として注目されるべきマシンではあるが、コンピューターを支える技術は同機にいたるまでにも厚く積み重ねられており、またその後のコンピューターの基本原理となったプログラム内蔵方式は、ENIACには採用されていなかった。
科学の勃興は計算処理への要求を増大させ、さまざまな計算機の提案を生み出してきた。資本主義の形成に伴って拡大するビジネスの世界も、会計処理を迅速にこなす計算機を求めた。また一〇年ごとの国勢調査を憲法で規定したアメリカでは、大量の移民を引き受ける中で統計処理の機械化の要求が増大し、一八九〇年の調査データの処理には、ヘルマン・ホレリスによって開発された統計機械が利用された。軍事もまた、計算の高速化に大きな圧力をかけ続けた。アメリカ陸軍がメリーランド州アバディーンに設立した弾道研究所は、数学者を動員し、ヴァニーヴァー・ブッシュの開発した微分解析機などの計算機を駆使して弾道数表の充実に努めていった。一九三九年に第二次世界大戦が勃発して以降の戦時体制下、弾道研究所では微分解析機の改良が進められていったが、もう一方で研究所は新しい弾道計算装置の開発をペンシルベニア大学に打診した。ムーアスクール助教授のジョン・W・モークリーは、「電子式微分解析機を開発すれば弾道数表作りに要する期間を大幅に短縮できる」との構想を示し、一九四三年四月には大学院生J・プレスパー・エッカートとともに、この装置に関する提案書をまとめた。陸軍との契約は翌五月に行われ、ENIACの開発が始まった。
電子式のスイッチとして機能する真空管を使って、ともかく微分解析機に代わる計算機を作るとして開発されたENIACは、基本的なアイディアは既存の計算機から借りながら、資金にまかせて強引に電子化を推し進めるというアプローチをとった。その結果、ENIACは一万八八〇〇本の真空管、一七万個の抵抗、一万個のコンデンサー、一五〇〇個のリレー、数千のスイッチと数百のプラグを組み合わせ、五〇万か所をはんだ付けしたモンスターとなった。開発にあたったスタッフは長期間にわたって昼夜兼行で作業にあたったが、膨大な接点に紛れ込んだ不良箇所が彼らの足を引っ張った。
完成したENIACは、毎秒五〇〇〇回の加減算をこなし、当時の計算機をはるかに上回る処理能力を見せつけた。一方ハーバード大学とIBMは、従来の統計・会計機の技術をもとに、指定された計算手順に従って機能する汎用自動計算機、Mark
を一九四四年に完成させていた。紙テープに記録した命令を一つ読んでは実行し、次の命令を再びテープから読む方式を採用していたMark
では、処理速度は読みとりの際の機械的な動作によって制限されていた。それに対しENIACでは、プラグにコードを差し込んでいくことで計算の手順をセットするようになっており、電子化による高速化のメリットがそのまま生かせるように工夫されていた。ただし計算の手順を変更しようとすれば、ENIACではそのたびに配線をすべてやりなおさざるをえなかった。計算自体は高速化できても、ENIACには配線に手間がかかるという問題点が残されていた。ハンガリー生まれのユダヤ人数学者で、ヒットラーのドイツを逃れてプリンストン大学に移っていたジョン・フォン・ノイマンは、マンハッタン計画に貢献するとともに、コンピューターの基本原理の確立においても決定的な役割を演じた。弾道研究所はENIACの完成以前から、より強力な計算機を開発するようムーアスクールに要請していたが、この次期計画は弾道研究所の顧問でもあったフォン・ノイマンの構想にもとづいて進められることになった。EDVACと名付けられた次のマシンに関する、一九四五年六月にまとめられた最初の提案書で、フォン・ノイマンは「電子的な記憶装置に収めた計算手順を読み出して実行する」プログラム内蔵方式を提案した。フォン・ノイマンとエッカートが協力して進めることになったEDVACの開発計画は、両者の発想の食い違いもあって大幅に遅れ、同方式の一号機はイギリス、ケンブリッジ大学のモーリス・V・ウィルクスによって一九四九年五月に作り上げられたEDSACとなった。
現在のコンピューターの基本技術は第二次世界大戦の終結間近に確立され、この戦いは科学技術による人類の自滅を暗示させる原子爆弾の炸裂に彩られて終わった。そしてコンピューターがその進化を加速させるだろう科学が生じさせかねない破滅を回避する小さな希望のアイディアもまた、この時点で誕生している。
始まりのその時点にすべての可能性が内包されているという教訓は、コンピューターに関しても当てはまる。
目指すべき機械化された個人用のファイル・図書管理システムを、仮にメメックス( memex と名付けたブッシュは、この装置の具体的な仕様を思い描いた。
メメックスは一見すれば、傾いたディスプレイとキーボード、ボタンやレバーの付いた机である。机の中には情報処理機械と、マイクロフィルムを使った大容量の記憶装置が仕込まれている。記憶装置の容量の想定は、一日に五〇〇〇ページ分の情報を入力したとしても満杯になるまでに数百年はかかろうという規模である。ユーザーは心置きなく文字や手書きのメモ、写真などを自分で入力できるが、たいていの場合はマイクロフィルム化して売られている書籍や雑誌、新聞、写真や絵画などを装置に差し込んで参照する。当然ビジネス文書なども、マイクロフィルムで交換できる。
メメックスの機能の中で特に重要であるとブッシュが考えたのが、参照の機能である。一般的な索引の機能を組み込むことはもちろんだが、加えて彼は「連想索引★」という新しい仕組みを装置に持たせようと考えた。ユーザーは互いに関連すると思った項目に、任意に「経路」をつけることができる。いったん経路がつけられると、ディスプレイに片方の項目が呼び出されている際は、いつでもボタンの一押しでもう一方の項目を呼び出すことができる。
★この「連想索引」の機能は、まさにマッキントッシュのハイパーカードが提供するリンクの機能に他ならない。後生の者は、ハイパーカードの実物にたまげてから、時間軸をさかのぼってこの技術にいたるリンクをたどり、テッド・ネルソンのハイパーテキストのアイディアがあったことを知る。さらに念を入れてリンクを手繰れば「思考のおもむくままに」にたどり着き、そもそもヴァニーヴァー・ブッシュがこんなことを言いはじめたことを発見してまたまた驚くという仕掛けになっている。
こうした連想索引を駆使すれば、法律家は自分の考え方と友人たちの経験、下された判決を関連づけて膨大な判例の海の中から求める情報を速やかに取り出すことができる。弁理士は作成済みの経路をたどって、特許資料の山の中から必要なものを即座に選び出せる。医師が的確な判断をただちに下し、科学者が文献の山から求める論文を選び出すにも連想索引は威力を発揮する。歴史家が膨大な年代記の中から重要事項の連想索引を作り上げれば、ある文明の全体像を素早く概観するようなこともできるようになるだろう。
そして「人類がそのおぼろげな過去をもっと明確に振り返ることができるようになり、その現在の問題を完全かつ客観的に分析できるようになれば、人間の精神は向上する」(「思考のおもむくままに」前出『ワークステーション原典』)のではないか。
人類が争いによる自滅を免れるとすれば、メメックスのような道具が何らかの用を果たすのではないかと、原爆の投下を目前に控えた時点でブッシュ★は考えた。
★一八九〇年にマサチューセッツの牧師の子として生まれたヴァニーヴァー・ブッシュは、タフト大学に籍を置いていた一九一二年に、地形の断面図を描き出す装置を開発して特許を取っている。測量の簡素化を狙って開発され、プロファイルトレーサーと名付けられたこの装置の外見は、手押し式の二輪車である。この装置を押していくことで、記録紙に地形の断面図を描き出すことができた。卒業後ブッシュは、ゼネラルエレクトリック、海軍を経てタフト大学で教鞭をとり、一九一九年にMITに移った。のちに同大学の副学長を務めるブッシュは、ここでプロダクトインテグラフと名付けた積分の自動計算機を開発している。積分すべき曲線を紙に手書きし、これを装置にかけてポインターで線をなぞっていくと、複雑な計算を要する処理結果が得られた。さらにブッシュは、電力網における一時的な電力の減衰や停電に関する問題を解明しようとする中で、複雑な方程式を解く必要に迫られ、一九三〇年頃、微分解析機(ディファレンシャルアナライザー)と名付けた汎用自動計算機の開発を行った。この微分解析機は、一九四〇年代におけるコンピューターの開発につながっていく記念碑的成果の一つだった。
こうした経歴を確認したのち、メメックスの構想を見直すと、あらためてブッシュの「本気」が伝わってくる。ブッシュがメカニズムを用いてメメックスを実現しようとしている点は、現時点で振り返って一見すれば構想の非現実性を印象づけるかもしれない。だが彼は工学研究者として現役だったコンピューターの誕生以前、メカニズムを駆使してさまざまな解析機械、計算機械を事実作ってきていたのである。一九七四年、インテルが8080を発表した年にブッシュは没している。
なおブッシュの開発したさまざまな機械の姿は、『A COMPUTER PERSPECTIVE 計算機創造の軌跡』( The office of Charles and Ray Eames 著、山本敦子訳、アスキー、一九九四年)で見ることができる。
こうした経歴を確認したのち、メメックスの構想を見直すと、あらためてブッシュの「本気」が伝わってくる。ブッシュがメカニズムを用いてメメックスを実現しようとしている点は、現時点で振り返って一見すれば構想の非現実性を印象づけるかもしれない。だが彼は工学研究者として現役だったコンピューターの誕生以前、メカニズムを駆使してさまざまな解析機械、計算機械を事実作ってきていたのである。一九七四年、インテルが8080を発表した年にブッシュは没している。
なおブッシュの開発したさまざまな機械の姿は、『A COMPUTER PERSPECTIVE 計算機創造の軌跡』( The office of Charles and Ray Eames 著、山本敦子訳、アスキー、一九九四年)で見ることができる。
それに「人間がさまざまな不要不急のことがらを、重要なことだとわかったときには復活できるという保証のもとに忘れてしまう特権をとりもどすことができれば、その旅路も少しは楽しいものになるかもしれない」(「思考のおもむくままに」前出『ワークステーション原典』)のだ。
広島と長崎が廃墟と化し、日本が無条件降伏に追い込まれた一九四五年の夏を、二〇歳のアメリカ海軍レーダー技術者、ダグラス・エンゲルバートはフィリピンのレイテ島で迎えた。
本国への帰還船を待ちながら、赤十字の図書館として使われていた竹作りの高床式の小屋で一人雑誌を読んでいたエンゲルバートは、『ライフ』に転載された「思考のおもむくままに」と出合った。論文を読み進むうちに、エンゲルバートは胸に湧き上がってくる興奮を抑えられなくなった★。
★前出『ワークステーション原典』所収、セッション4のディスカッションにおいて、エンゲルバート自身がこの論文に出合った経緯とそのことの自分にとっての重みに関して言及している。
日本パーソナルコンピュータソフトウエア協会主催の「パーソナルコンピュータの未来像」と題した講演会に、アラン・ケイ、ポール・サフォーとともに招かれたダグラス・エンゲルバートの話を、一九九四(平成六)年四月二十日、筆者は日本青年館大ホールで聞く機会を得た。そのとき心に残ったのは、一見すればお手軽な進歩主義的調子を帯びて響く彼の言葉の裏にある、人類の未来に対する不安だった。視覚的な操作環境を備えたパーソナルコンピューターがネットワークされることで、エンゲルバートは集合的IQ( Collective IQ )を高められると語った。ずらりと並んだ講演会の協賛ハードウエアメーカーに遠慮でもしたのか、彼は「集合的IQによって企業は生産性を高められる」と、化学調味料を振りまくような見解も述べた。だが最後のパネルディスカッションの席上、横に座ったアラン・ケイと二人きりで話し込むようにメメックスのアイディアに初めて触れた当時のことに小声で言及しはじめ、「人類は障害物だらけの急流を乗り切っていかなければならない。そのためには知性を集合させるような環境がなければと考えた」とコメントしたとき、第二次世界大戦と原子爆弾の投下という出来事が、ヴァニーヴァー・ブッシュからダグラス・エンゲルバートへと『知性を支援する道具』のアイディアのバトンが手渡されるにあたっていかに大きな意味を持っていたかを、少し勘ぐりすぎのきらいはあるかもしれないが、筆者は妄想した。
日本パーソナルコンピュータソフトウエア協会主催の「パーソナルコンピュータの未来像」と題した講演会に、アラン・ケイ、ポール・サフォーとともに招かれたダグラス・エンゲルバートの話を、一九九四(平成六)年四月二十日、筆者は日本青年館大ホールで聞く機会を得た。そのとき心に残ったのは、一見すればお手軽な進歩主義的調子を帯びて響く彼の言葉の裏にある、人類の未来に対する不安だった。視覚的な操作環境を備えたパーソナルコンピューターがネットワークされることで、エンゲルバートは集合的IQ( Collective IQ )を高められると語った。ずらりと並んだ講演会の協賛ハードウエアメーカーに遠慮でもしたのか、彼は「集合的IQによって企業は生産性を高められる」と、化学調味料を振りまくような見解も述べた。だが最後のパネルディスカッションの席上、横に座ったアラン・ケイと二人きりで話し込むようにメメックスのアイディアに初めて触れた当時のことに小声で言及しはじめ、「人類は障害物だらけの急流を乗り切っていかなければならない。そのためには知性を集合させるような環境がなければと考えた」とコメントしたとき、第二次世界大戦と原子爆弾の投下という出来事が、ヴァニーヴァー・ブッシュからダグラス・エンゲルバートへと『知性を支援する道具』のアイディアのバトンが手渡されるにあたっていかに大きな意味を持っていたかを、少し勘ぐりすぎのきらいはあるかもしれないが、筆者は妄想した。
第二次大戦後、NASAの前身の航空宇宙諮問委員会(NACA)エイムズ研究所で風洞の研究に携わったエンゲルバートはやがて、人類の多くを進歩させるような意義のあるはでな仕事につきたいと、若者らしい野心を抱くようになった。
「人間が直面する問題は、我々の対処能力を超える速度でその困難の度合いを増している。緊急で複雑な問題に対処できるように人間の能力を増大させることは、若者が『最高に目立つ』ための恰好の舞台になる可能性がある」(前出『ワークステーション原典』所収、セッション4「知識増大ワークショップ」)
そう考えたエンゲルバートの脳裏に、大きなブラウン管の前に座って、見る間に変化していく画像を相手に仕事をしている自分の姿が浮かんだ。
レーダー技術者として働いていたときの経験が種となったこのイメージは、数日のうちにエンゲルバートの胸の中で、テキストとグラフィックスを混在させた文書を画面上で操作する概念へと膨らんでいった。ブッシュの思い描いたメメックスのようなシステムを作りたいと考えた彼は、NACAをやめてカリフォルニア大学バークレー校の大学院に入り、コンピューターと対話するように作業を進めるためのソフトウエアの研究に取り組んだ。
一九五七年にスタンフォード研究所に移ったエンゲルバートは、軍やNASAの援助を取り付けて、人間の能力を〈増大〉させるシステムの研究計画を軌道に乗せていった。一九六三年、研究所内に増大研究センターを設立させたエンゲルバートは、増大システムを実現するための要素技術の開発に取り組んだ。
ディスプレイから情報を受け取り、使う側の意思もまたディスプレイを通してシステムに伝えようと試みたエンゲルバートらは、画面の特定のポイントを指し示してコンピューターに意図を伝える装置★の開発を目指した。画面上を自由に動くカーソルと呼ばれる記号を操作するために、彼らは膝を上下左右に動かして操作する装置や首で操作するタイプ、机の上を前後左右にすべらせて使うマウスと名付けた小さな石鹸箱のような装置を試みた。さまざまな装置の中でもっとも使いやすく、また局所的な筋肉のけいれんを招かないという点でも評価できたのがマウスだった。
★コンピューターについて書こうとすれば、カタカナの氾濫を許容してしまうか、日本語でまどろっこしい説明を重ねるかの判断を繰り返し求められる。ここも一言、ポインティングディバイスと書く手もあるが、ここらあたりの見極めは実際厄介で、本稿においても悩み通しである。と一応断って、以降は「ポインティングディバイス」を使う。
一般的なタイプライター型のキーボードをエンゲルバートは否定しなかったが、マウスを使うたびに指の置き換えを求められる点には対処したいと考えた。解決策として考案されたのは、ピアノから鍵盤を五本だけ抜き取ってきたようなキーセットだった。和音を弾くようにキーを組み合わせて押すことで、アルファベットが入力できるように装置は仕立てられた。右手にマウス、左手はキーセットに置けば、すべての操作が指の置き換えなしで可能になった。
さらにエンゲルバートらは、ディスプレイ上の画面を区切って片方にはテキストを、もう一方にはグラフィックスを表示するといった使い方も試みていた。画面上にいくつかの窓を開いてそこに別々の情報を映し出すことで、たくさんの画面を並べて見比べながら進めていたような作業を、一つのディスプレイで行うことを彼らは狙っていた。
こうした技術を盛り込んだ実験システムは、増大研究センターではオンラインシステム( oN Line System)を略してNLSと呼ばれていた。
エンゲルバードのものをはじめ、さまざまなコンピューターのプロジェクトを支援していたARPA(国防省高等研究計画局)は、一九六七年春、資金を提供しているすべての研究所のマシンをネットワークで結ぶ計画を発表した。このARPANET★によって、自らのNLSが距離の壁を乗り越えてしまうことに、彼は知的な衝撃を受けた。
★一九六九年に運用が始まったARPANETは、その後、研究機関を結ぶCSNET( Computer Science NETwork )などとの接続によって規模を拡大し、インターネットへと発展していく。エンゲルバード氏がARPANET越しに見た夢は、今、大きく花開いている。本書の準備にあたっては、筆者もまたインターネット経由でエンゲルバード氏の協力を得ることができた。
一九六八年十二月、ACMとIEEEがサンフランシスコで共催した、秋のジョイントコンピューター会議で、増大研究センターはNLSのデモンストレーションを行った。
会場となったブルックスホールに運び込まれたNLSの端末は、この日のために借り受けたマイクロ波回線によってスタンフォード研究所のコンピューターに接続されていた。ディスプレイの表示は、NASAから借りた最新のビデオプロジェクターによって、縦横二〇フィートのスクリーンに投射された。マウスや五本指のキーセットを使ってエンゲルバートがNLSを使いこなしている様子は、カメラで撮影されて画面上の窓にテキストと並べて表示された。分割された窓には、研究所で同時にシステムを操作している画面やビデオの映像がつぎつぎと切り替えられて映し出された。
ユタ大学の大学院でコンピューター科学を専攻していたアラン・ケイは、この日、三〇〇〇人あまりの聴衆とともに会場となったブルックスホールの席にいた。
アラン・ケイは一九四〇年五月、オーストラリアから移住した生理学者を父として生まれた。画家だった母は、ピアノも巧みに弾いた。ケイの愛した祖母は、女性の社会的な権利の獲得のために今世紀のはじめから働いた活動家だった。
ニューヨークの郊外に育ったケイは、二歳半で字を覚え、小学校に上がる前にたくさんの本を読んでいた。一〇歳のときには、ラジオのクイズ番組「クイズキッズ」のチャンピオンになったケイは、J・D・サリンジャーの描くシーモア・グラスを思わせる繊細で多感な早熟の天才だった。教師の物言いに欺瞞のかけらがまじると、とたんに反抗的な態度をとったケイは、小学校からハイスクールにいたるまで学校には一貫してなじめなかった。最初に入ったベサニーカレッジも、すぐに退学になった。
仲間たちとコロラド州のデンバーに移り住んだケイは、以降数年をロックンロールのバンドでギターを弾いて過ごした。
一九六一年に徴兵されて空軍に入るまで、ケイはコンピューターを経験していなかった。
だがプログラマーの適性試験にたまたま合格したことで、ケイはプログラミングを学ぶことになった。一九六三年に除隊すると、ケイは数学と分子生物学を学ぶためにコロラド大学に入った。彼自身「後にコンピューター科学の勉強に非常に役に立った★」という演劇に入れ込んだものの、今回はどうにか卒業にこぎ着けた。だが、どんな仕事につきたいかという気持ちは、この時点でも固まっていなかった。
★『ザ・コンピュータ』(ソフトバンク)一九九〇年六月号、「KEYMAN USA 次世代のコンセプターが考えている明日」所収のアラン・ケイへのインタビュー。
山が好きだったケイは一九六六年の秋、コンピューター科学の大学院を持っている山の中にある大学を図書館で調べた。
唯一条件をみたしていたのは、学部を開設したばかりでこの年から大学院の募集を始める予定のユタ大学だった。願書を送った時点ではケイは知らなかったが、コンピューターでグラフィックスを処理するというテーマに取り組んでいたアイヴァン・サザーランド★が、同大学院の講師として招聘されていた。
★サザーランドはMITリンカーン研究所の大学院生だった当時、もっとも早い段階でブラウン管式のディスプレイを採用したTX―2を使って、画面上で図形を描くためのソフトウエアを書いていた。
TX―2には先行するTX―0があった。リンカーン研究所がトランジスターの実用性を確認するために実験的に開発したTX―0には、一〇×一〇インチのディスプレイと画面上に絵を描くことのできるライトペンが接続されていた。磁気テープを使った記憶装置を付け加え、ハードウエアを改良したTX―2も、ディスプレイとライトペンを受け継いだ。サザーランドは改良版のTX―2を使って、画面上で図面を描き、コピーをとったり保存したり、呼び出したものに手を加えたりできる、スケッチパッドを書いて博士号を得た。
彼をはじめとするMITの先駆的なハッカーが、コンピューターに初めてディスプレイを接続したTX―0やTX―2に取りついて、一九五〇年代後半からの数年間にわたって過ごした熱狂の日々は、スティーブン・レビーの『ハッカーズ』(古橋芳恵/松田信子訳、工学社、一九八七年)に活写されている。
TX―2には先行するTX―0があった。リンカーン研究所がトランジスターの実用性を確認するために実験的に開発したTX―0には、一〇×一〇インチのディスプレイと画面上に絵を描くことのできるライトペンが接続されていた。磁気テープを使った記憶装置を付け加え、ハードウエアを改良したTX―2も、ディスプレイとライトペンを受け継いだ。サザーランドは改良版のTX―2を使って、画面上で図面を描き、コピーをとったり保存したり、呼び出したものに手を加えたりできる、スケッチパッドを書いて博士号を得た。
彼をはじめとするMITの先駆的なハッカーが、コンピューターに初めてディスプレイを接続したTX―0やTX―2に取りついて、一九五〇年代後半からの数年間にわたって過ごした熱狂の日々は、スティーブン・レビーの『ハッカーズ』(古橋芳恵/松田信子訳、工学社、一九八七年)に活写されている。
ユタ大学に入った直後にサザーランドの博士論文を読んだケイは、画面上で自由にグラフィックスを扱うことのできるシステムに強く引き付けられた。
ユタ大学で実際にケイが取り組んだのは、小型のコンピューターで使うことを想定したコンピューター言語だった。
当時のコンピューターの常識的な規模と機能からすれば、ちっぽけなディスプレイ付きの計算機といった印象を与える仲間の作っていたマシンのために、ケイはアルゴル★に似た言語を小さなメモリーに収まるようにコンパクトに作ろうと考えた。
柔軟で拡張性のある( FLexible EXtendable )言語という目標からフレックス(FLEX)と名付けた言語を書くにあたって、ケイはリスプ★★の柔軟性と簡潔性に学ぼうと目標を立てた。医師や弁護士、エンジニアなど、コンピューターの専門家以外の人に使いこなしてもらうために盛り込もうと考えた対話型の処理の進め方は、政府系のシンクタンクであるランド研究所で作られたジョスという言語に学んだ。
★科学技術計算用のプログラミング言語。ヨーロッパの研究者を中心に一九六〇年に設計され、それ自体はアメリカや日本では広く使われることはなかったものの、パスカルなどのその後開発された言語に大きな影響を与えた。科学技術計算用の言語として広く使われてきたフォートランは、IBM社のジョン・W・バッカスによって一九五七年に同社の704用に書かれた。大型コンピューターにおけるIBMの大成功によって、フォートランの普及には拍車がかかったが、この言語は論理的な厳密性や洗練を欠いており、プログラムの記述が汚くなるとして、潔癖症の頭のよい人たちがアルゴルを書いた。
★★人工知能分野で広く使われてきたプログラミング言語。この分野の代表的研究者で、当時MITに籍を置いていたジョン・マッカーシーによって、一九五九年ごろ発想され、一九六〇年代初期に開発された。この時期、同大学で人工知能の導師となったマッカーシーとマービン・ミンスキーが「ハッカーを放し飼いにする」うえで果たした役割は、スティーブン・レビーの『ハッカーズ』からうかがい知ることができる。リスプはもう一つの、そしてもう少し耳ざわりのいい人工知能研究の成果と言えようか。
★★人工知能分野で広く使われてきたプログラミング言語。この分野の代表的研究者で、当時MITに籍を置いていたジョン・マッカーシーによって、一九五九年ごろ発想され、一九六〇年代初期に開発された。この時期、同大学で人工知能の導師となったマッカーシーとマービン・ミンスキーが「ハッカーを放し飼いにする」うえで果たした役割は、スティーブン・レビーの『ハッカーズ』からうかがい知ることができる。リスプはもう一つの、そしてもう少し耳ざわりのいい人工知能研究の成果と言えようか。
フレックスの開発作業はARPAの援助を受けて進められ、ケイは操作用にキーボードは付いているけれど、プログラミングにはパンチカードを使うしかなかったIBMの1130というコンピューターで作業を進めた。
このフレックスに取りかかっているあいだに、ケイはこれまでに感銘を受けたいくつかの技術とフレックスとを一つのイメージに統合できないかと考えるようになった。
同じARPAをスポンサーとしていた関係で、ダグラス・エンゲルバートにはすでに一九六七年に会っていた。NLSの紹介用に作られたフィルムを見せられ、実際にスタンフォード研究所にも行ってシステムを体験し、強い印象を受けた。
エンゲルバートのNLS、サザーランドのスケッチパッド、さらにランド研究所を訪ねた際に見せられた画板にペンで書き込むような入力装置、タブレットも心に残っていた。
博士論文にこれまでの研究成果をまとめるにあたって、ケイはフレックスを組み込んで使うマシンの姿を想定し、目指すべきシステムを支える一つの要素として開発した言語を位置づけなおそうと考えた。
想定によれば、フレックスマシンは小さなテレビ画面の付いたアタッシュケースほどの大きさとされた。タイプライター型のキーボードの手前には、エンゲルバートの五本指のキーセットを左右に二つ置こうと考えた。ただしポインティングディバイスには、マウスの代わりにタブレットを選んだ。キーボードの下から引き出して本体から切り離すこともできるタブレットに電子ペンで入力し、もう一方の手は左右どちらかのキーセットに据える形が、フレックスマシンにおける基本姿勢として想定された。鍵を差し込んで立ち上げると、すぐにフレックス言語が起動され、ユーザーはマシンと対話するように仕事を進められるようにしたいとケイは考えた。
だが「リアクティブエンジン」と名付けた論文の骨組みを固めて、長大な原稿をまとめているあいだにも、ケイはいくつかの試みに影響を受け続けていた。
ARPAは研究を後援している大学院生の会議を、定期的に開いていた。一九六七年の夏、フレックスに関する報告を行うためにイリノイ大学で開かれた会議に出たケイは、ここで初めてプラズマ方式を用いて作った平面型のディスプレイを見た。
いつかこの薄っぺらいディスプレイの裏側に、想定しているフレックスマシンの回路をすべて収めてしまえる日がくるだろうかとの思いは浮かんだが、論文のテーマに盛り込むには話が夢想的にすぎるように思えた。だがエンゲルバートの講演のしばらく前、一九六八年の秋になってランド研究所でグレイル( GRAphical Input Language )と名付けられたシステムを見てからは、平面ディスプレイへの関心がケイの胸の中で大きく膨らみはじめた。
グレイルは、タブレットと電子ペンだけでコンピューターを使えるようにするための言語だった。手書きの文字の認識機能まで盛り込んだグレイルなら、ユーザーは紙に数字や文字を書き込む感覚でコンピューターを使うことができた。およそ三〇分ほどグレイルを使わせてもらった時点で、ケイは強い啓示を受けた。
直感的に浮かんだのは、想定しているフレックスマシンでグレイルを動かすアイディアだった。タブレット付きの小さなあのマシンでグレイルが使えれば、ユーザーはもっと自然な感覚でコンピューターと向き合えるに違いないと思えた★。現実には、ランド研究所はIBMの大型コンピューター、360モデル44を一台まるごと使ってグレイルを駆動しており、フレックスマシン規模のものではとても動かせそうもなかった。だがケイは、フレックスマシンで動かすことを超えて、平面ディスプレイの後ろに回路を押し込んだマシンを電子ペンで操作する夢を膨らませはじめた。
★『マッキントッシュ伝説』(インタビューアー 斎藤由多加、オープンブック、販売元 マックワールド・コミュニケーションズ・ジャパン、一九九四年)中のアラン・ケイのコメント。
一九九四年三月号の『マックワールド』誌は、マッキントッシュ生誕一〇周年を祝うとして日本版独自企画の「徹底検証 マッキントッシュ伝説」という大特集を組んだ。スティーブン・ジョブズを除くマッキントッシュにかかわった大半のキーマンをインタビューして原稿をまとめた斎藤由多加氏は、雑誌に掲載しきれなかった部分と本人のコメント、デモンストレーションなどの動画資料をエキスパンドブック形式の電子ブックにまとめる作業を雑誌掲載分と同時並行的に進め、同年二月のMACWORLD Expo/TokyoにCD―ROM版を間に合わせた。ここに収められたインタビュー原稿から、今まで活字となっていなかった多くを教えられた筆者は同時に、当初約束した締め切りから約一年も遅れてまだこの仕事にかかずらわっている当方と、斎藤氏の圧倒的な馬力の差を痛感させられて愕然とした。
一九九四年三月号の『マックワールド』誌は、マッキントッシュ生誕一〇周年を祝うとして日本版独自企画の「徹底検証 マッキントッシュ伝説」という大特集を組んだ。スティーブン・ジョブズを除くマッキントッシュにかかわった大半のキーマンをインタビューして原稿をまとめた斎藤由多加氏は、雑誌に掲載しきれなかった部分と本人のコメント、デモンストレーションなどの動画資料をエキスパンドブック形式の電子ブックにまとめる作業を雑誌掲載分と同時並行的に進め、同年二月のMACWORLD Expo/TokyoにCD―ROM版を間に合わせた。ここに収められたインタビュー原稿から、今まで活字となっていなかった多くを教えられた筆者は同時に、当初約束した締め切りから約一年も遅れてまだこの仕事にかかずらわっている当方と、斎藤氏の圧倒的な馬力の差を痛感させられて愕然とした。
子供がコンピューターと付き合うための環境の整備を目指して、MITの人工知能研究所でシーモア・パパートが開発と運用の実験を進めていたロゴという言語にも、ケイは大きな影響を受けた。
コンピューターで考えることを子供に受け入れさせる道具として、パパートは一匹の亀(タートル)を用意した。
ディスプレイの中に棲んでいるタートルは、与えられた命令のとおりに動く。「前へ一〇〇」とキーボードから命令を入れると、タートルは一歩をおよそ一ミリメートルとして一〇〇歩進む。「右へ九〇」とすると、九〇度右に向き直る。この動作を四回繰り返すと、タートルは一辺が一〇〇ミリの正方形を描く。この四つの命令を一まとまりにして、「正方形」という新しい命令を定義することができる。
こうして子供たちは、いくつもの命令を組み合わせてタートルを動かし、定義した新しい命令によって複雑な動きを一まとまりにして、画面の中の小さな世界を完全にコントロールすることを学ぶ。
パパートが子供たちにロゴを扱わせている小学校を訪ねたケイは、プログラムの本質と可能性をあらためて考えなおしたいと思うようになった。
パパートによれば「プログラムするということは、コンピューターと人間である使用者との両方が『理解』できる言葉で交流し合うということにほかならな」かった★。
★『マインドストーム』(シーモア・パパート著、奥村貴世子訳、未来社、一九八二年)
教育の場でまったくコンピューターに触れた経験を持たず、管理と支配の象徴としてこの装置に漠然とした敵意を抱いていた筆者がこうしたテーマの原稿を書くようになったのには、いくつかきっかけがあった。その中でも『マインドストーム』との出会いは、きわめて印象に残る幸せな体験だった。人間なるものにどんなに絶望したとしても、この本を読みなおせば、少なくとも私は希望の芽に水をかけることができると思う。
初めてロゴを知ったとき、筆者はこの言語を走らせることのできるコンピューターを持っていなかった。そこで自分自身をタートルに任じて命令を与え、部屋の中を歩き回った。それまで静的な存在でしかなかった図形は、亀になって歩きはじめたとたん筆者の認識の中で動的な存在へと一変した。筆者はすでに三〇歳を過ぎており、「右に六〇、前に一〇」などと唱えながら狭いアパートの部屋をうろつき回っていると同居人には大いに迷惑がられたが、初めて自転車に乗れたときのようなその喜びは忘れることができない。ロゴに触れて、実際子供たちが喜ぶはずである。
教育の場でまったくコンピューターに触れた経験を持たず、管理と支配の象徴としてこの装置に漠然とした敵意を抱いていた筆者がこうしたテーマの原稿を書くようになったのには、いくつかきっかけがあった。その中でも『マインドストーム』との出会いは、きわめて印象に残る幸せな体験だった。人間なるものにどんなに絶望したとしても、この本を読みなおせば、少なくとも私は希望の芽に水をかけることができると思う。
初めてロゴを知ったとき、筆者はこの言語を走らせることのできるコンピューターを持っていなかった。そこで自分自身をタートルに任じて命令を与え、部屋の中を歩き回った。それまで静的な存在でしかなかった図形は、亀になって歩きはじめたとたん筆者の認識の中で動的な存在へと一変した。筆者はすでに三〇歳を過ぎており、「右に六〇、前に一〇」などと唱えながら狭いアパートの部屋をうろつき回っていると同居人には大いに迷惑がられたが、初めて自転車に乗れたときのようなその喜びは忘れることができない。ロゴに触れて、実際子供たちが喜ぶはずである。
パパートのところから戻ったケイは、コンピューターと人間が交流し合う環境を組み込んだ、新しいシステムのイメージを描いた。ハードウエアは、平面型のディスプレイを使ってフレックスマシンよりももっと小さく、厚めのノートほどのサイズに押し込んでしまいたいと考えた。段ボールで作った模型ではさすがに少し軽すぎると感じて、中に鉛を入れてバランスをとった。この新しいイメージには名前は付けていなかったが、ダイナブックの種はこのときケイの胸の中ですでに芽を吹いていた。
一九六九年に大学院を修了したケイは、スタンフォード大学のジョン・マッカーシーのグループで人工知能の研究に携わった。期待して入ったグループだったがここでの仕事には興味を持てず、ほとんど一年を、子供のための簡潔で強力な言語とはどんなものかを考えて過ごした。
対話型のシステムの可能性にいち早く注目して、ARPAの情報処理部長としてエンゲルバートのNLSを支援したボブ・テイラーは、一九七〇年にゼロックスが新設した、パロアルト研究所の実質的な責任者として招かれた。テイラーの誘いを受けたケイは、同年の暮れにパロアルト研究所に移った。選りすぐりの人材を一本釣りしていったテイラーは、取り組むべき課題は研究者の自由裁量に任せた。
ケイはダイナブックをテーマにしたいとテイラーに申し入れた。
暫定版のダイナブックのハードウエアを用意したアラン・ケイは、このシステムで使う言語にロゴにおけるタートルのような、人とコンピューターとが交流し合うための道具を組み込もうと考えた。
フレックスは命令を入れればすぐにコンピューターが反応を返してくる対話型の言語として作ったが、命令を規則どおりにタイプしなければならないという点では、従来のコンピューター言語と変わらなかった。ロゴもまた、正しい言葉遣いを子供たちに求めた。
スモールトークと名付けたダイナブック用の言語では、この点を改善したいと考えて「メニュー」を用意することにした。その時点でできることを一覧表にまとめておき、その中から選ぶ形をとることで、交流はスムースなものになると期待できた。アルトのポインティングディバイスに使われたマウスのボタンの操作によって、画面上にメニューを呼び出す方式は、ポップアップメニューと名付けた。
エンゲルバートが使った、画面を区切ってそれぞれを異なった情報の窓とするアイディアは、有効な道具になると考えた。画面を単純に複数のウインドウに分割するだけのタイリング方式も試みられたが、ウインドウの大きさを自由に設定できて、重ね合わせることのできるオーバーラッピングウインドウを考案し、スモールトークに組み込んだ。
交流を促進するこうした道具を備えた言語を用意しておくことこそ、ダイナブックをあらゆる世代の人に使ってもらうための条件になるだろうとケイは考えた。
だがこうした仕掛けが功を奏してダイナブックのユーザーの幅が広がれば広がるほど、システムへの要求もまた多様なものになることには疑いの余地がなかった。子供には子供の、学生には学生の、大人には大人の要求がある。音楽家、絵かき、ビジネスマン、医師、弁護士、教育者と、それぞれの分野の人たちに固有の希望があるだろう。だが個々の具体的な要求を網羅的に数え上げて対応しようとすれば、ダイナブックは機能だけは山のように抱えていても、結局誰の求めにもぴったり沿うことのないがらくたの寄せ集めになってしまうだろうとケイは考えた。必要なのは、ユーザー自身がどんな形でも作れるような柔軟性をダイナブックに与えることだと考えていたケイは、スモールトークにその役割を期待した★。
★「パーソナル・ダイナミック・メディア」をはじめとする一連のアラン・ケイの論文は、現在『アラン・ケイ』(鶴岡雄二訳、浜野保樹監修、アスキー、一九九二年)によって日本語で読むことができる。英語版の原書が存在しない中で、関係者の悪戦苦闘の末にオリジナル版の同書が生まれるにいたった経緯は、浜野保樹が目配りの利いたアラン・ケイの評伝を寄せた同書の訳者後書きに詳しい。
同書をあらためて確認すると、「パーソナル・ダイナミック・メディア」にはスモールトークを用いて子供たちが書いたプログラムがいくつも紹介されている。一二歳の少女はスケッチ用の、一五歳の少年は回路設計用のシステムをスモールトークを使って一から書いた。さらに同論文には、スモールトークによる「音楽家がプログラムした譜面作成システム」が紹介されている。
日本で開かれた「パーソナルコンピュータの未来像」におけるケイの講演によれば、このシステムはのちにリサとマッキントッシュのファインダーを開発したブルース・ホーンが、一五歳のときにパロアルト研究所で書いたものであるという。
この講演でケイが強調していたポイントの一つが、自分に必要な道具はユーザー自身が書くべきだという自立主義だった。「人はツールのユーザーであるだけでなく、ツールの作り手でもある」という理念は、パロアルト研究所から外部の世界に伝わらなかったと指摘するケイは、ソフトウエア産業の隆盛を見た今でもなお、「カリフォルニア(アップルコンピュータ、筆者注)やワシントン州(マイクロソフト、筆者注)に住んでいるプログラマーがあなた方の個別の要求を先回りしてくみ取っておくことなどできるはずはなく、エンドユーザーが自分自身のツールを作れるようにしておかなければならない」と強調する。
ケイのこの指摘を聞いたあとでも、筆者はマイクロソフトやロータスの株をすぐさま売っぱらおうとは思わない。ただ「日本はソフトウエア産業に弱点を持っており、こうした面でも競争力を養っていかなければならない」といった能書きにくっ付いてきそうな官製産業政策のピントのずれ具合には、こうしたエピソードやのちに触れるタイニーベーシックの手作り運動の経緯を振り返るたびに愕然とさせられる。「日本のソフトウエア産業を強化する」といったことを本当に考えたいのなら、遠回りかもしれないが唯一の有効な手段は、直接の成果を求めずにハッカーを一〇〇年ほど放し飼いにしておくことだろう。
同書をあらためて確認すると、「パーソナル・ダイナミック・メディア」にはスモールトークを用いて子供たちが書いたプログラムがいくつも紹介されている。一二歳の少女はスケッチ用の、一五歳の少年は回路設計用のシステムをスモールトークを使って一から書いた。さらに同論文には、スモールトークによる「音楽家がプログラムした譜面作成システム」が紹介されている。
日本で開かれた「パーソナルコンピュータの未来像」におけるケイの講演によれば、このシステムはのちにリサとマッキントッシュのファインダーを開発したブルース・ホーンが、一五歳のときにパロアルト研究所で書いたものであるという。
この講演でケイが強調していたポイントの一つが、自分に必要な道具はユーザー自身が書くべきだという自立主義だった。「人はツールのユーザーであるだけでなく、ツールの作り手でもある」という理念は、パロアルト研究所から外部の世界に伝わらなかったと指摘するケイは、ソフトウエア産業の隆盛を見た今でもなお、「カリフォルニア(アップルコンピュータ、筆者注)やワシントン州(マイクロソフト、筆者注)に住んでいるプログラマーがあなた方の個別の要求を先回りしてくみ取っておくことなどできるはずはなく、エンドユーザーが自分自身のツールを作れるようにしておかなければならない」と強調する。
ケイのこの指摘を聞いたあとでも、筆者はマイクロソフトやロータスの株をすぐさま売っぱらおうとは思わない。ただ「日本はソフトウエア産業に弱点を持っており、こうした面でも競争力を養っていかなければならない」といった能書きにくっ付いてきそうな官製産業政策のピントのずれ具合には、こうしたエピソードやのちに触れるタイニーベーシックの手作り運動の経緯を振り返るたびに愕然とさせられる。「日本のソフトウエア産業を強化する」といったことを本当に考えたいのなら、遠回りかもしれないが唯一の有効な手段は、直接の成果を求めずにハッカーを一〇〇年ほど放し飼いにしておくことだろう。
アルトでケイが目指した大きな目標の一つが、ディスプレイを紙に劣らないものにするという点だった。これまで使われてきたディスプレイも、まったく跡を残さずに編集できる点では紙に勝っていた。だが文字の鮮明さや読みやすさ、いろいろな書体、いろいろな大きさの活字を使ってめりはりのきいた文書を作るといった点では、紙に遠く及ばなかった。こうした欠点を補ううえでは、高解像度のビットマップディスプレイの果たす役割は大きかった。この方式なら、いろいろな書体のフォントを用意して、表現力の点でも紙に近づくことができた。
ビットマップの特長は、機能や情報のまとまりを示す絵文字、アイコンにも生かされた。アルト用に書かれたお絵かきのソフトウエアでは、ペンの格好をしたアイコンをマウスで操作することで、画面上に線を描くことができた。ブラシのアイコンをインク壷に浸してから動かすと、スピードに応じて微妙な筆合いが表現できた。
ダイナブックは少なくともソフトウエアに関する限り、すでに生きていた。
日本電気のセールスエンジニア
部品となったコンピューターと出合う
一九六七(昭和四十二)年三月、後藤富雄は国立鈴鹿工業高等専門学校の第一期生として、同校を卒業した。
新設された五年制の高専に赴任してきた教師の多くは、昨日までは大学生相手に教えていた。受験とは無縁の環境で、中学校を終えたばかりの子供たちに物事の本質をつかませようと進められた授業は、後藤の胸に物づくりへのあこがれを育んでいった。
最終学年を迎え、就職先を選ぶにあたって相談を持ちかけた研究室の教師は、日本電気を「エンジニア天国」と評した。「給料は安いけれど、あそこはエンジニア中心に動いている会社で、やりたいことがやれる」という教師の言葉は、後藤の耳に長い残響を置いていった。
夏休みの実習では、玉川事業場内に置かれていた日本電気中央研究所の通信研究室で、マイクロ波を利用した物性研究を手伝わせてもらった。波長のきわめて短いマイクロ波を当て、反射波を分析して物の性質を見極めようとするこの研究室の空気を吸ってみると、「エンジニア天国」という教師の評に、確かにうなずくことができた。
一九六七(昭和四十二)年四月、日本電気に入社した時点では、実習でかじりかけたマイクロ波がそのままやれればと考えていた。そこで配属先の第一志望には、「通信」と書いた。だが実際にまわされたのは、集積回路事業部だった。
これまで複数の部品を組み合わせて作っていた電気回路を一まとめにし、一つの部品に作り付けてしまう集積回路の事業化に向けて動きだしたセクションは、異なった分野の出身者を集めた寄り合い所帯だった。半導体の性質そのものにかかわる物理屋もいれば、製造工程に関与する化学屋、チップ上に作り付ける回路が専門の電気屋、ソフト屋などさまざまな畑から集められた技術者たちが、新しい産業の立ち上げに向けて知恵を集めようとしていた。集積回路が果たしてどこまで、どのように伸びていくものか、先行きは定かではなかった。だが混沌の支配する寄り合い所帯には、異分野の混交する活気がみなぎっていた。
ところが具体的な配属先を示されたとたん、後藤は気持ちが落ち込んでいくのを抑えられなかった。
事業部内での配属を最終的に決める面接で「回路図が読めるか」と聞かれ、物理や化学出身の新卒者の大半が「読めない」と答える中で、「なんとか読めます」と答えてしまったことを、後藤はそのとき、後悔した。
集積回路担当を言い渡された時点で、後藤はごく素直に、製品作りに直接携わる自分の姿を思い描いた。だが「回路図が読める」と答えた結果、まわされたのは、集積回路の生産に必要な施設を整える設備部だった。集積回路をいかに作るかに挑戦するのではなく、決定された製造手順に沿って生産ラインを整備するだけの仕事と受け取った後藤は、即座に「もっと物作りに深くかかわる、設計の仕事にまわしてほしい」と事業部長に直訴した。
「我々にはいろいろな仕事がある。ともかくしばらくやってみなさいよ」と諭され、結局後藤は予定どおりの設備部設計課にまわされた。ここで直属の上司となる渡辺和也課長が取り組んでいたのは、でき上がった集積回路を検査するための装置の開発だった。渡辺のもとで担当することになったICテスターと呼ばれる検査装置の開発には、縁の下の仕事との思いがなかなかぬぐえなかった。だが、集積回路事業部にみなぎっている学際的な空気には、後藤自身すぐに触れることができた。
同期入社の新入社員たちは入社後間もなく、集積回路に関する勉強会を組織し、後藤も熱心なメンバーの一人となった。
入社そうそう、頭越しに事業部長に直訴した件は、渡辺も承知しているらしかった。
「半導体の物性の研究をしたいのなら、やってかまわないんだよ」
そういって、外部の講習会にも出席させてくれる渡辺の度量は、意に沿わない部署にまわされたとの後藤の思いを、少し埋め合わせてくれた。
担当となったICテスターの開発は、本質的には検査専用のコンピューター作りに他ならなかった。
当初集積回路には、ほんの一〇個ほどの部品が組み込まれただけだった。だがその後、チップの集積度は目覚ましい勢いで高まった。むかでの足のように伸びたピンから信号を入れて行う検査も、集積度が高まるにつれて複雑になっていった。でき上がった集積回路を検査の工程でためてしまわないように、素早く処理する新しい装置が求められるようになった。針金に情報を書き込むワイヤーメモリーを用い、記憶させた検査のためのプログラムをデコーダーを使って読み出すICテスターの頭脳の開発にあたった後藤は、意識しないうちにコンピューターの基礎技術を身につけていった。
当初ICテスターの制御装置は、一から開発していた。ところがディジタルイクイップメント(DEC)という新興の小型コンピューターメーカーが出したPDP―8と名づけられた機種は、検査装置のコントロールに用いるのにぴったりだった。メーカー自身とごく一部の専門担当者にマシンに関する情報を独占させるのではなく、各分野の研究者や技術者に使い道やノウハウを開拓してもらうことで利用の裾野を広げていこうと考えたDECは、自社の製品に関して徹底的に技術を公開する方針をとっていた。
ICテスター用に導入したPDP―8には、詳細な回路図が添えられていた。ここまで中身が明らかにされているのなら、自分たちで安く作れるように思えた。後藤は上司の渡辺に諮って、PDP―8を作ることを一時期真剣に検討していた。
同じ時期、日本電気のコンピューター部門が同等の性能を持つミニコンピューターを開発したことから、PDP―8の自作は実行されなかった。だが後藤はICテスターの開発を通じて、PDP―8を自分自身で独占することのできる「パーソナルコンピューター」として徹底的にしゃぶりつくしていった。
検査装置の開発に携わった五年間、後藤の上司だった渡辺和也は、一九七四(昭和四十九)年五月になって、集積回路にごく小規模なものながらコンピューターの機能を作り付けたマイクロコンピューターの担当セクションに、部長代理として移っていった。
この年、後藤も半導体の製造拠点として設立された九州日本電気に転属となった。
九州に移って間もなく、後藤は渡辺が担当することになったマイクロコンピューターに、個人的に興味を持つようになった。与えられた仕事と直接の関係はなかったが、ほんのちっぽけな集積回路が間違いなくコンピューターとして機能するという事実には、体重を失った体がふと想念の中に舞い上がるような浮遊感を覚えた。初めてのマイクロコンピューターを作ったインテル社が、4004と名付けたこの製品を動かしてみるために、最低限の周辺回路を組み合わせて売り出していた評価用のキットを買い求め、会社のテレタイプにつないで動かしてみた。
ICテスターを担当していた時期、回路図があるのならと後藤はPDP―8を作ることを考えた。だがテレタイプから送り込んだプログラムを4004が確かに実行してみせるのを見た後藤は、ユーザー自身がコンピューターを作るという発想が、拍子抜けするほど身近なものになったことを痛感させられた。確かに四ビットと小さな単位で処理を行う4004のスピードは、ミニコンピューターに比べればはるかに遅かった。だがコンピューターの中央処理装置(CPU)は、すでにでき上がった形で、マイクロコンピューターという電子部品として提供されていた。ならば周辺の回路を少し用意するだけで、さまざまな用途向けのコンピューターをかなり気軽に作れるようになることは、発想さえ切り替えれば誰の目にも明らかになるように思えた。
マイクロ波を希望した後藤だったが、まわされたのは集積回路。ここでも本筋の仕事にはつけず、裏方の検査装置の担当になった。PDP―8をしゃぶりつくした経験は貴重だったが、製品を一から開発したいという願いはみたされなかった。九州日本電気に移ってからも、これが自分の道だろうかという思いは、後藤から去らなかった。
〈どこか遠くまで行きたい〉
入社以来、後藤の胸の底はいつも乾いていた。
だが後藤自身にとっては不満だらけの経歴の中で培われた、コンピューターに詳しい半導体屋という個性は、生まれたばかりで先行きの見えなかったマイクロコンピューターへの備えを、後藤の内に育てていた。
一九七六(昭和五十一)年二月、かつての上司だった渡辺和也は新設されたマイクロコンピューターの販売セクションの部長に就任した。後藤は渡辺に求められ、日本電気に戻って半導体集積回路販売事業部マイクロコンピュータ販売部に所属することになった。小なりといえどコンピューターの機能を持ったマイクロコンピューターを売っていくには、まずどんな使い道があるのかを顧客とともに開発していくエンジニアがいる。渡辺からそう聞かされたとき、後藤は入社以来初めて、やりたかった仕事につくチャンスがめぐってきたことを意識した。
新しいセクションで後藤が直接担当することになったものの中に、ビットスライス型と呼ばれる当時としては最先端のマイクロコンピューターがあった。集積度のそれほど高くない、言い換えれば詰め込める部品数の限られた当時の集積回路にまとめ上げるために、マイクロコンピューターは当初四ビットという小さな処理単位のものからスタートし、ようやく八ビットへと進化したばかりだった。こうした事情を背景に開発されたビットスライス型のマイクロコンピューターは、二ビットもしくは四ビットのプロセッサーを複数個組み合わせることで、処理単位を使用目的に合わせて伸ばせるように工夫されていた。
アメリカのAMD社の互換製品として開発されたμCOM―2900を、のちにパーソナルコンピューターのライバルとなる日立製作所、松下電器、シャープ、カシオ計算機、ヤマハといった企業に売り込みに歩きはじめて間もなく、後藤は電電公社の横須賀通信研究所のスタッフから、新人教育用の教材が作れないだろうかとの打診を受けた。
マイクロコンピューターの概念を、技術系の新入社員につかませたい。そのための教材を工夫してみてくれないかとの求めは、日常の活動の中で後藤たちが必要性を感じていた販売促進用の仕掛けのイメージと重なり合っていた。マイクロコンピューターをまず理解してもらううえでも、使い道を決めて用途に応じたソフトウエアを書いてもらうためにも、後藤たちは最低限動かせるだけは動かせるシステムをユーザーに提供することを求められていた。講習会を開く際、これまではテレタイプをつないだシステムを運び込んでいたが、かさばってしかも高価なテレタイプでは台数が限られた。
インテルの評価用キットに続いて、アメリカでは複数の半導体メーカーから同じようなシステムが提供されはじめていた。そんな中で、モステクノロジー社が売り出していたKIM―1と名付けられたキットには、日の字型の小さなLEDの表示装置とごく簡単な十六進のキーボードが組み込まれていた。KIM―1を紹介した雑誌の写真を見た後藤は、テレタイプのいらないものを作りたいという開発者の意図にうなずいた。
横須賀通信研究所用の教材は、KIM―1にならってそれだけで完結して動くものを作ろうと考えた。同僚の電卓用LSIの担当者に相談してみると、電卓に使っているレベルのキーボードならごくごく安いものですむという。コンピューター用の本格的なキーボードは、キーを押したり放したりする際に生じるチャタリングと呼ばれる信号のノイズをきれいに取ってやるために、いろいろな工夫を凝らしていた。一方厳しいコストの切り下げを求められる電卓では、ちゃちなキーボードが生じさせるチャタリングを、ソフトウエアで判定してキャンセルしてしまう工夫が進められていた。
インテルの8080と互換性を持った日本電気製の八ビット・マイクロコンピューター、μPD8080Aを使うことを前提に後藤が設計図を書き、必要な部品を集めた。基板の裏に突き出た集積回路を差し込むソケットの足の一本一本に配線をぐるぐる巻いていく、ラッピングと呼ばれる手間のかかる組み立て方法では、さすがに後藤自身、二台組み立てる以上の根気は続かなかった。だが実際にこれで動くことが確認できれば、あとは気の毒な電電公社の新人たちに、回路図と配線のやり方を示した布線表を与え、あてがった部品をラッピングで組み立ててもらえばいい。
だが四月からの新人の研修用に、キットとも呼べない部品のまとまりを準備する一方で、後藤はこのセットにもう少し磨きをかけ、より組み立てやすい教材を提供したいと考えはじめていた。
部長の渡辺に諮って合意を取り付けた後藤は、同僚の加藤明と協力して、キット教材の設計に取りかかった。横須賀通信研究所向けのものは、ラッピングによる配線ですませたが、今回は配線のパターンをあらかじめ焼き込んだプリント基板を起こすことにした。プリント基板が用意されていれば、所定の位置に部品を差し込んではんだ付けしていくことで、組み立てを大幅に簡略化できるはずだった。
μPD8080Aを使った組み立てキットは、トレーニングキットを略してTK―80と名付けた。釣り道具の店で見た中身の見える真空パックを採用してはという同僚の意見を入れ、ラミネート包装を引き受けてくれる業者をかけずり回って探し、ボール箱のケースにいたるまですべて後藤たち自身が用意した。
回路図と首っ引きになってDECのPDP―8をしゃぶりつくした経験を持っていた後藤は、システムを理解してもらううえで情報の公開がいかに大きな意味を持つかを痛感していた。さらにDECはユーザー自身が書き起こしたプログラムを集め、開発者の希望に沿って有償もしくは無償で、ソフトウエアを流通させるという手段によって、自社のマシンの使用環境を他力によっても耕そうと努めていた。
こうしたDECの流儀が、コンピューターをどれだけ使いやすくしてくれるかを体験していた後藤は、マイクロコンピューターを理解してもらうのが目的のTK―80ならなおさら、徹底して情報を公開するべきだと考えた。回路図を付けたうえで、ROM★に記憶させておくモニターと呼ばれる基本ソフトのプログラムリストも公開するという方針には、品質管理の担当者から「公開した情報にもとづいてユーザーが何か手を加え、そこで問題が起きたらどう責任をとるのか」とクレームがついた。だが「これはあくまでマイクロコンピューターを知ってもらうための教材で、そのことははっきりと断っておく。理解を助けるうえでは、情報の公開はどうしても欠かせないのだ」と説得し、ようやく同意を取り付けた。
★ Read Only Memory の略。コンピュータの回路上に置かれる記憶用の半導体素子のうち、書き込んである情報を読みだすだけのものを指す。これに対して、情報の書き込みと読み取りの両方ができるものを Random Access Memory と呼び、RAMと略す。手帳に例えれば、汎用的に誰もが繰り返し使う情報を印刷した部分がROM。もう一方、使う側が自分の都合でいろいろな情報を書いたり消したりできる白紙の部分がRAMに相当する。
汎用的に繰り返し使うソフトウエアは、ROMに焼き込んで本体に組み込んでおけば、読み込みの手間を省いてマシンの使い勝手をよくすることができる。ベーシックで使うことが常識となった初期のパーソナルコンピュータでは、モニターやベーシックの翻訳ソフトがROMに焼き込んだ形で搭載されるようになった。
汎用的に繰り返し使うソフトウエアは、ROMに焼き込んで本体に組み込んでおけば、読み込みの手間を省いてマシンの使い勝手をよくすることができる。ベーシックで使うことが常識となった初期のパーソナルコンピュータでは、モニターやベーシックの翻訳ソフトがROMに焼き込んだ形で搭載されるようになった。
部品のコストを積み上げていくと一〇万円以下の定価に抑えるのはかなり難しかったが、教材として広く利用してほしいと願い、ここでは渡辺が腹をくくった。八万八五〇〇円と定価設定されたTK―80は、一九七六(昭和五十一)年八月に売り出された。
月に二〇〇台程度と踏んでいたTK―80だったが、これが予想を超えるペースで、期待していなかった人たちにまで売れはじめた。あわてて月産台数を引き上げて、ようやく月に一〇〇〇台を超える需要に応えられるようになった。電気製品やさまざまな分野の機械に組み込んで使ってもらうため、まずマイクロコンピューターの感覚をつかんでもらおうと作ってみたTK―80だったが、買い求めた人の中からは、このシステムを自分で所有して自由に使うことのできるコンピューターとして使う人たちが現われた。
マイクロコンピューターを使って自分だけのコンピューターを作ろうとするマニアたちが、アメリカに存在していることを、後藤たちはすでに知っていた。新しい部署が設立された一九七六(昭和五十一)年の五月、マイクロコンピューターにかかわる新しい動きをつかもうと、渡辺和也は日本情報処理開発協会の視察団に加わり、二週間にわたってアメリカに出張してきた。
渡辺の加わったグループは大手の電機メーカーや半導体企業を訪れる代わり、キット式のシステムを出しはじめたばかりの小さな会社や、マニアたちのクラブを選んで訪ねていった。
サンフランシスコ郊外のメンローパークにある、ピープルズ・コンピューター・カンパニーという団体では、『ドクター・ドブズ・ジャーナル(DDJ)』というホビイスト向けの雑誌を出しはじめていた。一行とともにジーンズに長髪の連中がたむろする彼らの事務所を訪れた渡辺は、雑誌のバックナンバーを求め、定期購読の手続きを取って日本に送ってもらうことにした★。
★一九七六年五月十九日の日本のネクタイ族の訪問は、ピープルズ・コンピューター・カンパニーのメンバーにとっても大きな驚きだった。日本情報処理開発協会、マイクロプロセッサ応用研究チームと名乗る一行は、慶応大学の高橋秀俊教授をはじめ、日立、富士通、そして日本電気のまともな〈大人〉たちばかりからなっていた。
中でも特に彼らが驚かされたのは、まっとうな企業も数多く存在しているシリコンバレーの中で、一行が彼らとキット式のコンピューターを出しはじめたばかりのIMSAI社のみを訪ねた点だった。こうした一行の目の付けどころに彼らがどんなに驚かされ、また喜んだかは、この段階ではまだ遅れ遅れの発行となっていた『DDJ』の一九七六年五月号に、「JIPDEC VISIT PCC」のタイトルでまとめられている。
中でも特に彼らが驚かされたのは、まっとうな企業も数多く存在しているシリコンバレーの中で、一行が彼らとキット式のコンピューターを出しはじめたばかりのIMSAI社のみを訪ねた点だった。こうした一行の目の付けどころに彼らがどんなに驚かされ、また喜んだかは、この段階ではまだ遅れ遅れの発行となっていた『DDJ』の一九七六年五月号に、「JIPDEC VISIT PCC」のタイトルでまとめられている。
送られてきた雑誌は、マイクロコンピューターのシステムにいろいろなソフトウエアを載せて自分のためのコンピューターとして使おうとする記事であふれていた。『DDJ』で、パーソナル・ホーム・コンピューティングにテーマを絞ったフェアーが開かれることを知った後藤は、出張を願い出て一九七七(昭和五十二)年四月、サンフランシスコに飛んだ。
十五日のセミナーから始まって、十六、十七日の二日間、サンフランシスコ・シビック・オーディトリアムで開かれた第一回ウェスト・コースト・コンピューター・フェアー(WCCF)には、小さなベンチャー企業が中心だったが二〇〇社以上がブースを並べていた。参加者は、主催者側の予想をはるかに上回る一万三〇〇〇人を数えた。自分のためのコンピューターを追い求めようとするホビイストたちの熱気で、すし詰め状態となった会場はむせ返っていた。
TK―80を包みはじめた小さな流れは、ここアメリカではすでに急流となっていた。
きっかけを作ったのは、電卓の組み立てキットでちょっとした成功をつかんだニューメキシコ州アルバカーキーのMITS(マイクロ・インストルメンテーション・アンド・テレメトリー・システムズ)社が、起死回生を狙って送り出した新製品だった。
嚆矢アルテア
アメリカに生まれる
一九七三年にテキサスインスツルメンツ社が電卓市場に参入して価格競争を仕掛けると、電卓キットで伸びたMITSはたちまち窮地に追い込まれた。
通信販売で電卓キットをさばくのにMITSが一台あたり三九ドルを要したにもかかわらず、スーパーマーケットには二九ドルの完成品の電卓が並びはじめた。
エレクトロニクスに対するマニアックな興味がこうじてMITSを起こしたエド・ロバーツは、会社を畳むのか、もう一度勝負に出るのか、いずれにしても思い切った手を打つ必要に迫られていた。
ロバーツが決断を迫られていた一九七四年の四月、インテルは新しいマイクロコンピューター8080を発表した。
そもそもは日本の電卓メーカーだったビジコン社の依頼によって着手した電卓用部品の開発作業の中で、インテルは集積回路にきわめて規模の小さなコンピューターの機能を作り付ける発想を得た。発注元のビジコンは、新しい電卓を作るたびに一から設計する代わり、ソフトウエアの入れ替えによっていろいろな機能を実現できる集積回路が作れないかと考えた。開発費用削減のために融通の利く回路を用意しようというプランは、ビジコンとインテルの担当者の協議の中で、どうせならごく小さなコンピューターを作ってしまえという一歩突っ込んだアイディアに生まれ変わった。
万能の物まね機械であるコンピューターは、組み合わせるソフトウエアによってどんな電卓にも化けることができる。ただし電卓に求められる機能を実現するだけのコンピューターなら、ごくごく規模の小さなものでよい。そもそもきわめて小規模なものに仕上げなければ、安価な電卓の部品にはとてもなりえない。
こうした発想にもとづいて開発した初のマイクロコンピューター4004を、インテルは一九七一年十一月に発表した。
コンピューターはすべての情報を、0か1か、オンかオフかいずれの状態にあるかという基本単位の組み合わせによって取り扱っている。
この最小の単位を、ビットと呼ぶ。
一ビットで表現できるのは、0か1かのいずれか。この最小単位を二桁組み合わせた二ビットなら、一〇進法の〇から三までを表現できる。三ビットなら、〇から七。四ビットなら〇から一五。つまり一〇進数を取り扱う電卓を作るのなら、四ビットを一度に処理できる構成にしておけば、一回の動作で〇から九までの数字をすべて操作できておつりがくる。
こうして4004を四ビットとしたインテルは、一九七二年四月に発表した二つ目のマイクロコンピューター8008では、八ビット構成を採用した。
当初大型コンピューターの端末用部品として開発が始まった8008では、数字に加えて効率よくアルファベットの文字を取り扱うことが設計の目標とされた。八ビット構成とすれば、〇から九までの数字に加えてアルファベットのすべての文字を一回の動作で一つ処理することができた。
さらに三つ目の製品となる8080では、インテルは新しい発想を打ち出した。
これまでの二つが当初から特定の機器の部品として開発されたのに対し、8080はいろいろな機器に使える汎用部品を目指して作られた。
その後、大ヒットしてインテルの足場を固め、初期のパーソナルコンピューターに広く利用されることになるこの8080に、エド・ロバーツはいち早く目を付けた。
一匹狼の気概にあふれる彼は、8080を使って桁外れに安い組み立てキット式のコンピューターを作り、この技術を独占する者たちの手からマシンを解放するとともに、傾いた会社を救おうと考えた。
ばら売りでは、インテルは8080に三五〇ドルの値段をつけていた。ロバーツはこの部品の成功にいまだ確信を持てないでいたインテルに掛け合って買い叩き、一個七五ドルで8080を仕入れる約束を取り付けた。
コンピューターの回路において、情報の通り道に当たるバスと呼ばれる信号路を手っ取り早くスタッフに設計させたロバーツは、部品をかき集め、商品らしい体裁を整えるためにケースを用意した。
アルテア8800と名付けられたこの組み立てキットはまず、一九七五年一月号の『ポピュラーエレクトロニクス』誌で紹介された★。
★何事においても、もとに当たることが重要であるという教訓は、『ポピュラーエレクトロニクス』に掲載されたアルテアの紹介記事に関しても当てはまる。あらためて同誌を読みなおしてみると、アルテアの登場は「革命的な新製品の誕生」といった趣とはいささか異なるニュアンスで伝えられていることに気付く。
同誌のエディトリアル・ディレクター、アーサー・サルスバーグは、アルテアを紹介した号の「ホームコンピューターがやってきた」と題した巻頭言で、アルテア作りを同誌が読者に提案する〈プロジェクト〉と位置づけている。同誌はそもそも、自作派のエレクトロニクス・マニアのために、回路図や部品リストを備えた製作記事を掲載する雑誌である。同誌にはそれまで、三つのコンピューター・プロジェクトの掲載の申し入れがあったが、サルスバーグは「LEDがちかちかするデジタルコンピューターのデモンストレーター」に終わるようなプランはすべてボツにしてきた。ところがインテルが処理能力を大幅に向上させた8080を発表し、さっそくこれを使ったアルテアの提案があったことで、後生の者の目にはかなりフライング気味とは映るが、「商用機に肩を並べるミニコンピューターの手作りが可能になった」と判断して掲載に踏み切った。
こうした経緯があってアルテアを紹介するにあたり、編集部はあくまで、同誌が読者に提案する手作りコンピューター企画とのスタンスを守っている。記事には回路図や部品のリストが掲載されており、MITSのポジションは、部品に加えてケースや電源を、同社からまとめて購入することができるというところにとどめられている。同誌に記載された情報だけでは現実にはアルテアの製作は不可能と思われるが、形式的には提案者は編集部、実行者は読者であり、プロジェクトの主体性はMITSにではなく、編集部と読者に求められている。
パーソナルコンピューターでは、技術情報を徹底的に公開する文化的な流儀がその後大きな役割を演じることになるが、その出自をたどるうえで、初めてのMITSの紹介記事は着目すべき指標の一つであると思われる。
同誌のエディトリアル・ディレクター、アーサー・サルスバーグは、アルテアを紹介した号の「ホームコンピューターがやってきた」と題した巻頭言で、アルテア作りを同誌が読者に提案する〈プロジェクト〉と位置づけている。同誌はそもそも、自作派のエレクトロニクス・マニアのために、回路図や部品リストを備えた製作記事を掲載する雑誌である。同誌にはそれまで、三つのコンピューター・プロジェクトの掲載の申し入れがあったが、サルスバーグは「LEDがちかちかするデジタルコンピューターのデモンストレーター」に終わるようなプランはすべてボツにしてきた。ところがインテルが処理能力を大幅に向上させた8080を発表し、さっそくこれを使ったアルテアの提案があったことで、後生の者の目にはかなりフライング気味とは映るが、「商用機に肩を並べるミニコンピューターの手作りが可能になった」と判断して掲載に踏み切った。
こうした経緯があってアルテアを紹介するにあたり、編集部はあくまで、同誌が読者に提案する手作りコンピューター企画とのスタンスを守っている。記事には回路図や部品のリストが掲載されており、MITSのポジションは、部品に加えてケースや電源を、同社からまとめて購入することができるというところにとどめられている。同誌に記載された情報だけでは現実にはアルテアの製作は不可能と思われるが、形式的には提案者は編集部、実行者は読者であり、プロジェクトの主体性はMITSにではなく、編集部と読者に求められている。
パーソナルコンピューターでは、技術情報を徹底的に公開する文化的な流儀がその後大きな役割を演じることになるが、その出自をたどるうえで、初めてのMITSの紹介記事は着目すべき指標の一つであると思われる。
当時のミニコンピューターの本体をまねたアルテアには、キーボードもディスプレイも付いていなかった。組み立て終わったユーザーは、前面のパネルに横一列に並んだスイッチを上下させて、アルテアへの入力を行うことになった。ごく短いプログラムを入れ終わると、アルテアは確かに指示どおりの手順をなぞった。ただしアルテアが動いたのだという事実と処理の結果は、横二列に並んだ発光ダイオードの点滅でしか確認できなかった。プログラムは、機械語と呼ばれる0と1の組み合わせによって書くしかなく、入力の最中に一度でもスイッチを入れ間違えればはじめからやりなおしとなった。
アルテアでは、満足な入力も出力も不可能だった。
コンピューターの記憶容量は通常、アルファベットの文字を一つ表すことのできる八ビットを一まとまりとした、バイト単位で表現される。
これに従えば、アルテアの容量は二五六文字分に相当する二五六バイトしかなかった。しかもプログラムやデータを保存しておける外部記憶装置はなく、いったん電源を切ればすべての情報が失われた。
たとえて言えばアルテアは、押し入れの奥から引っ張り出してきた八ビットのパーソナルコンピューターから基板だけを抜き出し、メモリーのあらかたを捨て、周辺機器を接続するインターフェイスも取りはずし、代わりに入力用のスイッチと小さなランプだけを取り付けたような代物だった。
確かに慎重に事を運べば、電子の脳が動いたことだけは確認できたが、アルテアで取りあえずやれることのすべてはそこまでだった。
このアルテアの写真を『ポピュラーエレクトロニクス』は、「市販のモデルに肩を並べる世界初のミニコンピューターキット」との賛辞を添えて、表紙に載せた。
「一〇〇〇ドル以上お得」の文字に引かれて、エド・ロバーツとMITSのスタッフのビル・イェーツの手になる記事を開くと、アルテアは四〇〇ドル以下で作ることができるとのタイトルが読者の目に飛び込んできた。本文を読み進むと、アルバカーキーのMITSの連絡先が記載されており、同社から完全なキットが三九七ドルで提供されるとの記述があった。
ばらで買えば8080が三五〇ドルすることを考えれば、この価格はじつに魅力的だった。
何の役に立つわけでもないだろう。だが三九七★ドルでともかく、自分のコンピューターが手に入るのだ。
★エド・ロバーツとビル・イェーツの記事は、『ポピュラーエレクトロニクス』の一九七五年一月号と二月号に分けて掲載された。MITSの広告は同誌三月号から掲載されているが、記事では三九七ドルとされていたキットの価格が、ここでは断りもなく四三九ドルに変更されている。四九八ドルだったはずの組み立て済みモデルが六二一ドルと大幅に値上げされているのは、アルテアの組み立てがいかに厄介か、MITS自身がこの間にはっきりと認識したということだろうか。
ちなみに三月号のMITSの初めての広告は、『ポピュラーエレクトロニクス』に記事が掲載されて以来の同社の熱狂の日々の記述から始まっている。
「私たちはただ電話を受けるだけのために、余分な人員を雇わなければならなくなりました。すでに数百の注文書を頂戴しており、アルテア8800コンピューターシステムの無料パンフレットを、数千部発送しております。加えて何より喜ばしいことに、私どもは素晴らしいオプションをあらたに多数用意いたしました」
ただしこの広告のどこにも、アルテアを出荷しはじめたとの記述はない。
ちなみに三月号のMITSの初めての広告は、『ポピュラーエレクトロニクス』に記事が掲載されて以来の同社の熱狂の日々の記述から始まっている。
「私たちはただ電話を受けるだけのために、余分な人員を雇わなければならなくなりました。すでに数百の注文書を頂戴しており、アルテア8800コンピューターシステムの無料パンフレットを、数千部発送しております。加えて何より喜ばしいことに、私どもは素晴らしいオプションをあらたに多数用意いたしました」
ただしこの広告のどこにも、アルテアを出荷しはじめたとの記述はない。
一九七五年一月号の『ポピュラーエレクトロニクス』は、一九七四年の十二月半ばには書店に並びはじめた。
エド・ロバーツは当初、雑誌への掲載によって四〇〇台程度の注文が集まるのではないかと考えていた。だが雑誌が読者の手元に届いた日の朝から、MITSの電話が鳴りはじめた。その日のうちに、MITSは四〇〇台分の注文を確認した。アメリカ中から、小切手や郵便為替を同封した注文書が届きはじめた。
このキット式のコンピューターをアルテアと名付けたのは、『ポピュラーエレクトロニクス』のテクニカルエディター、レズリー・ソロモンの娘だった。ロバーツの持ち込んだ企画には、当初名前が付いていなかった。ソロモンはSFドラマの「スタートレック」をテレビで見ている娘に、宇宙船エンタープライズに積んであるコンピューターの名前をたずねた。娘はただ「コンピューター」と答えたが、エンタープライズは今、アルテアを目指しているのだと付け足した。
旅の途中に何が待ち受けているかは定かではなかったが、アルテアは確かに勇躍船出した。
『ポピュラーエレクトロニクス』の表紙用の写真を撮影した時点では、マシンはまだ動かないただの箱だった。だが突如殺到しはじめた注文にも、エド・ロバーツは動ずるところはなかった。
雑誌が刊行されるまでには、MITSはアルテアを組み立てて動かしてみることに成功し、製品に関する記事がでっち上げではないことを実証していた。一台を組み上げることができれば、MITSにとってはそれで充分だった。ロバーツは賢明にも、アルテアをキットとした。組み立てや検査の体制を整える必要はなかった。そんな苦労は、物好きなユーザーにすべて任せておけばよかった。MITSのなすべきことは、ともかく部品を素早くかき集めてきて郵送することだけだった。
カリフォルニア州のバークレーに住む建築業者スティーブ・ドンピアは、もっとも早い時期にアルテアを手に入れた一人だった。
西海岸では以前から、大企業や国家による管理のための装置としてではなく、一人ひとりの可能性を開く道具としてのコンピューターを目指して、ピープルズ・コンピューター・カンパニーが活動を続けていた。この団体の催しでマシンに触れる機会を得てコンピューターに興味を持つようになっていたドンピアは、『ポピュラーエレクトロニクス』でアルテアの広告を見つけるや、すぐにMITSに電話を入れて関連の製品リストを送ってくれるように求めた。
リストにあった製品をすべて一つずつ、四〇〇〇ドルの小切手を添えて注文したドンピアは、首を長くして到着を待った。だが一月が終わり、二月が過ぎてもアルテアは着かなかった。繰り返し電話を入れても、MITS側は「必ず届くから」と繰り返すのみだった。そのうちにMITSからようやく届いたのは、二〇〇〇ドルの小切手を同封した「リストにある製品はまだすべてがそろっているわけではない」との断りの手紙だった。
欲求不満が募る中で、ドンピアはアルテアをきっかけにしてアマチュアのコンピュータークラブが作られるというニュースを耳にした。
一九七五年三月五日、サンフランシスコ郊外のメンローパークにある発起人の家のガレージで開かれた初めての会合に顔を出すと、驚いたことにアルテアが動いていた。MITSのエド・ロバーツは、かねてからコンピューター技術の大衆的な普及を目指して活動を続けてきたピープルズ・コンピューター・カンパニーに、唯一存在していた完成品のアルテアを貸し出していた。そのアルテアが、ガレージの机の上でフロントパネルのランプを点滅させていた。
アルテアが実際に動くのをその目で確認したドンピアは、MITSという会社が確かに実在し、注文したあのマシンを自分が手にできることを確かめたいと、矢も盾もたまらなくなってサンフランシスコからロッキー山脈を越えてアルバカーキーに飛んだ。
空港でレンタカーを借りて住所を頼りにMITSを探したが、商店の立ち並んだあたりにはコンピューターメーカーの本社らしき建物は見当たらなかった。何度かあたりを行ったり来たりした挙げ句、ドンピアはマッサージパーラーとコインランドリーにはさまれた薄汚い小さな建物に、MITSの看板が出ているのに気付いた。
かつては確かに生きていたと思われる会社のジャンクにまみれた残骸のようなMITSでは、女性が一人で催促の電話の対応に追われ、「アルテアは間違いなくそのうちに届く」と繰り返していた。肩まで髪を伸ばしたドンピアは、頭のてっぺんまで後退した髪を短く切った、エド・ロバーツに話を聞くことができた。すでに四〇〇〇台以上のアルテアの注文を受け付けたと豪語するロバーツは、MITSはやがてIBM以上の大企業になるだろうと大言した。
だがMITSはこの時点にいたってもなおキットの部品を集めきることができておらず、いつになったらユーザーへの郵送を始められるのか、そのめどもまだ立ってはいなかった。ドンピアはアルテア用に集められた部品をいくつか買い求め、MITSの頼りない実在を確認してバークレーに戻った。
二週間後にスタンフォード大学の人工知能研究所で開かれた二度目の集まりで、クラブにはホームブルー(自家醸造)・コンピューター・クラブという名前が付けられた。
ドンピアは四月に入って間もなく、郵送されてきたアルテアのキットをようやく受け取った。
興奮がしなやかさを奪った指でかさばる箱を開け、部品を引っ張り出したドンピアは、ただちに組み立てにかかって、三〇時間後には電源を入れる段階にまでこぎ着けた。だがランプは点灯したものの、スイッチを上下させてプログラムを送り込もうとすると、アルテアの動作がおかしくなった。そこからさらに六時間を費やして、ドンピアはプリント基板の引っかき傷が原因となってメモリーがうまく機能していないことを発見し、修理ののち、ついに自分のコンピューターを完成させた。
ドンピアはマシンに取りついたまま、フロントパネルのスイッチを上下させて機械語の命令を送り込み、8080の持っている機能をすべて確認していった。周辺機器を何一つ接続できない現状では、アルテアが確かに命令に従って動いていることを確かめる以上のことはできなかったが、ドンピアは指にたこを作りながら嬉々として作業に没頭した。
アマチュアのパイロットの資格を持っていたドンピアは、低い周波数の電波を受信できる小さなトランジスターラジオで天気情報を聞きながら、入力した数値を大小の順に従って並べ替える、ソートと呼ばれる作業のためのプログラムをスイッチから入れていった。最後の入力をスイッチから送り込んでプログラムを走らせた瞬間、アルテアの横に置いていたラジオが奇妙な音を立てはじめた。
マシンが数値をソートするたびに、ラジオはジーッ、ジーッと鳴った。
ソートプログラムを何度か走らせて、間違いなくアルテアがラジオを鳴らしていることを確認している最中、ドンピアの脳裏に稲妻のようにアイディアが走った。
インターフェイス回路をまったく持っていない現状では、アルテアにはどんな周辺機器もつなげない。だがこのラジオは、もしかするとアルテアから情報を引き出す道具として使えるのではないか。このラジオは、アルテアのスイッチングノイズを拾っているのだ。
他のプログラムではどんな音が出るのかを一つ一つ確かめはじめたドンピアは、八時間の奮闘ののちにどの数値が音階上のどの音に対応したノイズを生じさせるかを対照表にまとめ、かろうじて音楽の範疇に収まる音の連なりを再現するソフトウエア技術を確立した。
手元ですぐに見つかった楽譜は、ビートルズの「フール・オン・ザ・ヒル」だった。ドンピアは楽譜の音を対照表にもとづいて八進数に置き換え、ポール・マッカートニーが「マジカル・ミステリー・ツアー」の中でフランスのニースの丘の上に立って気持ちよさそうに歌ったこのバラードを、アルテアに再現させることに成功した。
ホームブルー・コンピューター・クラブという正式な名前が付いてから三度目のミーティングは、四月十六日にメンローパークのペニンスラスクールで開かれた。
古い木造校舎の二階の教室に集まった仲間たちの前で、ドンピアはアルテアの初めてのリサイタルを催そうと考えた。ところがコンセントに差し込んでも、アルテアはまったく反応を見せない。仲間のテープレコーダーは動いているにもかかわらずアルテアが反応しないという謎は、コンセントはじつはみんな死んでおり、レコーダーは電池が動かしていたと気付いてようやく解けた。四〇フィートの延長コードで一階のコンセントから電源をとり、ドンピアは八進数の「フール・オン・ザ・ヒル」をスイッチを上下して入力していった。廊下で遊んでいた子供がコードにつまずいてせっかく入力したデータが一瞬に飛んでしまうトラブルはあったが、三〇分後には準備を完了した。
ドンピアはコンサートの開演を告げ、アルテアにプログラムを走らせる指示を与えた。百科事典を数冊重ねたほどの箱形のアルテアの上に載せられたトランジスターラジオが、その瞬間、うなるような歪んだ音を立てはじめた。
上下する音を耳で追っていた聴衆は、やがてアルテアがビートルズのナンバーを演奏していることに気づいた。そこここでさまざまな話題が吹き出し、幾重にも折り重なったメンバーの声がにぎやかなつづれ織りをなすのが常のクラブから、人の声がきれいに消え去った。しわぶき一つない会場に、アルテアの奏でるソートの音楽が響き渡った。アルテアの演奏は、完璧だった。「フール・オン・ザ・ヒル」の演奏を終えたあと、アンコールの声を充分待ちきることなくアルテアが次の演奏に移った点には不満が残ったが、耳を澄ませてラジオからの音を追う聴衆の視線の熱に、ドンピアはくすぐられるような喜びが湧き上がるのを抑えられなかった。
ドンピアはアンコールに、コンピューターが奏でるにふさわしい「デイジー」を用意していた。アンコールが始まると、大半のメンバーの脳裏にスタンリー・キューブリックの「二〇〇一年宇宙の旅」の印象的な場面がよみがえった。
宇宙船を管理する人工知能コンピューターHAL9000は〈精神〉に異常をきたし、船長に回路モジュールをつぎつぎと引き抜かれ〈死〉に追いやられる。瀕死のHALが低い声でとぎれとぎれに歌った「デイジー」は、一九五七年にベル研究所で初めてコンピューターによって演奏された曲だった。
アルテアがアンコールを終えると、会場には歓声と口笛と拍手が湧き起こった。
アルテアは早くも、しかも予想もできなかった周辺機器を獲得し、自らの世界を大きく広げて見せた。
喝采に包まれたドンピアは、アルテアが歌いだすにいたった経緯を語りはじめた。ドンピアはさらにMITSを訪ねたことに触れ、すでにアルテアが四〇〇〇台に上る注文を集めていることを報告した。
アルテアに突き動かされたのは、彼らだけではなかった。
ピープルズ・コンピューター・カンパニーの会報にアルテアのコンサートの顛末を書き、八進数と音階との対照表に二曲のデジタル楽譜を添えて発表したドンピアは、その後繰り返しアルテアとともに旅立ったのが自分たちだけでないことに直面させられた。記事を読んでアルテアを歌わせることを試みた連中は、次から次へとドンピアに電話を入れては、さまざまな曲を「ソートの音楽★」の創始者である彼に聞かせようとした。
★この日のコンサートにいたる経緯は、一九七五年五月号のピープルズ・コンピューター・カンパニーの会報に、スティーブ・ドンピア自身によって「MUSIC OF A SORT」のタイトルでまとめられている。『ハッカーズ』の執筆にあたって、スティーブン・レビーは、この記事をもとにして当日の情景を描写しており、日本語版でもそのくだりを読むことができる。
なお「ソートの音楽」に関しては、TK―80の開発中に後藤富雄氏もまったく同じ経験をしたという。スケジュールに追われて、休日、自宅でオシロスコープを睨みながら試作機の回路をいじっていたとき、後藤氏もまたラジオを聞いていた。試作機の電源を入れなおしたとき、ラジオに雑音が入るのに気付いた後藤氏は、モニタープログラムが起動されてCPUが動くことで雑音が生じていることを直感した。このときの発見以来、後藤氏はトランジスターからの雑音をCPUの動作を確認するための指標として使いはじめた。さらにTK―80から引っ張ってきた信号線をコンデンサーを一つはさんでオーディオアンプにつなぐ方法を、電子オルガンとして動かすためのプログラムとともにマニュアルに記載し、コンピューター音楽の畑を掘り起こす作業に努めた。
なお「ソートの音楽」に関しては、TK―80の開発中に後藤富雄氏もまったく同じ経験をしたという。スケジュールに追われて、休日、自宅でオシロスコープを睨みながら試作機の回路をいじっていたとき、後藤氏もまたラジオを聞いていた。試作機の電源を入れなおしたとき、ラジオに雑音が入るのに気付いた後藤氏は、モニタープログラムが起動されてCPUが動くことで雑音が生じていることを直感した。このときの発見以来、後藤氏はトランジスターからの雑音をCPUの動作を確認するための指標として使いはじめた。さらにTK―80から引っ張ってきた信号線をコンデンサーを一つはさんでオーディオアンプにつなぐ方法を、電子オルガンとして動かすためのプログラムとともにマニュアルに記載し、コンピューター音楽の畑を掘り起こす作業に努めた。
アルテアは確実にドミノの最初の一枚を倒した。
その先には、どんな夢想家にも思い描くことのできなかったほどの、おびただしいドミノの列がえんえんと連なっていた。
ビル・ゲイツ
アルテアにベーシックを書く
東海岸のボストンでハネウェル社のプログラマーとなっていたポール・アレンもまた、『ポピュラーエレクトロニクス』のアルテアの記事に引き付けられた一人だった。
記事を読み進むうち、アレンの胸に興奮と焦りの入りまじった熱気が噴き出してきた。
〈やはりこうなった。
こうなるに決まっていたのだ〉
アレンは高校時代の後輩で、これまで何度もペアを組んでコンピューター絡みの仕事をこなしてきたビル・ゲイツのもとに走った。
ポール・アレンとビル・ゲイツを結びつけたのは、二人が通ったシアトルのレイクサイドスクールで始まったコンピューターの授業だった。
私立の名門男子校のレイクサイドスクールは、一九六八年春、いち早くコンピューター教育に取り組むことを決めた。だが数百万ドルはする大型コンピューターはとても買えず、DECが低価格を武器に攻勢をかけていた小型のミニコンピューターにも手は届かなかった。
そこで学校はDECのPDP―10を持っていたゼネラルエレクトリックと交渉し、使用時間に応じて料金を支払う契約を結んだ。もともとはテレックス用の通信端末として開発されたテレタイプが購入され、レイクサイドスクールに設けられたコンピュータールームに置かれた。
本来、電話回線で文書を送るテレックスの端末として開発されたテレタイプには、入出力と通信の機能が備わっていた。文書を送る際はまず、テレタイプに組み込まれた電動タイプから入力した文字をコードに変えて、紙テープに打ち出してやる。このテープをあらためて読みとり装置にかけると、テレタイプは情報を音に変えて電話回線に送り出す。送られてきた信号は相手方でいったん紙テープに打ち出され、これを読みとると逆に電動タイプライターが文字に再現してくれる。
こうした機能を持つテレタイプは、コンピューターの端末装置としても利用されるようになった。レイクサイドスクールでは、テレタイプは電話回線を通してゼネラルエレクトリックのPDP―10に接続され、タイム・シェアリング・システム★によって割り振られたマシンの処理能力を同校から利用できるようになった。
★複数のユーザーが、自分だけで独占しているような感覚でコンピューターを使える環境を目指した基本ソフトウエア。
筆者はほぼ一年半の間、蟄居閉息してこの原稿をまとめたが、その間口をきく相手は唯一同居人のみだった。自分が積み上げていく原稿の束が、果たしてヤギの餌以上のものであり得るのか悩み続けた筆者は、ついに不安がこうじた挙げ句、同居人に読んでもらうというやけくその振る舞いに及んだ。コンピューターには何の思い入れもなく、パワーブックをまな板代わりに使うような同居人は、記述が技術的な説明やスペックの紹介に及ぶとプリントアウトを数枚まとめて放り投げ、物語の本線のみを追った。事態に気付いた筆者はいったんは怒鳴り散らそうかとも思ったが、かなうならばコンピューターに直接興味のない人にも読んでもらえないものかというはかない願いに一歩近づくうえでは、同居人の反応を指標として、原稿の仕立てを調整するべきではないかと考えた。その結果、少しややこしそうな話は注に回すこととした。以下はもっとも早い段階で、この措置の対象となった一節である。
気力のある方には読んでいただきたいが、飛ばしてもらってもストーリーは問題なく追える。
コンピューターの歴史の中でまず目標とされたのは、きわめて高くつくマシンの処理能力という資産を、全体としていかにむだなく活用しきるかという点だった。大型コンピューターでは、仕事の手順やデータを紙のカードに穴を開けて表現し、これを機械に読ませて処理を行わせるパンチ・カード・システムが広く使われた。ただし作業ごとのカードの束は、いつも順番待ちで機械の前にたまるのが常だった。こうした慢性的な作業過多状態にあって最大限の効率を実現するために、スケジュールの管理や作業の切り替えまでコンピューターにやらせようとする試みが生まれた。この仕事はどの程度急ぐのか、どれくらい作業時間を必要とするかをカードに書き添えてコンピューターにどんどん仕事を渡し、高価な機械にはむだなく働き続けてもらおうとするバッチ処理と呼ばれるこうした使い方によって、組織全体から見た処理能力の利用効率は高まった。ただし使っている側の一人ひとりは、作業の進め方を機械の都合に全面的に合わさざるをえなかった。数時間で処理した結果が出てくることもあれば、何日か待たされることもあった。
機械の利用効率を最優先したこうした使い方が一般化する中で、やがてコンピューターの世界にも人間の使い勝手を優先しようとする試みが現われた。機械の処理能力を巧妙に小分けして、まるで一人の人間が高価なコンピューターを独占しているような使い勝手を実現しようというのがその目標だった。コンピューターで処理できる情報は当初、数値や文字といったごく単純な構造のものに限られていた。ことこうした単純な形の情報に限れば、コンピューターの処理スピードは人間に比べて桁違いに速く、人間にはほんの一瞬と思えるあいだにかなりの作業が進んでしまう。そこでまず、数値や文字を扱う機械の処理能力を、ごく短い時間ごとに切り分けてやる。そして最初の小さな時間の枠を利用して、一人目のユーザーの求めてくる仕事をこなす。時間枠を使いきれば、二人目のユーザーの要求に応じる。こうしてすべてのユーザーに小さな時間枠を与え終わったら、コンピューターはもう一度最初のユーザーに向き直り、もう一度一人ひとりの要求を時間枠の範囲で進めていく。こうした時間の切り分けをきわめて短い時間で行えば、単純なものの処理では圧倒的にコンピューターよりも遅い人間は、あたかも自分一人でコンピューターを占有しているような感覚が味わえた。
筆者はほぼ一年半の間、蟄居閉息してこの原稿をまとめたが、その間口をきく相手は唯一同居人のみだった。自分が積み上げていく原稿の束が、果たしてヤギの餌以上のものであり得るのか悩み続けた筆者は、ついに不安がこうじた挙げ句、同居人に読んでもらうというやけくその振る舞いに及んだ。コンピューターには何の思い入れもなく、パワーブックをまな板代わりに使うような同居人は、記述が技術的な説明やスペックの紹介に及ぶとプリントアウトを数枚まとめて放り投げ、物語の本線のみを追った。事態に気付いた筆者はいったんは怒鳴り散らそうかとも思ったが、かなうならばコンピューターに直接興味のない人にも読んでもらえないものかというはかない願いに一歩近づくうえでは、同居人の反応を指標として、原稿の仕立てを調整するべきではないかと考えた。その結果、少しややこしそうな話は注に回すこととした。以下はもっとも早い段階で、この措置の対象となった一節である。
気力のある方には読んでいただきたいが、飛ばしてもらってもストーリーは問題なく追える。
コンピューターの歴史の中でまず目標とされたのは、きわめて高くつくマシンの処理能力という資産を、全体としていかにむだなく活用しきるかという点だった。大型コンピューターでは、仕事の手順やデータを紙のカードに穴を開けて表現し、これを機械に読ませて処理を行わせるパンチ・カード・システムが広く使われた。ただし作業ごとのカードの束は、いつも順番待ちで機械の前にたまるのが常だった。こうした慢性的な作業過多状態にあって最大限の効率を実現するために、スケジュールの管理や作業の切り替えまでコンピューターにやらせようとする試みが生まれた。この仕事はどの程度急ぐのか、どれくらい作業時間を必要とするかをカードに書き添えてコンピューターにどんどん仕事を渡し、高価な機械にはむだなく働き続けてもらおうとするバッチ処理と呼ばれるこうした使い方によって、組織全体から見た処理能力の利用効率は高まった。ただし使っている側の一人ひとりは、作業の進め方を機械の都合に全面的に合わさざるをえなかった。数時間で処理した結果が出てくることもあれば、何日か待たされることもあった。
機械の利用効率を最優先したこうした使い方が一般化する中で、やがてコンピューターの世界にも人間の使い勝手を優先しようとする試みが現われた。機械の処理能力を巧妙に小分けして、まるで一人の人間が高価なコンピューターを独占しているような使い勝手を実現しようというのがその目標だった。コンピューターで処理できる情報は当初、数値や文字といったごく単純な構造のものに限られていた。ことこうした単純な形の情報に限れば、コンピューターの処理スピードは人間に比べて桁違いに速く、人間にはほんの一瞬と思えるあいだにかなりの作業が進んでしまう。そこでまず、数値や文字を扱う機械の処理能力を、ごく短い時間ごとに切り分けてやる。そして最初の小さな時間の枠を利用して、一人目のユーザーの求めてくる仕事をこなす。時間枠を使いきれば、二人目のユーザーの要求に応じる。こうしてすべてのユーザーに小さな時間枠を与え終わったら、コンピューターはもう一度最初のユーザーに向き直り、もう一度一人ひとりの要求を時間枠の範囲で進めていく。こうした時間の切り分けをきわめて短い時間で行えば、単純なものの処理では圧倒的にコンピューターよりも遅い人間は、あたかも自分一人でコンピューターを占有しているような感覚が味わえた。
生徒の母親たちの有志はがらくた市を開き、この年の利用料にあてようと三〇〇〇ドルを集めた。
一九五五年十月二十八日に生まれたゲイツは当時、一三歳の八年生、年上のアレンは一〇年生となっていた。
数学の授業でコンピューター室を覗いたゲイツは、それまで何の予備知識も持っていなかったが、教師の指示に従って操作したテレタイプに電話線の向こうのマシンが反応を返してくるのを見て、とたんに興味を引き付けられた。
以来、ゲイツはコンピューター室に入りびたりとなり、マニュアルを読みふけった。
だが彼には端末を独占することはできなかった。上級生の何人かも、同時にコンピューターの虜となっていた。
そんな中に、ポール・アレンがいた。
テレタイプに取りついた生まれたてのコンピューターマニアの中でも、二人の熱中度は群を抜いていた。ポール・アレンは機械語に近くて取っつきにくいものの、効率のよいプログラムの書けるアセンブリー言語★に興味を持った。一方ビル・ゲイツは、もともとは学生にプログラミングを教えるための言語として書かれたベーシックを使って、三目並べを手始めにゲームのプログラムを書いてはコンピューターと遊びはじめた。
★プログラムを組む際に使われるコンピューター言語の一つ。マシンのCPUがそのまま解釈しうる機械語の字句を、人間に理解しやすいように記号に置き換えてある。ただし、その他の言語と比較すると、日常的に人間が使っている言葉とはもっともかけ離れており、学ぼうとする者には敷居が高い。アセンブリー言語で書かれたプログラムを、マシンに実行してもらうために機械語に翻訳するためのソフトウエアをアセンブラーと呼ぶ。
両親たちの集めた三〇〇〇ドルは数週間で使い果たされ、ゼネラルエレクトリックから送られてくる高額の請求書を前にして、学校側は二人の両親に料金の一部負担を求めた。請求書の額をはね上がらせる一方で、二人は互いに一目置く仲となり、しだいに友情を育てていった。
この年の秋、コンピューターの使用時間を切り売りするビジネスを目指してシアトルに設立されたCCC社はポール・アレンとビル・ゲイツのコンピューター熱をいっそうあおり、彼らに技を磨く絶好の機会を提供することになった。
レイクサイドスクールがタイムシェアリングのサービスを買っていることを聞きつけたCCCは、この学校への売り込みに成功した。
CCCのPDP―10には面白そうなプログラムがたくさん詰まっていることを発見した彼らは、システム中をしらみつぶしにあたり、使用権のないプログラムに手を出した。通常の操作では触れることのできないデータのところまで忍び込み、ときにはシステムを使用不能の状態に陥らせた。
バグと呼ばれるプログラムの誤りや、予想していない操作、誤った使い方などによって、コンピューターはしばしばクラッシュと呼ばれる使用不能状態に追い込まれる。
PDP―10のシステムには、こうした脇の甘さやバグが数多く残されていた。
いったんコンピューターがクラッシュしてしまえば、料金を払ってまともな使い方をしているユーザーも、システムを利用できなくなった。
少年たちの熱中ぶりに手を焼いたCCCは、もともと弱みを残しているPDP―10のシステムを徹底的に洗いなおすために、逆に彼らを利用することを考えた。CCCはPDP―10の購入に際して、システムソフトウエアのバグを継続的に発見しているあいだは代金の支払いを猶予するという契約をDECと結んでいた。夕方を過ぎてからと週末、少年たちはCCCで好きなだけコンピューターを使う代わり、どんな操作を行ったときにシステムがクラッシュするか、詳細に記録することを求められた。少年たちは好きなだけコンピューターを使ってよいという夢のようなチャンスをとらえて、PDP―10にのめりこんだ。彼らは若さの特権を十二分に発揮して貪欲にシステムに関する知識をたくわえ、目覚ましい勢いで短期間にプログラミングの力を養った。
ゲイツとアレンはその後、企業の給与計算ソフトウエアを書き、学校からはクラスの編成プログラムを頼まれて、コンピューターの使用時間とアルバイト料をせしめた。
一九七二年の秋には、ポール・アレンが地元シアトルのワシントン州立大学に進んで、コンピューター科学を専攻した。プログラミングの力をビジネスに生かせないものかと考えていたアレンは、高校在学中のゲイツを誘って道路の交通量に関するデータの解析を看板にかかげて、トラフォデータ社を設立した。
道路に仕掛けられた測定装置の吐き出すデータを解析し、これにもとづいて信号の切り換え時間の最適化などに関するレポートを作るビジネスを目指した二人は、この年の四月にインテルが発表していた8008に目をつけた。
データ処理のためのまともなコンピューターはとても手に入らないが、マイクロコンピューターの8008なら三六〇ドルで買えた。
ボーイング社のエンジニアに依頼して、二人は8008を使った超小型コンピューターを作ってもらった。だがプログラミングに必要なキーボードも、書いたプログラムを手直しするための編集ソフトもないこのマシンでは、効率よくソフトウエアを書くことなどできない。
そこでアレンは、大学のPDP―10を使って8008の働きをそっくりそのままシミュレートするプログラムを書いた。ゲイツはPDP―10の上に仮想的に再現された8008を使って、交通データ解析プログラムの開発に取り組んだ。PDP―10にはまともな端末装置がつながっており、エディターと呼ばれる編集ソフトもそろっていた。ここで仕上げたプログラムを手持ちの8008マシンに読み込ませ、実際の処理だけをマイクロコンピューターのシステムでやらせることにした。
トラフォデータは低料金と迅速な処理を謳い文句に、地方自治体に売り込みを図った。一九七四年春に連邦政府がデータ解析を無料で請け負うようになるまでに、トラフォデータはおよそ二万ドルを売り上げた。
一九七三年の一月からは、二人は大手電機メーカーのTRW社でフルタイムのプログラマーとして働きはじめた。
地域の電力使用量に対応して、水力発電所の発電量を自動的にコントロールするシステムの開発を地方自治体から請け負っていたTRWは、使用するPDP―10のシステムソフトウエアのバグに悩まされ、この環境に習熟したプログラマーを求めていた。
大学に飽き飽きしていたアレンは、中退してこの申し出に飛び付いた。レイクサイドスクールの最終学年に達していたゲイツは、二学期を休学する許可を得てアレンの誘いに乗った。経験を積んだプロとの共同作業で、二人はいっそうプログラミングの技に磨きをかけた。
四月に学校に帰り六月に卒業した時点で、ゲイツは再びTRWの仕事に戻った。
だが秋からは、ハーバード大学に進むつもりでいた。
かねてからアレンと話し合ってきたソフトウエアの会社を本格的に始める話にも心が引かれたが、結局は一まず進学する道を選んで東海岸のボストンに移った。専攻は一応、法律学としていたが、数学、物理学、コンピューター科学に関しては、大学院の課程を取ることを許された。
翌一九七四年の春、ポール・アレンはシアトルに戻ってトラフォデータの新しい仕事を探そうとしたが、究極のダンピングを行う連邦政府というライバルには抗しようがなかった。この年の夏、ゲイツはハネウェルでプログラムを組むことになり、アレンもボストンに合流してここで働く機会を得た。
同年四月、インテルは三つ目のマイクロコンピューターとなる8080を発表し、二人がハネウェルで働きはじめたころには、エド・ロバーツがこれを使った組み立て式のキットコンピューターに会社の存続をかけようと心を決めていた。
再び一緒に働くことになった相棒のゲイツを、すでに大学をけ飛ばしていたアレンは、会社を始めようと繰り返し口説いた。
当初はコンピューターのハードウエアを作る会社を作ろうと考えたが、やがて自分たちのもっとも得意とするソフトウエアに絞ろうと決めた。だがゲイツにはその時点でも、大学を捨てて会社をスタートさせる決心がつかないでいた。
アレンが『ポピュラーエレクトロニクス』でアルテアの記事と出合ったのは、そんなときだった。
アレンはゲイツの寮へと走り、ソフトウエアで世に打って出るチャンスが来たと告げた。
アルテアには二五六バイトのメモリーしかなかった。ただしこのマシンには、メモリーを増設するためのスロットと呼ばれる仕掛けがあった。コンピューター内部の信号の通り道として使われるバスへの接続口が、あらかじめ用意されていた。
MITSはスロットに差し込むことで、四K(四〇九六)バイトのメモリーを追加できる増設ボードの発売を予告していた。
二五六バイトでは、機械語でほんの短いプログラムを書くしかなかった。だがあと四Kバイトあれば、ベーシックで書いたプログラムを機械語に翻訳するためのソフトウエアを載せることができるはずだった。
通常ベーシックは、プログラムを一行ずつ機械語に翻訳していくインタープリターと呼ばれる形式をとっている。このベーシックインタープリターを8080用に書くことができれば、アルテアで機械語よりははるかに取っつきやすいベーシックを使ってプログラムが書ける。アルテアを欲しがる人なら、当然アルテア用のベーシックインタープリターも欲しがるだろう。
そう考えた二人は、数日後、MITSのエド・ロバーツに連絡をとるために、アルバカーキーに長距離電話を入れた。
アルテアで使えるベーシックを提供できるが関心はないかと持ちかけられたロバーツは、それが使い物になるなら契約しようと答えた。『ポピュラーエレクトロニクス』の記事が出て以来、MITSにはおびただしいマシンへの問い合わせとともに、アルテア用のベーシックに興味はないかとの電話がすでに何本か入っていた。
8080用のベーシックをもう書き終えているとはったりをかましたアレンとゲイツは、即座に開発作業に取りかかった。アルテアの現物を持っていない二人は、トラフォデータで使った手をここでも繰り返した。
マニュアルを手に入れ、アレンが大学のPDP―10で8080をシミュレートするプログラムを書いた。ゲイツはベーシックの仕様を決め、翻訳プログラムを書き、PDP―10の上に機能だけを再現された8080を使って動作を確かめた。
設計の目標は、必要な機能は持たせながらベーシックを徹底的に小さく仕上げ、早く動作させることにあった。
四Kバイトのメモリーの増設を前提としてはいるものの、ベーシックを機械語に翻訳するプログラムがスペースをフルに埋めてしまえば、肝心の仕事をさせるためのプログラムを入れる余地がなくなる。ゲイツはいったん書き上げたベーシックインタープリターを刈り込み、規模を抑え、スピードを高める作業により多くの時間をかけた。
およそ八週間の集中した作業の末、一九七五年の二月下旬に、アレンは仕上がったベーシックを収めた紙テープを持ってアルバカーキーへ飛んだ。この日にいたるまで、二人はアルテアの実機では、ついに一度もベーシックの動作を確かめられなかった。MITSには、テレタイプをつないだアルテアがあった。紙テープをテレタイプに読ませて翻訳プログラムを送り込むと、アルテアからの反応が返ってきた。
「二+二の答えを表示せよ」
テレタイプからベーシックの文法でそう送り込んでやると、四と答えが返ってきた。
まったくのぶっつけ本番で、ゲイツのベーシックは動作した。
ロバーツは実用性に関してはかなり疑わしく、信頼性にも乏しい自分たちの組み立てキットで、ベーシックが事実動いたことに有頂天となった。
これなら「市販のモデルに肩を並べる世界初のミニコンピューターキット」という『ポピュラーエレクトロニクス』の謳い文句が、本物になってしまうとはしゃぎ回るロバーツのかたわらで、アレンは興奮を抑え平静を装うのに苦労した。
ゲイツはその後もベーシックのバグ取りと機能の拡張を進め、アレンはこの年の春、ロバーツからの申し入れを受けてMITSのソフトウエア部長となった。
もう一方でアレンはゲイツとともにアルバカーキーにマイクロソフト社を設立し、一九七五年の七月にはアルテア用のベーシックの正式な供給契約をMITSと結んだ★。
★マイクロソフトの設立から発展にいたる経緯は『マイクロソフト―ソフトウエア帝国誕生の軌跡―』(ダニエル・イクビア/スーザン・L・ネッパー著、椋田直子訳、アスキー、一九九二年)に詳しい。同書ははじめ、フランス人のジャーナリストであるダニエル・イクビアによってフランス語の本として書かれ、アメリカ人のライター、スーザン・ネッパーによって英語の本に「翻案」された。ネッパーは英語版の前書きにあるように、「マイクロソフト社の驚異的成功の道筋が一冊の本にまとまれば、アメリカ人もむろん読みたいと思うだろう。それなら誰かが英語でその種の本を書けばいいのではないか。しかし、イクビアの著作を翻訳すれば、ゼロから調査を始めることなく、彼の労作の恩恵を受けることができる」と考えた。ジェームズ・ウォレスとジム・エリクソンの書いた『ビル・ゲイツ 巨大ソフトウエア帝国を築いた男』(SE編集部編訳、奥野卓司監訳、翔泳社、一九九二年)も同社の歩みをじつに丹念に、しかも同社よりの史観にもとづいた『マイクロソフト』よりももう少し公平な観点から跡付けている。『マイクロソフト』の刊行以降に書かれた『ビル・ゲイツ』は、先行した著作を重要な参考文献とし、その成果を汲みながら、これを乗り越えようとした仕事である。さらにこのあとには、ステファン・メインとポール・アンドルーによる大作、『帝王の誕生』(鈴木主税訳、三田出版会、一九九五年)が控えている。個々の記述に対する詳細な情報ソースの一覧と索引を付した同書は、いかにも決定版を思わせるが、これで打ち止めとなるはずはない。パーソナルコンピューターの本家であるという事情がまず一義的に大きいという点は承知しているが、ある著作が踏み石となってつぎつぎと前の仕事を乗り越えようとする作品が書かれるアメリカの状況は、端から見ていて何とも元気があってよろしい。翻って日本のパーソナルコンピュータージャーナリズムは、そんなものがあるのかと胸に手を当てて聞いてみたいほど貧弱である。書くとすればまずは最大のテーマと衆目が一致するはずのPC―9801の誕生に関する経緯をたどったまとまった仕事は、唯一『一〇〇万人の謎を解く ザ・PCの系譜』コンピューター・ニュース社編、奥田喜久男監修、同社刊、一九八八年所収の「市場制覇への道を切り拓いた戦士達 その決断と挑戦の歴史」田中繁廣著を数えるのみではないだろうか。
筆者がうるさいほど注でおしゃべりを繰り広げているのは、資料の在り処をせっせと示しておくことで、次に歴史をたどろうとする人の道案内ができないかと考えているのが一つの理由である。もっとも最大の理由は、単におしゃべりであるというだけではあるが。
筆者がうるさいほど注でおしゃべりを繰り広げているのは、資料の在り処をせっせと示しておくことで、次に歴史をたどろうとする人の道案内ができないかと考えているのが一つの理由である。もっとも最大の理由は、単におしゃべりであるというだけではあるが。
マイクロソフトは当初からMITSと契約を結んだが、MITSに断りなくアルテア用の製品を開発する者も現われた。
代金を支払ってもアルテアは数か月も送られてこず、送られてきてもじつに組み立てにくく、指示どおり組み立てたとしても信頼性に乏しかった。加えて、四Kバイトのメモリー増設ボードのほとんどが不良品だった。そんな中、まともに動作するメモリーの増設ボードを売る連中が現われた。本来のマシンの供給元とそのユーザーに対して、第三者としてマシンにかかわってくるサードパーティーと呼ばれる勢力は、パーソナルコンピューターのルーツとなったアルテアの発売直後にはすでに誕生していた。
まともに動くメモリーボードに不良品で対抗するために、エド・ロバーツはマイクロソフトのベーシックを餌にする作戦に出た。
MITSからは、メモリーの規模に応じて三種類のベーシックが発売された。そのうち、最小規模の四Kバイト版を単体で買えば、三五〇ドル。ただしアルテア本体と、四Kバイトの増設メモリー、入出力ボードとのセットで購入する際は、六〇ドルに値引きされた★。この広告につられてセットで申し込むと、ベーシックの供給は遅れるとの言い訳付きで、できの悪いメモリーボードを含む部品の束だけが送られてきた。
★アルテアベーシック単体の価格を、MITSは一九七五年暮れのクリスマスセールでは、さすがに二分の一以下と大幅に引き下げる。上記の価格はMITSの広告が雑誌に掲載され始めた同年春のものである。この時点では、八Kバイト版の単体価格は五〇〇ドルで、本体、八Kバイトの増設メモリー、シリアルI/OもしくはオーディオカセットI/Oとのセット価格は七五ドル。最大規模の拡張ベーシックと名付けられた一二Kバイト版は、単体では七五〇ドル。本体、一二Kバイトの増設メモリー、シリアルI/OもしくはオーディオカセットI/Oとのセット価格は一五〇ドルと設定されていた。
ゲイツはなお製品の仕上げに取り組んでいたが、MITSが主催したアルテアのデモンストレーションの会場では、暫定版のベーシックがすでに動いていた。怒ったユーザーの一人が会場からベーシックの入った紙テープを持ち去り、これがつぎつぎとコピーされてユーザー仲間のあいだで急速に広まった。
この事実を知ったビル・ゲイツは、アルテアのユーザーグループの会報に「ホビイストへの公開状」と題する原稿を寄せた。コピーを無断で配付することはソフトウエアの開発者から盗むことであり、こうした振る舞いが横行すれば誰も労力と経費をかけて開発に取り組むことなどできなくなる。ソフトウエアを盗んでいる者は、結果的にすぐれたプログラムを書けなくしているに等しいと、ゲイツは訴えた。
エド・ロバーツにとっての悩みの種は、アルテア用のさまざまな機能拡張ボードが、赤の他人によって作られはじめたことだった。
一九七六年三月にアルバカーキーで開いたアルテアの世界大会には、サードパーティーから展示の申し入れがあった。ロバーツはこれを拒否し、彼らを寄生虫と罵った。罵られた側も負けてはおらず、会場となったホテルのスイートルームを借りて参加者を呼び入れた。
さらにこの年の夏には、アルテアと同じく8080を使ったIMSAI8080と名付けられた対抗機が登場した。このライバルは、アルテアのバスの規格をそのまま使い、アルテア用の増設ボードが利用できることを売り物にしていた。
さらにその後も、このバスの規格をそのまま採用した機種がつぎつぎに登場してきた。
エド・ロバーツはこれをアルテアバスと呼び、MITSの所有物であると主張した。だがライバルたちは、標準を意味するスタンダードのSと信号線の数の一〇〇本を取ってS―100バスと言い換えた。その後IEEEに設けられた委員会で、アルテアのバスはあらためて定義しなおされるとともに機能を拡張され、S―100バスという学会の標準規格として確立された。
パーソナルコンピューターのルーツとなったアルテアは、これ以上はないというほどのお粗末な姿で誕生した。
そして生まれ落ちたとたん、このマシンにさまざまな連中が取りついてソフトとハードの両面から機能を拡張しはじめた。さまざまな人間たちのエネルギーを呑み込むことによって、混乱と衝突と軋轢の中で、アルテアの世界は急速に拡大していった。
当然のことながら、MITSもまたアルテアを進化させることをもくろんだ。エド・ロバーツは一九七五年の秋には、フロッピーディスクをアルテアで使えるようにしようと考えはじめていた。
プログラムやデータを保存しようとすれば、これまではアルテアにテレタイプをつなぎ、紙テープに打ち出すしかなかった。だが紙テープでは、素早く情報を読み書きすることはできなかった。
一方大型コンピューターやミニコンピューターで使われているフロッピーディスクが使えれば、読み書きの効率が大きく改善できることは明らかだった。ただしそのためには単にアルテアにフロッピーディスクの駆動装置(ドライブ)がつながるようにするだけではなく、情報の読み書きの管理を受け持つソフトウエアを用意しておく必要があった。
アレンはかねてから、フロッピーディスクドライブの管理機能をベーシックに持たせるように、ゲイツに注文を出していた。ゲイツはこの作業を延ばし延ばしにしてきたが、一九七六年の二月になって、管理機能を持たせたディスクベーシックの開発作業に一気にけりを付けた。
この年の後半になって、マイクロソフトはMITS以外の新しい得意先を獲得した。ベーシックの売り込み先の開拓に取り組んでいたゲイツは、NCRとゼネラルエレクトリックへの供給契約の締結にこぎ着けた。
マイクロソフトは波に乗りはじめていた。
一九七六年十一月、アレンはMITSから籍を抜き、翌一九七七年の一月にはゲイツがハーバード大学の中退手続きをとった。プログラミングのスタッフを雇いはじめたマイクロソフトは、ベーシック以外の言語の開発にも取り組み、8080以外のマイクロコンピューターへの言語の移植にも乗り出していった。
ゲイツはアルバカーキーに移り、この年の春、マイクロソフトは初めて事務所を構えた。
マイクロソフトが会社としての体裁を整えはじめた一九七七年の四月、サンフランシスコで開かれた第一回のWCCFは、パーソナルコンピューター自体もまた、マシンとしての体裁を整えはじめたことを強烈にアピールする場となった。
組み立てキット式のアルテアは、もはや過去の遺物だった。
フェアーの主役は、買ってきたその日からすぐに使いはじめることのできる、しっかりとしたケースに収められたマシンに移り変わっていた。
電卓で当てながら、大手の市場参入によってMITS同様窮地に追い込まれていたカナダのコモドール社は、一体型のPETと名付けたマシンの試作機をフェアーに送り込んで参加者に強い衝撃を与えた。
ディスプレイに加えてデータやプログラムの記憶装置としてカセットデッキまで組み込み、スイッチ一つでベーシックの立ち上がるPETは、趣味の世界を超えて実用の機械を目指しているように見えた。
スティーブン・ウォズニアックとスティーブン・ジョブズという二人の若者によって設立されたアップルコンピュータ社は、アップル
と名付けたマシンで人気をさらった。一般のテレビ受像機につなぐ方式をとったアップル
は、六色のカラーを表示してブースに群がる参加者の視線を釘付けにした。パソコン革命は
日本に及ぶのか
WCCFの会場を埋めた人の波の中で、後藤富雄は息を呑んでいた。
ここアメリカではすでに、はっきりと個人用のコンピューターに狙いを絞った製品が生まれつつあり、こうしたマシンに目の色を変えて取りつこうとする人々が確実に層をなしていた。
彼ら使う側と作る側、そして作る側同士の複雑な絡み合いも印象的だった。
MITSのアルテアにマイクロソフトがベーシックを載せ、MITSの憤慨をよそにサードパーティーが周辺機器を作りはじめていた。そしてアルテアの規格は、S―100バスという業界標準となりつつあった。今や激しい急流となりはじめたパーソナルコンピューターをめぐるうねりは、無秩序であらかじめ予想することなどとてもできなかった錯綜した協力関係の中で、増幅されていた。
PETやアップル
といった新世代のマシンもまた、アルテアを育てた共棲関係を志向していることは明らかだった。PETはマイクロソフトのベーシックを採用していた。アップル
には独自のベーシックが採用されていたが、このマシンには拡張スロットが七つも用意されていた。マイクロソフトはこの年、アップル
に彼らのベーシックを売り込むことに成功した。先行するPETとアップル
を追って、この年TRS―80を発表したタンディ社もまた、マイクロソフトとの提携に踏み切った。発表当初のマシンには自社の技術者が開発したベーシックを載せていたが、これに加えてマイクロソフトのものも積むことになった。PET、アップル
、そしてTRS―80の誕生を境に、アメリカでは明らかにもう一段パーソナルコンピューターの流れは勢いを増していた。フェアーの会場をみたすエネルギーの奔流に圧倒されながら、この流れに乗れば行きたかった遠くに行けるのではないかと、後藤は感じはじめていた。
運ばれた先に果たしてどんな世界が待ち受けているのか、後藤に見えていたわけではない。これがアメリカだけの特殊な現象に終わるのではないか、との懸念もあった。
だがアメリカ出張を終えたとき、後藤は流れ出した水に乗って、手探りでもともかく行けるところまで行こうと腹をくくっていた。
一九七七年三月号の『コンピューター』で後藤が彼のバイブルとなる「パーソナル・ダイナミック・メディア」と出合ったのは、アメリカ出張から帰った直後だった。
闇の彼方にかすかにともった光は、遠くとはどこなのかを、後藤富雄に語りかけていた。
一九七七(昭和五十二)年春、後藤富雄は彼方にパーソナル・ダイナミック・メディアを望みながら、個人のためのコンピューターに向かって勢いを増す時代の波に運ばれ、闇の中を疾走しはじめていた。
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第二部 第一章 コンピューター本流が描いたもう一つの未来像
一九七六マイコン革命の旗手としてのオフィスコンピューター
日本電気のコンピューター事業の戦略策定をになう浜田俊三は、水平線の彼方から二つ目の小型化の波が近づいてくる気配に眉根を曇らせていた。
一つ目の波に、日本電気はかろうじて乗ることができた。
電子計算機に手を染めて以来、労ばかり多くして利益の上がらなかったこの分野を、日本電気はオフィスコンピューターによって、ついに採算のとれるビジネスへと転換させた。
予想もしなかった方角から第二の波が近づいてきたのは、小型化の波に乗って日本電気がようやくコンピューター事業に突破口を開いたおりもおりだった。
この二つ目の波は、果たしてどこまで育つのか。無視できるものなのか。それとも向き合って対処すべきものなのか。敵なのか味方なのか。
浜田にはまだ、確信が持てなかった。
だが、吐息一つもらす間に、波はもう一つ寄せる。足元を洗う小波か、防波堤を越える大波か、いずれにせよ波頭はここに及ぶ。とすれば果して今、何をなすべきなのか。
一九八〇(昭和五十五)年を前後する時期、パーソナルコンピューターという第二の小型化の波を乗り切るための課題を、浜田は一つ一つ数えはじめていた。
日本電気
電子計算機本流の系譜
一九五九(昭和三十四)年四月、高度経済成長の歯車がまさに回りはじめようとしていた時期に、浜田俊三は山梨大学工学部電気工学科を卒業して日本電気に入社した。
通信を専攻した浜田だったが、四年生の夏までこの会社の名前は知らないでいた。
担当の教授に夏休みの実習先として日本電気を指示され、玉川製造所★で一か月を過ごした。
★日本電気関係者の証言を集め、資料を収集していく段階で首をひねってしまったのが、事業拠点の名称だった。「玉川」に例をとれば、玉川向製造所、玉川事業所、玉川事業場、玉川事業部などさまざまな名前が登場するため、資料のまとめの段階では大いに混乱させられた。
この疑問は、同社の正史である『日本電気株式会社七十年史』(日本電気社史編纂室編、日本電気、一九七二年)と『日本電気最近十年史』(同前、一九八〇年)をあらためて追うことで、単純に機構改革、名称変更が繰り返されたためと氷解した。と同時に、組織変更の繰り返しの跡は、当初電話機器の製造メーカーとして生まれた同社が通信一般に領域を拡張し、軍需に精力的に応えたあとで敗戦という一大衝撃を受け、そこから家電、コンピューター、半導体と新しい分野に乗り出しながら、復興、発展を遂げていった証であることを確認させられた。
大半の読者にとっては、組織の正式名称の変遷は興味の外だろう。本文中の表記が多少前後で入れ替わっていたとしても、「筆者がそこは確認しているだろう」と安心して読み飛ばしていただければよい。ただし本書に資料的な側面を求めるごく一部の読者のために、名称の変遷の跡を戦後に限って振り返っておく。
創業の地であり、現在本社の置かれている三田は、敗戦後、有線通信関係の拠点として三田製造所と呼ばれ、一方無線関係の拠点であった玉川は玉川向製造所と名付けられていた。日本電気はその他に、大津製造所(ラジオ、真空管)、大垣製造所(手動交換機、有線関係製品)、同瀬戸工場(通信機器用特殊窯業製品)、高崎製造所(真空管材料、各種特殊材料)の製造拠点を有していた。
戦後のインフレ抑制を狙った金融引き締め政策、ドッジラインが発表された直後の一九四九(昭和二十四)年四月二十三日、日本電気経営陣は「会社再建に関する新提案」をまとめて、労働組合に提示した。提案は、
大垣製造所および同瀬戸工場、高崎製造所、研究所の廃止
会社全体にわたる人員縮小
大津製造所への独立採算性の導入を骨子としていた。以降、組合側は一〇六日間にわたって抵抗するが、五月二十七日、会社側は提案の
を実施し、七月七日には
、
を実行して全従業員約一万二〇〇〇名の三五パーセント弱に相当する約三六〇〇人を整理し、大津製造所をラジオ事業部に改組した。あわせて同日、三田製造所は三田事業部に、玉川向製造所は玉川事業部に名称変更された。朝鮮戦争に伴う特需景気が日本経済のカンフル剤として機能したのちの一九五四年十月、三田、玉川両事業部の名称は製造所に戻され、一九六一年四月、事業部制の採用によって今度は事業所と呼ばれることになった。コンピューターの拠点となる府中事業所の新設は、一九六四年九月。一九六九年一月には各事業所は事業支援本部と改称され、三田、玉川など、各地区工場の総称が事業所から事業場に変更される。
昔話をたどろうとすれば、混乱もしようというものだ。
この疑問は、同社の正史である『日本電気株式会社七十年史』(日本電気社史編纂室編、日本電気、一九七二年)と『日本電気最近十年史』(同前、一九八〇年)をあらためて追うことで、単純に機構改革、名称変更が繰り返されたためと氷解した。と同時に、組織変更の繰り返しの跡は、当初電話機器の製造メーカーとして生まれた同社が通信一般に領域を拡張し、軍需に精力的に応えたあとで敗戦という一大衝撃を受け、そこから家電、コンピューター、半導体と新しい分野に乗り出しながら、復興、発展を遂げていった証であることを確認させられた。
大半の読者にとっては、組織の正式名称の変遷は興味の外だろう。本文中の表記が多少前後で入れ替わっていたとしても、「筆者がそこは確認しているだろう」と安心して読み飛ばしていただければよい。ただし本書に資料的な側面を求めるごく一部の読者のために、名称の変遷の跡を戦後に限って振り返っておく。
創業の地であり、現在本社の置かれている三田は、敗戦後、有線通信関係の拠点として三田製造所と呼ばれ、一方無線関係の拠点であった玉川は玉川向製造所と名付けられていた。日本電気はその他に、大津製造所(ラジオ、真空管)、大垣製造所(手動交換機、有線関係製品)、同瀬戸工場(通信機器用特殊窯業製品)、高崎製造所(真空管材料、各種特殊材料)の製造拠点を有していた。
戦後のインフレ抑制を狙った金融引き締め政策、ドッジラインが発表された直後の一九四九(昭和二十四)年四月二十三日、日本電気経営陣は「会社再建に関する新提案」をまとめて、労働組合に提示した。提案は、
大垣製造所および同瀬戸工場、高崎製造所、研究所の廃止
会社全体にわたる人員縮小
大津製造所への独立採算性の導入を骨子としていた。以降、組合側は一〇六日間にわたって抵抗するが、五月二十七日、会社側は提案の
を実施し、七月七日には
、
を実行して全従業員約一万二〇〇〇名の三五パーセント弱に相当する約三六〇〇人を整理し、大津製造所をラジオ事業部に改組した。あわせて同日、三田製造所は三田事業部に、玉川向製造所は玉川事業部に名称変更された。朝鮮戦争に伴う特需景気が日本経済のカンフル剤として機能したのちの一九五四年十月、三田、玉川両事業部の名称は製造所に戻され、一九六一年四月、事業部制の採用によって今度は事業所と呼ばれることになった。コンピューターの拠点となる府中事業所の新設は、一九六四年九月。一九六九年一月には各事業所は事業支援本部と改称され、三田、玉川など、各地区工場の総称が事業所から事業場に変更される。昔話をたどろうとすれば、混乱もしようというものだ。
配属されたセクションでやっていた、アナログ方式のコンピューターで潜水艦の航跡をシミュレートする仕事は、いかにも斬新で面白そうに見えた。地味ではあるが、電電公社の通信技術を支える日本電気という会社の性格にも、この実習で触れることができた。
大学に帰り、実習で触れたコンピューターに関する文献をもう一度読みなおしてみた。教授の世話で日本電気への入社が決まり、配属を決めるための面接では「デジタルコンピューターが伸びそうなので、ぜひやらせてほしい」と答えた。
配属先は希望どおり、コンピューターの専門セクションとして二年前に作られたばかりの電子機器工業部となった。実験的ないくつかの試みを経て、日本電気は当時からコンピューター事業に本腰を入れはじめていた。
日本電気のコンピューターへの取り組みは、一九五四(昭和二十九)年ごろから始まった、論理回路用の素子に関する基礎的な研究にさかのぼる。
このころ東京大学理学部で電子計算機に取り組んでいた高橋秀俊の研究室に入った後藤英一は、新しい論理素子を考案して注目を集めた。
磁石を作る素材として広く使われていたフェライトを利用したこの素子は、パラメトロン★と名付けられていた。
★パラメトロンの誕生の経緯は、『日本のコンピュータの歴史』(情報処理学会歴史特別委員会編、オーム社、一九八五年)所収の「パラメトロン計算機PC―1とPC―2」に、後藤英一自身によって記録されている。師にあたる高橋秀俊の『電子計算機の誕生』(中公新書、一九七二年)には、パラメトロンの誕生とこれを利用した計算機の開発の経緯が詳述されている。
後藤の回想によれば、高校時代からラジオ製作に凝っていた彼はアマチュアラジオ雑誌でフェライトを使ったオキサイドコアを知って興味を持ち、買い求めて遊んだ経験を持っていた。電子計算機に興味を持って入った高橋研究室はTACの開発計画にも加わっていたが、何千本もの真空管を使うものはとても手元に置けないことから、もっと簡単な方式で計算機を作れないかを検討していた。この研究室のテーマに知恵を絞っているとき、オキサイドコアの性質が素子として利用できるのではないかと閃いたという。
本書でのちに詳述する安田寿明は『マイ・コンピュータ入門』(講談社ブルーバックス、一九七七年)で、「昭和初期、はじまったばかりのラジオ放送を聴くため、数多くの人々が、ラジオ受信機を自作し、ラジオ・アマチュアというあたらしい趣味のジャンルをひらいた。それがのちにラジオ文化、そして、いまのテレビ文化へと発展していく、いしずえとなったのである。コンピューターを手作りする人たちが出現したいま、これからの私たちの前に、どのようなコンピューター文化、どのようなコンピューター・ホビーが展開されていくのであろう?」と書いている。だが趣味のラジオ製作は、パラメトロンの誕生にも深く関与していたわけだ。
後藤の回想によれば、高校時代からラジオ製作に凝っていた彼はアマチュアラジオ雑誌でフェライトを使ったオキサイドコアを知って興味を持ち、買い求めて遊んだ経験を持っていた。電子計算機に興味を持って入った高橋研究室はTACの開発計画にも加わっていたが、何千本もの真空管を使うものはとても手元に置けないことから、もっと簡単な方式で計算機を作れないかを検討していた。この研究室のテーマに知恵を絞っているとき、オキサイドコアの性質が素子として利用できるのではないかと閃いたという。
本書でのちに詳述する安田寿明は『マイ・コンピュータ入門』(講談社ブルーバックス、一九七七年)で、「昭和初期、はじまったばかりのラジオ放送を聴くため、数多くの人々が、ラジオ受信機を自作し、ラジオ・アマチュアというあたらしい趣味のジャンルをひらいた。それがのちにラジオ文化、そして、いまのテレビ文化へと発展していく、いしずえとなったのである。コンピューターを手作りする人たちが出現したいま、これからの私たちの前に、どのようなコンピューター文化、どのようなコンピューター・ホビーが展開されていくのであろう?」と書いている。だが趣味のラジオ製作は、パラメトロンの誕生にも深く関与していたわけだ。
構造がきわめて単純で丈夫なパラメトロンを用いれば、生まれたばかりのトランジスターはもちろん、これまでの真空管に比べても計算機の回路を大幅に安く作れるだろうと期待が集まった。その一方でトランジスターに比べるとスピードが上がらないという欠点もあったが、一時期パラメトロンは真空管に代わる次世代の素子の有力な候補と目された。
寿命の短い真空管を使ったのでは、金もかかるし保守も厄介になる。かといってトランジスターは、値段が高いうえにまともに動くものがなかなか手に入らない。だがパラメトロンなら、すぐにでも電子計算機作りに取り組める。
本業の通信の技術を進めるために、是非とも電子計算機を使いたいと考えていた日本電気の渡部和は、パラメトロンを使えばのどから手の出るほど欲しい計算の強力な道具が作れると踏んだ。
一九五三(昭和二十八)年に入社し、伝送機器工業部で通信機用のフィルターの設計に取り組んでいた渡部和は、本業を進めるためにこそ、一まず計算機の開発という迂回路をとろうと考えた。
通信に利用する電波の周波数を高め、より多くの情報を送れるようにするには、さまざまな周波数の中から利用したい特定の波だけをより分けるフィルターの性能を高めていくことが必要だった。だが高度なフィルターの設計には、膨大な計算がつきまとう。配属された部署に置いてあった電動計算機を使っても、精度の高いフィルターの設計には数か月を要した。
一九五五(昭和三十)年五月、名古屋大学で開かれた電気通信学会で発表を行った渡部は、学会の副会長として出席していた玉川製造所長の小林宏治(のちの社長、会長)から、学内に設けられた臨時のバス停のそばで「一緒に帰ろう」と声をかけられた。
駅前の喫茶店に誘われた渡部は、「フィルターが進歩しなければ、日本電気の生命線である通信の技術が進まない」と電子計算機の開発の必要性を小林に訴えた。
必要なだけではない。条件も整っている。
トランジスターは時期尚早であるにしても、パラメトロンがある。
自らも手回しの計算機でフィルターの設計に難渋した経験を持つ小林は、新しい計算の道具が必要であることは重々承知していた。
一九五二(昭和二十七)年から東芝が東京大学と共同で着手した真空管方式のTACの開発計画には、それゆえ期待も関心も持っていた。「動かざるコンピューター」とあだ名されるほどTACの調整作業は難航し、ひと事ながらあらためて電子計算機の難しさも痛感させられた。だが開発がいかに困難であるにしても、通信を含め、科学技術を今後大きく発展させるには計算の強力な道具が必要であるという事情には変わりはなかった。
渡部の言うとおり、構造が簡単で動作が安定しており、値段も安いパラメトロンなら、成功の確率は高いと期待できた。
小林はミルクセーキをストローでかき回しながら、「計算の手順は頭の中にある。その意味では頭の中に計算機はできている。二〇〇〇万円もらえれば、すぐにでも完成させてみせる」との渡部の訴えに、内心でうなずきかけていた。
会社の図書室にあった、開発者のモーリス・ウィルクス自身が書いたEDSACの本を読んでいる最中、渡部は奇妙な親近感を電子計算機に抱くようになった。自分自身が行っている計算の作業と、電子計算機の動作原理は、本質的には同じだった。電子計算機をどう構成すればいいか、どんな回路が必要でどうプログラムを組めばいいか、渡部は積み木でももてあそんでいるように素直に理解できた。
渡部は「電子計算機の気持ちが分かる」と思いはじめていた★。
★電気通信学会における渡部の直訴のエピソードは、『自主技術で撃て』(中川靖造著、ダイヤモンド社、一九九二年)に記録されている。日本電気の歴史を総ざらいする中から、電子大国日本の素顔をかいま見たいという壮大な目標を立てた中川は、現役、OB合わせて百数十名の同社関係者を取材し、データ原稿を三〇〇〇枚以上起こし、『自主技術で撃て』と姉妹編の『技術の壁を突き破れ』(同前)にその成果をまとめている。通信、半導体と並んで、この連作には同社のコンピューターの開発史が豊富なエピソードを盛り込んで詳述されており、パーソナルコンピューターの誕生から発展にいたる経緯にも触れられている。
直訴の顛末は、渡部と小林へのインタビューをもとに『日本のコンピュータ開発群像』(臼井健治著、日刊工業新聞社、一九八六年)にも詳述されている。
日本電気のコンピューター開発の歴史をさらった記録には、前出の『日本のコンピュータの歴史』所収の宮城嘉男による第三部、第四章の「日本電気」、『bit別冊 国産コンピュータはこう作られた』(相磯秀夫/飯塚肇/大島一純/坂村健編、共立出版、一九八五年)所収の発田弘による第
編「日本電気」、『情報処理』(情報処理学会編、オーム社)一九七六年九月号「日本電気における計算機開発の歴史」金田弘などがある。
直訴の顛末は、渡部と小林へのインタビューをもとに『日本のコンピュータ開発群像』(臼井健治著、日刊工業新聞社、一九八六年)にも詳述されている。
日本電気のコンピューター開発の歴史をさらった記録には、前出の『日本のコンピュータの歴史』所収の宮城嘉男による第三部、第四章の「日本電気」、『bit別冊 国産コンピュータはこう作られた』(相磯秀夫/飯塚肇/大島一純/坂村健編、共立出版、一九八五年)所収の発田弘による第
編「日本電気」、『情報処理』(情報処理学会編、オーム社)一九七六年九月号「日本電気における計算機開発の歴史」金田弘などがある。帰京した小林はさっそくコンピューター研究班の組織化を指示し、研究所のメンバーに渡部たちが加わって、基礎的な勉強会が始まった。
そして一九五六(昭和三十一)年二月、日本電気はパラメトロン電子計算機、NEAC―1101の開発計画を正式にまとめ、本設計に着手した。
開発方針の決定にあたっては、研究所側と渡部たち工場側とのあいだに、意見の相違があった。
ごく基本的なものから始めようと考えた研究所に対し、必要な道具を早く作りたいと考えていた渡部はより大きなもので行こうと主張した。結局、両者の意見が平行線を保ったまま、基礎研究はこれまでどおり共同で進めるが、第一号コンピューターの開発には、研究所のみであたることになった。
だが方針がそう決まった直後、渡部たちにもコンピューター開発のチャンスがめぐってきた。
当時、東北大学で音声情報処理をテーマとしていた大泉充郎は、研究に求められる膨大な計算処理に直面していた。「必要な道具は作るしかない」と踏ん切った大泉は、文部省に予算要求を出して一九五七(昭和三十二)年に認められ、学内の開発体制を整えた。電子計算機の開発主体が、大学から企業に移り変わりつつある世界の流れに注目した大泉らは、「ぜひ我々にやらせてほしい」との日本電気からの働きかけに乗った。「日本最大の計算機」を目指して大幅に機能を高めた第二号機、SENAC(仙台自動計算機、日本電気の商品名ではNEAC―1102)のプロジェクトは、渡部たち工場側が研究所の協力を得て、同時並行で進めることになった。
一九五七(昭和三十二)年九月、日本電気は電子計算機を担当する電子機器工業部を新設し、両プロジェクトの開発担当者をここに集めた。この専門セクションではさらに、もう一つの次世代素子の候補であるトランジスターを用いた機種の開発も進められた。
一九五八(昭和三十三)年三月、日本電気は第一号機NEAC―1101の稼働にこぎ着けた。その直後に東北大学の通信研究所に搬入されたSENACは調整に手間取ったものの、同年の十一月には動きはじめた。
このSENACの計算能力を目の当たりにして、小林宏治はあらためて電子計算機の力を実感させられた。もちろん通信の技術開発のためにも、電子計算機は大きく貢献するだろう。ただしその可能性は、通信といった一分野にとどまるわけはなかった。
〈これで世の中は変わる。日本電気は本格的に電子計算機をやらなければいけない〉
小林はSENACを前に、そう決意した。
次世代素子のもう一つの候補であるトランジスターには、電気試験所(通産省電子技術総合研究所の前身)が開発を終えていたMARK
の技術をもとに、開発作業に着手し、一九五八(昭和三十三)年の九月には早くも、NEAC―2201と名付けたトランジスター型の第一号機が動きはじめた。この年の四月、エレクトロニクスの産業振興を目的として設立されたばかりの電子工業振興協会は、各社のマシンを集めた電子計算機センターを作ってこの技術のPRに努めようと考えた。十一月の開所に向けて、日本電気をはじめとして日立製作所、富士通、東芝が開発作業を進めたが、結局間に合ったのは日本電気のNEAC―2201のみだった。そのため電子計算機センターは当面この一機種のみでスタートし、正式な開所を翌一九五九(昭和三十四)年五月に持ち越した。
NEAC―2201は、国際的な桧舞台を飾ったことでも日本電気の関係者の記憶に深く刻まれた。一九五九(昭和三十四)年六月にパリで開かれたユネスコ主催の第一回情報処理国際会議に、日立のパラメトロン機とともに、日本電気はNEAC―2201を出展した。昼間動かして見せたあと、徹夜で修理して翌日に臨むといった綱渡り状態ではあったものの、NEAC―2201はこの会議に出品されたトランジスター式の電子計算機の中で、唯一観客の前で動いて見せることができた。
パリでの成功のニュースを聞いた小林宏治は、電子計算機への取り組みに対する確信と自信とをいっそう深めた。小林は当時社長を務めていた渡辺斌衡を説き伏せて電子計算機の事業化のレールを敷き、通信に続く日本電気の第二の柱に育てようと決意した。
そんな時期、浜田は設立間もない専門セクションの電子機器工業部に配属された。
電子機器工業部で浜田の直属の上司となったのは、のちにコンピューター担当の役員を経て副社長を務める石井善昭だった。
東京大学第二工学部の電気工学科を卒業した石井は、一九五一(昭和二十六)年、朝鮮戦争の特需景気に日本経済が沸きはじめた年に、日本電気に入社した。
ドッジラインに沿った金融引き締め策によって不況風が吹きはじめた直後の一九四九(昭和二十四)年四月には、日本電気は工場や研究所の閉鎖、人員整理に追い込まれた。この時期、新入社員の採用を手控えていた日本電気にとって、石井たちは三年ぶりの大卒新人だった。
配属を決める際の面接には、玉川事業部の事業部長を務めていた小林宏治があたった。
希望は、「極超短波の通信」と答えた。
無線通信に用いる電波の周波数を上げ、いくつもの信号を重ね合わせて大量の情報を送ろうとするマイクロウェーブ多重通信は、当時の日本電気にとって華だった。
有線をベースとした「伝送ではどうだ」と水を向ける小林にも、あくまで無線の「極超短波」と答えた。
だが正式の配属先を決めるに先だって、半年ほどもかけて新人に各部署を体験させる研修期間中に伝送工場を覗いてみると、ここで扱っている技術にも興味が湧いてきた。最終的に配属先が決まる直前、小林宏治にもう一度「伝送でどうだ」と聞かれた際には、「お任せします」と答えた。
配属された伝送技術課では、のちに会長となる大内淳義が、音声をパルスに載せて送る技術に取り組んでいた。
当時国鉄は青森―函館間に専用の通信回線を持っていたが、これを多チャンネルの雑音の少ないものに切り替える計画が動きだしていた。電電公社通信研究所の依頼を受け、日本電気は音の信号に応じてパルスの位置をずらすPPM(パルス・フェーズ・モジュレーション)と呼ばれる技術を用いた通信装置の開発を進めていた。
青森―函館間の回線は一九五二(昭和二十七)年十月には開通したが、その直前に大内が肺結核で倒れ、一年半の療養生活に入った。石井は青森―函館に続いて、東北電力が仙台と会津若松間に設ける専用線に同じ技術を生かす作業に携わった。だが復帰した大内と入れ替わるように自らも結核を患い、手術と療養生活を余儀なくされた。
一九五五(昭和三十)年に職場に復帰した石井は、心機一転、日本電気にとっても新しい仕事となるコンピューターに携わることになった。伝送技術部に新設された電子計算機係に配属となり、SENACのプロジェクトに加わった。
一九五九(昭和三十四)年四月の入社そうそう、浜田はかつて石井がチーフを務めたSENACプロジェクトの遺産と格闘することになった。
当時日本電気は、トランジスターの将来性を買ってパラメトロンの開発を打ち切る方針を固めていた。ところがそこに、防衛庁技術研究所から東北大学に納めたSENACと同じものを作ってほしいとの申し入れがあった。科学技術計算用のコンピューターを検討した結果、防衛庁はSENACが最適であるとの判断を下した。この開発担当を、入社そうそうの浜田が命じられた。
会計検査上の都合から、SENACは一九五八(昭和三十三)年三月に取りあえず東北大学に納入されていた。以来渡部は、調整という名の仕上げ作業を仙台で半年以上も続けた★。
★東北大学の大泉充郎らがどのような経緯で電子計算機の開発を目指し、渡部和らがいかに悪戦苦闘を続けたかは、東北大学側を情報源とした、八甫谷邦明「SENAC開発余話」(『コンピュートピア』一九七五年八月号)に詳しい。
このSENACと同じものを作れと命じられた浜田は、工場に残されたぼろぼろの設計図を開いて頭を抱え込んだ。A1サイズの大きな図面用紙を何枚も貼り合わせ、数十メートルの巨大な巻物とされた設計図をたどっていくと、ところどころに読めない箇所があった。手元にあるものはもとの図面からとった青焼きコピーだったが、原図が何度も消しゴムで訂正されているらしく、さっぱり判読できなかった。未完成のまま納入され、仙台で手直しを繰り返しただけに、図面上には論理の誤りもかなり残されていた。
石井の指導を受けながら悪戦苦闘の末に仕上げたマシンは、NEAC―1103と名付けられてようやく納入にこぎ着けた。
一九五〇年代から手探りで電子計算機への取り組みを始めた日本のメーカーは、その後、本格的な事業の展開を目指して次のステップに踏み出そうとしたとたんにIBMの壁に直面させられた。
敗戦後間もない当時、アメリカからの特許出願には特別な優先権が認められていた事情もあって、電子計算機に関する同社の特許は、日本ではきわめて強力な形で成立していた。
一方IBM側にも、日本の子会社から親会社へ配当を送金することが外資法で認められていないという弱みがあった。日本IBMはそこで、技術提携に対するロイヤリティーとして送金するという手で外資法をすり抜けようと考えたが、通産省はこれを認める条件として、特許の公開と日本IBMの製造機種をパンチカードマシンに限定するように迫った。IBM側はこの提案を拒否し、以来交渉は四年にわたったが、一九六〇(昭和三十五)年十二月になってようやく、製品価格の五パーセントの特許権使用料を各社が支払うという条件で契約が成立した★。
★IBMとの特許問題に関する経緯は、前出の『日本のコンピュータの歴史』所収「特許問題とIBM特許契約」(宮城嘉男)に、明快にまとめられている。
この契約によって訴訟の恐れを回避した日本の各社は、続いて性能においてもIBMと対抗していくために、競ってアメリカの企業との技術提携に乗り出した。
一九六二(昭和三十七)年七月、日本電気はハネウェル社と組んだ。これに先だってRCA社との技術提携に踏み切った日立製作所は、提携先の路線にもとづいてIBM機用に開発されたプログラムをそのまま利用できる互換路線をとった。
その後、順調に電子計算機を伸ばすことのできた日本のメーカーにとって、沖縄返還と日米繊維交渉の絡みで一九六五(昭和四十)年前後から浮上しはじめた電子計算機の自由化論議は、大きな脅威だった。
自由化によってIBMに一気に国内の市場を押さえられることを恐れた通産省は、国内のメーカー六社を再編成して体質強化を図り、自由化への備えを固めようと考えた。一九七一(昭和四十六)年、電子計算機の自由化のスケジュールが決定されたこの年、業界一位、二位の富士通と日立はIBM互換路線に沿ったMシリーズの開発を目指して手を結んだ。一方三菱電機は沖電気と組んでCOSMOSシリーズを、日本電気は東芝と組んでACOSシリーズを、それぞれIBM非互換で開発することとなった。各グループは開発費の五〇パーセントに相当する補助金を国から交付され、IBMに対抗しうるマシンの開発に取り組んだ★。
★日本のコンピューターメーカー各社の歩みを、視点を幅広く取って横断的に跡付けた著作としては、『日本コンピュータ発達史』(南澤宣郎著、日本経済新聞社、一九七八年)、立石泰則の労作『覇者の誤算』(日本経済新聞社、一九九三年)などがある。
国の手厚い保護を受けて進められた共同開発の成果は、一九七四(昭和四十九)年から翌年にかけての製品発表に結びついた。
これ以降、IBM互換路線をとった一、二位連合の富士通と日立は、大きく業績を伸ばしていった。
一方、他の二グループは業績の悪化を余儀なくされ、やがて沖電気と東芝は大型コンピューターからの撤退に追い込まれた。三菱電機は起死回生を狙ってあらたな路線に舵を切りなおした。だが、日本電気は苦しみながらも一貫してACOSシリーズを堅持した。
日本電気のコンピューターも、小型機には実績を残した機種もあった。本筋の大型機ではトランジスターに絞る方針がとられたが、一九六一(昭和三十六)年五月に発表された当時としては超小型のNEAC―1201は、パラメトロンの安さを生かした低価格を売り物にしてヒット商品となった。
コンピューターは小型のものでも数千万円していた当時、国民車的コンピューターを目指して一桁下の価格を実現したこのマシンは、一九六四(昭和三十九)年十月に発表された改良型のNEAC―1210と合わせて、予想をはるかに超える八七〇台を売り上げた。
そしてこのシリーズの延長線上に、一九六七(昭和四十二)年二月、日本電気はパラメトロンに代えて回路をすべてIC(集積回路)で構成したNEAC―1240の発表を行った。
大型汎用機の不振をよそにNEAC―1240もまた好評を博し、改良型も含めてこの機種は一四〇〇台を超えるセールスを記録した。
だが一九七〇年代に入ると、日本電気のコンピューター事業の中で唯一気を吐いてきた超小型シリーズにも、急速に陰りが見えてきた。
日電オフコン、システム100
マイコン化に先駆ける
こうした事態に対処するために、虎の子の超小型分野の建て直しプロジェクトがスタートすることになった。
かつて日本電気がコンピューターに手を染めるきっかけを作った渡部和は、東北大学にSENACを納めてから本業の伝送技術に戻り、その後は中央研究所で通信とコンピューター部門の管理にあたっていた。
その渡部がもう一度開発の現場に呼び戻され、新しい超小型機のコンセプトの取りまとめを任された。
一九七一(昭和四十六)年一月にコンピュータ方式技術本部の技術本部長に就任した渡部は、今後の需要の中心は、中小企業の事務処理の合理化であると考えた。
こうした認識にもとづき、プロジェクトは、中小企業が利用できる低価格と、専門のスタッフを置かずとも運用できる使いやすさとを兼ね備えたマシンを目標に据えた。
開発の実作業には、コンピューターの開発部門を一本化して設立されたばかりの、コンピュータ技術本部第二開発部があたった。
開発部長代理としてこのプロジェクトを管理する立場についた小林亮は、京都大学工学部電気工学科を経て一九五六(昭和三十一)年四月に日本電気に入社していた。
初めての配属先は、中央研究所の電子計算機研究室だった。当時開発が進められていたアナログコンピューターとデジタルコンピューターの橋渡しを行う技術や磁気テープ装置などの周辺機器、まだまだ特性の悪かったトランジスターを活用してコンピューターの性能を上げるための研究にここで取り組んだのち、一九六五(昭和四十)年に研究所と玉川の工場の部隊を集めて新設された電子計算機開発本部に移った。この部署は日本電気独自方式の大型機に取り組んでおり、提携したハネウェルの流れを汲む機種は電子計算機事業部の技術部が開発を担当していた。
その二つの開発部隊が集められ、あらたにコンピュータ技術本部が設立されることになった。電子計算機開発本部では大型を担当してきた小林だったが、コンピュータ技術本部では一転して中、小型機担当の第二開発部を率いた。
その小林のもとに、超小型分野の新機種開発担当技術課長として浜田俊三が配属された。そして浜田の下に、データ通信の端末装置担当セクションで浜田と同じ釜の飯を食ってきた戸坂馨が設計主任としてついた★。
★日本電気におけるオフィスコンピューターの開発の経緯は、『「オフコン」絶え間なき変革 シェアナンバーワンNECの挑戦』(久野英雄著、NEC文化センター、一九九三年)に詳しい。著作の成り立ちの性質上、日本電気中心の史観で貫かれているが、貴重なコメントがすくい取ってある。
東京大学工学部電気工学科の修士を卒業した戸坂は、一九六六(昭和四十一)年に日本電気に入社した。当時は修士出の多くが研究所にまわされていたが、「物作りがやりたいので研究所には行きたくない」と配属前の面接で訴え、オンラインで中央のコンピューターと結んで使う銀行の端末装置作りの仕事についた。
戸坂の配属されたデータ通信の端末装置担当セクションで、先輩の浜田は当時新しいタイプの技術に取り組み、その可能性に確信を持つにいたっていた。
きっかけとなったのは、ハネウェルから技術導入して作ったNEAC―2200という大型機に付ける、通信制御装置の開発だった。
通信回線の制御を担当するこの装置には、かなり込み入った複雑な処理が求められた。従来どおり、配線のパターンを焼き込んだプリント基板の上に電子部品を並べて回路を作っていったのでは、基板の枚数も多くなり、配線はすさまじく入り組んで、故障のもととなる接点の数も膨れ上がると思われた。当然信頼性の確保は困難になり、一度仕様変更ということになれば、大変な手間をかけて設計と配線をやりなおすことを覚悟せざるをえなかった。
そこで浜田は、発想をまったく切り替えてごく小規模なコンピューターの中央処理装置(CPU)を中心にシステムを構成しようと考えた。
まずIC化した部品の組み合わせによって、一種のコンピューターを作る。このCPUにROMに収めたプログラムを実行させて求められる機能を実現する。こうした方式を採用すれば、回路はかなり整理され、仕様の変更があってもプログラムを書き換えるだけで対応できる。
あくまで通信制御装置の開発を目的としている以上、このプロジェクトで浜田たちは、一個の集積回路にCPUを作り付けるところまで踏み込まなかった。だが浜田はこの装置の開発作業を通じて、マイクロプログラミングと呼ばれるこうした手法の有効性を実感していた。
システム100と名付けられることになる新しい超小型機の開発にあたっても、浜田はこの手法をなぞろうと考えた。
すべての機能を回路に作り付けてしまうワイヤードロジックに代え、シンプルなCPUとプログラムの組み合わせで機能を組み立てるという発想をより徹底させれば、はじめから一つにまとまったマイクロコンピューターを使うというアイディアが当然浮上してきた。だがシステム100の初代機の開発を進めていた一九七二(昭和四十七)年当時、市場にあったのは四ビットのインテルの4004や、特殊な用途に対応した限られた製品のみだった。
一九七三(昭和四十八)年八月に発表されたオフィスコンピューター、システム100は、マイクロプログラミング方式をとっていたが、マイクロコンピューターの採用にはいたっていなかった。
デスク型の本体の脚部は赤、机上は白に塗り分けられたマシンはかなり小型には仕上がっていた。
だが浜田には、まだまだ小型化を推し進められるとの思いが残った。
システム100の価格は、最小構成で約三七〇万円。マイクロプログラミング方式の採用で低価格化と小型化を推し進めたというハードウエアの特長に加え、さまざまなアプリケーションをあらかじめ用意しておくというソフトウエアの備えによって、システム100はコンピューターの利用の裾野を広げようと狙っていた。
既成ソフトのAPLIKA( APplication LIbrary by Kit Assembling )シリーズには、販売管理、顧客管理、財務管理、給与計算などのさまざまなプログラムが用意された。渡部はさらにBEST( Beginner's Efficient & Simple Translater )と名付けた事務処理用の簡易言語も準備した。
主に事務処理用のプログラムを書くために使われてきたコボルを手本にしたBESTによって、渡部たちは午前中に使い方の講習を受ければ午後には簡単なプログラムが書けるような環境を提供したいと考えた。
アメリカではディジタルイクイップメント(DEC)の開発したミニコンピューターがまず研究者や技術者の注目を集め、ユーザー自身が必要とするプログラムを開発するという流儀に沿って、コンピューターの小型化の波が進んでいった。プログラムを開発するためのユーティリティーと呼ばれる小道具ソフトや言語が整備され、こうした環境はマシンをしゃぶりつくすように使いこなすポール・アレンやビル・ゲイツ、そして後藤富雄のようなハッカーを育てる土壌ともなった。
大型コンピューターを独占するIBMの足下を食い荒らしはじめたDECの快進撃を受けて、日本でも一九七〇年前後、各社がミニコンピューターに参入していった。だが、こと日本においては、ミニコンピューターは下位の市場を押さえきることができなかった。小型機導入の中心となったのはむしろ中小企業であり、この市場を掘り起こしていったのは、中小企業の求めるソフトウエアも面倒を見ようとするオフィスコンピューターだった。
いざコンピューターを導入する際も、日本の多くの経営者は従来の仕事の進め方にこだわった。
システム100に用意されたAPLIKAのプログラムでも、頑固な中小企業の親父たちを納得させることは難しかった。オフィスコンピューターのディーラーは、それぞれの会社の仕事の流儀にぴったり沿ったプログラムを用意してはじめて、マシンを売り込むことができた。
必要なソフトウエアはメーカーがすべて用意する。それでも満足がいかなければ、ディーラーがより細かな希望に沿った特注のものを書く。オフィスコンピューターによる小型化は、こうした至れり尽くせりのソフトウエアあつらえ文化に沿って進みはじめた。
通信制御装置の開発でマイクロプログラミングの手法を体験した浜田俊三は、初代のシステム100の開発にあたってもこの技術を選んだ。
情報関連の機器に求められる機能のレベルが高まれば、回路はそれに伴って複雑なものとなる。その一方で、半導体にたくさんの回路を作り付ける技術が目覚ましく進歩した結果、半導体を利用したメモリーの価格は一貫して下がりつつあった。そうした二つの流れからの圧力を受けて、さまざまな機器のエンジニアたちが、複雑な専用回路を作る代わりに簡単なCPUを集積回路化し、ROMに収めたプログラムによって機能を実現する方が賢明であると判断しはじめた。
使い物になるマイクロコンピューターを集積回路屋が用意してくれるのなら、使わない手はなかった。
かつて浜田が籍を置いていた端末装置事業部のエンジニアたちもまた、そう考えた。
一九七三(昭和四十八)年十月、端末装置事業部は日本電気の製品としては初めてマイクロコンピューターを使ったN6300シリーズの発表を行った。
銀行の窓口業務などに使われてきた従来の端末やテレタイプは、それ自体は処理の能力を持たず、入力したデータをそのまま中央のコンピューターに伝え、コンピューターからの指示に従って出力を行うだけだった。
これに対し、端末自体にある程度の処理能力を持たせ、中央のコンピューターの負担を軽減するとともにさまざまな機能を付け加えていこうとする発想が、この時期浮上してきていた。
数値だけを扱う電卓用に四ビットの4004を作ったインテルは、端末に使うことを考えてアルファベットに対応した八ビット構成の8008を発表していた。
一方N6300には、「インテリジェントターミナル」と銘打ったこの装置のためにあらたに日本電気の半導体セクションが開発した、八ビットのDT―1が組み込まれた。一つのチップにまとめられてはいなかったが、DT―1は三個のLSIのセットでCPUを構成していた。
従来の端末にないたくさんの機能を盛り込んだにもかかわらず、集積回路の採用が効いてN6300はきわめて小型に仕上がった。これまでどおりのキーボードとプリンターでユーザーに向き合うタイプに加え、N6300にはディスプレイを採用した機種も用意されていた。
システム100の初代機ではマイクロコンピューターの採用にいたらなかったオフィスコンピューターの開発部隊にも、この強力な技術を忌避する理由などあるはずがなかった。
問題は、充分な性能の得られるマイクロコンピューターが適当な価格で手に入るか否かだけだった。
一九七四(昭和四十九)年の終わり、海の向こうのアメリカでは充分な性能も糞もなく、MITSが裸同然のアルテアを無理矢理船出させていた。
一方、既存の機種の性能を落とすことなど考えられない浜田たちは、一九七五(昭和五十)年八月に発表したシステム100Gと100Hという二つの後継機でも、マイクロコンピューターの採用に踏み切れなかった。
だがオフィスコンピューター市場を舞台とした三菱電機や東芝との激しい競争は、浜田たちにさらなる価格切り下げの圧力をかけていた。浜田は翌一九七六(昭和五十一)年に発表するシステム100の次の機種で、マイクロコンピューターを採用する可能性を探ろうと考えた。
インテルはすでに、初めて汎用部品を狙った8080を発表していたが、八ビットのこのチップでは、オフィスコンピューターを構成するにはあまりに力足らずだった。そこで上司を通じ、半導体セクションにシステム100に使えるレベルのものの開発を打診してみた。すると半導体から、予想しなかった反応が返ってきた。計測機器メーカーの横河電気の依頼を受けて、彼らはすでに一六ビットのマイクロコンピューターの開発プロジェクトをスタートさせていた。
プラントの各所のデータを集めて表示、分析するシステムを、これまで横河電気はワイヤードロジックで作っていた。だが彼らもまた、マイクロコンピューターを利用することでコストを切り下げ、信頼性を高めようと考えた。横河電気の求める高い性能レベルを達成するために、NチャンネルMOSと呼ばれる高速で動作するタイプの半導体の採用が決まっていたことも、浜田にとっては好都合だった。
新しいシステム100のCPUには、μCOM―16と名付けられたこのマイクロコンピューターを使おうと考えた。さらに浜田は、この機会をとらえてシステム100の集積回路化を徹底的に推し進めようとした。
コンピューターにはCPUに加えて、周辺装置を制御するためのさまざまな回路が組み込まれている。CPUだけをLSI化しても、ほかが従来どおりではメリットも中途半端なものにとどまってしまう。そこで半導体セクションに強く働きかけ、制御回路もNチャンネルMOSの技術を使ってLSIにまとめてもらうことにした。
たくさんの部品を組み合わせて作っていた回路を半導体が骨を折ってLSIにまとめてくれれば、その後の組み立ての工程は大幅に楽になる。それまで五枚必要だったプリント基板を一枚ですませ、コンピューター本体を収めるキャビネット大の筐体をなくして卓上型に仕上げることができた。
加えて新しいシステム100で、浜田たちはディスプレイの採用に踏み切った。従来のオフィスコンピューターが、キーボードの奥に置いたプリンターからの打ち出しによってすべての表示を行っていたのに対し、ブラウン管式のディスプレイの採用によってシステム100のイメージは一新された。
μCOM―16を中心に、全システムをLSI化したシステム100EとFは、一九七六(昭和五十一)年四月に発表された。さらにこの年の八月には、同じくLSI化された最上位機種、システム100Jが続いた。
当時マイクロコンピュータ販売部でμCOM―16を担当していたのは、TK―80プロジェクトに取り組んでいた後藤富雄だった。後藤は当時の最先端チップだったμCOM―16をカシオ計算機のオフィスコンピューター部門に売り込んだほか、電電公社用の端末を担当する日本電気のセクションにも採用を働きかけていた。
システム100のプロジェクトを一貫して統括してきた小林亮は、オフィスコンピューターへの全面的なLSIの採用を通じて、集積回路化がコンピューター事業にとってどれほど大きな意味を持っているかを痛感させられた。
初代のシステム100が発表された直後の一九七三(昭和四十八)年九月、肩書きの代理の文字がとれて、小林はコンピュータ技術本部第二開発部長となっていた。第二開発部の守備範囲には、オフィスコンピューターに加えて、汎用機のACOSシリーズのうち比較的規模の小さなものと、中型機までが含まれていた。大型と超大型を除き、それ以下の全マシンの開発責任を負う立場についた小林の常識を、システム100のLSI化は見事に打ち砕いた。
いったん開発を終えてしまえば、集積回路の量産は容易である。生産ラインが整備されれば、それこそ煎餅でも焼くようにつぎつぎと作り続けることができる。ただし一つの集積回路を設計し、開発し終わるまでには、大きな作業時間を投入しなければならない。それゆえかなりの数を使うものでなければ集積回路化には向かないと、小林自身も常識どおりそう考えてきた。たかだか年間で二〇〇〇台、三〇〇〇台しか出ないシステム100を全面的にLSI化することには、その点でためらいもあった。ただし細かく見積もっていくと、それでも二割程度生産コストを下げられるめどが立ったことで、半導体セクションにも無理を言い、思い切ってLSI化に踏み切った。だが実際に生産の歯車が回りはじめると、LSI化の効果は目の届かなかったさまざまな領域に及びはじめた。
たくさんの部品を集積回路にまとめてしまうのだから当然部品点数が少なくなり、プリント基板の数も減り、組み立て作業が省力化されることは承知のうえだった。電気製品の故障の多くは部品をつなぐはんだ付けの不良によって生じるため、部品の数が減って接点が少なくなれば、信頼性が高まることも予想がついていた。LSI化は省電力化にも効果があるため、電源を小さくできる点もメリットの一つとして数えていた。
だがそうしたさまざまなメリットが重なり合って、製造工程がどう変わっていくかには、事前に読みきれない要素がたくさん残されていた。小林自身、もっとも驚いたのは検査工程の作業量の大幅な減少だった。LSI化以降、システム100の販売にはいっそう拍車がかかって、従来の倍の台数がはけはじめた。ところがLSI化が効いて組み立て済みの製品にほとんど不良箇所がなくなってしまった結果、検査要員は逆に半分ですんだ。半分の要員で倍の仕事がこなせる。つまりLSI化は、検査に要する作業量を四分の一に削減していた。
製造コストを二割削減できるという当初の予測に対し、読みきれなかった要素も加わった好循環によって、システム100のコストはおよそ半分にまで切り下げられた。
小林はこの成果を前にして、より規模が大きくてより生産台数の少ないACOSシリーズでも、徹底的にLSI化を進める腹を固めた。
LSI化されたシステム100は、日本電気のコンピューター事業全体にとっても歴史的な転換のシンボルとして記憶されることになった。
浜田の日本電気入社に四年を先だつ一九五五(昭和三十)年、渡部和の直訴をきっかけに、日本電気はコンピューターの開発に本格的に着手した。だが研究費だけを吸い込む初期の地固めの段階を過ぎても、コンピューター部門は一貫して収益を生み出せなかった。自由化に向けた業界再編以降も、グループを組んだ東芝と提携先のハネウェルとの意見調整に手間取った日本電気は、累積赤字を積み増していった。
一九七六(昭和五十一)年六月、社長の座にあった小林宏治が会長に就任し、副社長を務めていた財務経理畑の田中忠雄にその座を譲るにあたっては、一部に「コンピューター事業の不振の責任をとった」との観測が流れた。
浜田の入社時の上司であり、その後も日本電気のコンピューター事業の方向付けに大きな役割を演じてきた石井善昭は、一九七七(昭和五十二)年九月、この部門の戦略策定をになう情報処理企画室の企画室長に就任した。
その直後、コンピューター部門の慢性的な赤字体質に業を煮やしていた本社スタッフの一人が、石井の部下に「君たち情報処理部門の人間は廊下の真ん中を歩くな」と言い放った。報告を受けた石井は、府中事業場に集められている情報処理の技術スタッフのうち主任以上の全員に召集をかけ、組合の三役にも出席を求めてこの一件を告げた。
「日本電気の情処のスタッフが優秀であり、一人ひとり努力してくれていることを私は承知している。そうした人間がこうした暴言を浴びることは社会正義に反すると思う」
そう切り出した石井は、情報処理部門の開発、生産拠点となっている府中の人員を削減してコストを切り下げる計画を示して協力を求めた。
「やれるだけのことをすべてやり、実績を突き付けて本社の連中の頭を切り替えさせてやろうじゃないか。みんなには大きな苦労をかけることになるが、ぜひとも頑張ってほしい。組合にもどうか理解してもらいたい」
石井はそう結んだ。
以来、一九七七(昭和五十二)年から一九七九年までの三年間で、府中事業場に籍を置く情報処理の技術生産部隊の三分の一近い七〇〇名が指名を受け、五〇〇名が営業とシステム部門に、残りの二〇〇人がマシンの保守や運用の部門にまわされた。コンピューター製造部門の大幅な人員削減が進められる中、一九七八年二月には、大型汎用機の開発で日本電気のパートナーとなってきた東芝が、この分野からの撤退表明に追い込まれた。
全面LSI化によって生まれ変わったシステム100が、オフィスコンピューター部門単独ながら利益を生み出しはじめたのは、日本電気のコンピューター事業が瀬戸際まで追い詰められたこの時期だった。
情報処理小型システム事業部長としてオフィスコンピューター部門を率いていた渡部和は、黒字への転換のめどを見とどけてからかつてコンピューター開発を直訴した小林宏治の会長室に資料をたずさえて報告におもむいた。LSI化以降のシステム100の実績と、今後の予測を書き込んだグラフを示し、「このぶんで行けば黒字が出せる」と勢い込んで告げると、小林は一言「累積赤字は?」と切り返した。
システム100E/Fの発表を終え、Jの開発にめどを付けた一九七六(昭和五十一)年六月、浜田俊三は情報処理システム支援本部に移って、ハネウェルから技術を導入する大型機用ソフトウエアの開発を担当することになる。
そして一九七八(昭和五十三)年十月、浜田は石井が率いる情報処理企画室の計画部長に転じ、コンピューター事業全体の戦略策定にあたる役割についた。
この時期、コンピュータ事業についに突破口を開いた秘蔵っ子を、日本電気はアメリカ市場にも問おうと考えていた。
完成品のパーソナルコンピューターがアメリカで続々と誕生しはじめたのは、その矢先だった。
英語版アストラで
米国小型機市場を目指せ
一九七七(昭和五十二)年四月、後藤富雄がウェスト・コースト・コンピューター・フェアー(WCCF)の会場でパーソナルコンピューターの台頭の熱にあおられていたころ、日本電気はアメリカで全額出資の子会社、NECインフォメーションシステムズ(NECIS)をスタートさせた。
既存のNECアメリカとは別に設立されたNECISは、まずプリンターを米国市場に問うとともに、小規模ビジネス用のマーケットをオフィスコンピューターで掘り起こす可能性の検討に着手した。
これに先だつ一九七五(昭和五十)年六月、端末装置事業部は国内市場に向けて、大幅なLSI化によって小型化を達成した電子プリンターのシリーズを発表していた。
当時アメリカのキューム社は、菊の花弁の先に活字を付けたような印字機構を持つ製品で市場を押さえていた。この特許を逃れるために菊の花弁をバドミントンの羽根の形に変えて開発した新シリーズの中位機は、特に好評を博した。
一九七八(昭和五十三)年四月、印字機構の形からバドミントンプリンターと名付けられていたこの製品の新機種が発表された。LSI化を推し進めてこれまで以上の小型化を図るとともに、8080を組み込んで細かなグラフィックスの打ち出しや双方向の印字などさまざまな新しい機能を備えた新機種の発表にあたり、日本電気はこれをスピンライターの名称でアメリカでも販売する方針を明らかにした。発表時点ですでに、四〇〇台以上の新型プリンターがNECISを通じて米国市場にサンプル出荷されていた。プリンターとはいうものの、スピンライターにはキーボード付きのタイプも用意されていた。ワードプロセッサーとして、また純然たるプリンターとしても、スピンライターはキュームの製品を追い上げる実績を残していった。
もう一方でNECISは、オフィスコンピューターをアメリカ市場で成功させるために何をなすべきかの検討を行った。業務を依託したコンサルタント会社は、ダグラス・エンゲルバートやアラン・ケイらの研究の成果を踏まえて、使い勝手を決めるユーザーインターフェイスに新しいアイディアを盛り込むべきだとの結論をまとめてきた。
業務をこなすためのソフトウエアはこれまで、オフィスコンピューターでは専門的なプログラミング言語の知識を持った人間が、実際に作業にあたるスタッフから仕事の中身の説明を受けて書いてきた。
だがことアメリカ市場に製品を問うとすれば、むしろメーカー側はユーザーが自分で処理の手順を選んでいけるような環境こそを準備し、個別の対応は彼らに任せるべきだというのが、コンサルタント会社のまとめた結論だった。
ただしプログラミングに関する知識のないユーザーに手順を組み立ててもらおうとすれば、それなりの準備がメーカー側によってなされていなければならない。その準備のポイントをコンサルタント会社は、対話を意味する「インタラクティブ」と指導を意味する「チュートリアル」という二つのキーワードで表わした。
オフィスコンピューター事業を統括する立場にあった渡部和は、指摘された対話と指導の機能を盛り込んだ環境は、アメリカ市場切り込みの鍵となるだけでなく、早晩日本でも重要なメリットとして受け入れられるだろうと考えた。
こうして渡部和を中心に、ITOS( Interactive Tutorial Operating System )と名付けられたシステム100用の新しい基本ソフトウエアの開発が始まった。石井善昭の指揮のもと、情報処理事業グループの開発体制のスリム化が進められる中で、ITOSの要員にも容赦なく人員削減の波は及んでいた。だが開発チームは、一九七八(昭和五十三)年九月に発表したシステム150用の基本ソフトウエアとして、ITOSのリリースにこぎ着けた。そして続く十月には、これまたITOSを搭載したシステム100の三つのモデルが発表された。
新シリーズの発表にあたって日本電気は、「業務についての知識さえあれば、ややこしいコンピューターの専門知識がなくても誰でも自由に使いこなせることが、コンピューター、とりわけオフィスコンピューターの理想である」と訴えかけた。こうした理想に近づくために、ITOSには、ディスプレイに表示されるコンピューターからの問いかけに「はい」か「いいえ」で答え、処理の内容や手順を一覧表にしたメニューから選んでいくだけで、プログラムを作ったり処理を行ったりできる環境が盛り込まれていた。
新シリーズのもう一つの特長が、通信機能の強化だった。DINAと名付けられたネットワーク技術によって、新しいシステム100では日本電気の大型コンピューターとの接続が容易になった。さらにシリーズには、複数の端末を抱えて同時並行で処理を進めていけるマルチタスクの可能なタイプも用意された。
こうした新しい環境を載せるハードウエアは、μCOM―16の後継機として開発されたμCOM1600を中心に、集積度をより高めたLSIによって構成されていた。
イメージを一新した日本電気のオフィスコンピューターの出荷は、一九七九(昭和五十四)年の初頭から開始された。さらにこの年の三月から、NECISはITOSを搭載した新機種をアストラと名付け、アメリカ市場での販売を開始した。
ITOSの目指した方向は、コンピューターのパワーをより幅広い人たちに活用してもらおうと考えれば、当然の帰結だった。
だがこうした日本電気の試みの前には、大きな障害が二つ待ち構えていた。
新しい機能を大幅に盛り込んだITOSは、従来のシステム100用の基本ソフトに比べ一〇倍ほどの規模に膨れ上がっていた。その大規模なソフトウエアに、プログラム上の欠陥であるバグや、処理速度の足を引っ張る問題点が数多く残されていた。三月中旬、早くも一〇〇〇台を超える出荷達成にオフィスコンピューターの部隊が成功の手応えを感じはじめたころから、導入先からのクレームが聞こえはじめた。
「作業中に、突然システムが動かなくなった」
「たくさんの端末を同時に使うと、極端に処理が遅くなってしまう」
こうした苦情が、枯れ草の野に火を放ったように、いっせいに全国から殺到した。
従来使ってきたソフトウエアが新しいハードウエアでは利用できなかったことから、これまでのものに戻して急場をしのげなかったことは、事態の深刻さにいっそうの拍車をかけた。
情報処理企画室長の石井善昭が先頭に立って、日本電気は火を噴いた非常事態への緊急対応体制を敷いた。日本電気にとって、事は一小型コンピューター部門のトラブルにとどまらなかった。システム100は、困難続きの同社のコンピューター事業の歴史の中で、初めて輝きだした希望の星だった。
だがアメリカ市場に待ち構えていたのは、本質的にはITOSの巻き起こした混乱よりもさらに強固で丈高い壁だった。
自分のためのコンピューターを作り、まず動かしてみることそのものを目的としたパーソナルコンピューターは、小規模ビジネス用の市場をアストラで切り開こうと狙っていた浜田たちの視野の外にあった。
ところがそのパーソナルコンピューターが、アメリカでは仕事の道具として使われようとしていた。実務に役に立つ道具として受け入れられはじめたパーソナルコンピューターの勢いは、じつに目覚ましかった。アストラの前に立ちふさがる壁は、日一日と高さを増していった。
もしもこのパーソナルコンピューターが、日本でも仕事の道具として使われることになればどうなるのか。
最悪のシナリオを描けば、パーソナルコンピューターはアストラのアメリカ進出の出鼻をくじくだけでなく、日本でシステム100の足下をも脅かす恐れがあった。
ITOSが火をつけたオフィスコンピューター事業の危機を乗り切るために石井善昭が陣頭指揮を取る一方で、情報処理企画室計画部長、浜田俊三は、アストラでアメリカ市場に橋頭堡を築こうと奮闘していた。
情報処理企画室は、日本電気のコンピューター事業全体の戦略作りをになっていたが、最下位のオフィスコンピューター部門だけは、小型システム装置事業部が製品計画から営業支援までを取り仕切っていた。
だがNECISによるアメリカ市場への切り込みに携わったことから、浜田は引き続いてアストラにかかわることになった。NECISの製品計画、現地の販売チャネルの構築、日本からの営業支援を担当していた浜田は、繰り返しアメリカを訪れ、アストラの前にパーソナルコンピューターが立ちふさがろうとしている事実を肌で感じとっていた。
パーソナルコンピューターは、仕事の道具に生まれ変わりつつあった。
きっかけを作ったのは、ビジネススクールの学生だったダニエル・ブリックリンがアップル
を使って書いた、ビジカルクと名付けられたプログラムだった。「アメリカのパソコンは
仕事の道具になっている!」
一九五一年に印刷会社の経営者を父として生まれたダニエル・ブリックリンは、コンピューターとビジネスの世界にともに強い関心を持つ野心家に育っていった。
高校時代からコンピューターに魂を奪われた彼は、一九七〇年にマサチューセッツ工科大学(MIT)に入った。コンピューター科学を専攻し、卒業後いったんはDECのソフトウエア技術者となった。だがビジネスへの関心は抑えがたく、一九七七年、アップル
やPET、TRS―80など組み立て済みのパーソナルコンピューターがつぎつぎ製品化された年に、ハーバード・ビジネス・スクールに入りなおした。ところがここで出会った教授たちの時代錯誤としか思えない振る舞いが、彼を再びコンピューターの世界へ引き戻した。授業では、金利をはじめとするさまざまなコストの変動が企業の収益にどう影響するかのケーススタディーが行われたが、教授たちは財務データの一部を変化させてその結果がどう出るかを割り出そうとするたびに、御苦労にも黒板の前で手計算を繰り返していた。
単純な繰り返し作業は、コンピューターに任せるという健全な常識をすでに身につけていたブリックリンにとって、時代の歯車を巻き戻してこうした悪習に染まることは耐えられなかった。
彼は大学にあったDECのPDP―10で簡単な自動計算ツールを書き、自分自身を手計算の泥沼に追いやることは賢明にも回避した。と同時にブリックリンは、こうした計算の道具を提供すれば、企業の経理担当者や管理職、財務アナリストなどに需要が見込めるのではないかと考えた。
ただしこの種のソフトウエアを書いたとしても、もっとも安いコンピューターがミニコンピューターにとどまっているうちは、まとまった販売量などとても期待できなかったろう。そもそもそうしたまっとうなコンピューターのためのソフトウエアのビジネスは、一介のビジネススクールの学生には敷居が高かった。
だがブリックリンが自動計算ツールの着想を得たころには、アメリカではすでにアップル
をはじめとする桁外れに安い新種のコンピューターが普及しはじめていた。ブリックリンはホビイ市場向けにパーソナルソフトウエアという会社を起こしていた友人のダニエル・フィルストラにこのアイディアを持ち込んで励ましを得ると同時に、彼から開発用にアップル
を一台借り受けた。ブリックリンはこのマシンで、集計表形式の自動計算ツールのプロトタイプを書いた。これが友人たちに好評を博したことから、MITの先輩だったボブ・フランクストンの協力をあおいで本格的にプログラムを組み立てなおし、機能と計算速度に磨きをかけた。そしてフランクストンとともにブリックリンはソフトウエアアーツ社を起こし、パーソナルソフトウエアを販売の窓口として、ビジカルクと名付けたソフトウエアを世に問うた。
見える計算機( VISIble CALCulator )を略してビジカルクと名付けられたこの製品は、一九七九年の五月に開かれた第三回WCCFに出展されて話題を集めた。
画面上に表示された表の縦横の空欄にキーボードから数字を入れていくと、あらかじめ指示しておいた計算の手順に従って、ビジカルクは自動的に処理を行った。たくさんのデータでますを埋めていったあと、一か所数字の入れ間違いに気付いたときには、その部分だけデータを修正すればプログラムは自動的に全体の計算をやりなおしてくれた。ビジカルクを使えば、たとえば税率を現行の三パーセントから五パーセントに上げるとどうなるか、七パーセントまで上げるとどうかなど、さまざまなシミュレーションを簡単に行うことができた。紙と鉛筆と電卓を使う人なら誰でも、ビジカルクによる計算の自動化のメリットを享受できた。
この年の十月に正式に発売となるや、ビジカルクは爆発的なヒット商品となった。趣味としてのコンピューターいじりにはなんの興味も抱かなかった新しい一群のユーザーが、表計算ソフトを仕事の道具として使うためにパーソナルコンピューターに目を向けはじめた。
当初ビジカルクはアップル
でしか動かなかったことから、このソフトウエアを使うためにアップル
を購入する人が現われた。一九八〇年九月、アップルコンピュータは総売上台数の約五分の一にあたるアップル
が、ビジカルクを走らせる必要条件として購入されたとの推定を行った。その後ビジカルクには、表計算ではじき出したデータをグラフ化するためのビジプロットや、データを整理して保存するためのビジファイル、電話回線を通じてデータをやり取りするためのビジタームなどの関連商品が生まれていった。表計算ソフトとともに普及していったワードプロセッサーも、パーソナルコンピューターに仕事の道具としての顔を与えるうえで、決定的な役割を演じることになった。
この分野でその後生まれるさまざまなヒット商品の先駆けとなったのは、一九七九年の半ばに登場したワードスターだった。
開発元のマイクロプロ社を設立したシーモア・ルービンスタインは、アルテアを追って生まれたIMSAIの会社を経て、今度はでき上がったマシンで走らせるソフトウエアの会社を起こそうと考えた。
一九三四年にニューヨークのブルックリンで生まれたルービンスタインは、七歳で父をなくし、一二歳のときにトラックで果物を運ぶ仕事を手伝って以来、働きながら学校に通い続けた。最初に入ったシティ・カレッジ・オブ・ニューヨークの工学部では、授業についていけずに退学を強いられた。その後入りなおしたブルックリンカレッジでは、昼間働きながら心理学を専攻した。ここで卒業を間近に控えながら必修のドイツ語の単位を落とし、どうせ卒業が延びるのならと取ったコンピューターの授業が、その後の彼の歩みに大きな影響を与えることになった。
大学卒業後、軍需用の電子機器メーカーに入ってプログラミングとハードウエアの知識を養ったルービンスタインは、知人のビル・ミラードに誘われて彼のソフトウエア会社に転職した。この会社は間もなく潰れてしまい、ルービンスタインはシステム開発のコンサルタント業を始め、一時スイスで銀行オンラインシステムの開発に携わっていた。
一九七七年の初頭、アメリカに戻ったルービンスタインは、コンピューターキットを売っている店でIMSAIを買い求めた。これを作っている同名の会社を起こしたのが、かつて彼を誘ったミラードだった。ルービンスタインはミラードに連絡をとり、IMSAIのマーケティング部長として働くことになった。
ここで彼は、ベーシックとは性格の異なるオペレーティングシステム(OS)と呼ばれる基本ソフトをIMSAIに載せるために、コンサルティングを依頼していたグレン・ユーイングを通じて開発元に連絡をとった。
交渉の相手となったのは、ルービンスタインより一〇歳ほど若い、ゲアリー・キルドールだった。
アップル
やPET、TRS―80などの完成品は、電源を入れると同時に自動的にベーシックが起動されて命令を受け付ける状態となり、キーボードを叩くと画面上に文字を表示できるように作られていた。こうしたマシンで、ベーシックの翻訳プログラムを自動的に立ち上げたり、どのキーが押されたかを判定して画面にその文字を表示するといった基本的な動作は、モニターと総称される小規模な基本ソフトがになっていた。だがユーザーは、こうした基本ソフトの存在をほとんど意識しなかった。
ところが当初は高嶺の花だったフロッピーディスクをパーソナルコンピューターでも使おうとしはじめたころから、ユーザーは基本ソフトを意識しはじめた。
フロッピーディスクを使いこなすための機能は、ベーシックに持たせてしまうという選択もあった。アルテアにドライブを付けることになったとき、ビル・ゲイツは、装置の制御機能を付け加えたディスクベーシックという拡張版を書いた。ただしこうした基本的な機能をベーシックという特定の言語に持たせてしまえば、パーソナルコンピューターはどこまで行ってもベーシックマシンとして使わざるをえなくなった。
一方大型コンピューターでは、入出力に関する基本的な機能は、OSに集中して持たせる方向に技術が進歩していた。すべての言語やアプリケーションは、このOSの上で働く構造になっていた。
アルテア以来、わずかなメモリーにようやくベーシックを押し込んで使ってきたパーソナルコンピューターには、まずOSを載せてその上で言語の翻訳プログラムを使うといった大型の常識に付き合っている余裕はなかった。だがしだいにたくさんのメモリーがマシンに組み込まれるようになり、いざフロッピーディスクを使おうといったところまで来ると、パーソナルコンピューターでもOSの利用が現実味を帯びてきた。
確かにパーソナルコンピューターの言語としては、ベーシックが他を圧倒していた。だがOSを採用したとしても、その上で動くベーシックを用意しておけば、ユーザーは引き続いてこの言語を利用することができる。さらにベーシック以外の言語もOSに対応させておけば、ユーザーはこれも使えるようになる。パーソナルコンピューターを永久にベーシックマシンとして使い続けると決意するのならともかく、いろいろな言語を用い、さまざまな周辺機器を利用して幅広く活用することを考えれば、OSの採用はごく自然な進化の道だった。
一九四二年にシアトルに生まれたゲアリー・キルドールは、高校を終えた一九六〇年から二年間、祖父の設立したキルドール航海学校で父の後を継ぐべく、講師として働きはじめた。その後、非常勤で講師を続けながらワシントン大学でコンピューター科学を学んだキルドールは、徴兵を前に海軍に志願する道を選んだ。この選択によって彼は、ベトナムに送られる代わりシリコンバレー近くの海軍大学大学院でコンピューターを教えながら研究を続ける道を確保した。海軍在籍中にまとめた論文でワシントン大学から博士号を得た直後の一九七二年、キルドールは兵学校の掲示板で、インテルの4004の「チップ上のコンピューター――二五ドル」という広告を見た。
たった二五ドルの部品化されたコンピューターに、キルドールは興味を引き付けられた。
これを使って作ってみたいシステムのアイディアも、すぐに湧いてきた。
航海時に必要な計算を行うシステムが、4004を使えばごく安く作れると閃いた。
インテルから送ってもらったマニュアルをもとに、キルドールは航法プログラムをはじめ、4004用にいくつかプログラムを書いてみた。近くにあったインテルのオフィスにも、キルドールは顔を出すようになった。キルドールの発想と能力に興味を持ったインテルは、彼の書いた数式処理のプログラムと交換に、4004のソフトウエア開発キットのプロトタイプを提供した。4004で動かすプログラムの開発用に、インテルは最低限の周辺回路を組み合わせ、テレタイプから入出力できるようにした簡易システムを準備していた。
一九七二年四月、インテルは4004に続いて8008を発表した。インテルのコンサルタントになっていたキルドールは4004で自分自身苦労した体験を踏まえ、8008以降はソフトウエアを書きやすくするための開発環境をインテルが自ら準備しておくべきだと主張した。ソフトウエアが書きやすくなれば、マイクロコンピューターの売れ行きが伸びるという読みには、インテルも同意した。
キルドールが具体的に提案した環境整備のテーマは二つあった。第一は、タイムシェアリングされているミニコンピューター上で、8008の動作をシミュレートするプログラムの開発だった。こうしたソフトウエアが用意できれば、入出力用の周辺機器のそろったミニコンピューターを使って8008のプログラムを書くことができた。
提案の第二は、高級言語を8008用に開発しておくことだった。インテルは機械語に近いアセンブリー言語は提供していたが、より使いやすいものを用意してやれば、プログラミングをかなりやりやすくすることが期待できた。キルドールは、大型で使われてきた言語のPL/1の規模を縮小したものをあらたに書きなおし、これをPL/M( Programming Language for Microcomputer )と呼んだ。
続いて発表された8080用にも、キルドールはインタープと名付けたシミュレーションプログラムとPL/Mを書いた。この二つを組み合わせれば8080用のプログラムはかなり書きやすくなったが、この開発環境を利用するためにはミニコンピューターが必要だった。インテルはこれまでの製品と同様、8080でも最低限の周辺回路を組み合わせた開発システムを作っていた。紙テープで記録を取るしかないテレタイプが唯一の入出力装置だったこうしたシステムの使い勝手は、ミニコンピューターにははるかに及ばなかった。
だが8080のプログラムを書きやすくするという観点からは、手軽なシステムでもPL/Mを使えるようにすることには意味があった。
IBMがパンチカードの代わりとして開発したフロッピーディスクがマイクロコンピューターを使ったシステムで利用できれば、ミニコンピューターに頼らずに、プログラムが簡単に書けるようになるとキルドールは考えた。
インテルから数マイル離れたところに生まれたシュガートアソシエーツという小さな会社では、当時、フロッピーディスクのドライブの開発を始めていた。話をしてみると、マーケティングマネージャーのデーブ・スコットは、長時間テストしてベアリングが完全に磨耗した試作装置をスペアーのベアリングを付けて提供してくれた。ハードウエアを設計した経験などまるでなかったキルドールは、筺体も接続ケーブルも電源もコントローラーもないドライブを前にして、途方に暮れた。インテルが用意していた、8080を組み込んだ開発システムのインテレクト―8につなごうと試みたが、うまくやりおおせなかった。たとえうまくつなげたとしても、フロッピーディスクにどう情報を書き込むかを決めるコントロール用のソフトウエアもなかったことから、まずこちらから片付けることにした。
インテルから依頼された仕事の合間を縫って、キルドールはドライブのコントロールソフトウエアを書いた。DECのタイム・シェアリング・システム用のTOPS―10というOSを参考にして書いたこのソフトウエアを、彼はCP/M( Control Program for Microcomputer )と名付けた。
ミニコンピューター上のインタープを使ってCP/Mを書き上げて間もない一九七四年の秋、知り合いのジョン・トロードがこの話に興味を持って、ハードウエアを仕上げる作業を手伝ってくれた。配線むき出しの接続回路でドライブをインテレクト―8につなぎ、まずテレタイプからCP/Mを読み込ませると、フロッピーディスクの初期化をすませたCP/Mは、準備完了の指示待ちサインをテレタイプに送り返してきた。
当時急成長を遂げつつあったインテルは、体制作りに手こずり、すべてのソフトウエア開発プロジェクトが遅れ遅れとなっていた。そんな中でキルドールが新しく提案してきたCP/Mに、インテルは興味を示さなかった。一方トロードは、制御回路をきれいに作りなおし、8080を使った本体と組み合わせてフロッピーディスクドライブ付きの本格的なシステムを作り、デジタルシステムズ社(のちにデジタルマイクロシステムズ社に改称)という彼の会社から売り出そうと考えた。
一九七五年、キルドールはこのデジタルシステムズにCP/Mをライセンスするとともに、インテリジェント端末に使おうと考えたオムロン・オブ・アメリカ社、ネットワーク用のモニタープログラムとして使おうとしたローレンスリバモア研究所と供給契約を結んだ。当初はあまり注目を集めることはなかったが、キルドールは仕事の合間を縫って手直しに努めるとともに、CP/Mを使ってプログラムを書くときに必要になるエディターやアセンブラー、デバッガーなどを書きためていった。
IMSAIのコンサルタントをしていたグレン・ユーイングから一九七六年に連絡を受けた段階では、CP/Mはすでに異なった四つのシステムで使われるようになっていた。ユーイングの用件は、IMSAIが「OSはすぐに間に合わせる」としてすでに売りはじめていたドライブ用に、CP/Mを使わせてほしいという依頼だった。悪い話ではなかったが、異なった機種で使えるように四回も手直しを繰り返してきたキルドールは、移植作業に飽き飽きしていた。そこで、個々のハードウエアの特徴に対応しなければならない部分だけをCP/Mの中から抜き出して一まとめにし、BIOS( Basic I/O System )と名付けたこの部分だけいじれば移植が終わるようにしたいと考えた。BIOSの切り離しは自分でやったが、IMSAIのマシンへの対応は彼らに任せた。
交渉にあたったIMSAIのルービンスタインは、「二万五〇〇〇ドルで何本でもCP/Mを使ってよい」とする条件をキルドールが呑んだことに驚かされた。なぜそんなに安売りするのかとたずねると、キルドールは「そうすればもっとたくさんの人がCP/Mを使うようになるから」と答えた。
キルドールのコンサルタント仲間だったジム・ウォーレンはそのころ、ホビイスト向けに創刊されたばかりの『ドクター・ドブズ・ジャーナル(DDJ)』の編集を取り仕切るようになっていた。
たくさんのホビイストたちが、組み立てたシステムに自分自身でベーシックを載せ、自分のためのコンピューターを育てようと意欲を燃やしていることを雑誌への手応えを通じて感じとっていたウォーレンは、CP/Mを一般向けに売り出すようにキルドールに勧めた。マイクロソフトのビル・ゲイツはユーザーによるベーシックの勝手なコピーを強く非難し、誕生したばかりのソフトウエアベンダーの中には一般向けに売ったりすればコピーのし放題でとても商売にはならないと考える者もいた。だが、まともなソフトウエアが充分安い価格で売り出されればユーザーは買うに違いないと確信するウォーレンの言葉に、キルドールは説得力を感じた。デジタルリサーチ社を起こし、マニュアル込みのセット価格七〇ドルで売ることを決めると、一九七六年四月号の『DDJ』にウォーレンがまとまった紹介記事★を書いてくれた。
★「フロッピーディスク・オペレーティング・システムに関する初報告/DECSYSTEM―10に類似したコマンド言語と機能」
CP/Mには注文がすぐに集まりはじめ、草の根からの人気が高まっていった★。
★こうしたCP/Mの発展の経緯に関しては、ゲアリー・キルドール自身が一九八〇年一月号の『DDJ』に書いた「CP/Mの歴史」に詳しい。
事態は、キルドールの望みどおりに推移した。
一九七七年にパーソナルコンピューターの製品化が一挙に進み、やがてフロッピーディスクドライブが広く使われるようになると、CP/Mは8ビットの標準OSとして認められるようになった。
IMSAIをはじめとするライバル機に追われはじめると、アルテアでブームに火をつけたMITSのエド・ロバーツは、すぐに会社に見切りをつけた。いずれ大手がこの分野に参入してくると読んでいたロバーツは、電卓市場の二の舞を避けようと考えた。一九七七年五月、MITSはミニコンピューター用のハードディスクなどを作っていた、パーテック社に買収された。
IMSAIの時代もまた終わりつつあると考えたルービンスタインは、一九七八年に同社を去ってソフトウエアの会社、マイクロプロを設立した。ルービンスタインがまずやったのは、自分の二週間前にIMSAIをやめていた同社の元ソフトウエア開発部長、ロブ・バーナビーを雇うことだった。バーナビーはすぐにCP/Mの上で使う、二本のアプリケーションを書いた。一つは集めたデータをルールに従って並べ替えるためのスーパーソート。そしてもう一つは文字の入力や修正、変更を行うためのワードマスターだった。
ルービンスタインには、ソフトウエアはやがて独り立ちした商品となるという確信があった。
そうなったときに最大の利益を上げるためには、キルドールやゲイツのようにハードウエアのメーカーと供給契約を結ぶべきではなく、また通信販売に頼るべきでもない。流通業者のルートに乗せ、少しずつ生まれはじめた小売店で売るべきだと考えていたルービンスタインは、二つの製品の販売を通じて関係を持ったディーラーを繰り返し訪ね、市場がどんなソフトウエアを求めているのかをつかもうと試みた。
多くのディーラーが声をそろえて求めたのが、ワードマスターをさらに進歩させ、文書作成に使えるワードプロセッサーを作ることだった。文書編集用のテキストエディターとして開発されたワードマスターは、印刷の機能が弱く、細かな体裁の指定ができなかった。こうした機能を強化して、いったんキーボードから入れた文章を後から編集、修正し、これをきれいに打ち出すことのできるワードプロセッサーに需要があることは、すでに明らかになっていた。
ニューヨークでコマーシャル写真のカメラマンをしていたマイケル・シュレイヤーは、広告業界の猛烈主義と欺瞞に嫌気がさして、一九七〇年代の半ばにこの世界から足を洗った。
カリフォルニアに移り住んだ彼は、マイクロコンピューターを使ったシステムに興味を持ち、ホビイストのグループに加わるようになった。この集まりでシュレイヤーは、プログラムを書く際に入力や訂正作業に使えるユーティリティーを集めたものをもらった。プログラムは自分で書くのが当然の当時のホビイストにとって、このソフトウエアは便利な小道具だったが、シュレイヤーは自分ならもっとましなものが書けると考えた。
実際にシュレイヤーが書いてみたユーティリティーはホビイストの人気を集め、彼はソフトウエアの会社を起こしてそのプログラムを売った。ところが異なった機械を持ったたくさんのホビイストからの注文が寄せられたため、彼はそれぞれの機械に合わせてプログラムを手直しするとともに、マニュアルもいちいち書き直す羽目になった。
タイプライターを使ってマニュアルを打ちなおす作業に飽き飽きしたシュレイヤーは、文書が作成できて手直しがきき、プリンターから打ち出せるようにするためのプログラムを書こうと考えた。
一九七六年の十二月、シュレイヤーはアルテア用にワードプロセッサーのプログラムを書き上げ、これをエレクトリックペンシルと名付けた。厄介な仕事を手短にすませるために書いたエレクトリックペンシルだったが、このソフトウエアがシュレイヤーにもっとたくさんの仕事を運んできた。ホビイストの集会でシュレイヤーが自分の書いたワードプロセッサーを誇らしげに紹介すると、エレクトリックペンシルは大評判を呼んだ。彼のもとには、再び異なった機種のユーザーからの注文が寄せられた。おまけに今度は、つながっているプリンターに合わせる必要もあったために、シュレイヤーは手直しに追いまくられた。事業家としてのし上がっていくことに興味を持てなかったシュレイヤーは、作業を代わりにやってくれるプログラマーを見つけてきて、自分はこの大騒ぎからさっぱりと身を引いた。
エレクトリックペンシルの成功を睨みつつ、ディーラーからワードプロセッサーこそが求められていると繰り返し聞かされたルービンスタインは、バーナビーに指示してワードマスターの機能を強化させ、三つ目のこの製品をワードスターと名付けた。
CP/M上で使うことを前提として書かれたワードスターに関しては、マイクロプロはシュレイヤーの悩まされた機種ごとの手直し作業に追われることはなかった。
コンピューターの基本的な動作を一括して管理するOSに対応したプログラムは、OS側が用意している作業のメニューを利用して動くように設計することができた。
シュレイヤーが手直しの作業に忙殺されたように、それぞれのハードウエアはそれぞれの特徴を持っていた。ところが異なった機械であってもCP/MならCP/Mを載せると、アプリケーションの対応すべきルールはそろってしまうことになった。OSのメニューにないことを独自に工夫してやらせるようなことをしなければ、CP/M用のソフトはCP/Mを載せたどのマシンでも使えるように書くことができた。
一九七九年の半ばに売り出されたワードスターは、ビジカルクとともにパーソナルコンピューターに仕事の道具としての新しい顔を与え、この分野のソフトウエアがビジネスとして成立することを実証してあまたのライバルの誕生を促す呼び水となった★。
★パーソナルコンピューターのソフトウエア産業が勃興してくる過程は、『パソコン革命の英雄たち』(ポール・フライバーガー/マイケル・スワイン著、大田一雄訳、マグロウヒルブック、一九八五年)に詳しい。また業界の一癖も二癖もありそうな人物を六五人網羅して列伝風に並べた『コンピュータウォリアーズ』(ロバート・レヴェリング/マイケル・カッツ/ミルトン・モスコウィッツ著、根岸修子/鶴岡雄二訳、アスキー、一九八六年)も、当時の時代の空気と人の肌合いを生き生きと伝えている。
筆者にとって同書はまた、鶴岡雄二による訳者後書きの一節でも強く印象に残っている。
「60年代の社会改革運動とパーソナルコンピュータ革命とを関連させる仮説というのは、一部の人たちのあいだでは語られていたことであり、私事にわたるが、訳者自身もかつて雑誌編集者であったときに連載記事として企画したが、サンプル不足で果たせなかった。そんなこともあって、こうして実例を眼前にして、やはりそうだったかと我が意を得た思いがした」
似通った発想から『パソコン創世記』(旺文社、一九八五年)を書きはしたものの、果てのない闇に向かってボールを投げ込んだような手応えのなさにすっかり腐っていた筆者は、この一節を読んでそれこそ〈我が意を得た思いがした〉。
筆者にとって同書はまた、鶴岡雄二による訳者後書きの一節でも強く印象に残っている。
「60年代の社会改革運動とパーソナルコンピュータ革命とを関連させる仮説というのは、一部の人たちのあいだでは語られていたことであり、私事にわたるが、訳者自身もかつて雑誌編集者であったときに連載記事として企画したが、サンプル不足で果たせなかった。そんなこともあって、こうして実例を眼前にして、やはりそうだったかと我が意を得た思いがした」
似通った発想から『パソコン創世記』(旺文社、一九八五年)を書きはしたものの、果てのない闇に向かってボールを投げ込んだような手応えのなさにすっかり腐っていた筆者は、この一節を読んでそれこそ〈我が意を得た思いがした〉。
浜田俊三がアストラでアメリカ市場に食い込もうと動きはじめた一九七九年は、ビジカルクとワードスターが登場し、パーソナルコンピューターが仕事の道具として急速に認知されることになるまさにその年だった。
乗り込もうとしたその先には、新種の強敵が育ちつつあった。
マイクロコンピューターを利用した小規模なシステムが目覚ましく伸びることだけは、疑いようがなかった。ただその新しい動きの主役がオフィスコンピューターなのか、それともパーソナルコンピューターであるのかは、いまだ明らかになってはいなかった。
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第二部 第二章 奔馬パソコンを誰に委ねるのか
一九八一 IBM PCの栄光と矛盾
「パーソナルコンピューターも一六ビットになると、かなりビジネスに使われるようになると思われます。我々情報処理事業グループとしても、今後はこの分野を考えていきたいと思っているのですがいかがでしょうか」
情報処理担当役員の石井善昭がそう問いかけた相手が、大内淳義であることは出席者の誰にも明らかだった。
〈三つか〉
大内は石井の言葉をとらえた瞬間、内心でそうつぶやいた。
〈そしてもっと難しくなる〉
口には出さぬままそう続けてから、大内は机に落としていた視線を上げて石井を見返した。
「情処では、はっきりと事務用と分かるものを考えていったらどうだろう」
大内のこの発言で、会議の大勢は決した。
今後日本電気グループは、三つの柱を据えてパーソナルコンピューターの事業に取り組んでいく。一つは子会社の新日本電気がになう、家庭用の八ビットの低価格機種。二つ目は、コンピューターの専門部隊である情報処理事業グループがあらたに取り組む、一六ビットの事務用機。そして三つ目に、これまでこの分野を切り開いてきた電子デバイス事業グループが、両者の中間的な機種を従来の製品の延長上にになっていく。
会長の小林宏治にも、社長に就任して間もない関本忠弘にも、会議を呼びかけた副社長の大内がそれでよいというのならあえて付け加えることはなかった。
パーソナルコンピューターは、大内の領分だった。
その大内が一歩退いて身内の電子デバイスを押さえ、新日本電気と情報処理を受け入れるというのなら、それでよかったのだ。
一九八一(昭和五十六)年初頭、今後のパーソナルコンピューター事業を日本電気グループ全体でどう進めていくか、それぞれの事業担当者とトップを集め、大枠の調整を図るために開かれた会議は三つの柱を据える方針を確認して終わった。
〈同士討ちまがいのひどい混乱だけは、一まずこれで避けられるだろう〉
会議室から自室に向かいながら、大内はそう考えた。だが電子デバイスと新日本電気の二つのグループのあいだで起こった摩擦が、ここであらたに情報処理が加わったことで、さらに込み入った形で生じる恐れはぬぐいきれなかった。
とすれば、いつかはパーソナルコンピューターを誰がになうべきか、その問いに正面切って答えざるをえないのかもしれない。
大内は、会議の席で押し黙ったまま唇を噛んでいた、渡辺和也の表情を思い浮かべた。
半導体部門の一セクションが卵からかえしたパーソナルコンピューターには、今、三人が育ての親に名乗りを上げていた。
マイクロコンピューターの販売という本業をこなしながら、孤立無援でここまで育ててきた渡辺の胸に湧き上がっている思いに、大内は想像の手を伸ばした。
〈最後まで育て上げたいだろう〉
副社長室の椅子に深く腰を下ろし、大内は渡辺の思いを両手で包むようにしてなぞってみた。
〈だが組織の壁を越えてどうしてもパーソナルコンピューターを育て続けたいと望むなら、ビジネス用途以外に市場を切り開くという困難な条件を乗り越えて、三者の競争に勝ち残ってもらわざるをえない〉
細い息を長く吐きながら、大内はそう考えた。
パーソナルコンピューターが事務処理の道具たりうるのなら、組織の枠組みに照らせば当然、これをになうべきはコンピューターの専門部隊である情報処理事業グループなのだ。
何が悪かったのでもない。
ただパーソナルコンピューターは、予想を超えて育ちすぎた。
TK―80から疾走しはじめた渡辺たちが、本格的にパーソナルコンピューターを事業化すると意気込んでPC―8001のプランを持ってきたとき、ゴーサインを出すか否か迷いに迷ったことを、大内は思い出した。
あの日の逡巡には、今となって振り返れば、こうなることへの無意識の予感があったのかもしれない。
まったく新しい事業を自らの手で作り上げ、社内ベンチャーを敢行してのし上がっていこうとする渡辺和也の熱。自分のコンピューターを、思いのままに作りたいという後藤富雄たちの夢。そして内から湧き上がる彼らのエネルギーは、硬直しがちな大組織を活性化させる鍵となると読んだ大内淳義の理。
マイクロコンピューターに取りつかれたマニアたちの息吹を追い風として、PC―8001を軌道に乗せようと奮闘してきたこれまで、大内の理と渡辺の熱と後藤の夢の歯車は、隙間なくぴったりと噛み合ってきた。
その幸せな一瞬が、今、過ぎ去ろうとしていた。
組み立てキットTK―80
日電パソコンの源流を開く
TK―80を通して覗いた生まれ立てのパーソナルコンピューターの世界は、大内の目には創世の混沌に支配されているように見えた。コンピューターいじり自体を楽しむマニアが存在することは、間違いのない事実だった。だがこの趣味の世界が果たして今後も成長し続けるものか、当初、大内には確信が持てなかった。
どこまで突き進んでいくのか、確かめたいと思ったのはむしろ、渡辺たちの胸に湧き上がり、たぎりはじめていた熱の行方だった。
マイクロコンピューターの需要を掘り起こすには、まず部品化されたコンピューターに対するイメージを幅広い層のエンジニアにつかんでもらう必要がある。技術者がこの新種の部品を理解してくれれば、ここに使おう、あそこに組み込んでみようというアイディアは彼らの側からおのずと湧いてくる。そのためには、理解を助けるための教材が必要との説明を受けて、マイクロコンピュータ販売部の渡辺和也が提案してきたキット式のTK―80には何の迷いもなくゴーサインを出した。
ところがこのTK―80が、予想もしなかった月一〇〇〇台のペースで売れはじめた。
コンピューターを組み立て、プログラムを書き、自分で動かしてみること自体を楽しむマニアがTK―80をかつぎ、TK―80の誕生がまた新しいマニアを生み出すきっかけとなった。
一九七七(昭和五十二)年七月、大内自身が代表して著者となった『マイコン入門』の原稿は、日本電気の関連事業の担当者が分担して執筆にあたった。このうち、第一章を担当した渡辺和也は、いかにもブームの火つけ役らしく、マニアの世界の成長を大きく見積もった原稿を書いてきた。
「アメリカではマイコンの同好会的なクラブが各地にぞくぞくと誕生し、一九七六年には三百以上のクラブができ、数万人の人たちがマイコンを楽しんでいるという。クラブのメンバーが集まってお互いに自分の作った作品を発表しあったり、情報交換したり、テーマを決めてプログラムコンテストを行なったり、その活動は大変盛んであるらしい。
日本でも、半年か一年遅れてアマチュア活動が活発になってきた。
アマチュア用のマイコン組立キットが市販され始めてから急激に盛んになり、東京秋葉原の電気街に、マイコンの専門サービスセンターやショップが開店して連日大勢の人で賑わっているし、クラブもいくつか誕生した。専門雑誌も出され、関係者の話題になっている。
数年後にはアマチュア無線の人口(現在は約四十万人といわれている)をオーバーするほど、マイコンアマチュアはふえるだろうという人もいる。アマチュア無線とマイコンとの組み合わせで友人のプログラムを無線を通して楽しんだり、モールス符号の自動解読やコールサインの判別、アンテナの調整等への応用も始まっているようだ。
これからのキミたちはマイコンぐらい知っているのが当たり前で、知らないと恥ずかしいぐらいになるかも知れない」(『マイコン入門』廣済堂、一九七七年)
勢い込んだ渡辺たちはさらに、TK―80の延長線上につぎつぎと新しい製品を企画してきた。
一九七七(昭和五十二)年十一月には、TK―80に付け加えて使うTK―80BSの発表を行った。BSとはベーシックステーションの略で、定価は一二万八〇〇〇円。キーボードの付いた機能拡張用のこの製品をTK―80に組み合わせれば、ユーザーは教材としてではなく、自分でさまざまに使いこなしてみるためのシステムとしてTK―80を生まれ変わらせることができた。
TK―80BSには、渡辺のセクションの一員である土岐泰之の書いたベーシックが、ROMに収めた形で持たせてあった。そのため、これまでのようにTK―80を立ち上げるたびに外から読み込んでくるのではなく、電源を入れると同時にベーシックを使いはじめることができた。家庭用のテレビをディスプレイとしてつなぐこともでき、従来のアルファベットに加えてカナ文字やごく一部ながら漢字も表示できた。さまざまなパターンを使って、図形の表示に工夫を凝らすことも可能になった。さらにメモリーの増設も簡単にできるようになった。
TK―80BS発表の前月までの一四か月で、TK―80の販売台数は一万七〇〇〇台を超えていた。この勢いにさらに拍車をかけようと、TK―80BSのアナウンスと同時に、機能はそのままに定価を従来の八万八五〇〇円から六万七〇〇〇円へと切り下げたTK―80の廉価版が、TK―80Eの名称で発表された。
さらに翌一九七八(昭和五十三)年十月に発表したコンポBS/80で、渡辺たちは学習教材からパーソナルコンピューターへとさらに大きく踏み出した。
コンポBSは、組み立て済みの完成品として販売された。
TK―80BSを新しく作りなおしたCPUボードと組み合わせ、電源なども含めて専用のケースに収めたコンポBSには、もう学習教材の面影はなかった。この新製品には、外部記憶装置としてカセットデッキを本体に組み込んだタイプも用意されていた。定価はデッキ付きを二三万八〇〇〇円、これを持たないものを一九万八〇〇〇円とした。
コンポBSの発表時点までに、TK―80は廉価版込みで二万六〇〇〇台、TK―80BSは一万台を売り上げていた。
渡辺たちの提案が学習教材という原点から離れ、一歩また一歩と個人のためのコンピューターに近づきつつあることは、明らかだった。
大内は、彼らがマイクロコンピューターの販売という与えられた役割を踏み越えはじめたことを意識していた。それゆえTK―80の関連製品が予想しなかった販売実績を上げはじめてからは、意図的に「これは道楽」と渡辺に釘をさしてきた。
「TK―80の類の売り上げは、販売目標の勘定外。ノルマはあくまで、本業のマイコンの販売だけで達成せよ」
渡辺からの報告が好調なTK―80関連製品に及ぶと、大内は繰り返しそう指摘して渡辺を滅入らせた。
だが道楽を道楽と意識しながら、大内は彼らが道楽に励むことを止めようとはしなかった。予想外の成功が続く中で、大内自身がパーソナルコンピューターの可能性に確信を抱きはじめたからではない。大内が発見したものはむしろ、マイクロコンピュータ販売部の中にたぎりはじめた熱の勢いだった。
一九七六(昭和五十一)年九月、秋葉原駅前のラジオ会館七階に、マイクロコンピューターの普及の拠点としてNECビット・インが開設されることになったとき、渡辺は運営を依託された日本電子販売の野口重次に申し入れてTK―80の販売と修理、相談のためのコーナーを作ってもらうことにした。
「三坪でいいから、TK―80のスペースを与えて欲しい」と頭を下げる渡辺の口調の熱に、野口は三〇坪のスペース提供で応えた。東芝で長くエンジニアとして働いた経験を持つ野口は、マイクロコンピューターに直感的に惚れ込んでいた★。
★前出『一〇〇万人の謎を解く ザ・PCの系譜』所収、「パソコンの故郷『Bit-iNN』を語る」(インタビューアー 渡辺和也)中の野口重次のコメント。
ビット・インには後藤富雄をはじめとするスタッフが交代で詰め、やがてこの一角はTK―80ユーザーのサロンに育っていった。対応にあたるスタッフの予定表が貼り出され、エプロン掛けの後藤たちとユーザーとのあいだに直接の人間関係が育ちはじめた。
幸運にも自ら種を蒔く機会を与えられ、この種を育てることが企業にとっても社会にとっても、そして自分自身にとっても幸福であると心から信じられたとき、これに携わるものが目を見張るほどのエネルギーを発揮することを、大内は知っていた。
かつて社長の座にあった小林宏治に、二階級特進で新設する集積回路設計本部長にと内示されたとき、大内は「着手したばかりの医用電子機器を続けたい」といったん逆らってみせた。振り返ればそれも、海軍時代に携わった音波探知機の技術を、超音波診断という命を守る側に生かせると心から信じることができ、日本電気にとってもメディカルエレクトロニクス分野の開拓が大きな意味を持つと確信できたからこそだった。
確固たる組織的な枠組みを確立しなければ維持することの不可能な大企業では、前例をなぞり、上司の顔色をうかがいながら仕事をこなそうとする人間が自然とふえてくる。だがこの自然の成り行きに身をまかせていれば、企業はやがて社会の進歩のリズムに取り残されてしまう。すべての大企業が自由ではいられないこうした硬直化を阻むうえで、会社の中ではなく外に目を向けたスタッフの、内から湧き上がってくる新しい発想とエネルギーは、唯一の特効薬となると大内は考えた。
それゆえ、渡辺たちの熱の行方を大内は見守りたかった。
もしもマイクロコンピューターの販売という本業が、実績を上げていなかったなら、渡辺たちの逸脱は許せなかったろう。だが立ち上がりの一時期こそ苦しんだものの、マイクロコンピュータ販売部は本業でも着実に市場を切り開いていた。
突破口となったキャッシュレジスターに続いて、ミシンや編機にマイクロコンピューターが採用され、手の込んだ模様を簡単に縫い込めるタイプがブームを呼んだ。かつてはゼロックスの独壇場だった普通紙複写機の領域に独自の技術で乗り込んでいった日本のメーカーも、マイクロコンピューターの大口顧客となってくれた。さらには、アーケードゲームと呼ばれる業務用のゲーム機という伏兵もいた。
やがて家電業界の技術者たちが、マイクロコンピューターによる高度な機能を新機種の差別化のポイントとして打ち出そうと、競ってこの部品に飛びついた。電子レンジがさまざまな調理パターンや解凍の機能を備え、エアコンがきめの細かな温度調節を引き受けるようになった。ステレオが、ビデオが、テレビがユーザーの注文を記憶するようになり、洗濯機、冷蔵庫、掃除機をはじめ、ありとあらゆる家電製品がコンピューターコントロールによる複雑な機能を売り物にしはじめた。
さらに一部のオフィスコンピューターやミニコンピューター、端末といった情報機器にも、マイクロコンピューターが使われだした。
マイクロコンピュータ販売部は、こうした市場の拡大につれて業績を伸ばしていった。
本業におけるこの実績を背景に、大内は渡辺たちの熱をたぎるにまかせ、従来の組織の枠組みの中ではどこにも置きようのない、個人の趣味のためのコンピューターを少し育ててみることができた。
渡辺の逸脱の産物が予想外の売り上げを示しはじめたとき、早めにしかるべき組織的な体制を作ってしまうという選択もあったのかもしれない。だが大内は、うらやましいほどの士気の高まりを見せる渡辺たちの勢いをかけがえのない宝と思えばこそ、どこまで育つか定かではないパーソナルコンピューターと彼らを心中させる危険は避けたかった。
もしも失敗したら、「あれはあくまで電子デバイス事業部の道楽」ですまそうと考えた。
これ以上進めば、もう道楽ではすませられなくなると大内が初めて危惧を覚えたのは、渡辺がまったく新しいパーソナルコンピューターの企画を持ってきたときだった。
コンポBSまでのこれまでの製品はすべて、マイクロコンピューターの学習教材としてのTK―80の流れを汲んでいた。だがコードネームをPCX―01とした新機種では、渡辺たちは明らかにコンピューターに向けて大きく一歩踏み出そうとしていた。
マイクロコンピューターも変われば、ベーシックも変わる。台頭しつつあるパーソナルコンピューター市場を狙い、世界の流れを読んで、PCX―01は面目を一新しようとしていた。
渡辺の説明によれば、PCX―01にはこれまでの8080に代えて、Z80を採用するという。開発元はザイログ社。インテルで8080を開発したスタッフが抜けて新しい会社を起こし、8080との互換性を保ちながら機能を強化し、処理速度を高めたものがZ80であるという★。日本電気はZ80互換のμPD780という製品を作っており、実機にはこれを載せる。
★インテルを飛び出したフェデェリコ・ファジンが設立したザイログに移って、Z80の開発にあたったのは、4004と8080の開発に携わった嶋正利である。もともとはビジコンの社員であった嶋がどのような経緯でマイクロコンピューターの開発に取り組み、インテル、続いてザイログにあって初期の技術の方向付けを中心になってになうにいたったかの経緯は、『マイクロコンピュータの誕生 わが青春の4004』(嶋正利著、岩波書店、一九八七年)に詳しい。さらに『bit』一九七九年十一月号所収の「マイクロコンピュータの誕生 開発者 嶋正利氏に聞く」(嶋正利/西村怒彦/石田晴久)も、当時の空気をよく伝えている。
そしてベーシックには、マイクロコンピュータ販売部内で開発した従来のものに代えて、マイクロソフトというアメリカのベンチャー企業のものを使う。マイクロソフトのベーシックはアメリカで続々と生まれてきたパーソナルコンピューターに幅広く採用され、業界標準の地位を占めつつあるという。
アルファベットの大文字と小文字、カナ文字、各種の記号を取り扱えるほか、PCX―01は一六〇×一〇〇ドットの解像度で、八色のカラーを表示することができる。
さらに新しいマシンでは、中心となる本体に加えてさまざまな周辺機器を用意していきたいという。カラーもしくはモノクロの専用ディスプレイ、フロッピーディスクドライブ、プリンター、パソコン通信に使用する音響カプラー。こうした機器を別に用意して、目的に応じてさまざまなシステムの組めるモジュール形式を採用する。
確かに、規模はごくごく小さい。だがPCX―01は、さまざまな周辺機器を従えたコンピューターシステムを志向していた。渡辺のやりたいことは、個人向けの超小型市場を狙ったコンピューター事業への着手にほかならなかった。
TK―80は確かに売れていた。そしてアメリカでは、機能を強化したパーソナルコンピューターが続々と製品化されている。だが日本電気のそれもマイクロコンピューターの販売部門が本格的なパーソナルコンピューターに挑むといって、いったい誰が製品をさばいてくれるのか。一台が数百万円、数千万円のオフィスコンピューターを扱うディーラーが、わずか数十万円の機械を積極的に売りさばいてくれるわけはない。
秋葉原に続いてビット・インは横浜、名古屋、大阪に開設されていた。加えて、各地の半導体部品の販売会社の中に、NECマイコンショップを名乗ってTK―80を扱ってくれるところが数軒生まれていた。とはいえ、渡辺たちのマシンが頼みうる販売ルートは、これだけではあまりにも細い。この細いルートを頼りに、パーソナルコンピューター事業を本格化させて成算があるだろうか。
大内は考え込まざるをえなかった。
そしてより本質的には、社内にコンピューターの一大専門部隊を抱える日本電気の他のセクションが、きわめて小規模とはいえコンピューター事業に本格的に手を染めてよいものなのか。
大内は迷った。
その大内に、渡辺は繰り返しくらいついてきた。
「いいものができたといって販売ルートはどうするんだ」
「製造はどこでやる」
「本業のマイコン販売が手薄になることはないのか」
大内が質そうとするすべての問いに、渡辺はあらかじめ答えを用意したうえで、繰り返し事業化の許しを求めた。渡辺との激しいやりとりの中で、彼らの内に湧き上がっている熱のすさまじさを、大内はあらためて痛感させられた。
マイクロコンピューターの市場は、前年比七〇パーセントを超える伸び率で成長を続けていた。そして、TK―80は売れ続けていた。
渡部は一人ではなかった。彼の後ろには後藤たちが控えており、その背後には個人のコンピューターに夢を託そうとするおびただしいマニアたちの姿がほの見えていた。
大内はしだいに、PCX―01の事業化に傾いていった。
ただしあらたな販売ルートの開拓には取り組まず、ビット・インと半導体部品の販売店のうち、希望するところだけに流すという従来どおりのルートだけでそっと踏み出すこととした。
一九七九(昭和五十四)年五月、日本電気はPC―8001と名付けた新しい機種の発表に踏み切った。本体価格は、一六万八〇〇〇円で、目標の販売台数は月間二〇〇〇台。だが予定していた八月から一か月遅れで出荷を開始してみると、PC―8001は目標を大きく上回るペースで売れはじめた。
PC―8001の快走を追うように、NECマイコンショップを名乗る販売店の数も、目覚ましい勢いで増えていった。一九七七(昭和五十二)年度はわずか一軒、翌年度が三軒だったものが、PC―8001が発売された一九七九年度は一五軒、翌年度は四〇軒、そして一九八一年度中には、一六八軒を数えるにいたった。
家電量販店もまた、他社製品と併売する形ではあったが、競ってPC―8001を扱ってくれるようになった。
発売以来二年間で、PC―8001は一二万台の出荷を達成した。
パーソナルコンピューターは、誰の目にも大きな可能性を秘めた魅力的な市場と映りはじめていた。
PC―8001の事業化にあたって先送りした「パーソナルコンピューターを誰がになうべきか」との問いに、大内が直面させられることになったのは、そんな時期だった。
電算本流
パソコンに名乗りを上げる
パーソナルコンピューターのもう一人の育ての親としてまず名乗りを上げたのは、新日本電気のグループだった。
コンポBSまでの機器の製造は外部の日本マイクロ・コンピュータに依託してきたが、PC―8001からは家電部門をになう子会社の新日本電気が引き受けた。
マイクロコンピュータ販売部からのPCX―01の製造依託書を、新日本電気は一九七九(昭和五十四)年の一月に受け取った。だが同社内では、それ以前からパーソナルコンピューターを独自に開発する可能性の検討が始まっていた。物作りをになう立場から、PC―8001の快走をつぶさに見守った新日本電気は、家電担当という自らの守備範囲に合わせて家庭用の低価格機種の開発計画を具体化させた。
大内淳義は、正面から互いを食い合うライバルがグループ内で並び立つことを防ごうと、製品の性格付けに関してマイクロコンピュータ販売部と新日本電気の担当セクションとのあいだで調整を行うよう指示した。
だがこのすり合わせの作業が、えんえんと難航することになった。
新日本電気は当初、PC―8001にほぼ匹敵する機能を備え、互換性のあるベーシックを積んでPC―8001用に書かれたプログラムをそのまま走らせることのできる機種を、価格を切り下げて出そうと考えた。だがこのプランには、渡辺から異議が申し立てられた。機能がほぼ同等で価格が安いとなれば、せっかく軌道に乗ったPC―8001のビジネスが大きな打撃を受けることは明らかだった。
ではグループ内のシリーズという統一感を持たせながら、価格と性能をどう切り分けていくのか。この問いを前にして、マイクロコンピュータ販売部と新日本電気の睨み合いが続いた。
渡辺からすれば、新日本電気のプランはどこまで行ってもPC―8001に近すぎた。一方新日本電気には、あれもいけないこれもいけないとはねつけられたのでは、シリーズとしての統一感を持った機種など作りようがないとの思いがあった。
一九八〇(昭和五十五)年が終わりに近づいても、両者はいまだに合意を見なかった。そのあいだ、発売開始以来一年を経て、PC―8001はなお好調を維持し続けていた。
それまでPC―8001の存在すら認識していなかった会長の小林宏治が、出張先のアメリカで「あのマシンを売りたいのだが」と持ちかけられ、パーソナルコンピューターの有力機種が自社から売り出されていることを初めて知ったのも、この時期だった。
通信とコンピュータの融合を目指すという日本電気のC&C戦略にとって、一人ひとりの手元で機能するパーソナルコンピューターは重要な鍵を握っていた。小林はPC―8001の生みの親であるという後藤富雄を会長室に呼び、マシンを前にしてベーシックの操作を教えるよう求めた。この年の暮れ、小林は全役員と事業部長、合わせて三〇〇人に召集をかけてパーソナルコンピューターの勉強会をスタートさせ、自らも最前列に座ってPC―8001のキーボードを叩きはじめた。
これまで大内は、渡辺たちの試みに〈半導体の道楽〉というベールを被せてきた。道楽で上げた数字は勘定外と釘をさし、PC―8001をスタートさせるにあたっても、組織もいじらなければ販売ルートの新規開拓に予算をつけることもしなかった。
一九八〇(昭和五十五)年の四月には、渡辺のセクションをマイクロコンピュータ応用事業部として改組したが、担当部門はあくまでマイクロコンピューターの利用一般とし、パーソナルコンピューターの専門組織★とはしなかった。
★パーソナルコンピューター誕生のきっかけを作ったマイクロコンピュータ販売部は、当初、半導体集積回路販売事業部の一セクションとして設けられた。同部設立から間もない一九七六(昭和五十一)年九月、事業部は電子デバイス販売事業部に改組された。渡辺のセクションは、以降も引き続いて、改組されたこの事業部に属していた。
だがPC―8001の周りで何が起こりつつあるかを認識した小林は、「もう専門の事業部に格上げして、ここから逃げられないようにしたほうがいいんじゃないか」と大内の決断を促した。
社内の認知が急速に高まっていく中で、新日本電気とマイクロコンピュータ販売部の意見調整を持ち越してきた大内は、今後パーソナルコンピューター事業を日本電気グループ全体としてどう進めていくか、トップの参加する会議で方向付けを行おうと考えた。
一九八一(昭和五十六)年が明けてそうそうに開いた会議には、争点を抱える二つのグループに加えて、コンピューター事業の専門セクションである情報処理事業グループのスタッフも顔をそろえていた。
幹部相手のパーソナルコンピューター研修の開催を指示し、大内に担当セクションの独立を促したちょうどそのころ、小林は情報処理担当役員の石井善昭に声をかけた。
「石井君、情処はパソコンをどうするつもりなんだ。このまま半導体に任せっぱなしにしておくのか」
とっさに「いえ」と打ち消す言葉が、石井の口をついて出た。
そう答えたとたん、石井の脳裏に浜田俊三からの報告の言葉が重なり合って響きはじめた。
石井の率いる情報処理企画室の計画部長となって以来、浜田はアメリカ市場へのオフィスコンピューターの売り込みにあたってきた。だがアストラが立ち上がりのきっかけをつかめないでいるうちに、小規模なビジネス現場のコンピューター需要というまさにこのプロジェクトが狙っていた市場を、パーソナルコンピューターが急速に切り開きはじめていた。
〈オフィスコンピューターよりもさらに下位のマシンが、アメリカ市場ではアストラの行く手を阻んでいる。そしてすでにマイクロコンピューター自体には一六ビット化されて、機能と速度を大幅に高めたものが現われている。現在は八ビットのみのパーソナルコンピューターが早晩一六ビット化されて、より強力なマシンに化けることには疑問の余地がない。この動きがいずれ日本にも及ぶとすれば、情報処理事業グループにとって虎の子のオフィスコンピューターが脅かされるのではないか。こうした事態に備えるためには、我々もさらに小型化と低価格化を推し進めた機種を開発するべきだろう。パーソナルコンピューターに相当する我々自身の超小型機を、準備する必要があるだろう〉
石井の脳裏を、浜田からの報告の言葉がよぎった。
「情処としても、もちろんちゃんとやっていくつもりです」
耳の奥でこだまし続ける浜田の報告をなぞりながら、石井はそう言葉を継いだ。
かつてコンピューターへの着手に断を下し、えんえんと悪戦苦闘を続けるこの事業にそれでも確信を抱き続けてきた小林は、無言のまま、一つ大きくうなずいて石井の言葉を受けとめた。
〈コンピューターでさんざん苦労し、この事業の本質を骨身に染みて理解してきたのは我々だ。経験、人材、生産設備、どれをとっても圧倒的な力を持っている我々が、半導体に足下をすくわれるわけにはいかない〉
日本電気のコンピューターの立ち上げからこれに携わり、事業の方向付けに深くかかわり続けてきた石井には、本家としての強い誇りと自負があった。
情報処理事業グループがコンピューター事業のすべての領域をになうことは、石井には当然すぎるほど当然に思えた。
従来の超小型機であるオフィスコンピューターのさらに下位に生まれつつあるパーソナルコンピューターがおもちゃで片付けられないとすれば、我々は当然その分野にも対抗する商品を用意する。半導体の余技に足下をすくわれるわけにはいかないのだ。
アメリカで起こりつつある地殻変動に関する浜田からの報告と、小林宏治の「どうするのだ」との一言は、足下を洗いはじめた小さな波を見守っていた石井の背を押した。
〈情報処理事業グループは、パーソナルコンピューターを用意する〉
石井はそう決意した。
ではパーソナルコンピューターとは、果たして何なのか。
本家のコンピューター部隊は、これ以降このあらたな問いと向き合うことになった。
今後はパーソナルコンピューター事業を三本の柱を据えて進めていくとの決定を受けて、大内は一九八一(昭和五十六)年四月、この方針に沿って組織の再編を行った。
渡辺の部隊はパーソナルコンピュータ事業部となって、専門セクションとしての独立を果たした。さらに情報処理と電子デバイス、新日本電気グループという三つの開発主体の連絡・調整機関として、いずれの組織にも属さない特別プロジェクトとの位置づけで、パーソナルコンピュータ販売推進本部とパーソナルコンピュータ企画室が設けられた。
この新体制の発足と同時に、浜田俊三は「パーソナルコンピューターとは何か」との問いへの答えをたずさえて、渡辺和也と向かい合うことになった。
「一六ビットの事務用機は情報処理事業グループ」とのトップの示した方向付けにもとづいて、コンピューター部隊では二つの開発計画が進行しつつあった。
この二つの流れを整理するために、情報処理企画室の浜田を中心に、これまでこの分野を切り開いてきた渡辺和也を加えて、ビジネス用パーソナルコンピューターの検討プロジェクトが組織された。
検討プロジェクトで二つのプランを示された渡辺は、あらためて大内の下した決断を呪った。
〈このようなものが、パーソナルコンピューターとして受け入れられるわけはない〉
新機種の概要を示したレジュメをざっと目で追って、渡辺は即座にそう断じた。
第一の計画は、端末担当のグループによるインテリジェント端末の低価格版だった。N6300と名付けた端末で、かつて日本電気としては初めてマイクロコンピューターを中心にシステムを組んだグループは、これをいっそう高機能化し、同時に低価格化した後継機の開発を進めつつあった。
一六ビットのマイクロコンピューターにはインテルの8086を使用し、OSはPTOSと名付けた専用のものを用意する。端末はこれまでなかなか一人一台とはいかなかったが、小型化と低価格化を推し進めてパーソナル化を実現すれば、オフィスの作業効率をいっそう高めることができるだろう。さらにこのマシンでは、大型コンピューターへの窓口という端末本来の役割に加えて、それ自体での完結した処理能力をより高めてやる。大型コンピューターで主に事務処理用に使われてきたコボルに加えて、表計算機能を持つソフトウエアを簡易言語と名付けて用意し、パーソナルコンピューターで広く使われているベーシックも利用できるようにしておく。さらに漢字の字形を記憶させた漢字ROMに、JIS第一水準に区分される基本的な文字を持たせておき、オプションでこれを使えるように準備する。
端末グループは、こうした仕様にもとづいてすでに開発に着手していたN6300の後継機を、情報処理のパーソナルコンピューターの候補として押し出してきた。
一方、かつて浜田が推進役となって立ち上げたオフィスコンピューターのグループからは、これも自らの領域のマシンをよりいっそう小型、低価格化させるというプランが寄せられた。
あらかじめさまざまなアプリケーションをコンピューターメーカーが用意しておき、さらに製品の販売にあたるディーラーがユーザーの細かな注文に応じてソフトウエアをあつらえるという手取り足取りの流儀で市場を開拓してきた従来の流れに沿って、このマシンはこれまで積み重ねてきたプログラム資産を売り物にしようと狙っていた。
一六ビットのマイクロコンピューターには、システム100の全面LSI化にあたって採用された日本電気オリジナルのμCOM1600を再び用いる。
システム100の面目一新にあたって採用された対話型の操作環境を支えるITOSは、当初は問題点を数多く残したまま出荷されたために全国でトラブルを引き起こした。だが改良にあたったチームの奮闘により、その後、安定した動作を確立していった。
そこで一六ビットのパーソナルコンピューターにもITOSを載せ、従来日本電気のオフィスコンピューターのために書きためられてきたソフトウエアをそのまま使えるようにする。オフィスでの文書処理の要求にも応えていくために、漢字の取り扱いも可能とする。さらにパーソナルコンピューターの流れに対応するために、従来の言語に加えてベーシックの利用にも道を開く。
オフィスコンピューターのグループは従来のマシンをさらに小型化して机に載せたものを、パーソナルコンピューターと呼ぼうと考えた。
端末の高機能版とオフィスコンピューターの小型版という、コンピューターの専門部隊が提案した二つのパーソナルコンピューターのイメージに、渡辺和也は鉛を飲んだ胃袋の底が深く沈み込むような、疲労と違和感とを覚えていた。
確かに二機種とも一六ビットのマイクロコンピューターを使い、小型で低価格、そして高機能のマシンではあるのだろう。ベーシックも使えるのだろう。だが渡辺の目に、二つのプランはパーソナルコンピューターをパーソナルコンピューターたらしめている核心を、見落としているように見えた。
パーソナルコンピューターを取り巻く空気の基調は、あくまで共棲にあった。
他者の存在を敵とするよりもむしろたのみとし、他者の力を押しつぶすよりは引き出して味方に付ける方向に舵をとりえた者こそが、この世界では成長することができた。
PC―8001の開発にあたって自社で開発したベーシックを捨て、マイクロソフトのものに乗り換える決断を行ったのも、これが業界の標準的な地位を占めつつあるとの認識からだった。
技術情報を可能な限り公開し、サードパーティーによる関連製品の開発を促していくオープンアーキテクチャーこそ、渡辺はパーソナルコンピューターの魂であると信じた。
もしも渡辺たちが確固たる開発力を備えたコンピューターの専門グループであれば、なんらかのシステムを作り上げる際には当然、すべての要素を自ら用意しようとしただろう。だが渡辺たちは、充分な開発力を持たないマイクロコンピューターの販売部で、パーソナルコンピューターの卵を育てることになった。その渡辺たちには、この卵を大きく育てようとすれば他力によるほかはなかった。オープンアーキテクチャーをとったことには、その意味では怪我の功名としての一面もあった。
だが、彼らは誕生期のパーソナルコンピューターを支えた精神の核をとにもかくにもつかみ取り、PC―8001を育て上げた。
その精神の核を、二つのプランは決定的に取り逃がしていた。
確かに高機能化した端末も、小型化、低価格化したオフィスコンピューターも競争力を持った製品ではあるだろう。だが一方はあくまで端末であり、もう一方はあくまでオフィスコンピューターで、パーソナルコンピューターではなかった。
「これはパーソナルコンピューターにはなっていない。少なくとも、私の知っているパーソナルコンピューターではない」
渡辺はそう口を切り、「こんな製品をPCシリーズの上位機種として受け入れるわけにはいかない」と畳みかけた。
一六ビット機は事務用をターゲットとして情報処理がになう。
トップが顔をそろえた会議でそう大枠が定められて以来、渡辺の中で熱をはらみながら鬱積してきた思いに、あくまでこれまでの仕事の流儀から踏み出そうとしない二つのプランが火をつけた。
八ビットからスタートしたパーソナルコンピューターが早晩一六ビット化することは、誰の目にも明らかだった。その技術の明日を、トップの決定は渡辺たちから奪おうとしていた。
〈だがこれでは、未来を奪われるのは我々にとどまらない〉
口の乾きが舌をこわばらせるのを意識しながら、渡辺は内心でそうつぶやいた。
これがあらたな一六ビット版となるのなら、日本電気のPCシリーズにもまた明日はないはずだ。
渡辺が炎のような言葉を投げた瞬間から、室内の空気はゼラチンを溶かし込んだようにこわばりはじめていた。
「このいずれかをPCシリーズの上位機種として事業化したとしても、とても売れるとは思えない」
渡辺は、重苦しい空気を切り裂くようにそう断言した。
「では、あなたの言うパーソナルコンピューターとは何なのか。どうすれば、あなたの考えるパーソナルコンピューターになるのか」
そう切り返した浜田に、渡辺は一六ビット機の備えるべき条件を一つ一つ数えはじめた。
まず第一に、ベーシック。これに関しては従来機に使ってきたものと互換性を持った、マイクロソフトのベーシックを採用する。ベーシックという言語が使えるというだけでは、充分ではない。同じベーシックといっても、開発主体が異なればそれぞれに差異がある。さらに同じマイクロソフトのベーシックでも、異なったマシンに搭載される場合にはメーカーの注文に応じて機能が拡張されている場合がある。拡張された命令を使って書いたプログラムを他の機種で動かそうとすると、そこが引っかかって動かなくなる。
すでに発表済みのPC―8001に続いて、渡辺たちは八ビットの上位機種の開発を進めていた。
そこで新しい一六ビット機には、PC―8001とこの上位機種のベーシックに互換性を持つマイクロソフトのものを採用する。そうすることで、従来のユーザーやサードパーティーが書きためてきたソフトウエアを、新しい機種でもそのまま使えるようにする。
第二にディスプレイやプリンター、フロッピーディスクドライブなどの周辺機器も、これまでPCシリーズで使ってきたものをそのまま利用できるように考慮する。そのためには新一六ビット機ではすべての構成要素をセットにした商品構成はとらず、本体は本体、その他の周辺機器は周辺機器と要素をばらばらにしたコンポーネント形式で臨む。そして周辺機器の接続用コネクターには従来どおりのものを採用し、これまで持っていた機器をそのまま活用できるようにしていく。
第三に、これまで補助記憶装置として使われてきたカセットテープレコーダーも、接続できるようにする。
そして第四に拡張用スロットの仕様を公開し、サードパーティーによる増設ボードの開発を促す。
〈要するにこれまでの八ビットの延長でやれということか〉
渡辺の列挙する条件を走り書きするペンの動きはそのままに、浜田はそう考えた。
オフィスコンピューターの小型化をさらに推し進め、これをビジネス用パーソナルコンピューターと位置づけようという提案には、かつてシステム100の開発の中心となった浜田自身が深くかかわっていた。製品企画側からは、三田の本社にある情報処理小型システム事業部のスタッフと企画室の浜田。そして開発、製造側からは、かつてシステム100で浜田とコンビを組んでいた、府中のコンピュータ技術本部第二開発部に籍を置く戸坂馨が加わってまとめられたのが、このプランだった。
彼らにはコンピューターの本家としての自負があり、超小型分野を切り開いて慢性的な赤字に苦しめられていた事業に突破口を開いたとの自信もあった。それゆえオフィスコンピューターのさらに下位に新しい市場が開けるのなら、自分たちの手ごまをよりいっそう小型化してぶつけようと、ごくごく自然にそう考えた。システム100の小型化を推し進めたマシンで、新しい「下から」の流れの機先を制して幅広いビジネス分野を「上から」開いていくシナリオには、充分に勝算があるように思えた。
だがまがりなりにもここまで独力で市場を切り開き、パーソナルコンピューター文化の旗手としてマスコミに遇されもしはじめている渡辺和也は、「八ビットの延長、そしてオープンアーキテクチャーこそが新一六ビット機の必須の条件である」と口をきわめて主張した。
では、どうするのか。
あくまで従来の路線の延長上に、新一六ビット機を置くのか。
それともパーソナルコンピューターがそうしたものであるというのなら、渡辺の主張を受け入れて思い切った転換に打って出るのか。
半導体グループが独力で切り開いたPC―8001はそれまで、浜田にとってあくまで「他人の仕事」だった。人の肌のぬくもりが残った下着を身につけ、その人物の明日を奪い取ることへの無意識の拒否反応は、「PC―8001の延長」という選択肢を浜田の脳裏から追いやっていた。だが渡辺本人が望むのなら、この路線をあえて禁じ手とする必要はなかった。
検討会議から二か月後の一九八一(昭和五十六)年六月、浜田俊三は両案に公平な立場をとるべき情報処理企画室計画部長から、オフィスコンピューターの商品企画と営業支援にあたる、情報処理小型システム事業部事業部長代理へと転じた。
ともにオープンアーキテクチャーへの転換を迫られた立場の端末グループは、すでに「既定方針どおり進む」との結論を出していた。
一九八一(昭和五十六)年七月、端末装置事業部は開発を進めてきたインテリジェント端末の新機種を、N5200モデル05と名付けて発表した。
パーソナルコンピューターを名乗る代わり、N5200はパーソナルターミナルと銘打たれていた。
インテルの8086を使ったN5200は、一体型の筺体に容量一Mバイトの八インチドライブ二台を標準で組み込み、OSには日本電気オリジナルのPTOSを採用していた。画面への表示を高速化するために、日本電気の半導体グループが開発したGDCと名付けられた専用LSIを初めて採用した点は、N5200のスペックの中で光って見えた。価格はRAM四八Kバイトの標準構成で七九万八〇〇〇円と従来のN6300の半額以下に設定された。出荷開始は十二月からで、三年間に三万台の販売を見込むとされていた。
だが端末装置事業部が我が道を選び、超小型オフィスコンピューターの開発作業が進んでいく中で、浜田はなお迷い続けていた★。
★前出の『技術の壁を突き破れ』は、渡辺和也が注文をつけた経緯を以下のようにまとめている。
「そういう方針にもとづいてコンセプトの検討がはじまる。まとめ役を担当したのは、「NEACシステム―100」の開発を担当した戸坂馨(東京大学工学部電気工学科、昭和四一年入社、現支配人)、製品計画部の小澤昇(早稲田大学理工学部機械工学科、昭和四六年入社、現パーソナルコンピュータ販売推進本部商品計画部第二製品計画課長)主任を中心とする小人数のチームであった。ところが、マイコン部隊への遠慮もあったせいか、PCの延長というテーマがなかなか出てこない。そんなわけでもあるまいが、四カ月後につくった最初の試作機に、渡辺和也がクレームをつけた。こんなものにPCの名前をつけて出せるかというのである」
同じ出来事を描いてこれだけニュアンスが変わってくるのだから、実際まあ、面白いもんである。
「そういう方針にもとづいてコンセプトの検討がはじまる。まとめ役を担当したのは、「NEACシステム―100」の開発を担当した戸坂馨(東京大学工学部電気工学科、昭和四一年入社、現支配人)、製品計画部の小澤昇(早稲田大学理工学部機械工学科、昭和四六年入社、現パーソナルコンピュータ販売推進本部商品計画部第二製品計画課長)主任を中心とする小人数のチームであった。ところが、マイコン部隊への遠慮もあったせいか、PCの延長というテーマがなかなか出てこない。そんなわけでもあるまいが、四カ月後につくった最初の試作機に、渡辺和也がクレームをつけた。こんなものにPCの名前をつけて出せるかというのである」
同じ出来事を描いてこれだけニュアンスが変わってくるのだから、実際まあ、面白いもんである。
N5200をパーソナルターミナル、システム100の小型版をパーソナルコンピューターと位置づけるという情報処理の方針は、八月に開かれたトップの顔をそろえる会議に正式に諮られた。
この分野をここまで引っ張ってきた現場責任者として会議に臨んだ渡辺和也は、席上、再び明確に反対の意思を表明した。
IBMがパーソナルコンピューター市場に乗り出してきたのは、そんな時期だった。
一九八一年八月十二日、大型コンピューターの巨人はパーソナルコンピューターを略してただPCとだけ名付けた製品を発表した。
IBMが初めてこの市場に送り出してきたPCは、渡辺の注文をそのまま受け入れたようなマシンだった。
作表機の覇者IBM
電子計算機を押さえる
大型コンピューターの覇者であり、絶大な組織力と技術力を兼ね備えた国際的巨大企業であり、権威と管理の象徴的な色彩をもその名に帯びるにいたったIBMのルーツは、一八九六年に設立された統計表作りを自動化する機械のメーカー、タビュレーティングマシン社にさかのぼる。
南北戦争以降、急速に工業化を推し進めるとともに大量の移民を安い労働力として受け入れていったアメリカでは、連邦政府の国勢調査部門が、かき集めてきたデータを集計し、数字の山の中から有用な統計資料を引き出してくる作業に難渋していた。
そんな中で統計技官のヘルマン・ホレリスは、紋様の織り込みを自動化したジャカード織機と自動ピアノから、統計表作りの革新のヒントを得る。ジャカードも自動ピアノも、カードにあけた穴の位置によって機械の動作を制御している点に着目したホレリスは、個人のデータを一人一枚同様の穿孔カードに記入することで、集計から手作業を追放できると考えた。性別や年令をはじめとする調査結果を所定の位置に穴をあけて表現し、この穴によってカードを分類するホレリスの電気作表機は、彼の設立したタビュレーティングマシン社を急成長させるとともにライバルの誕生を促した。
競合による業績の悪化に直面させられたホレリスは一九一一年に会社を売り払い、新しいオーナーはこれを自動はかりの会社、タイムレコーダーの会社とまとめてCTR(コンピューティング・タビュレーティング・レコーディング)社を設立した。
そして一九一四年、キャッシュレジスターで急成長を遂げたNCR社で辣腕のセールスマンとしてのし上がったトーマス・ワトソンが、CTRの総支配人に就任する。ライバル企業を叩き潰すためには手段を選ばなかったNCRは、独占禁止法の違反容疑をかけられて裁判に追い込まれ、ワトソン自身もこれに連座して一度は有罪判決を受けた。この事件をきっかけにNCRを追われたワトソンは、CTRの経営を任されるや作表機を主力商品として位置づけ、セールスマンに多額の手数料をはずむNCR流の販売戦略を展開して同社を急成長させた。
ワトソンがCTRに転じた一九一四年七月に始まった第一次世界大戦は、軍需産業や行政府に迅速に処理すべき膨大な事務を発生させていた。大量生産、大量消費に向けて勢いよく資本主義のエンジンを回し続けるうえで、計算処理を自動化する道具は潤滑油の役割を果たした。
一九二〇年代の不況期にも、CTRの作表機は会計業務の経費削減と在庫の適正化の道具として受け入れられていった。
一九二四年、CTRは社名をIBM(インターナショナル・ビジネス・マシンズ)に変更した。
カードに穴をあける穿孔機(パンチ)、穴によってカードを仕分けする分類機(ソーター)、そしてカードに記録されたデーターを計算処理する作表機の三つの要素からなるパンチ・カード・システムを、IBMはレンタル制で供給し、保守やカードの販売でも収益を上げていった。
その後の世界経済がたどった規模拡大の歴史は、一面で計算処理の増大の歴史であり、これがIBMの発展の歴史と重なり合うことになった。
作表機市場で八〇パーセントを超える圧倒的なシェアを確立するとともに、ユーザーに自社のカードのみを使うよう強制して徹底した収益の追求を図ったIBMは、一九三二年には連邦政府によって独占禁止法違反で告訴された。ここで有罪判決を受けたことで、IBMは他社に競争の機会を与えるよう迫られたが、その後も同社の独占的シェアは揺るがなかった。
データー処理機械におけるIBMの独占にとって、脅威となりかねない可能性を秘めた新しい技術を生んだのは、第二次世界大戦だった。
この時期、計算機の能力を高めて軍事利用を図ろうとする試みが集中して進められる中で、ハーバード大学のハワード・エイケンはIBMの支援を受け、リレーと呼ばれる電気式のスイッチを使って、一九四四年に汎用自動計算機Mark
を完成させた。一方ペンシルベニア大学のジョン・W・モークリーとJ・プレスパー・エッカートは、米陸軍弾道研究所の依頼を受けて、一九四三年から真空管を使った計算機の開発に着手し、一九四六年にENIACの稼働にこぎ着けた。作表機市場でIBMにはるかに差をつけられながらも二番手につけていたレミントンランドは、一九五一年、コンピューターの開発事業に乗り出していたエッカートとモークリーによるマシンをUNIVACと名付け、初めて商品として売り出した。UNIVACから遅れることおよそ二年、科学技術計算用の701の発表にこぎ着け、続いて事務処理用の702を発表したIBMは、徹底した低価格攻勢によってレミントンランドを追いかけた。
一九五二年には再び連邦政府に告訴された経緯が示すとおり、相変らず作表機の市場を独占し続けていたIBMは、大企業や大組織のデータ処理の仕事をパンチ・カード・システムに載せて処理するノウハウを蓄積しており、ユーザーの要求を吸い上げる確固たる営業、技術体制を確立していた。
この体制を維持しながら、データ処理の機械だけを作表機からコンピューターに移し替えることにIBMは成功する。独占していた作表機市場で上げた利益を背景に、コンピューターを徹底して低価格化できたことも、競合する他社を振り切るうえで大きな武器となった。
一九五〇年代後半、コンピューターの素子は寿命の短い真空管から、半永久的に使えて処理速度も高いトランジスターへと移り変わっていった。このトランジスターを用いた第二世代機でも、IBMは科学技術計算用で大型の7000シリーズ、事務処理用で比較的小型の1400シリーズを成功させた。作表機の時代と同様八〇パーセントを超えるシェアを誇るIBMに対し、わずかな残りを他社と分け合っていたハネウェルは一九六三年、IBM機の性能を大きく上回るH200を、1401用に書かれたプログラムをそのまま利用できるよう変換するソフトウエアと合わせて発表した。
IBM機用に合わせてプログラムを開発しているために、たとえ他社がすぐれたハードウエアを開発したとしてもシステムを変更しようがない。
こうしたくびきからユーザーを解き放つとして、「解放者」を意味するリベレーターと名付けられたソフトウエアとH200のコンビは、かなりの成功を収め、IBM互換機の可能性を実証することになった。
こうした他社の攻勢によって、数パーセントながらシェアを減少させたIBMは一九六四年四月、予定を大幅に繰り上げて開発中の新世代機、システム360の発表に踏み切った。
システム360は、従来のトランジスターに代えてICを使うことで高速化、小型化、低消費電力化、信頼性の向上など、ハードウエアの革新を果たすと発表された。さらに従来は、科学技術計算用、事務処理用と用途別に複数のシリーズを置いていたものを一本化し、シリーズの全機種で同一のOSを動かし、同じプログラムを使えるようにするとした点でも、システム360は従来のものとは世代を画していた。周辺機器に関しても、シリーズの機種では同じものを利用できると発表された。360という名称には、すべての用途とすべての規模の要求に、三六〇度の全方位の対応力を持った互換性のあるシリーズで応えうるとの意味が込められていた。
現実に製品の出荷を開始するまでに、IBMは結局、発表から一年半以上を要することになり、約束のいくつかは達成されなかった。だが、時代を画する新世代機が間もなく最大手のメーカーから出荷されるとの情報は、他社の追撃を抑えるうえで大きな威力を発揮した。出荷開始となったシステム360は、IBMの市場独占を再び強化する大ヒット商品となった。
大組織、大企業のデータ処理の要求に、自動機械によって独占的に応えるという基本的な姿勢を、IBMは一九〇〇年代の初頭にはすでに確立していた。コンピューターの誕生はこうした同社のあり方を流動化させる可能性を持っていたが、IBMは市場の独占を通じて培ってきた体力に物を言わせて、作表機をコンピューターに置き換える作業を見事に成し遂げた。
システム360の大成功は、作表機からコンピューターへの変化の波を、同社が完全に乗り切った象徴となった。
その後、大半のコンピューターメーカーは、IBM機の存在を前提とした互換機路線で生き残りを図ることになった。
唯一IBMに脅威を与ええたのは、大組織、大企業のデータ処理要求という枠組みの外で新たな需要を掘り起こしえた者のみだった★。
★IBMに関する著作は大変に豊富であり、いわゆるウォッチャーなどという興味深い人種も(かつては?)存在していたわけであるから、筆者には参考文献に関して何事か申し上げるような資格はない。ただあえて一言申し述べれば、司法省の主任エコノミストとして対IBMの独占禁止法訴訟に携わったR・T・デラマーターの『ビッグブルー IBMはいかに市場を制したか』(青木榮一訳、日本経済新聞社、一九八七年)は、裁判によって公開された同社の内部文書を精査して、徹底的に批判的な角度から市場独占の達成される経緯を跡付けており、きわめて興味深い。
マサチューセッツ工科大学(MIT)のリンカーン研究所に籍を置いていたケン・オールセンは、のちに彼自身振り返って、「今日のパーソナルコンピューターに相当する★」と評価したマシンの開発に、一九五五年から取り組んでいた。
★『 DIJITAL AT WORK 』(ジャミー・パーカー・ピアソン編、Digital Press 、一九九二年)所収のケン・オールセンへのインタビュー。スミソニアン協会によって一九八八年に行われたこのインタビューにおいて、オールセンは「今日のマウスに相当する電子ペン」が組み込まれたマシン(TX―0、筆者注、以下同)を使えば、「ブラウン管に絵を描くことも、画面上でプログラムを読むことも、ゲームをすることも、今(パーソナルコンピューターで)できることは何でもできた」と答えている。
テスト実験機( Test-eXperimental computer )を略してTX―0と名づけられたこのマシンが動き始める一九五七年、オールセンは開発過程で生み出した技術をビジネスに生かそうと、ボストン近郊のメイナードにディジタルイクイップメント社(DEC)を設立した。メンバーは、研究所時代の同僚であるハーラン・アンダーソンとオールセンの弟の三人。七万ドルの資本は、ベンチャー投資会社の先駆けとなったアメリカン・リサーチ&ディベロップメント社から引き出した。
一九五〇年代のパーソナルコンピューター★に携わってきたオールセンの起こしたDECは、IBMの目の届かない新しい領域に、コンピューターの用途を切り開いていくことになる。
★この時期に〈パーソナルコンピューター〉が開発されたきっかけは、第二次世界大戦中の一九四四年からMITで始まった、ホワールウインド(旋風)プロジェクトが作った。当初、海軍航空兵の搭乗訓練用シミュレーター開発計画として始まったプロジェクトは、戦後コンピューターを利用した防空システムへと拡張されて引き継がれた。一六か所のレーダー施設から送られてくる情報を集めてリアルタイムで処理するホワールウインドは、タイム・シェアリング・システムのもっとも早い応用例だった。さらにリアルタイムで現状を表示するために、ホワールウインドには初めてディスプレイが接続された。
このプロジェクトの成果は、一九五四年にアメリカが初めて配備した防空用早期警戒システム、SAGE( Semi-Automatic Ground Environment )に生かされた。同時にホワールウインドの開発過程で、信頼性の高い高速の記憶装置として、磁気コアメモリーが開発された。
MITで修士論文の準備を進めていたケン・オールセンは、論文をまとめ終わった直後、磁気コアメモリーの信頼性確認を主目的とする実験機、MTC( Memory Test Computer )の開発を担当するチャンスを与えられた。ホワールウインドは二五〇〇平方フィートを占有してしまうような巨大なマシンだったが、これと同じアーキテクチャーを持つものを、オールセンはごく小さく作ることで腕をアピールしたいと考えた。一つの部屋にラックを並べた形で収め、向かい合わせに制御卓を置き、カメラマンがマシン全体を写真に収められるようなものをオールセンは目指した。
当時、ホワールウインドのプログラマーとしてMITのデジタルコンピューター研究室に籍を置いていたウェズリー・A・クラークは、オールセンのMTCに鮮烈な印象を受けた。
強力なディスプレイを備えている点では、ホワールウインドは画期的だった。だが他のコンピューターの場合と同様、ユーザーはたいてい一五分ほどの割り当て時間しかマシンを占有できなかった。ところがはるかに小型化された実験機のMTCは、信頼性には問題はあったものの、分単位ではなく時間単位で自分一人で使うことができた。CRTディスプレイを生かした対話型の操作のメリットを、クラークはこのマシンで初めて痛感させられた。
この体験を通じてクラークは、小規模なコンピューターのビジョンを育てていった。
「コンピュータは道具だ、だから使い勝手は設計の最優先要素だ、大型機は大きな作業に、小型コンピュータは小さな作業に使えばよい、共有空間にいっしょにしまっておくよりも独立したパーソナルファイルのほうが安全だ」(『ワークステーション原典』所収「早すぎた小型コンピュータ『LINC』」)
クラークはケン・オールセンの協力を得て、道具としての性格を前面に押し出したTX―1の開発計画をまとめ、リンカーン研究所に提案した。新しい素子としてのトランジスターの実用性確認と、大容量の磁気コアメモリーのテストを公式な提案理由としてかかげたTX―1プロジェクトを、研究所の上層部は却下した。クラークはやむなく、規模を大幅に縮小したTX―0を再提案した。TX―0は一九五七年には運用開始にこぎ着け、クラークは続けてより大規模なタイプを、TX―2と名付けて開発に取り組んだ。
TX―0はMITの電気工学部に貸与されることになり、道具として開発された対話型のコンピューターに衝撃を受けて、ハッカーたちはこのマシンに張り付いた。
DECの創業にいたる上記の経緯は、『 DIJITAL AT WORK 』に明快かつ簡潔にまとめられている。
このプロジェクトの成果は、一九五四年にアメリカが初めて配備した防空用早期警戒システム、SAGE( Semi-Automatic Ground Environment )に生かされた。同時にホワールウインドの開発過程で、信頼性の高い高速の記憶装置として、磁気コアメモリーが開発された。
MITで修士論文の準備を進めていたケン・オールセンは、論文をまとめ終わった直後、磁気コアメモリーの信頼性確認を主目的とする実験機、MTC( Memory Test Computer )の開発を担当するチャンスを与えられた。ホワールウインドは二五〇〇平方フィートを占有してしまうような巨大なマシンだったが、これと同じアーキテクチャーを持つものを、オールセンはごく小さく作ることで腕をアピールしたいと考えた。一つの部屋にラックを並べた形で収め、向かい合わせに制御卓を置き、カメラマンがマシン全体を写真に収められるようなものをオールセンは目指した。
当時、ホワールウインドのプログラマーとしてMITのデジタルコンピューター研究室に籍を置いていたウェズリー・A・クラークは、オールセンのMTCに鮮烈な印象を受けた。
強力なディスプレイを備えている点では、ホワールウインドは画期的だった。だが他のコンピューターの場合と同様、ユーザーはたいてい一五分ほどの割り当て時間しかマシンを占有できなかった。ところがはるかに小型化された実験機のMTCは、信頼性には問題はあったものの、分単位ではなく時間単位で自分一人で使うことができた。CRTディスプレイを生かした対話型の操作のメリットを、クラークはこのマシンで初めて痛感させられた。
この体験を通じてクラークは、小規模なコンピューターのビジョンを育てていった。
「コンピュータは道具だ、だから使い勝手は設計の最優先要素だ、大型機は大きな作業に、小型コンピュータは小さな作業に使えばよい、共有空間にいっしょにしまっておくよりも独立したパーソナルファイルのほうが安全だ」(『ワークステーション原典』所収「早すぎた小型コンピュータ『LINC』」)
クラークはケン・オールセンの協力を得て、道具としての性格を前面に押し出したTX―1の開発計画をまとめ、リンカーン研究所に提案した。新しい素子としてのトランジスターの実用性確認と、大容量の磁気コアメモリーのテストを公式な提案理由としてかかげたTX―1プロジェクトを、研究所の上層部は却下した。クラークはやむなく、規模を大幅に縮小したTX―0を再提案した。TX―0は一九五七年には運用開始にこぎ着け、クラークは続けてより大規模なタイプを、TX―2と名付けて開発に取り組んだ。
TX―0はMITの電気工学部に貸与されることになり、道具として開発された対話型のコンピューターに衝撃を受けて、ハッカーたちはこのマシンに張り付いた。
DECの創業にいたる上記の経緯は、『 DIJITAL AT WORK 』に明快かつ簡潔にまとめられている。
DECの創業当時、将来の可能性は感じさせてはいたものの、コンピューターはいまだビジネスの軌道に乗っていなかった。投資会社の意見を入れて事業計画から〈コンピューター〉という文字を外し、DECは組み合わせによってコンピューターや機器のコントローラーを作ることができる回路モジュールの開発から着手した。
創業した一九五七年に100シリーズのモジュールを開発して以来、DECはモジュール製品のラインナップを拡張していった。ある特定の機能を持った回路を一まとめにしたモジュールは、その後誕生する集積回路の先駆けとしての性格を持っていた。TX―0の後継機としてTX―2の設計にあたったクラークは、オールセンがMIT時代に設計していたモジュールを使うことで素早く作業を終えることができた。
その一方でDECは、自分たちの回路モジュールを組み合わせて、会社設立の本来の目標であった〈道具としてのコンピューター〉の開発にも着手した。リンカーン研究所でTX―0やTX―2の開発に携わっていたベン・ガーリーが一九五九年にDECへ移り、プログラム・データ・プロセッサーを略してPDP―1と名付けられるマシンの設計にあたった。
一九五九年十二月にボストンで開かれたジョイントコンピューター会議において、DECは初のマシンとなるPDP―1のプロトタイプをデモンストレーションする。
ホワールウインドを祖父、TX―0を父とするPDP―1は、兄弟の関係にあるTX―2と同様に、リンカーン研究所で育まれた〈道具としてのパーソナルコンピューター〉の伝統を引き継いでいた。紙テープを打ち出すタイプライターとブラウン管ディスプレイを備えたPDP―1の本体は、キャビネット三台分ときわめて小さく仕上がっていた。数百万ドルという当時のコンピューターの常識的な価格に対して、PDP―1は一二万ドルときわめて安かった。
従来のものと比べ、はるかに小型で低価格だったことから、DECのマシンはミニコンピューターと呼ばれることになった。
使い勝手を重視したミニコンピューターは、まずさまざまな分野の研究者たちから格好の道具として注目を集めた。PDP―1はつごう五〇台が製造されたが、出荷が始まった直後から、ユーザーである研究者たちは横の連絡をとり合った。彼らはDECUS( Digital Equipment Computer Users Society )と名付けた組織を作り、PDP―1に関する情報と、自分たちが開発したプログラムを共有化しはじめた。DECはつぎつぎと新機種の開発を進め、先進的なユーザーが書きためていったソフトウエアが相互に利用されたことで、大学や研究機関へのミニコンピューターの普及にいっそうの拍車がかかった。
一九六五年四月から出荷されたPDP―8は、DECの成長に決定的な弾みをつけた。従来の機種ですでに採用してきた枯れた技術で構成した代わり、DECはPDP―8で小型化と低価格化を徹底して推し進めた。一万八〇〇〇ドルにまで価格を抑えられたこのマシンは、まさにタイプライターのように机の上に置くことができた。これによってPDP―8は、工作機械やプラントの制御という新しいコンピューターの用途を開いていった。
一九七〇年には一六ビットのPDP―11シリーズ、一九七七年には三二ビットのVAXシリーズを発表してヒットさせたDECは、その後も急成長の勢いを落とさず、一九八一年にはついにIBMに続く売上高世界第二位のコンピューターメーカーとなった。
既存の市場では徹底したライバルの押さえ込みに成功してきたIBMは、視野の外にあった超小型市場の開拓をDECに許した。そして一九七〇年代後半、ミニコンピューターのさらに下位に、パーソナルコンピューターの世界が開けつつあった。
IBMを支えてきた枠組みを、再び大きな衝撃が見舞おうとしていた。
世界標準機
IBM PCの誕生
IBMにとっては最下位に位置づけられるマシンをになう、エントリーシステムズ部門の研究所長を務めていたウイリアム・ロウは、一九八〇年七月、トップの顔をそろえた全社経営委員会でパーソナルコンピューター市場に参入する必要性を訴えるチャンスを得た。
パーソナルコンピューターの市場はすでに、目覚ましい勢いで成長を遂げていた。この市場に早急に、可能なら一年以内に乗り込んでいくためには、パーソナルコンピューターの会社を買収するか、製品は自社の技術で作るというIBMの大原則からはずれて、マシンの構成要素を外部から買い集めて開発するしかない。
ロウはそう訴えた。
この市場を放置すれば第二、第三のDECの台頭を許しかねないと懸念していた社長のジョン・オペルをはじめとするトップは、自社開発を前提として計画をまとめ、一か月で試作機を仕上げたうえで再度全社経営委員会に諮るよう求めた。
ロウは一三名のスタッフを選んで、研究所のあるフロリダ州のボカラトンに集めた。本番の製品とはかなり異なることを覚悟のうえで試作機作りが開始され、業務計画の検討と外注先への接触が並行して進められた。
真っ白な紙に筆を下ろすように、開発チームはゼロからマシンの仕様検討に着手した。
まず、中心となるマイクロコンピューターには、どこのメーカーのものを使うのか。
既存のパーソナルコンピューターは、いずれも八ビットをとっていた。とすれば新しいマシンも八ビットでいくのか。それとも一歩先んじて一六ビットをとるのか。
市場で特に大きなシェアを獲得しているアップル
は、ハードウエアの仕様を全面的に公開するオープンアーキテクチャーをとって、サードパーティーによる増設ボードや周辺機器の開発に門戸を開いていた。革新的な技術を武器とする企業にとって、自社の技術を特許を含めたあらゆる手段で保護することは、常識以前だった。その常識をはずれて、郷に入れば郷に従い、オープンアーキテクチャーで臨むのか。さらにIBMにとってまったく経験のない桁外れの低価格商品となるこのマシンを、どのような販売ルートで流すかも大きな検討課題だった。
さまざまな問題が山積する中で、選択の余地のないのがベーシックとOSだった。
パーソナルコンピューターの標準言語となっているベーシックでは、マイクロソフトが主導権を握っていた。異なったメーカーのマシンに採用されているOSとしては、デジタルリサーチのCP/Mが唯一の存在だった。
開発チームのスタッフはアメリカ大陸を東から西へと飛んで、カリフォルニア州モントレーのデジタルリサーチと、ワシントン州ベルビューのマイクロソフトを訪れた。
七月の終わり、スタッフがデジタルリサーチを訪ねると、アポイントメントを取り付けていたにもかかわらずキルドールは席をはずしていた。IBM側はまず、「話し合いの中で明らかにされた内容は外部に漏らさない」とする守秘義務合意書へのサインを求めた。応対したキルドールの妻は、なじみのない肩肘を張ったやり方に不安を覚え、顧問弁護士の意見に従って署名を差し控えた。入り口で引っかかったまま、デジタルリサーチとの最初の会見は実りなく終わった。報告を受けたキルドールは合意書へのサインを拒むべきだとは考えなかったが、話の中身が分からないままに自分からIBMに働きかけようとはしなかった。デジタルリサーチは、ヒューレット・パッカード(HP)社へのCP/Mの供給交渉を進めている最中だった。一六ビットの8086にCP/Mを対応させる作業は遅れ遅れとなっており、やるべき仕事はいくらでもあった。
加えてカリブ海で休暇を楽しむスケジュールが、目の前に迫っていた。
同じく七月の終わりに、相手に合わせてわざわざスーツを着込んでIBMのスタッフを迎えたビル・ゲイツは、市場調査と称してマイクロソフトの言語の開発体制に関して漠然とした質問を繰り返す彼らに、内心で首をひねっていた。八月に入ってからの二度目の訪問時に守秘義務合意書にサインをすませると、謎が明かされた。
彼らはCP/Mとマイクロソフトのベーシックを載せた八ビット機を開発し、すでに人気を集めているプログラムの多くが使えることをマシンの売り物にしようと考えていた。
彼らの用件は、従来どおりROMに収めた形で供給するベーシックをIBMのマシンに提供する用意があるかとの打診だった。
ゲイツは依頼されれば喜んで引き受けると答えたが、一年後に発売を始める予定の新しいマシンを八ビット構成とすることには疑問があると付け加えた。
インテルはすでに、一九七八年の六月に一六ビットの8086を発表していた。八ビット単位で処理を進める8080に対し、一六ビット単位の8086は処理速度を大きく向上させていた。さらに8080が六四Kバイトのメモリーまでしか扱えなかったのに対し、8086は一六倍に相当する一〇二四Kバイト(一Mバイト)まで管理する機能を持っていた。
もちろん新世代のマイクロコンピューターが誕生しても、そのメリットを生かしたマシンが作られ、これに対応した言語やOSが用意され、その基盤の上でアプリケーションが書かれるまでには時間がかかる。
だがゲイツには、パーソナルコンピューターが一六ビットへの転換期を目前に控えていることは明らかだった。企業のコンピューター市場で絶対的なブランドイメージを誇るIBMがビジネス市場に向けて送り出すマシンなら、なおさら一六ビット化は不可避に思えた。
八月初旬、ロウは試作機をたずさえて再度全社経営委員会に臨み、短期間の調査をもとにまとめたパーソナルコンピューターの事業計画を諮った。
マイクロコンピューターにはインテルの一六ビット版を採用し★、マイクロソフトのベーシックを載せ、オープンアーキテクチャーで臨み、外部の販売ルートに乗せて小売店で売り出すという計画に、委員会はゴーサインを出した。
★『帝王の誕生』の著者である、ステファン・メインとポール・アンドルーは、ウィリアム・ロウへのインタビューをもとに、この時点で委員会に報告されたPCの当初計画の概要を同書に記している。
八月六日に全社経営委員会に行った報告では、PCは8088を採用し、三二KバイトのROM、一六KバイトのRAM、増設スロット六個のほか、さまざまなオプションを備えるとされた。オプションとして示されたものには、最大二五六KバイトへのRAMの拡張、プリンター接続用アダプター、カラーもしくは白黒のディスプレイ、八インチのディスクドライブ、浮動小数点演算用プロセッサー、ジョイスティックがあった。現実に発表されたマシンでは、スロットは五つとされ、八インチのドライブは五インチに変更されていた。だがこの時点で、PCのスペックはほぼ固まっていたことが分かる。
同書はこの指摘に引き続いて、PCが八ビット機ではなく一六ビット機として構想されたことを、誰の貢献に帰すべきかという点に触れている。
ビル・ゲイツとマイクロソフトは、「IBMの計画は当初、時代遅れの八ビットのデザインによっており、我々がこの計画を放棄させた」と主張している点に関して、著者は「理解できるが誤っている」とこれを退けている。
非公式にマンハッタン計画と呼ばれていたというPCプロジェクトで、ソフトウエアの調達を担当していたジャック・サムズにインタビューした際、同書の著者は、この問題に関するサムズの主張を聞き取った。マイクロソフトとの最初の会見では、第一に情報漏れを警戒していたというサムズらは、ごく一般的な考え方にしかこの場では触れなかった。八ビットの計画への言及は、主要にはマイクロソフトの目をごまかすためのものであり、確かにその場でゲイツは一六ビットを主張し、「我々がうなずいたことは確か」ではあるものの「そんなことはとうに承知だった」。IBMのエンジニアは、最下位機種を八ビットのチップを使って作ろうとして悪戦苦闘した経験を持っており、二度と悪夢を体験しようなどと思ってはいなかった、というサムズの主張を入れて、著者はマイクロソフト側の主張を却下した。
似通った見解のぶつかり合いは、筆者自身もPC―9801のコンセプトの決定過程に関して体験することとなった。情報処理グループ側の複数の関係者からは、「当初のオフィスコンピューターの超小型版というイメージはごく暫定的なものであり、渡辺和也氏からの提案によって堂々と、遠慮なく従来の路線を継承できるようになったあとは、我々自身がオープンアーキテクチャーを独自に発見していった」といったニュアンスのコメントが寄せられた。一方電子デバイス側には、旧態依然たる発想を打ち破る提案は、我々が示したとの記憶が残っている。
PCとPC―9801の基本構想を誰が定めたかに関する対照的な見解はともに、当事者の記憶の中ではそのとおりの、正直なものであるだろう。こうした相反する見解を前にして、『帝王の誕生』の著者は主流側に重心を置き、『パソコン創世記』の筆者はやや傍流側に体重をかけて取りあえず問題をさばいている。最終的には直感と気合いで上げた軍配ではあるが、ここにいたるまでは異なった角度からの証言を集めていることを言い訳させていただき、妥当性に関してはさまざまな立場からの批判を仰ぎたい。
八月六日に全社経営委員会に行った報告では、PCは8088を採用し、三二KバイトのROM、一六KバイトのRAM、増設スロット六個のほか、さまざまなオプションを備えるとされた。オプションとして示されたものには、最大二五六KバイトへのRAMの拡張、プリンター接続用アダプター、カラーもしくは白黒のディスプレイ、八インチのディスクドライブ、浮動小数点演算用プロセッサー、ジョイスティックがあった。現実に発表されたマシンでは、スロットは五つとされ、八インチのドライブは五インチに変更されていた。だがこの時点で、PCのスペックはほぼ固まっていたことが分かる。
同書はこの指摘に引き続いて、PCが八ビット機ではなく一六ビット機として構想されたことを、誰の貢献に帰すべきかという点に触れている。
ビル・ゲイツとマイクロソフトは、「IBMの計画は当初、時代遅れの八ビットのデザインによっており、我々がこの計画を放棄させた」と主張している点に関して、著者は「理解できるが誤っている」とこれを退けている。
非公式にマンハッタン計画と呼ばれていたというPCプロジェクトで、ソフトウエアの調達を担当していたジャック・サムズにインタビューした際、同書の著者は、この問題に関するサムズの主張を聞き取った。マイクロソフトとの最初の会見では、第一に情報漏れを警戒していたというサムズらは、ごく一般的な考え方にしかこの場では触れなかった。八ビットの計画への言及は、主要にはマイクロソフトの目をごまかすためのものであり、確かにその場でゲイツは一六ビットを主張し、「我々がうなずいたことは確か」ではあるものの「そんなことはとうに承知だった」。IBMのエンジニアは、最下位機種を八ビットのチップを使って作ろうとして悪戦苦闘した経験を持っており、二度と悪夢を体験しようなどと思ってはいなかった、というサムズの主張を入れて、著者はマイクロソフト側の主張を却下した。
似通った見解のぶつかり合いは、筆者自身もPC―9801のコンセプトの決定過程に関して体験することとなった。情報処理グループ側の複数の関係者からは、「当初のオフィスコンピューターの超小型版というイメージはごく暫定的なものであり、渡辺和也氏からの提案によって堂々と、遠慮なく従来の路線を継承できるようになったあとは、我々自身がオープンアーキテクチャーを独自に発見していった」といったニュアンスのコメントが寄せられた。一方電子デバイス側には、旧態依然たる発想を打ち破る提案は、我々が示したとの記憶が残っている。
PCとPC―9801の基本構想を誰が定めたかに関する対照的な見解はともに、当事者の記憶の中ではそのとおりの、正直なものであるだろう。こうした相反する見解を前にして、『帝王の誕生』の著者は主流側に重心を置き、『パソコン創世記』の筆者はやや傍流側に体重をかけて取りあえず問題をさばいている。最終的には直感と気合いで上げた軍配ではあるが、ここにいたるまでは異なった角度からの証言を集めていることを言い訳させていただき、妥当性に関してはさまざまな立場からの批判を仰ぎたい。
OSを採用するのか。載せるとすればやはりCP/Mなのかは、この段階では空白のまま残された。
ロウはここまでのレールを敷き終えたのち、エントリーシステムズに籍を置いていたフィリップ・D・エストリッジにプロジェクトの統括を任せた。小型システムの開発に携わり、自宅ではアップル
をいじっていたエストリッジにとって、パーソナルコンピューターはまさに自分の仕事だった。計画が正式にスタートした直後から、マシンのハードウエアの詳細な検討が始まった。一六ビット構成とするという方針は固まっていたが、開発チームには新世代の高機能マシンを作るといった気負いはなかった。基本はあくまで、出来合いのものを使って可能な限り早く、IBMのロゴマークの入ったパーソナルコンピューターを作ることだった。この基本路線に沿って選ばれたマイクロコンピューターは、八ビットと一六ビットの中間的な性格を持つ8088だった。
ビル・ゲイツが採用を促した8086は、チップ内部の処理も周辺の回路とのやり取りもともに一六ビットで行った。一方8086の半年後に発表された8088では、外部とのデータのやり取りが八ビットに抑えられていた。この機能の切り下げによって、8088の処理速度は8086に比べて遅くなった。その代わり8088を使えば、すでに数多く開発され、供給の安定している八ビット対応の部品を利用することができた。
九月に入って、ベーシック以外のフォートランやコボル、パスカルといった言語も供給できるかとの打診が、開発チームからマイクロソフトに寄せられた。
アルテアへの移植以来、マイクロソフトはベーシックをさまざまな機種に載せてきた。その一方でマイクロソフトは、一九七七年七月にはフォートランを、一九七八年六月にはコボルの発売を開始し、言語製品のラインナップを広げていた。
ベーシックに関しては、当時のパーソナルコンピューターの大半がROMに収めた形で備え、電源を入れると自動的にベーシックが立ち上がるように仕立てていた。一方その他の言語の供給を始めるにあたって、マイクロソフトはCP/Mの存在を前提とする道を選んだ。マイクロソフトのフォートランとコボル、パスカルは、CP/Mに対応して書かれていた。ユーザーはまず自分のマシン用のCP/Mを用意して読み込ませ、そのうえでマイクロソフトの言語を使うという手順を踏んだ。
デジタルリサーチのOSとマイクロソフトの言語は、互いに依存しながらお互いの存在価値を高め合う、強力なコンビを組んでいた。
IBMにベーシック以外の言語も求められたマイクロソフトには、デジタルリサーチをこのプロジェクトに引きずり込んでともに全力疾走するか、言語とOSで棲み分けるという従来の協調関係を清算して、別の新しいOSに言語を対応させるかの二つの選択があった。だが、まったく新しいOSに対応させるとなれば、開発に大きな労力が必要となることが予想された。加えてこの道を選ぶには、新しいOSの供給者が必要だった。ROMに収めて組み込む方針が定められていたベーシック以外の言語を提供するためには、マイクロソフトは道を選ばざるをえなかった。
だがさまざまな要素が複雑に絡み合った問いに、一発でけりを付ける絶妙な解が、ワシントン湖の対岸に転がっていた。
シアトル・コンピューター・プロダクツというハードウエアメーカーのために8086を使ったマシンを開発したエンジニアのティム・パターソンは、一六ビットに対応したCP/M―86の開発が遅れ遅れとなっていることにしびれをきらしていた。
デジタルリサーチからの発売をこれ以上待っていられないと考えたパターソンは、一九八〇年四月、自分で8086用のOSを書きはじめた。業界標準がCP/Mであることを承知していたパターソンは、CP/M―86が完成するまでの取りあえずのつなぎと割り切ってCP/Mをそのまま一六ビットに対応させ、名前も自虐的にQDOS( Quick and Dirty Operating System )と付けた。シアトル・コンピューター・プロダクツは自社の名前を冠して、これをSCP―DOSと呼び替えた。
一九八〇年九月二十八日、ビル・ゲイツとポール・アレン、そして日本市場へのベーシックの売り込みを大成功させてマイクロソフトの副社長の肩書きを得ていたアスキーの西和彦は、IBMのマシンを中心に絡まり合った問題を解くために、えんえんと論議を続けた。
もっとも大胆で挑戦的な選択は、SCP―DOSを買い取ってマイクロソフト自身がこれをIBMのマシン用に仕上げ、ここにフォートランとコボルとパスカルを載せる道だった。だがこの道を選べば短期間でのベーシックの移植に加えて、その他の言語の移植、さらにSCP―DOSの仕上げまで抱え込むことになった。しかも相手は契約契約で物事を進め、納期にもきわめて厳しいはずのIBMだった。
結論を導いたのは、西だった。
「このチャンスを絶対に逃すべきじゃない。IBMを踏み台にして大きくなるんだ。なんとしてもやるんだ」
堂々めぐりの論議を断ち切るように西が吼えた。
ゲイツとアレンには、SCP―DOSをもとにするとはいえ短期間でまともなOSが作れるだろうかとの懸念が最後まであった。
だが「零戦だって三度作りなおしている。取りあえずそれで作っておいて、何度でも作りなおせばいいじゃないか」との西の駄目押しで、ゲイツとアレンも腹を括った。
シアトル・コンピューター・プロダクツに連絡がとられ、売り先は伏せたままマイクロソフトはCP/MまがいのOSの販売権を買い取った。申し入れのあった四つの言語に加えて、我々はOSを提供する準備があるとの回答がマイクロソフトからIBMの開発チームに寄せられた。
一九八〇年十月、全社経営委員会は開発プロジェクトの実行可能性の再点検を行った。
検討の結果、委員会は進行状況に合格点を与え、プロジェクトには独立事業単位(IBU)と呼ばれる組織的な位置づけが与えられた。
巨大化した組織が往々にして官僚的な手続きを煩雑化させ、迅速な処理の足を引っ張ることを自覚していたIBMは、社員の自発的な試みを後押しする受け皿となることを目指して、独立事業単位という制度を用意していた。この制度の適用を受けた開発チームは、大きな自由裁量権と人的、資金的な裏付けを得て開発に邁進した。
一九八〇年十一月六日、マイクロソフトはIBMのパーソナルコンピューターに言語とOSを提供する契約を取り交わした。
翌一九八一年八月十二日、開発チームはついにIBM PCの発表にこぎ着けた。
マイクロコンピューターは、8088。メモリーは基本構成で一六Kバイトを備え、最大二五六Kバイトまで拡張できた。ベーシックは従来の流儀に従って、ROMに収められていた。本体内には拡張ボードを差し込むための増設スロットが五つ用意されており、オプションにまわされた容量一六〇Kバイトの五インチドライブを二台組み込むスペースが空いていた。キーボードはビジネス用を意識して、大きめのタッチのよい本格的なものが用意されており、従来のマシンで一般的だったカセットテープレコーダーもつながるようになっていた。
PCのハードウエアには見る者を驚かせるような要素はなかったが、ディスプレイへの表示を受け持つ回路の構成には、ユニークな点があった。
ビデオ表示回路は本体に組み込むのではなく、増設ボード扱いとされていた。このビデオボードには、白黒の画面に文字だけを表示するMDA( Monochrome Display Adapter )と、カラーで文字と図形を表示できるCGA( Color Graphics Adapter )の二種類が用意されていた★。だがこのビデオボードに関しても、性能的には驚く要素はなかった。
★白黒のMDAは七二〇×三五〇ドットの解像度を備えていたが、カラーのCGAは二色で六四〇×二〇〇、四色では三二〇×二〇〇ドットしか表示できなかった。一方一九七七年に発表されたアップル
は、六色で二八〇×一九二ドットを表示する高解像度モードを持っており、PCの表示機能はむしろ貧弱な印象を与えた。
は、六色で二八〇×一九二ドットを表示する高解像度モードを持っており、PCの表示機能はむしろ貧弱な印象を与えた。OSはオプションにまわされていたが、マイクロソフトの開発したPC―DOSに加えて、デジタルリサーチのCP/M―86とソフテックマイクロシステムズのp―Systemの供給も予定されていることが明らかにされた。さらに発表によれば、IBMはPC用にパーソナルソフトウエアのビジカルクやピーチツリーソフトウエアの三種類の会計プログラムなど、これまで八ビット機で人気を集めてきたソフトウエアを自社から供給するとしていた。あわせて供給を約束したイージーライターと呼ばれるワードプロセッサーに関しては、IBMはもっともIBMらしからぬ人物と組むことさえ厭わなかった。伝説的な長距離電話ただがけ装置、ブルーボックスの開発で知られる反体制派技術者、キャプテンクランチことジョン・ドレイパーは、アップル
用にワードプロセッサーを書き、イージーライダーをもじってイージーライターと名付けて好評を博していた。これに目を付けたIBMは、ドレイパーに依頼してPC用に書きなおさせていた。IBMはこのPCを、従来からの自社の販売ルートに加えて、シアーズローバックやコンピュータランドを通じて売ることを明らかにした。
PCで唯一衝撃的な要素は、IBMがこのマシンに関して徹底したオープンアーキテクチャーで臨むとした点だった。回路図からさまざまな技術情報、システムソフトウエアの核となるBIOSの中身にいたるまで、IBMはPCのすべてを全面的に公開する方針を打ち出した。
PCの価格は、基本構成で一五六五ドル。出荷開始は十月と発表された。
PC―DOSと並んでCP/M―86がIBMから供給されることになるにあたっては、デジタルリサーチとIBMのあいだで事前にトラブルがあった。マイクロソフトがPC用に開発したというOSを発表の直前になって入手したゲアリー・キルドールは、その機能がCP/Mそっくりそのままであることに気付いた。解析ツールを用いて調べてみると、プログラムをそのままコピーしたとしか思えない箇所まで出てきた。キルドールはIBMに強く抗議したが、結局CP/M―86もPC用のOSとしてIBMから販売することで矛をおさめた。
だがCP/M―86の発売は一九八二年四月までずれ込み、価格もPC―DOSの六〇ドルに対して二四〇ドルと設定された。
一六ビットの世界に確かに片足を踏み込んだとはいえ、PCは傑出したマシンではありえなかった。だがコンピューターの世界に君臨してきたIBMのロゴマークを付けているにもかかわらず、PCはアルテア以来の「共棲」をキーワードとした流儀を受け入れた、じつにパーソナルコンピューターらしいマシンに仕上がっていた。
PCの発表直後の八月二十四日、アップルは地元紙のサンノゼマーキュリーに「本気でウエルカム、IBM殿」と全面広告を打った。
「三五年前に始まったコンピューター革命の中においても、もっともエキサイティングで重要な市場へようこそ」
だがIBMの独立事業単位が自社の伝統によらず、パーソナルコンピューターの文化に沿ったことで、PCの投げかけた波紋は誰にも予想できなかったほど、長く遠く、いつまでも広がっていくことになった。
日電版IBM PCには
マイクロソフトのベーシックが必要だ!
浜田俊三にとって、IBM PCは二重の衝撃だった。
あのメインフレームの覇者が、オフィスコンピューターによるアメリカ進出の障害となってきたパーソナルコンピューターの市場に、ついに乗り出してきた。しかもPCは、一六ビット機の開発にあたって渡辺和也が浜田に突き付けた要求をそっくりそのまま受け入れた形をとっていた。
浜田は小型版システム100の開発にあたっている戸坂に連絡をとり、入手したPCに関する資料をはさんで話し合う機会を持った。新聞の第一報に引き続いて、内外のパーソナルコンピューター専門誌がPCの速報記事を掲載しはじめていた。マイクロソフトのベーシックとCP/Mとの互換性を持ったPC―DOSを柱とし、CP/M―86も提供していくとするIBMの柔軟な姿勢には、多くの記事が驚きも交えて高い評価を与えていた。PCのスポークスマンを務めるフィリップ・D・エストリッジが、増設ボードの開発者に向けて技術情報を全面的に開示したマニュアルを作成すると発表した点も、話題となっていた。
戸坂はIBMがPCにどのような技術を盛り込んだのかに、強い興味を抱いていた。浜田はIBMの打ち出したパーソナルコンピューターらしいパーソナルコンピューターを作るという方針が、市場からどう評価され、どの程度の売れ行きを示すか、すぐにでもその答えを知りたかった。
PCを可能な限り早く入手するとともに、市場の動向に注視する。そう確認しあってから、浜田はもう一つの道を選ぶ可能性に関して戸坂の意見を求めた。
「もしも渡辺の提案を受け入れてIBM PCのようなマシンを作るとすれば、どこが開発作業のポイントとなり、市場はこれをどう評価するだろうか」
市場の反応は、いかようにも読めた。だが開発上の問題点は、すでに明らかだった。ハードウエアの開発には、さして問題はなかった。ポイントは、マイクロソフトのベーシックにつきた。
アスキーの西和彦が窓口となり、マイクロソフトはこれまで電子デバイス事業グループの渡辺の部隊と絶妙のコンビを組んで仕事を進めてきた。こと日本市場に関する限り、アスキー、マイクロソフトと渡辺たちは、一蓮托生だった。そこにまったく付き合いのなかった情報処理事業グループが乗り込んでいくとして、彼らは果たしてどんな態度で接するだろうか。
浜田は、その一点を確かめたいと考えた。
一九八一(昭和五十六)年九月、浜田はアスキーの西に電話を入れ、アポイントメントを取り付けた。
西和彦は南青山に棲んでいた。
新聞や雑誌で見たとおりの長髪。黒縁の眼鏡の奥で、細い目が微笑みながら浜田を迎えた。だが腰を下ろした西が、二、三度立て続けに咳払いすると、浜田は見知らぬ異国の街角に一人立たされたような不安をふいに覚えた。腕も首も胸も太い西を包む空気が、彼の内から染み出してくる圧力を受けてじっとりと密度を増していた。
骨の奥まで透かし込んでくるような浜田俊三の視線に、西はもう一度絞り出すように喉を鳴らした。
スーツに身を固め、ネクタイで自らを縛り付けているものの、彼が生まれついてのファイターであることはかみそりを合わせたような浜田の口元が雄弁に物語っていた。
浜田によれば、日本電気の情報処理事業グループでは、パーソナルコンピューターの開発を検討しているという。このプロジェクトの方向付けに関するすり合わせで、渡辺和也は「従来の八ビット機のものと互換性を持ったマイクロソフトのベーシックを採用するべきだ」とアドバイスした。
そう事情を説明した浜田は、「従来のものと互換性を持った8086版を書いてくれれば、我々には購入する用意がある。もしも開発を依頼したとすれば、どの程度の期間で仕上げることができるだろうか」と用件を切り出した。
情報処理事業グループがパーソナルコンピューターに乗り出してくることにも、PC―8001の延長線上に一六ビット機を想定しようとすることに関しても、西に驚きはなかった。
こと日本では、当初から大手の電気メーカーがパーソナルコンピューターを商品化していったが、多くの企業でその作業をになったのは傍系の半導体部門だった。だがIBMがこの市場に参入してきたように、本家のコンピューター部隊が急成長を遂げる分野に橋頭堡を築こうと考えることは、ごくごく自然な成り行きだった。その際、ハードウエアからソフトウエアまで一切合財自前でそろえるという従来の常識を捨てて、パーソナルコンピューターの流儀に沿うことは、彼らにとって成功の秘訣となるに違いなかった。
その当然の策を、浜田はとりたいという。
IBMのプロジェクトへの参加がマイクロソフトに大きなチャンスを与えてくれたように、日本電気のコンピューター部隊による本格的な市場参入もまた、アスキーとマイクロソフトにとってさらなる飛躍の推進力となる可能性を持っていた。
だが西は、浜田の打診に即答することを避けた。
「ビルにも相談して、お返事させてください」
そう答えたあとは、IBM PCの好調な滑り出しに、話題を移した。出荷までまだ間があるにもかかわらず、PCは予想を大幅に上回る注文を集めていた。今回PC用にマイクロソフトが開発したOSは、いずれCP/Mと勢力を二分するほど成長するに違いないと付け加えるのを、西は忘れなかった。
十月から出荷の始まったIBM PCが、目覚ましい勢いで売れ行きを伸ばしているとのレポートを睨みながら、浜田は焦れながら西の回答を待ち続けた。
「最終的なご返事がしたい」として、来訪を求める連絡が入ったのは、もう十二月間近になってからだった。
三、四か月、悪くすれば半年と、浜田は西の答えを予測しながらアスキーに向かった。だが浜田を待ち受けていたのは、実質的な開発の拒絶だった。
「残念ですけれど、お申し入れの件にはすぐには対応できません」
そう切り出した西はその根拠として、マイクロソフトの開発スタッフがすでに膨大な作業を抱えている点に加え、「もうこれ以上ベーシックの分岐に拍車をかけたくない」のだとした。
「どうしても書いてほしいとお願いしたとして、いつまで待てば可能性がありますか」
西の言葉が消えきらぬうちに、かぶせるように浜田がたずねた。
黙りこくったまましばらく視線を宙に遊ばせてから、西は、β版と呼ばれる完成前の試作バージョンを出せるのがちょうど一年後、来年の十一月になるだろうと答えた。木で鼻をくくったような答えに、浜田は舌打ちを前歯でかみ殺した。
黙りこくった浜田に、今度は西が代案を示した。
マイクロソフトはPC用に開発したベーシックとまったく同じ機能を持つものを、内部の構造をより整理して書きなおしており、一六ビット対応の決定版としてGWベーシックの名称で販売する準備を進めている。このGWベーシックを日本語化するという形であれば、もっと早く提供できるだろう。
「申し上げているとおり、我々がお願いしたいのはこれまでのものと互換性を持ったベーシックです」
あらためてそう確認してみせる以上、浜田には言うべきことはなかった。
ゲイツとの打ち合わせを経て固めた方針を、いささかも変更する気持ちが西にないのは、彼の視線の太さが物語っていた。
浜田のてのひらから砂がこぼれ落ちるように、浮かび上がりかけた選択肢が消えていった。
早くも揺らぎはじめた
三本立てパソコン事業体制
IBMのPCが浜田を西のもとに走らせた直後、日本電気はおよそ二年で約一二万台を売り上げたPC―8001の上下に新しい二つのシリーズを加え、パーソナルコンピューターのファミリーを形成してラインナップの充実を目指す方針を明らかにした。
一九八一(昭和五十六)年九月に同時に発表されたこの二つのマシンは、一六ビットのビジネスは情報処理、家庭用は新日本電気、そして両者の中間を電子デバイスがになうという新体制に沿っていた。
だがあらためて発表予定の広報資料を前にした大内の胸の奥に、新機種は細い懸念の雨を降らせていた。
何かが足りなかったのではない。
問題は過剰だった。
当初PC―8001を超える本格的な八ビット機として想定された新日本電気のマシンは、電子デバイスとの長い押し合いを経て大幅にスケールダウンし、低価格と手軽さを売り物にした入門機と位置づけられた。
初めてパーソナルコンピューターに触れる層を意識したPC―6001は、プログラムを収めたカートリッジ型のROMを本体のスロットに差し込んで電源を入れれば、すぐにゲームなり学習物なりのアプリケーションを使いはじめられるようになっていた。開発グループによる事前の働きかけによって、出荷までに五〇種類のPC―6001用のプログラムがサードパーティーから発売され、近々に二〇〇種類まで拡大されるとアナウンスされた。PC―6001はマイクロソフトのベーシックを採用していたものの、PC―8001に採用されたN―BASICとは一部異なった点があり、従来のプログラムをそのまま使うことはできなかった。
もう一方電子デバイス部隊から発表されたPC―8801は、明確に仕事のマシンを志向していた。
開発にあたった後藤をはじめとするスタッフは、解像度をPC―8001のレベルから大幅に高め、形の複雑な漢字を表示できる基盤を整えてビジネスの需要に応えようとした。
富士通はすでにこの年の四月、漢字ROMをオプションで追加できる初めての漢字パーソナルコンピューター、FM8を発表していた。
このFM8を追うために短期間での開発を余儀なくされたPC―8801も、漢字ROMを標準で持つところまでは踏み切れなかった。ただしオプションでROMを追加すれば、白黒の六四〇×四〇〇ドットの画面に八〇〇字の漢字を表示することができた。あらたに用意されたプリンターの側にもROMを組み込めば、漢字仮名交じりの文書を打ち出すこともできるようになった。
レベルアップしたハードウエアの性能を生かすべく、PC―8801には大幅に機能拡張されたマイクロソフト製のN88―BASICが搭載された。加えて従来のN―BASICもあわせて持たせることで、これまでPC―8001で使ってきたプログラムもそのまま利用できるよう配慮されていた。
「PC―8800シリーズは大容量のデータ処理機能や日本語処理機能を有した高級機で、PC―8000シリーズの上位機種として、近年需要の拡大が著しいOAなどのビジネス用途向けに開発された製品であります」
大内は広報資料に謳われたPC―8801の開発意図を、もう一度視線で追った。
確かにPC―8801は八ビット機ではあった。だがはっきりとビジネスに焦点を合わせたPC―8801の性能は、かなりの部分で発表になったばかりのIBMの一六ビット機、PCを上回っていた。
まったく新しい市場を独力で切り開いた電子デバイスの成功があって、新日本電気と情報処理がパーソナルコンピューターへ名乗りを上げてくる中で、グループ内での直接の衝突だけは避けようと、日本電気は大内の主導でビジネスとホームを両極に置いた三つの路線を敷いた。だが混沌としたホビイの海に浮かび上がったと思うと、見る見るせり出して大陸への成長を予感させるビジネスの島に、中位機をになう電子デバイス部隊は当然すぎるほど当然にも焦点を当ててきた。
確かに8ビットという枠の内にはあった。
だが彼らは、早くも与えられた枠組みの天井を叩いていた。
PC―8801は大内の目に、逸脱の一歩手前まで迫っているように映った。
ここまで二人三脚でパーソナルコンピューターを切り開いてきた渡辺和也が、天井を突き破って一六ビットに乗り出し、ビジネス市場開拓の先頭に立ちたいと願っていることを、大内は痛いほど承知していた。彼らの部隊により多くの人材を投入し、組織を強化していけば、それだけの見返りをもたらす市場であることも間違いはなかった。
だが大内は、産み落とした子を最後まで育てたいという渡辺の思いを彼の言動に感じとるたびに、副社長という自らの役割を思って精神のバランスを保った。
一九八〇(昭和五十五)年六月、日本電気本流の通信畑からのし上がった関本忠弘が、田中忠雄に代わって社長の座についた。
一九四八(昭和二十三)年に東京大学理学部物理学科を卒業し、入社後は衛星通信の研究に携わった関本は、一九六四年からアメリカの衛星通信サービス会社コムサットに出向した。ここでアメリカ人相手に発揮したプロジェクトの運営手腕を小林宏治社長に買われ、一九七二年に伝送通信事業部長に就任。一九七四年に取締役、一九七八年に常務、一九七九年に専務取締役と階段をかけ上ってトップを極めた。
これまで代表権を持った会長の小林宏治が経営全般と人事の最終的な決定権を握り、社長の田中忠雄はもっぱら社内の管理に責任を負っていたのに対し、日本電気には会長と充分渡り合うだけの強烈な個性と手腕を備えた社長が誕生することになった。
そして関本のトップ就任と同時に、社長争いの唯一のライバルと目されていた大内淳義は副社長となった。小林宏治会長のもと、半導体担当役員の大内淳義を司令官としていただき、渡辺和也を実行部隊長、後藤富雄を実戦部隊のリーダーとして突き進んできたパーソナルコンピューターの事業体制を、トップの異動が揺るがせていた。
渡辺の部隊をパーソナルコンピューターの主役として強化することで、他社との競争に勝ち抜いていくことは可能だろう。だが副社長として、日本電気全体のバランスに目を配る立場についた大内には、二つ目の情報処理セクションを作って組織を歪ませるような選択はとりえなかった。
それゆえ「一六ビットのビジネスは情報処理が担当する」として渡辺たちの頭を押さえ、バランスをとろうと試みた。だがあらためてPC―8801のスペックを前にしたとき、大内は自ら定めた枠組みを明日にでも再度見直さざるをえなくなるだろうことを痛感させられた。
パーソナルコンピューターは、市場規模においてもその性能に関しても爆発的な成長を遂げつつあった。
その奔馬の首に縄をかけ、狭い柵のうちに押しとどめることなどできはしないのだ。
かりそめに設けた枠は、早くも噴き出してくる圧力を受けて揺らぎはじめていた。
では、どうするのか。
パーソナルコンピューターを、果たして誰に託すべきなのか。
独立した遊撃隊が育てたパーソナルコンピューターを、コンピューター事業全体の枠の中にどう取り込み、包括的な企業戦略の中でどう位置づけるのか。大内は再び、そしてより根底的な決断を下さざるをえないことを覚悟した。
PCを大成功させたIBMがのちに直面することになる課題に、大内は彼らに一歩先んじて向かい合っていた。
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第二部 第三章 恐るべき新人類たちの夢想力
一九八二 アルトの子供への挑戦
西和彦は、巨大で聡明で老獪な幼児だった。
混沌とした自我の森の闇を抜けて西が初めてうっすらと目を開いたとき、彼の網膜にまず像を結んだものはマイクロコンピューターだった。あたりを見回しながら、流れ落ちる水を呑む滝壷のように世界像を取り込みはじめた巨大な幼児の頭脳は、このエレクトロニクスの宝石が認識の限界を吹き飛ばす翼となりうることを直感した。
マイクロコンピューターは個人のためのコンピューターを成立させるだろう。個人のためのコンピューターは、電子計算機のミニチュアではない。さまざまな情報を頭脳に送り込み、結果的に人の認識の限界をはるか彼方に押しやるメディアとなるだろう。このメディアは一方的に情報を垂れ流すものではない。人が働きかければすぐに応える、対話を能くするものとなるだろう。
よきものがここに生まれる。
ここを住み処とせよ。
瞳を開いたばかりの巨大な幼児の直感は、彼自身にそう告げた。
だが、この手にエレクトロニクスの宝石をつかもうと柔らかな腕を伸ばすと、集積回路の金属の足が冷たく幼児の肌を刺した。無機的な棘の痛みに一瞬凍り付いた指は、よきものを生み出すまでにマイクロコンピューターの上に積み上げるべき、おびただしい変化と成功の実りの厚みを知って震えた。
それでも、巨大な幼児の脳にすり込まれた「ここに生きよ」との神の声は、再び眠りに落ちることも、ぬくもりを求めて仲間たちが肌を寄せ合う溜まりに這い入ることも彼に許さなかった。
命の糧を求めて母の胸にしゃぶりつく赤子のように、西はぼんやりと像を結びはじめた世界に変化と成長の種を探しはじめた。耳の奥の小さな金の鈴が、新しい可能性の在り処に反応して鳴りはじめると、巨大な幼児はアドレナリンを亢進させてその場を見極めようとしゃにむに這い回った。類まれな握力でつかみ取った種子に、揺りかごの中で子守歌のように聞き覚えた老人たちの知恵の言葉を吹きかけると、一つまた一つと芽がのぞきはじめた。春が過ぎて夏が訪れ、秋にかかると伸びかかった枝に早くも実がなった。もぎ取った実は幼児を肥らせたが、飢餓感は喰うほどにむしろ募っていった。充たす代わりに餓えをかき立てる成功に背を押され、よちよち歩きを始めた巨大な幼児は、つぎつぎと新しい種に手を伸ばした。幼児の皮膚に根を張って伸びる木々は、目まぐるしく変化しながら厚い植物層を彼の体躯の上に形成しはじめた。
めくるめく変化と成長は巨大な幼児をますます肥らせ、彼の飢餓感をいっそう深めた。
春の野をこま落としでとらえたような狂おしいほどの成長に向けて、エネルギーをみなぎらせるために、パーソナルコンピューターは変化と成長に餓えた巨大な幼児たちの群れを求めていた。
マイクロソフトのビル・ゲイツやアップルコンピュータのスティーブン・ジョブズ、そしてアスキーの西和彦がうっすらと目をあけて世界を認識しはじめたのは、そんな時期だった。
彼らは期待されたとおり、幼児の傲慢を奮って可能性の扉を無理矢理こじ開け、底なしの貪欲をつくして実りをほおばった。
西和彦が初めて覚えた英語のフレーズは、「ルカによる福音書」第一一章九節の「求めよ、さらば与えられん。捜せよ、見いだすであろう。叩けよ、戸は開けられるであろう」だったという★。
★アスキーが発行していた今はなき『アスペクト』誌の一九八五(昭和六十)年九月号と十月号には、「ぼくは、こうし