青空のリスタート

富田倫生



本書の履歴

『青空のリスタート』は、一九九二年九月三十日付けで、ソフトバンクから紙の本として出した。
 一九九〇年一月号から一九九二年三月号にかけて、同社の『パソコン・マガジン』に「インサイドウォッチャー」と題して連載していたコラムを、まとめたものだ。
 当時の私は、コンピューター関連企業のスタッフにインタビューして、方向付けを探るといった記事をたくさん書いていた。編集部が用意した「インサイドウォッチャー」という連載タイトルには、人にまつわる企業の内幕話を書いて欲しいというライターへの期待が現れている。

 その後の私の道筋に、大きな影響を与えた病気と向き合わされたのは、「インサイドウォッチャー」の連載中だった。「WindowsはMS―DOSの暗黒に一条の希望の光をさすか」という原稿のはちゃめちゃぶりには、「今までの流儀は今後一切まかりならぬ」と言い渡された際の逆上がよく現れているように思う。

 病が表に顔を出すと、体が動かなくなった。従来の構えでは、書くことにも臨めなくなった。
 このコラムだけを、かろうじて書き続ける時期が長く続き、書籍化が決まってからも、各項への言い訳がなかなか用意できなかった。
 そんな中、ようやくまとめた本書の後書きで、私は少し違った書き方を見つけたように思う。

〈勢い〉を失った後の目で読み返してみると、それまでの原稿にはところどころに、ライターという肩書きに引きずられたような無理を感じる。
 そのきしみが、本書の後書きにはないように思う。
 弱い者が、弱いままに書いた言葉が、波紋のように静かに広がった印象を受ける。
 ここできっと、私は何かを捨て、何かを得たのだろう。


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前書きに代えて

 高校の一年後輩だったI君が人生の再スタートを切るに当たっては、パーソナルコンピューターが相当大きな役割を演じたように思う。このおかしな機械があの時期に登場してこなければ、I君の沈滞はもう少し長く続いたのではなかろうか。
 私達が高校生活を送った一九六○年代後半、世界中を学生運動の嵐が吹き荒れていた。地方の国立高校で進学希望者の多かった〈我が母校〉も、その嵐から無縁ではなかった。
 こうしたお祭り騒ぎに一度身をやつしてしまうと、その後も何となく腰の落ち着きが悪くなる。立派に更生した連中も確かに多いのだが、どうもこの時期にすっかり人間がひねくれてしまったと思われる輩も少なくない。くだんのI君は、そうしたひねくれ組の中でも、よじれ度においてなかなか徹底したものがあった。
 数学には飛び抜けて強かったI君だが大学には行かず、思うところあって警察学校に入り、結婚、出産のニュースで我々を驚かせる。卒業後は当然のごとく警察官の道には進まず、電話取り付け工事の職に。しばらくはおとなしく子育てにいそしんでいたものの、今度は山岸会に入ってニワトリを育てるという。このあたりになると周囲の視線もやや鋭さをましていったが、彼の心の乾きのようなものは私にはわかるような気がした。
 そして心の病があり、離婚。山岸会からも離れ、I君はもう一度一人になった。そんな時期に彼は、完成品としては日本初の、日本電気から発売されたCOMPO―BS/80に出合った。彼はパーソナルコンピューターがいかに面白いかを、私には理解できない言葉でとうとうとまくしたてたあと、「パーソナルコンピューターによって、情報処理の強力な武器を国家や大資本が独占している状態がくずせるのだ」と、しばらくはお目にかかれなかった生き生きとした表情で付け加えた。
「半導体技術の目覚ましい進歩によってパーソナルコンピューターは生まれ、急速に普及していった」などと言われると、どうもひねくれの虫が騒ぎだす。ご指摘は一面においてなるほどごもっとも。けれど半導体技術が進歩すれば、トコロテンが押し出されるようにパーソナルコンピューターが生まれてくるものか。そこには何か発想の転換とでも呼ぶしかないものが介在し、それは技術という言葉が醸しだす無機的な印象とは正反対の、人間くさい要素と絡み合っているのではないかという気がしてならない。「半導体技術の進歩によって…」とする正論からは、社会と人間がすっぽり抜け落ちている。
「マイクロプロセッサーを使って、コンピューターのおもちゃのようなものを作ってみよう」さらに一歩進んで「こいつで高級言語を走らせ、誰でも手のだせる個人用のコンピューターを作ろう」などという奇想天外なアイデアは、少なくともIBMやDECからは、何年たってもでてこなかっただろう。
 パーソナルコンピューターの誕生にあたって活躍した多くは、社会や大学からドロップアウトした若者であった。
 アップル社を築いたスティーブン・ジョブズは一九五四年生まれ。彼は大学には一学期間顔を出しただけで、その後インドを二年間放浪。インドから帰るとオレゴンの果樹園でリンゴ作りにせいをだし、今度はエレクトロニクス仕掛けのリンゴ作りに転向した。アップル※(ローマ数字2、1-13-22)をその手で作り上げたスティーブン・ウォズニアックは、会社が軌道に乗って大きくなりはじめるとビジネスにすっかり興味を失ってしまい、ウッドストック以来の大野外ロックコンサートを企画して大赤字をだした。マイクロソフト社のビル・ゲイツも、大学には一か月しかお世話になっていない。
 パーソナルコンピューターとは、つくづくコンピューター界の鬼っ子に思えてならない。そしてこの鬼っ子を生みだしたのは、「体制」(これもずいぶんなつかしい言葉になった)に異を唱える時代の精神なのではなかろうか。
 役所や大学のデータベースに、パーソナルコンピューターを使って不法にアクセスを試みるコンピューター犯罪。私はこうしたニュースを聞くと、何かしらそれが一面で社会の健全さを示しているような気がして、不謹慎にもホッとする。

 とオレが書いてから、もう八年がたった。
 東海大学出版会にいた西田光男さんの仕切りで、同会の『科学サロン』という小冊子に載せてもらったこの原稿が、「パーソナルコンピューターについて書いた」と記憶に残っているものの中では一番古い。
 そしてこれがきっかけになって、オレは「パソコン創世記」という小さな本を初めて出した。後押ししてくれたのは、旺文社の椛田敏彦さんだった。
 こうした経緯があって、この短い文章は実にオレにとって思い出深い。
 だが屋根裏部屋から『科学サロン』を引っ張りだして、わざわざタイプ・インし直したのは、そんななつかしさからではない。
 文学の方面では「作家の可能性と限界は処女作にすでに示されている」などと聞いたふうなことを言うらしい。ところが、今回この本をまとめるために原稿を読み直しているうち「鬼っ子を生んだもの」と題したこいつのことをふと思いだすと、なんとまあ、似たような感慨がオレの内にも湧いてきた。「可能性」などとはおこがましくて口が曲がる。けれど進歩がないというかなんというか、パーソナルコンピューターに向き合うスタンスは、初めっから同じだなと我ながら呆れたわけだ。
 最近はあのマシンがどうした、この会社はどうだと業界地図片手にさんざ御託を並べているが、結局書きたいのは人間だ。
 人と、人が寄り集まって作る社会だ。

 本書はソフトバンク刊の『パソコン・マガジン』に「インサイドウォッチャー」と題して連載した時評コラムを、まとめ直したものだ。雑誌掲載時とはかなり変わっているが、むしろこっちが原ファイルに近い。
 編集者として口を糊していた時期、あるテーマに関して著名な作家に書いてもらってぶっとんだ。ねた振りだけで、本論がないのだ。「お願いした肝心のテーマは…」とたずねると、「だって指定の枚数がきちゃったもの」とかまされた。これぞ売文業者の割り切り、プロ根性と感心すべきかなとも思ったが、書く側に回ってもオレにはやはりそんなご立派な真似はできやしない。「ああ、枚数はとうにオーバーしたな」とわかっちゃいても、いったん結論までたどり着き、あらためて削ることになる。パーソナルコンピューターの専門誌に載せるという事情から、マシン絡みの話は落としづらい。不本意ながら人絡みの与太話が落ちる。
 本当はこっちこそ書きたいのにね。
 それで「何とかこいつを復活できないか」とあがいているところを、ソフトバンクの稲葉俊夫さんに救われた。
 ノビノビというべきかダラシナクというべきか、ともかく書きたいように書いたファイルは、太っ腹というのかアバウトというのか、ともかく大きいには違いない稲葉さんの度量によって復活のチャンスを与えられた。
 ただし、業界用語をことわりなしに使っているところには言葉を足した。
 かくして出来上がったのが、『青空のリスタート』というこの本だ。
 やはり人間は書きたいものを書くべきで、初めて人の目に触れる生き返った与太話がことさら面白い。
「著者絶賛!」というやつだ。
 となるとほれ、「雑誌でもう読んだもんね」などと言ってはいられない。ましてや雑誌でも読まなかった上に、ここでまた本書を読み落とすとなると、心ある人は死んでも死に切れぬはずだ、多分。
 そこで私としては、そんな不幸な人が一人でも減ることを、心から祈るばかりである。


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松田優作の霊前にぬかずいて
役者馬鹿FM TOWNSの大成を祈る

 一九八九年十一月六日の夜、松田優作が死んだ。
 その翌日は、息を切らして九段下を走ることになった。
 富士通が出しているFM TOWNSというパーソナルコンピューターの新機種発表会に、危うく遅れかけたからだ。
 東京ドームを借り切った電脳遊園地という名のはでな発表イベントを南野陽子がすっぽかし、宣伝担当が宮沢りえに、さらに観月ありさへと移り変わったあのマシンだ。

 やむを得ず体にむちを入れる局面に追い込まれるとつくづく思い知らされるが、電子化というやつは実になけなしの基礎体力を奪ってくれた。
 先ず電子化で、漢字が書けなくなった。
 自慢ではないが(これはある種お決まりのレトリックではなく、本当に根っから自慢にはならないのだけれど)、ワードプロセッサーはトタン屋根ぼろバラック程度だったオレの漢字書き取り能力を、完膚なきまでに、根こそぎ地上げ風に破壊してくれた。
 なにしろオレは、一人称の「ボク」を物心ついてから十七の秋まで「人べんに美しい」と書き続けてきた、歩く誤字大全と呼ばれた男だ。
 もう少し面の皮の薄かった当時、ラブ・ノート(女性向けノートブック・パソコンの新製品というわけではなくて、ラブ・レターの巨大版)の自意識過剰、脇の下発汗的赤面文章に「人べんに美しい」と一万個ばかり書いたのを我がベアトリーチェに手渡した直後、オレはクラス委員だった一重まぶたの女子生徒から「あなたらしい誤字ね」と誤りを冷たく指摘された。あの日の夕方の骨を裂くような痛手からは、今も立ち直っていない。
 そのオレを、ワープロは確かに一面で救いはした。
 我が生涯の恥ずかしいものオールタイム・ベスト3に入るような誤字事件の発生を、その後このソフトウエアは防いでくれてはいる。
 だが楽は実に苦の種でもあるのだな、これが。
 縁は切れたといってもそんなもの、恋愛をしたことがないから失恋がないといった類の話。キーボードなしでは、山や川のレベルまでならさすがに何なくこなせるが、十画を越えるあたりから警戒警報が鳴り始め、十五画を越えた漢字は霞の彼方にうすぼんやり浮かぶ、筆先の悲しみといったていたらくにあいなってしまったのだ。
 そして電子化が奪ったのは、洗い場のカレーの皿にへばりついた黄色い染み程度のオレの漢字書き取り能力だけではなかったのである。
 かつて五十メートルを六・五秒で駆け抜けたオレは、足元のおぼつかないのろまな親父になっていた。こちらの犯人は、電子メールとFAXの二人組だ。
 そのオレに、FM TOWNSはデビュー当時の松田優作を彷彿とさせる走りを求めた。

 息を上げてよろめくように走る姿は我ながら情けなかったが、その昔〈走る男〉としてデビューしてきた松田優作にも感心はしなかった。
 黒眼鏡に長髪で、まことにもって臭いワンパターン・アクション俳優、松田優作が登場してきた頃、オレはユウサクごっこを宴会芸の切り札にしていたのだ。
 だが、松田優作は化けた。
「家族ゲーム」で走るのをやめた松田優作は、一瞬の表情やたたずまいに浮かぶ影を見る者の記憶に刻み込む、底の深い切れ味を見せ付けた。なまくらなナイフをブンブン振り回す代わり、押し当てたカミソリにゆっくり力を込めるように、松田優作はスクリーンを切り裂いた。
 深く、暗く、冷たいその切れ味には、疾走する者の荒い息遣いより、いつ吸っていつ吐いているのか分からない、薄紙一つも揺らさない沈黙がよく似合った。
 退屈でオーバーな兄ちゃんにしか見えなかった松田優作が、何を内面の転機として恐ろしい役者になったのか、オレは知らない。
 だが、この役者の到達点ならオレも知っている。
 松田優作の遺作となった「ブラック・レイン」を撮ったリドリー・スコットは、都市を支配する足し算と引き算の大原則をよく理解した監督だ。
 某大手コンピューター・メーカーがスポンサーについたテレビ番組の片棒を担いでニューヨークを初めて歩いた時に痛感したのだが、巨大都市は成長や発展といった概念とは無縁である。
 何もなかったところに人間を集め、エネルギーを注ぎ込んで都市を作る。ここで活力というプラスを産み出せば、等しい絶対値を持った異符号の退廃が不可避に生まれてくる。巨大都市に仕組まれた底なしのスプレッド・シートがはじき出すものは、足し引きゼロの収支勘定だけだ。
 凡庸なSF物に登場するCADソフトで描き上げたような辻褄の合った未来都市など、生まれるわけはない。未来都市計画は、お人好しの立案者が予想しなかったあぶれ者の流入によって、足元をすくわれると相場は決まっている。
 そうした巨大都市を支配する算術を、リドリー・スコットはえぐい視覚的イメージを駆使して雄弁に描き出す。
 ただ、いかにも完璧主義者を思わせるこの監督が「ブレード・ランナー」に視覚的にも大甘のハッピー・エンドをくっつけてみたり、「ブラック・レイン」にあつかましい評論家も赤面する類型的日米文化比較論議をはさみ込んでみたりと大穴を残しておくのには、どうにも合点が行かないけどね。
 だが松田優作が「ブラック・レイン」で静かに描き出した巨大都市に根を張る負のイメージは、物忘れの素晴らしく良いこのオレの脳裏からもしばらくのあいだ離れそうもない。
 凡庸な観客であるオレは気づかなかったのだけれど、松田優作は表現する才能の原石を持って生まれてきていたのだろう。
 だがオレは、映画プロデューサーでもなければ監督でもない。
 表現しようと試みる者が内に秘めている才能や個性を発見していく才覚も、暇も、根気も、そもそもその気もない。
 オレのごとき怠惰で残酷な客に、内に秘めた原石の輝きを送り届けるには、やはり自ら化けてもらわざるを得ないのだ。
 そしてオレが東京駅から地下鉄の大手町駅まで走り、九段下で降りてまたホテル・グランドパレスまで駆けたのも、FM TOWNSという名の原石がどう化けたのか、この目で確かめたかったからである。

 デビュー当時の松田優作は笑いものにしていたが、オレはFM TOWNSを馬鹿にしてはいない。
「CD―ROM(コンピューターのデータを入れたCDだ)とはこんなに遅いものか」「コスト切り下げのためとはいえ、386(わけの分からないこの数字の意味するところはおいおい明らかとなる)を乗せてメモリに2ウェイト入れてはだいなしではないか」「ゲーム・マシンにこんな値段を出すやつがいるか」と笑う奴がいるのは知っている。だが、このマシンが〈表現する〉という新しいコンピューターの使い道を指向している一点において、オレはエールを送る。
 文字を処理し、数字を処理するための道具であれば、できのいいマシンが秋葉原にはてんこ盛りになっている。現在のパーソナルコンピューターの多数派を占める、MS―DOSと呼ばれる基本ソフトを使ったマシンだ。
 エムエス・ドス? なんだそりゃ。ギメロン星人の秘密兵器かって。まあ、そんなようなもんだ。

 コンピューターを使うとき、仕事の中身にかかわらずいつでもついて回る基本的な動作を受け持つソフトウエアは、特に一まとめにされてオペレーティング・システム(OS)と呼ばれている。
 たとえばキーボードのどこかが叩かれたらそれを察知するであるとか、画面に文字を出す、記憶装置に情報を書き込むといった類は、何をやるときにも必要になる。じゃあどうせいつでもいるんだから一まとめにしてあらかじめ用意しておき、みんなで共通に使うようにしたらどうだろうという合理精神が生んだのが、これだ。
 このOSには様々なタイプがあるが、パーソナルコンピューターではマイクロソフト社のMS―DOSと呼ばれる製品が主流となった。一九八一年に、IBM社が後発から市場に参入してくるさい、MS―DOSを採用したのがきっかけだった。
 大型コンピューターでは圧倒的な強者だったIBMは、一九七〇年代後半に台頭してきたおもちゃのような個人向けの市場を、しばらくの間無視していた。
 そしてここに乗りだしてくるにあたっても、プロジェクトを小人数の独立したチームに担わせた。自社の製品は自社の技術でまかなうという原則も、上層部はこの市場に大して期待もしていなかったのか、守られなかった。頭脳にあたるマイクロコンピューターは、半導体メーカーのインテル社製。そしてOSは、マイクロソフトから調達した。ただし名前だけはIBMらしく、これぞパーソナルコンピューターとふかしをかまして「PC」と偉そうなのを付けた。
 ところが実際強面には出てみるもので、IBM PCは出した当人も泡を食うほどの大ヒットとなった。
 そしてPCの大成功が、複数の規格が並立していたパーソナルコンピューターを標準化することになった。後発からのスタートとなったIBMは、外部に味方を増やすために徹底した技術の公開方針を取っていた。これが効いて、やがて他社はIBM PCと同じ機能を持つ互換機を作りはじめた。
 文字や数字を処理するためのアプリケーション・ソフトの開発はPCの採用したMS―DOSという基盤の上で集中して行なわれ、パーソナルコンピューターは見る間に役に立つ道具に化けていった。
 その後IBMは、PC XTという新機種を出し、さらに改良を進めてPC ATを出した。
 このPC ATの時代になると、アメリカ国内だけでなく日本やNIESのメーカーが、よってたかって互換機を作りだした。技術的にも価格面でも競争が激化して、ユーザーは喜び、MS―DOSはますます栄えた。だが横並びの激戦に嫌気がさして、IBMは新規まきなおしを図ろうと考えた。なにしろ市場を独占してがっぽり儲けることこそ、神から与えられた使命と信じてきた会社だ。
 そこでPC ATを捨て、今度はポイントを特許でガードしたPS/2(二番目のパーソナル・システムというわけだ)に切り替えて互換機を振り切ろうという魂胆だった。
 この結果がどうなったかは、後で書く。がともかくMS―DOSはこの世にはびこった。
 そしてFM TOWNSも、独自のOSに加えてMS―DOSを使える準備も整え、「文字処理、数字処理もいけます」と謳ってはいる。
 だがFM TOWNSにおいて富士通がやりたかったことの味噌は、「コンピューターの手を借りて自らの思うところをより鮮やかに表現する」という、新しい世界の開拓だ。
 具体的には、システム・ソフトについてくるTOWNS GEARという道具建てが、このマシンの魂だ。
 TOWNS GEARが支援するものは、音付きの電子紙芝居作りだ。
 オレが鼻たれ小僧だったころには強力なメディアだった本物の紙芝居の機能に加え、電子化したTOWNS版にはいろいろなボタンを画面上に仕込んで任意のページに飛んだり、仕掛けておいた音を出したりといった機能が付け加えられている。
 アップルコンピュータのマッキントッシュのユーザーには、カラー版のハイパーカードと言えばイメージが掴みやすいだろう。
 使い比べて感じる差異は、ハイパーカードがデータの蓄積と検索の側にシフトし、設計に一本筋がとおっていて実に使いやすいに対し、TOWNS GEARは標準で音声の取り込み機能を持ち、カラーという一点もあって表現の側で点数を稼いでいる。自然な音と美しい画像を扱えるのが売り物だ。
 二つを並べてデータ処理にTOWNS GEARを使う気にはなれないが、電子紙芝居作りなら面白い。

 そして十一月七日、息せき切って駆け込んだ新製品発表会は、この電子紙芝居によるFM TOWNSの表現力を表に立ててスタートを切ったばかりだった。
 パフォーマーは、同社の関澤義専務取締役。
 コンピューター事業のトップが実際にマシンを使うことを楽しんでいるか否かの割合をオレは世の中一般と同程度とにらんでいて、インタビューの相手と向き合うやいなや、退職した日にこの人物がマシンをドブに捨てるのか、神棚に飾り続けるのか見抜く特技を持っている。
 そのオレの見るところ、関澤専務はマシンを使うのが実際好きで好きでたまらない人種であるようで、この日も新製品紹介の電子紙芝居を自らマウスでめくりながら、細部にわたる発表を全部自分で仕切ってしまっていたのである。
 TOWNS GEARを使って電子紙芝居を作っていく最中はCD―ROMの遅さが本当に気になってしょうがなかったが、今回の発表にあわせてシステム・ソフトが手直しされ、CD―ROMからのアプリケーションの呼び出しは三〜五倍に高速化されたという。だが発表会の席上でオレの脳裏をかけ巡っていたものは、改善されたスペックの数値ではなく、四か月ほど前にやはり自らの開発したマシンを用いてプレゼンテーションを演じた人物の姿だった。
 あの日、東京ベイNKホールを埋めた三千人近い聴衆の前に、スティーブン・ジョブズはタキシードで決めて現われた。
 かつてアップルコンピュータを起こしてパーソナルコンピューターの第一段ロケットに火を付けたジョブズは、マッキントッシュと名付けた製品の開発の先頭に立って、個人用マシンの歴史の第二幕を開いた。
 主流となったMS―DOSは、使いこなしの流儀を決める仕掛けを持っていなかった。そのためにMS―DOSに対応して書かれたアプリケーションは、それぞれ独自に使いこなしの流儀を組み立てた。結果的に各々の流儀はばらばらとなった。使う側は一々、そこでしか通用しないローカル・ルールを覚えざるを得なかった。
 一方マッキントッシュは、基本ソフトに使いこなしの仕掛けを組み込み、すべてのアプリケーションにこれを利用することを求めた。この仕掛けが、ぱっと見て一目でわかるようアイコンと呼ばれる絵文字を利用し、やれることをメニューにして示し、画面上に複数の〈窓〉を開くウインドウ機能を備えるなど実に憎い仕上がりとなっていたことで、その後のパーソナルコンピューターの進化の道筋は、ここで事実上定まった。
 ところがジョブズはその後、自らが招いたベテラン経営者のジョン・スカリーとの意見の対立から、アップルを追われることになった。そして新しい会社を起こし、マッキントッシュにもう一段磨きをかけたかっこうのNeXTと名付けられたマシンの開発に取り組んだ。
 このNeXTの日本へのお披露目に際して、ジョブズは自らマシンを駆使し、雄弁に思いきりかっこ良く、その先進性を謳い上げた。

 息を切らせて走ってきたせいか、発表を聞きながらついうとうとと眠り込んでしまったオレは、タキシードで決めた関澤専務がFM TOWNSを駆使して大観衆を前にプレゼンテーションを決める夢を見た。
 夢判断にも一家言を持つこのオレが分析すれば、FM TOWNSという可能性を秘めた原石にオレはもう一化けを期待しているということなのだろう。
 デビュー間もないFM TOWNSをいじくり回し、TOWNS GEARの目指すものに納得したオレは、となりで電源を入れっぱなしにしておいたマッキントッシュに目をやったとたん、富士通の新しいマシンが使いこなしの流儀を決めるウインドウ環境を持っていないことに気づいた。以来TOWNS GEARに対する納得と、独自の環境を持たなかったことへの疑問に引き裂かれ、三日ばかり熱にうなされて寝込んだのである。
 MS―DOSをサポートするFM TOWNSは、MS―DOSにかさ上げしてマッキントッシュ型のウインドウ環境を提供する試みは採用するだろう。かつてマッキントッシュを見てぶっとんだマイクロソフトは、MS―Windows(以下、省スペースのためにWindowsと書く)と呼ばれるかさ上げ分を開発し、その改良を進めている。
 FM TOWNSもやがて、マイクロソフトのWindowsに関しては載せてくる。
 だが、自らのアプリケーションに一貫した個性を与える独自の環境を欠いてデビューした事実は、FM TOWNSの役者人生をどう左右するだろう。
 化けの契機は、いくつかあるだろう。
 いずれにしろ松田優作を失ったこの世でオレが望むのは、FM TOWNSのもう一化けである。
 類型的でできの悪い役者に見えた松田優作がやがて、オレの目が節穴であることを見せ付けたように、このマシンには表現を支援するという新世界開拓の志をさらに生き生きと具体化させて欲しい。そしてコンピューターを駆使する喜びを率直に表現する力を持っている関澤専務にもこの際覚悟を決めてタキシードに身を包んでもらい、電脳遊園地ででもテレビでも、パフォーマンスを決めて欲しい。
 宮沢りえが若さを謳うテレビCMをなんべん見せられるより、オレには関澤専務のパフォーマンスを一度見るほうが、表現の道具としてのFM TOWNSの可能性がよく分かる。

 電子化は様々な基礎体力をオレから奪った。
 だが照れることなく一から筋道を追って熱をもって表現する能力は、オレを含むこの国の住人にもともと欠けていた資質である。
 願わくばコンピューターよ、舌っ足らずのオレに表現力を与えよ。
 あうんの呼吸は等質の社会の構成員には居心地のよい慰安であっても、よそ者からすれば無言の排除にほかならない。
 そしてオレ達の社会は、あうんの仲良しクラブにとどまっているには小金をため過ぎたのだから。

*関澤義専務取締役はその後、一九九〇年六月に富士通の社長となった。
 一方筆者は同年五月、病に倒れ、人生に絶望してやけくそ大魔人となった。
 これ以降思いやりと慎みの心を失った筆者は、かつて周囲に気を配りながら書いた原稿にちょこちょこ引っ掛かる。また、見事大外れとなった見通しもある。
 そこで各項の後に、言い訳のスペースを付けることにする。

 自暴自棄となる前のオレは、何とかTOWNSのいいところを見ようと心を配った挙げ句、「こいつの味噌は表現するという新しい世界の開拓だ」などとずいぶん好意的に書いている。
 だがいうまでもなく富士通が本当にやりたかったことは、日本電気に制圧されたパーソナルコンピューター市場に足場を築いて日本一のコンピューター・メーカーの面目を施し、この分野でもがっぽりもうけることだ。
 富士通は新規まきなおしのTOWNSで、画像と音の魅力を売り物に、基本的には独力でこの目的を果たそうとした。CD―ROMの駆動装置を標準で付けたりTOWNS GEARを用意したりと、確かに目を引く点もあった。だが独自のウインドウ環境を持たないTOWNSは新しい提案と気張るには、あまりに痩せていた。
 新社長となった関澤さんが旗を振っていたTOWNSを、富士通はその後も可愛い子ちゃんを動員して根性で囃し続けたが、やはり苦戦は免れなかった。
 問題のウインドウ環境に関しては、一九九二年の四月になって、富士通はTOWNS用にマイクロソフトのWindowsマルチメディア拡張版を出した。
 デジタルのいい音がさまざまに扱えて、アニメーションの再生ができ、外部のAV機器が制御可能というのが、ここでいう「拡張」の中身だ。世界の標準となったWindowsをベースに、本来持っていた音と絵の強みで有象無象との差別化を図ろうとする戦略が、これ以降は中心にくるだろう。
 南野陽子と宮沢りえに払ったギャラはドブに捨てたと諦めて観月ありさでがんばれば、マルチメディア・ソフトの再生器として人気を得初めたTOWNSは、さらにもう一段伸びると思う。
 ただし世界に向けた富士通の提案としてではなく、あくまで標準の流れにのったマシンとして。
 この項で強調している「表現する」という領域は、少なくとも今のところマッキントッシュの独壇場だ。

 あんまりイモだと断言しているので、気になって松田優作の古い映画を何本か見直した。
 確かに映画はつまらない。
 だがあれはむしろ監督の村川透に文句を言うべきだろう。
 そもそもオレは、あの手のアクション物に興味がないというだけの話かもしれない。
 それでカンジンの優作だが、あらためて注意して見ると、最初からやつには「オヤ」と思わせるところがあるではないか。ただし光っているところはみんな、まるで原田芳雄にクリソツなんだけどね。


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台頭する低価格ソフトは
「パーソナルコンピューターを一億人の必需品に変える」と吼えた

 新宿の雑踏に紛れ込んだ田舎者を見つけるのは、幼稚園児の列に加わったジャイアント馬場を発見するよりたやすいことだ。
 頭蓋骨を明けてみて落語の「ら」の字が大脳皮質に染み込んでいなければ、どんな口振りで何を喋ろうが、現住所をどこにおいていようが、そいつが田舎者であることに間違いはない。
 自慢ではないがオレは広島産の山猿で、常設の小屋で演じられるのが本筋の落語や芝居といった大都市型文化にはまるで弱い。
 脳が乾き切った海綿のようになにやかやを吸収する時期、広島カープの連敗の合間をぬってやくざがピストルをぶっぱなすだけの文化不毛の地で、オレが触れえたのはメディアを通した演芸のみだった。
 あの頃は蒸し立てのプリンのようだった十代のオレの脳味噌は、トランジスタ・ラジオから流れてくるリバプール・サウンドにびんびん揺れた。その結果オレは、飲み屋にギター一ちょう持たせて朝まで放置しておくと、延々とビートルズやストーンズ、ハーマンズ・ハーミッツやデーブクラーク・ファイブのナンバーをインチキな歌詞でがなりたてる、〈栄光の六十年代リバプール・サウンズ大全〉男になってしまったわけではあるが、同時に、街者の芸には一家言を持たない、干上がりかけた子供プールのような底の浅い田舎者として一生を終わる宿命を背負ったのだ。
 そんなオレにして、桂枝雀の落語はほんと、面白いよな。
 タコ坊主のようなおっさんがちっぽけな座布団一枚を大広間ほどにも使い、目をむき、体を捩り、時には背筋をぴんと伸ばして落語を繰るのに初めて(情けないことに)テレビで触れたときは、へそのごまが飛び出すほど笑った後で、オレは枝雀を知らぬ田舎者として過ごしてきた我が半生を呪った。
 ところが、『週刊朝日』に上岡龍太郎が連載していた「こりくつ舌禍帖」で仕入れた小ネタによると、オレが敬愛して止まないこの枝雀が現在の枝雀その人となるに至った道のりは、平坦ではなかったらしい。
 一九三九年八月、神戸に生まれた枝雀は、高校時代からテレビの素人演芸会に顔を出し、桂米朝の面識を得たという。そして神戸大学文学部を中退して、米朝に入門。一九六二年に小米としてデビューしたころの彼は、上岡龍太郎に言わせれば「いかにも米朝師匠の一番弟子らしく、正確でリアリティーのある噺で、あのまま走って深みと味が加わったら、上手名人と言われる存在になっていたのは間違いなかった」という。
 ところが落語のことを真剣に考えすぎたために鬱病のどつぼにはまった彼は、「一時は時うどんも繰られへんぐらいになり」、自殺寸前にまで追い込まれてから今の芸風に大化けして立ち直った。
 この化けた後の枝雀の芸を、上岡龍太郎は愛情を込めながらも傍流と位置づける。「顔クチャクチャにして、ゴーンと床に頭付けて笑わすんやから、王道やない」という。
 けど、そうかな。
「粋」という字に羽織を着せたような米朝の噺に、田舎娘が町の若い衆にのぼせ上がるように胸ときめかせてしまうオレは、正統派として育った枝雀の芸も正直見てみたい。けれど現在の枝雀流落語は、スタイルを越えて何やら本質的な演芸の味噌のようなものをつかんでいる気がして、オレは本流や傍流といった枠組みを越えて、その内に正統性を感じてしまう。
「いろいろ悩まはったみたいやけど枝雀はん、落語をけとばす覚悟を決めはったんやな」と思わず大阪弁でつぶやいてしまうのだ。
 化ける前の枝雀は、噺をしようと思って高座に上がっていたのではなかろうか。けれど化けた枝雀にとって、落語はもはや二の次になったのだと思う。
 どうやったらうまく落語を繰れるか、考えて考えて考えぬいて脳の神経回路網が焼き切れる寸前で、枝雀の中で問いは相変化を起こした。
「どうやったらうまく」とのこだわりは、そもそも「誰に何を訴えかけるのか」との根源的な問いに変化して枝雀を救った。
 客の喜ぶことをやろう。自分が楽しいと思えることをやろう。
 その手段としてオレは、落語を持っている。
 そう踏ん切って枝雀は、芸能の正統に至ったと、山猿は山猿なりにオレはそう考える。
 二十年ほど前、「ラディカルとは〈過激〉ではなく、むしろ〈本質的〉であることを指すのだ」といった念仏を何度も聞かされた記憶があるが、オレは枝雀の百面相に、芸能の正統的なラディカリズムを見る。
 しかしあらためて枝雀の語り口を脳味噌で噛みしめてみると、箱根の山を越えて東を見渡してみるのがいやんなる。
 なにしろ隅田川のほとりじゃ、てめえがこさえた寄席に客が来なくて左前になったのを、弟子の不勉強のせいにして血相変えて怒ってみせる情ねえ野暮天がのさばってるもの。
 好みのスタイルを保存するのが第一義なら、借金こさえて博物館を作るのも結構。それで立ち行かないほどお客にそっぽを向かれれば、後は国に泣き付いて国立能楽堂のとなりに国立寄席でも作ってもらやいいだろう。
 そうすりゃ落語家も、人間国宝に成れるてえもんだ。
 てめえで小屋を作り、興業を打って儲けたかったのがこけたのなら、おのれのマーケティング力のなさを笑え。
 それをごっちゃにして嘆くのは、要するにてめえが何をやりたいのかわかっちゃいない証拠。あ〜あ、やっぱりうどんと落語は上方に限るとたかを括っていたオレは、だがソフトウエア業界に枝雀のラディカリズムを偲ばせる逸材を発見し、腰を抜かしてうなった。

 上方の枝雀に対する江戸の雄は、九千七百円のパーソナルコンピューター用ソフト・シリーズを掲げるアシストのビル・トッテン社長である。
 このパフォーマーが、客を楽します楽します。
 一九八九年十一月二十七日、アシストはすでに発売済みの日本語ワープロのアシストワード、表計算のアシストカルクに続いて、カード型データベースのアシストカードの発表会を行なったのであるが、PC分野への参入を表明した時点ですでにトッテン社長の語り口のさえに舌を巻いていたオレは、ブルーハーツのコンサートを指折り数えて待つ良い子のようにこの日を待ち受けていたのである。そしてこの日の高座が、いつにもましていいできだったのだな、これが。
 東芝のダイナブックが口火を切った軽くて小さくて安いマシンの台頭と歩を合わせ、ソフト業界は一万円を切る低価格ビジネス・アプリケーションの波に洗われた。その震源地の一つがトッテン社長率いるところのアシストだった。
 けれど冒頭で客のつかみにかかったトッテン社長は、「富士通さんに低価格というテーマを盗まれ、彼らが示した一円の九千七百倍という立場に追い込まれたアシストのソフトは、もう低価格とは呼べないだろう」といきなりこうだもの。
 千百万円の予算が組まれていた広島市水道局の地図情報システムの基本設計を、富士通が一円で落札したという例のあれですよあれ。
 天下の富士通がそこまで踏み切った今となっては、アシストの九千七百円のアプリケーションは〈低〉価格というよりはむしろその本質を正しく示す〈正〉価格ソフトと呼ぶべきだろうとトッテン社長はいきなりくすぐりをかました。

 五万八千円から九万八千円あたりのソフト空間には、これまでダース・ベーダ率いる帝国軍がデス・スターを築きつつあった。ここに九千七百円の軽快なXウイング・ファイターで突入を図り、PC宇宙の解放を目指すというビル・スカイウォーカー・トッテンは、ではそもそもいずこよりきたりしか。
 ビル・トッテン、一九四一年カリフォルニア州ロングビーチ生まれ。
 カリフォルニア州立大学卒業後、ロックウェル社でアポロ計画に携わった彼は、一九六七年、大型コンピューター用ソフトの受託開発を行なっていたSDC社に入社。一九六九年、日本市場の可能性を探る命を受けたトッテン青年は、来日して調査を開始する。
 一ドル三百六十円の当時、アメリカに本拠を置く企業が商習慣も異なり、言葉の壁もある日本市場でソフトの受託開発を行なうメリットを、トッテン青年は見いだせなかったという。
 しかし来日直前にIBMが打ちだした新しい動きの余波を利用すれば、日本市場にも食い込みうる可能性は見えた。
 IBMはこの年、これまではハードのおまけでしかなかったソフトを初めて切り離し、別の料金体系を設定するアン・バンドル政策に打ってでた。
 大型コンピューターの世界では、これまでハードとソフトに保守サービスまで加え、全部でおいくらとの値段付けになっていた。感覚的には、ソフトもアフターケアーもハードのおまけだった。
 ところがこうした一括供給体制によってIBMはコンピューター市場の独占を図っているとの訴えが司法省から出され、この対応策の一環として、同社はソフトとサービスに別建ての料金体系を採用した。
 トッテン青年は、これによりソフトが商品として独り立ちする流れが加速されるのではないか、と考えた。
 あたりを見渡せば、大量に普及している商品に手作りのものはほとんどない。大量生産によってコストを切り詰めた既製品ばかりじゃないか。とすれば手作りの受注開発がもっぱらだったメインフレーム用のソフトもパッケージ化されるはずだ。そしてこの既製品ソフトを中核に据えれば、日本市場にも可能性はある。
 そう踏んで「会社がやらないのなら僕が自分でやる」と上司を脅迫したものの、これをはねつけられたトッテン青年は「若気の至り」で会社設立を決意する。
 交渉決裂の日の午後、会社側に既製品の調達元として推薦していたアメリカの開発メーカーから、ソフト二種類の販売権を渡してもよいとの言質を電話で得て、SDCを飛び出した五日後には会社設立に向けて日本に舞い戻った。
 そして一九七二年、メインフレーム用パッケージ・ソフトの販売と保守、教育にあたるアシストを設立。以来成長を続けた同社は、一九八八年度には大型分野で八十四億円を売り上げる規模にまで育っていたのである。
 そのトッテン社長はここに至るまで、「日本においてパーソナルコンピューターの普及は目覚ましく進展しないだろう」と読んできたという。
 土地の値段の高い東京のそれでなくても狭いオフィスに、あんな図体のPCが何台入るか。おまけにソフトには、泥棒ややくざも赤面するような高い値段がついていて、こんなものに健全な消費者感覚を持った人間が付き合うわけがない。
 だが小型ラップトップの走りとなったマイクロシステムズのザ・ブックと出合い、東芝のダイナブックの軽薄短小化技術と二十万円を切る大胆な価格設定に驚かされてから、トッテン社長は日本におけるPC大量普及の足音を実感したという。
 こうした安くて軽いハードが基盤を整備してくれるなら、大量生産のメリットを生かした低価格ソフトを打ちだせば、マーケットは一挙に拡大する。
 ただし一人一台を目指す大量普及を推し進めていく過程で、Xウイング・ファイターに乗り込むビル・スカイウォーカー・トッテンは、フォースを振るって〈高売り〉ソフトハウスの巣くうデス・スターを壊滅させなければならぬという。
 すでに同盟軍の戦線には、五種類のアプリケーションのセットで四万円のビジ・コンポを擁するクレオと、日本語ワープロのイージーライトを七千円で提供するエルゴソフトが加わっている。
 すでに出荷済みの製品の好調を背景に、これらの同志と手を携えて不正価格ソフトの打倒を目指すというトッテン社長の舌鋒は、この日も鋭さを増すばかり。
 五万八千円の一太郎と九万八千円の1―2―3が何でまた記者発表の机におかれているのかと思ったら、「たかだか原価二千〜三千円のソフトにこんな値段を付けるなんて、馬鹿げた高売りだ」と宣言するやマニュアルとフロッピー・ディスクを記者の目の前にほうり投げて、「写真取ってね」ときたもんね。

 自らを表現するにあたっては「そこまでやる」の声も何のその、床に頭をぶちあてる枝雀並みの思い切りを見せるトッテン師匠。ある種凄みさえ感じさせる枝雀、トッテン両パフォーマの切れの良さの奥にあるものは、「誰に何を訴えるのか」を自らに問い詰める中でつかみ取った見極めであろう。
 そして九千七百円のアシスト製品のインパクトの大きさの背後にあるものもまた、「誰に何を提供するのか」との問いに切り返す見切りの鋭さである。
 落語をけとばして、枝雀は化けた。
 既存のパーソナルコンピューター用ソフトをぶちまけるトッテン社長のアシストは、日本の三千六百万人のデスクワーカー、二千四百万人の学生、児童、四千万人の主婦、つごう一億人を市場としうる商品にアプリケーションを大化けさせることを目指す。
 一千万人規模のベテラン・ユーザー層、百万人規模のコンピューターのプロに、アシストはそれぞれ別系統の製品を用意するという。ただし一億人をターゲットとする製品に不可欠なのは、安さと軽さだ。
 その意気や良し。
 この価格でユーザーからの問い合わせに丁寧に答える体制が作れるか。またインパクトのある商品を集め続けられるのか。今後アシストが努力すべき点は、もちろんある。
 だが何はともあれ、既存の概念を打ち壊す秩序紊乱者の脳天気ぶりは、ええやないかええやないか。


*トッテン氏のモットーは「短く考えて素早く行動する」ことという。
 さっさとやってみて、間違えたと思ったらそこですぐに直せばいいじゃないかという脳天気主義である。
 そのためにアシストの社員は何でも「今日中に」という社長のせっかちな指示に、年中尻を叩かれる。
「激しい競争の生じる標準環境こそが善の湧きだす泉」という大本の確信は揺らがないものの、明快に打ち出される市場の流れに対する読みとこれに対応したアシストの戦術は時を追ってかなり揺れる。組織の組み直しも頻繁だ。これで結果が悪ければ、場当たり主義だの朝令暮改だの、日本語には悪口の豊富なボキャブラリーが用意されている。
 だがいいとなると、これが「機を見るに敏」となる。
『日経パソコン』と言う雑誌は毎年、日本のソフトハウスの売り上げ高ランキング五十傑をまとめている。
 アシストはパーソナルコンピューター用ソフトで三十一億八千七百万円を売り上げ、一九九一年のランキングに十三位で初登場した。九千七百円のシリーズの何本かは、安定してベストセラーの上位に顔を出し続けている。
 となるとやはりこれは「敏」のくちだろう。
 売り上げの中心となっているのは、相変らず九千七百円のシリーズだ。だが大ヒットとなったアシストカルクのUNIX版を出したり、MS―DOS版にも一万九千四百円でより強力な製品を出したりと、ベテラン・ユーザーやプロにもターゲットを広げている。
 さらにWindows用の表計算、マッキントッシュ用のワープロなども出していくという。
 こうした新しい試みごとに師匠の進軍ラッパが鳴り響き、社員は走り、オレは唸り、成功した部門が栄えて失敗したところが消える。
 アシストは自社では新規開発を行なっていない。
 いわばソフトウエアの出版社である。
 能書きは作家に言わせておくとして、出版社に必要なのは市場が今、何を求めているかを素早く察知する力だろう。師匠一流の腰の軽さ、積極的な朝令暮改主義は、素直に市場の声を聞く結果でもある。
 新しい世界を開くのは、いつだって志を持った頑固な書き手だろう。だが開かれた世界を深く耕すには、出版社は不可欠だ。
 既存のソフトウエア業界をけさ切りにして登場したアシストを持ち上げた結果、オレのところにも当時多少冷たい風が吹いてきた。だがアシスト参入事件の根っこにあったのは、要するにパーソナルコンピューター用のソフトウエア市場が出版社の存在を必要とするところまで成熟してきたという事情だ。
 今もまだ高いソフトはある。確かにあるのだが、アシストが先頭に立って押し出してきた低価格ソフトは、高値のソフトに値段相応の価値があるのかをつねに突き付ける。
 この問いに答えられずに消えていくソフトは、ますます増えるだろう。これを進歩と言わずして、何が進歩か。
 サポートに関しては「電話のコール三回以内でつながる」を謳い文句に、アシストは年中無休、午前九時から午後九時までの十二時間体制を組んだ。ちなみに今かけた電話は、二回目のコールで確かにつながった。


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革命児ダイナブックの背後に潜む
目玉パワーの真実

 パーソナルコンピューター業界の関係者を集めて勝ち抜きにらめっこ大会を催す企画は、どう考えてみても魅力に乏しい。
 そもそもおっさんのにらめっこがとても面白いとは思えないという基本的欠陥に加えて、この企画には決定的な弱点がある。
 西からはジャストシステムの浮川和宣社長、東からは東芝パソコン・ワークステーション事業部の溝口哲也部長と、両横綱が勝ち上がってくる結末がはなから見えてしまっている。
 わけもなく(いや、わけはしっかりあるのか)女性を半裸にしてプラカードや傘なんぞを持たせる広告屋の考えそうなにぎやかしの策を講じてみても、中身がこう面白味を欠いたのであれば失敗は必至である。

 ここで話は数十行にわたって大きくずれてしまうのだが、それにしても自動車レースなんぞに登場してくるハイレグにハイヒールという女性は、時と場所を選ぶという感覚をどこにうっちゃってしまっているのだろう。
 例えば夏の海辺でどれほど肌を露出して若さを謳われようと、私としては一切関知するところではなく、むしろ時ならぬ眼福を喜びとするところである。けれど、海水パンツいっちょうに革靴の男がなぎなたの試合会場を飛び回って審判でもやってれば、そりゃタケシ軍団の世界だろうよ。
 こんなこと書けばフロイト流の夢判断にうるさい連中の前にそれこそ裸をさらすようなものだけど、このオレはがきの頃、ぎっしり詰まったエスカレータの人の列の中に素っ裸の自分を発見してとんでもなく恥ずかしい思いをする夢に何度かうなされたことがある。
 あの悪夢を、けつを半分むき出しにしたハイレグにハイヒール(あのハイヒールがいかん、ハイヒールが)のねえちゃんを見るたびに思い出して、オレは「祇園精舎の鐘の声 ベンベン〜」などと唸りながら山寺の苔むした石にでもなってしまいたい心境になる。
 祇園精舎ついでに「平家物語」をさらにひもとけば、平清盛はしゃれこうべの千万の大目玉と睨み合い、眼力でこれを雲散霧消させてしまったという。
 何かのはずみでにらめっこイベントの担当者にでもさせられて、どうあってもこの成功を期する立場に追い込まれたとすれば、清盛さんにでもおでまし願って浮川・溝口連合軍とのスペシャル・マッチでも用意するしか手がないね、実際のところ。

 なにしろ両横綱の目玉パワーは、近くば寄って目にも見ていただきたいのだが、尋常なものではないのだ。
 西の浮川横綱が、高千穂バローズ(現ユニシス)の研究所でソフトウエアに携わっていた初子夫人と二人三脚で会社を起こして以来、日本語ワープロで成功物語を書き上げた経緯はいずれ追う。
 今回は、東の溝口横綱だ。
 このオヤジの目玉が、実に呆れるほど力強い。
 ただし溝口横綱の眼力パワーがフルに発揮されるに至るまでには、かなりの紆余曲折があった。
 一九六三年、東京工業大学を卒業して東芝に入社した横綱は、同社の大型コンピューター部屋の門をくぐる。
 日本のコンピューター開発の黎明期、東芝は他社に半歩先駆けてスタートを切り、開発史をひもとけば必ず冒頭に出てくるTACに、東京大学と共に一九五二年から取り組んだ。
 このTAC、なにしろ「動かざるコンピューター」との異名を取るほどその開発は難航した。だがとにもかくにも東芝は、日本のコンピューター開発のスタート時点からトップ集団の中にあった。
 その東芝が、IBM互換路線をとって富士通、日立が業績を伸ばすのを横目で睨みながらあくまで独自アーキテクチャ路線を貫き、ついに大型からの撤退発表に追い込まれるのが一九七八年二月。
 その時点で横綱は、大型機の開発部長のポジションにあった。
 振り返ってみれば、横綱の目玉パワーのボルテージが急上昇し始めるのは、断崖絶壁に立たされたこの時期からではなかったか。
 自らの乗った大型という名の船がまさに沈もうとする中で、新規事業の可能性をギランギランに目玉を光らせて探っていた横綱が焦点を絞りこんだターゲットは二つ。
 総合研究所で基礎研究の進められていた仮名を漢字に変換する技術を生かし、大型よりは一回り小振りのミニコンピューター(と言ったってパーソナルコンピューターに比べりゃクジラよ)をベースに、漢字仮名交じり文の作成機を商品化するプロジェクトが第一。
 後に日本語ワープロと呼ばれることになるこのマシンの試作機開発をスタートさせた一九七七年秋、横綱は当時一部のマニアが騒ぎ始めていたマイコン・キットを完成品に仕上げて個人用のコンピューターとして売り出す第二のプロジェクトも立ち上げていた。
 結局のところこの二つのプロジェクトのうち、日本語ワープロは一九七九年二月、他社に先駆けて東芝から商品化された。
 JW―10と名付けられた初のマシンが定価六百三十万円とされていたことを振り返れば、あらためてワープロという衣をまとったコンピューターの高機能化と低価格化がいかに急速に進んだかを思い知らされる。そしてスタート・ダッシュを決めた横綱率いる東芝の開発部隊は、激しい競争を通じてこの流れを常にリードし続けた。
 一方パーソナルコンピューターに関しては一九七八年三月、インテルの8ビット・マイクロコンピューターにベーシックと呼ばれるコンピューター言語(バカな機械に作業の進め方を、噛んでふくめるように指示するための言葉だ)を乗せた試作機を開発。
 日本電気がその後の独走の基礎を固めるPC―8001の発売に踏みきった一九七九年八月から一年半をさかのぼる前年三月にはすでに、T―400と名付けた試作機を西ドイツのハノーバー・メッセで開かれたショーに展示するところまでこぎ付けていた。
 だが個人用の超小型コンピューターなどというわけの分からない代物の商品化には、横綱の目玉パワーも及ばずゴー・サインは出ずじまいに終わった。
 東芝はパーソナルコンピューターでもスタート・ダッシュを決める絶好の機会を逃すことになる。
 市場が確かに存在することが他社のマシンによって実証された後、一拍遅れで送り出されたPASOPIA(そういえば横山やすし、一八親子というお二人が宣伝キャラクターを務めておったよな)や、海外市場向けの独自アーキテクチャのMS―DOSマシンが共に苦戦を強いられる中、横綱の目玉が再びギラリと光ったのが一九八三年秋だった。
「現在デスクトップと称しているパーソナルコンピューターも実態を見れば、部屋の片隅に用意された専用机に鎮座ましますテーブルトップじゃないか。ここで実現されている機能を落とすことなく、一人一人の机に本当におけるマシンが作れれば受け入れられるに違いない」とこう踏んで新規プロジェクトに着手した。
 IBM PCが業界の標準の座をほぼ固めつつある以上、アーキテクチャはこの互換で行く。そして先ずは机に置く気になるデザインを決め、ここで固まったアタッシュ・ケース型の筺体に図体のでかいマシンのパワーをすべてぶちこむ方針を取った。
 開発部隊のスタッフからは特に衝撃に弱くて場所ふさぎのハード・ディスクを内蔵するのはとても無理との声が上がったようだが、ここで発揮されたのが横綱の類まれなる目玉パワーだった。
 にらめっこ横綱とか目玉パワーとか色々申し述べてきたが、要するに挑戦的でぎりぎり実現可能な目標を設定し、その課題をチームの開発力を搾り出しながら実現していくリーダーシップと粘りが横綱の両の眼にとんでもない力を与えているわけで、この眼力が産み出した高機能ラップトップによって東芝が世界市場に切り込み、返す刀で日本市場にも独自の地歩を固めたその後の勢いは、まことに目覚ましいものだった。
 さらに二十万円を切ると同時に、群を抜く小型、軽量化を実現して日本市場に新しい領域を開いたダイナブック開発においても、横綱のリーダーシップは貫き通された。

 ところがその全開目玉パワーに一点の陰りを与えるような心ない質問を当の横綱にぶつけてしまった人非人が、実は何を隠そうこのオレなのであった。
 そして厚顔の芸能レポータも顔負けの暴問が発せられたのは、事もあろうにダイナブックの発表会場であったのである。
 一九八九年六月二十六日、新宿センチュリーハイアットで開かれたダイナブックの発表会で新しいマシンの概要を知ったオレは、心底ぶっとんだ。
 いつか日本のパーソナルコンピューターも安くなる。
 安くならねばならぬ。
 そのきっかけを誰が作るんだと思っていたところ、安いに加えて、小さい、軽いのおまけまでついたマシンがいきなり飛び出してきたからだ。
 そして喜びの余り、三日間の飯抜きの後、目の前にエサを与えられてお預けを食ったバカ犬のように、突き出した舌からよだれをたらしながらゼイゼイうめいてしまったのであるが、ここが三文ライター稼業の悲しい習性なのだな。同時に浮かんだ疑問を抑える理性も分別もなく、発表会が終わるや横綱のもとにすっ飛んでいって挨拶もそこそこに聞いてしまったのである。
「ダイナブック名称使用的件アラン・ケイ大人承知?」
訳せば「理想のパーソナルコンピューターのイメージを描き、これをダイナブックと名付けたアラン・ケイ(この世界ではボブ・ディランとジョン・レノンを足したよりもなお偉いことになっている)氏は、この事実を知っているの?」という意味だ。
 溝口横綱は目玉パワーの人であると同時に、実に誠実の人であって、その一本気な真面目さかげんが眼力光線に一層の凄みを与えるというメカニズムになっている。そしてオレが通り魔的に発したこの暴問にも、口許を一瞬への字に結んでからまっこと正直に答えてくれた。
 先ずダイナブックという名称は、日本ではアスキーが登録商標として抑えていた。このあたり実に鼻が効いているというか、一時期アスキーではパーソナルコンピューター絡みのめぼしい名前を抑えにかかっていたらしい。そして今回の命名に関しては、アスキーの協力を得てこれが実現した。
 ただしそもそもの名付け親であるアラン・ケイには、事前に仁義は切っていない。
 ここでちんぴらライターたるこのオレが「それはないんじゃないの」と調子に乗って攻め立てたりしたものだから、一瞬横綱の目玉パワーに陰りが生じたような気がしたのだが、これには後日談があってやはり大人は誠実の人であった。
 東芝はコンピューターやワープロの開発、製造を青梅工場に集約しているが、徹底してコンピューターによる自動化を推し進めたこの工場のマスコミ向け見学ツアーが催されたのが一九八九年の十二月四日。
 ここに紛れ込んだオレは、展示コーナーに「Congratulations !!」なる文字とサインをアラン・ケイその人が書き記したダイナブックを発見し、「これはこれは、良かった良かった」と実に人の和を尊ぶ日本人らしく胸をなで下ろしたのである。
 けれどあの懐かしきPASOPIAがマシンの温度テスト用恒温槽で今もけなげに働いているのを発見したり、基本ソフトの開発部門にNeXTのキューブが転がっているのを見つけたりと青梅工場見学ツアーを存分に満喫しているうちに、またまた、次なる疑問がむくむくと湧いてきた。
 一体アラン・ケイその人は、かつて自らが思い描いた理想の個人用コンピューターの名を与えられたこのMS―DOSマシンを見せられて、本当のところどう思ったのだろう。
「Congratulations !!」という祝福の言葉に、彼はどんな気持ちを込めていたのか。
 そしてなななんと、この謎が解き明かされる場面にそれから十日余りを経てこのオレは遭遇してしまったのである。


*鶴岡雄二というイカレタ小説家は、ロックンロールにまみれながらコンピューター関係の貴重な文献だけを選りすぐって訳している。
 アスキー出版局が出してくれた『コンピュータ・ウォリアーズ』や『ワークステーション原典』はやつの仕事だ。もっとも後者に関しては、訳語をめぐって編集者と血みどろの死闘を演じた挙げ句、筆名を使ってはいるが。
 とまあ時には一歩も引かぬやり合いを演じる鶴岡マングース雄二とアスキー・ハブ出版局ではあるが、連中がぐるになって積み重ねてきた仕事には実際頭が下がる。とりわけ一九九二年の三月に出た『アラン・ケイ』と著者名をそのままタイトルにしたアンソロジーは、掌でそっとあたためた小さな真珠のような労作だ。
 鶴岡雄二はこの本の訳者であるが、これには英語版の「原書」はない。何とこいつは、一から日本で編まれている。
 実際オレにも不思議でしょうがないが、アラン・ケイの書いた本というのは、これまでアメリカにも存在しなかった。厄介な図版の権利取得交渉を太平洋をはさんで担当編集者が根性でやり遂げ、ついにアラン・ケイの初めての本が誕生した。監修の浜野保樹さんが寄せた「評伝アラン・ケイ」も、彼の人物像を生き生きと浮かび上がらせている。
 この偉大なるオリジナル版に新たに寄せた「あのころはどんな時代だったのだろうか?」と題する前書きに、アラン・ケイは東芝の〈ダイナブック〉の評価にかかわる文言を記している。
 どう書いてあるかって。それは次項を呼んだ後のお楽しみだ。
 待てないのなら今すぐ本屋に飛び込んで、『アラン・ケイ』を買ってくれ。二十一頁を開けば、そこに答えが載っている。


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東芝流ダイナブックの可能性と限界を
アラン・ケイの微笑みの陰に見た

 母親の証言によると、オレは寝小便をかました後、親が怒りだす前に必ず先回りして泣いてしまう、繊細かつこずるいガキであったという。
 その小心者根性は今もオレの血潮の中に脈々と流れていて、普段のオレには全体の構成を決めずにドシドシと原稿を書き始めてしまうといった、六万四千人の大観衆の前でシングル・マッチでデビュー戦に臨む北尾光司のような真似は、とてもできない。
 どうでもいいけど、北尾の茶番のお相手なんかやっちまったクラッシャー・バンバン・ビガロよ! オレは東京ドームの天井も張り裂けよとばかりその場でも言ってやったが、もうお前の応援はしないよ。
 そりゃあ、北尾は緒戦を白星で飾る星の下に生まれていただろう。
 けどいくら何だって腕を取られれば転んでみせる、肩を入れられればジャンプして吹っ飛んでみる、挙げ句にねっころがったところに尻もちつかれて起き上がってこないんじゃ、目立つのは北尾の道化ぶりばっかりだ。
 オレははなから、相撲道が親方と合わぬだなんだと抜かした挙げ句、タレント道やスポーツ冒険家道(実際笑わせてくれるぜこのアンチャンは)に首を突っ込んでやたら言い訳ばかりを繰り返すような腑抜け野郎は、どこかねじが切れちまったような危険な臭いのする橋本のキックで首筋でも冷やして、いずれプロレス道が合うだ合わぬだぬかし始めると踏んでいたのだ。
 けれどあの北尾言い逃れ光司との猫またぎの一戦で、ビガロはそこまでプロモーターの意向にべたべたに合わせてしまう本当に気のいいオッサンであることを満天下にさらし、東京ドームの巨大ドツボにはまってプロレスラーとしての命を絶った。
 クラッシャー・バンバン・ビガロの死を悼み、合掌。

 とここまで書いてきて海よりも深く反省したのだが、ほらみろ、構成を決めずに書き始めると、アラン・ケイの目に映った東芝のダイナブックをテーマとしたはずの原稿が、もう東京ドームにおけるビガロの突然死になってしまうでしょう。
 とまあこのようなことになることを恐れる小心なオレは、普段は原稿の頭からケツまでの流れをフロー・チャートにまとめてはじめてキーを叩き始めるという、アウトライン・プロセッサ不要の男なのである。
 ところがめずらしくも「短めのコラムを」と口がかかったものだから、まさかたくさん書いたからコラムのページ数を増やせというわけにも行かんだろうなと覚悟を決めたオレは、普段使用している格調高い文体からフローチャート主義まで、一切合財を裏山に捨てて、無手勝つ流原稿作成作戦にでた。
 その結果、「アラン・ケイとダイナブック」をテーマに据えた前回は、何とネタふりだけが長大化した挙げ句「次回に続く」とあいなり、担当編集者のM島しっかり者Y子はあまりの下品な文体といい加減な構成に目を回して三日間寝込んだ。
 ちなみにY子は、よし子の仮名である。このY子に「よし子ってどう書くの?」とたずねると、「淑女の淑です」と赤面して答えざるを得なくなって面白い。

 それでまあ今回はいよいよ本編となるはずなのだが、話はなぜか十七年前に今日のバンド・ブームを予見させる愚行を高田馬場の空の下で演じた、谷川ユズル(現・大手電線メーカー勤務)からスタートしてしまう。
 一九七〇年代の初頭、オレは高田馬場の空の下で、九人組の不良グループの一員としてガンを飛ばしまくっていた。
 小学校から越境入学を繰り返した挙げ句、結局は馬場まで流れてきた谷川ユズルは、当初この組においては刺し身のつま的勉学の人と目されていた。
 だが、バイト先の旦那に生まれてはじめてキャバレーに連れていかれて悦楽の夜を過ごした翌日、感動の余り「生まれてはばれてキャバレてアワワ〜」としどろもどろにホステスの手厚いもてなしの一部始終の報告に及び、以来ヤツは好感度ナンバー・ワン男と化した。
 そしてこの谷川ユズルが、キャロルを畳んでソロ活動を始めた矢沢エイキチにしびれ、ある日突然「バンドやろうぜ」と高田馬場の空に向かって吠えたのである。
 以来バンド名はどうするか、ロゴはどんなのがいいか(なにしろ谷川ユズルは、当時YAZAWAのロゴ入りタオルを肌身離さなかったのだ)、大変な騒ぎとなってしまったのだが、オレははなから谷川ユズルの精神構造が理解できなかったね。
 何を隠そうこのオレは、ビートルズのアメリカ・デビューから連中に入れ上げて、小学校五年の時には親をねだり倒してギターなぞせしめた男である。そしてわずか半年後には、六年生を送る謝恩会のクソッタレ・ガキバンドで「幸せなら手をたたこう」によるギタリストとしてのデビューを飾ったのである。
 ただ当時のオレはチューニングという概念を持っておらず、Aの音を四百四十ヘルツに合わせる気がないのはもちろん、二弦の五フレットを一弦の開放に合わせる気もなかった。
 つまりオレのギターは、ハチャメチャのヨレヨレのドシャドシャだったのである。
 そしてこの酩酊状態のギターを抱えた小学校五年のオレは、ともかく一本の弦でメロディーを追うことを覚え、他の連中が弾いているキーとは全く無関係に、時には一弦で、時には二弦で、はたまた三弦でとメロディーのみを気ままに追い、ともかくも無事に演奏を終えたのだった。
 考えてみればあのクソッタレ・バンドは教師が指導していたと思うのだが、それでなくてもいつも生意気なガキが「ギター弾かせろ」といいだしたもんだから、呆れ返った教師は「どうせ聞こえやしないや」と踏み、オレの自由奔放な演奏スタイルに文句を付けなかったのだろう。
 こうしてデビュー時に独創的な演奏スタイルを打ち出したオレは、その後「影を慕いて」の名手だった近所の兄ちゃんに「この世には調弦というものがあるのだよ」と深くさとされ、まっとうなギター道に立ち返った。そして数々のバンドらしきものをでっち上げ、この年になってもオベーション抱えて「あらよっと」とバンドごっこにこれ努めている。
 そのオレにとって谷川ユズルのバンド結成宣言は、どうにも納得がいかなかった。
「音楽がやりたいのならその場で歌いだすか、ギター抱えてともかく鳴らし始めるのが先決だろう」と喉まで出かかっていたオレは、リード・ギターとしての参加を正式に求めてきた谷川ユズルに「なんだかんだやる前に、やりたい楽器があるんなら鳴らしてみたら」と厳かに宣言したのである。
 もっぱら名前とロゴ問題に集中して演奏関係は視野の外に置いていた谷川ユズルは、そうかまされてしばらくアングリと口を開け、深く肩を落として「そうだな」とつぶやき、熱狂のバンド騒動はこれにて終了となった。
 そしてこの時、音楽がやりたいという目的とバンドという手段を逆立ちさせると、結局のところ東京ドームにおける北尾光司のおまぬけデビュー以上のものにはならんという人生の真実に、オレは目覚めたのだ。

 とここまできていよいよアラン・ケイである。
 東芝のダイナブックのデビューに際して、オレがブルーハーツをはじめて聞いたときのような逆上的興奮を味わった経緯はすでに述べた。
 ただ同時に、ダイナブックという名前をいくらいいところを突いた商品とはいえMS―DOSマシンに付けてしまうことには、「そりゃないんじゃないの」と文句たれ根性の沸き上がるのも押さえられなかった。
 そのオレは東芝の青梅工場に潜入してアラン・ケイが「Congratulations !!」と記したダイナブックを発見し、「その祝福の言葉に込められた真実は」との問いに、深く思いを致してしまったというところまで前回は行った。
 さて一九八九年十二月十三日から二日間、電通という広告屋さんは次の儲けのねたはなんじゃいなというわけで「マルチメディア国際会議」を千葉は幕張メッセでぶちかました。
 ここで仕入れてきたところによると、マルチメディアというのは音や動画までコンピューターで扱うぞという、気合いのようなものらしい。
 これまで文字と動かないグラフィックスだけだったパーソナルコンピューターの世界を、もっと生き生きとしたダイナミックな方向に引っ張っていこうというわけだ。
 いわば、東海林太郎のハマー化だ。
 さてそこに、件のアラン・ケイが招かれていた。そして彼を囲むこじんまりとした記者会見が二日目に開かれて、これがなかなか傑作だった。
 なにしろ通訳のお姉ちゃんはアラン・ケイのあまりに翔んだお言葉に何が言いたいのかさっぱり訳分からないようで、白と言ったのが黒になったりグレーになったりと、かつてのオレの「幸せなら手をたたこう」の演奏もかくやと思わせる迷調子(ああ、お姉ちゃんの悪口言うと胸が痛む)。
 おまけにこの会議にはコンピューター関係以外の記者もいろいろ来ていたようで、集英社ヤングジャンプ男は「二百二十万部の発行部数を誇る日本の若者文化のイニシャティブを取る我が偉大なる雑誌に、ズバリ、メッセージをよこしなさい、今すぐよこしなさい」と迫ったり(オレも漫画はいやほど読んでおるけどよ、二百二十万部を百回ほど強調しながら決して自分の雑誌がコミックをやっておると口にしなかったヤングジャンプ・ズバリ男は、ひょっとすると漫画にコンプレックスでもあんじゃないのか)、なかなか異文化フュージョン風で楽しかったのである。
 そしてこの会見の冒頭で、のっけから「Congratulations !!」の真実に迫る質問が飛んだ。どこのどなたかは知らないけれど、眼光鋭い女性記者はやおら「東芝が自分のところのマシンにダイナブックという名前を付けておる事態を、あなたはどう受けとめておるか。理想的なコンピューターのイメージとして打ち出したダイナブックの名を使われて、あなたの腹は立たぬのであるか、ええっ」と切りかかった。
 それに対するアラン・ケイの答えはかなり抑制が効いていたがやはり、言いたいことはしっかり伝わってくる仕掛けになっていた。
 先ず彼が最初に強調したのは、ダイナブックのアイデアは「小型のラップトップというスタイルと不可分に生まれたのではない」という点だった。
 ゼロックスのパロアルト研究所(この世界の〈虎の穴〉のようなものだ)に入る前、一九六八年頃にダイナブックについて考え始めたころ、アラン・ケイはこれを「サービスやコミュニケーションのアイデアとして想定した」という。
 つまり人間の認識の方法にそった使いやすいインターフェイスを通して文字やグラフィックス、ハイファイの音声がリアルタイムで取り扱え、どこにでも持って行けて常に無線でネットワークに接続されており、自分にあった環境をたやすく作っていくためのプログラミング環境が組み込まれている。
 まずはこうした欲しいサービスのイメージが先にあって、これをどういった形で実現するかは後にきた。
 そしてこの目的を実現する手段に関しては、当初、三つを思い描いたという。
 第一は、ノート型のもの。グーテンベルクがはじめて活字を用いて作った本は大変に大きかったけれど、数年後にベネチアで出たものは「本というものは持ち運べなければいけない」というアイデアを打ち出した。今に連なる本のサイズはこのベネチア人のアイデアに従っているわけで、この本の大きさまで行き付ければ、そのマシンはどこででも使えるという提供すべきサービスの条件を一つ、クリアーできるだろう。
 第二は、コンピューター・グラフィックスの創始者であるアイヴァン・サザーランドが当時ユタ大学で実験を行なっていた、眼鏡型のディスプレイの利用。
 そして第三が、マサチューセッツ工科大学メディア・ラボ所長となったニコラス・ネグロポンテが考えたという、腕輪型のコンピューターだった。
 そう指摘してからアラン・ケイは「例えばハイパーカードのようなシステムを一・五ポンド(ということは七百グラム位の勘定か)のコンピューターにおさめ、デジタル携帯電話でネットワークにつなげば当時私が考えていたのと同じようなものができるだろう」と語ってから、最後にぽつんと「MS―DOSのことは考えてなかった」と加えてにやりと笑ったわけなのである。

 このMS―DOSに関して彼がどう思っているかは、その日の講演で持ちだしたねじ回しの握りの話が雄弁に物語っていた。
 あらためて申し上げるのも何だが、ねじ回しの存在意義はねじを回すことにあり、その勤めには軸の先っぽの平たい部分があたる。厳密に言えば、こいつよりも径の太い握りを付けることでてこの原理が働いて我々はねじを回すことができる。
 アラン・ケイは、このねじ回しの機能をコンピューター用語で切り分けて、「〈軸と先っぽ〉が機能、〈握り〉がユーザーインターフェイス」を担うとする。
 そして従来のねじ回しの握りは数百年誰も文句を言わなかったのが不思議なくらいできの悪い代物と指摘し、ここで会場の聴衆に向かって「最良のデザインはどんなもんだろうね」と問い掛けた。
 さて皆さんならどうします?
 正解は野球のボールをそのままくっつけた形とのことで、確かにこれなら手の吸い付きも良く、てこの効率を高める直径も長く稼げる。仕舞っておくのに場所ふさぎかも知れないが、使いやすそうだ。
 ここから話はMS―DOS批判へと転じる仕掛けになっていて、MS―DOSの世界でも確かにコンピューターの持っている機能を我々は利用できる。ただしそのためには、暗号の類としか思えない文字の連なりを、キーボードから綴りを間違えることなく入力することを求められる。ここで間違えると機械の側は、「違ってるぞ」と言ったきり黙りこくる。
 横浜のタクシー運転手もかくやと思わせる無愛想な対応ぶりで、アラン・ケイに言わせれば「こんなインターフェイスのデザインはこれまでのねじ回しの握り同様、最悪」となる。
 ここでより良いインターフェイスを目指すとすれば、進むべきは「人の心がどのように機能するかを理解して、これと調和するもの」を求める道。
 行ないうる作業をメニューに表示してそこから〈選ぶ〉ことを基本とする操作や絵文字の利用といったアラン・ケイ自らが開発し、後にマッキントッシュで大衆化されたインターフェイスこそが、ここから生まれたボール型の握りであるとのご主張なのである。
 そしてもともとダイナブックの発想の原点には、こうしたインターフェイスを含むサービスのイメージこそがあった。つまりここに問題のあるMS―DOSを使っている以上、スタイルがノート型になったとしても、それは手段を目的に先行させた谷川ユズルにおけるバンドのようなものなのだ。
 とまあオレ自身「Congratulations !!」の真実はこのあたりにあるのだなと受けとめたのではあるが、今度アラン・ケイにあったら別に東芝の肩を持つつもりもないけれど、きっちり聞いておきたいことも胸の奥の底にはもう一つあった。
「一キログラム切るノート型でデジタル携帯電話を積んだ〈安い〉マックを、あなたがフェローという顧問的な立場にあるアップルコンピュータはいつになったらだしてくれるのかいな」
 標準のしがらみを断てば、新しい技術には飛び移りやすい。
 業界標準として機能するのは、それは遅れた技術だろう。
 けれどともかくも一つの標準に沿ってメーカーが厳しい競争を演じる場でこそ、ハードウエアをしぼり込む作業はグングンと進んでいく。
 そしてその作業も間違いなく、真のダイナブックを実現するための貢献であると、オレは括弧付きの〈ダイナブック〉をヨシヨシと撫でながらつくづくと思っていたのである。


*それでアラン・ケイは、例の本にどう書いているか。
「ダイナブックはどうなったかって? もちろん、すぐに登場する。…IBM―PCへの『寄り道』のおかげで、全てがひどく遅れてしまったが、そのおかげでいよいよ登場の暁には、ダイナブックは、きわめてバランスのとれたデザインになっていることだろう」(『アラン・ケイ』アスキー出版局)
 ここで言うIBM PCでケイがイメージしているのは、東芝の〈ダイナブック〉が採用しているMS―DOSだ。
 この本に監修者としてかかわっている浜野保樹放送教育開発センター助教授の〈ダイナブック〉に関する指摘はもっと辛辣だ。
「一九八九年夏、ケイのコンセプトとは全く無関係であるにもかかわらず、日本のあるメーカーが『ダイナブック』という携帯用パソコンを発売した。そして、そのメーカーは、宣伝にケイのダイナブックのことを匂わせる『みんなこれを目指してきた』というコピーを使った。そのことが皮肉にも、ケイの知名度を日本で一層向上させる結果となった。かつて、ケイがマッキントッシュを評価したように、ケイ本人に日本の『ダイナブック』の評価を直接聞いてみたが、ここでは書くまい。ただ、私が差し出した紙にケイが書いてくれた次の文章を見るたびに、悲しい気持にさせられるのは事実だ。
 Won't it be wonderful when we both have a dynabook.
(僕ら二人がダイナブックを持てるようになったら素敵だね)」(『アラン・ケイ』所収「評伝アラン・ケイ―本当の予知能力とは何か」)
 そうか、浜野さんにはそう見えるのか。
 だがオレは東芝の〈ダイナブック〉と始めて出会ったとき、一方で名前に対する反発を覚えながらも、もう一方で興奮を禁じえなかった。ずうずうしくもダイナブックを名乗ることはねえだろうとは思ったが、それでも胸は高鳴った。
 今のところダイナブックに一番近いマシンは、マッキントッシュのノートブック版であるパワーブックだろう。こいつは東芝の〈ダイナブック〉から遅れること二年四か月後の一九九一年十月になってようやく発表された。
 それまでアップルが提供してきた小型機は、でかい、重い、高いの三拍子そろった小錦クンだ。
 あんまりふがいないものだから、ポータブルという冗談としか思えない名前の付いた小錦クンを見かけるたびにオレはいつもこの野郎をぶんなぐってやっていたのだが、こいつを徹底的なダイエットに追い込んだのは〈ダイナブック〉をはじめとする一群の絞り上げられたDOSマシンからの圧力だ。
 最初はサービスのイメージから発想されたにしろ、ノートブックはダイナブックの器としては、一つの適切な落とし所だろう。
 ダイナブックの環境をソフトの側から育て、大衆化する作業は、まちがいなくマッキントッシュがリードした。
 だがノートブックというハードの落とし所を他に先駆けて、しかも安く用意したのは東芝だ。
 このMS―DOS側からの圧力がなければ、そして業界標準のリングで激しいたたき合いを演じながら絞り上げられていった部品の存在がなければ、アップルはいったいいつごろパワーブックに到達しただろう。
 確かにPCがのさばってマッキントッシュが苦労した数年は、回り道と言えば回り道だろう。だがPCはIBMの専有物に終わらず、標準となった。ダイナブックが「きわめてバランスのとれた」ものとなるとすれば、原動力は標準に沿った競い合いの中で磨き上げられた技術だ。
 浜野さん、ちょっとしつこいだろうか。
 けれどこんなことを書くのも、東芝の〈ダイナブック〉に関する評価は、一九七〇年代から八〇年代初期にかけてパーソナルコンピューターの誕生と共に湧き起こったコンピューターの大衆化運動の評価にもかかわってくるという気がしてならないからだ。
 ヒト一人のためのコンピューターが存在しうるとの確信に支えられたこの運動は、アラン・ケイをはじめとする先駆者達が積み重ねた研究成果とは無縁だった。
 では先駆者達のコンセプトとは全く無関係だったこの運動は、ひとりひとりの人間を自由にするコンピューターを作りだす上で資するところがなかったのか。
 そんなことはない。
 アラン・ケイの種子を蒔く畑を耕したのは、貧相なベーシック・マシンやCP/Mマシン、DOSマシンだ。
 こうしたマシンに群がった我々の心に芽生えた、パーソナルコンピューターへの確信だ。
 この大衆運動がなければ、彼がどこかの研究室で「経営陣がアホで」とぼやき続ける時間はもっともっと長かったはずだ。


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ソフトハウスのオヤジとなったサリンジャーの憂鬱を
吹き飛ばせ! 手書きパームトップ!!

 一九九〇年に誕生したマシンのことを書こうと思っているにもかかわらず、頭の中では六〇年代が駆け巡っている。
 これも「フィールド・オブ・ドリームズ」なんて映画を見たせいだ。
 おまけに原作の『シューレス・ジョー』を買ってきて、完全に二十年とちょいと、脳味噌に巻き戻しをかけられた。
 いや、こんなことではいかん。
 オレは新しいマシンについて書くのだ。
 一九九〇年四月一日にソニーが発売を開始した、ビジネス手帳を思わせる手書きマシン、パームトップがテーマだ。
 六〇年代よ去れ、シッシッ。
 とさっきから噴霧器で頭に殺虫剤をかけているが、これがさっぱり効き目がない。
 気がつくとピート・シーガーの「若者と老人」なんてレコードを引っ張りだして、このオレは「♪ブリング・ゼム・ホーム〜」とベトナム反戦のプロテスト・ソング(ああ、こんな言葉を十七年ぶりに思い出しちまったぞ!)など口ずさんでいるではないか。
 ええい、もうこうなったらやけくそじゃ。
 ドツボにはまったまんま、六〇年代の頭でパームトップを論じてやるぞ。

 先ず、オレが何でここまで「フィールド・オブ・ドリームズ」にはまりこんだかからかたづけよう。
 この映画は、見る側が個々人の様々な思いをスクリーンに預け、その跳ね返りのきらめきを楽しめるような構図になっている。
 ボブ・ディランの歌は聞き手の想像力の光を受けて初めて輝くダイヤモンド型構造を持っているが、この映画にもそんな臭いがある。おまけに、ディランの歌よりは余程手触り良く出来ていて、日本でも観客動員に大成功しているのも当然だろうなあ。
 ただしこの映画に登場してくる黒人作家、テレンス・マンとは誰かという点にこだわらなかったら、オレはオスギほどはこの映画にははまらなかったろう。
 手触りの良いものは疑ってかかれという健全な生活信条を、オレはまだ失っていないからね。
 けレどテレンス・マンの正体には、実際のとこまいったな。
「フィールド・オブ・ドリームズ」のテーマを二十五字以内で述べよと言われたら、どう答えよう。
「本当にやりたいのは何だろうと問うことは、実に美しい」てなところかなと思いつつオレは横浜東宝会館からでてきたわけであるが、テレンス・マンは六〇年代にこうした精神のみずみずしさを置き忘れてきた作家として描かれている。
 ベトナム戦争のさなかで「愛と平和(嗚呼!)」を訴えたマンは、七〇年代に入って筆を折り、マスコミとの縁を断つ。このテレンス・マンが「絞り染めソフト」というソフトハウスのオヤジになって退屈な七〇年代以降を生き延びているという設定に、オレはかなり心のひだをくすぐられたのだが、ここに主人公が押しかけてきてなにやかやあって、マンの内側には再び表現したいという衝動が湧き上がってくる。
 で、このテレンス・マンとは誰か。
 そこのところがどうにも気になって、原作の『シューレス・ジョー』を買ってみるとなななんと、彼の正体はJ・D・サリンジャーではないか。
『ライ麦畑でつかまえて』で、繰り返し繰り返し世の中に吐き出されてくる小生粋な小僧どもの心を洗ってきた、そしてこれからも洗っていくだろうサリンジャーの隠遁生活は、徹底して念がいっているらしい。
 そのために映画化にあたっては、テレンス・マンという代役を立てざるを得なかったということだろう。
 そしてこの事実を発見した瞬間に、オレの心の中で六〇年代のドツボに向けて、魂のドミノ倒しが雪崩を打ちはじめた。
「本当に何がやりたいのか、魂の声に耳を傾けろ」
 倒れ続けるくそったれドミノどもは、繰り返しオレにそうささやくのだ。
 そうだこのオレは、最近ではパーソナルコンピューターがどうしたこうしたとゴタクを並べているが、そもそも物書きの真似事をはじめたきっかけは何だったのか。
 そうだそうだ、サリンジャーの『九つの物語』という短編集の中に「笑い男」という話があって、『ライ麦畑でつかまえて』はとても無理としても、オレはオレなりの「笑い男」を死ぬまでに書き上げ、春の日の穏やかな温もりを胸に育てて土に返りたいと思ってこんなことをはじめたのではないか。
 それをこのオレ様は、すーっかり忘れてしまっておるではないか。

 こうして百パーセント六〇年代化した状態で、締め切りに首を締められてパームトップに立ち向かっているオレは、今回は先ず証人に発言を求めてしまうぞ。
 最初にそこ、そこのパーソナルコンピューターという奴、起立、起立!
「お前はそもそも何がやりたくてこの世に生まれてきたんだ」
 とたずねても、オレを取り巻いている四台のマシンのどれからも答えがない。ようし、お前らが忘れたふりを決め込む気なら、オレが思い出させてやるぞ。お前らが生まれてきたのはな、「コンピューターで人の頭を殴る」けったくその悪い下司どもをぶっとばすためだったろうが。

 オレが初めて書いた本は、「一九七〇年代に入って挫折と沈滞を余儀なくされていた時代精神が、パーソナルコンピューターという革命児を生みだしたのではないか」というすさまじい妄想に基づいた『パソコン創世記』という代物だった。この本でオレは、六〇年代前半のビートルズの革命と後半の学生運動の流れを吸い上げたのが、七〇年代後半に台頭したパーソナルコンピューターであるという大風呂敷を広げたのであるが、その後書きにお前らの初心はしっかり書き記しておいたのだ。
「パーソナルコンピューターの革命に関して学ぶべき最大のポイントは、テクノロジーなり科学なりに対し、それが何に対して奉仕するものなのかを検証し、地球に生きる一人一人の人間にとってプラスとなる方向に、鞭をくれてやるという態度ではないでしょうか」と、ちゃんと二百十九頁に書いてあるだろう。
 大きな潜在力を持ったコンピューターのパワーが、国家と大資本に連なる限られた層に独占されていれば、この技術に対する恐れを背景にそこいらの連中を黙らせる道具としてマシンを用いる試みは、巧妙に取り行なわれていただろう。個人へのコンピューター・パワーの解放が実現していなければ、我々は一九八四年をジョージ・オーウェルの描いた悪夢の管理社会により近い形で迎えていたはずである。
 そしてすっかり六〇年代化したオレは、パームトップをこのパーソナルコンピューター誕生時の初心に照らしてこそ見たいと思う。

 パームトップのポイントは、手書きによる入力には存在理由があるという主張につきる。
 CD技術の生みの親であり、その後ワークステーションのNEWSによってソニーのコンピューター事業を軌道に乗せた土井利忠スーパーマイクロ事業本部長、人呼んでD博士は、「多くの人にとってキーボードよりは手書きの方がより容易なコンピューターへのアクセス手段になる」と語る。
 D博士は、手書きがキーボードに取って変わるとするのではない。キーボードには大量の文章を素早く入力するという利点があり、プロフェッショナルは今後もこれを手放さない。
 だがもう一方で、手書きには特別の訓練を積まず手を伸ばせるという大きなメリットがあり、D博士はNEWSのプロジェクトを立ち上げた一九八五年当時からこの技術開発を進めてきた。
「ワープロ検定の三、四級が、十分間に三百〜四百字程度。パームトップでは一時間もやっていれば、十分で百字程度は入力できるようになり、かなりなれた段階で三、四級レベルにいって、そこが上限となる。ワープロ・コンテストの優勝者は十分で千七百字程度入力し、手書きではとてもここまでいかない。しかし我々が考えながら文章を書く場合、せいぜい十分百文字程度であることを考えれば、手書きのニーズは間違いなくある」
 こう主張するD博士にインタビューしたオレは、車の運転が常識とされるように、キーボード操作は今後、誰にとっても当たり前の技術になるのじゃないかと異論をはさみ続けた。
 湯水のように駄文を垂れ流すという職業上の要請のために、オレは知らぬ間に十分間に五百文字程度は軽く叩きだしてしまうブラインド・タッチ男と化しており、パームトップが結構しつこくミミズのたくり風のオレの文字に再入力を求めてきたために、キーボード至上主義の旗を高く掲げたい気分になってしまっていたからだ。
 だが「九〇年代のブラインド・タッチ男よ、控えろ控えろ」と、すっかり六〇年代化したオレの心は今、叫んでしまう。
 ことキーボードに関する意識において、オレはコンピューターで人の頭をひっぱたく側に立ってしまったのではないか。パーソナルコンピューターの初心がコンピューター技術の個人への解放にあったことを忘れ、コンピューター村の住人としての実感にこだわっているのではないか。
 手書き認識は、この技術をより広い層に解放していく方向こそを目指している。
 少なくとも、手書きまで受け入れようとする謙虚なマシンは、人を脅したり屈服させる道具とは到底なりえないではないか。
 この技術を生かした初代パームトップは、システム手帳の電子化といったあたりを狙って仕上げられたようだ。
 オレはシステム手帳というスノッブ根性丸出しの生意気な小道具が大嫌いで、編集者がこいつを取り出すとその場で下司野郎に膝げりを食らわして席を蹴るのを常としている。
 要するにこの商品設計そのものにはまったく興味はない。
 しかし誰も「パーソナルコンピューターとは何か」と問わなくなった中で、「手書き認識によるコンピューター技術のさらなる解放」を打ち出した点には、六〇年代化した頭をグングン振り回してうなずいてしまう。
 広告に使っている「頭脳を持った紙とペン」という主張には、自分の頭でパーソナルコンピューターとは何かを考えようとするソニーのラディカリズムが現われていると思うのだ。
 D博士には天外伺朗というお付きのライターがいて、このライターは双子の兄弟ではないかと思うほど、博士の心を忠実に映した本を著している。新しい技術に対する反発という大きな壁を難行苦行の末に突破し、CDの規格を確立したD博士の言葉として天外はこう記す。

「技術者よ、研究者よ、寂しくつらい下積み生活に耐えよ。不運や不遇に耐えよ。苦しければ苦しいほどよい。長ければ長いほどよい。そしてひとたび、地上に躍り出たなら、大声で鳴いて、飛躍せよ。人類のために、業界のために、会社のために、仲間のために、技術革新を遂行せよ」(『CDはこう生まれ未来をこう変える』ダイヤモンド社)

 かつて誕生期のパーソナルコンピューターの世界に横溢し、今はさっぱりお目にかからなくなった「本当にやりたいことは何なのか」という熱を帯びた問いを、オレの六〇年代化した両の眼は、今はまだ手の届かない彼方のパームトップにしっかりと見てしまう。


*パームトップが言いたかったことは二つある。
 第一は、手書きがより多くの人にコンピューターのパワーを利用するチャンスを与えるだろうという点。そして第二は、二十四時間どこにでも人について回ってお世話するマシンが求められるだろうとの読みである。
 パームトップを作った連中は、具体的にはこれをシステム手帳の電子版と想定した。
 このうちの手書きの可能性に関しては、この駄文を弄した時点のオレにも今のオレにも全く異存はない。初代のパームトップが出た頃には、手書きなどできの悪いSF映画から引っ張りだしてきた実用性のないガジェットだと言い張ろうと思えば言えたろう。だが今や、手書き技術は鐘と太鼓で囃される時代の寵児である。
 ただし日本で広まってきた「ペン入力」という呼び名には、「キーボードに代えて電子ペンで文字を入力する」ことにバランスを欠いて重心がかかっているように思う。
 より実体に近いのは、「ペン操作」だろう。
 今後もまとまった文章を作る際の道具は、キーボードであり続ける。
 手書きコンピューターが生きるのは、おかしな言い方になるが書くことがほとんど必要ない分野だ。
 文章作成を例にとれば、ともかくズンズン書いて行く段階ではキーボードである。
 しかしいったん書き上がった文章を見直し、前後を入れ替えたり字句を訂正したりといった推考の段階では、手書きが生きる。
 電子ペン一本持ってディスプレイと向き合い、引っ掛かった箇所に直接修正を加え、場合によっては短めの文章を入力する。マウスとキーボードの持ち替えといった、道具の側のつごうに強いられたわずらわしさからは、おさらばだ。
 手書きはキーボードを駆逐する類の技術ではない。
 いってみれば、新しい世界に踏みだしていこうとするコンピューターに与えられたパス・ポートのようなものだ。
 パーソナルコンピューターはタイプライターを真似ることで、大成功を収めた。しかしだからといって何から何までタイプライターでやろうとするのは、洗濯機で調理から掃除から電話の応対までやらせようとする類のマンガである。
 にもかかわらず我々は今、表作りからイラスト描き、音楽まで無理矢理タイプライターでこなそうとしている。あらためて立ち止って見れば、それはやはり無茶というものだ。
 ではタイプライターの世界から次の一歩を踏みだすとして、どんな環境の真似っこがより大きな貢献をもたらすだろう。
 そう問われれば、我々が表現したり考えたり数字をいじくったりする際、ごく一般的にお世話になっている紙とペンの環境だろうと、誰もが思い付く。
 ただし紙―ペン環境への移行に際しては、どうしても乗り越えておかなければいけない壁があった。
 それが手書き文字の認識だ。
 文字も入らないんじゃ、紙―ペン環境も糞もないからだ。
 ただしもう一方で、我々はすでにタイプライターを真似たマシンで文章を大量に叩き込む訓練も積んできている。
 より幅広い世界を包含する紙―ペン環境を使いこなしの基本としたとしても、必要とあらばそこにキーボードをくっつける一手だろう。
 もちろんユーザーの書き癖を覚えるなどして、手書きマシンには認識率をどんどん上げていって欲しい。認識のミスなしにどんどん入れば、それにこしたことはない。
 ただしそれにしても、手書き文字の認識は紙―ペン環境へのパス・ポートである事情には変わりない。

 とまあ手書きに対するオレの期待も膨らむ一方で、この本の後ろの方ではさらにその根拠らしきことも述べている。
 昨今は可能性大と信ずるものに光があたってきたことを素直に喜ぶと共に、ソニーをはじめとする手書きへのチャレンジャーの先見性にあらためて脱帽する日々である。
 ただしここでも述べているとおり、ビジネス手帳の電子版という商品設計には全く興味がない。ここでは深入りを避けるが、手書きを生かすならA4サイズ程度のクリップボード状の機械。
 二十四時間型という意味でなら、携帯電話の変種だろう。
 ところがそうは考えないというパームトップの援軍が、鳴り物入りでドドーンと登場しそうな気配になってきた。
 名乗りを上げるのは、突然「家電をやるぞ」とわめきだしたアップルだ。
「アップルが家電って、例のリンゴ・マークのついた扇風機や冷蔵庫でも作るの」という疑問には、次項の言い訳で答える。
 ともかくも家電への参入宣言があり、この戦略に沿ってアップルはカラーの液晶ディスプレイに高い技術を持つシャープとの提携に踏み切った。
 一九九二年三月二十七日付けのシャープの発表によれば、両社は「次世代のパーソナル情報機器の開発から生産および販売について、長期的な事業提携を結ぶことに合意し、契約を締結」した。このパートナーシップから生まれる最初の製品は、発表によれば一九九三年の初めには市場にデビューするという。
 その第一弾のアウトラインを、ジョン・シュワルツという『ニューズ・ウィーク』の記者が一九九二年四月六日号の記事の中で書いている(「THE NEXT REVOLUTION」)。
 アップルが開発中のものをちらりと見せる代わり、家電とコンピューターの融合という新しい波の到来を印象づける記事を、どかっと書いてくれとなったらしい。
 ジョン・スカリー会長が記者にちらっと見せた第一弾のプロトタイプは、ラップトップ型のコンピューターより一回り小さく、キーボードは無しでペンがついている。
 まるでソニーのパームトップそのものだ。
 市場に売りだす物はさらに一回り小さくなって、上着のポケットに入るくらいになるという。
 こいつで予定表や電話帳のソフトを走らせ、メモ書きを受け付けようという狙いだ。
 シャープの電子手帳はアメリカではウイザード(魔法使いね)という名前で出張っているが、こいつにマッキントッシュの爪の垢を飲ませて洗練させようということだろう。
 少なくともオレはこうした手帳の電子化のコンセプトにのらないので(そんなものはパワーブックにメモリをぶち込んで、マルチファインダー下でハイパーカードを走らせればたくさんだ)、興味はない。
 ただ家電への参入という大枠は、当然だと思う。
 スカリー自身が語っているとおり、アップルがやらなかったとしても家電とコンピューターの融合商品は誰かがやる。記者も書いているが、アップルとの提携関係を深めているソニーもいっそパームトップにこいつとの互換性を持たせれば、売り上げも多少は伸びようというものだろう。

 書籍化に手間取って原稿を手元においている間に、一九九二年五月二十九日、シカゴでこの製品に関するプレス発表があった。
 こいつの名前は、ニュートンというのだそうだ。


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ソニーのデビュー作、電気おかま越しに
コンピューター産業激変のダイナミズムを見る

 それでは第一問、ソニーの第一号製品は何でしょう。
 はい、同社名誉会長の井深大クンから挙手がありました。
 なになに、「日本初のテープレコーダー?」。
 ごまかしてもだめよ。ほらほら、もっと前にあるでしょう。太平洋戦争直後に作った、思いだしたくない例のやつが。
 一九四五年十月、敗戦から二か月後、日本橋の白木屋(現東急百貨店)三階の一部を間借りして「東京通信研究所」を旗揚げした井深御大は、それまで耳を半分ふさがれていた格好のラジオの修理からスタートを切った。
 海外の放送が国民の耳に触れることを恐れ、戦時中のラジオは中波のみ受信可能とされていた。
 これに短波の受かるコンバーターを付けるサービスを始めたところ、新聞に紹介されたことも手伝って、これがじつに繁盛した。
 そしてこのビジネスの好調を受けて、井深御大は大衆市場向けの家電新製品開発に堂々乗り出した。
 ここに誕生したソニーの歴史的第一号製品は、この年の十一月に完成を見た電気炊飯器、エレクトリック・ライス・クッカーだったのであります。

 ところが電気炊飯器というご立派な名前にだまされてはいけないのだな、これが。
 実物は木のおひつの底にアルミの電極を張り付けただけのもので、じつに何ともわかりやすいというか情けないというか。これを電気炊飯器と言い張るには、たらいの底に扇風機をくっつけてモーターボートと称して売り付けるくらいの心臓が必要だったろう。
 ご隠居もあれでなかなか、若いころはいい根性をしていたものである。
 東芝でさまざまな家電製品の開発に携わってきた山田正吾さん語り下ろしの『家電今昔物語』によれば、電気釜への初のチャレンジは、一九一五年頃、京都電灯によって行なわれたという。
 そもそも電気を売る会社は、明治中期、電力会社ではなく電灯会社としてスタートした。
 ところが一九〇〇年代の電球の技術革新は、電気屋さんが事業の柱に照明を据えることを許さなくしてしまった。
 一九〇五年、アメリカのGEで押し出し式のタングステン線が発明され、一九一〇年には引き線タングステン線技術が誕生。これを用いて作った電球は、従来の炭素電球に比較して電力消費を三分の一に切り下げた。
 この偉大な技術革新に、電灯会社は大いに危機感を募らせた。ユーザーがタングステン電球に切り替えれば、売上は三分の一に落ち込むのである。
 ここで血相を変えた電灯会社が飛び付いたのが、同じ時期にアメリカのドライバーハリス社が発明したニクロム線だった。
 それまでの電熱線に比べて高熱に耐えて錆びもせず、加工しやすいというこの素材を利用し、照明から熱供給ビジネスへの拡大を図ろうと考えた。
 こうして電気コンロや電気鍋、電気ストーブに電気座布団と家庭に電力を売り付けるためにさまざまな製品が開発されていくことになるが、京都電灯はまず営業用に電気飯炊き器を開発し、続いて家庭用にも着手した。
 この電気炊飯器、スタイルはまさにかまどその物。一・五ミリ厚の鉄板を丸めて作った半球状のおけの内側に防熱セメントを塗り、その上にニクロム鉄板の電熱器が仕込まれた。ここにおかまを乗せると、約二十五分で米が炊き上がったという。
 まさにかまどの熱源を素直にニクロム線に置き換えた格好で、ソニーの第一号製品よりはこっちで炊いためしを食いたいよな。
 なにしろ井深御大自ら、お粥になったり芯の残ったりのこのマシンによる炊き上がりには閉口した様子。
「炊け具合はともかく、実験に使った白米は食べられる。食料事情が悪い中で、社員にとってこの開発は好評だった」などと書いて、心の平安を取り戻している始末で、何とこのデビュー作は一台も売れなかったそうである。
 というわけで、ソニーがしょっぱなで大ずっこけをかました電気炊飯器の来し方を探っていくと、電灯会社が電球の省エネ化という危機をきっかけに家電の開拓に取り組み、電力会社へと変貌をとげていくダイナミックな産業構造の変化と結びついたおかまの真実が見えてくる。
 それでまあこれがおかま道を極めようとする本であるなら、この話題で終止してしまってもよいけれど、幸か不幸か電脳本である。いずれコンピューターに話題を転じるからね、と断った上でもう少し脱線を続ければ、ソニーの第二号製品がこれまたかなり危ない。
 一九四六年五月、東京通信研究所は株式会社に組織変更して、東京通信工業を名乗る。
 この年の八月、井深御大は日銭稼ぎのネタとして、時期はずれの電気ザブトンを売りだした。
 細いニクロム線を格子状に組んだものを美濃紙ではさみ、本の表紙などに使われていたレザークロスでおおっただけのこの代物には、断熱材も温度調節用のサーモスタットも組み込まれていなかった。
 実物を見るとニクロム線に申し訳程度にハンカチ一枚被せ、そのまんまけつをのっける程度のもの。
 この電気ザブトン、第一号のオヒツ炊飯器とは打って変わって売れに売れたというが、こいつの乱暴さ加減には、御大もかなり気がとがめていたらしい。これまたいかにも怪しい、銀座ルネッサンス商会(おいおい、誰が付けたんだこの名前)の名で売りだした。
 とまあ誕生当時のかなり危ない製品をご紹介申し上げても、お互いソニーのその後の発展を知る以上みんなご愛嬌。昔はこんなことだったんだよなと、おチョコ片手に小皿叩いて面白がってもそれはそれですむ。
 ただしここのところで想像力をチョイとばかり働かせて、電灯会社の誕生期、はたまた白木屋の三階で東京通信研究所が誕生したその時にこのオレが立ち会っていたとすればどうだろう。
 一九九〇年のこの時点で、オレは過ぎ去った時間を味方に付けているがゆえに、電灯会社として誕生した電気屋が電力会社に変貌していく過程を面白がり、大ソニーも昔はかなり危なかったよなと軽口を叩けるわけではある。
 しかし電灯産業の誕生期、その延長上に家電産業の勃興と軌を一にした電力産業のダイナミックな展開を見ることや、怪しげな銀座ルネッサンス商会の延長上にソニーのオーディオ・ビジュアル全面展開を予想することは、どんな誇大妄想狂にも不可能だったのだ。
 けれどボブ・ディランも言っておるとおり、時代は変わる。
 たった今この瞬間にも、ようしゃなく変わっている。個人の想像力は、少なくともこのオレの想像力は、こんなことを威張ってもしょうがないがかなり貧困である。だがそんなもんには一切係わらず、オレ様の貧困に後ろ足で砂をかけて、時代はゴンゴン変わってしまうのだ。

 てなことを考えてしまったのも、一九九〇年の四月十二日にソニーがラップトップのUNIXワークステーション、NEWSなるものを出してきたからだ。
 こいつがどんなものかイメージをつかんでいただくには、少し説明がいる。
 先ずラップトップというのは、机の上にふんぞりかえっている図体のでかいコンピューターを、アタッシュ・ケースより一回り小さくしたものだ。
 パーソナルコンピューターの標準となった(ただし日本以外でね)IBM PCをラップトップに縮めるにあたっては、すでに触れた東のにらめっこ横綱、溝口御体の目玉パワーが存分に発揮されて、東芝が世界をリードした。この勢いをかって東芝は、百科事典一冊分くらいまで小型化を推し進めたノートブック・マシンを、ずうずうしくもダイナブックと名付けて出した。
 ここで東芝が鋭かったのは、でかいマシンの機能を落とさずに小型化を推し進めようと粘った点だ。結果的に同社の小型機は、小錦のパワーを舞の海のボディーにぶち込んだ、往時のマラドーナを思わせる仕上がりとなった。
 これを見て世界のユーザーは、「ええぞええぞ」と赤い顔で笑った。
 すると他社のパーソナルコンピューター担当マネージャーの顔色が、いっぺんに青くなった。
 そして「うちでもさっさと作らんかい」とどやしつけられた開発担当者、製造担当者の顔は、その後の徹夜続きで黒くなった。
 結果的にラップトップとノートブックは、パーソナルコンピューターの市場を引っ張っていく中心的な勢力となった。
 技術、価格の両面でハードウエアを絞り上げるような競争が激化し、当初はリーダーシップを確保していた東芝のマネージャーの顔色も、だんだんと冴えなくなった。
 とまあパーソナルコンピューターの世界では、小型化をめぐってこんな時間が流れたが、この余波がワークステーションと呼ばれる一段上の処理能力を持つ兄貴分にも及ぶことは時間の問題だった。

 パーソナルコンピューターとワークステーションは、どちらもマイクロコンピューターを使っている。
 その意味では兄弟だ。
 両者が共にお世話になっているマイクロコンピューターは、半導体素子にマシンの頭脳をまるごと作り付け、大量生産できる部品にしてしまったものだ。
 この半導体作りというやつは、製造よりはむしろ印刷のイメージに近い。
 版を作るまではえらく厄介だが、後は不良品が出ないように思いっきりきれいにした部屋にこもって押すだけだ。
 いろいろな部品を組み合わせて作っていたそれまでのコンピューターの頭脳と比べれば、こうして作った誕生間もない時期のマイクロコンピューターの能力は実に貧弱だった。
 ところがご存じのとおり、その後こいつがのしてきた。
 ただし同じ部品化された頭脳を使ってはいても、パーソナルコンピューターとワークステーションの育ちはかなり違う。
 パーソナルコンピューターが、生まれついての鬼っ子で、わけのわからない大衆の海から生まれてきたのに対し、ワークステーションは従来のコンピューター文化をかなり従順に引き継いでいる。
 部品としての頭脳を活かして安くするという点では志を同じくするものの、異端に対して正統、下からに対して上から。先の見通しもないまま、一方が継ぎ足し継ぎ足しでしかし実に元気良く増殖を続けてきたのに対し、もう一方は端正で優秀であるけれど何が飛び出してくるかわからない面白味には欠ける。

 そしてこうなった過程を振り返ってみると、あらためて時代は変わる、との思いがつのる。
 パーソナルコンピューターで主流になった、X86(8086、80286、386といった具合に、ケツに86とつく一連のシリーズだ)を作っているインテルという会社は、そもそもは日本のメーカーの依頼を受けて電卓用部品としてマイクロコンピューターを作った。
 ところがこれを使えば、おもちゃではあるけれど個人でも持てるコンピューターが作れると言い出す連中が現われて、この騒動が始まった。
 電卓の部品を作ったつもりが、コンピューターを変え、情報と人とのかかわりを激変させる遺伝子がこの中に紛れ込んでいたわけだ。
 一九八〇年代、日本の市場を制覇した日本電気の歩みは、こうした事情を雄弁に物語っている。
 先ずコンピューターとは別セクションの半導体部品屋が、「インテルもすなるマイクロコンピューターと言うものをしてみんとてするなり」と、作ってみた。
 ところが頼みの電卓屋は「そりゃあんさん高いわ」と買ってくれず、キャッシュ・レジスタくらいにしか売り先がない。おまけにオイル・ショックで、四国あたりにぶら下がっている日本の金玉が縮み上がった。
「あ〜あ、こりゃあかん」と頭を抱えていたところが、しばらく風呂にも入ってなさそうな若造どもが、ワンボードコンピューターだパーソナルコンピューターだと騒ぎはじめた。
 コンピューターを扱っている大電気メーカーがなべて半導体もやっている日本では、こうした事情はどこも似たり寄ったりだった。
 ここで日本電気の連中が鋭かったのは、いかにも臭そうな若造の回りを流れている時代の空気を吸ってみる勇気を持っていた点だ。
 そしていったん時代の風を感じて帆を上げた後は、回りの勢いが日本電気の背を押した。
 帆を上げる際のわずかな思い切りが、他社との予想外の差を生んだ。
 その後日本電気では、半導体部隊に変わって本流の電算部隊がパーソナルコンピューターを引き継ぎ、PC―9800シリーズの大成功となった。
 電卓用部品に個人用コンピューターの「臭いアイデア」を付け、後は大衆の海にマシンをほうり投げてぐずぐずかき回しておいた。
 するとタイプライター風のキーボードがくっつきテレビにつながり、表計算やワードプロセッサーといったソフトウエアがどこからともなくわいてきて雨後のアスパラガスのように伸びた。
 ゲームで遊ぶやつや音楽、お絵かきに使うやつも出た。
 自分でプログラムを組むために当初よく使われたベーシックと呼ばれる言語はもともと大型用に作られたもので、MS―DOSもルーツをたどれば大型に至る。全てが全て、従来の技術と縁のないところから生まれたわけではない。
 だがパーソナルコンピューターの面目はやはり、幅広い層の人たちの経験と頭脳を頼りに積み上げた大衆的な知恵にある。

 一方ワークステーションは、少し遅れて伝統的なコンピューター技術により近いところから普及していった。
 かつて大型コンピューターしかなかった時期、DECという会社が突然「小さいことはいいことだ」と言い出した。
「計算機を使いたいという要求は、色々なところにかなり幅広く存在するはずだ。とすれば機械を小型で安いものにしてやれば、潜在的な需要を広く掘り起こせるのではないか」
 DECはこう考えて、ミニコンピューターというのを出した。
 これが受けた。
 科学技術系の研究者や技術屋が、「これぞ自分の道具」と目の色を変えた。
 ただし従来のものに比べればミニであるとはいえ、これはあくまで小錦に比べれば舞の海は小型であるといった類の話だ。
 相撲は不要、ノミのサーカスで十分ということではなかった。
 一品生産的なハードの作り方はここでも変わっていなかったし、価格も技術屋連中が「どうやって上司をだまそうか」と頭を捻るレベルだった。
 だます相手が、それまでの社長から上司に下がっただけだ。
 作戦が成功してミニコンピューターが入っても、みんなで使うのが前提だった。
 こんな便利なものが身近に入ると、「俺も俺も」で使いたがるやつが増えた。
 そのため、ミニコンピューターのパワー不足に技術屋連中は文句を言うのが常識となったが、もう一方で連中はここで技術屋らしい文化を育てもした。
 科学者、技術屋には、おうおうにして自分の寄生している会社や国家に対し、内心では舌を出している輩がいる。会社の利益や国家の利害を押し立てて官僚的な三角頭が権利保護や機密保持を言い立てるのを心ここにあらずで右から左へ聞き流し、好奇心に任せて垣根の向こうの同類と情報交換をはじめたりする。
 内から湧き出してくる好奇心の奴隷である連中は、とにかく外から縛られるのが嫌いなのだ。
 研究室に巣くったそうした類の野生児のおもちゃになったのが、UNIXと名付けられたオペレーティング・システムだった。
 このUNIXがそもそもの生まれからして、研究者なんて働いてるふりをして本当は何をやってるかわかったもんじゃないという真実を証している。
 もともとは、ゲームをやろうという話なのだこれが。
 一九六〇年代の半ば、AT&T(アメリカの電話の元締め)のベル研究所(エレクトロニクスのエデンの園)は、マサチューセッツ工科大学、ゼネラル・エレクトリック社と共同で、大型コンピューターをたくさんのユーザーが同時に、しかも快適に使えるようにするプロジェクトを進めた。
 当時プログラムやデーターは、紙のカードを使ってコンピューターに渡すのが流儀だった。
 やりたいことがあると先ず、仕事の中身を規則に従ってカードに穴を開けて表現する。こうして作ったカードの束を、コンピューターに読ませる。
 ところが便利なかわりにとてつもなく高い計算機は、いつも混んでいる。共有で使う際は、誰がどれだけ使うかの時間調整が問題になる。
 そこでこの仕事はどれくらい急ぐか、どれくらいかかりそうかをカードに書き添えておいて、スケジュール管理まで機械にやってもらおうという話になった。
 コンピューター屋の言葉で、これをバッチ処理という。
 どうせ仕事はあふれ返っているのだから、使う側はどんどん機械にカードの束を送り込む。すると機械が文字通り休みなく、順番を調整しながらやっていく。組織の効率の面からいえば、これが最良だろうという考え方だ。
 ところが組織の管理者は満足かも知れないが、使っている側にはこれでは不満が残る。
 機械に仕事を渡していつ答えが出るかが、はっきりしない。
 数時間ですむかも知れないが、何日か待たされるなんてこともある。機械のつごう優先で、先へ先へと進みたい人の気持はお預けだ。
 そこで機械の処理能力をうまく小分けして、人のペースに合わせられないものかと考えた。
 ここでひねり出されたのが、一度に十人の話を聞き分けたという聖徳太子のスタイルだ。
 先ず、機械の処理能力を、極く短い時間に切り分ける。
 そして最初のユーザーの求めてくる仕事を割り当て時間分進めてから、タイム・アップで次に移る。
 これをユーザーの数だけ繰り返す。
 一巡すれば、元の相手に戻ってからもう一度同じことをはじめる。
 やらせる仕事の種類にもよるが、コンピューターの処理スピードはたいてい人間よりははるかに速い。
 特に数値計算の類は、段違いだ。
 そのために一人にお相手する時間は短くても、人の目から見れば一回の割り当て時間でかなり処理が進む。その内にすぐ、次が回ってくる。時間の切り分けを、一秒の何百分の一といった単位で行なえば、反応速度の遅い人間にとってはまるで自分だけで機械を占有して使っているような気分が味わえる。
 とはいっても処理能力とやらせる作業の総量が変わらなければ、全体的に見ればかかる時間は変わらないんじゃないか。健全な常識を持つ人はそう思う。
 確かにそのとおりだ。
 ただし時間を切り分けることからタイム・シェアリング・システムと呼ばれるこの方式を取れば、仕事のペースの遅い人間がコンピューターと向き合いながら作業することが可能になる。
 たとえばプログラムを書く仕事は、機械なしでもやろうと思えばできる。
 昔は東海道五十三次を歩いて旅したし、プログラムだって機械なしで書いた。
 けれどここでも、コンピューターは新幹線か飛行機くらいの役にはたつ。
 そこで、プログラマーは機械が処理能力の一部を割り当ててくれる端末を使っていいということにする。
 ここで効いてくるのが、急いで仕事をしろといったって、どうせ人間の処理能力など機械から見れば極超のスローモーションである点だ。
 なにしろ連中ときたら、機械から見れば永遠と思えるほど考え込んでしまったり、たちの悪い連中は煙草をすったり欠伸をしてたりもする。そんなのろまな連中には、ほんのわずかな処理時間を割り当てるだけでそもそも十分なのだ。それでも連中は、めいっぱい機械を独占したような気持になれるのだから。
 てなことを考えて、ベル研究所では大型をタイム・シェアリングで使う、Multicsと名付けたシステムの開発を進めた。
 ところが最初に狙ったサービスの規模が機械の能力に比べて大きすぎたために、この計画が頓挫した。
 だがそれでも「自分で機械を独り占めする気分」という夢が忘れられない連中が、プロジェクトの頓挫で行き場の決まっていなかったミニコンピューターを使って、勝手な真似をはじめた。Multicsはあまりに威勢が良すぎて失敗したのだから、ぐっと規模を縮小し、金玉を抜こうと考えた。eunuch(宦官)に引っ掛けて、名前はUnics(本当に下品な連中だな〜)と付けた。そして先ず、スペース・トラベルというゲームを乗せるために、この『玉抜き』環境を整備した。
 これが一九六九年のことだ。
 こうして生まれた玉抜きを使って、ベル研究所内の文書処理システムが開発された。
 以来先ずベル研究所内に玉抜き愛好家が増えはじめ、さらに研究所の壁を越えて電話会社でも使われるようになった。
 名前の綴りはその後、由来を隠すためにUNIXと変えた。
 当時電気通信を一手に握っていたAT&Tは、独占禁止法の縛りによってコンピューターへの進出を禁止されていた。そのためにUNIXは、希望があればごく安い値段で配付された。コンピューター企業はどこも、自社のマシン用にOSを付けて売っていた。
 ところがUNIXは使う側の都合に合わせて仕掛けを変えていく柔軟性が高かったことで、技術屋や学生の中でもとりわけわがままな連中は、メーカーのお仕着せでないこのOSを好んだ。さらには、自分のつごうに合わせてUNIXの改良もはじめた。
 その結果、UNIXにはいくつもの方言が生まれた。

 てなことになっていくうちに、コンピューター界の辺境で、マイクロコンピューターの上にパーソナルコンピューターというものが生えてきた。
 なにしろこいつは電卓上がりで最初はおもちゃ以下だったが、それなりに進歩らしい真似もしてみせる。
 それになにはともあれめちゃくちゃに安い。
 一方こっちでは、タイム・シェアリングで気分は独り占めと言っても、仕事は増える一方、プログラマーも増える一方でぶら下がる端末も増えてくる。その内さすがの聖徳太子もさばききれなくなって、のろまなはずの人間の側が「遅い遅い」と文句を言い始める。
 とここまで来て、まともなコンピューター村の住人ではあるけれど、大型やミニコンピューターのタイム・シェアリングではどうもならんぞと踏ん切った連中が、マイクロコンピューターの量産効果を自分達も活用してやれと考えた。
 パーソナルコンピューターで広く使われているインテルのX86はそもそもが電卓上がり。さらに、同じソフトウエアを、改良した次世代のマイクロコンピューターでも使いたいということから、すでにこの世界には過去から引きずったしがらみがやたらと多くなっている。ただしもう一度一からはじめるつもりできれいにデザインし直せば、マイクロコンピューターを使ってかなりのことができる。
 つごうがいいことに、モトローラという別の会社はDECのミニコンピューターの作りを意識した、68系(68000、68020、68030と続くシリーズだ)の製品を出していた。
 さらに体力があれば、しがらみを捨てて最適化した速いマイクロコンピューターを一から作ったっていい。
 OSは例のUNIXがある。
 時間を切り分けるというUNIXの能力は、独り占めの機械でも活かしようがある。複数のユーザーの相手をする必要がない場合には、この力を別の仕事を同時並行して進めるところに利用すればいい。
 順繰りに人の相手をする変わり、順繰りに異なった仕事をやれば、のろまな人間にはやはり複数の作業が同時に動いているように見える。
 そうだこれで行こう。
 パーソナルコンピューターと一緒にされたのではたまらんから、名前はワークステーションだ。
 ただしこれまでは一台のコンピューターの上に集中して管理されていた仕事を、個別のワークステーションに振り分けることになる。
 ばらばらに切り離したままでは、つごうが悪い。
 そこでワークステーションには初めからネットワークの機能を付け、横並びの連絡が付けられるようにしよう。
 よし、これで完璧だ。
 一人で使うには十分な処理能力。複数の仕事を同時に行なうマルチ・タスクに加えてネットワーク機能。しかもパーソナルコンピューター並みとはいかなくても、かなり安くできる。
 連中には手に負えないようなヘビーな計算をすいすいこなし、しかも同時に通信ソフトを動かすなどしておけば、他のマシンから連絡が入ればすぐに対応できる。
 管理管理の三角頭も、「分散化しただけじゃなくて、きちっとネットワークもしておきましたから」と言えば文句はないだろう。
 とこうして一九八〇年代の初頭から、ワークステーションという似て非なる兄弟が現われた。
 そしてソニーは、先を行くパーソナルコンピューターを追って台頭したこのワークステーション分野で、かろうじてコンピューターに食い込む手掛かりをつかんだ。

 ソニーの技術の系譜に詳しいキー・マンに、かつてこんな話を聞かされたことがある。
「結局VHSだベータだと大騒ぎした挙げ句、エレクトロニクスの先端を走っていたはずの二社が、時代の流れにすっかり取り残されてしまったんだよ」
 VTRの規格の主導権をめぐって、ベータの開発元であるソニーとVHSの生みの親であるビクターは激しいシェア争いを繰り広げた。
 この戦場では、結局のところビクターが勝ちソニーが破れた。
 けれどオーディオ・ビジュアルという名の戦場のVTR戦線で激しい闘いを続けているうちに、両社は共に、急成長した裾野のコンピューター市場を取り逃がした。
 エレクトロニクスの新市場をいったん取り逃がしたという意味では、両社は共に破れたのだ。
 後発から追いかけたソニーのパーソナルコンピューターは憤死し、世界市場に向けた欧文ワードプロセッサーはいったんはかなり伸びたものの、その後PCでワープロ・ソフトを使う流儀が当たり前となって、市場その物が消滅した。
 そうした経緯があってCDの開発からコンピューター事業のマネージメントへと転じたD博士は、開発要員として選び抜いた連中の欲求不満を商売にする道を選んだ。
 一九八五年三月に自分の仕切りで新しい開発プロジェクトをスタートさせた時点では、目指すべき方向ははっきり固まってはいなかった。
 ただ、今更インテルのX86にマイクロソフトのMS―DOSで追いかけても勝負にはならないだろうと踏み、モトローラの32ビット68020と、UNIXで行くというアウト・ラインだけを決めていた。この時点でD博士の頭には、オフィスの中核マシン的なイメージがあった。
 ところが開発スタッフは、ミニコンピューターへの日々の欲求不満をはらす、自分達の使いたいマシンが作りたいと言い出した。
 プログラム開発用の、ワークステーションを作ろうというのだ。
 案の定ソニーで使っているDECのミニコンピューターVAXも、背負わされた荷のあまりの重さに、息も絶え絶えとなっていた。のろまなはずの人間の側が待たされて、いらいらがつのっていた。
 そこでワークステーションで標準となってきた技術を集め、個人が独占できる機械を思い切って安く作ろうという話が出た。ミニコンピューター上のUNIXで育ってきた柔軟性のある技術屋の文化を、マイクロコンピューターに移し替えてやるわけだ。
「彼らはソニーのVAXのパンクに苛立って、そんなことを言い出した。だがよそへいってもVAXはそこでパンクしているに違いない」
 こう考えてD博士は、彼らの提案にのった。

 マイクロコンピューターはモトローラの68系。
 たくさんの方言の生まれたUNIXの中で、本家のAT&TのシステムVとカリフォルニア大学バークレー校で育ったBSDは二大勢力となっていた。だが技術屋にはBSDの評価が文句なく高いことからこちらを取った。
 ウインドウ環境には、マサチューセッツ工科大学のX Window、マシンを結び合う信号路にはゼロックスのイーサネット、ネットワーク上でファイルを共有する仕組みにはサン・マイクロシステムズ社(アントニオ猪木の兄弟であるこの会社については、後で書く)のNFS(ネットワーク・ファイル・システム)。
こうした標準技術を素直に集めて安くマシンを提供する路線で、ソニーはNEWSの立ち上げに成功し、手掛かりのなかったコンピューター分野に足場を築いた。
 そしてこの本格的なUNIXワークステーションのラップトップ化では、サン・マイクロシステムズと提携する本命の東芝に一歩先駆けることになったというのが、この日の発表に至る流れだ。

 だがそもそもソニーのかなり怪しげな歴史に立ち返り、電灯会社が電力会社に変貌を遂げる産業構造の大転換といった話を持ち出してきたのは、NEWSのラップトップ化が早かったからではない。
 ソニーは今回のラップトップ化にあたって、PCMデータ(要するにデジタルのきれいな音だ)の録音と再生、PCMデータに圧縮をかけた上での録音と再生、さらにソニーが提唱しているCD―ROMの標準化案、CD―ROM XAに採用されている音声圧縮規格ADPCMの再生機能を備えるなど、音絡みの新しい提案を盛り込んできた。
 そこが面白いと考えたのが、そもそも今回の話の始まりだ。
 コンピューター上でもっぱら文字だけを扱ってきた人間は、グラフィックスに手を染めてメモリの食われ方に度肝を抜かれ、音を扱って腰を抜かし、動画に手を出して金玉を縮み上がらせる仕掛けになっている。こうした音や動画を扱っていくにあたっては、限りあるメモリの中でやり繰りするためにデータをどう圧縮し、それをどう伸張して再生するかが大きなポイントとなる。
 そしてこうしたいわゆるマルチメディア絡みの技術に関しては、標準を素直に集めるという大人しい姿勢にソニーが留まることはない。
 もはやNEWSの立ち上げによってコンピューター市場への参入を果たしたソニーは、音や動画と言った新しい世界の開拓にあたっては、断固としてリーダーシップを取りにくる。

 ソニー本社で開かれたラップトップNEWSの発表会場を抜けて階段を下りる途中、偶然一緒になったD博士に「パームトップとラップトップとどちらにより興奮してます?」とたずねた。
 すると「なんで切り離して考えるの」とD博士。
「五年後に二つが一つになったあたりが一番面白いよ」とかまされた。
 ソニーは手書きを取り込んでコンピューターを変え、音や動画を取り込んでコンピューターを化けさせようとする。
 その過程では、パーソナルコンピューターやワークステーションという枠組みもまた、いつまでも生き残るわけではない。
 なるほど、手書きやマルチメディアを取り込む試みを分けて考える必要などさらさらないわけかと思い至ったところで、一階に新設されたソニーの歴史をたどるショールームの前に出た。
 ここでおひつ炊飯器や電気ザブトンを見せられて追い討ちをくらったオレは、生来の想像力の貧困にもかかわらず「時代は変わる」と唐突に確信してしまったというのが今回の御粗末だ。
 電灯会社は電力会社に変わり、銀座ルネッサンス商会はソニーに化けた。
 そして我々はすでに、電卓用の部品に大衆の知恵がのってパーソナルコンピューターが生まれ、正統的な技術が流れ込んでワークステーションが誕生するという、振り返ってみればかなり衝撃的な変化を見てきた。
 だがコンピューターは手書きやマルチメディアを取り込んでさらに変貌をとげ、時代はなおも繰り返し変わるのだ。
 そして電灯会社を電力会社に大化けさせたくらいのダイナミックな構造変化の波は、今後コンピューター産業を何度も何度も、ザブンザブン洗い続けるに違いない。


*一九九二年の一月になって、アップルが家電市場に参入すると言い出した。
 ラスベガスで開かれた家電製品の展示会、コンシューマー・エレクトロニクス・ショーでのことだ。
 この催しの基調講演で、ジョン・スカリー会長は「アップルの将来は家電市場にある」と宣言した。
 スカリーによれば、アップルは今後二筋の道から家電市場に食い込んでいくという。
 第一のルートは、一般消費者をターゲットとして、マルチメディア機能を持たせたマッキントッシュを開発していく道だ。カラーのマッキントッシュを可愛らしく、できるだけ安く仕上げて、CD―ROMでもくっつけるのだろう。
 動画を扱う規格としてアップルが打ち出したクイックタイムを、こいつで幅広く生かそうという魂胆だ。
 家庭を狙ったこのタイプのマックを、スカリーは九二年のクリスマス商戦には間に合わせるという。
 ガキの手の届くところにマックを置いた者は誰も、この大人のオモチャが容易に子供のオモチャに化けることを知る。色付きの絵が動くとなるとガキの興奮はいやますだろう。いや、喜ぶのはガキだけじゃない。きっとこれで、みんなが楽しめるいいオモチャができる。
 だがこの第一のルートからは、電灯会社が電力会社に大化けすることはない。
 問題は、第二のルートだ。
 ここから産み出される製品は、ちょっと見にはコンピューターと意識されることはない。
 確かにマイクロコンピューターは裏側に組み込まれており、あれこれと機械に指示する際はマッキントッシュで見慣れた形の表示が出てくる。だが使う側はこいつを、電子化された本や手帳だと見たり、テレビだと思ったり、電話の化け物だと受け取ったりするはずだ。
 スカリーによれば、アップルは第二のルートから産み出す一群のこうした機器を、パーソナル・デジタル・アシスタント(PDA)と呼んでいくという。
 要するに家電製品の中で賢くして意味のあると思われるものを、マッキントッシュの開いた人との対話の流儀に沿って電脳化しようとする腹だ。
 アップルは複数の大手家電メーカーと協力して、今後PDAの開発を進めていくという。すでに明かとなっているパートナーは、シャープとソニーだ。最初に出てくるPDAは、前項の言い訳で触れたニュートンになるようで、これをアップルは一九九三年の一月には売りだしたいと考えている。
 彼らはこれまで、自らをパーソナルコンピューターの作り手として位置づけてきた。
 家電ははなから、他人の領分と踏んできた。
 ところがほうっておいても、家電はマイクロコンピューターを飲み込んで電脳化されていく。となると陰に隠れてはいても、コンピューターと人との対話が家電上でも生じてくる。
 このコンピューターと人の付き合いでさんざ苦労してきたのは、パーソナルコンピューターを作ってきたアップルを始めとする連中だ。その彼らとしては、膨大な市場規模を持つ家電が電脳化されていくのを、指をくわえて眺めているのも業腹だろう。家電製品自体は作らないまでも、電脳家電が人に向ける顔のところは任せろと言い出すのは当然だ。
 アップルはPDAという名前の言い出しっぺになったが、マイクロソフトも同じような観点から家電への進出を狙っている。
 そしてこの第二のルートを進むうちに、電灯会社は電力会社に化けるだろう。
 だがパーソナルコンピューター屋が家電屋に化けるのは、ほんの手始めでしかない。
 この流れをさらに一歩進めば、コンピューターらしいコンピューターと電脳家電との連係をどうやって付けるかが、すぐに課題として浮かび上がってくる。
 お次ぎは家をどうするのだ、車をどうするのだ、さまざまなメディアとの関連はどう付けるのだと話は広がっていく。
 行き着く先は、電脳社会をどうデザインするかとなるに決まっている。


[#改ページ]




WindowsはMS―DOSの暗黒に
一条の希望の光をさすか

 ウイルスにやられた。
 そうと気づかぬうちに潜り込んできたクソ虫が暴れだして以来の阿鼻叫喚、血と涙の今日に至る日々を振り返って、このオレがもっとも不幸だったのは「やられた」と観念した瞬間だった。
 考えてみれば不幸の種なんて、栃錦のケツのバンソウコウの数くらいこの世の中にはゴロゴロ転がっている。エーテルのように常に我等を取り巻く災厄の種に、ノホホンと警戒心を欠いていたオレが悪いと言えば悪い。

 例えばこのオレが本通り商店街の年末福引で『カップルで行くニューヨーク・ワシントン八日間の旅』なんてのを引き当て、取材のなんのと嘘八百並べて嫁のだまくらかしに成功し、スナック・アザミの慶子ちゃん(自称二十三歳)と全日空機上の人となったとする。
 日付変更線を過ぎるころにはきっとただ酒の飲み過ぎですっかり出来上がり、早くも慶子ちゃんの膝なんかなぜながら赤みがかった妄想をたくましくして、脳味噌に砂糖水でも注射されたような心持ちであろう。
 機は一路ワシントンへ。
 時差と醒めきらぬアルコールがすっかり気分をハイにしてしまい、チェック・インもそこそこにホワイトハウスあたりを見物。
「ネエネエ見て、リスよ。かわいい!」てな慶子ちゃんの声に誘われてヨロヨロと腰をかかがめて手を延ばすと、うぶなアメリカのリス公が寄ってくる。
 まさにここまではダイナスティの脚本家も赤面しそうな、絵に書いたようなステレオタイプの幸運である。
 我が愛でんと欲するもの、皆我が胸中に飛び込んでくるではないかと鼻の下を伸ばしたところがおっとどっこい。このリスがツラレミア大原病にやられていて、三日間こいつに取り付いていたダニがひょいと腕に飛び付き、その夜ベット上で奮戦中のオレ様の脇の下に潜り込んでA型の血を腹いっぱい吸い込む。
 と同時にウイルスを、五臓六腑にたっぷりと送り込んでくれる。
 三日後、ニューヨークは五番街のティファニイで日本人ギャルの「ウッソー、ホントにー」をBGMに、慶子ちゃんの品定めに付き合っているうちに、突如体中のリンパ腺がトラフグを怒らせたように膨れ上がり、猛烈な悪寒とともに下腹が鳴り始める。
 便所というのは「トイレ」で通じるのかなと朦朧とし始めた頭をふりふりたずねあてて便座に腰を下ろすや、腹はナイヤガラの滝のように下るわ、イエローストーンの間欠泉のように吐瀉物は口から吹きだすわ。ズボンを膝までずり下ろしたままトイレの床に倒れ込んだその場に迷い出たのが、折り悪しくもツツガムシを寄生させたネズミだ。
 このネズ公がまた、鼠咬症スピロヘータを養うネコに水蒸気溢れるマンホールの隅で二十三分前に追い詰められ、窮鼠猫を噛むの教えに従って危機を脱したはいいが、しっかりスピロヘータをもらったときている。
 息もたえだえにまぶたを開いたところでよろめくネズ公と鼻先で目があってしまい、互いに錯乱状態で噛みつき合いとなる。
 オレの免疫系はツラレミア大原病ウイルスとの激闘に疲れ果てているところにツツガムシと鼠咬症スピロヘータの追い撃ちをくらって、壊滅寸前。
 オレ様のあまりの惨状に目を反らせて他人顔を決め込む慶子の肩も借りられず、「病院、病院」と呻きながら転がり込んだイエロー・キャブの運ちゃんが三日前にインドネシアのハルマヘラ島からニューヨークにやってきて、昨日タクシーの免許を取ったばかりときた。
 互いに英語と信じる言葉とマレー語、日本語のチャンポンでわめき合ううち、病院に運んでもらうつもりが着いたのはジョン・F・ケネディ空港。
 そこにキューバからとんずらしてきたミグ15がガス欠でイエロー・キャブめがけて落下し、オレ様はついにインドネシアの運ちゃん、キューバの亡命パイロットと共に一命を落とすといった事態も論理的に皆無であるわけではない。

「いったい何が言いたいんだ」って。
 要するに不幸が蚊柱のように徒党を組んで押し寄せてくる可能性は、確実に存在するということだ。
 確かにそんなことを気にし始めれば、すぐにでも自殺したいほど生きているのが怖くなる。不幸は一切我が身にだけは及ばぬこととしなければ、人間様はこの瞬間を生きていられない。
 けれど、来るときには連中は問答無用でノシノシと上がり込んでくる。
 このオレが言うのだから、この点に間違いはない。
 ああ。冒頭の二十キロバイトの書き起こしはすでに完了し、残り百二十キロバイトの連載分を手直しして遅くとも十日後には渡さなければならない書籍用の原稿は! 留守番電話に吹き込まれた二十分は続こうという陰気な催促に、ようやっと取り掛かった書きかけのコラム原稿の始末は!
 と悩んでいるうちが、オレ様はもっとも不幸であった。
 ウイルスに取り付かれた者としての人生を一から歩み始める腹を固めてしまえば、それはそれなりに心の平安が帰ってくる。つらいのは精神のディップ・スイッチを切り替え、幸福モードから不幸モードへと移るその瞬間だ。

 とまあここまで書いてきたことには一かけらのウソも混じってはいないのだけれど、皆さんの多くは我が身を襲った不幸の真実を誤解してくれるはずだ。
 実を言えば、オレの取り付かれたウイルスは0、1のコードから成り立っている代物ではない。
 蛋白質製である。
 にもかかわらず、こんな本にこんな話がのっていれば、誰だってことはコンピューター・ウイルス方面に流れていくと思う。
 つまり我々はこの場で、通常人の世界観からのデジタル寄りの偏差を共有していて、ウイルスと聞けばまず「論理爆弾」とか「トロイの木馬」だとかしか思い浮かべない。
 それでオレ様が「質の悪いウイルスにやられて悶絶した」と言えば、読者諸氏はこれを悪意に満ちた短いコードにハードディスクを殲滅されて、全てのファイルとプログラムをあの青空の彼方にあるというデジタルの墓場に葬ってしまったとしか受け取らない運びとなる。
 ご迷惑をおかけすることになる担当編集者に電話してみても、「ウイルスにやられた」と言えば返ってくる反応はまず、「それでウチ用の文書ファイルもアウトですか」である。
 いかれたのはファイルではなくてオレ様の体であると言っておるのに、M島進行管理Y子など、「ついにコンピューター・ウイルスが人体に潜り込みました〜。こりゃまた、『朝日新聞』に一面トップで書いてもらわなくちゃね」ときた。
 余談になるが(まだ本論に入っちゃいないか)、香川の高校生が四十人がかりでX68000狙いのウイルスを作ったと報じた一件を始め、『朝日新聞』のパーソナルコンピューター関連記事は実に、祭りに出張ってくる見せ物小屋のレベルで楽しませてくれる。
 一九九〇年五月二日の朝刊一面トップにぶち上げられた「電算機ウイルス/高校生らが開発」との記事で四十人がかりでウイルスを共同開発したとのくだりを病床で読んだオレは、それまで悪意のプログラムは目立たぬように意地悪く、かつ小さく作るべきものだと思っていたがために十秒間息絶えた。
 その絶命寸前のオレの脳裏には、ミクロン・オーダーであるはずのウイルスが四十人の坊主頭の科学者による遺伝子操作で超巨大化し、東京タワーをはさんで「ウイルス退散」と大書したたすきをかけた正義のモスラと死闘を演じる様が浮かんだ。もちろんけなげなミニラも、ワクチンの薬液を巨大ウイルスめがけて吐きかけておったよ。
『朝日新聞』(を典型とするマスコミのかなりの部分)には、パーソナルコンピューターに関する世界観(がオーバーなら土地勘)を持つ記者がそれほど払底しているのだろうか。
 いや、いくら何だって電脳狂いがあそこにいないわけはない。
 わけはないのだが、コンピューターに対する過剰な期待と過剰な反発をキメラ化させたマスコミ精神のカーネル・コードを書き直すほどの勢力を、連中は大組織の中で確保しえていないということなんだろうな。
 ホント、M島Y子の言い草ではないが、半年かかって書き上げる直前まできたファイル三百キロバイト分をウイルスに破壊され、オレ様が自殺に及んだとすれば、『朝日新聞』は一体どう書いてくれるだろう。
「電算機ウイルスついに人体に感染/被害のライター錯乱の内に悶絶死」くらいのことは書くかも知れないぜ実際。

 こうしてウイルスに冒され『朝日新聞』の記事に絶命寸前まで追い込まれたオレは、かろうじて精神のディップ・スイッチを開き直りモードに切り替え、五月晴れの空のもとで立ち直りのきっかけをつかんだ。
 だが、ウイルスに大脳皮質まで冒されたオレには、もう一つ越えるべきハードルが残されていた。
『パソコン・マガジン』第一回日米共同セミナーのパネル・ディスカッションの末席に加わることを、発病以前のオレは約束してしまっていたのである。
 一九九〇年五月十六日に開かれたこのセミナーは、内容充実し大好評であった(らしい)。
 このオレもその場に顔を出していたことはいたのだけれど、何がどうしてどうなったのやらウイルス頭のオレはさっぱり覚えていないのである。
 パネラーの一人一人に「九〇年代前半に隆盛を見る三つの環境を予測せよ」との課題を与えて進められたパネル・ディスカッションは、議論白熱となった(ようだ)。
 なにしろ米PC MAGAZINEからの強力スタッフに加えて日本からは、東芝の溝口哲也パソコン・ワークステーション事業部長、日本電気の高山由パーソナルコンピュータ販売推進本部長、古川享マイクロソフト社長、脇英世東京電機大学助教授の豪華メンバーである。
 OS/2だWindowsだ、UNIXは流行る流行らん、RISCがああだ、Lan Managerがこうだ。はては任天堂がどうしたこうしたとキーワードが飛び交う中で、オレがウイルス頭を抱えてパネラー席でぼんやり考えていたのは、コンピューターの使いこなしにおける『世界観』だった。

 修飾のかかった世界観を共有していると、蛋白質のウイルスの話をしているつもりがコードに化ける。世界観を自分なりに固めていない物事に対して何事か申し上げる立場に追い込まれれば、『朝日新聞』の四十人がかりの巨大ウイルスのような話になってくる。
 世界観というやつは一面で考え方の筋道を規定してしまう枠ではあるが、同時に遠くを見通すための光も提供してくれる。こいつにべったりと添い切ってしまうと「何とか主義」でも唱えたくなってそれはそれでまた厄介なことにもなるが、世界観なしでは我々は脳の配線の固まりきらない赤子である。
 この世界観を、パーソナルコンピューターの標準環境となったMS―DOSは与えてくれない。
 ウイルス頭をふりふりそう考えたオレは、本当に流行って欲しい環境としてはWindowsだけを挙げた。
 何はともあれ、九〇年代に新たにパーソナルコンピューターと出合う人にとって、Windowsがユーザー・インターフェイスの最低保証となって欲しいと考えたからである。
 我が家の同居人である妻アキコは、電気製品を買ってくるとダンボールごと取り扱い説明書を捨ててしまうゴリラの親戚である。
 ところがマニュアルを読むことに遺伝子レベルで禁則をかけられたこのスカートを履いたゴリラでも、マッキントッシュのアプリケーションは複数種類を日常的に自力でどうやら使いこなしている。
 この奇跡を日々直視させられているオレは、マッキントッシュのOSに組み込まれた仕掛けが全ての類人猿の脳味噌にもコンピューターの使いこなしに関する世界観を育てるだろうことを信じて疑わない。
 なにやらマークの転がっているところに矢印を持っていってポンと叩くと、なにかが起こる。画面の上に横一列になっている文字を叩くと、短冊が下りてくる。その中から、やらせたいことを見繕ってこいつも叩くとあら不思議。コンピューターがいうことを聞く。
 こうしたごく基本的なルールがほんの少しだけ存在し、それがすべてのアプリケーションを支配している。
 闇夜の提灯にあたるこの基本ルールを学んだ段階で、日本語を喋る我が家のゴリラは、わけのわからないコンピューターをそれでも使いこなしてやろうという意欲を持った。
 マッキントッシュのユーザー・インターフェイスの真髄は、アイコンの中にもウインドウの中にも存在しない。
 世界観を育てる手掛かりとなる、どんな局面でも揺るがない基本ルールが少しだけ存在すること。
 これこそゴリラにコンピューターを使わせる秘訣である。
 MS―DOSではユーザーとのやり取りのスタイルをどう作るかは、全てアプリケーションの書き手にまかされている。
 ここでは使いこなしの手順を個別に覚えることはできても、世界観を育てることは不可能だ。
 ウイルスが果たして蛋白質製であるか、はたまたコードであるかといった生易しいレベルではない。
 MS―DOSの世界ではウイルスを便所の脱臭剤の商品名にしても、フランス料理の名前にしても、源氏名にしても四股名にしてもなんだっていいのである。
 ここでは、『朝日新聞』のコンピューターに関する世界観がピンボケだなどといったいちゃもんも付けようがない。そもそも世界観という概念が成立しないのだ。
 MS―DOSの参考書の類で連中が一儲けできるのも、このおかげである。
 初めて出合ったコンピューターがマッキントッシュという幸せ者の妻アキコは、一生MS―DOSマシンに触れることはないだろう。せっかく育てたコンピューター観の全面的崩壊といったドツボにはまることは、まずあるまい。
 ただし電子メールを送るためにネットワークにアクセスするたびに、我が家のゴリラは軽度の錯乱をきたす。ネットワークは先ずまちがいなく暗号入力型の古くさいルールに従っており、マッキントッシュの世界観とは無縁に組み立てられている。
 そのためにこの見知らぬ世界に入ったとたん、闇夜を照らす提灯の明かりは消え失せる。
 ゲシュタルト崩壊に陥ったゴリラとしては、オレの書いてやったメモと首っぴきで、手探りで手順を追わざるを得なくなる。
 ウイルス頭のオレはパネル・ディスカッションの席上では「Windowsが成功しなければきっと失敗するだろう」などと訳のわからないことを、アカンアカンと思いながらも口走るのみだった。
 だが我と我が舌が暴走するに反比例して薄れ行く意識の中でウイルス男が考えていたのは、九〇年代においてパーソナルコンピューターに出会うだろう膨大な数のユーザーの運命だった。
 彼らに最低限保証されるべき権利は、世界観の獲得である。
 そのための最低限の仕掛けは、パーソナルコンピューターの主流であるMS―DOSの世界では、これにかさ上げしてマッキントッシュを真似るWindowsが提供する。
 ゴリラを夜道に迷わせないためには、Windowsから四方を眺めさせるのが最短距離である。


*この原稿を盗み見て以来、我が家のゴリラはビデオの予約録画に関してさっぱり非協力的となった。
 実のところオレは、こいつの予約のやり方を知らないのだ。
 ここ二年間「いい加減にマニュアル読みなさいよ」とうるさがられるたびに嫁の背中に舌を出しつつ、とうとう今日に至っている次第である。
 もちろんやられっぱなしというわけではない。敵はFAXの使いこなしに暗いから、こっちでなんだかんだ聞かれたときにはせいいっぱい意趣返しして溜飲を下げてるんだけどね。
 とまあこうした我が家の緊張関係が示すとおり、マイクロコンピューターを組み込んで賢くなった機器のお相手は、色々やれる分だけやっかいだ。
 そこでこいつをうまく使いこなせるようにと、各社はそれぞれ工夫を凝らす。
 ただその工夫というやつは機器ごと、会社ごとにばらばらだ。
 使いやすさが乱立して、どうぞこちらへの無秩序な客引きである。
 ビデオの録画もFAXの送信も、おまけに掃除も洗濯も、ソニーのエレクトリック・ライス・クッカーでみんなできるというのなら、ローカルな〈使いやすい〉ルールもけっこうだ。けれどそんなわけはないだろう。
 ワープロの使い勝手の良さというやつもまったくもってこの口で、今もタコ壷にこもり続ける人々の意思の堅固さには、ただただ頭が下がる。
 おまけにこの先には、賢くなりたがりの横綱である電話の変身が待ち構えている。
 じゃあいったいどうするんだ。
 まあ理屈としては、真ん中に一台、人とのやりとりをこなすマシンがあって、こいつが家庭の全ての機器をコントロールするなんて話もある。けれどこれは、かなり理想主義的で実現が難しそうだ。
 じゃあとりあえずマッキントッシュとその真似っこであるWindowsの使いこなしの流儀をコンパクトにまとめて、電脳家電のお面に使うのが早いのではないか。アップルやマイクロソフトの家電への参入に納得するのは、オレがそう考えているからだ。
「電脳家電のインターフェイスがそろって、おまえはそんなにうれしいか」って。
 別にうれしかなんかねえよ。
 ただオレのストレスを募らせるローカル・ルールの乱立を蹴飛ばせば、ウイルスに首を占められたオレの寿命が半日くらいは伸びやしないかと思っているだけさ。


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目覚めよコンピューター!
トッテン師匠からの四通のレッド・ペーパー

 赤は最も危険を連想させる色である。
 だからこそアシストのビル・トッテン社長は、アメリカの政府高官にあてた緊急提案書を、「レッド・ペーパー」と名付けたという。
 大型コンピューター用パッケージ・ソフトの販売とサポートで独立系ソフトハウスの最大手の地位を築いてきたアシストが、パーソナルコンピューター用に九千七百円の優しい文房具シリーズをぶつけるに至った経緯にはすでに触れた。
 同社のトッテン社長がじつに稀代のパフォーマーであり、オレがここの新製品発表会をほとんど〈たま〉のコンサートに向かう乗りで楽しみにしていることも書いた。
 問題設定の切れ味の良さ、訴えたいポイントはどんな荒業を駆使してもアピールしようとする誠実な臆面のなさはほとんど桂枝雀の落語を思わせるものがあり、オレは氏を内心でトッテン師匠と呼ばさせていただいている。
 そのトッテン師匠の高座が一九九〇年六月十三日、新百合ケ丘のアシスト本部でかかると聞いたものだから、日本一のウイルス男たるこのオレは、システム・ダウン寸前の老骨にむち打って、小金持ちの蝟集する川崎市麻生区の新興高級住宅地へと馳せ参じたのである。
 なにしろこの新百合ケ丘というところ、この地に支店を持つ某銀行幹部によれば「駅から二キロ圏内で年収数千万円の高額所得者が一万人を下らないのでは」という土地柄で、就任当時はこの幹部、数億円単位の預金がボンボン入ってくるものだから目を回したという。
 実はこのオレにはスクエアー・アレルギーというかなんというか、まともな大会社および裕福な家庭の半径十メートル以内に近づくと全身が硬直し、舌はもつれ耳はうなり、おまけに動揺を隠そうとする余り三白眼のつっぱり高校生のごとき喧嘩腰をとってしまうという困った症状がある。
 そしてこの日も電車が新百合ケ丘に近づくに連れオレは若干の心悸の昂進を抑えられないでいたのだが、その主因がパフォーマンスへの期待やスクエアー・アレルギー以外にあることはオレ自身には明らかだった。
 実はこの日のオレはある下心をもって発表会場に向かっていた。
 トッテン師匠が母国にぶつけた緊急提案書が果たしてどのような波紋を呼んだのか、是非とも直接聞いてみたいと考えていたのである。

 これに先立つ五月始め、トッテン師匠はカーラ・ヒルズ米国通商代表部代表、ロバート・A・モスバッカー商務省長官、そして日本叩きの急先鋒として知られるリチャード・A・ゲッパート下院議員にあててレッド・ペーパーと名付けた緊急提案書を送っていた。
 この試みの意図を、師匠はゲッパート議員に宛てた手紙の中で「米国のコンピューター業界の自殺を阻止すること」と位置づける。
「貴下はこれまで、米国内の諸問題を日本のせいにして、かなり声高に主張してこられました。ただ単に日本を選挙の道具として利用するだけではなく、国内の破局を救うためにも貴下の誠実性に期待を持たせてくださることを切に望んでおります。日本に責任転嫁するよりも、そのほうがはるかに有益であり、ご満足を得られるのではないでしょうか」
 こう辛辣、かつ率直に切り込んだ手紙を同封して議員に送られたレッド・ペーパーは、「米国はコンピューター市場を日本に明け渡すのか」との問い掛けから書きだされる。
 トッテン師匠の危機感は、米国国民としての祖国に寄せる思いが半分、不誠実な政治家が自己保身の道具として「閉鎖的な日本」を演出することへの怒りが四分の一、そして残り四分の一はアシストの日本市場における精力的なビジネス展開を支えた活力の泉が涸れるのではないかとの恐れにある。
 一九七二年の設立以来、アシストは優れたソフトウエアを発掘し、これを販売することと、ユーザーに技術的な支援を行なうことに携わってきた。自ら開発は行なわず、いわばソフトの出版社として振る舞ってきた。そしてこのアシストにとっての金の卵、売れる本の書き手は、一貫してアメリカのソフトウエア開発会社だった。
 トッテン師匠がかねてから率直に語っているとおり、一九八九年度のアシストの九十億円を越える売上のうち、アメリカ製のソフトウエアは九十五パーセントを占めている。
 ただし会社設立以来ここに至るまで、アシストはほぼ百パーセントを輸入製品によってきた。
 一九八八年度にはまだ九十九パーセントが輸入で日本製品は一パーセント。ところが一九八九年度にはこれが九十五パーセントに低下し、一九九〇年度には八十パーセント以下となると師匠は予測する。
 そしてアシスト自身の売り上げ構成の変化に如実に現われつつあるアメリカ製ソフトウエアの退潮の要因を、トッテン師匠は母国の「自殺」に求める。
 アメリカのコンピューター産業は、これまで他国に対して圧倒的な優位を保ってきた。
 それゆえにアシストは、その成果を日本に導き入れるというビジネスで成長をとげることができた。
 ところがかつての自動車や家電製品、半導体で起こったと同様の悲劇が、ここでもまた繰り返されようとしている。
 こうした自殺行為の具体的中身の第一点は、米国の企業が自国の市場のみを対象として製品を開発し、日本市場に特有なニーズを無視していることにある。
 その結果第二に、これを日本で成功させようとすれば大掛かりな日本語化作業が必要となる。
 この日本語化に当たっても、多くの米企業はアシストのような日本のソフトウエア出版社に作業を任せたがらない。実際には要員が確保できていないにもかかわらず日本語化作業を囲い込みたがり、結果的に作業は遅れ、仕上がりも不満足なものとなる。(発売直後にマッキントッシュを買ったユーザーの一人としては、この指摘には実に思い当たるところが大である)
 さらに日本語化を任せたとしても、ばか高いロイヤリティを課して結局は自分の首を占める。
 以下トッテン師匠は自殺行為としか思えない米ソフトウエア産業の怠慢と不健全とをさらに指摘する。そして翻って、日本のソフトウエア産業が、アメリカ製品をしのぐには至らないものの肩を並べる商品を生みだし始めている点に光を当てる。
 こうした製品はもちろん、日本語に対応し、日本での社会習慣や商習慣を前提として開発されている。追い抜くには至らぬまでも、次のランナーが追い付きかけてきた以上、これまでは許された怠慢と不健全は自殺行為となる。
 アメリカのソフトウエアを日本で販売するというビジネスを展開してきたアシストには、こうした日米のソフトウエア産業を巡る構造変化の波がじつに良く見える。
 この地殻変動の兆しを感じ取ってトッテン師匠がレッド・ペーパーをまとめ、母国の政府高官や議員に送り届け、さらに産業界に警鐘を鳴らそうとするのは、母国への思いゆえだろう。
 それまで世界を制覇してきた産業分野で、米企業がまず最初に競争に直面するのは、低価格帯製品と海外市場においてであると師匠は語る。
 ただしこの二つの領域で押し込まれてしまえば、やがてはより利益率の高い製品や米国内市場も、坂道を転がり落ちるように失ってしまう。
 いっぽう日本のソフトウエア出版社を率いる立場からも、師匠は今のところ、昨日までは売れる原稿を書いていたアメリカ在住の作家を元気づける意欲を失ってはいない。
 ここにはなんといっても膨大なソフトウエアの資産の蓄積があり、アシストが着手し始めたばかりのパーソナルコンピューター分野に関しても、日本市場に持ってきて面白い製品は五万とある。アシストが輸入中心という従来路線でやるべきことは、ここ五年のスパンでならなお山ほどあるだろう。
 さらに日本のソフトウエア出版社としてのアシストは、昨日まで金の卵を生むニワトリだったアメリカのソフトウエア産業がどうしてもこれ以上卵を生まなくなったとすれば、活力のある次の書き手を日本国内に求める手がある。同社の売り上げに占める輸入製品の比率の低下には、すでにそうした変化が現われている。
 だが母国への思い深く、くたびれかけたニワトリをけしかける意欲を失わず、日本叩きを選挙民のくすぐりに利用しようとする政治家には本気で怒ってしまっているトッテン師匠は、レッド・ペーパーを送り付けるにとどまらず、去る六月始めにはワシントンに乗り込んで講演会をぶちかまし、警鐘のハンマーをぶんぶん振り回しにかかったのである。

 そのトッテン師匠が、アシストの新製品発表会で一席語る。
 となればやはりいかざあなるまいと駆け付けてみると、なんと師匠、いきなり今度は社内のスタッフにレッド・ペーパーを突き付けるではないか。
 この日発表の新製品はアシスト・レターと名付けたグラフィックスを強調した日本語ワープロ製品だったのだが、「今年の一月から五月まで全然新製品が出せず、六月にアシスト・レターがようやく出せたと思ったら七月から九月までまた全然出せそうもないんだもんね」と師匠、えらくご立腹なのである。
「パーソナルコンピューターのビジネスがちょっとうまくいったものだから、我々の開発スタッフは殿様商売を気取り始めた」といきなり社内に向かって二通目のレッド・ペーパーを突き付けた。
 ただしここで振り返ってみれば、そもそもアシストの設立自体が日本のコンピューター環境に対するもう一つのレッド・ペーパーであったのだなこれが。
 トッテン師匠は現在もなお、日本は手作り(受託開発)ソフト依存体質を脱し切れていないと指摘する。
 既成品と受託開発の割合は、アメリカで六対四、ヨーロッパで四対六、一方日本では一対九でしかない。ただしアシストはそもそも受託開発のみの日本市場に対してアプリケーション・パッケージの役割を正面に掲げることで切り込んできた。つまりはアシストそのものが、日本の受託開発依存に対するレッド・ペーパーであり続けた。
 そこでこの三通のレッド・ペーパーに対する受け手の反応やいかにと問えば、第一の日本のソフトウエア市場に対するものには、いまだしとは言えど敏感な反応が返っているという。
 今はまだ一対九であるとしても、見通しは明るい。既製品は今後、着実に伸びていく。
 ところが第二のアメリカ向けには、口先のみの同意が返ってくるのみ。三回の講演会をこなして集まった要人達と名刺を二箱分交換し、「お説ごもっとも」との反応は得たものの、「彼らは心底危機感を抱いてはおらず、よほどの大きなショックがないかぎりアメリカはこのままのペースで坂道を転げ落ちるだろう」と言う。
 そして第三の社内の殿様化に関しては、競争の導入によってこれを粉砕していくという。スタッフは真面目に取り組み、師匠は嫌味をいったり怒ったりと色々やってみるものの、部門が一つで内部に競争がないかぎり、活力をもって月一本ペースで新製品を送り出すことは無理だろう。
 そこでパーソナルコンピューター部門にも複数のチームを設け、互いの競争の中から月一本で年間百万本売上体制という大きな目標を目指していくという。
 とまあこれでレッド・ペーパーの種もつきたかなと思ったところがトッテン師匠、最後にきっちりと落としてくれます。
「OS/2の話がでないけれど、これにはどう取り組んでいくのか」との記者からの質問への答えが、その日の下げだった。
 師匠のお答えを御紹介する前に一言申し述べれば、OS/2は「OS割る2」ではなくて「オオエスツー」と読む。MS―DOSの後釜となる二番目のOSとしてIBMとマイクロソフトが共同開発したもので、ついこの間までは誰もその成功を疑っていなかった。
 ところが両社の思惑が食い違って大喧嘩となり、マイクロソフトは「もうこれからはWindowsで行くもんね」と突然がなり立て、IBMは「何をぬかすか。どうしてもOS/2だ」とわめいた。
 結果的にはやっぱり「OS割る2」になっちゃったというお粗末。
 それで師匠の下げはというと、「OS/2ってなんですか?」ときた。
「UNIXとMS―DOSは知っておりまして、その間にWindowsがでてきたのは聞いているけれど、OS/2とはわしゃ知らん」
 かねてからIBM専有の臭いのついたOS/2にはオープン主義者を標榜するトッテン師匠は疑問を隠さないできたが、個人のユーザー・インターフェイスを最低限保証しますというWindowsが3・0となってかなりいい仕上がりとなった今、師匠は四通目のレッド・ペーパーをOS/2に突き付ける。
 ソフトバンクから出していただいた単行本『電脳王日電の行方』で、薬でもやったんじゃねえかと疑われるほどWindowsを持ち上げた小生としては、「トッテン師匠に座布団一枚」で今回はここまで。


*趣味が悪いと言われれば確かにそうなのではあるが、名人、上手の悪妻自慢はこれがなかなか楽しめる。
 だが高座にこいつがかかったときには、肝に銘じた方がいい点がある。
 悪口へのうなずきが大きすぎたり、調子に乗って野次など飛ばすのは禁物だ。
 このネタには伏し目がちに笑いを押し殺し気味で臨むのが、聞く側のマナーというものだ。
 たとえばオレが、酒席の座興に悪妻自慢に及んだとする。大学に十三年も籍を置いたうえに、そこからまた専門学校に通うとはどういう了見だ。古新聞の束を何十万も払って買ってくんじゃねえぞ。料理には味見という工程があるんだぞ。一度くらい自分でゴミを出してみろ。電気を消せ。貯金しろ。小遣い上げてくれ。などとわめいたとする。
 ここで我が妻アキコを知るお調子者某が、「ホントお宅に行っても僕らにはお茶一杯出しませんよね」などとぬかそうものなら、オレとしてはやむを得ずアキレス腱固めに及ぶしかない。
 悪妻自慢がしゃれでおさまるのは、しゃべっている当の本人が嫁さんと同じ墓に入る腹積もりでいるうちだけだ。明日にでも別れるつもりなら、しゃれにもなにもなったもんじゃない。他人が「そうそう」などとうなずけば、そりゃあ立派な悪口てえもんだ。
 身内叩きはなかなか楽しめはするのだが、聞く側のポジショニングはけっこうこれで難しい。
 トッテン師匠のアメリカ叩きネタは、師匠一流の見切りの鋭さもあってなかなか秀逸である。話芸としての完成度に留まらず、ワシントンに乗り込んで辻説法に及ぶ迫力も加わり、実に鬼気迫るパワーがある。そしてその至芸の冴えにレッド・ペーパーの発表当時目を着けていたのは、当然オレだけではなかった。
 やがて師匠の存在はテレビ屋さんの知るところとなり、サンデープロジェクトという日曜朝の番組からお声がかかった。
 ここで「悪いのはアメリカだ」と身内叩きの痛快ネタを、枝雀顔負けの底の抜けた迫力で演じ切ったものだからもうたまらない。
 以来あっちこっちの雑誌や新聞、テレビ番組から高座がかかり、師匠は大売れとあいなった。
 ついには「日米マスコミ騒然!!」とオビに大書された本まで出た。
 こいつのタイトルが実に、『日本は悪くない』である。
 ところが師匠の人気が高まるだけ高まってくるにつれ、オレの胸のうちにはなにやらモヤモヤしたすっきりしないなにかが湧いてきた。
「これは」と思った人物が、事実人気者になってくると嫉妬に近い感情を抱くという先物買いのファン心理かとも思ったが、どうもそれとも違う。ではこりゃいったい何だと考えているうちに、かつてオレの悪妻自慢に悪乗りした某の面つきが浮かんで、はたと膝を叩いた。ああこいつは、身内叩きネタを聞く日本の客の側への違和感だ。
 なにしろ日米間には、貿易摩擦を背景に問題山積である。極東の島国の我が同胞は、すっかり体調を崩した紅毛碧眼の大男の苛立ち紛れに、箸の上げ下ろしから用の足し方まで一々難癖を付けられて、切歯扼腕の真最中である。連中に物を売り付けている弱みを自覚するゆえに苛立ちはとりあえず飲み込まざるを得ず、被害者意識が胃袋のあたりでしこってタバコも酒もさっぱりうまくない。
 とここにトッテン師匠の身内叩きネタである。
 しかも高座に上がるのは、稀代のパフォーマーときている。
 母国を叩く師匠のハリセンの音が、高くパーンと響くたび重苦しいしこりの一角がぼろっと崩れ落ちて胸のつかえがとれる。
「なんだそら見ろ、悪いのはアメリカだと当のアメリカ人が言っている。日本にきて実情が分かれば、がたがた言ってる連中だってこちとらには問題ないと分かるに決まってらい」となって、気分は爽快。師匠の痛快な身内叩きは、日米間の摩擦で当方に生じた欲求不満解消の特効薬、一服の清涼剤として受けに受ける仕掛けとなる。
 あらためてトッテン師匠が『ニューヨーク・タイムズ』や『アジアン・ウォール・ストリート・ジャーナル』に寄せた原稿を読み返すと、氏の身内叩きねたは、母国を大切に思うがゆえの警告と励ましであることがよく分かる。
 このねたを日本の高座にかけるさい、客の顔色を見て受けを狙うような真似も、生まれついてのツッパリとおぼしき師匠はやっちゃいない。
『日本は悪くない』には、日本が悪くなりかかっている点も指摘してある。
 ところが欲求不満の解消だけが目的の客は、アメリカ叩きの一点だけに拍手喝采してみせる。師匠を招く寄席の主人連中の狙いも、そこのところに集中する。だがこいつは、全く持って悪妻叩きへの悪乗りだ。
 じゃあどうするか。
 と考えてオレが機会を伺っているのは、悪妻自慢にはこちらも悪妻自慢で対抗する一手である。
 今度どこかの高座でご一緒する機会でもあれば、トッテン師匠がアメリカの悪口を言い始める前に、山ほど日本の悪口を並べようと考えている。
 敵は海千山千の名人だ。
 至上の芸にただただうなっていれば、知らぬ間に身内叩きに悪乗りする客にされちまう。
 腹の据わった名人の芸に向き合うのも、これでなかなか厄介だ。


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マイクロソフトワークスの統合する
パーソナルコンピューターの生と死

 揺り籠から伸びた人生のもう一方の端には、墓石がぶら下がっている。
 生きるものの証である生命のパスポートの最終ページには、地獄行きか天国かは知らないが、ともかくもあの世行きの出国スタンプがあらかじめ押してある。
 そう気付いた十一歳のオレは、半年の間夜毎ベッドで泣き通した。
 そしてとある秋の日、涙に溺れかかった自分にも嫌気がさして、この手の話題は机の隅に押し込んで知らぬ顔で生きて行く覚悟を決めた。
 ところが少年の日の寝床に溢れたあの終わりを恐れる涙を、一九九〇年七月十一日、神宮球場脇のイベント会場、TEPIAで開かれたマイクロソフトワークス(以下ワークスと書く)の発表会場で、なんとオレはまざまざと思いだしてしまった。
 日本語ワープロ、表計算、データベース、通信の四つの機能を統合したこの新製品のお披露目の場は、オレの目には〈始まり〉よりはむしろ〈終わり〉のけじめをつけるために用意された儀式に見えた。

 この日、マイクロソフトはワークスのお披露目に新しい趣向を盛り込もうと試みた。受付をすませ、広めのライブハウスほどの会場に入ろうとした記者や業界関係者は、のっけからビールやウイスキーを手渡された。
 発表会を終えた後、別室に用意されたパーティー会場で酒肴を振る舞うスタイルは、これまでに何度も見てきた。
 しかし参加者の脳味噌にはじめからアルコールをぶち込んでハイな雰囲気を盛り上げ、イベントを回していこうという仕立は、パーソナルコンピューターではもちろん、かつて数年間にわたって総なめにした経験のある栄華を極めた時代のオーディオ業界の発表会でも、まったく経験したことがない。
 記者のために用意された机も、ごく少なめ。出席者のほとんどは、縦ノリには至らなかったもののカンビール片手のスタンディングで、イベントの進行を見守る形となった。
 振り返ってみれば、ワークス発表のイベントに抱いた葬式幻想の発端は、通夜の席の酒肴を思わせる入り口に並べられたカンビールにあった。
 冒頭に立ったマイクロソフトの古川享社長は、この日の発表会にパーソナルコンピューターとはこれまで直接関係を持たないできた幅広い分野の雑誌の記者を招いたことを指摘し、会社紹介から挨拶をスタートさせた。
 組み立てキット式のAltair8800用に移植したベーシックをメーカーのMITS社に売り込んだのをきっかけに、ビル・ゲイツがマイクロソフトを起こしたのが一九七五年。
 アスキーが同社の製品の販売にあたっていた時期を経て、日本法人としてマイクロソフト株式会社が設立されたのが一九八六年。
 どこの発表会でも顔を見かける業界誌の記者には、こうしたマイクロソフトそのものの紹介は蛇足だったろう。
 だが「マイクロソフトの古川です」と他社を訪ねると受付で「マイケルソフト様ですね」と念を押され、「お宅の1―2―3(言うまでもないがマイケルのライバルのハマーが書いた、盆踊り教習用ソフトだ)をうちも使ってますよ」「今度お宅からOS12と言うのが出たそうですね」と肩透かしを食った経験を持つという古川は、「1―2―3のマイケルソフトからOS12に続いて、ウォークスというソフトが出たそうな」といった記事が書かれることを恐れたのだろう。そもそもマイクロソフトとはなんの会社であるのかから、ワークスの紹介の口火を切った。
 この冒頭の挨拶こそ、振り返ってみればワークスの発表会がある意味で葬儀であったことの象徴だった。
 ただしマイクロソフトには、もちろんのこと、このイベントを葬儀に終らせるつもりはなかった。
 パーソナルコンピューターのある部分を摘み取り、そこから得た種子をより大きな家電の畑にまくことにこそ、このイベントの、そしてワークスのターゲットはすえられていた。
 新しい家電の畑に種をまこうとする以上、この畑の耕し手である一般誌の記者達への自己紹介を、古川は不可欠と考えた。
 ではワークスの発表会場で、何が死に、何が生まれたのか。
 死んだのは16ビット・パーソナルコンピューターの夢だ。そして同時に生まれたのは、電話回線をジャブジャブ利用して情報をやり取りする時代の読み書きの基本ツールである。
 ワークスを日本市場に送り込むにあたって、古川はかつて自分自身をパーソナルコンピューターへと引き寄せた夢を16ビット・マシンから奪い取り、返す刀でソフトウエア業界の側からはじめて家電に切り込もうとしているのではないか。
 ワークスのプロモーションにあたって連携プレーを狙う各社からの挨拶が続いているにもかかわらず、アルコールがすでに回りはじめたのか、会場の一部からは通夜の宴の喧騒を思わせる大声が上がり始めた。
 その混乱と華やぎの中で、この世を去ろうとする16ビット・マシンの夢の冥福をオレは一人祈った。

 古川享、一九五四年生まれ。
 パーソナルコンピューターを語らせればマシンガンを思わせるすさまじい勢いで次から次へと言葉とイメージをつないでいく古川へのインタビューは、予定時間の二倍に達した段階で打ちきらないことには、後処理でとんでもない泣きを見る。同一時間内にマシンガン古川は通常の二倍の情報量のメッセージを叩き込み、テープ起こしの作業量はそれゆえ四倍を覚悟せざるを得ない。
 学校を蹴飛ばした後の古川の歩みはそのままパーソナルコンピューターの歴史と重なり合っており、大脳皮質のしわに技術とそれを支えた時代背景の情報をたっぷりと刻み込んだ彼の言葉のマシンガンは、銃弾切れを知らない。
 一九六九年、安田講堂攻防戦のシッチャカメッチャカの挙げ句、東大が入試中止に追い込まれた年、古川は麻布高校の一年だった。麻布は大学生を見習ってしっかり騒いだ口で、古川はここで校長代行の辞任を要求する大騒ぎの急先鋒として名をはせた。
 その後学生運動の潮が引く中で一九七〇年代の初頭に訪れたあっけらかんとした空白の頼りなさは、古川より二年早く生まれたこのオレに取ってもズンとこたえた。
 宇宙服一つで無重量空間に放り出されたような手がかりのなさに、しばらくは翻弄されていたのだろう。高校卒業後三浪して、古川は和光大学に籍を置いた。
 その一九七〇年代半ば、古川はマイクロコンピューターという名の新しい電子部品の彼方に、積極的に働き掛けるにたる精神のターゲットをつかんだ。
 これを利用した、個人のためのコンピューターというアイデアにしびれたのだ。
 古川がアルバイトで勤めていた秋葉原の店に集まる、生まれはじめたばかりのマイコン・マニアの中には、早稲田大学の学生であるという西和彦という名の青年がいた。
 そして一九七七年二月、サンノゼで開かれたウエストコースト・コンピューター・フェアーをのぞいた体験が、その後の古川の進路を決定づけた。
 アップル※(ローマ数字2、1-13-22)が発表され、数多くのホラ吹きどもが講演者となってパーソナルコンピューターの未来にかける夢を思うままに語り、十代も半ばの小僧が紙テープに記録したソフトウエアを売り、山と詰まれた広告ビラがバタバタとはけていく先駆者達の祭りで、古川は完全に熱に浮かされた。
 かつて経験したことのない何かが、パーソナルコンピューター上に吹き出そうとしていることを直感したのだ。
 帰国後西が創刊していた『アスキー』に記事を寄せはじめた古川は、本場の流れに直接触れようと、翌一九七八年、留学の名目で再度渡米する。
 ここで西に「今入社すれば取締役にしてやるけれど、二年後にはお前の席はないぞ」と殺し文句をかまされ、同社の八番目の社員となった。
 マイクロコンピューターが8ビットの時代、OSの標準の座を握ったのはデジタルリサーチのCP/Mだった。
 アスキーは16ビットへの移行期、CP/Mの16ビット版とマイクロソフトのMS―DOSの双方を競わせながらプロモーションを並行して進めたが、古川はここでMS―DOSの立ち上げに努めた。
 このMS―DOSを基盤として、パーソナルコンピューターにかける夢は表計算、ワードプロセッサー、データベース、通信とさまざまな役に立つ道具を産み落していった。
 そして一九八六年三月、アスキーとマイクロソフトが独占代理店契約を打ち切り、新たにマイクロソフトの日本法人が設立される中で、アスキーの開発本部担当取締役を務めていた古川は、新会社の社長へと一大転身をはかった。

 その古川が「あらゆる机にのせられ、あらゆる家庭に入るコンピューター」というマイクロソフトの社是を実現するソフトと紹介したワークスは、古川自身をここまで駆り立ててきたパーソナルコンピューターにかける夢を、少なくとも16ビット・マシンからは奪おうとしているかに見える。
 かつて16ビット・マシンの世界では、表計算、ワープロ、そしてデータベースといった新たなアプリケーションの登場は、新鮮な驚きと興奮の種だった。だが文字主体のMS―DOSの環境でこれらのソフトに寄せられるユーザー側の期待は、今、かなり均質化されてきている。
 グラフィックスや音を取り込んでなにか面白いことの起こる世界は、32ビットの386SX以上を使ったWindowsをのせたマシンや、UNIXマシンに押し上げられ、この下に、電子時代の読み書き算盤のツール、いわば情報家電製品が誕生することになる。
 16ビット・マシンはイメージの実験場としてのパーソナルコンピューターとしては死に絶え、同時に、情報家電として再生する。
 かつてハードウエア・メーカーは、情報家電を狙って日本語ワープロを打ち出した(ああ、今もワープロは売ってるんだっけ?)。
 ただし今、ソフトウエアの側からノートブック・マシンに向けて押し出されてきた第二の情報家電の試みは、MS―DOSという標準技術を背景にしている分、メーカー固有の方式の縛りを逃れた、より普遍性を持った美しい解答を提供してくれる。
 8086、80286を搭載した低価格のノートブック・マシンは、ワークスに類似した低価格統合ソフトとの組み合わせで専用ワープロを越えた情報家電の本命をパーソナルコンピューターの裾野に形成することになる。
 さらにそれらいくつかの統合型ソフトの選択肢の中で、Quick BASICやQuick Cと同じ、マイクロソフト型のキャラクター・ウインドウを用いているワークスの使用感は、WindowsやOS/2の操作環境の流れを汲んでいる点で点数を稼ぐだろう。
 何か面白いことは起こらないかとのすけべ根性でコンピューターの周辺をうろついているオレにとって、16ビット・パーソナルコンピューターの死は、念仏の一つも唱えたくなる大きな節目である。
 だがそんなオレにしても、今ではすっかり役に立つ道具としてのコンピューターに毒されてしまっている。
 ここのところウイルスだウイルスだと騒ぎまくっていたオレは、ついにシステム・ダウンして病院にほうり込まれる羽目となった。
 こうして机上のマシン達と引き裂かれた今、オレは16ビット・パーソナルコンピューターの白鳥の歌に胸を痛めながらも、情報家電なしではさっぱり動きの取れない自らの有様に直面させられているのである。


*ワークスの発表会には、入院中の病院を抜け出していった。
 検査のための小さな手術の後で、この原稿は唸りながら書いた。
 テーマの設定がやたら辛気臭いのは、結果を聞いてやけくそになっていたためだ。
 破れかぶれのライターに発表会を葬式にされてしまったワークスは、売り上げランキングの上位をキープする大ベスト・セラーとなった。
 OSの独占に加えて、アプリケーションのヒットも出したいマイクロソフトにとっては、何ともめでたいお話しである。
 だがオレには、ワークスのこの程度の活躍で満足できない事情がある。
 実は東芝のダイナブックが発売になった直後、オレは「これで日本語ワープロが滅ぶぞ」と鐘と太鼓であたりを触れて回った。まともなキーボードのついたパーソナルコンピューターがあのサイズにおさまり、二十万円を切ったことで、独自の〈使いやすさ〉をタコ壷にこもって追及する日本語ワープロに足を取られる犠牲者は、激減すると踏んだ。おまけに世界観の欠如したMS―DOSの世界に、とりあえずそれらしき物を提供する統合ソフトの本命と予想されたワークスの発表を取り上げたここでも、「今もワープロは売ってるんだっけ?」などと書いている。
 実に絵に描いたような「狼が来たぞ」で、情けないことおびただしい。
 やけくそついでにもう少し「ワープロは滅んだ」とわめき続けておくので、どうぞハードウエア・ベンダーの方々、とりわけ世界市場で安売りに命をかけていらっしゃるかたは実売価格が十万円にくる線に使えるノートブック・マシンを早くぶつけて、棺桶に片足突っ込んだオレのライター生命をよみがえらせて欲しい。


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響け猪木の「ダーッ」コール
低価格SPARC攻勢の彼方にサンの新必殺技の予兆を見る

 バクダッドの空に、アントニオ猪木が吼えている。
 なにしろ世紀末の最大の悪役と化したフセイン大統領率いるイラクに堂々乗り込んで、人質とされた日本人のうち高齢者と病人の解放を求めてしまうのだから、これを「吼える」と言わずして何が「吼える」か。
 リング上で高々と右手を突き上げ、天井も落ちよとばかりに腹の底から搾り出す会心のダーッの叫びを、久しぶりに聞かせてもらったなあと、渋茶をすすりながら秋空にしみじみと思う今日このごろである。
 猪木寛至参議院議員の試みが多少なりとも効を奏するか否かは、この駄文の作成時点では知りえない。
 ただアントニオ猪木が、今回のイラクによるクエート侵略に対して、日本国政府、自民党によらざるもう一つの態度をとろうとあがいてみせたことを、オレはしっかり覚えておくからね。
 偉そうに大声で言うことでもないが、危機はもう一方で挑戦のための最良のチャンスでもある。
 日本国憲法は「あそこにこう書いてあるからこれはできない、あれはできない」と、今回はやらないことの言い訳に利用されたが、少なくとも第九条の理想を信じる政治家にとって、この危機は自らの存在を誇示する最大のチャンスであったろう。

「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」

 何度読んでもこの宣言を、オレは実に美しいと思う。
 原文が英語で書かれていたにしろ、勝ち負けの力学が支配する中で、成立の手順には与えられる性格が強かったにしろ、やはり美しいと思う。
 それは日本という国の成り立ちの枠を越えて、この宣言が持っている世界性、歴史的普遍性の故である。
 軍事力によって地球に勢力圏の線引きを行なう振る舞いは、人類の歴史をここまで支配してきたのだからそりゃあ腰が座っている。
 だが核兵器の誕生は、このこわもての現実主義がついに地球というちっぽけな命の星の上では天井を打ってしまったことを見せ付けた。
 そこから我々は、軍事によらざる問題の解決という実に困難な挑戦に向き合うことを求められた。
 誕生以来、最後はぶんなぐって黙らせるという下品のかたまりとして生きてきたヒトにとって、この課題がドンキホーテ的理想主義であると知らないわけじゃない。
 しかし人類の生き残りの可能性がここ以外にないとすれば、いかにすっとんきょうであったとしてもこの道を切り開く以外にはない。
 そうしたほぼ絶望的な挑戦の先頭に立つという一文を盛り込んだ憲法を掲げてこそ、我が父や祖父がさんざっぱら蹂躪してきたアジアに生きる人の前にかろうじて立ちうるとオレは感じてきた。
 現実には軍事費をすさまじく増大させてこの理想主義的な宣言を骨抜きにしてきたことは、いやほど承知。
 けれどかろうじてこの一条を憲法に掲げていればこそ、イラクのクエート侵略を引き金とした危機は挑戦の舞台となりうるのではないか。この憲法があればこそ、クエート王政の非民主的性格に視点をすえた上で、日本はイラクの侵略に対して決して妥協することのない根底的な批判者足りうるのではないのか。同時に中東に対する支配力を嫌でも増大させずにはおかない大規模な軍を配備して、戦争の危機を増大させるアメリカの牽制者足りうるのではないか。
 だが何かをしないことの言い訳に使っても、国際紛争解決の武力によらざる解決に立ち向かうジャンピング・ボードとして憲法九条を掲げようとする政治家は一人としていないのだな。
 と思っているところに、バクダッドに響くアントニオ猪木のダーッ・コールである。
 タレント議員の売名行為といわば言え。事に際して自らの主張を掲げて表舞台に踊り出ることは、むしろ政治家の務め。
 人質の脅しに対する西側の結束を阻むぬけがけと、いわば言え。事態を硬直化させているのは武力に対しては武力をもって対峙する、軍事の論理。同じく無力をさらす結果にはなっても、戦争の放棄という世界史的課題に取り組むと宣言した国なら、非軍事的な解決策を求めて徹頭徹尾あたふたと動き回り、ともかくも交渉のパイプを付けようとあがいてみせるのが筋ではないか。
 今回の危機に対して無力を露呈する点では同じであったにしても、軍事との決別を目指して無力だったのか、軍事への回帰を目指して無力だったのか、少なくともこのオレははっきりと覚えておくからな。

 いかん。
 理想主義者の矜持と滑稽をテーマに、サン・マイクロシステムズ社というワークステーションの会社を取り上げようと斎戒沐浴して想を練っていたところが、国際政治学者を名乗る舛添要一という勇ましい男が「日本は軍を持たない二流国でいいのか」などとテレビであおるのを見ているうちに、すっかり頭に血が上った。
 書き出しはおとなしく「コンピューター界のアントニオ猪木はサン・マイクロシステムズである」と行くつもりだったのだ。
 ではなぜサンが、コンピューターの猪木なのか。
 ジャイアント馬場でも天龍でも前田日明でもなく、猪木であるのか。
 その根拠は猪木とサンに共通する、理想主義者のおせっかいにある。
 猪木がモハメッド・アリとやると言いだした日には、実にまったく驚かされたものである。
 当日はリングに寝っ転がってアリの足を蹴るという頭脳的(?)作戦にも腰を抜かしたが、やはり衝撃のポイントは、読売巨人軍が〈球技の王者〉の座をかけてオール・ブラックスに、あるいは戸部三丁目ゲートボール愛好会に挑戦状を叩き付けるがごとき発想の跳び方にあった。
 真の格闘技の王座をかけて、冗談抜きに異種格闘技戦をシリーズ化させたアントニオ猪木は、今振り返ってみてもまことにもっておせっかいである。
 同じく格闘技界に一時代を画す前田日明が、UWFという独自の小世界で自己実現を目指すのに対し、格闘技の最強者を決するなどというわけのわからない問題を立てる猪木にかかれば、もうみそもくそもごちゃ混ぜである。
 千代の富士や柔道の山下を挑発する代わり、過激な小世界を築いてみせる前田日明は、例えて言えばマッキントッシュに続いてNeXTを生みだしたスティーブン・ジョブズ。
 一方、ワークステーションの世界を拡大してコンピューターの全領域を制圧するとぶち上げるサン・マイクロシステムズは、これはもう格闘技のジャンルを越えて「誰とでもやってやる」と吼えるアントニオ猪木以外の何物でもない。

 一九八二年二月に設立されたサン・マイクロシステムズは、生まれついての理想主義者である。
 スタンフォード大学の大学院でCAD(コンピューターを使って設計をやろうという、怠け者のアイデアだ)を博士論文のテーマにしようとしていたアンディ・ベクトルシャイムは、研究に使う適当な機械がこの世に存在しないことにはたと気づいて、サンのワークステーションの原型となるマシンを自作する。そしてカリフォルニア大学バークレー校でUNIXのお守りに携わっていたビル・ジョイに頼み、このマシンにUNIXをのせる。
 これがスタンフォードの学内で人気を呼んでコピーが作られ、おまけにマシン同士が接続されてスタンフォード・ユニバシティ・ネットワークが誕生したことで、「ないなら作る」という理想主義者どもはワークステーション企業の設立を決意する。
 社名のSUNは、Stanford University Networkから取った。
 こうして誕生することになったサンは、設立当時からオープン・アーキテクチャ(言ってみれば技術の公開主義、標準主義か)の旗を掲げた。後にヒューレット・パッカード社に吸収されることになったワークステーションの先駆者アポロコンピュータ社が、当初はオリジナル技術を核としたのに対し、サンはモトローラの68系マイクロコンピューターにUNIX、イーサネットという標準的なコマを利用してスタートを切った。
 ただし標準的な技術のみで構成すれば、マシンが時代を突き抜けることはない。そこでサンは新しい技術の開発にも全力を上げ、生みだした技術を標準に押し上げるために努力する方針を取った。
 こうした試みの中から、サンはビル・ジョイの書いたネットワーク上でファイルを共有するためのNFS(ネットワーク・ファイル・システム)を標準に押し上げ、マサチューセッツ工科大学開発のX Windowがウインドウ環境の標準となれば、自らが開発したNeWSに加えてこれを採用する姿勢を打ちだした。
「あくまで標準に沿うことを大原則としながら、自ら新たな標準の確立に向けて技術開発に取り組む」
 こうした基本戦略にしたがって、その後サンはソフトとハードの両面から爆弾提案を行なった。
 数多くの方言が生まれていたUNIXに関しては、カリフォルニア大学バークレー校のBSDと本家であるAT&TのシステムV、さらにマイクロソフトがパーソナルコンピューター用に開発していたXENIXを統合して決定版を作る。
 一方ハードウエアでは、独自に開発したRISCタイプのマイクロコンピューター、SPARCのデザインを半導体メーカーにライセンスし、ハード・メーカーにSPARCマシンの開発を促して、標準アーキテクチャを確立する。(ここに出てきたRISCという暗号は、縮小命令セット・コンピューター= Reduced Instruction Set Computerという念仏の略である。これまでマイクロコンピューターは、使える命令の数を増やすというマクドナルドのメニュー拡大政策に類似した進化をたどってきた。ところがへそまがりが、メニューを減らして効率アップを目指そうと言い出した。吉野屋流で品数は少ないが、とにかく速いというわけだ。しがらみを捨てても速さを目指したいワークステーションでは、一時期これが大いに受けた)
「標準SPARCマシンで統合版UNIXを走らせる」
 サンは戦略的課題をここにおいた。
 そしてアントニオ猪木が真の最強者は誰かというアイデアにしびれて異種格闘技路線にのめり込んでいったように、SPARCと統合UNIXをコンピューターの全領域にまたがるプラットフォームとするという壮大な夢を描き始めた。上はクレイがシェアを握るスーパーコンピューターから下はマッキントッシュの領域まで、SPARCアーキテクチャに貫かれたSPARCinclay(クレイに引っ掛けたダジャレ)からSPARCintosh(マッキントッシュに引っ掛けたくだらないシャレ)に至るマシンによってカバーするというのである。

 だが理想主義者のおせっかいを存分に発揮してワークステーションがカバーする領域を一挙に拡大しようとするサンの日本市場へのアプローチは、異種格闘技に燃える基本路線の攻撃性とは対象的に、いかにも大人風である。
 日本サンの社長を務める天羽浩平御大は、東京大学工学部卒業後、一九五二年、第一回のフルブライト留学生としてサンの誕生の舞台となったスタンフォード大学でコンピューターを学び、東芝で大型汎用機の開発に取り組んだ日本のパイオニアの一人である。その後も一貫して情報処理部門を歩み常務取締役まで上り詰めてから、広範な人脈を持つ御大はアメリカ生まれのベンチャーの日本法人のトップへと転じた。
 日本サンは、東芝、富士通を初めとする各社に製品をOEM供給し、CTC(伊藤忠テクノサイエンス)をはじめとする代理店経由の流れを加えた間接の販売ルートに、売り上げの約九十パーセントを負っている。本質的には異種格闘技戦をコンピューターのあらゆる領域に挑もうとするサンは、こと日本に限れば、既存のコンピューター業界のネットワークを最大限生かしながら賢く日本市場への定着を目指している〈いい子〉に見える。
 こうした羊の皮をかぶった狼のようなサンの振る舞いは、優れた新参者がシェアを握りずらい日本市場の性格を表しているのだろうか。
 とこのテーマも突っ込んでいけば実に面白そうではあるが、九〇年代に踏み込んだここのところでユーザーとして望みたいのは、高解像度で環境の整ったコスト・パフォーマンスの高いプラットフォームが早めに確立されることである。
 中身がUNIXであろうがなかろうが知ったこっちゃないが、異種格闘技に燃えるサンは間違いなくこれを実現しようとするものの最右翼ではあろう。
 そしてパーソナルコンピューターと真っ向う勝負を挑むこうしたマシンを気合いを込めてぶつけるにあたっては、日本サンは既存のコンピューターの階層構造にうまく折り合いを付けるいい子では、もはやいられなくなるだろう。
 おせっかいな理想主義者アントニオ猪木がバクダッドに吼える一九九〇年秋、サンにもそして我が日本国にも、理想主義の旗を高々と掲げていただきたいと思う今日このごろなのである。


*ワークステーションのチャンピオンの座を、サンは握り続けている。
 今後も、陽は昇り続けるだろう。
 だが、SPARCと統合UNIXを武器に異種格闘技戦に乗り出し、コンピューターの全領域を支配するというサンの約束は果たされていない。むしろ裾野のコンピューター市場ではマッキントッシュがますます栄え、はびこったDOSの上にWindowsを乗せるマックの物真似が受けに受けている。
 このパーソナルコンピューター市場を切りくずす提案理由を、UNIXは結局示しえなかった。
 小型のコンピューターで、プロの作った雑誌や書籍並みの手の入ったページを作ろうとする所謂デスクトップ・パブリッシング(DTP)には、オフィスへのUNIXの進出のきっかけとなる可能性があった。
 一九八〇年代も後半になってから普及したこの分野は、ハードウエアに従来のパーソナルコンピューターに比べれば高めの機能水準を求めた。
 そうしたレベルにこの分野の先駆けとなったマッキントッシュが到達する前に、もともと高機能のハードにおさまっているUNIXの側がソフトウエアで追い上げをかけて、DTPをさらってしまうシナリオは描けたろう。
 だが結局のところ、印刷機の縮小版としてDTPにアプローチせざるを得なかったワークステーション(後に触れるジャストシステムの大地の流儀もこれだ)は、人の手の中にある絵筆と鉛筆の拡張版としてこれに取り組んだマッキントッシュの前に、抵抗らしい抵抗をなしえなかった。
 組織の機械は個人の道具に完敗した。
 DOSとWindows、マッキントッシュ上に積み重ねられた、この個人の道具としての使用経験とアプリケーションの幅は、もはや小錦と曙と武蔵丸が束になってかかったとしても到底動かしがたい。
 さらにここに来て、逆にパーソナルコンピューターの側からUNIXが担ってきたネットワーク分野へと進出する勢いが増してきている。
 サーバー用OSのNetWareの台頭然り、マイクロソフトがWindowsの高機能版として取り組んでいるWindows NTでやろうとしていることも、また然り。
 裾野に分厚く形成され、今この瞬間にも増殖を続けているパーソナルコンピューターの基盤の大きさを念頭に置けば、下から上を目指すアプローチは常に追い風を期待できる。
 だがもう一方で、UNIX上にはすでにネットワークに関する経験と資産が積み重ねられている。
 待ち受けるUNIXに対し、下からのネットワークを押し進めるパーソナルコンピューター陣営!
 とこうなるとサンの全領域支配宣言並みのふかしがマイクロソフトあたりから聞こえてきてもよさそうな物だが(NTの発表時のビル・ゲイツのコメントを乞うご期待。きっと聞けるぞ)、上と下の接点で少なくとも当面生じそうなのは、激突よりはむしろ融合だろう。
 UNIXの担う基幹的なネットワークに、パーソナルコンピューターの群れによって形成される小規模のネットワークがぶら下がる形が、しばらくの間は最もリスクの少ない、安上がりなシステム構成上の選択であり続けるだろう。
 量産効果に背を向けてマイクロコンピューターを使わないメインフレームの類は、ごく一部の例外を除いて今後のコンピューター環境に加わる資格を持たない。
 だがこの異種格闘技のリングには、しばらくは常勝のチャンピオンは生まれない。
 生み出される世界は、いくつかの文化が繋ぎ合わされて形成されるパッチワークだろう。
 そしてアントニオ猪木という人物もまた、典型的なパッチワークである。
 人の心はいずれ、遺伝子の規定する型紙にそって、さまざまな体験を通じて織りなされた小さな布を張り繋いでいったパッチワークだろう。
 誰の心だって、本人にもとてもとらえる事のかなわない、混沌と錯綜のうちにある。だがそれにしても、アントニオ猪木の精神のパッチワークは、一枚一枚が明るいにしろ暗いにしろ、その基調が明快であるにしろ曖昧であるにしろ鮮烈だ。
 一九七〇年代には、強い猪木を見た。
 ボブ・バックランドとの死闘、柔道のルスカ、そしてアリとの闘い(ありゃあんまり強かなかったか)。
 だが強さを表に立てる者の宿命と言えばそれまでだが、師匠にあたるカール・ゴッチに言わせると猪木は新しい才能の台頭を徹底して恐れる男でもあったという。
「木戸(修)は大変素質のあるレスラーだったが、猪木にやきもちをやかれていた。猪木は自己中心的で、抜け目のない男さ。木戸をチョップ・ミートのように叩き潰して抑さえつけ、チャンスを与えようとしなかったんだ」(「愚か者は真実に傷つく」李春成『ナンバー』一九九二年五月二十日号)
 さらに職業政治家となった以降の猪木寛至も、相変らず鮮烈な布切れを、実に脈絡なく編み続けてくれる。それにしても旦那、あの都知事選のていたらくはありゃなんだ。あれ以来、こちとらは胸の前に掲げて拍手した手のやり場に困って実に肩身が狭い。
 そして我が日本国の憲法にも、明らかに色合いの違った布が折り込まれている。
 過去から引きずった天皇制と現代の基調である民主主義、そして未来から委ねられた戦争の放棄である。だが多民族の共存を前提として我々の百歩先を行くアメリカの苦悩を笑い、単一民族国家(嘘つけ!)の効率の良さを歴史のタコ壷にこもって楽しもうとするこの国の戦後史は、敗戦が生み出したこのパッチワークを時の流れに逆行して繕い直そうとする歴史でもあった。
 そして今、耳元でがなり立てられるのは「現代の民主主義を守るには訓練をつんだ武装集団が不可欠だ」との胴間声の大合唱である。
 そうか、未来から付託された理想主義はそれほどに重いか。
 もともと分化と多様性を排除しようとする、ガン細胞のようなこの国だ。歴史のパッチワークをかなぐり捨てて過去から繋がる今に閉じこもれば、それは効率の良い、強面の犯罪的な国ができる。
 だが少なくともこのオレは、端正に織り上げられた日の丸の物言わぬ一目でおさまっている気はないからな。


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「二十四時間世話焼きマシンの決定版はこれじゃ!」
坂村健、ビル・アトキンソン両大人は異口同音にかく語りき

 激動の十月であった。
 なにしろ第二回のマルチメディア国際会議に向けて、マイクロソフトのビル・ゲイツ会長は来るわ、ハイパーテキスト概念の創始者にして電脳哲学者のテッド・ネルソンは来るわ、ハイパーカードの開発でおなじみのビル・アトキンソンは来るわ。
 マッキントッシュ用のマルチメディア型プレゼンテーション・ツール(要するに音とアニメーション、動画付きの電子紙芝居作成ツールだ)マクロマインド・ディレクターを引っ提げて快進撃のマーク・キャンター(マクロマインド会長)は、壇上で「我が社のマルチメディア技術を富士通のFM TOWNSに提供することが決まったぞ!」と進軍ラッパを高らかに吹き鳴らすわ。
 このマーク・キャンター、富士通との提携を発表するに当たっては右手を握ってラッパを作り「トラタタッタタ〜」と壇上でイントロを入れて稀代のパフォーマーぶりを発揮。マルチメディア国際会議の人気をさらうと同時に、この会議が米コンピューター界のスターの顔見せの場にとどまらず、日米の業界人の出会いによって何か新しい動きが生まれる舞台となっていることを強く印象づけた。
 ロビーのあっちでこそこそ、近くのホテルでひそひそと、自民党の政治家を思わせる耳と口を必要以上に接近させた内緒話からパーソナルコンピューターの近未来像が形を結び初めていく様は、なんとも興味深いと言うか、気味が悪いというか。
 かてて加えて、日本電気がPC―9800シリーズの三百万台突破を記念して開いたスーパーセミナー(名前からして物凄い)には、ビル・ゲイツに加えてインテルのアンディ・グローブ社長が登場。インテルはノートブック型にターゲットを置いた高集積度、低電力消費の386SLの発表を、今回の社長の来日にタイミングを合わせて行なった。
 そんなこんなであっちこっちを駆け回っているところに、ソニーはイーサネットを標準で備えたネットワーク対応バージョンを最初から用意してノートブック・シリーズを発表するわ、東芝は十九万八千円のダイナブックのローエンドに80286マシンを置くわ、京セラはシステム手帳の電子版を打ちだすわ、日電はパームトップをぶつけるわ。
 渋茶で羊羹などつまむ暇もなく、マッキントッシュの低価格モデルは飛び出すわ、弟が結婚して中日の落合大選手様と親戚になるわ、町内で三件もオババの葬式がでるわ。
 もういい加減にしてくれとのどまででかかってもやはり、「マックス・ヘッドルーム」は見にゃならんわで、本当に一九九〇年の十月はあっというまに舞台にあふれかえった登場人物をみんな引き連れて飛ぶように去っていったのであった。
 この激動の十月に翻弄されつつも、ここで見たものを全て書きつくしたいと考えたオレは、まずは手っ取り早いところからとこの駄文の調教師であるM島バイリンギャルY子に「今回はネタ豊富につき十頁欲しい」と申し込んだ。
 だが、最近ではすっかりいんごう親父のあしらいを覚えたY子は「ラップランドが冷え込むプログラミング日和になりましたね」と訳のわからないことを言うばかりで、取り合おうとはしない。
 いったいこの混沌と豊饒を前にしてどうすりゃよかろうかと思い悩んでいたのだが、日頃から信心はするものである。
 ある夜ビル・アトキンソンが夢枕に現われ、「新潟のばあちゃんにはどんなコンピューターが似合うかな」と問いかけられたところで目が覚めた。
 するとなんと、オレが十月に目撃したもののすべてがすっかり一枚の地図に収まって、枕元に転がっているではないか。
 あなありがたや。
 地図には「二十四時間世話焼きマシンへの道」と題されてあった。

 ノートブック型マシンがわんさか売れて、デジタルおやじの腕っぷしは鍛えられる一方である。
 なまじでかいうちは思いもしなかったものが、ノートだブックだとはやされれば誰だって持って歩きたくもなる。
 ところが三キログラムあまりの結構な負荷は、まさにバーベル代わりだ。
 ではここでもう一段の軽量化をはかって、本当に持ち歩けるマシンをとなって、各社は大いに頭をひねる。
 ICカードの採用でフロッピーディスクの駆動装置を外し、現状のノートブック型をもう一つ絞り上げるのは当然考えられるところ。サイズの縮小に関しては、ブラインド・タッチ可能な線でおさめるか、今一歩小型化に踏み込むかが選択のポイントとして残る。
 ここで前者を取ったのが富士通のFMR―CARDで、後者を選んだのが日電のPC―98HA(みんな、覚えてるか?)。少なくともブラインド・タッチ可能なICカード機は、現状のユーザーには極く素直に受け入れられるだろう。
 ただしもう一方で、ノートブック型からのより一層の小型化を考える者の脳裏には「はたして私の作ろうとしているものはパーソナルコンピューターなのだろうか」との問いが浮かんでくる。
 どこにでも持って行けるそれこそ二十四時間型のマシンを目指すとして、はたしてそれは従来のマシンのミニチュアであるべきか。それともまだイメージの確立されていない、何らかの新しい道具に化けるべきなのか。
 先行したソニーのパームトップは、「変わってもいいと思うよ」と宣言し、京セラの意欲作リファロは「システム手帳に化けて電子化のメリットをここに付けたほうが面白いのでは」と言いだした。
 要するに、「二十四時間マシンはもはやパーソナルコンピューターではない」というご主張である。
 そしてアップルコンピュータをスピン・アウトして一九九〇年五月、ジェネラル・マジック社を設立したビル・アトキンソンたちも、新会社で開発を目指す「二十四時間人間を支援するマシンはもはや、パーソナルコンピューターではない」と考えているという。
 リサやマッキントッシュのユーザー・インタフェイス開発の中心となり、ハイパーカードによってマックのユーザーにプログラミングの快適なチャンスを与えてくれたビル・アトキンソンは、今、このマシンに向けたインターフェイスの開発にあたっている。
「名前を付けるとすればパーソナル・インテリジェント・コミュニケーターとでもなるんでしょうか」という開発中のマシンを、ビル・アトキンソンはマニュアルを読む気などもうとうないバアチャンだって、にっこり笑って一日中使ってくれるものにしたいという。そのための最大の困難は、「誰にでも使える」という正気の沙汰とは思えない目標に最大限近づくための、単純かつ強力なインターフェイスの開発にある。
 ジェネラル・マジック社の設立に至るストーリーは、ビル・アトキンソンによれば二年前にスタートを切っていた。
 先ずアップルコンピュータ内でマーク・ポラットが、二十四時間マシンを目指して極秘のプロジェクトを開始した。
 現在のパーソナルコンピューターは、基本的に人間が机の上で行なう作業を支援する。
 けれど人間は本来、二十四時間机にへばりついているソフトバンクの編集者のような存在ではない。
 あちこち歩き回ったり、部屋でくつろいだりと色々な環境でさまざまな時を過ごす。
 ではこの人間の全存在を、いつでも支援するマシンは作れないのだろうか。
 我々の社会は農業を機軸とした経済から工業、そして今では情報を中心とした経済体制へと移行している。
 情報を取り扱うことの意味はますます重くなる。
 単に義務としてではなく、生きることに満足し、喜びを見いだし、人の和の中で与えられた役割を果たす上でも情報の持つ意味は重い。
 ソニーのパームトップや京セラのリファロの開発者同様のこうした問題意識をもって、アップル内でスタートしたプロジェクトのスタッフは、まず二十四時間世話焼き型マシンに求められる機能を範疇分けしてみた。
 その第一は、情報のオーガナイズ。いつどこで何をなすべきかの情報を、自分にわかりやすいかたちでまとめる機能だ。そして第二は、コミュニケーション。第三に、情報に対するアクセスの能力。ここで言う情報とは文字だけに限らず、グラフィックス、ビデオ、音と当然マルチメディアである。
 こうした機能は現在すでに、さまざまなマシンによって実現されている。
 オレ自身、個人情報の管理はもっぱらマッキントッシュ上のハイパーカードを使っている。
 電話回線では、通信もやれば馬鹿っ話にもあけくれる。
 FM TOWNSがマクロマインドの技術によってマルチメディア取り扱いの基盤としてパワー・アップすれば、うちのマシンも涙を流して喜ぶであろう。
 ただビル・アトキンソンは、「これらの機能は部分的に色々な装置で実現されているものの、使う側は多種多様なマシンのインターフェイスの乱立に苦しめられている」という。
 テキスト情報をもっとも大量にくわえ込んだMS―DOSマシンは、アプリケーションごとにまったく別の顔を見せる。マルチメディア情報をどっかと飲み込むはずのマッキントッシュは、ほかのマシンよりは使いやすいけれど、それでも新潟のばあちゃんには複雑すぎる。
 そこでさまざまなマシンで実現されている三つの機能を、徹底した使いやすさを目指しつつ統合してやる。
 MS―DOSとマッキントッシュはすでに情報を溜め込む井戸となっているのだから、新しいマシンは異なった井戸をつなぎ、ここから水を汲み出すパイプとならなければいけない。そしてこのマシンは、眼鏡や時計のようにどこでも持って行けるほどコンパクトに仕上げる必要がある。
 ビル・アトキンソンはこうしたコンパクトなマシンを作る技術的な条件は、すでに整っているという。
 京セラのリファロは無線通信によるデータの送り込みを前提とし、半導体企業はさらにたくさんの機能を備えた小型、省エネのチップを用意してくるだろう。
 つまり、ハードには障害はない。
 この二十四時間世話焼きマシンの成否を決するのは、誰にでも使えるというほとんど絶望的な目標に向かって、ユーザー・インターフェイスをどこまで練りあげられるかにかかる。
 そしてこの難関がクリヤーできれば、パーソナル・インテリジェント・コミュニケータはまったく新しい道具の世界を開くだろう。
 この新しい世界は一企業の枠やコンピューター業界にとどまらず、国の枠組みをも越えてしまうだろう。
 そう考えたアップルのジョン・スカリー会長は、ビル・アトキンソンやマーク・ポラット、アンディ・ハーツフェルドをはじめとするプロジェクトのスタッフに、パーソナルコンピューターという枠に捕われない別会社を起こすことを勧めたという。

 ジェネラル・マジック社の目指すところを、驚くほど出席者の少なかった共同記者会見(たった九人だぜ)でそう語り終えたビル・アトキンソンは、世界に冠たる日本の家電メーカーS社(ソニーである)の切れ者(土井利忠氏、人呼んでD博士である)に拉致されて消えていった。
「パーソナル・インテリジェント・コミュニケータは複数のメーカーから販売されるだろう」とのビル・アトキンソンの指摘を思いだせば、後発からきっちりと文脈を付けてコンピューターに乗りだしてきたS社(繰り返しになるがソニーである)あたり、当然このアイデアを逃すはずはない。今度そこのところを、D博士にじっくりと聞いてみよう。
 とそう思った途端、オレの脳裏にもう一人の大人の顔が浮かんだ。
 そうだ、二十四時間世話焼きマシンを語るなら、坂村健大人のTRONを忘れてはいかんいかん。
 坂村大人は一九八〇年代半ばから、さまざまな機器に組み込まれたコンピューターの連係プレーによって人の生活を丸ごと支援する電脳社会のイメージを軸に、TRONプロジェクトを展開してきた。
 ビル・アトキンソンが一台の小型マシンで世話を焼こうとするのに対し、坂村TRONはシステム全体でサービスに当たろうとする。
 いかんいかん、この手の発想の元祖とも言うべき坂村大人の話をもう一度聞かねばならんぞと思っても、編集担当M島Y子は再度の増ページ要求に耳をかそうとはしない。
 坂村研究室再訪のお話しは次項回しにさせていただいて、新潟のばあちゃんの健康を祈りつつ、今回は取りあえずここまで。


*一九九一年十一月二十八日、ソニーとモトローラーはジェネラル・マジックへ資本参加し、パーソナル・インテリジェント・コミュニケータの開発に向けて両社の技術を提供していくとの方針を明かにした。
 インターフェイスはジェネラル・マジック。その裏側をモトローラの通信技術とソニーの音と映像の技術で固めようという狙いである。
 マルチメディア国際会議でオレが目撃したひそひそ話のテンコ盛りやビル・アトキンソン拉致事件を樽にぶち込んで一年ぐつぐつ煮込んでみたら、表舞台に浮き上がってくるニュースが一つ沸いて出たという寸法だ。
 次世代のコンピューター開発をめぐるアップルと日本企業の協力という線で追えば、先に触れた一九九二年三月二十七日発表のシャープとの提携は、この次にくる。
 さらに一九九二年六月二十三日には、アップルと東芝、IBM、タイム・ワーナーの四社が、個人向けのマルチメディア機器の開発計画に関して合意したと発表した。
 アップルとIBMは先に、マルチメディア用の基本ソフトの共同開発にあたるとして、カレイダという会社を合弁で設立していた。
 ここからソフトウエアのライセンスを受け、東芝とアップルが共同で製品の開発を行なう。
 分担はハードが東芝でソフトがアップル。東芝が出資しているタイム・ワーナーは、この機械にかけるタイトル(作品)の開発にあたる。
 製品の第一段としては、一九九三年半ばをめどにしてCD―ROMを備えたプレイヤーの開発を進めるという。
 なるほど。
 さまざまな電子部品をおさえ、特に機器の小型化には欠かせない液晶ディスプレイを握っている日本企業には、強力な切り札があるということか。
 アップルであれ誰であれ、新しい環境をソフトウエアの側から提案していこうとする連中は、環境を収める器を想定するとき、日本企業と提携することを念頭に置かざるを得なくなっているということなのだろう。
 だがそれにしても、こんなに色々なところと提携してアップルが作りたいものは何なのだろう。
 安くて小さなマイクロコンピューターが機器を賢くする魔法として存在している以上、電脳化して意味のある家電製品は皆賢くなる。誰かが賢くしてしまう。どうせそうなるのなら自分でやったほうが財布の中身が増えていいじゃないかとなり、アップルの家電への参入宣言となった経緯は、企業の理屈としてはよくわかる。
 だが企業の論理としてはわかっても、情報家電の全面展開を打ち出したジョン・スカリーの胸のうち、彼がどのような機器を作りたいと思っているのかは、さまざまな日本企業との提携関係の中でビジネス手帳風、CD―ROMプレイヤー風とさまざまな商品イメージが打ち出されるに連れてどうもわからなくなってきた。
 結局アップルは何がやりたいんだ?
 どこででも、誰にでも使える〈情報の絆〉のような機器を作るとするジェネラル・マジックの主張までは、わかった気でいた。
 誕生当時、パーソナルコンピューターは「情報処理の能力を個人に解放する」、「より良く生きるために、より自由に、より深く考える道具を提供する」という能書きを引っ提げ、大見得を切って登場した。
 そんな恥ずかしい過去は忘れたと皆はいうのかも知れないが、オレはこのかましが今も根っこの方に生きていると思えばこそ、この機械の回りをしょうこりもなくうろついている。
 そしてこのふかしの延長上に、ビル・アトキンソンの言うところを理解した。
 だが「今や大企業となったアップルはきっと恥ずかしくて青臭い論議を全面に押し立てられないのだろう。それなら元祖幼形成熟のこの私が、変わって家電戦略に秘めたアップルの志を深読みしてあげましょう」と妄想をたくましくしても、かつて哀愁の高田馬場で思い込みの鬼と呼ばれたこのオレにも、算盤勘定以外、アップルの家電戦略の能書きはさっぱり見えてこないのだ。
 誕生間もないアップルで、スティーブン・ジョブズは「我々は人間の知能を拡大する知的自転車を作る」と吼えた。
 この道具が現実に社会のそこここにはびこる中で、アップルは電脳家電にビジネス・チャンスありと見た。
 けれど次項を読めばよ〜く分かるとおり、生活とコンピューターの接点には、極東の島国で坂村健さんという火の球兄さんがはるか昔から目を着けていた。そしてこの新しい空間をテーマとして、電脳社会論という能書きをドドーンと垂れてきた。
 そうした経緯を、あんたらも知らないわけじゃないだろう。
 そしていずれ〈賢さ〉に関わろうとする企業であるのなら、スティーブン・ジョブズと坂村健に対置して見せるのが算盤勘定だけじゃ、そりゃああんまり寂しかないかい。
 いったい自分が情報家電において何がやりたいのか、そこのところをきっちり詰めておかないと、ジェネラル・マジックの踏み出した確実な一歩からここに来て急速に拡散の兆しを見せ始めたアップルの家電戦略はわけが分からなくなる。
 少なくとも、より味わい深く人生を生きる手段としてコンピューターに向き合っているオレには、さっぱり見えなくなってしまうのだよ。
 兄弟はオレをおいて皆アップルの回りにいる。
 その皆さん、オレの声はあなたの耳に届きますか。


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二十一世紀の電脳キッズは
TRONを笑うものを笑う

「二十四時間世話焼きマシンと書かれたタマゴからは鬼がでるのか蛇がでるのか」
 前項のオレからこの場のオレに託されたのは、果たしてこのタマゴから何がでてくるのかとの問いである。
 昔ある馬鹿者は、事の因果関係が判然としない状況を指して「ニワトリが先かタマゴが先か」といった。
 以来馬鹿は馬鹿を呼んで、この妄言は今に伝わっている。
 だが見たこともない新しいものが誕生するのは、タマゴの中からに決まっている。
 種の変化に繋がる大きな遺伝子の組み替えは、精子と卵子が出合ってタマゴができるとき以外にはありえない。
 できあがった個体の遺伝子を種が変わるほどひん曲げようと、放射線を浴びせたりレトロウイルスを束にしてぶち込んだりすれば、個体がおしゃかになるだけだ。
 新しい時代はタマゴの中からやってくる。

 ダイナブックが起爆剤となって、各社はいっせいに小型マシンの開発に血道を上げた。ここから生まれた新しい機械の中に、オレはニワトリとタマゴが混在していると考える。
 このうちのニワトリにできることは、真面目にしっかりと育っていくことだけだ。いわゆるノートブック型PCは、パーソナルコンピューターのイメージは引きずったまま、収まるところに収まっていく。
 連中の落とし所は、二つある。
 一つは、本当に持って歩けるタイプ。ICカード・ベースで重量は一キログラム以下。安くするためになら16ビットだって構わないが、定価はどうしたって十万円だ。ここまで来れば、安売り電気店やディスカウント・ショップでバカスカ売れる。
 そしてもう一つは、機能追及型である。386SL以上の32ビットを積み、画面上で「どうにかしたいのはここだ」と場所を指し示すポインティング・ディバイスが付き、Windowsがのる。ハードディスクが入り、そのうちにカラー液晶も積んでくる。
 アップルも他社の生産技術を活かすなりしてこの手のマッキントッシュを出さないかぎり、時代においていかれることになる(とこう書いてから百万年ほどたって、ようやくアップルからパワーブックというマシンがでた)。
 だがもう一方で、小型マシンには何が飛び出してくるかわからないタマゴも混じっている。ここからは、パーソナルコンピューターのミニチュアは出てこない。
 今はまだ明らかとなっていないタマゴの中のマシンの姿を思い浮かべるには、設計図となる遺伝子が何と何の結び付きによって生まれたかを探るのが近道だ。
 いや、雄か雌かは知らないが、ペアの片割れがコンピューター技術であることに間違いはない。
 問題は、もう一方の相手だ。

 先に触れたジェネラル・マジックのパーソナル・インテリジェント・コミュニケータの開発プロジェクトが目指すものは、大つかみにして言えば、パーソナルコンピューターと電話が出会って生まれるスーパー情報引き出し機である。
 とこう書いた途端にオレの脳裏には、「通信可能の我がマシンとどこがどう違うわけ」とガンをとばすネットワーカーの凶相が浮かんだが、ここで言う電話とは、外出先に番号ごと付いてきてくれる無線電話である。この無線電話にコンピューターの機能を与えてシャカシャカと遺伝子を組み替え、タマゴを作る。
 ここからでてくるものがコミュニケータだ。
 先ずこのコミュニケータには当然、デジタル化された電話帳が組み込める。音声通信はもちろん、FAX型のグラフィックス通信、テキスト通信も可能である。すぐに応答できなければ、いったんメモリに落としておいて後で開く。放送によるデータ受信(株価や為替レートは需要が多そう)、テレビ受信もある。
 コンピューター的な機能の側では、デジタル・ファイルを〈読む〉機能が中心になる。電子出版物、パーソナルコンピューターのファイルが、どこででも文庫本を開くように読める。
 コミュニケータは手書き文字の認識機能を備えるだろうが、これにはどこまでいっても不満が付いて回るだろう。ただしあくまでメモとして割り切れば、血圧もそうは上がらない。コミュニケータにまとまった情報を送り込むとき、常識人はパーソナルコンピューターから入力して渡す。
 こう整理してみると、京セラのリファロは実にコミュニケータ的である。電話機能を中心に据えるべきと考える小生の目には、システム手帳をなぞる商品設計には疑問が残る。京セラ自身百も承知だろうが、現在搭載されている二四〇×三二〇ドットの液晶は遅すぎるし解像度が低すぎる。サイズもでかい。パーソナルコンピューターを小さくするのではなく、携帯電話を機能強化する感覚が欲しい。
 だがどこにでも持っていって二十四時間支援を受けられるマシンを、パーソナルコンピューターのミニチュアとしてではなく開発するという直感は、やはり面白い。無線通信サービスが軌道に乗ればリファロはかなりやるだろうし、これに向けてインフラストラクチャーとサービスが整備されれば次世代のコミュニケータもでやすくなるというものだ。

 ノートブックまで小型化したパーソナルコンピューターは、ニワトリとしての成熟を果たすもう一方で、携帯電話とくっついて新しい遺伝子を持ったタマゴを生みつつある。ここからでてくるコミュニケータは、求められればそれこそどこにでもついていって二十四時間世話を焼く。
 ただし先駆性あふれる京セラのリファロやジェネラル・マジックの試みが小型化と携帯電話との融合によって二十四時間の世話焼きを目指すのを見るとき、オレはどうしても、もう一つのフル・タイム世話焼きマシンへの道を思い出さざるを得ない。
 ご存じ坂村健東京大学助教授の提唱する、TRONプロジェクトである。
 小は家電製品や各種の機器に組み込むマイクロコンピューターから、大はネットワークの中核となる大型機まで、「あらゆる領域のコンピューターをあまねく統一的に革新してやるぞ」と志を高く掲げるTRONプロジェクトに関して、オレ様ごときの小人の目はついついパーソナルコンピューターに相当するBTRONに向きがちである。
 それゆえBTRONを見舞った一連の動きには、一喜一憂させられた。
 通産省と文部省の作ったコンピュータ教育開発センター(CEC)のお墨付きを得てBTRONが教育用コンピューターに指定されながら、「それは一種の非関税障壁じゃないの」とのアメリカのクレームを前後して指定取消となったときには、開いた口がふさがらずに医者に駆け込む始末となった。この教育用コンピューター騒動は、BTRONのデビューを台なしにする上で実に効果絶大であった。
 松下通信工業はこの重苦しいムードの中で、学校市場向けにPanaCAL ETと名付けたBTRONの流れを汲むマシンの発売にこぎ付けた。ハードウエアは、80286搭載の松下電器のPanacom M530である。本来はMS―DOS用のこのマシンに1メガバイトちょいのBTRONのOS(商品名はETマスター)を載せ、別売のエディターをプラスすれば日本語ワープロとお絵書きにはすぐに使える。さらに日本語Guideも用意されている。
 松下電器のマシンが富士通のFMR互換であることを考えれば、健全な好奇心を持つものはこっちでも動くのではないかと考える。ユーザーの強い求めがあれば、OSのみの販売を断るほど松下通信工業の頭は固くないだろう。
 何だこれだけと見るか、よくぞここまでと見るかは別として、BTRONは確かにデビューを果たしたのだ。
 さらにBTRONの静かなデビューに加えて、二十四時間世話焼きマシンへの模索が始まっている今、TRONがこの課題にもいち早く答えを提出していることをオレは思い出してしまう。
 TRONの根っこには、「マイクロコンピューターの旨味が、このままではちっとも活かせないではないか」との坂村大人の危機感があった。
 マイクロコンピューターはほうっておいても、より強力となり、またより安くなる。家電製品をはじめ、あらゆる機器という機器がこいつを組み込んで機能を拡張することは、宮沢りえだって五十年たてば立派な婆さんになっているのと同等の、歴史の必然である。
 ただしマイクロコンピューターが身の回りのすべて、それこそ照明から天井から窓からドア、床に壁、さらにはベッドや花瓶や便器にまでついたとして、それぞれをばらばらにしておくのはあまりに惜しいではないかと、坂村大人は考える。
 せっかく頭脳を持った人間が寄り集まりながら、共通の言語を持っていなければ我々は社会を築きえない。
 同様に電子の頭脳が〈言葉〉なしで増え続けたとしても、電脳の社会は生まれない。
 そこで電脳を孤立化させることなく情報のパイプをつけ、社会を形成して連係プレーを演じさせる。そうしてこそ、マイクロコンピューターの旨味が存分に味わえるというご主張である。
 異なるものの融合が新しい遺伝子を作るという事実に照らせば、TRONというタマゴはコンピューターと日常生活との出合いによって生まれる。
 我々は二十四時間、さまざまな道具に取り囲まれて暮らしている。この道具がすべてマイクロコンピューターを備え、ネットワークの術を知る。
 そしてこの電脳の連係によって、我々は生活のあらゆる局面で、二十四時間コンピューターからの支援を受けることになる。
 TRONは一台のどこにでも持っていけるマシンで、二十四時間の世話焼きを目指そうとはしない。
 我々を二十四時間取り巻く環境の背後にネットワークを仕掛け、電脳社会の内に人を包み込むことで、ゆりかごから墓場までの世話焼きを目指す。
 そしておそらくはコミュニケータ型とTRON型の双方の試みの中で、二十四時間の世話焼き機能は実現されていくだろう。
 コンピューター環境の一からの再整理などという物凄い課題を持ちださない分、コミュニケータは現実主義的である。
 リファロの存在は、コミュニケータの登場が間近い事を告げている。
 ただしあくまで理想主義的なTRON的アプローチも、いわゆるインテリジェント・ビルのような限定的な空間では、成果を上げるだろう。
 そしてこのことは是非とも大声で言っておきたいのだけれど、我々を取り巻く環境をコンピューター社会としてとらえ、この社会の基盤を整備するという課題は、遅かれ早かれ絶対に浮上するのだよ。
 かつてアラン・ケイが個人のためのコンピューターのアイデアを紡ぎ始めたとき、当時のコンピューター業界人はその試みを現実から遊離した夢想としか見なかった。そして今、坂村大人の電脳住宅や電脳自動車への挑戦を、多くのコンピューター業界人はBTRONで市場に突破口を開けない挙げ句の現実逃避でもあるかのように受け取っている。
 TRONの最終ゴールである電脳社会の形成が、表立った課題として意識されるのは確かに先だろう。だがこの課題にいつか我々が突き当たることに間違いはない。
 アラン・ケイのアイデアを商品化しようとしなかったゼロックスの当時の幹部を、オレはこれまでさんざん笑いものにしてきた。だが今度笑いものにされるのは、オレたちの番だ。


*坂村健さんに聞きたいことは、一つだけだ。
 美意識の人である坂村さんは、コンピューターの無秩序な増殖が許せないという。
 コンピューターがどうせ溢れかえるのなら、ちゃんと全体に脈絡を付けようよという。
 そうか。あなたはそんなふうに思うのか。
 確かに、設計思想の通った電脳社会が生み出されたとして空の上から眺めれば、それは美しく、合理的であるだろう。中に暮らしてみても、しばらくは便利だと思うのかも知れない。
 だがある一人のデザイナーの美意識が徹頭徹尾貫徹した社会に放り込まれたとして、才気煥発で人に頭を抑えられることが大嫌いなあなたは、そこで何をするのだろう。与えられた便利な生活を、ただただ楽しむのだろうか。
 そして今後、際限もなく誕生する第二のスティーブン・ジョブズ、第二の坂村健は、電脳社会の出来上がった合理性をどう受けとめるだろう。
 何を馬鹿な心配を。個々人が自分に合わせて自由に環境を設定できる柔らかさが、あらかじめ組み込んであるって。
 でもその自由の範囲は、神であるあなたが設定したものなのだろう。
 である以上、彼らはエデンの園のアダムとイブとしてよりはむしろ、坂村健の掌の村のプリズナー・ナンバー6と自らを規定するだろう。きっと至るところにはりめぐらされた坂村健の美意識の網の目に唾を吐きかけ、これを破ろうとするはずだ。
 そして電脳社会に穴をうがつ道具は、当然これまたコンピューターだ。
 パーソナルコンピューターを生んだ時代精神には、我々はどんな神も戴かないとする薬味も効いていたと思う。こいつをたっぷりとかがされた私には、「美しい世界を先ず作るのだ」それも「一から私が全て作るのだ」と言われると、そこに強制移住を命じられる日の事を思ってとたんに不安になる。


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スーパーDTP「大地」は
肥えだめの哀れな編集者を救うのか

 ジャストシステムが発表したデスクトップ・パブリッシング・システム(場所ふさぎなので、以下はDTPと書く。その実体は、パーソナルコンピューターを使って印刷のプロ並みの仕事をしようという、軽印刷業者抹殺プロジェクト。これを使って書類をきれいに作ることに飽き足らず、本や雑誌まで作ってしまうおっちょこちょいもいる)大地のことを考えているうちに、オレは縁側で渋茶をすすりつつ過ぎ去った日々を回顧するジイサマになった。
 過去に置きざりにしてきた夢が、ついにかなう。編集作業について回る〈暗黒面〉を、パーソナルコンピューターで彼方に蹴飛ばしてしまうという若き日の夢が現実に変わりつつあると思うと、もういけなくなった。
 かつてオレは、編集屋だったのだ。

 一九七九年にジャストシステムが設立されたころ、オレは編集プロダクションの屋根裏で、肥えだめに落ちたガキのように日本語にまみれていた。
 全共闘運動で日本中の大学のケツに火が付いたのが、一九六〇年代の後半。東京大学が東京教育大学(あの気味の悪い筑波大学が正気を失う前の姿だ)と共に入試の中止に追い込まれた一九六九年から、ちょうど十年が過ぎたころのことだ。
 今年は誰も東大に入れなくなったという話は、高校一年の終わりに聞いた。
 東大志望のクラブの先輩の顔が一瞬浮かんだが、次のまばたきが始まる前に消えた。
 オレには東大を狙う気持ちなど、名門桜幼稚園の門をくぐった時代からかけらもなかった。
 もちろん赤門の側にも、オレをくぐらせる度量などなかったろう。
 要するに、東大入試中止は全くの他人事だった。ニュースから聞こえてくる受験生の嘆きは、実のない男に入れ上げたばかな女の人生相談に聞こえた。
 当時オレが与太を飛ばしていた広島の片田舎にも、「アメリカはベトナムから出ていけ」だの「東大解体」だの「日帝打倒」だのの胴間声は響いていた。
 ワープロの辞書にもない「日帝」が打倒されるとは、十六歳のオレにも思えなかった。だが国家と大資本の支柱を再生産し続けてきた東大が、東大でなくなることには可能性が感じられた。
 少なくともアメリカがベトナムから手を引く奇跡よりは、東大解体は現実味を帯びて見えた。
「これから毎年入試中止に追い込んで、あんなクソッタレ大学は潰しちゃってください」
 こたつにまるまって広島カープの来期の戦力を分析しつつ、オレは呑気にそう考えていた。
 ただし瀬戸内海をはさんだ愛媛県新居浜市在住の高校三年生、浮川和宣少年(後のジャストシステム社長だ)にとって、東大入試の中止は他人事ではなかった。
 受験競争の頂点が消えれば、できのいいのが下に押しやられてピラミッド全体が揺らぐ。
 科学物のライター稼業が長かったオレは、地方の大学の教授から「当時は面白い学生が集まった」と、本筋の取材の合間に聞かされたことがある。浮川少年の入学した愛媛大学工学部もこの口で、この年に新設された電子工学科には、たった一人だったが極めて優秀な女子学生が入った。
 後の浮川夫人にして一太郎開発の中心となった、初子さんである。
 彼らから二年遅れて、オレは一九七一年に東京の私立大学に紛れ込んだ。
 インテルが初のマイクロコンピューター4004を電卓用に開発した年だ。
 一年留年して一九七六年に大学におさらばしてまもなく、日本電気の半導体屋がマイクロコンピューターにちゃちな16進のキーと8桁のLEDをくっ付けて、トレーニング・キットと称するオモチャを出した。これでマイクロコンピューターを技術屋に理解してもらい、いろいろな機器のコントロール用に使ってもらおうとの腹だ。
 生まれたばかりのマイクロコンピューターには、いろいろな使い道があるのではと期待だけは大きかった。だがオイルショックで社会が縮こまった中、新手の電子部品にはさっぱり販路が開けなかった。
 社会に収まりが悪いのは、オレも同じだった。
 オイルショック後のヒステリーの中で、まるで軍隊のように組織的締め上げが進んでいったこの国に悪態を付きながら、オレは正直なにをしたらよいのか分からなかった。一九七〇年前後、熱に浮かされたように大声で喋っていた手合いには、お預けの餌を取り上げられたポチのように茫然としている連中が、このころ多かった。
 学生結婚した嫁が「金がない」というので、とりあえず編集プロダクションに潜り込んだ。数少ない出版社の社員募集は見逃さなかったが、向こうからすべて断られた。
 編集作業には、人手を食う地味な仕事が付いて回る。そこで大出版社の経営者はまず、効率の悪い順に五十ほど作業をリスト・アップした。そこに労働組合を通じて集めた編集者がやりたくない作業のワースト五十を加えて一まとめにしたものを、足元を見て存分に叩ける下請けに回すことにした。
 こうして生まれたのが編集プロダクションである。
 ここには書籍や雑誌作りに関する面倒な作業だけがよりすぐられて流れてきた。
 例えば編集関係者に特異的に伝染する、〈統一〉という名の業病がある。
 ある本の一ページ目で、筆者が相いれない世界観を持つクソッタレのことを「馬鹿」と書いたとする。統一病患者はこの筆者が二百三十六ページの九行目で同様の者を「バカ」と書くことを許さない。もちろん「ばか」もだめである。一つに書き方を決めるまで、筆者を追い回す。挙げ句は勝手に直す。おうおうにして書き直しの筆は、表現に及ぶ。
 勝手に変えられては筆者もたまらないが、一冊分の原稿を統一しようとする編集者もお気の毒である。
 神経を擦り減らすこうした作業は、当然編集プロダクションに回ってくる。索引作り然り。込み入ったレイアウト然り。
 イラストの凹凸に沿って一行の長さが伸びたり縮んだりするレイアウトを見ると、オレの頭は今でも自然と垂れる。ざっと見当を付けては書き込みと削除だらけの原稿を一字一字数え、足りなくても多すぎても一からやり直す悪夢の作業が脳裏によみがえる。
 脂汗を垂らしながら帳尻を合わせたのは、間違いなく編集プロダクションの哀れな若者だ。
 大好きな本と雑誌作りに末席でもかかわっていることには、もちろん面白みがあった。だが編集プロダクションに流れてくる仕事の八割は、機械のような正確さと忍耐だけを求められる処理作業だった。
 パーソナルコンピューターと出会った一九七〇年代後半、オレは日本語処理の消耗戦に開け暮れていた。

 オレと同様に七〇年代に収まり所を見つけられず、ヤマギシ会の自給自足生活に活路を求めていた古い友人がある日、「パーソナルコンピューターが面白い」と叫んでプログラマーになった。
 それまで国民総背番号制の道具としかコンピューターをイメージできなかったオレも、「個人にコンピューティング・パワーを解放する」と吹き込まれ、久しぶりに興奮して「そうだそうだ」とわめいた。
 取り上げられた餌を再び与えられたポチのように、オレは見えないしっぽをブンブン振った。
 振り返ってみれば、一九七〇年を前後する社会の大揺れは、パーソナルコンピューターという新しい種子に絶好の畑を用意した。社会のまともな枠組みからはみ出したあぶれ者のかなりが、この新しい種に飛び付いた。連中はプラスのシンボルに飢えていた。
 オレもとりあえず、パーソナルコンピューターを軸に社会がかなり大きく変わると信じ込むことにした。
 さらに入れ込むうちに、首まで泥まみれになっている日本語処理のクソッタレ仕事をマシンに預けられるのではないかと期待し始めた。
 人間に機械になることを求める編集の暗黒面に、マシンでけりが付けられる。重箱の隅をつつくだけが生きがいの瑣末主義者どもに、「そんなことは人間の仕事じゃないぜ」と啖呵を切ってやりたかった。
 オレはベーシックと格闘しながら、辞書流の配列ルールに従って語句をソートするプログラムを書いた。ランダムに入力したカタカナは、見事に並べ変えられた。だが索引作りへの実用化は果たせなかった。
 漢字を使えるマシンが、この世には存在しなかったからだ。
 とりあえず編集作業の機械化はいったん中断し、オレはパーソナルコンピューター関連の記事を突破口に、原稿書きに仕事をシフトすることを試みた。専門家が一人としていなかった当時、ポチが書いてもミケが書いても、パーソナルコンピューターの記事は売れた。
 パーソナルコンピューターの台頭や科学雑誌の創刊ブームに付け込んだライターへの転身作戦は、それなりの成果を上げた。原稿書きが増えてくるとオレはなぜ自分が編集プロダクションに所属しているのか分からなくなり、会社を辞めた。
 中途でほうっておいた編集のコンピューター化の目論見も、それまでとなった。
 一九八三年の五月、住み慣れたタコ部屋を抜け出して見上げた空は青かった。
 当時は知るよしもなかったが、ジャストシステムの日本語ワープロが製品化のきっかけをつかんだのは、ちょうどそのころだ。

「失敗してもいいから何か自分達でやろう」
 東芝の子会社で、船舶の電気関係を取り扱う西芝電気に職を得ていた浮川は、一九七九年、オフコン(オフィスコンピューターという和製英語の略。事務処理専用機として日本ではびこったこのミニコンの子供も、うまく生き延びればあちらにも逆上陸を果たし英語の辞書にも載れたろう。ところがマイクロコンピューターの出現で、連中は哀れ絶滅と相成った)に自分達で開発したシステムを乗せて販売する業務を念頭におき、脱サラして会社を起こした。コンピューター・メーカーの高千穂バロースの研究所を、浮川との結婚を機会に辞していた初子のプログラマーとしての力は、大きな戦力だった。
 初めてのオフィスは、徳島の初子の実家の応接間。夫婦二人だけの会社だった。
 ようやく漢字の使えるオフコンが出始めていた当時、日本語の処理できる安いシステムの提供は、ジャストシステムの大きな狙い目だった。
 オレが日本語処理の肥えだめで溺れかかっているころ、彼らは日本語処理の突破口を開きつつあった。
 索引の配列プログラムを作ってから、オレは目の前のマシンが漢字を使えないことに気づいて「こりゃダメだ」と音を上げたが、ジャストシステムはパーソナルコンピューターの漢字化の波を逃さなかった。
 一九八二年の夏、総勢五人程度となっていた同社で、パーソナルコンピューター用ワープロの試作が開始される。
 ターゲット・マシンはその直後に発表された日本電気のPC―9801とされた。
 この試作ワープロが、ひょんなきっかけから当時アスキーに籍を置いていた古川享(後のマイクロソフト会長)の知るところとなった。開発中のPC―100にバンドルする(要するにおまけに付ける)ワープロ作りを日本電気から依頼されていたアスキーは、ジャストシステムのソフトに目を着けた。
 JS―WORDと名付けられた製品は、アスキー・ブランドで一九八三年十月にデビューした。
 このPC―100は、同社のワープロの初舞台となったこと以外でも、実に思い出深い。
 日本電気のパーソナルコンピューター事業は、当初傍流の半導体部門が担ったと書いた。そしてPC―100はこのお調子者たちが、さまざまな新しいアイデアを盛り込んで開発した意欲的なマシンだった。それが乗り込んできた本流のコンピューター屋が作ったPC―9801と同門のガチンコ勝負となって、破れ去った。これをきっかけに日本電気はクローズに大きく傾き、日本のパーソナルコンピューター市場を制覇した。
 この顛末だけで、ゆうに一冊くらいは書けそうだ。
 一方ジャストシステムはその後、自社ブランドへの転換を図った。
 ワープロの仮名漢字変換部分を切り離し可能とし、他のソフトでも使えるようにした一太郎が一九八五年の十月にでたときには、「ああこんな手があったのか」とオレは腰を抜かした。これで日本語をマシン上でグリグリ使えるようになるぞと思ったら事実そうなった。一太郎は日本語ワープロの標準になり、徳島にジャストシステムの自社ビルが建った。
 そして大地である。

 ここまでの話はすべて、現状のDTPを編集の目で批判するためのねた振りである。
〈書く〉要求を満たしたワードプロセッサーが出て、今DTPは〈美しい出力〉の要求を満たしつつある。この分野はほうっておいても絶対に流行る。
 だが時計の歯車をもっと速く回そうとするのなら、かつてオレを苦しめた編集にまつわるあれこれを解消する手立てを早く打ち出す必要がある。
 誰かが原稿を書いて最終的に本になるまでの間には、編集の工程がある。そこにはバカバカしいかもしれないが、統一と言った約束事がわんさとある。
 この〈吟味する〉工程は、現状のDTPでは意識されていない。
 大地について語るとすれば、プラットフォームとの距離の取り方も外せない。
 一太郎は日本語フロントエンド・プロセッサー(仮名を漢字に変える辞書引き担当ロボットのようなものだ)をMS―DOSというプラットフォームに開き、他のアプリケーションでも使えるようにしたことで、流行りにはやった。
 一方大地は、DTPの標準候補に背を向けて独自方式を取った。
 コンピューターの頭脳部分から、文字の形や並び、絵柄をプリンターや画面に伝えるさい、全体のレイアウトをあらかじめしっかり作った上で詳しい指示書の形で渡す方法がある。これなら画面で見たままが、どんぴしゃでプリンターからも出る。出力する側は指示に従い、自分に可能なかぎり細かく表現してやればよい。裏返せば、プリンターや画面の解像度(どこまで細かく表現できるかを測る目安だ)に応じて、指示の内容を一々変えてやる必要がない。一通の指示書が、この方式に対応した全ての出力機でそのまま変更なしに通用する。
 こうした方式の一つであるポストスクリプトは、DTPを切り開いたマッキントッシュに採用されたことで、世界的な標準の候補となった。
 だが大地はこれを取らず、独自の道を選んだ。
 その選択の根拠をしつこく質そうとするオレの目から、手を突っ込んで心臓をつかみとるように、浮川社長は独自路線の意味を語ったが、それも書かねばならぬ。
 すまぬ。この先は次項だ。


*と筆者も言っているので、今回はさっさと次へ進もう。
 言い訳は二回分まとめて、次項のケツに付す。


[#改ページ]




DTPソフト「大地」を継ぐものよ
日本語デジタル処理を支援せよ

 ジャストシステムの大地を見て、コンピューターによる日本語処理について考えた。
 ワードプロセッサーは、日本語をデジタル化して処理する大きな入り口を作った。
 そして今、いわゆるDTPが出口を固めようとしている。
 けれど門をくぐってあそこが出口と指差されても、足元を見直せばそこに至る道がない。
 口と肛門があって間を消化器が繋いでいないのでは、噛み砕かれて飲み込まれた有象無象も成仏のしようがないだろう。
 そう思い付いたオレは、かつてパーソナルコンピューターと出合った当時、日々明け暮れていた編集作業の消耗戦を思いだした。
 ボーッと読んでいる分には想像もつかないが、本や雑誌作りにはおびただしい約束事がある。
 この処理のコストの大きさに悩んでいた出版社の賢明な経営者は、ある日、煩雑な作業の要員を社員としてかかえることの非効率に気がついた。面倒なことは、下請けに押しつけるにしかず。なにしろオレの暮らしているのは、カンバン方式と称する身勝手の極みの部品調達法が鐘と太鼓で囃される国がらだ。
 こうして誕生した編集プロダクションという名のタコ部屋で、かつてオレは瑣末な約束事の特殊処理班として奮闘していた。
 そして日本語処理の泥沼の記憶を蘇るに任せているうちに、オレは鋭くも、DTPの到達点の確認と批判の作業に一挙に蹴りを付けた自分を発見してしまったのである。
「入り口と出口があって中がない」
 そうだ。これでいい。
 そんなことで、大地を枕にして一九九〇年代初頭におけるDTPの現状を語る原稿は「入り口と/出口があって/中がない」と、五七五ですますのが最も粋である。本来なら、こうしたためた短冊に請求書を添えて編集部に送ってしまうのが、侘び寂を解する者の道である。
 けれどこの一行だけでは、コピーにはなってもコラムにはならない。
 残念ながらソフトバンクは、思い付きの文句に対価を支払うほど文化コンプレックスに犯された会社ではない。担当のM島ノンダクレY子に「それこそ問題意識と結論だけあって、論旨の展開という中身がありませんネ」と水割り片手に突き返されるのが落ちである。
 野暮な会社に付き合う以上、不本意ではあるがオレも野暮に振る舞わざるを得ない。
 と諦めて書き始めたところが、前項は「起」が肥大化して「続く」と相成った。で今回は、気を引き締めて「承転結」だ。

 ざっとアプリケーション・ソフトを見渡して、日本のソフトハウスが一から書いた製品が健闘している領域はどこか。
 と問うのも恥ずかしいので、すぐに自分で答える。
 日本語ワードプロセッサーである。
 なぜそうなったのか。
 と問うのもまたまた恥ずかしい。
 オレ達が、日本語という英語でない言葉を使っているからだ。
 ウラル・アルタイ語族に属し、表意文字を駆使する日本語文化圏でパーソナルコンピューターを活用するために、極東の島国の連中はない知恵を絞って日本語処理に取り組んだ。努力とは実にやってみるもので、ここから日本語フロントエンド・プロセッサーという卓抜な仕掛けが誕生した。日本語を使う当人が必要に迫られて懸命に知恵を絞った見返りに、日本語ワードプロセッサーは日本オリジナルが幅を利かせる結果となった。

 受験制度や徴兵制度を改革できるものは、ここから逃げ隠れできない若者だけだ。
 大人にとってはしょせん、他人事である。
 この「他人はあてにできない」理論を応用すれば、日本語のあれやこれやに取り組んでいくのは、どこまで行っても日本人となる。
 ジャストシステムが大地を設計するにあたってDTPの標準的な基盤となりつつあるポストスクリプトによらなかったことには、批判がある。
 似たり寄ったりが足を引っ張り合う消耗な混乱は、ユーザーの意欲を萎えさせ、文化圏の成長を妨げる。これがつながるのはあれだけ。後はこいつもあっちもそっちも、みんなつながりませんでは、知らぬうちに肩も落ちる。
「標準は繁栄の母」という白ビットの教えは、実に偉大である。
 ただし我々はすでに、「他人はあてにできない」という黒ビットの告げる真理もまた確認した。
 要するに標準の側が日本語の特殊性への対応に遅れを取らなければ、白ビットの教えが生きて標準が栄える。しかし標準が不誠実であるか怠慢であるかすれば、浮上するのは黒ビットの現実論である。
「やはりコンピューター化の新しい時代に入ったのだから、多少これまで通りいかない点は我慢してもらわないと」「もとがアメリカ生まれだから、日本語化するとどうしても問題点が残りまして」などと鼻毛を抜きつつそっくり返っていれば、アメリカ市場を抑えた標準の勢いがそがれてしまう。
 プリンタの制御方式を統一できれば、話が非常にすっきりすること。ページ記述言語(例の一頁まるごと仕上げたレイアウトを、コンピューターが画面やプリンタに渡す方式の総称だ)への対応という新しい段階で、ポストスクリプトが統一方式の候補の一番手となったことまでは白ビットの教えの通り。
 ここでポストスクリプトの開発元のアドビ社が高いことを言って一もめあったが、欧米の市場に関してはやはりこれで蹴りがつく。ただし日本市場でもポストスクリプトが他を圧倒しきるためには、日本語出力にまつわる特殊性への対応にまっさきかけて取り組んでもらうしかない。
 具体的に書こう。ジャストシステムが大地の広告で強調している点でもあり、編集屋出身のオレに多少の基礎知識があることもあって、横組の中に欧文が入ってくる場合を例に取る。
 印刷業界ではこれを特に、和欧文混植と呼ぶ。
 日本語の文字を印刷用に並べていく場合、特に文字と文字のあいだが開けられることはない。
 一方欧文では、単語と単語の間にスペースが入る。
 この異なったルールを持つ欧文を横組の和文に取り込む際、印刷業界の人々は欧文の流儀に妥協した方が美しく仕上がると考えた。そこで欧文と和文が接するところには、一文字の三分の一のスペースをはさみ込む事とした。
 さらにアラビア数字も欧文の単語と同様に見なし、これに関しては前後に四分の一のスペースを入れた。
 横組の本や雑誌を引っ張り出して確認していただければ、古くからやっている会社のものは比較的このルールをよく守っていることを確認していただけるだろう。
 いっぽう新しい会社でコンピューター物など出しているところ、つまりいかにもDTPをやりそうなところ(ソフトバンクなどその典型ね)は、そんなルールは一切無視である。
 もちろんソフトバンクの中にも経験と伝統的美意識を持った編集者がいないわけではない(はずだ、多分)。しかし彼らは、余りにもコンピューターに対して寛容である。マッキントッシュ上でポストスクリプトに対応して組み上げられたシステムのメリットを知りすぎている。そのために、デメリットに目をつぶる。
 けれどこの世の中は、コンピューターの応援団だけで構成されているわけではない。ベテラン編集者や印刷のプロには、現在のポストスクリプトの手並みはド素人のやっつけ仕事に見える。ポストスクリプトが日本語の組み版の伝統的ルールから目を反らせているかぎり、DTPは質の悪い印刷物を作る安上がりなシステムの域を突破できない。
 ジャストシステムが付け込む狙い目は、ここにあった。
 オレ自身の立場を明らかにすれば、そうはいってもマッキントッシュとWindows上でポストスクリプトを軸にしてDTPをはやらせることが現状の最良の選択ではないかと考える。ただしこのストレートな道が栄えるためには、日本で育まれた伝統的な美意識に対してもっと素直でなければならない。
 現状では「この無教養の不作法者め」との大地からの批判を、彼らは甘受するしかない。

 そしてもう一つ、現在の日本語DTPには口と肛門をつなぐ消化器が欠けている。
 我々はすでに、日本語をデジタル化して扱う流れの入り口となるワードプロセッサーを持っている。
 この入り口を確立したがゆえに、ここから原稿は電話線を流れて相手方のマシンやファクシミリに送られはじめた。ネットワークが栄え、フロッピーディスクを媒体とする電子雑誌が誕生し、出版業界ではフロッピーで原稿を納める芸当が可能となった。さらにDTPは、出口に対する投資コストを大幅に下げ、社会のそこここに日本語デジタル処理の質の高い出口を配置しようとしている。
 だがかつてオレが涙の編集屋として携わっていた、日本語表記のさまざまな約束事の処理は、今も人の手に委ねられたままである。
 著者が書くという入り口とプリンターや印刷屋が刷るという出口は、デジタル化された。しかしその間にある編集者が吟味するという工程は、全くといっていいほどコンピューターの支援を受けていない。
 この吟味の工程でやることは、山ほどある。
 まず前項でたっぷり悪態をついた、用字用語の統一。これをどうしてもやらねばならぬというのなら、文字の検索/置換のリストを一まとめのファイルとして用意し、一括して処理する機能が欲しい。
 実はこの種のユーティリティは、MS―DOSに対応したものがアスキーやソフトバンク方面で使われている。けれどこの領域を担うソフトには、今後正面きって光をあて、開発者とユーザーがぐるになって練り上げるべきだろう。
 すぐに漢字が出てくるワードプロセッサーは、やたらに漢字の多い文書を復活させて世間に巻き散らしはじめた。
 今再びぶり返しつつある漢字の多用の問題には、我々に先立つ世代の取り組みによって国家レベルでは常用漢字という枠が設けられている。新聞業界には、新聞用語という枠組みがある。この成果を踏まえてたとえば新聞用語フィルターといったものが用意され、このルールにしたがって用字を整理してくれれば、社内文書の類でも漢字の乱用に歯止めがかけられる。
 児童書の編集者に求められる教育漢字の配当学年のチェックにも、コンピューターの支援は今すぐ欲しい。
 ガキ用の出版物をクソ真面目に作ろうとする連中は、三年生以下用と表記した本の中で四年以上で習う漢字が使われることをタブーとする。そこでご苦労なことに、教育漢字のそれぞれが何年で教えられるかを暗記してチェックをかける。さんざんこれをやらされたオレは大声で断言してしまうけれど、こんなことは人間のやる仕事ではないゾ〜!
 そしてこれまた日本語ワードプロセッサーが巻き散らす同音異義語の誤用の嵐にも、原因を作ったコンピューターが決着を付けるべきだろう。どんなアルゴリズムで迫るべきかオレは知らないが、巻き散らしている張本人だけに、その必要性だけはこれでも一応、心の底から痛感しているのだよ。
 ワードプロセッサーとDTPを繋ぐ日本語を吟味する工程は、コンピューターの支援を求めている。
 痛切に求めている。
 そして日本のソフトハウスの皆さん、電脳編集とでも呼ぶべきこの分野に解決策を提供できるのは、日本語から決して逃れることのできないあなたがただけなのですよ。


*大地をネタにDTPに関してくっちゃべっているこの時点のオレの頭にあったのは、コンピューターで書き、コンピューターで吟味し、コンピューターで出力するというところまでだ。
 最終的な出口は当然紙の上、そんなことは言わずもがなですませている。
 ところが先日、「コンピューターで読む」事を狙った電子本というやつにお目にかかり、お調子者の常で「読むことの電子化」にも積極的な意味があるのではないかと考え始めた。M島Y子の呑み友達のI塚Y世に、「文化の香りの欠如したオジン臭い出版社と付き合ってばかりいないで、たまには上品なウチの雑誌にも書きなさい。電子本三冊読んでから、レビューをやんなさい」と命じられたときのことだ。
「コンピューターで読むという試みは、製品評価の一項目で扱っておさまる話ではない」とのっけから言い訳をかましつつ、オレはこう書いた。

 マッキントッシュを実験場として所謂マルチメディア作品の開発にあたっているボイジャー社は、一九九〇年夏、コンピューター上に書籍を載せるプロジェクトを、エキスパンディッド・ブック(以下、拡張本と書く)と名付けて開始した。この時点で彼らは、電子本の器となる高解像度のディスプレイを備えたノートブック・マシンは、五年以内には出てくると踏んでいたという。ところがプロジェクトの開始から一年後、ボイジャーにパワーブックのプロトタイプが届けられた。それまではデスクトップ機上で電子本の形式と機能に関する研究を進めてきた開発チームの目の色が、ここで変わった。マシンが届いて三十分の内に小説の数ページがハイパーカードのスタックに仕立てられ、パワーブックで回覧された。「これは全く本にそっくりじゃないか。そうかパワーブックには小さなマック以上の意味がある。こいつはアラン・ケイのいうダイナブックの卵なんだ」となって、一時間後にはこのマシンをターゲットにした電子本の刊行が決まった。子宮の中でもう少し時を過ごすはずの胎児は、パワーブックの予想外の刺激で世の中に飛び出した。
 こうして誕生したパワーブック上の拡張本がいささか未熟児であることを、開発チームは添付した冊子で率直に認めている。画面を縦長に使えないこと、器が重すぎること、カラーやクリアーな写真の表示ができないこと、検索のエンジンがパワー不足であること、等々。だがもう一方で拡張本はすでに、電子化によるいくつかの新しいメリットも提供している。新しい提案を示された側としては、プラスとマイナスを差し引いてこの時点で未熟児を「買い」とするのか、あるいは今後成長すべき点として拡張本に何を突き付け返すかだろう。
 一九九一年十二月付けで、初の拡張本は三冊刊行された。
 ダグラス・アダムスのSF、 The Complete Hitch Hiker's Guide to the Galaxy では、電子手帳ほどの大きさの『銀河ヒッチハイカーズ・ガイド』という電子本が、重要な舞台回しを演じる。これには、紙に印刷したのでは大きなビル数棟ほどにもなってとても持ち歩けない知識が詰まっている。ただしこの電子本はユーザー・インターフェイスが若干未整理であるようで、ディスプレイに大きく「パニクルな」と書いてある。この作品がお気に入りらしいアラン・ケイが序文を寄せており、『ガイド』を枕にダイナブックの卵としてのマッキントッシュの到達点と課題を、印象的な言葉で指摘している。内容に踏み込むことはレビューの狙いからは外れるだろうが、作品はすっとぼけたゴキゲンな宇宙オトギ話だ。今回あらためて調べ直してみると、日本語版は風見潤訳で『銀河ヒッチハイク・ガイド』として、一九八二年十二月に新潮文庫から出ていた。だが今は絶版だ。
 マイクル・クライトンの Jurassic Park は日本語版がベスト・セラーとなったばかりで、スピルバーグによる映画化も決定している。作者が拡張本に寄せた序文によれば、この電子版こそがオリジナルのスタイルにもっとも近い。なぜならクライトンはマッキントッシュ上で拡張本に使われているパラチノ・フォントを使ってこの作品を書いたからだ。さらに紙の本には収められなかった恐竜の声やイラストが、本文中の名前とリンクされて組み込まれている。恐竜の名をクリックすると、ヒトの大きさと対比したイラストが呼び出され鳴き声が聞こえる。筆者はすでに紙の上の日本語版で読んでいたが、「なんのこっちゃ」という感じでところどころに入っていたフラクタル図形の描きかけは、拡張本にもある。ただしこちらはページを開くたびにマシンが一から描いてみせる。
 ルイス・キャロルの Alice in WonderlandとThrough the Looking Glass にマーチン・ガードナーによる注釈の付された The Complete Annotated Alice に関しては、ご存じの方に向かって何かを申し上げる勇気はないし、時代背景に関する知識とこの作品を楽しむ感受性を欠くだろう多くの同類の方々とは話し合う材料もない。ただこれには、ハイパーテキストの概念を打ち出したテッド・ネルソンの序文がついている。ネルソンによれば、アリスを読むと身の回りのばかげた物に対する感覚が強くなるという。MS―DOSや戦争といった本当にばかばかしいものの下らなさが身にしみるとのことなので注釈を頼りに再度挑戦したが、この注釈がとんでもない難物でまたも見事に挫折した。
 拡張本の開発チームによれば、デザインした時点での目標は「本を電子化することで何かが失われたと読者に感じさせないこと」に置かれていたという。確かに余白に書き込みを入れる、ページの端を折ったりクリップをはさむなどして目印とする、覚えに線を引く、書体をボールドにしたり下線を付したりするなど、従来の本でできることは(多少のおまけもついて)カバーされている。ハイパーカードの機能を利用して語句の検索ができる点は、従来の枠組みでも索引という手段はあったが、新しい電子化によるメリットと言ってよい。ただしそうした拡張本の機能を確認したうえであらためて、「何かが失われたと感じさせない」という目標が達成できたかと言えば、答えは否だ。
 今回筆者は、パワーブック一〇〇と一七〇の二機種で拡張本を読んだが、長時間文章を追うにあたってはTFT液晶の明るさは、是非とも欲しい。本文書体のパラチノはディスプレイという枠の中では読みやすい部類ではあっても、紙の上で見慣れた文字に比べればはるかに落ちる。イタリックに至っては、かろうじて読めると言ったレベルだ。矢印のキーに対応するページをめくる動作は、一拍遅れとなり、そのたびごとに頻繁にハードディスクにアクセスするのが気になった。だがじっくり読んでいく際は、読む側が早めにキーを押すように調節してしまうこともあって、一〇〇でもストレスを感じなかった。ただしパラパラとめくっていくと言った芸当は一七〇でも不可能だ。そしてそもそも、ベッドやソファーで本を広げようというとき、二〜三キログラムの重りを膝で受けとめろというのはまぎれもない拷問だ。少なくともパワーブック上の拡張本という現在の到達点においては、電子化によって失われるものは大変多い。
 ではそれでも本を電子化することに、果たしてどんな意味があるのか。
 ここで先ず確認しておくべきは、ハードウエアの重さや記憶容量への懸念、ディスプレイへの不満と言った現時点でのマイナスの要素は、いずれも本質的なものではない点だ。紙から解放されたかわり、電子本はハードウエアに縛られる。だが軽量化がほとんど期待できない紙に対して、ハードウエアはグングン軽くなる。しばらく時間をもらえるなら、それこそ『銀河ヒッチハイカーズ・ガイド』のように、ビル数棟分の紙の情報をポケットに収める事もできるだろう。
 では電子本の本質的なメリットとは、要するに軽くなることか。それも長所だ。ただしそれだけではない。もちろんマルチメディアの取り扱いも旨味だろう。だがそこにもまた留まらない。筆者は電子本の試みを「マルチメディア化には当面時間がかかるから、先ず手の付けやすい文章を取り込んでみた消極策」とはとらえない。もちろん動画や音をふんだんに取り込んだ電子本も出てくるだろう。しかし筆者が最も大きな可能性を感じるのは、文章を読むという行為を電子化することそれ自体である。日本語を使用する極東の島国の民として生まれた筆者は、英和辞典を引きひき Alice の注釈に悲鳴を上げる程度の英語力しか持ち合わせていない。その筆者にとって、読む環境の整備という点での当面の願いは、研究社の『リーダーズ英和辞典』が電子化され、ディスプレイ上の英単語をクリックすれば一発で意味と用例が出てくる事である。さらに『岩波国語辞典』、『広辞苑』、『大字典』、『平凡社大百科事典』といった、日常、本を読む際に使用している参考図書の類も、電子本のページから呼び出したい。もちろん読書中に取るノートの類も、マシン上に置く。要するに〈読む〉という行為を支援する環境をどこにでも持って行ける小さな機械の上に包括的に組み上げることができることこそ、電子本の本質的なメリットではないだろうか。そしてもちろん電子化された〈読む〉行為は、電子化では一歩先を行く〈書く〉という行為と有機的に結び付く。
 ただし電子本が、そうしたダイナミックな発展を遂げていくためには、我々はタイプライターの物真似である現在のパーソナルコンピューターのイメージにいつまでもしがみついてはいられない。大量の文章を書くときには、キーボードは今後も有効な道具だろう。だが本を読もうとするときに、誰がわざわざキーボードを小脇に抱えるか。人にとってより親しみのあるマシンを目指すのなら、我々は早く〈タイプライター〉で凝り固まった頭を切り変えて、〈紙とペン〉というより幅広い世界を包含するメタファーに移行すべきだ。
 最後により短期的には、電子本は大量の部数を望めない出版物を少ないリスクで刊行する手段としても生かされるだろう。マッキントッシュで書き、ハイパーカードのページにテキストを流し込み、一冊の本を作る。こうしたケリの付け方は、DTPの輪の、一つの慎ましい閉ざし方だろう。

 とまあ、こんなことを考えたわけだ。
 最後に、本当の言い訳を一言。
 マッキントッシュ上のDTPは日本語の組み版の伝統をうまく汲みえておらず、それが大地に付け入るすきを与えていると書いた。具体的には、和欧文混植時のスペースの問題にケチを付けた。これに対し、マック用のDTPソフトの代表格であるクォーク・エクスプレスは、一九九二年十月に出荷予定の日本語版のバージョン3・1で解答を寄せる。
 日本語を組む上でのさまざまな細かな注文に答えられるよう備え、重箱の隅を突いては文句を垂れたがる因業親父を蹴散らすのだ。
 お見事。
 となれば今度は、標準に背を向ける根拠をもう一度ジャストシステムに聞く番だ。


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「DOS/V万歳」の雄叫びは
なぜかマッキントッシュの博覧会に響き渡る

 地の果ての幕張メッセで開かれたマッキントッシュの博覧会、マックワールド・エキスポの会場で、マック使いのライターのT田とバッタリ会った。
 一九九一年二月の、寒かった日の出来事だ。
 サングラスをかけていかにも人目をはばかる風のT田は、一瞬早くオレに気づいたようだった。人込みに紛れようとするT田の背中に声をかけると、ビクッとやつの全身が震えた。
 T田はきっと、照れくさかったのだ。
 なにしろRAMが百二十八キロバイトのオリジナル時代からマックに入れ込んだT田は、マック用に日本語ワープロが書かれるとすぐに飛び付いた。まあ飛び付いて試すまでは、常人の範疇か。ところがT田はこれにかなり失望しながらも、原稿書きの仕事のすべてをマックに移し変えたのである。
 マック用日本語ソフトの老舗となったエルゴソフトが日本語ワープロの開発に着手したのは、一九八四年六月のことだ。単漢字変換のイージーワード 1・0版は「これじゃ売り出しても勝負にならんわ」というわけでデビューには至らず、一九八五年九月、五百字までの一括変換をサポートするバージョン2・1で初めて発売となった。
 この初代イージーワードという代物は、使う側も大変にご苦労であったが開発する側も骨が折れたに違いない。
 なにしろ当時、アップルがマック上に用意した日本語環境は劣悪だった。
 と書いてすぐに反省してしまったのだが、「劣悪」と呼ぶのもアップルの肩の持ち過ぎである。
 あったのは日本語環境ではなく、カタカナ環境だった。
 日本で目の玉の飛び出るほどの大枚をはたいて買ったマックのマニュアルは、確かに漢字仮名混じり文(人はこれを日本語と呼ぶ)で書いてあった。
 キーボードには、カナが印刷されてもいた。
 けれどOSには、漢字を取り扱う機能はなかった。
 要するに日本語版マックの実体は、ほとんど米版そのまんまだった。アメリカで売っている製品をカタカナだけ通るようにほんの少しいじり変えて、アップルコンピュータジャパンは日本市場に〈対応〉させていた。
 こうしたご立派な作業を指して〈対応〉と呼んでいいものか否か、小学校四年の国語で一をつけられたオレは知らない。
 だが〈対応〉化作業の請求書の金額は、実に立派であった。
 メモリを五百十二キロバイトに拡張した第二世代機に、プリンターと外部フロッピーディスク・ドライブ一台をくっつけたバンドル特価(言うまでもなくアップル用語で、特別に高いという意味だ)は、百万円を越えていた。
 親から借金までしてこいつを手に入れたT田は鼻を膨らませて荒い息を吐き、T田の嫁は泣き崩れた。オレ達はT田家の崩壊の日取りを占って、しこたまうまい酒を飲んだ。
 こんな値段でマシンをつかまされたT田も哀れだったが、エルゴソフトも実際ご苦労だった。
 初代のイージーワードはまず草一本も育たないカタカナ環境から日本語表示用のフォントを読み込んで立ち上がり、自力で日本語環境を用意した。五百字の一括変換が結構まともに動作するのには、当時感心した覚えがある。だがMS―DOSに慣れた者の目に、イージーワードの処理速度の遅さはこの世のものとは思えなかった。
 ガッタンガッタンと大八車を引いて階段を降りるようなスクロール。少し量のある文章中で挿入や訂正を行おうとすると、マシンは「めんどくせえな」と一呼吸おいてようやく腰を上げた。
 T田は一太郎を乗せたPC―9801に近づく羽目になると、念仏を唱えながら目を閉じ、流れるようなスクロールから目を反らそうと務めた。
「一太郎に乗り換えれば原稿料が倍稼げるぞ」とからかうと、「効率の対極にこそ文化は育つ」とT田は力なくほざくのが常だった。
 要するにマッキントッシュは、あちらで売られているほぼそのままの姿で日本市場にほうりこまれた。
 これをアップルコンピュータジャパンの怠慢と呼ぶべきか、はたまた先見の明と解すべきかは知らない。ともかく結果的には、その後のパーソナルコンピューターの進む道を体現したマシンの先駆性にしびれ、この国のお調子者の何人かが飛び付いた。
 その中でも比較的知能指数の高い者はこれを早目に英語マシンと割り切り、新しいアプリケーションの鑑賞やゲームといったツボに味わい所を限った。
 ところがT田のようなお調子者のバカタレは、マックで日本語を使うという狂気の沙汰に及ぶ事をいとわなかった。サードパーティはこうしたバカに支えられ、勝手にソフトウエア側からの努力によってマック上に日本語環境を築き始めた。(漢字ROMをくっつけるというキヤノン販売の試みもあったけどね)
 アップルコンピュータジャパンがOSレベルで日本語処理を実現した漢字Talkを発表するのは、エーアンドエーのJAMやエルゴソフトのイージーワードが日本語への突破口を開いた後の、一九八六年夏のことだ。
 T田はその後、ハイパーカードが発表されたときにもう一度「いい〜」と吼えた。
 それからしばらくはおとなしくしているなと思っていたところ、アップルコンピュータジャパンが海外ルートで日本に入ってきたマックのユーザーからは漢字Talk代として大枚七万円なりを徴収すると発表したとき、一転して「いかん」と吼えた。ハイパーカードが二・〇版から作成機能を削って参照機能だけを標準で付ける方針を取ったとき、もう一度「いかんいかん」と吼え、「今後はアップルとは縁を切る」とうなった。
 68030搭載マシン購入のための貯金を崩し、T田はサードパーティのアクセラレーターと大型モニターを買った。
「まあアプリケーションと周辺機器を人質に取られとるけ〜、マックとはもうちょっと縁が切れんよね。けどワシの財布からでた金は、サードパーティには渡してもアップルにはびた一文渡さんけんね」
 暴走族並の改造マシンを叩きながら、T田は広島弁丸出しでそうわめきたてた。
 その縁を切ったはずのアップルのショーで見つかったのが、やつとしては照れ臭かったのだろう。
 だがマックワールド・エキスポの人込みの中、T田の曖昧な薄笑いにマック日本語事始めの栄光と悲惨を思い起こしたオレは、その時なぜか鋭くも日本IBMが打ち出したDOS/Vの成功を直感してしまったのである。
「ああこれで日本IBMは、数年後にPS/2ワールド・エキスポを東京で開くことができる。そしてこのショーの協賛社には、日本のハードウエア・ベンダーのほとんどが名を連ねているだろう」
 幕張メッセの天井も裂けよとばかり、オレは心の中で唐突にそう叫んだのであった。

 一九九〇年十月に日本IBMが発表した日本語MS―DOSの新版である、DOS/Vは、極東の島国の外に出てマシンをいじっている日本人には一発でピンとくるが、魚臭いこの国の空気を日々吸っている連中にはさっぱり訳のわからない新製品だった。
 日本IBMの発表によれば、DOS/Vは六四〇×四八〇ドットのビデオ規格、VGA(ビデオ・グラッフィックス・アレイ)に対応したMS―DOSであるという。
 DOS/VのVは、VGAのV。
 ところが日本のユーザーには、まずこのVGAというやつがわからない。なんじゃこれは。
 そこで物の本など読んでみると、IBMのビデオ規格の一つなどと書いてある。
 そもそもIBMのPCは、日本のマシンが標準で組み込んでいたビデオ・コントローラ(要するにテレビをくっつけるための仕掛けだ)を、オプション扱いの増設ボードで提供した。
 初代のPCに用意されたもののうちカラー対応版は、六四〇×二〇〇ドットで二色を出しCGA(カラー・グラフィックス・アダプター)と名付けられていた。PC―9801が始めから六四〇×四〇〇で八色を出していたことを思い起こせば、「PC恐るるに足らず」との当時の日本のムードも、むべなるかなである。
 だが日本の標準が六四〇×四〇〇に張り付いたままでいたこの十年間に、IBMは上位互換のビデオ規格を一歩一歩積み上げていった。
 PC ATの標準規格とされたのが六四〇×三五〇で十六色のEGA(エンハンスト・グラフィックス・アダプター)。新規巻き直しのPS/2からはビデオ・コントローラは標準で組み込まれ、Aの表すものがアダプターからアレイに化けた。そしてここで登場してきたのが、六四〇×四八〇で十六色のVGAだった。
 このVGA互換ボードが他社の手によって開発され、業界標準であるPC AT互換機に組み込まれた。
 かくして世界の標準は、EGAに代えてVGAを組み込んだPC AT互換機へと移った。
 とまあVGAが何物であるかは分かっても、日本のユーザーにはまだDOS/Vに納得が行かないはずだ。
 なぜなら日本IBMは従来から一貫して「高解像度がなければ二四×二四ドットでごまかしなく漢字を表示することができず、正しい日本のパーソナルコンピューターにはなりえない」と主張してきたからである。
 アメリカ市場ではすでにPCがデビューを果たしていた一九八三年三月、日本IBMはこの領域に初の製品である5550を投入する。
 このスタート時点ですでに一〇二四×七六八の高解像度モードを用意して以来、同社は一貫してこれを中心となる製品の標準ビデオ規格としてきた。続くPS/55シリーズでは、本家のPS/2との互換性確保がじょじょに進められた。だがここでも、日本IBMのマシンの技術的な柱は、日本語に関しては高解像度にすえられたままだった。
 その日本IBMのVGAへの後退、妥協に、果たして何の意味があるのか。
 ただし海外にあってあふれかえるPC AT互換機とPS/2に囲まれ、かつ日本語を使う必要に迫られているユーザーにとって、DOS/Vはまさに福音であった。
 これまで日本語の処理機能を実現するにあたって、MS―DOSマシンはすべて漢字ROMやテキストVRAMといった特別なハードウエアの仕掛けを用意してきた。そうしたコンポーネントを持たない世界の標準機では、日本語処理は望めなかった。
 ところがDOS/Vは、マッキントッシュ型のソフトウエアによって日本語を実現する方法を取る。
 起動時に拡張メモリ上に漢字フォントを読み込み、主メモリにテキストVRAMに相当する領域を確保する。
 対象マシンは、VGAを備え拡張メモリを積んだPC ATとPS/2。
 つまり世界中にごろごろ転がっているマシンのほとんどに、何の手を加えることもなく日本語が乗る。DOS/Vを読ませ、すでにこれに対応済みの一太郎dashを載せれば、世界の標準機でそのまま日本語の文書作成が可能になる。
 もちろん日本のMS―DOSユーザーには、「わしには世界標準なんて関係ないもんね」との声もあるだろう。
 だがオレは、マッキントッシュ絡みのあれやこれやが世界中から集まってきたマックワールド・エキスポ/東京の会場で、あらためて世界と共通のプラットフォームにのっていることの意味をしみじみ思う。
 共通のプラットフォームとは、互いの世界を繋ぐ窓だ。
 窓が開けば、ハードウエアの技術革新が、ソフトウエアの新しい波が、サードパーティの訳のわからない小道具が、PDS(どうぞ皆さん使ってくださいと書き手が差し出してくださった無料公開パブリック・ドメイン・ソフトウエアの略)が、あまたのユーザーが作ったさまざまなファイルが、要するに異なった文化圏の人々の息遣いが直接に伝わってくる。

 あらためて振り返れば、メモリが高価でハードウエアが貧弱なうちは、ソフトウエアのみで負荷の大きい日本語を実現するという素直な道は、最良の解ではありえなかった。
 日本IBMを含む日本のメーカーはそこで、日本語処理のための独自の仕掛けをハードウエアに組み込んだ。
 いっぽうマッキントッシュは当初、T田のような連中の涙を絞りながら日本語に関しては寝たふりを決め込んだ。
 ソフトウエアによる日本語が現実的でなかったこれまでを、MS―DOSマシンは独自の努力で、マッキントッシュは死んだふりでそれぞれ乗り切った。
 その時代の終わりを、マックワールド・エキスポ/東京とDOS/Vは告げている。
 今となっては日本語に弱いマッキントッシュは、すでに神話である。「日本語がタコである」との批判を甘受し続ける代わり世界に添い続けたマックは、サードパーティとユーザーに引きずられる形ながら、ソフトウエアからの日本語処理の技術を積み重ねて世界に開いた確固たる日本の窓となった。
 そしてDOS/Vは、日本語処理のために生じていたMS―DOSマシンの世界との隔たりを結ぶ橋となるだろう。
 日本IBMにとっても、全世界的な製品の統合化は大きな課題である。
 そして世界向けにはPC AT互換機を生産している日本のハードウエア・メーカーもまた、世界との橋渡しという正論にはしぶしぶか積極的かは別としてうなずかざるを得ない。
 これに伴う混乱を最小限にとどめようとすれば、やはり日本IBMは適当な旗振り役であろう。
 今後日本のユーザーの目には不思議なほど、市場はDOS/Vになびくだろう。
 ただしこのパワーの核にあるものは、DOS/Vの技術その物でも、IBMの巨大さでもない。IBMも含めてすべてのメーカーがひれ伏さざるを得ないのは、PC AT互換という世界標準に対してである。
 言い換えればみえも行きがかりも捨てて、ユーザーに素直にひれ伏す時がきたということだ。
 IBM PC誕生から十年。開発にあたったボカ・レイトンのギャングどもがオープン・アーキテクチャを選択したことの偉大なツケは、日本にも及ぼうとしている。
 ハード・メーカーの誰が勝つのでもない。
 我々はしだいにブランドへのこだわりを捨て、訳の分からないマシンに訳の分からないVGAボードを差して、DOS/Vを走らせることになる。
 あえて勝ち負けを言えば、勝者は唯一ユーザーだけだ。


*とまあこう書いて雑誌に載せてもらった一九九一年の初頭には、「DOS/Vで日本の市場に風穴が開く」と吼えても、それこそ見向きもされなかった。
 と言うよりはむしろ、実にこの原稿の評判が悪かった。
 PCでそのまま日本語を走らせる際のさまざまな問題点を指摘しもしないであの馬鹿は何を浮かれている、PC―9801が抑え切った日本市場に対するリアルな観点を欠いているのではないかと、面と向かった批判を何度か浴びた。
 つくづく狭量の証しだなと思いはしたが、けちを付けられると大いに腹が立った。
 この本の元になった連載でも、以降意地になったようにDOS/Vを囃す原稿を立て続けに書いた。
 なにそんなもの、大枠を正しく設定すれば、細かな問題はむしろビジネス・チャンス。有象無象の知恵が集まって、どんどん乗り越えられていくに決まっているじゃないか。〈標準〉とはまさに、そういうことじゃないか。それを瑣末なあれやこれやにこだわれば、大局を見失うに決まってるじゃないかと考えて、DOS/V音頭歌い上げとなった。
 誕生間もないDOS/Vに対してオレが感じ取った可能性は、その後現実のものとなった。
 そうなってあらためて今読み返してみると、一連のDOS/V物にはなにか居丈高な印象を受けた。
「あらかじめ日本でもPCの時代がくると教えてもらっているのに、なにかみんな自分で考えたような口ぶりも嫌味だよな」とも思えてきた。
 そこでこの後のDOS/V物は捨てて、めずらしくもなぜオレの予言めいた物言いがあたったのか、その真相の告白を言い訳にかえる。
 なに答えは、とおの昔に椎名尭慶さんに教えてもらっていたのだ。

 五年前がジュラ紀、十年前がデボン紀、二十年前が先カンブリア紀に相当するこの世界では今や記憶する人も絶えて久しいが、椎名さんはパーソナルコンピューターの台頭の波に乗って頂点まで駆け上った時代の寵児だった。
 スタートは一九七〇年。この年に脱サラして、椎名尭慶は極安コンピューターの提供を目指してソードを設立した。
 目標は当時の安価なコンピューターだったDECのミニコンの二十分の一、二千ドルに置いた。
 そして翌一九七一年、インテルはコンピューターを安く作る切り札となる、初のマイクロコンピューター4004を発表する。
 一九七四年、ソードは8ビットの8080を使ってシステム80を発表。さらに簡易言語のピップスを前面に押し立て、大手家電メーカーがパーソナルコンピューターを担った日本では唯一のハードウエアのベンチャーとして、大いに気を吐いた。
 だがそのソードも一九八五年に東芝の傘下に入り、その後一九八七年に椎名は同社を去った。
 その椎名が新たに起こしたプロサイドをたずねたとき、彼は新しい小さな会社の目指すところを「流通サービス」と規定した。「時代はこの間に決定的に変わり、一から日本でパソコンを作ることは不可能になった」と語った。
 決定的変化の第一は、円高。そして第二に、PCの規格が世界の揺るぎない標準となった点を、椎名は指摘した。
「PCは一九八五年前後、世界的な標準として固まった。その結果部品の標準化が進んで、国際的な水平分業体制が生まれた。そして台湾、香港、シンガポールといったところが、PCのパーツの世界的な供給基地になった。例えば箱の大きさから、電源の取付け位置、ねじの位置まで標準化されたために、板金屋がPCの箱をバンバン作って、世界中に売りまくっている。電源屋は電源を売りまくる。標準化されているために、ばらばらに作ってもねじ山があって、作ってきたものを買ってきて組み立てることができる」
 こうした変化を踏まえた時、どうすれば最も競争力をもって日本で新たにビジネスを展開できるか。その答えを椎名は、「高い円を使って世界標準となった安いPCを買ってきて、日本で売ること」とした。
 だがPCのハードウエアに何の手も加えず、ソフトだけで日本語を実現する椎名の目論見に百パーセント沿ったDOS/Vは、当時まだ登場してはいなかった。あったのは、PCに日本語化のための部品を加えた標準化構想AXだけだった。
 全体的に見れば、このAXは「世界の標準機を安く」という期待のうち「安く」にはさっぱり答えられず、目覚ましい勢いを発揮することなく終わった。
 だが日本IBMがDOS/Vを発表したとき、先ず頭に浮かんだのは「高い円で安い世界の標準機を買う」との椎名の指摘だった。
 世界市場では、結局足元を食い荒らされた互換勢力を引き込むリスクを承知でこの道を選んだ以上、日本IBMは気合いを込めた高付加価値マシンをぶつけてくるに違いない。
 コンパック、ASTを始めとするアメリカ勢も、これで日本市場になだれこんでくる。
 さらに安売り陣営は、DOS/V市場をギンギンにたぎらせる火の玉となるだろう。
 こりゃあいいや。
 後はただ椎名の教えてくれた答えをオウム返しに繰り返していれば、しばらくはコラムのねたにも困らぬわいと、オレはそのとき小狡くもほくそ笑んでいたのだ。


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Windows3・0満開の春に
錯乱する我が魂はなおもアラン・ケイの掌で遊ぶ

 かつて編集プロダクションのタコ部屋にこもっていた時代、オレは「海や山でごそごそ動き回るのは面白いものだぞ」という主旨の本を作ったことがある。
 経験的に言って、編集プロダクションが絡むと本は痩せてくる。
 出版社は制作費を抑えようとして外注に出し、そこから利益を捻りだそうと下請けの親父がコストを絞り上げるのだから当然だ。
 ところがこの野外本はまぐれ当たりで書き手にめぐまれ、オレがリビドーのはけ口を仕事以外に知らなかったことも手伝って、自分で言うのも何であるが結構まともに仕上がった(と思う)。
 その一節に、エベレスト帰りの大酒のみAは、震える腕を抑えながらこう書いた。
「地図を読むにあたって、一番大切なのは、自分が今地図上でどこにいるかを知ることだ」と。
 なるほど。
「搾取の谷間に咲く白百合」とたたえられた名著、『野外雑学読本』だけのことはある。人生のあれやこれやにもあてはまりそうな、もっともらしいことが書いてあるではないか。
 奥付をひっくり返してみると、初版は一九七九年六月。
 今になって思えば、第一次石油ショックから第二次石油ショックへと続く五、六年、オレがじつに不愉快だったわけも、この一言で説明できる。
 要するに編集プロダクションを出版界の最下層に位置づける業界の地図を、オレは直視しようとしなかった。
 そのかわり、ただただ唾を吐いていた。
 あまりの低額予算にお得意さんの頭の中身を疑い、やなことはみんな押しつける出版社の社員の品性を奥歯でなじり、こんな額で仕事を請けてくる親父の卑屈を呪った。
 要するに「自分がどこにいるかを確認する」という、地図を読む上でのポイントをすっかり外していたのだ。
 最下層に陣取ってのゲリラ戦には、それなりの闘い方がある。
 数十人単位の組織は、最も効率が悪い。できれば、一人。多くとも四、五人までの足の軽い組織しかない。
 一方的に絞られることが嫌なのなら、自分のさらに下層にかわいそうな連中を作る手もある。プロダクションを経営する側にまわって社員を使い捨てる。あるいは下請けの下請けを確保する。上から殴られたら、下に殴る相手を見つけるというこの手を発見すれば、編集プロダクションの親父の車はドイツ製になる。
 そんな被抑圧者の再生産がやりたくてこの世界に入ったんじゃないというのなら、あぶく化してフリーライターにでもなるか、業界に見切りをつけて商売を変えるかだ。
 頃は一九七〇年代後半。8ビットのベーシック・マシンから触りだして、この野外本がでたころにはパーソナルコンピューターが飯の種にならないかと、オレ自身うろちょろしていた時期だ。
 地図ならぬコンピューター技術年表のどこにいるかを確信できれば、野心的な人物には、まだまだ枠組みが定まっていなかった急成長一歩手前の業界に打ってでるチャンスもあったろう。もっとも経営や管理の類には自分でも大笑いしたくなるほど才能のないオレに、そんな気も力もあろうはずはなかったけどね。
 オレの原稿は、何を書いても昔話が多いと評判が悪い。ただ、森高千里に嫌われるのも承知で昔話から解き起こすには、地図を無視した暴走の挙げ句にたどり着いた「やっぱり歴史観が大事である」とのオレなりの思い込みがある。
 ところがまいったことに、この拙文をキーボードに叩き着けている現在、オレ様は極度の時間感覚と方向感覚の混乱に悩まされている。
 その一因が、連休進行と称する出版業界総ぐるみとなったゴールデンウィーク全休作戦にあることは、気づいている。日本が沈没していなければ一九九一年の五月十六日に世にでるはずのこの原稿を書いているのは、なんと四月始めである。開幕早々気を失った巨人が、甲子園球場で虎印気付薬をかがされて目を覚ました時期だ。
 誰だってこんな目に合えば、多少は時差に悩む。
 ただしこれがオレの歴史観錯乱の主因でないことは、明らかだ。
 オレが病変に気づき始めたのは、世にWindows3・0の記事があふれだしてきたこの春のことだった。

 アメリカに続いて日本でも、Windows3・0で世間は花見気分である。
 ではなぜ、これまでMS―DOSマシンを使ってきたところにこいつを上乗せしたほうがよいのか。
 物の本や雑誌などによると、Windows環境ではアプリケーション間で操作性が統一されるのでよろしいとある。
 MS―DOSでは、文字による命令を綴りを間違えることなく打ち込むことが必要だった。間違えればマシンは、「ちがう」と十七歳のむかつき娘のようにはねつける。個別のアプリケーションの顔つきも千差万別で、相手が変わるごとに付き合い方を一から覚える必要があった。
 ところがWindowsでは、その時点で行いうる作業項目のリストの中から選ぶことを、すべての操作の基本とする。アイコンを始め、認知をやさしくするために図形を多用する。画面上の窓に複数のファイルや複数のアプリケーションを開いて、データを切り張りしながら仕事を進めることができる。
 能書きはおおむね、てなことになる。
 しかしそれにしても、正直ずっこける。
 そんな謳い文句は、一九八三年にリサがでたときに聞いた。
 そして翌年にマッキントッシュがでてからは、日本でもたくさんの(でもないか)ユーザーが毎日の作業の中で、この手のインターフェイスの快適さを確認してきた。
 そのマッキントッシュを真似ようとするWindowsを紹介するとすれば、六、七年前からアップルのユーザーが耳にタコができるほど聞いてきた話をもっともらしく今になって繰り返すしか手がないという苦しい事情には同情する。
 だがそれにしてもオレの胸の奥の方からは、「何をいまさら」との声が沸き上がる。では、これまでMS―DOSの解説本でたんまり儲けてきた出版社や、「パソコンを使いこなすにはMS―DOSの知識が欠かせませんよ」とそこらのユーザーに能書きを垂れてきたライターから、「私が飯の種にしてきたMS―DOSはインターフェイスの名に値するものを提供していなかったことをここに認め、今後はGUI派に転向させていただきます」と一札取れば気が済むだろうか。
 いやそれでもこの時間感覚の混乱の大本には、たどり着けないだろう。
 オレの頭がおかしくなったのは、確かにWindows3・0の大騒ぎからだ。
 だが問題の根は明らかに、より深い。要するに問題は、どこまで言ってもアラン・ケイの掌から、個人用のマシンが飛び出しそうにないことにある。

 一九七一年にインテルは、マイクロコンピューターを作った。
 こいつに16進のキーとLEDをつけたら、七〇年代のなかばにはおもちゃのようなコンピューターができた。
 そこで調子に乗って、一九七七年にはタイプライター型のキーボードとテレビをつないでみた。
 ベーシックをROMで持たせ、自分でプログラムを書いて走ったらパチパチと拍手することにした。
 てなうちにフロッピーディスクとCP/Mが現われて、アプリケーションが商品になった。
 八〇年代に入って16ビット機がでてくると、業界の地図が書き換えられた。
 なんだかんだあってMS―DOSとインテルの石でできたPC互換機が、業界標準になった。
 一方アップルからは一九八四年、これぞ生身の人間のためのマシンと思わせる、マッキントッシュがでた。
 ここまでの十数年間、パーソナルコンピューターには確固たるたった一つの時の流れがあった。そして歴史はこの間、常に進歩を目指して進んでいった。
 品性と共に教養を欠くオレは、後になってからマッキントッシュを支えたアイデアが一九七〇年代にゼロックスのパロアルト研究所でアラン・ケイらによって育まれていたことを知った。
 さらにさかのぼると原爆作りを指揮した科学行政官ヴァニーヴァー・ブッシュが、机の上に積み上げられる書類の束に嫌気がさして、どんどこ書類の検索や閲覧ができるMEMEXと名付けたシステムのアイデアを一九四五年に雑誌に発表しており、ここいらへんがめぐりめぐってマッキントッシュにつながってくることも見えてきた。
 突き詰めるべきアイデアは、別の場所で練り上げられていた。
 だがこのアイデアとの出会いに向かって、マッキントッシュに至るまでパーソナルコンピューターの歴史はグングン進歩した。
 ただしマッキントッシュに至って、時の流れは幾筋にもばらけてしまった。
 マッキントッシュは淀み、MS―DOSは周回遅れでたらたらとマックを追いかけ、UNIXの土俵ではOPEN LOOKとMotif(共にUNIXをマックに化けさせる厚化粧の流儀)が水入りの勝負を続けている。
 かくして市場には、かつて見たものが〈新しい波〉と銘打たれては繰り返し送り届けられ、オレの時間感覚はますます混乱する。
 そんな錯乱のさなかの一九九一年四月九日、コンパックとマイクロソフト、そしてUNIXで勝負をかけるサンタクルズオペレーションを始めとする二十一社が、新しい先進的プラットフォームと銘打った、ACE(アドバンスト・コンピューティング・エンバイロメント)構想に取り組むと発表してオレの錯乱に拍車をかけた。
 要するにコンパックは、RISCという高速化技術に対応するに当たって、良く言えば当初から標準化を目指す、別の言い方をすれば徒党を組む戦術にでた。
 サンは誰が何といおうとSPARCを推進するし、アップルは自分でマッキントッシュのOSをRISCに乗せる。コンパックとしても、RISCに対応しないことのリスクは大きすぎる。
 そこでSPARCの対抗馬に当たる、ミップス製のチップを選んだ。
 ただここに単純にUNIXを乗せたのでは、サンの勢いはとまらない。
 そこでPCの流れとUNIXワークステーションをえいやとくっつけて、「これが次世代のふたまた標準だ」と称して迫力を出そうというのが、今回のACE構想である。
 具体的にはACEでは、二つのハードウエアが標準とされる。
 まずは本命の、ミップス製RISCを使用したマシン。
 これに加えて386以上のPC互換機という従来コンパックが作ってきた流れに沿ったマシンも、ACEの標準ハードウエアと位置づけられる。
 この二つのハードウエアの双方で、ACEは二つの標準OSを走らせる。第一は、マイクロソフトのOS/2バージョン3・0(これは後に例のマイクロソフトとIBMの大喧嘩で、Windows NTと呼び変えられた)、そして第二はサンタクルズオペレーションのUNIXシステムOpen Desktop。
 構想によれば、「ユーザーは両タイプのACE互換ハードウエア上でOS/2 3・0とOpen Desktopのいずれを使っても、同じアプリケーションを実行することができるようになる」という。二つのハードの双方に二つのOSを乗せることができて、そのどちらでも同じアプリケーションが走る。言ってみれば、PCとワークステーションの合体プロジェクトである。
 この構想が、個人用マシンの文化圏の地図をどう書き換えるか、あるいは書き換えないか、まあいろいろご意見はあろう。ただ一つこの〈新しい波〉の中からも、すでに見慣れたマッキントッシュタイプのマシンがもう一度繰り返し現われることだけは間違いない。
 現状では某ソフトハウス(マイクロソフトのことだ、言うまでもないが)の市場独占とメーカー間の政争が足を引っ張って、アラン・ケイの掌の上でいくつもの時間がだらしなく流れている。
 この氷河期が終わる兆しは、オレにはまだ見えない。
 最後にオレの時間感覚の混乱に決定的拍車をかけたニュースを一つ。
 科学技術庁の認可法人である日本科学技術振興財団はこの春、開発と指導実験を進めてきた幼児のためのパソコン教育システムを公表した。
「マウスと呼ばれる簡単な入力用具を使い、実際に画用紙の上で絵を書くように手を動かすというもので、我が国でも珍しい」と書いてある日本経済新聞は三月二十日付けであるところを見ると、エイプリルフールの冗談というわけでもないらしい。のっけてある画面は、マックペイント以来のお絵書きソフト風で、こんなもの発売当初のマッキントッシュにおまけで付いてたぞ。
 まあこの件に限れば、狂っているのはオレの時間感覚じゃなくて何とか財団の連中の頭の方だろう。


*コンピューターの世界は日進月歩で目まぐるしく物事が移り変わり、ちょっと目を離しているとすぐに時代に置いていかれてしまう。
 と書いたとしても、すぐさま「この大嘘つきのペテン師め」と槍や鉄砲玉が飛んでくることはない。
 確かにこの世界の表層には、つぎつぎに新しいパターンが浮かんでは消えていく。
 この項で触れているACEにしてから、その後の移り変わりは実に目まぐるしい。
 マイクロコンピューターはインテルか、ミップス。OSはマイクロソフトかサンタクルズオペレーションと、互いにしのぎを削るはずのライバルを襷掛けに組み合わせて、果たして一つのまとまった構想たりうるのかと最初から首を傾けさせる要素はあった。
 それが発表から半年ほどの一九九一年十月に、言いだしっぺのコンパックの社長ロッド・キャニオンが取締役会で突然解任されたあたりから、あれよあれよの腰砕けとなった。
 新生コンパックは低価格のPCにもう一度焦点を当て直し、ACEからはすっかり腰が引けた。もう一つの柱だったはずのデジタルイクイップメントは、RISCに関して独自路線に大きく舵を切り直した。ミップスに背を向けて、独自に開発した64ビットのALPHAを一九九二年二月に発表し、これを将来構想の中核に据えた。
 ミップスの最高速版であるR4000の80MIPSに対して、ALPHAは300MIPSはでるという触れ込みで、商売人のビル・ゲイツはさっそくWindowsNTをALPHAに載せると言いだした。
 すっかり立場のなくなったミップスは、同じく二月、三次元グラフィックスの専門メーカー、シリコングラフィックスに合併とあいなった。
「ターミネーター2」の液体金属アンドロイドの特殊効果は同社のワークステーションによるもので、3Dという専門性はあるもののこれを武器に自らの世界を拡張しようとする一ワークステーション・メーカーの傘下に入ったのでは、ライバルとなる他のハードウエア・メーカーとしては実際気が気ではないだろう。
 五月になってコンパックが正式にACEからの脱退を表明すると、サンタクルズオペレーションも撤退だと言い出した。
 とまあこの世界には、こうした慌ただしい側面がある。
 だが目まぐるしく移り変わるパターンの下には、時代を突き抜けてしまったような核がどっしりと腰を据えていたりする。
 例の『アラン・ケイ』の訳者である鶴岡雄二は、一九七九年に古本屋で『サイエンス』のバックナンバーを数冊買い求め、その中の一冊にあったケイの「マイクロエレクトロニクスとパーソナルコンピュータ」をたまたま読んだ。そして、あらゆる世代の人間が使いこなせるようにデザインした個人のためのコンピューターのアイデアに、魂の奥の方をぐっと掴まれた。
 そこから世の中で一騒動起こしている現実のパーソナルコンピューターに初めて目を向け、「ああ、歴史はこんなところまで来ているわけね」とつぶやいた。
 一九八三年にアップルコンピュータがリサを、一九八四年にマッキントッシュを出すと、「はい、御苦労さん」と言った。
 やつの体験した歴史はだいたいこんなもんである。目まぐるしくも何ともないが、本質的にはこれで足りているから腹が立つ。


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パソコン創世記の終章を飾る
アップル=IBMの提携とアスキーのトロイカ体制の崩壊

 アップルとIBMが提携すると言いだしたかと思うと、西和彦さんといっしょにアスキーを引っ張ってきた郡司明郎さんと塚本慶一郎さんが辞めてしまった。
 以来、この二つの事件に触れた記事に近づくと、視線が吸い寄せられたように止る。
 ところが書かれている内容は、どれもこれも琴線にかすらない。
 そのたびに「あ〜ぁ」と溜息をついてマシンを叩いても、ゴンと諸行無常の響きがかえってくるだけだ。
 そうか、お前も寂しいか。オレも寂しいぜ。
 ところが山寺の鐘とコンピューターは、繰り返し叩いてみるものである。ゴンの反復の中で唐突にもオレは、柴谷篤弘さんが「一九六三年で分子生物学は終わった」と書いたことに、今になって納得が行き始めた。
 そこで今回は、分子生物学の終焉ごしにパーソナルコンピューターの誕生を支えた時代精神の崩壊について書く。
「少し話しがややこしくなるかな〜」との危惧はあるが、オレ自身の心の底に降りていこうとすれば、他には道が見つからない。
 業界の勢力地図をなぞった分かりやすいお話なら、今回は他を当たって欲しい。

 さて時に本など読むと、オレも人並みに感動したり感心したり、時には「なにをぬかすか」と怒ったりもする。
 ところが一九七八年に『生物科学』誌に発表された柴谷さんの「分子生物学の終焉」に出会ったときには、なんだかやたらに困ってしまった。
 この学問の勃興期を支えた当のご本人に「終わった」と言われても、遺伝子レベルでの生命の探求や操作は事実成果を上げ始めている。なにしろ世間でも、遺伝子産業革命てなことが言われ始めた時期だ。
 分子生物学が水門を開いて導き入れた流れは、どう見ても大河となって発展している。
 そんな時期に「一九六三年に分子生物学は終わった」といわれてもなあ〜。
 とはいえ柴谷さんの話が、論理として納得行かなかったわけではなかった。
 一九六〇年代の始め、遺伝の謎を実に明快に解いたことで、分子生物学は時代の寵児となった。しかもこの手法が実に物理的で、切れ味が鋭かった。
 生物学でお決まりの手法は、博物学的な網羅主義である。
 大腸菌の頭から右回りに数えて三番目のべん毛は両脇に比べてピンクが濃く、やや太め短めで色っぽいであるとか、モンゴロイドのケツは成人に達しても約七パーセントが青い(ウソだよ)といった事実を集めてきて、ゴミの山かと見まがう知識の集積物が崩れ落ちる寸前、おずおずと「この事実からこんな理屈が考えられるのではないでしょうか」と一言だけつぶやいて死ぬのが生物学者の定めである。
 ところが物理学からの転向組の多かった分子生物学者は、彼らのそんなちまちまとした慎みとは無縁だった。
 連中はまず、遺伝情報を伝えるメディアとして二重らせん構造のDNAのモデルを作り、そこから情報がどう読み込まれて生物が作られるかの仮説を打ち立てた。そしてこの予言が的中する形で、生物の遺伝のメカニズムが実証された。
 アホな生物学者は千変万化の生物の表層にばかりこだわるから、物知りにはなれても真理がつかめない。けれどモデル作りの能力を持つ我々が取り組めば、遺伝の謎は実にきれいに解けた。
 よし、これで行ける。分子生物学が全てを解いてやる。
 柴谷さんによれば、初代の分子生物学者は遺伝機構の解明に向かって驀進する一九五三年から一九六三年にかけた時期、しだいに「生命の神秘、恐るるに足らず」との自負を固めていったという。
 そして一九六四年以降、遺伝にけりを付けたと考えた彼らは生物学のさまざまな分野に散った。
 以来分子生物学が先鞭を付けた手法は、生物に関するさまざまな知識を集めていった。
 遺伝子の人工的な組み替えが可能になって、生き物の全く新しい利用の可能性が突然に開けた。
 かたを付けたと思っていた遺伝に関しても、首を捻るような事実がいくつも見つかった。
 だが柴谷さんは一九六四年以降、分子生物学は挫折したのだと位置づける。
 それはなぜか。
 網羅的な知識の収拾とは決別して物理学の手法を持ち込むことで、この新しい学問はいったん「単純な生命の謎をきれいに解く」と宣言した。遺伝の解明までは、事実この戦略で勝利した。
 ところがこれ以降、分子生物学は生命の核に潜む仕組みを暴く代わりに、いったんは切り捨てたはずの知識の収拾に、分子レベルまで降りて舞い戻った。
 なんのことはない。決別したはずの網羅主義に、再びはまり込んだのだ。
「一九五三―一九六三年の十年間の分子生物学は、生物学にこれまで一度だけ訪れた例外的な黄金時代で、その後はまた通常の生物学となってしまったのである」柴谷さんは「分子生物学の終焉」でそう書いている。
 だが(筑紫哲也じゃないが)それにしても、これを読んだオレは「終焉」は言い過ぎじゃないかと思った。
 分子生物学はともかく奮闘して、成果を上げた。その後より一段突っ込んだレベルで、新しい謎が浮かび上がった。そこで今、これまでの成果を元に分子レベルでの生命へのアプローチが進んでいる。と素直にこれでいいではないか。
 だが、アップル=IBMの連合とアスキーのトロイカの崩壊という転機に立って、オレは思う。
 むしろ柴谷さんは、傲慢な錯誤だった分子生物学の黄金時代に本質的に期待し続けるがゆえに、「終焉」を言い立てたのではないか。復活を願えばこそ、黄金の時をいったん完全に葬ろうとしたのではないか。
「分子機械は理解できる」と思ったが、二十世紀後半の我々はそのレベルに至っていなかった。
 だが「理解できる」とする立場その物は、これまでも、そして今後も有効なのだ。
 見逃している何かが分かれば、もう一度黄金期は来る。グングン分かるはずなのだ。
 柴谷さんの断言から当時のオレは、「見逃しているのだから遺伝子操作は恐ろしいぞ」とする危惧のメッセージのみを受け取った。だがご本人は意識されていたか否かは知らないが、その裏にはもう一つ「見逃しを発見してもう一度大きく前進しよう。黄金期を迎えよう」とする期待もあったのだ。
 そう考えて始めて、オレには「一九六三年で終わった」とする断定に、素直に納得が行き始めた。

 そして、パーソナルコンピューターだ。
 分子生物学の黄金期に相当する時が、パーソナルコンピューターにもあった。
「分子機械は理解できる」という幻想の変わりに、当時のハッカーが抱いていたのは、「一人一人の人間のためにコンピューターはどうあるべきか、主体性をもって問い続ければ全て問題は解決する」との信念だった。
 仲間と立ち上げた『I/O』誌から別れた西、郡司、塚本は一九七七年六月、『ASCII』を創刊する。
 創刊号巻頭の「ホビーとの訣別」と題した新雑誌の志を述べた一文は、西の手になるものだろう。

「ここにホビーではない新しい分野『コンピューターの個人使用・パーソナル・コンピューティング』が出現したということができます。…なんの理由でもいいのです。とにかく自分で納得のいく目的があること、それがマイクロコンピューターに取り組む人の備えなければならない最低条件になるのではないでしょうか。…これがブームから革命に移る過程は、自発的に、主体的にユーザーが行動できるかということにかかっていると思います」

 アスキーは彼ら三人が、主体的に行動するための舞台だった。
 個人のためのコンピューターにどうあって欲しいのか。
 この問いにより前向きに答えるために、雑誌社として生まれたアスキーはその後、次々と変身を繰り返した。
 マイクロソフトとの提携による、システム・ソフトの販売。アプリケーション。ネットワーク。半導体…。
 彼らの奮闘によって、日本はパーソナルコンピューターの黎明期から、独自性を持って早いスタートを切ることができた。
 結果的にそれが、ユーザーを利する方向に作用したか否かは別問題ではあるが。
 そしてアップルこそ、個人のためのコンピューターのビジョンを高く掲げた旗手だった。
 彼らはマーケティングの技法としても、反大型、反IBMを強調したが、このけしかけに呼応する内からの欲求がユーザーになければ、アップルがあそこまで成り上がることはできなかったろう。
 そして我々は、マッキントッシュを得た。
 だが、企業に根を張ったPCに頭を抑えられたマッキントッシュは、ビジネス市場に突破口を開くためにシステムを指向した。
 ここで、黄金期の幻想は死んだのだ。
 かつてのハッカー達の念頭には、システム全体としての運用効率といった意識などかけらもなかった。
 そんなことはIBMに大型のタイム・シェアリング・システムでやらせておけばいい。
 ところが個人のための最良のマシンをはやらせようとしたとき、彼らはシステム化、ネットワーク化に直面せざるを得なかった。すでにあるものの活用という側面を持たざるを得ないネットワークは、ある意味で自由な思想闘争の阻害要因となるにもかかわらず。
 そしてマイクロソフトがよりタフでまっとうな会社に脱皮する過程で、アスキーは同社との絆を断つ。
 アスキーはこれまで繰り返し変わってきた。
 けれど彼らの変身には一貫して、パーソナルコンピューターへの求心力が働いていた。
 だが一方で「マシンがどうあるべきか」との問い掛けがこの世界全体において意味を失い、もう一方でマイクロソフトとの訣別がアスキーから未来を選択する力を奪ってしまう中で、かつて巻頭言で謳い上げた主体性は、気がつけば彼ら三人のてのひらから砂のようにこぼれ落ちていた。
 その後の映画会社の買収やハイテクパークの開発に、オレはかつてのマシンへの求心力を感じ取れなくなっていた。
 創世の時を支配した幻想は、今はない。
 思想闘争の論点がないのだから、戦術は純粋に金勘定によって支配される。
 企業の主張ではなく、企業その物が生き残る道を指向して、誰もが誰とでも結びうる。アップル=IBM連合然り、ACEまた然り。
 けれど塚本さん、「一人の人間のためのコンピューター」という幻想は、「分子機械は理解できる」という確信が死なないように、今、復活の時をまっているのではないだろうか。
 ネットワークはまさにバイオテクノロジーのように有用であり、大きな市場規模を持ち、同時に退屈だ。
 ウイルスに冒された僕の生命は遺伝子工学で量産されるインターフェロンに左右され、文書ファイルはネットワークに乗って金銭に化ける。
 だがその一方で黄金期もまた、復活の時をまっている。
 オールド・タイマーが結集したGO社の手書きシステム、PenPointによる挑戦は、僕には解体した幻想を再び築き上げようとする試みに見えるのです。


*一九九二年の五月になって、塚本さんはインプレスという新しい会社を起こされた。
 リリースによれば、新会社の事業目的は「書籍、雑誌の出版及びパソコン関連技術開発」であるという。資本金は一億円、予定従業員数は四十名。七月には書籍を一点、十月からは平均月三冊程度出していき、ソフト付きの出版物もやっていくという。雑誌は秋をめどに発刊を検討中ということだ。
 発表文を読んでいて「ありゃりゃ」と驚かされたのは、役員の顔ぶれだ。
 井芹昌信さんはアスキーの出版部門の書籍の親分、土田米一さんは雑誌の親分、大石工次さんは営業の親分だった人だ。そしてそもそも塚本さん自身が、アスキーでは一貫して出版を担当してきた。
 少なくとも柱となる人物に関して言えば、インプレスの実体はアスキー出版局である。
 なるほど人は、アスキーから連れてきたわけか。
 では塚本さんが、アスキーに置いてきたものは何だろう。
 これまでの何と決別し、何を始められるのか。
 塚本さん、インプレスの柱となる雑誌の創刊にあたっては、そこのところを是非、歯切れの良い大きな声で聞かせていただけないだろうか。
 アスキーは各社のマシンの開発方針策定に深く関わり、OSを始めとするソフトウエアのビジネスを通じて、パーソナルコンピューターの在り方を決めてきた。問答無用で形式的に切って捨てれば、「売り物を作っている側の会社のPR雑誌もどきに、製品に関するまともな突っ込んだ論議など望むべくもない」と、ケチを付けることもできたろう。
 今回のインプレスは取りあえず、俎上に載せる対象との直接の関連は持たずにスタートされるという。ただし釈迦に説法にはなるが、業界からの広告出稿に財政的基礎を置くパソコン誌で、健全な批判精神を発揮していくのは実に厄介だ。
 ずさんであるとかとんでもなく詰めが甘いとか色々批判を浴びながらも、突っ込みには見るべきところのあった『The COMPUTER』も、休刊になるとの知らせが届いた。
 破れ去った側の片棒かつぎとしては、インプレスが何をどこまでやるかには、実に大きな期待と関心とがあるのです。


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ノートブックBTRONのデビューに
誰がなんと言おうとオレは力いっぱいの拍手を送る

 一九九一年八月七日、「俺はBTRONだ」と名乗るノートブック・マシンが発売されると新聞で読んだ。

 その翌日、行方不明の編集者から手紙が届いた。
 面識はなかったが、かつてこのおっさんが編集長をやっていた『パソコンワールド』という雑誌を、オレは毎号買っていた。編集後記や特集の切り口から漂ってくるおっさんの気配に触れるのが、ちょっと楽しみだったのだ。
 おっさんはどうやら、自分の頭で考えた痕跡のある記事を好んでいるようだった。
「A社はこういっている。一方B社の戦略はこうだ。だからあれがこうくると、こっちはこういく」
 将棋の解説者のようなこの手の戦評や、メーカーの謳い文句の垂れ流しは、おっさんの趣味ではなかった。
 結局パーソナルコンピューターとは、自分にとって何なのか。どうしたいのか。おっさんは自分の頭で考え続けたかったのだろう。
 だが何が気に入らなかったのかおっさんはその後、編集長をぷいと辞めてしまい、すぐに雑誌もつぶれた。
 もっとも〈行方不明〉というのは、コンピューター村の隅に居座り続けたこっちの勝手な言い草で、本人は健康にもその後二年間、鼻毛抜きつつ寝て暮らしていたらしい。
 その結果財布が空になったせいかあるいは寝飽きたのか、突如おっさんは起き出した。舞い戻った先が、またまたコンピューターというのは、褒めていいのかけなしていいのか評価はなかなか難しい。
 それで例の手紙だ。
 おっさんの用件は、もう六年以上も前にオレが初めて書いた小さな本に関することだった。
 当時デジタルの墓場と呼ばれていた豆単の旺文社には、給料のあらかたをコンピューターとアルコールに注ぎ込んでしまうという突然変異体が一匹棲息していた。
 こいつの口車に乗せられて、オレは『パソコン創世記』という本を書き、旺文社文庫から出してもらった。出来上がった『パソコン創世記』を手にしたとき、オレは縁側に出てちっぽけな本を掌に乗せ、日だまりの中でしみじみと渋茶をすすったものである。
 ところがあっと驚くタメゴロウもびっくり。なんとその直後に、旺文社文庫その物が消えてしまったのだ。
 オレが世間様に向けて投げ掛けたメッセージは、一般書からの撤退という旺文社の方針変更によって、あわれデスクトップのゴミ箱直行となった。在庫として持っていると税金がかかるということで、冗談じゃなく断裁されてしまったんだぜ。トホホ。本当にオレの手許にも、ほとんど残らなかったんだよ〜。ああ思いだすと、今でも胸が痛む。
 ところがオレの目の前に突然蘇ったおっさんは、「あの本は死んでいない」と、これまた唐突に言い放った。
 さらに「あのテーマも死んでいないからもっともっと書きなさい。そんなとこで死んだふりしてないで、どんどん続きをやりなさい。さぼるのは死んでからにしなさい」と、二年も遊んできた自分のことは棚に上げて、生産性向上委員のような口までききだしたのだ。
 オレはおっさんと会った後、書棚に二冊だけ残った『パソコン創世記』を取り出してそっと撫でてやった。ほんのちっぽけなメッセージではあったが、ゴミ箱行きを免れた内の一冊は間違いなく、正面から受けとめてくれる人に出合ったのだ。
「生まれてきてよかったな」と、オレはちっぽけな本に言った。
「お前もよかったな」と、二冊の本も喜んでくれた。
 BTRONの開発に携わった全ての人がこれから経験するのは、この日オレが味わったと同質の感動だろう。ちっぽけなオレの仕事に比べれば、口にするのも恥ずかしいが、彼らの受け取るものははるかに大きいに違いない。だがオレにも、その喜びの質だけは分かる気がするのだ。

 初の一般向けと称してBTRONの発売に踏み切ったのは、パーソナルメディアというソフトハウスである。カード型データベースの、レッツ アイリスの会社だ。コンピューター関係の出版もやっていて、TRONに興味を持ってきた人なら、プロジェクトの専門誌『TRONWARE』でおなじみだろう。
 だがソフトハウスの中でも、それほど規模が大きいわけではない。『日経パソコン』一九九一年一月二十一日号のソフトハウス調査によれば、年間七億円を売り上げて同社は三十八位にランキングされている。
 TRONプロジェクトには、日本を代表するエレクトロニクス企業が数多く関わってきた。
 BTRONのOS開発に取り組んだ、松下電器。膨大な費用をかけてTRON仕様のマイクロコンピューターを開発した、富士通、日立、三菱電機。いずれもコンピューターに実績を持つこれらの大企業からではなく、堂々とBTRONであることを名乗るマシンは小さなソフトハウスからまず出ることになった。
 こうなった経緯を、ざっとオレなりに振り返ってみよう。

 物事の始まりは、先鋭な美意識を持つコンピューター科学者の坂村健さんが、「このままではマイクロコンピューターのあふれる世界があまりにも醜くなりすぎる」と危機感を抱いたところから始まる。
 さまざまな家電製品や機器に組み込まれ、あるいはワードプロセッサーやパーソナルコンピューターに身をやつして、世にはマイクロコンピューターがあふれ始めた。
 だがこの増え方が、実に見苦しい。
 せっかく生活空間のあちこちに膨大な数の電子の頭脳を配置しながら、みんな互いに知らんぷりで連携しようとしない。
 一個一個が活用される時間は極めて短いし、他の連中のことをてんで無視してかかるのだから気の利いたことはできない。
 本来なら夏の西日でも差してきたら連中で相談してカーテンを占めて冷房をきかせ、ハワイアンでも流して涼しげな気分をかもすくらいのことはしてもいいはずである。また電子炊飯機とエアコン、オーディオ機器の使い方が、我慢強い人は当然というかも知れないが、ばらばらであるのも情けない。
 こんなばかな無駄使いをして、みんな恥ずかしくないのか。
 それにそもそも、さまざまなマイクロコンピューターの右総代となって人間様とのインターフェイスを一手に引き受けるべきパーソナルコンピューターが、なっとらん。
 マッキントッシュはまだしも、MS―DOSには人間とのやり取りの流儀を標準化しようという気がさらさらない。
 その結果、アプリケーションごとに使い方はばらばら。データの互換性、ファイル構造の自由度においても、両者ともに問題が多い。
 さらにそもそも、一バイトで文字を表現できる英語圏で作ったものを、後からわけのわからない文字のごちゃまんとあるところに持ち込んで二バイト文字に対応させようとするから、難しい点が出てくるし手直しの時間がかかる。
 そこで嫌でもマイクロコンピューターがあふれ返る世の中に一本筋を通すために、機器組み込み型のマシンからパーソナルコンピューター、大型、ネットワークの核となるマシンまで含めて、新たに一つの体系に基づいたアーキテクチャを作り直そうではないか、と坂村さんが言いだした。
 このとてつもない大風呂敷を広げて、TRONチップの開発という大仕事に各社を引きずりだした風雲児坂村健の手並みには、386からはセカンド・ソース(これがどんな味のソースであるかは、次項で書く)を認めないというインテルの方針も有利に作用しただろうが、オレは実際肝をつぶした。
 さらに全国の小、中学校で使う教育用パソコンというのをお上が決めるという話になり、BTRONがこいつに選ばれたと聞いた。
 学校から沸き上がる要求に応じてではなく、お上が決めてお上が配るという話にはずっこけた。
 とはいえゼロからTRONの市場を立ち上げるメーカーにとっては、間違いなく有利な決定だったろう。
 そして教育用パソコン騒動によって、BTRONのOSには、80286、386上で動く軽いバージョンが生まれることになった。
 当初坂村さんの頭にあったのは、TRONチップ上でBTRONを動かすきれいな姿だった。ところが教育用パソコンがハード面で80286を用いた軽い構成を求めたため、こいつ用にBTRON1と呼ばれるバージョンが作られた。これに伴って、TRONチップ版はBTRON2と呼ばれるようになった。
 TRONの仕様は、いいだしっぺの坂村健さんによって全て決定される。
 他のコンピューター技術と大いに異なるのは、坂村さんがこの仕様を公開する点だ。
 仕様にそって現物を作りたい人は、誰でも作ることができる。仕様をどう形に仕上げるかは自由で、そこで作り手が大いに知恵を絞り、健全な競争をどんどんやっていこうではないかという方針である。
 現実にBTRON1の開発に取り組んだのは、松下電器の情報システム研究所だった。
 各社はここからOSの供給を受けて、教育用マシンとしてのBTRONをまず送り出すはずだった。
 パーソナルメディアは、松下による開発作業を支援していた。松下はOSの核を書き、パーソナルメディアはシステム・アプリケーションと称して標準的に持たせる文章と図形のエディターを書いた。
 ところが米国通商代表部が教育用パソコンへのBTRON採用は、アメリカ企業の市場参入を阻む排他的な貿易障壁となると言いだし、通産省の腰が呆れるほどあっけなく崩れて採用は取り消しとなった。
 教育用マシンとしての各社のBTRON発売計画は頓挫した。
 OS開発にあたっていた松下は系列の松下通信工業から、教育市場向けとして80286搭載のPanacom M530にBTRON1を乗せてPanacal ETとして発売し、かろうじて意地を見せるにとどまった。
 そして大手エレクトロニクス企業の腰が完全に引けてしまった中で、BTRONの可能性を葬るに忍びないと判断したパーソナルメディアが、「俺がやる」と言いだした。
 ハードウエアは、松下電器のノートブック・マシンPRONOTEそのまま。ソフト側では文書と図形のエディターに通信ソフトをあらかじめ持たせ、モデム、ハードディスクを標準で付けて文書作成と通信にガンガン使ってくれという仕立だ。全部込みで三十九万八千円のモニター価格は、頑張ってくれたと思う。
 パーソナルメディアに潜入していじってきた印象では、16メガヘルツの386SX上でかなり軽快に動く。ただし液晶のディスプレイは、マウスへの追随性が弱い。レジューム機能も無し。TRON用語で恐縮だが、TACL(トロン・アプリケーション・コントロールフロー・ランゲッジ)が組み込まれていないので、お回しと呼ばれるアプリケーションの自動運転はきかない。
 もっと伸び伸びとした専用の器にOSを入れてやりたい気は、どうしても残る。
 ただOSレベルでハイパーテキストをサポートした実身/化身モデル(マッキントッシュをお使いの方はハイパーカードのファイル構造をOSで提供することをご想像下され)というBTRONの売り物は、とにもかくにもこのマシンで味わえるのだ。

 さらに心強いのは、パーソナルメディアの元気である。
 1B/NOTEの発売に先だって、同社はPC―9801にくっつける例の奇妙なTRONキーボードの予約販売をアナウンスしていた。アルプス電気製のこのキーボードは、マシンと前後して十月からユーザーのもとに送り届けられる。とくれば、1B/NOTEにTRONキーボードを付けたいという連中がでてくるだろう。
 次にアプリケーション。
 まず、スケジュール管理と簡単な表計算機能を盛り込んだ、電子手帳風の製品を手始めに出す。また表計算も開発中。
 80286、386で動くBTRON1と聞けば、PC―9801で動くバージョンを作ってOSだけ売ってくれないかと言いだすのが人情だ。だが残念ながら、今のところこの予定はない。松下のPanacom Mと富士通のFMRは互換なのだから、こいつ向けにOSだけ売ってくれないのかとお願いしてみたが、これも予定していないとのことであった。
 ただ驚いてしまったのは、パーソナルメディアが今回のBTRON1に続いて、近々ワークステーションに相当するBTRON2マシンの発表を予定している点だ。TRONチップのG MICRO100、200、300をそれぞれ搭載した複数の製品ラインが用意されるとのことで、低価格攻勢をかけるサンのマシン並のお値段となるだろうと、オレの責任において勝手に予測しておく。
 さらにこのBTRON2に関しては、パーソナルメディアからのOSの供給を受けて、複数の大手エレクトロニクス・メーカーからも発売される可能性が高いと、これまたオレの責任において言っておく。
 マッキントッシュを取り巻く環境がこれだけ豊かになり、安いDOSマシン上に猛烈な勢いでWindowsがのり始めた段階で、今更BTRONにチャンスがあるか。
 こう問われれば、オレはやはりあると答える。
 なぜならTADと名付けた形式でフォーマットを統一し、データの互換性を幅広く確保しようという意欲は今からでも意味を持つし、ハイパーテキストをOSでサポートしたことはなにしろ面白い。
 そして何よりも、TRONには〈理〉があるではないか。
 誰かが仕様を決めて公開し、これを評価する人が集まって形にするところで競争するスタイルはじつにフェアーである。
 マッキントッシュのシステムがいかに時代をリードしてきたとはいえ、アップル一社でハードウエアの技術革新を担うのは大事だ。結局ノートブックの発表では、マッキントッシュはBTRONにすら先を越されることになったではないか。
 でIBMとの連合とくるわけだろうが、ここには生き残りを図るメーカーの算盤勘定はあっても、より良い世界を目指す理想の旗は存在しない。
 買いたい人はマイクロソフトから買えるという意味では、Windowsはまだましだ。マイクロソフトが売っているのがマッキントッシュのシステムだったら、状況はさらに良くなっていただろう。ただOS/2からWindowsへの転換に一体どんな理があるのか、マイクロソフトにも今度じっくり聞いてみたい。
 BTRONが日本で開発されたことに、こだわりはない。
 ただオープンの旗を高く掲げたこのOSが、まずオレの棲息する日本で問われたことにはこだわりたい。
 世界に向けたBTRONのメッセージがまず日本で問われることになったのなら、オレはけなすにしても褒めるにしても背筋を伸ばして正面から向き合いたい。
 だがその前に、BTRONの開発に取り組んだ皆さん、紆余曲折はあったけれど、あなた達のメッセージがユーザーに直接とどく日が来たこと、本当におめでとうございます。


*IBM産業スパイ事件を体験していたら、池田敏雄さんは次に何をやろうと言い出したろう。
 TRONに向かって暖かい風や冷たい風が吹くたびに、心の隅の方にこんな思いが湧いてくる。
 アップルの例の訴訟に関するニュースを目にするとき、脳裏をよぎるのもこの問いだ。
 マイクロソフトのWindowsとヒューレット・パッカードのNew Waveはマッキントッシュのインターフェイスの見かけと使い勝手を真似ている。マイクロソフトはWindowsを開発するにあたって我々と交わした約束の範囲に、製品をおさめようとしなかった。著作権侵害で実にけしからんと、アップルが訴えたあの件だ。
 そんなもの一目見れば、二つともマックのぱくりに決まっている。ちょうどあんたらが、ゼロックスでアラン・ケイたちが進めた研究の成果をそのままいただいてきたのと同じだ。とこれまでさんざ悪態をついてきたこの訴訟には、一九九二年の四月になってようやくアップル側の訴えのほとんどを棄却する裁定がでた。
 ただしIBMとの大喧嘩の武器としてマイクロソフトがOSの長期戦略を組み直し、前言を詫びの一言もなく覆すのを見たためか、晴れて当然の気分が何となく重い。
 この重苦しい気分の根っこを探ろうとするとき、オレは日本のコンピューター界に現われた二人の傑物、池田敏雄さんと坂村健さんを思う。
 コンピューターの世界には、常に標準化に向かう強い風が吹いている。
 風が吹き始めたのは、この機械が巨大な計算機であることをやめた頃のことだった。
 電子の算盤なら、中身はどう作ってあれ答えがでれば構わない。途中どう珠を動かすかは機械の勝手で、答えさえ正確に早くでればいい。
 ところがやがて、コンピューターは単なる計算機であることをやめた。
 たくさんの情報が、この機械の上で比較検討され始めた。
 機械を変えるごとにアプリケーションも作り替えるのではたまらない、同じものを使えるようにできないかとなった。
 過去に先人たちが蓄えた情報の活用、過去のアプリケーション資産の利用、そしてデーターの解析による未来の予測が機械の活かし所となった。
 算盤の親玉として生まれた機械は、やがて過去と未来と対話するためのメディアに化けた。
 メディアにとって先ず問われるのは、情報が間違いなく伝わるかという点である。新しい技術によってどんな新しい特長が付け加えられたか、どんなに速くなったかといった要素は、この時二義的なものとなった。
 そして電子計算機がコンピューターに化けたこの時点から、世界には標準化に向かう風が吹き始めた。
 いったん優位を確保し、自らの技術を標準に押し上げえたものは、これによって追いすがるライバルを坂の上から見下ろしながら狙い撃ちできるようになった。
 半歩時代に先駆けて走り出し、いったん標準の地位を確保すれば、圧倒的な優位が保証された。どんぐりの背比べの中から物の弾みでひょいと頭一つ飛び出せば、後はこの空間を支配する標準化の力学が、あれよあれよというまに絶対的な強者に押し上げてくれた。
 池田敏雄さんはこうした力学にいち早く気づき、自らの奔放な発想を押し殺すドラマを演じた人だった。
 富士通のコンピューター開発史をたどるとき、池田さんの強烈な個性はいやがおうでも目に焼きついてくる。
 富士電機製造(現富士電機)の電話、通信機器部門を受け継いで同社が富士通信機器製造として設立されたのが、一九三五年。敗戦後、頼みの電話設備の需要が一九四九年からのドッジ・ラインに基づくデフレ政策によって急減する中、富士通は従業員の大幅な削減を余儀なくされた。
 そんな中で会社の未来を開く起死回生の策の一候補として、アメリカでも誕生したばかりの電子計算機にかけてみるという話が持ち上がった。
 敗戦翌年の一九四六年、東京工業大学電気工学科を卒業して富士通に入り、電話のダイヤルのメカニズムに関する解析で数学的な才能を着目されていた池田は、開発の第一歩から作業を担った。
 仕事に熱中し始めると昼と夜が逆転し、さっぱり会社に来なくなる。
 回路の設計に取り組むと、一つ決定版を作ればよいはずのものを、あらゆる可能性を論理的に詰めていくことに興味を引きつけられ、スケジュール無視で没頭してしまう。
 と池田の鬼才、異才ぶりを物語るエピソードは数多い。
 そうした中でも、一九五五年に開発部隊が見舞われた火事の思い出に関する池田自身の言葉は、彼の才能が富士通のコンピューター事業の立ち上げにとってどれほどの重みを持っていたかを雄弁に物語っている。
「二階にFACOM100がおいてあって、ちょうど窓際でFACOM128の設計について議論をしていた。と、ボーンという音がして、ワイシャツが燃えている人間が下から飛び出してきた。『それ火事だ!』と下へ行ってみると、もう火の手が上がっているでしょう。その瞬間、『いま、FACOM128の設計に関して持ち出さねばいけないものは何か』と考えたんだ。とっさに思ったことが、『あれは、回路上オレの頭の中にはいっているもの以外いらねエ』(笑)」
 だが自らの才能を思う存分ふるって計算機の設計に取り組んだ池田は後に、コンピューターの開発にあたって自由な発想を封印するという最も池田らしからぬ選択を行なった。
 一九七〇年を前後する時期、日本の電算機市場の自由化が政治日程に上ったときのことだ。
 市場の開放によってIBMに市場を席捲されることを恐れた通産省は、業界の再編成によってこれに備えようとした。富士通の専務となっていた池田は通産省からの働き掛けに対し、IBM互換のアーキテクチャを共有するという条件で、同社についで業界二位のポジションを占めている日立となら提携するとした。
 IBMの環境を標準として受け入れるこの選択によって、富士通は大型分野において唯一同社に対抗する勢力となった日本企業のリーダーの座を確保した。
 算盤の親玉であることをやめ、コンピューターはメディアになったとする池田の読みは的を射ていた。
 だがその後、IBMは自らの環境をそのままなぞる日本勢に対して強烈なしっぺ返しをくれた。
 標準に向けて強い風の吹くこの世界では、柱となるアーキテクチャの存在は不可欠だ。だが一私企業の占有技術を標準と見なそうとすれば、企業の存在理由が現世的な金勘定の追及にあるこの世では、いずれは後を追われる側、真似られる側からの強烈な反撃が待っている。
 富士通の鬼才、池田敏雄は自らの才能を押し殺すようにIBM互換路線を選んだ。そして一九七四年、パーソナルコンピューターの誕生の前夜に急死した。一九八二年のIBM産業スパイ事件は、見ることなく終わった。
 では自らの独創によって富士通のコンピューターを立ち上げながら、標準に向かう風を読んで独創を封印したこの人物は、この事件を体験したとすれば次に何をなすべきと考えたろう。
 ここで心に浮かぶのは、坂村さんの挑戦だ。
 坂村さんの舞台は、IBM産業スパイ事件の後に回ってきた。
 一企業の占有技術を標準にいただくことの問題点は、事件によってすでに明らかだった。
 インテルのマイクロコンピューターとマイクロソフトのOS、そして技術をさらすことによって陣営を固めようとしたIBMのアーキテクチャと、いくつもの公開された柱によって構成されるパーソナルコンピューターの世界は、何から何までIBMという大型よりはましである。
 ただしここでも、標準の担い手たちは独占を確保するためには、昨日の約束を違えることを厭わない。
 とすればどうするのか。
 誰かが仕様を決め、それを公開する以外ないのではないか。
 そう考えて坂村さんは、標準の確立のために独創をふるおうとした。
 日本のコンピューター界に現われた鬼才二人は、コンピューターのメディアへの変質とIBM産業スパイ事件という歴史の転換をはさんで、標準と独創を百八十度入れ替えて対置した。
 二人の本質が実に近い気がしてならないだけに、オレにとってこの対象は実に興味深い。
 標準に向かって風の吹くコンピューターの世界では、柱となるアーキテクチャがいる。
 そう気づいた池田さんは、IBM互換に転じた。あの時、あの場所では、歴史の流れを正しく読んだ判断だったろう。だが急逝した彼自身は見ることはなかったものの、その先には確実にあの事件が待っていた。
 そして池田さんが死によって取り落としたバトンを拾い上げ、一企業の占有技術によらざる標準の確立に向けて、誰かが走り出すべき時が否応なく訪れることは、歴史の力学によって決められていたのだ。
 UNIXに携わる人の中には、この役割を担おうとする志の持ち主がいた。ただし物事を包括的に、根底的に革新しようとする試みの徹底において、TRONを越える挑戦をオレは知らない。
 たとえTRONが普及という点ではよく成果を上げえなかったとしても、池田が歴史に委ねたバトンが受け手を待っている事情に変わりはない。
 標準に向かって風の吹くコンピューターの世界には、共通の財産とするのがよほど健全な基本的技術が育ってくる。
 一企業の知的所有権の縛りから、いかにしてこれを解放するか。
 IBM産業スパイ事件以降、我々はこの問いに答えよと迫られている。


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『ホームコンピューター』の虚妄を現実に変える
AMD386互換チップの宣戦布告

『The COMPUTER』から「Windows3・0は流行るか」という、いまさらなにをとぼけているかといいたくなる座談会のお座敷がかかった。
 末席をけがすとエム・ピー・テクノロジー社長の吉本万寿夫さんに、「こんな話はマッキントッシュが出た時点で、五、六年前にやっておくべきですよね」とかまされた。
 けれどそれはないよな、吉本さん。役回りが違うよな、それじゃあ。

 Windowsの話をすれば、当然いわゆるグラフィカル・ユーザー・インターフェイス(GUI)に話が及ぶ。
 どうも最近の雑誌などを読むと、GUIの源流探しはマッキントッシュ、リサとたどってゼロックス、パロアルト研究所のアルト(例のアラン・ケイ大人の作だ)あたりで止めておくのが流行りのようだ。
 だがアルトで煮詰まった話の多くは、スタンフォード研究所(SRI)でダグラス・エンゲルバートたちが進めていた研究の流れを直接汲んでいる。ディスプレイを使ってマシンと対話するように作業する基本姿勢、CRT上にテキストとグラフィックスを混在させて表示した仮想的な文書を作業対象とする概念、画面を複数の窓に分割するアイデア、マウス、そして電子メール、みんなそうだ。
 さらに思想的な背景までたどれば、エンゲルバートに物作りへのチャレンジ意欲を持たせた、ヴァニーヴァー・ブッシュの歴史的論文「思考のおもむくままに」までさかのぼるのが筋だろう。

「人類の経験の総体は驚くほどの速さで増加しているにもかかわらず、私達がその結果生じた迷路をたどって、この瞬間に重要なことがらを見つけだすための手段は、帆船時代に使っていたようなものとなんら違いがないのである」(『ワークステーション原典』所収「思考のおもむくままに」アスキー出版局、浜田俊夫(誰だこれは?)訳)

 さらに「だから何か人間が考えるための道具が必要だ」というブッシュの着想もまた、彼の独創ではないだろう。
 要するに科学が発達し、技術が増大し、人工的な核分裂が成功するわ、飛行機で世界中駆け回れるわ、後一歩で宇宙にまで飛び出せるわと、人間の経験が猛烈な勢いで増大し始めた。この溢れるような情報の波の中で、何とかその一部なりと我ものにしながら、しかも神経衰弱に至らず身を処したい。となれば、何か考える作業を支援する道具が欲しいとの願いは、時代の流れが必然的に押し出していたのだ。
 この考える作業の支援をいかに行うかというテーマの追及は、一九六〇年代からいわゆるワークステーションの源流となるアイデアと技術の開発の中で進められた。
 商業的には、ワークステーションはUNIXと結び付いて一九八〇年代初頭から台頭してくる。だがコンピューターの思想家の中でもとりわけて先駆的な連中は、これをさかのぼること二十年以上も前から、マシンを個人が所有する時代の到来を念頭において基礎的な技術の探求に取り組んでいた。とりあえず既存の枠組みの中ではもっとも小規模なミニコンピューターを使って、人が物事を考えるための環境作りを目指した。
 この成果の一部は後に、パーソナルコンピューターに比べれば多少は高くなることを許されていたワークステーションに、先ず活かされた。
 一方それとは無関係なところで、一九七〇年代の半ばに脳天気な連中がマイクロコンピューターを使えば個人がコンピューターを持てると騒ぎ始めた。このコンピューターを個人で使おうという大衆運動はやがて、知らないところで積み重ねられてきた〈考えるためのコンピューター〉の研究成果と出合った。
 リサでまず実現し、マッキントッシュで大衆化し、Windowsでほぼこの世界の住人から全面的な認知を得た現在の個人用マシンのイメージは、パーソナルコンピューターの身体にワークステーションの魂が宿ったものにほかならない。
 MS―DOSが考えるための道具作りの研究成果をなにも取り入れておらず、一方マッキントッシュを大将としたGUI派が過去四十年来の成果を味方に付けているのだから、そりゃ勝負にならんというのがオレの基本的な認識だ。
 そんなふうに考えているからして、Windows3・0の商業的成功以来やたら色々な雑誌がGUIによる操作環境の統一のメリットに初めて気づきました、といったとぼけた記事を載せているのを見ると、「何をとぼけてるんだこの。マッキントッシュは高級なおもちゃで、まともな仕事はMS―DOSでやるものだとこの五年間ほざいてきたのはどこのどいつだ」とついつい口が悪くなる。
 であるからして、GUIのメリットも語らにゃならんWindowsの座談会など、「五年前にやっとけ」という吉本さんの指摘は実に良く分かる。
 けど吉本さん、そりゃ配役が違うって。
 かつて吉本万寿夫氏は、デジタル・リサーチ(DRI)の人だった。
 8ビット時代の標準OSとなったCP/Mの会社だ。当時はDRIの天下で、IBMもPCを始めるときはCP/Mの16ビット版で行こうと当然考えた。
 ところがここの中心人物だったゲアリー・キルドールがスクエアーな連中と同じ空気は吸いたくないというツッパリ野郎で、ダーク・スーツの連中をこけにした。
 連中は仕方なくマイクロソフトに頼み込んで、ビル・ゲイツはよそから買ってきたCP/M紛いのOSを手直しして売り付け、MS―DOSの天下が何が何だかわからないうちにやってきた。
 こうして天国から地獄へと真っ逆さまとなったDRI在籍当時、吉本さんは同社版のWindowsにあたるGEMに取り組んでいた。
 パーソナルコンピューターではアップルがGUI派の親分を気取っているが、MS―DOSにこの手の環境を載せようとする流れは古く、第一号は一九八二年にビジコープが出したVisiOnだ。
 以来DRIのGEMがあり、マイクロソフトのWindowsの各バージョンがあり、IBMにもTop Viewがあった。
 MS―DOSの未来は、こうしたGUIの世界にこそ開けると確信した若き日の(今でも十分若いのだけれどね)吉本青年は、GEMの日本語化に邁進していた。
 その吉本さんがGEMはマックに似過ぎて特許侵害だとアップルが騒ぎだしたのを聞いて初めて本物に触れ、「こりゃあかん、宗兄弟じゃあるまいし」とさっさとDRIを辞めたのは業界の美談として今に語り継がれている。
「だが未来はGUIにこそあり」との信念は揺らぐことなく、エム・ピー・テクノロジーを起こした吉本さんは、Windows上でハイパーテキスト環境を実現するGUIDEにいち早く目を着けて日本語化したり、日本IBMや富士通のマシンにWindowsを載せる実質的な作業を担ったり、Windows用アプリケーションで先駆けたりと、もっぱらMS―DOSの世界でマッキントッシュに追い付けをやってきた人である。
 だから「マックから五年遅れながら、MS―DOSの世界でGUIがはやることにはこんな意味がある」てな話を聞きたかったのに、いきなり「五年遅い」じゃな。
 しかし吉本氏がそうくるなら、こっちにも考えがある。攻守所を変えて、こっちがWindowsの意義とやらを主張してみようではないか、と考えたのが約六時間前、この駄文の構成を考え始めた時点でのオレの認識であった。
 そして構想一時間、熟慮数分。オレは「ホームコンピューターの時代がくるぞ」とのとんでもない確信を、今回もまた唐突に、しかしながら実に強固に掴んでしまったのだ。

 遅れたとはいえ、正しい方向に進路を向けるのはそれはそれでけっこうである。
 だがマッキントッシュはその間に先を行く。
「追い付いた」とWindowsが称しても、あらためて両者を比べられるようになると、はなからこっち専門で来ているマックの方がずいぶん練れている。でWindowsの騒動は、案外マックのユーザーを増やす結果にも繋がってくる。
 ではWindowsというのは結局、哀れなMS―DOSユーザーの救済策に過ぎないのか。
 問題はここだ。
 結論から言えば吉本さん、オレはそうは思わない。
 標準に沿った激しい競争のあるこの世界が正しい道を選ぶことで、マッキントッシュには期待しにくい色々な可能性が生まれてくると思うのだ。
 インテルのマイクロコンピューターにマイクロソフトのOS、アーキテクチャはPC ATのいわゆる業界標準上には、ご存じのとおり厳しい競争が存在する。
 生き馬の目を抜く激戦にさらされるシステム屋は、競争に勝ち抜くために物事を徹底して素早く進めざるを得ない。安いものは徹底してより安く、小さいものはできるだけ機能を落とさずにリーズナブルな限界目指してより小さく、そして速いものはより速く。
 ただこの世界でもOS屋とCPU屋だけは独占を享受していて、ここには物事を徹底して素早く推し進める圧力は強くかからないできた。
 ところが少なくともインテルのマイクロコンピューターの独占は、崩れたようだ。(と思っていたら海の向こうのアメリカでは、墓場からよみがえったDRIがMS―DOS互換のDR DOSで、マイクロソフトの首筋に匕首を突き付けるからこの世界は面白い)業界標準の基礎構造は、今、音を立てて揺れている。
 この記事の発表直後に開かれる一九九一年秋のコムデックス(春と秋、アメリカでやっている業界のショーである)の会場を満たしているものは、インテルの386独占の壁が崩れる轟音だろう。
 そしてこの日を境に、業界標準のハードウエアにかかっていた進化への大きな圧力は、いっそう強まることになる。これによってさらに加速したあげく、AT互換アーキテクチャはパーソナルコンピューターの枠を越えて家電にはみ出してしまうと、オレは今考えている。
 壁を突き崩した反逆者の名は、AMD(アドバンスト・マイクロ・デバイシズ)である。
 フェアチャイルドをしっちゃかめっちゃかの大騒ぎのあげくに飛び出したシリコン・バレーの名物男、ジェリー・サンダースが一九六九年に創設した、アメリカで五番目の規模の半導体メーカーだ。
 チップ界の松田聖子とでも言えばいいのかな、とにかくはでなエピソードだらけのサンダース率いるAMDは、これまで思わず大笑いの奇抜な広告や超特大クリスマス・パーティなんぞで話題を集めてきたが、基本戦略は地味にセカンド・ソースにおいてきた。
 ほんの数年前の話が古代史になるこの世界ではみんなもう忘れちまったろうが、かつてシステム屋はマイクロコンピューターのメーカーに二次供給源を要求した。
 インテルならインテルに、X86と全く同じ製品を他社にもライセンスを与えて作らせるように求めていた。一社に全面的に依拠すれば、納期や価格面で交渉力を失いかねないからだ。
 だがX86を業界標準に据えることに成功したインテルは、誰もここから逃れられないと見るや386からはセカンド・ソースを置くことを拒否した。
 ところが一九七六年にインテルと広範な技術の交換契約を交わしていたAMDは、386の市場独占の打破を狙ってセカンド・ソース戦略を攻撃的なものへと一変させた。
 十年間有効なこの契約(その後さらに十年間延長したことで、AMDは一九九五年までこれが継続すると主張する)によって、AMDは386のマイクロコードをコピーして互換チップを製造し得るとし、インテルの独占を打破すると宣言したのだ。
 この386殴り込み戦略で腹を決めたAMDは、互換チップの方向づけを、処理速度の向上と低消費電力化に定めた。
 一九九一年三月、AMDは初の386互換チップ、Am386DX―40とAm386DXL―40の量産出荷を開始した。
 型版の40が示すとおり両者とも初の四〇メガヘルツ版で、この時点では最高速の386だった。そしてDXLとLのついた側は、AMDがもう一つの柱とすえる低消費電力という特長を備えていた。動作周波数を変化させてクロックを止めてしまうことも可能なスタティック設計を採用することで、DXLはスリープモードの消費電力を〇・〇八ミリアンペアにまで抑えたという。さらにAMDは386互換製品のライン・ナップを拡充していった。
 一方インテルは先ず、386という名称は自社の登録商標でAMDに使用権はないと裁判で訴えたが、三月これを退ける判決が下った。さらにインテルはコピーしたマイクロコードの製品への組み込みの可否を巡ってAMDと法廷で争っているが、同様の権利が80287コプロセッサーの訴訟で認められた経緯から見れば、今後予定される裁定でAMDの386互換チップが法的お墨付きを得る可能性は高い。
 システム屋にとってみれば、AMDのチップを使ったはいいが後から特許侵害となってインテルの機嫌を損ねたのでは大事になるゆえに、互換チップの採用の件はこれまで一切水面下に潜ってきた。
 だが先頭を切ってAMDチップの採用に踏み切ったASTリサーチに続いて、一九九一年の十月二十一日から開催されるコムデックスでは、新たな386互換チップ採用の声が上がるだろう。さらにAMDは、従来五ボルトで動作してきたマイクロコンピューターの電源電圧を三・三ボルトに落とす新しい提案を、コムデックスにぶつけてくる。
 一方インテルにも、低消費電力版には一九九〇年十月に発表した386SLがある。
 同じくスタティック設計を採用して、ATの機能のほとんどをたった二つのチップに押し込んでしまったこの製品を使ったシステムも、コムデックスでは見えてくるだろう。
 要するに386の独占が崩れた後にくるものは、より速くより電力を食わないチップをより安く提供する、インテルとAMDのマッチ・レースである。
 ここで誰もが考えるのは、フル機能を備えたラップトップとノートブックの出現だ。これは当然そうなる。さらにオレはこの流れに沿って、〈ホームパソコン〉が成立してしまうとほざく。
 昨日まで〈ホームパソコン〉と聞くと、そんな言葉を口にした輩に素早く真空跳び膝蹴りをお見舞いしたオレが、なぜそう考えるに至ったか。諸般の事情で本論はみな、次項送りとさせていただく。
 ただこれではいくら何でもあんまりなので、アウトラインだけ手短に書く。
 ホームパソコンはこれまで言葉があって実体がなかった。
 河童と一緒である。
 偶然に家庭に置かれていたとしても、あくまで誰かのマシンがたまたま家においてあっただけだ。
 河童には背景に水に対する恐怖があるが、ホームパソコンの裏にあったのはカアチャンにマシンを売り付けたいという商魂だ。
 だがインテルとAMDの競争を通じて加速する低消費電力化を巡る技術開発は、すぐにデスクトップ・マシンにも生かされるぞ!
 そのアプリケーションの一つは、二十四時間けっして電源を落とされることのないマシンだ。この眠らないマシン(いや、スリープ・モードだから眠るのかな)は、とりあえず留守番電話とFAXを取り込んでホームコンピューターを成立させるという素晴らしいお話が次に展開されますので、皆さんまずは秋のコムデックスの速報を読んで、オレの予想が外れていたら大笑いしててね。


*前項の言い訳にしつこく書いたとおり、コンピューターの世界では今、企業の私的所有の縛りからできるかぎり離れた標準を確立することが問われているとオレは考えている。
 であるからしてTRONのような挑戦には基本的に賛同するところ大であるし、次善の試みとして互換勢力の台頭にはまずもって拍手を送る。
 もう一方で、オレの住んでいるこの世の中では、知的所有権を主張して真似ようとする者を叩く権利が認められている。特許権、著作権を最大限有利に活用して儲けようとすることは、企業の論理の枠組みでは当然の振る舞いだ。
 ただしこの世界には、企業の法務部的な価値観以外存在しないわけじゃない。
 標準に向かって吹く風が共有すべき要素を不断に押し上げてくるのなら、これをいかにして企業の所有の縛りから外すかと考える見方も、存在意義を持っている。
 この点を確認したうえで、AMDとインテルの企業間抗争に関しこの原稿で言葉が足りていない点、不正確な点を正したい。
 一九七六年に交わした広範な技術の交換契約によって、インテルの開発したマイクロコードを利用する権利を与えられていると判断したAMDは、これを利用してまず数値演算用の80287の互換コプロセッサーを開発し、販売する方針を固めた。
 これを知ったインテルは、一九九〇年四月に、著作権侵害の訴えを起こした。
 この訴訟が決着を見る前に、AMDは同年六月、互換製品の販売を開始した。
 そこでインテルはすでに提訴済みの著作権侵害訴訟に加えて、AMDの互換製品の販売を中止させる訴えを裁判所に求めた。
 これを受けて八月、連邦地方裁判所のウィリアム・イングラム判事はAMDに対し、インテルの著作権を告知すること、製品が80287と同等、又は完全な互換性があると表示すること、同社がインテルから特許の使用許可を得ていると謳うことを禁止する命令を下した。
 ただし命令ではこの三点のみが禁止され、販売の差し止めは指示されなかった。
 そこで私は、この三点を控えればAMDは80287互換製品を販売できると認められたと考えた。
 この判断に基づきこの原稿では、「インテルはコピーしたマイクロコードの製品への組み込みの可否を巡ってAMDと法廷で争っているが、同様の権利が80287コプロセッサーの訴訟で認められた経緯から見れば、今後予定される裁定でAMDの386互換チップが法的お墨付きを得る可能性は高い」と書いた。
 しかし一九九二年五月になって本筋の著作権侵害の訴訟に対し、連邦地裁陪審は「AMDが80287互換コプロセッサーにインテルのマイクロコードを利用したのは不法である」との判断を下した。
 AMDはすでに発売済みの386互換プロセッサーと一九九二年夏にサンプル出荷の開始を予定していた486互換プロセッサーにも、インテルのマイクロコードを使用していた。
 今後の法定闘争の推移によっては、同社は386、486互換プロセッサーのマイクロコードを著作権に抵触しないものに切り替えるなど、インテル互換戦略の大幅な見直しを迫られる可能性がでてきた。
 AMDがすっきりインテルの独占を打破してくれるだろうとのオレの読みも、これによって揺らぐ事になった。
 AMDのX86互換への挑戦は、その後チップス&テクノロジーズ、サイリックス、テキサス・インスツルメンツといった追随者を生み、競争相手の出現によってインテルは製品の大幅な値下げを迫られた。
 大枠ではインテルの独占の打破という流れは、むしろ勢いを増している。ただしそうなればなおのこと、知的所有権をたてにしたインテルの反撃は強まるだろう。
 この土俵上での争いは、現在の法的な枠組みに従って裁かれ、結論が出される。
 ただし我々には、企業の知的所有権戦争の枠組みとは別の次元で、標準の技術を私的所有の枠の外に育てる権利と義務がある。


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二十四時間営業パワーセイブ『ホームコンピューター』に
明日の我が家の電話番は任せたぜ!

 前項のケツに「秋のコムデックスの速報を呼んで、オレの予想が外れていたら大笑いしてね」などと書いたら、これが見事に外れた。
 でここで知らん顔を決め込むのも、実に芸がない。
 サルの二郎君だって反省のポーズくらいしてみせる。しらを切るのは長谷川慶太郎くらいのものだ。
 そこで今回は先ず、オレが何を予想してそれがどう外れたかを明らかにし、我が身の間抜けさを満天下に示すところから始めたい。
「えらく殊勝じゃないか」って。
 ふん。謝ると見せて、結局は最後で居直ってしまおうって魂胆よ。

 ちょうど一年前の一九九〇年秋のコムデックスで、アメリカの半導体メーカーAMDは、386互換チップのデモをかまして話題を集めた。
 コンパックやIBMをはじめとする各社のマシンから386を引っこ抜き、代わりにAMDのチップを突っ込んでアプリケーションを走らせ「ほら、互換でしょ」とやった。
 80286まではセカンド・ソースを置いていたインテルは、386からはこれをライセンスしないとした。
 おかげでインテルから逃げられないシステム・メーカーの立場は、相対的に弱くなった。
「ちょっと最近インテルは態度でか過ぎるんじゃないか」と文句をたれていた連中にとって、この互換チップの登場は福音だった。
 本当に互換で特許関係の問題もないのなら、値段によってはこっちでいく手もある。
 AMDには低消費電力という付加価値もあるという話なので、ノートブックではこれが生きるかも知れない。それに第一、互換チップが登場すればそれだけでインテルとの交渉にあたって腰の構えも違ってくる。
 AMDの互換チップのデモが話題を集めた背景には、こうした事情があった。
 そして一九九一年三月、AMDは386互換チップを、続いて七月には386SX互換チップを量産出荷し始めた。
 これらを使用したマシンも、すでに登場した。
 このAMDの攻勢に対し、インテルは互換チップが著作権を侵害しているとして裁判に訴え、その決着は最終的にはついていない。けれどいくつか並行して進められた関連訴訟は、AMD側に優位に決着してきた。
 さらにAMDは一九九一年秋のコムデックスでマイクロコンピューターの電源電圧を落とす新しい提案を行うという話だったので、「これは話題になるぞ」とオレは踏んだ。
 ところがひょんなことから三途の川の川守りをしながら送られてくるレポートを眺めていると、次第に脂汗が落ちてきた。
 ノートブック型マッキントッシュ、パワーブックのラインナップを始めとするアップルの新製品、各社からぞろぞろ出てきた手書きのペン・ベースのシステム、いわゆるマルチメディア関連、Windowsアプリケーションに「 Count on it ! 」といった話ばっかりで、AMDのAの字も聞こえてこないじゃないか。
 インテルのチップの独占体勢が崩れつつあること。AMDが打ち出した低消費電力という特長が幅の広い可能性を持っていること。以上二点に関するオレの認識は、秋のコムデックスのレポートをざっと眺めた現時点でも全く変わらない。
 AMDは一九九一年九月、イギリスに本社を置くエデン・グループがペン・ベースのVPi386に二十五メガヘルツ版のAm386SXLを採用したと発表した。

「VPi386は、CPUとしてインテル製386SXあるいはAMDの386SXL―25のどちらでも採用可能だが、製品性能と電池寿命を特徴とするためには、AMDの製品が最適である」

 リリースはエデン・グループの技術部長ニール・フリントの発言をこう引いている。
 二十メガヘルツ版の386SXに変えて二十五メガヘルツ版のAM386SLを採用したことで、VPi386の性能は二十五パーセント上がり、電池寿命は十五パーセント長くなったという。今後AMDの互換チップの採用によってノートブックに同様のメリットを与えようとするメーカーはやはり、確実に出るだろう。
 さらにインテルの386独占の打破には、チップス・アンド・テクノロジーも名乗りを上げた。
 だがそれにしても前項で「秋のコムデックスの会場を満たしているものは、インテルの386独占の壁が崩れる轟音だろう」なんて書いちまったものな。
 だがコムデックスの会場に駆け付けた記者の目がどんなに節穴であろうと(我ながら芸のない開き直りだ)、今後もいやというほどお世話になる386を多様化しようとするAMDの試みは、とてつもない衝撃力をもっているとあらためてオレはここで叫んでおくぞ。

 コムデックスの会場では早くもミップスのR4000(吉野家流でスピードを稼ぐ、例のRISC方式のマイクロコンピューターだ)の上でWindowsNTが動いていたそうで、これはこれで実にたまげた話ではある。
 だが、マイクロコンピューターに与えられた課題は、処理速度の向上だけではない。
 ATバスと386とMS―DOSはパーソナルコンピューターの規格としてもまだまだ生き残り、さらに事務機器や医療機器、自動販売機や家電などに潜り込んでいつまでたっても死にゃあしないゾンビ化すると考えているオレは、386に安くなる圧力や新しいメリットが付く圧力がいかにかかっていくかに大いに興味がある。最近どうしてもAMDに目が行くのは、そのためだ。そして実際に386上に競争が生まれ、低電力消費といった新しい特長を備えたチップが登場してくると、ゾンビ化したPCの姿形に関する妄想がふつふつと沸いてくる。
 高速の386がパワーを余り喰わなくなり、しかも競争によって安くなる可能性があるとすれば、誰でも望むのは電池の持ちの良い安くて速いノートブックである。
 この手のマシンはきっと「Windowsくらいガンガン走らせまっせ」と言ってくれるだろう。
 だがお楽しみはここからだ。
 ノートブックで煮詰められたパワー・セイビングの技術は、めぐりめぐって電話にまつわるオレの欲求不満を解決してくれるだろう。
 オレが待ち望むこのPC電話番は、家庭にコンピューターを持ち込むはじめてのまともな圧力をかけることになる。
 オレが日常的にもっとも長く使っているマシンのハードディスクには、かなりの分量の住所録が収まっている。
 こいつに火が入っていれば、電話機に登録していない番号はそこから拾ってくる。
 ところがオレの机の引き出しには、名刺がごっそりつっこんである。
 ああ、あいつの番号は入れといたのになと思いながら、オレは時にこの名刺の山をひっくり返す。
 なぜならその時、オレのマシンは立ち上がっていないからだ。
 アプリケーションなどごそごそ動かしているとき、このデスクトップのマシンにもレジューム機能がついていればなあと思う局面は多々ある。ノートブックで開発された、マシンのオン・オフを一瞬に、それこそテレビのスイッチを扱う感覚でこなす機能だ。
 おまけに仕事を中断したその時の状態にドンピシャで戻れるのだから、こいつは憎い。
 ところが目の前のマッキントッシュにはこれがない。
 かなりできの良い個人情報管理ツールのハイパーカードに全面的に依拠しきれないでいるのは、要するにオレのマックがしょっちゅう眠っており、こいつを起こそうとするとハードディスクを回し、メモリ・チェックをかけ、システムを読み込んでと、とんでもなく時間がかかるためだ。
 さらにこのマシンにはFAXモデムというやつがついている。
 コンピューターからよそのファクシミリに、直接書類を送る小道具だ。
 送信前のデータ圧縮時には他の仕事を受け付けないが、一応バックグラウンドで送受信可能である。何か他の仕事で使っている最中も、送ったり受けたりをこなす。
 仕上がりのきれいさや手軽さから、オレはけっこうこいつを愛用している。ところがFAXモデムのとなりにはなんと通常のFAXマシンが鎮座ましましていて、狭い机をさらに狭くしている。
 こんな間抜けをやらかしているのも、これまたマックが寝るからだ。
 加えて何の意味があるのかはしらないが、オレのうちには留守番電話が二台ある。
 電話に関してはこんな具合に屋上屋を重ねてその上にドームまで被せたような日々を送っているオレは、一年ほど前にオンスペック社というところがモデムとFAX、ボイスメールの機能をPC用ボードにまとめたFAX―O―FONEという製品を出したと聞いて、指パッチンをかました。
 こいつはPC XTまたはAT上で動作し、相手の信号が音声か、FAXか、コンピューターのデーターか自動的に識別してしまう。もちろんオートダイヤル、電話帳などの機能があって、自動受信、保存後の転送などが可能。さらにこれらをバックグラウンドで処理してくれるという寸法である。
 こいつはいいではないか。
 この手のボードがどんどん出てくれば、ゴミ箱をひっくり返したような私の電話生活にも筋道というものがついてくるのではないか。
 電話機商売で味を占めた日本のメーカーは、押された番号によって各社の電話回線のなかから一番安いものを自動的に選ぶα―LCR機能というやつをくっつけて電話を買い替えさせようと企んでいるが、こんなものはソフトウエアの追加ですませられるではないか。
 国際電話をかけるたびに「あそこの国番号は何番だ」とわめき散らす必要ももはやなく、静かにカントリー・コードの一覧表のウインドウを一つ開けば良いではないか、と考えたのである。
 けれど電話回線にぶら下げている全ての機能をマシン上に統合しようとすれば、これは当然のことながらマシンに眠ってもらうわけにはいかない。
 とはいえ付けっぱなしのマシンが、がんがん電気を喰って暖房器代わりになるのではこれまたぞっとしない。
 精神衛生上もディスプレイには消え、ハードディスクには止っていただきたい。
 そして電話回線から信号一つ入ってくれば、はたまた一度キーが押されればパッチンと目を開いて欲しい。
 こうしたマシンを実現しようとすれば、ノートブックで煮詰められ、マイクロコンピューターの低消費電力化によって拍車がかかろうとしているパワー・セイビング技術の動員は不可欠である。
 こうした電話関連の機能をうまく統合してみせ、しかも眠らなくなったとき、始めてパーソナルコンピューターは家庭に入る資格を得るのではないか。
 この手の機械は、FAXと留守番電話とワープロを統合した専用機としても登場するかもしれないが、ばらばらのインターフェイスが並び合うのはオレの趣味ではない。マックでも、Windowsでも、TRONでも何だっていいのだが、できればいくつかの流れに収まっていて欲しい。
 ここでようやく千々に乱れたこの駄文は、前項のそもそもの問題提起に戻る。「Windowsは五年遅れのマックの真似か」と前項のオレが聞くのなら、「そうだよ」とこの場のオレは答える。
 だが激しい競争によって、物事を素早く徹底して進める圧力のかかり続けるPC上のWindowsには、いささかいびつなマックの真似にとどまらない可能性がある。ATアーキテクチャがPCの世界を越えて我々の生活のさまざまな局面に浸透する過程で、Windowsには多様な機器の標準インターフェイスに成り上がるチャンスがある。
 家電製品が横並びでずらりとかぶるお面の候補に、一番近いのはWindowsだ。


*一九九二年の三月にサンフランシスコで開かれたマルチメディアとCD―ROMに関する会議に、ソニーはCDにおさめた情報を引き出すための小道具を出品してきた。
 そのアウトラインを報じる記事を読んで、「家電製品が横並びでずらりとかぶるお面の候補に、一番近いのはWindowsだ」と書いたこの原稿のことを思い出した。
 あの時ボーッと考えていた道筋に、この小道具はいち早く一歩を踏み出したように思えたからだ。
 出品されたプロトタイプはちょっとした本くらいの大きさで、蓋を開くと液晶のディスプレイとキーボードがついている。最近では電子辞書の類がすでにいくつか商品としてでているが、こいつには通常の大きさのCDをかける。
 もともとは音楽用に開発されたCDをコンピューターの情報媒体に使うにあたっては、データーの取り扱いに便利なように機能の拡張が試みられてきた。このプロトタイプに採用されたのは、そのうちのCD―ROM XAと名付けられた方式だ。
 開発コードネームは、ブックマンという。
 気軽に持ち歩けそうなこの小道具で、文字やグラフィックス、サウンドなどの組み合わせによる情報を、どこででも引き出してくださいという寸法だ。
 音楽用のCDも、こいつで聞くことができる。
「なるほどな」と思ったのは、このブックマンの中身がIBM PC互換機である点だ。
 16ビットのインテル互換のマイクロコンピューターが使われており、MS―DOSはROMにおさめて組み込まれている。このPCにCD―ROM XAの駆動装置を組み込んだのがブックマンの実体だ。
 中身がPCなのだから、当然PC用のアプリケーションが走る。
 こうした電子辞書もどきの小道具を作るとなれば、一から専用の仕立てを用意したってよさそうなものだ。だがブックマンは、アプリケーションやプログラマーの開発経験など、PC上に築き上げられたさまざまな資産を引き込むことを狙ってあえてこの道を選んだ。
 それゆえCDにおさめた情報の検索方式をどう設定するかは、アプリケーションの提供者に任される。CDには引き出す情報そのものに加えて参照、検索のためのプログラムがおさめられ、ブックマンはこれを実行する。
 こうした形にもっていけば、ブックマン用に開発されたタイトルは、CD―ROM XAのプレイヤーを繋いだPCでも利用できるというわけだ。
 表向きは新手の情報機器、しこうしてその実体はPCといったブックマン流のアプローチは、ここで触れている電話絡みのマシンでも今後しばしば採用されるだろう。
 大手の家電メーカーは最近、家庭にもファクシミリを売り付けようと躍起になっている。大型のディスプレイを備えたり、留守番電話、コードレス電話と組み合わせたりと、ファックスの多機能化も進められている。どうせどこかでもうプロトタイプが出来上がっているだろうが、そのうちにこいつは間違いなく絵の描けるワープロと一緒になる。
 こうした製品のアウトラインを示してさあ作れと技術屋に要求すれば、健全な常識をもつものはPCアーキテクチャの利用を考慮するだろう。
 さらにブックマンには、もう一つなるほどと納得させられる要素があった。
 裸のままのMS―DOSでは、インターフェースの作り方は全面的にアプリケーションの書き手に任されてしまう。使い方の流儀はこのためにばらばらとなり、ユーザーは嘆き、出版社はマニュアルを引き写したような実用書で儲けてきた。そこでマッキントッシュというお手本にならって使い勝手をそろえようとするのが、例のWindowsである。
 中身はPCのブックマンのインターフェイスは、それゆえタイトルの提供者の流儀にしたがってばらばらとなる。
 ただMS―DOSにもWindowsを載せようというご時勢なのだから、このままじゃ芸がない。と考えてソニーの開発スタッフは、マイクロソフトに連絡をとった。
 こうしてブックマンにも、マイクロソフトの手になるマルチメディア・ビュアーと名付けられた基本ソフトが提供されることになった。
 この実体は、Windows用に開発された、参照とオーサリング(タイトル作り)のためのプログラムである。
 タイトルの提供者は、MS―DOSのレベルで自分流の参照と検索のための環境を用意することもできる。加えてマルチメディア・ビュアーを利用すれば、Windowsの流儀にしたがった出来合いの環境も利用可能である。
 まさに新手の情報家電をPCの資産を活かして作り、Windowsで仕上げの化粧を施そうというわけだ。


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ある神経症患者の告白!
コンピューター一九九一、ここが私は怖かった!!

 黒澤明の一九五五年の作品に、「生きものの記録」というビョーキ的映画がある。
 ビキニ島でアメリカが行なった水爆実験で、第五福竜丸が死の灰を浴びたのが前年。実験と称して、大気中で米ソがドンパチぶっぱなす原水爆への不安に真正面から取り組んだ作品で、これが実に重苦しい。
 話の大枠はこうだ。
 叩き上げから鋳物工場を起こした初老の主人公は、原爆、水爆が恐ろしくてしょうがない。
 このおっさん、人が死ぬことへの諦めはついている。だが気流の関係で世界に降った死の灰の吹き寄せる谷間になるという日本で、なす術もなく放射能になぶり殺されるのがたまらない。自分の才覚一つで人生の荒波を乗り切ってきただけに、手の届かない何かにたやすく首を捻られるのがやりきれないのだ。
 そこで巨大な地下シェルター作りを試みて失敗し、それにもめげず妻子から複数の妾総ぐるみで最も安全性の高いと信じるブラジルへの移住計画を腕力で推し進める。
 ところが父の暴走に呆れ、財産の無駄遣いにおびえる子供らは、おっさんを準禁治産者とすることに成功する。財布の口を絞められて追い詰められたおっさんは、息子たちの退路を断つために工場に火を付け、ついに精神病院に閉じ込められて幕となる。
 この映画は、どうにも〈名作〉の範疇には入らない。
 我妻アキコは「ああ、辛気クサ」とほざいたかと思うとすぐに横で船を漕ぎ始めたが、それも凡人には無理もない。
 核に対する恐怖に限らず、恐れを表現することは実に厄介だ。本当はそんなものへとも思っていない表現者が、客を怖がらせようとする作品なら成功率は高い。だが「生きものの記録」を撮った黒澤は、本当に核を恐れている。
 スクリーンの裏から悲鳴が聞こえてくるようで、これでは有料の拷問だ。
 一九九一年は我が人生における厄の総決算となった一年だったが、この「生きものの記録」に付き合わされたのも、まごうかたなき凶事であった。
 ここんとこいっぱしのおっさん面で世の中に出張ってはいるものの、オレは実際のところかなりビョーキである。なにしろ餓鬼の頃は寝小便をかますたび、周りから文句を付けられる前に先回りして半日泣き暮らしたという先天的トラウマ増進性精神虚弱体質である。
 おまけに思春期には終末幻想が亢進し、あんまり死ぬのが怖いので自殺まで考えたほどだ。
 ここのところは老化に伴う神経の鈍磨が幸いして穏やかな日々を送っていたものが、あの映画から今年はどうもいかん。以来世の中のあれやこれやが不安の種となって、コンピューター界の動きも一つ一つがどうにも恐ろしくてたまらない。
 そこでこれはもう、オレもブラジルにでも逃げるしかないかなと思ったのだが、いつかあの国でマッキントッシュの互換機を作った連中がいてアップルコンピュータが血相を変えたという話があったよな。そうか、どうせこの世では核からもコンピューターからも逃げ切れるものではないか。
 とすりゃあこのオレも、無理を承知で我がコンピューターに対する恐怖を高座にかけて、原稿料でも稼ごうか。てなことで今回は、一九九一年私が怖かったコンピューター事件ベスト3で一席だ。

 第三位、Windows3・0勇気を出して始めての告白事件
 アメリカ市場向けに一九九〇年五月から出荷され始めた段階で、すでにその兆しはあった。
 あれよあれよという間に、海の向こうでは何百万本単位で売れ始めたという話を聞かされている最中も、心の底には小さなとげが引っ掛かっていた。こんなことで大丈夫かなとの思いは、はなからあったのだ。
 それが一九九一年三月になって、日本電気が鼻を切ってWindows3・0日本語版の出荷を開始してからは、もうどうしようもない。
 オレはWindows3・0が、たまらなく恐ろしくなってしまったのだ。
 いや、まてまて。恐怖の核を押さえて的確に表現することの困難を思いだせ。そうだそうだ。Windows3・0そのものが怖かったというのとは、少し違う。根っこにあったのは、マイクロソフトおよびこれまでパーソナルコンピューター市場にMS―DOSマシンを売り込んできた連中の命運だ。
 連中はせっかくこの十年間うまく立ち回ってきた。
 紆余曲折はあったもののIBMは小型機の市場に地歩を築き、日本電気はスーパータワーをおっ建てた。PC互換機は数多の企業にビジネス・チャンスを与え、マイクロソフトはもはや神だ。
 ところが、一九九〇年代に入ったかと思った途端Windows3・0だ。
 これではDOS組は全て、死の灰になぶり殺される哀れな鋳物工場のおっさんとなるのではないか。しかも連中は死の灰を撒き散らすWindows3・0という核爆弾を、自らの手で何百万発もぶっぱなしてしまったのだ。
 そもそもいかんのは、Windows3・0の純情だ。
 これではまるでマッキントッシュにあてたラブレターではないか。新任の美人英語教師にあてて中学二年の鼻たれ小僧が書いた、愚直な作文ではないか。「マッキントッシュ先生、僕はあなたのことが大好きです」とパッケージのくるみに印刷しちまったようなものではないか。
 だがあらためてWindowsの開発史を振り返れば、3・0になって商業的に大成功を収めた段階でそんなことを言い出しても、しようのない話なのかも知れない。釘を刺すのなら、一九八三年に刺しておくべきだったのだ。
 一九八三年の初め、すでにIBM PCの大成功によってMS―DOSを地球を回る軌道に乗せ終えていたマイクロソフトは、よりまともなマシンの操作環境の実現を目指してWindowsの開発をスタートさせた。
 手本は、ゼロックスのパロアルト研究所で進められていた研究成果の中にあった。
 この手の話はオレ自身すでに百回ほど書いた。
 読者もすでに千回は読まされたと思うので手短にいく。
 同じ手本を下敷きにしたアップルはすでに、一九八三年の一月にはリサを発表済みだった。さらにアップルは高いリサが商業的には失敗したところで、翌一九八四年一月にちったあ安いマックをぶつけ、苦しい時期もあったがこれを独力で一大勢力に育て上げた。
 一方プロジェクト開始当時のかなり貧弱なハードウエアで、MS―DOSにかさ上げしてマルチタスクまで実現しようとしたWindowsの開発は滞る。そのうちにMS―DOSに続いてWindowsでもいいお客になってもらおうと思っていたIBMは、「そんなにもたもたしてるんなら自分で書くもんね」と言い出してTopViewなんて代物を持ち出してきたのも、Windowsにはつらかった。しかもマックはその間、DTPといった新しいアプリケーションの世界を開いていく。
 アプリケーションの書き手としての立場もあるマイクロソフトとしては、Windowsでやりたいことをいち早くきれいにやってみせたマックにはやはりプログラムを書いてみたい。書けば面白いものができるし、製品も売れる。幅広い層にマシンを使ってもらうには、この手のユーザー・インターフェイスが本命との確信は、ますます強くなる。
 一方でMS―DOSのビジネスを大成功させながら、一九八〇年代を通してマイクロソフトは先行するマックへの憧れと距離感とに心を引き裂かれ、思春期の純情な少年の胸を焦がしていった。
 そして一九九〇年代初頭、Windows3・0の商業的成功によって、マイクロソフトはついに胸のつかえをはらすことになる。
 けれどあらためて幅広い支持を得るに至ったWindowsを見直してみると、手本が同じなんだからしょうがないとはいえマックそっくりだ。これじゃあまるで、マックへのラブレターだよな。おまけに先ずWindows3・0の目玉となるアプリケーションとしてマイクロソフトが出してくるのが、マック用にかねてから提供してきたワードやエクセルだもんな。
 それでもまだアメリカでなら、「実はあれが好きで好きでたまりませなんだのや」と白状してMS―DOSがマックに追いすがることにも意味がある。
 なにしろ激しい競争の存在するDOSマシンは、安くて速い。ここにWindows3・0で〈うまい〉が加われば、吉野家だ。先行したとはいえ公家育ちのあちらは、お高くとまっているし小回りの利かないきらいがあるもんね。
 けど日本ではWindows3・0はいかんいかん。DOS/Vなんて代物が出てきて構造変化の兆しはあるものの、これまでここでは日本電気の専有アーキテクチャーの独走を背景にDOSマシンは高値維持に成功しており、メーカーはどこもそれなりにいい思いをしてきたのだ。それにもましてマックが馬鹿高かったために、先進的なこのマシンもうまく抑え込んでこれたのだ。
 ところがWindows3・0で、こうもあからさまにマックへの愛を満天下にさらしてしまったのでは、どうなるのだ。
 さしものあほなユーザーも、「何だそうだったの」と気づいてあっちに目を向けてしまうではないか。さらに翻って、「なら後発のあんたらはもっと安くしなくてはいかんよ」などと言い出すかも知れないではないか。
 この恐怖にDOS組が震えないとすれば、それまた恐ろしいよー。

 第二位、アップルコンピュータ衝撃の合体事件
 七月、アップルコンピュータがIBMと組むと言い始めた。
 さらに十一月の末には、ビル・アトキンソン等のジェネラル・マジックで開発を進めてきた二十四時間世話焼きマシンの製品化にあたって、ソニー、モトローラと提携するのだと言いだした。
 この新しいマシンの詳細は明らかではないが、いずれにしてもマックOSとの連係プレーを演じることだけは間違いないだろう。
 当初からマックにはたくさんの日本製部品が使われてきた。中でもソニーは数多くのパーツを提供してきたが、パワーブック100ときた日にはさらに一歩進んで、ソニーのOEM(小さいところがやると下請けは下請けだが、大きいところがやるとこれがOEMという名に化ける)だ。
 かねてからジョン・スカリーはアップルコンピュータのソフトウエア企業への転換を口にしてきた。それがここに来て、具体的に明らかになってきたということだろう。
 マイクロソフトにとって最大の恐怖は、アップルが清水の舞台から飛び降りてハードウエアを断念し、ソフトウエア企業に一気に変身してしまうことだろう。
 だが、そいつはアップルにとってもどうにも怖すぎる。まずは従来抑えてきたハードウエアの領域は確保しながら、一番高く売り付けられそうな相手を選び、しかも自分の確保している領域は外して売り付けようという目論見だろう。
 そこで出てきたのが、一段上のRISC(吉野家)レベルでのIBM。現状では低価格のノートブックはソニーからのOEMにとどまっているものの、ここから下のジェネラル・マジック関連はソニーを筆頭とする世界のメジャー家電企業に売り飛ばす。ノートブックだって、ソニーが高く買ってくれるなら売るのではないか。
 だがこれじゃあまるで金ピカのスーパースターの合体、マドンナとマイケル・ジャクソンの結婚じゃあねえか。
 かつて大衆的なマージー・ビートのうねりにのって出てきたビートルズが〈二〇世紀の偉大な音楽家〉にされたんじゃ、ジョン・レノンも草葉の陰で泣くだろう。そんなことは、オレだって許さねえよ。
 幸いにも今はなきビートルズに、金ピカの合体の悪夢はない。けれどもう一つのアップルはどうだ。
「本当に偉大なパーソナルコンピューターは、俺達だけが作りうる」という糞生意気な気概は、どこへいっちまったんだ。パーソナルコンピューターの世界に物分かりのいい大人しかいなくなったら、どうなっちまうんだよ。
 あいかん、気づかぬ内に一九八六年のファイルをあけてあの年の恐怖をコピーしてしまっていた。おやその上に、輝く第一位を発表するスペースがもはやないではないか。
 一九九一年のパーソナルコンピューターの恐怖第一位は、毎度毎度で恐縮であるが何と次項へと先送りだ。


*いつぞや「Windows3・0は流行るか」と何をいまさらの座談会で評判を落とした『The COMPUTER』から、今度は「本当にWindowsが必要か」を論議するのだと言ってきた。
「さすが決戦だ、未来だ、新潮流だとあれやこれや思い付くかぎりのネタで大騒ぎしてきた高血圧マガジン! 実際絵に書いたようなマッチ・ポンプだよな」とあきれながらでかけていくと、「世界ではバンバン売れていくWindowsが日本市場では今一売れないのはなぜだろう」と森高マニアの編集長が振ってきた。
「おまえは実際そこまでとぼけるか」と席を蹴って帰ろうかと思ったが、珠里亜仲間の同病意識に免じておとぼけに付き合うことにした。
「ダンナ、そんなことは当たり前でしょう。日本じゃWindowsを載っけても、安くて速くて強力なマックができゃしないじゃないですか」と答えても、森高教徒の表情が暗い。
「ただしDOS/Vの伸びと共に、こうした事情は変わると思いますよ」と加えると、少し頬に赤みがさした。そこでええい大サービスと、「それも読者の腰が抜けて、パソコン誌が百倍売れるくらい激しく変わりますよ」と吹くと、急ににこやかになってきた。
 ほんと、こいつは根っから大騒ぎが好きな雑誌なんだな。
 これまでもさんざ言ってきたとおり、Windowsはマックの真似である。しかも後からDOSにかさ上げしたぶん、構造はマックに比べていびつである。特にインストールの厄介さときた日には、殺人的である。
 ただしこいつの載っかるPC互換機市場には激しい競争があったために、マシンは強力で安い。ハードウエアの進化の時計の針に、すっかり弾みがついてしまっている。そのためにWindowsを使えば、強力で安いマックができる。アップルがマックのOSを売り渋っても、思いっきり安くて速ければ、これで何とか勝負になる。そこでWindowsがはやる。
 ところが日本市場では、Windowsを載せてもDOSマシンが強力で安いマックに化けることはない。
 日本の標準となったPC―9801はほぼ同じ時期に誕生したPCを、スタート時点では性能で凌駕していた。
 ところがIBMはPCの性能を向上させる技術の道筋をうまくつけ、これにそって進歩した。しかもその過程でIBMが激しい互換機との競争にさらされたのに対し、日本電気は唯一セイコーエプソンの挑戦はあったものの市場の独占を存分に楽しんだ。
 結果的に生じたのは、DOSマシンの最先端から比べればかなり貧弱な機械に法外な値札がついた、お寒い日本市場の現実だ。
 一九七〇年代後半から一九八〇年代初頭にかけた時期、日本はアメリカに大きく遅れることなくパーソナルコンピューターをスタートさせた。横並びとは行かなかったが、半歩遅れの二番手ではあった。それがPC上に激しい競争が生まれた八〇年代半ば以降、すっかり世界の流れにおいていかれた。
 ハイテック日本がさんざ囃される中で、日本のパーソナルコンピューター産業は取り残されていったのだ。(石原慎太郎聞いてるか!)
 ハードウエア然り。そしてWindowsへの転換を契機として、今後日本のソフトウエア産業界はその実力を徹底的に検証されることになるだろう。
 誰かとりわけ罪の重い犯人がいたとは思わない。
 要するに、独占とはそういうものなのだ。
 Windowsは未来がマックの側にあることを告白した。
 だが痩せた環境を埋め尽くしたひ弱な日の丸マシンにWindowsを載せても、強力で安いマックへの変身は起こらない。とすればマックでいいんじゃないかとなって、今やアップルコンピュータの日本法人は笑いが止まらない。
 DOS/Vへの転換を行なった某日本企業のマネージャーから、先日私信をいただいた。
「DOS/Vによるソフトの共通化を目指して参画したが、この一年なんら成果は得られなかった」とあった。日本の標準をDOS/Vに早く移行させたほうがいいとさんざ触れ回ってきたオレとしては、かなり複雑な気持でこの手紙を読んだ。
 〇〇さん(頭文字を書いて判じられても困るのでこう書きます)。オレはDOS/Vを囃してきたが、これが日本のハードウエア・ベンダーに直接利すると書いた覚えはない。強力な本体が安く手に入り、大幅な機能拡張を実現するさまざまな周辺機器がそろっている世界に移行したほうが、ユーザーにはよほど望ましいと言ってきただけだ。
 表立って口にはしてこなかったが、唯一日本だけが守り通してきた世界との壁がDOS/Vによって崩れれば、日本企業は少なくとも当面は大きな打撃を受けるだろう。DOS/Vの波に乗る資格をもっているのは、少なくとも当面はPC市場で激しいたたき合いを演じてきたアメリカとNIESの企業だろう。
 事ここに至るにあたっては、半導体摩擦を口実とした百パーセントの制裁関税を一九八七年に米政府が実施したことは、ボディー・ブローのように後々まできいてきた。ただし〇〇さん、それでも言いたいのですが、日本の企業は独占でとげを抜かれた日本市場に救いを求めてしまう前、PC互換市場に挑戦的に乗り込んで成果を上げていたではないですか。
 もしもあの日の青空をリスタートしたいと望むなら、世界の競争にもう一度身をさらし、そこから立ち上がるしかないのではないでしょうか。


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ダウンサイジングと呼ばれる戦場で
メインフレームは誰に破れたのか

 父と母はもはや、永続的に共同生活を維持していく状態にないと初めて知らされたのは、オレが小学校四年生の時だった。
 二人の遺伝情報複合体の指令に従って、我が肉体が形成されているという知識は、当時のオレにはなかった。だが、自分自身が父と母の結び付きの産物であることは、骨の髄から湧き上がってくる直感によって知っていた。
 あのおっさんがオレにとっては掛け替えのないただ一人の父であり、あのおばはんが誰が代わることもできない母であることは、地球が丸いと教えられる以前から当然のことながら気づいていたのだ。
 その父と母が別れると聞いたときの衝撃は、オレの怖かったものオールタイム・ベスト10の輝く第一位である。
 後になって思えば、ありゃタイミングが悪かった。
 もう少し時間が経って、自立のための親への反抗プログラムが働きだした後なら、なにそんなもの、腰が抜けるほど驚きはしなかっただろう。
 さらに今となっては、当時のオレを襲った恐怖の本体も見える。
 だが当時は未だ、親への依存欲求のどつぼにはまりこんでいる真最中だ。鼻水にまみれたそのころのオレは、父と母の双方から庇護の翼が差し伸べられることを、当たり前の慰謝と信じて疑わなかった。
 そんなオレにとって、父と母が別れるという事件は、自分が真っ二つに引き裂かれる痛みを伴った一大衝撃だった。何がどうなったのかも分からないまま、オレは途方に暮れて泣いた。

 当たり前と思っていたことが当たり前でないと突き付けられたとき、心の底には穴があく。
 その穴からのぞいた向こうが真暗闇で先行きが見えないとなると、背筋からケツのあたりにザワザワと恐怖が忍び寄ってくる。
 誰も気づいていないだろうからこのへんで断っておくが、実は今回は「一九九一年のコンピューターここが怖かったベスト3」という前回からの続きである。
 一息に堂々恐怖のベスト3を発表するつもりで、「第三位、Windows3・0勇気を出して始めての告白事件」「第二位、アップルコンピューター衝撃の金ピカ合体事件」までたどり着いたものの、合いも変わらず両手のおしゃべりが過ぎて、肝心のベスト1がはみ出したていたらくがこれである。
 で勇躍怖かったもののネタ振りから入れば、はや駄文には長大化の兆しが現われ始めた。本来なら引き続いて、両親の離婚騒動に胸を痛める全世界のまるちゃんへのメッセージなども書きたいところだが、今回ベスト1を書かずに終われば『パソコン・マガジン』にオレの席はない。(などと軽口を叩いていたら、二か月後には本当になくなった)
 そこで今回ははやばやと(でもないか)、本論に移る。

 両親の離婚騒動を「もう、ナ〜ンも信じてないもんね」という冷笑的態度の獲得によって乗り切って以来、オレは唇のはしに不快の気配をいつも漂わせるヤナ野郎として生きてきた。
 ところがさまざまな次世代プラットフォームに向けた進軍ラッパが鳴り響いた一九九一年は、例年にもましてオレの唇のねじれ具合がきつくなった。
 相手の正体をこれと名指しすることはできなかったのだが、オレがこれまで「こんなもんだ」と思ってきたパーソナルコンピューターのイメージに確実に近づいている大きな何かが、不安でしょうがなかったのだ。
 怖かったもの第一位の不気味な影は、正体は見えないままオレの中で確実に膨れ上がっていた。
 そいつに正面から向き合うきっかけを有無を言わさずオレに突き付けたのは、田原総一朗さんだった。
 いつかもどこかで白状しちまったが、オレは田原氏の仕事の手伝いをいくつかやってきた。
 そして一九九一年も暮れに近づいたころ、取材の準備のためにデータを送り込みにかかったオレに、田原氏は例の身もふたもないというか、配慮のかけらもないというか、まあ皆さんもご存じの例の調子で突然切り返してきたのである。
「一九九一年はやたらメーカーが合従連衡するなどして、いろんな将来構想がぶち上げられた年だったのですら」とオレ。
 すると「なんで?」とあっけらかんと田原氏。
 その途端「なんでってそりゃあなた…」と、非難めいた言葉がオレの喉まででかかった。
 パーソナルコンピューターにまつわる技術は進歩する。進歩すれば新しい技術のステップに踏み出す。そこで事がうまく運べば、新しいよりまともなプラットフォームが築かれる。そんなことは当たり前以前で、前提の前提。マイコンウォーズ、パソコンウォーズ、新しい波がどんどんくるぞとこれまでさんざん囃し立てたのは、あんたじゃないか。それをこのおっさんは、本当にどこまでとぼける気だ。
 と思いかけたところで、オレは突然〇・二秒間脳死した。
 いや、本当にそうなのだろうか。
 ここには何か隠れているのではないか。このすっとぼけた問い掛けは、この年に吹き出した将来構想に対してオレが抱いた違和感をふわけしてみるきっかけになるのではないか。
 そう思った途端、オレは一瞬の脳死から蘇生した。

 一九九一年五月、コンパックを始めとするハードウエア・ベンダーは、OSとチップの提供者とぐるになってACE構想をぶち上げた。
 なるほど、ミニコンピューターを押さえてきたDECが名を連ねているのか。ふむふむ。
 だがそれにしても、これではスタートラインからの呉越同舟、ライバルのたすきがけ構造だよな。マイクロコンピューターはインテルの386以上かミップスのRISC。OSはサンタクルズ・オペレーションのUNIXか、マイクロソフトのOS/2 3・0。このOS/2 3・0は、IBMとマイクロソフトの喧嘩で後にWindows NTという名に化けた。
 けれどそもそも互いを蹴落とすべきライバルを抱え込んで、果たしてACEは一つの「構想」足りうるのか。サンとアップルとIBM以外のその他大勢を一まとめにして、レッテルを張ったようなものじゃないか。
 いや、まて。こんな評論家風の物言いではすまないぞ。
 オレがACEに感じたいかがわしさの根は、もっとオレ自身の皮膚に近いところにある。
 ACEがこのオレに提供するマシンの顔は、いったいどんなものなんだ。
 UNIXであれ、OS/2 3・0であれ、Windows NTであれ、オレがマッキントッシュで出合ったいわゆるGUIの面つきじゃないのか。
 表情だけをとらえればしょせんアラン・ケイの掌から踏み出しはしないはずだ。
 確かに586やRISCで動かせば、そいつは速いだろう。
 けれど、値段は高いんだろう。
 自慢じゃないが最近売り物の原稿をさっぱり書かないオレは、ここのところとりわけ貧乏だ。高いマシンにゃ手が出ない。ACEマシンがはでに出てくるころまでには景気が回復して大企業やバブル人種が大枚をはたいてくれるのかも知れないが、そうなったとしてもその下には膨大な貧乏人がいる。
 最大の市場を形成するのは、いつだってこの貧乏人だ。
 GUIという顔つきだけじゃない。
 一つ一つのマシンの裏に統合的なネットワークがしこめる、そこがポイントなんだって。けれど少なくともこのオレは、全てをオレ自身の足元から始めるぜ。
 先ず組織があってそのコマとしてオレが位置づけられるのが嫌だから、この年になるまで妙なツッパリを捨てきれずにプータローできた。
 そりゃこのオレも、大組織の運営効率を高めるMIS部門のエリートにでも収まっているのなら、システム本位で物事を考えるかも知れない。だがそんな不幸な立場に追い込まれる人間は、ほんの一握りだろう。
 要するにACEがやりたいのは、GUIを備え、これまでメインフレームを中心に組み上げられてきた大規模なネットワークを引き継ぐ速い機械を作るという話だ。
 ぶら下がるのではなく、ネットワークを形成する側に立つとなると、当然マルチタスクもいる。言い換えれば、速くてマルチタスク可能でネットワークを担えるマッキントッシュ(以下面倒臭いからこれをHMNM=Hayai Multitask Network Macと呼ぶ)のプラットフォームを作るということだ。
 そしてここまで単純化すれば、一九九一年にわんさか登場してきた新しい提案の類は、みんなこの線でまとまってしまう。

 まずアップルとIBMの提携。ここにはいくつかの要素が含まれているが、先ず最初に形を取るのは、マックをIBMのネットワーク体系SNAに組み込むという点だ。
 そして次のステップはIBMの開発するRISCチップ、PowerPCを将来のハイエンドのマッキントッシュに採用していく点。つまりはこれもHMNMだ。
 その次の段階に両社が共同で用意しているというコマも、こうした話は成功したためしがないという懸念を振り払って見直してみても、またHMNMの枠組みからはみ出していない。
 サンマイクロシステムズのSolarisもまた、HMNMプラットフォームの提案だ。
 そもそもが分散コンピューティングに対応して生まれたUNIXに、ネットワーク体系のOpen Netwok Computingを加え、OpenWindowsでマック化を図る。これを従来の自社のRISCチップSPARCに加えて、インテルのマイクロコンピューターにも載せ、幅を持ったHMNMプラットフォームとしようということだろう。
 2・0となってIBMが懸命にプロモーションをかけるOS/2もまたしかり。これまではOS/2 3・0として開発してきたものを、IBMとの大喧嘩以降2・0からの継承性をわざわざ切り捨てて名前を付け替えたマイクロソフトのWindows NTもまた、HMNMへの試みだ。
 そうか、あれはみんなHMNM(速いマルチタスク・ネットワーク・マックだよ)か。だがそいつのどこが気にいらんのだ。さまざまなHMNM構想の一体何処に、オレは違和感を感じ、いかがわしさを覚えているのか。
 その答えは、田原氏の「将来構想がなぜ出てきたのか」との問いと裏表の関係になっている。
 そう気づくか気づかぬかのうちに、オレの口からは「ダウンサイジングと言っても、大型は誰に負けたのか、という話なんだと思うんですよ」と、分かったような分からないような言葉が垂れ流されていた。
 つまりはHMNMは果たして、ヒト一人のためのコンピューター技術の進歩の延長上に生まれようとしているのか、という話だ。
 結論から言えば、オレはそうは思わない。
 量産化できる部品としての頭脳を実現したマイクロコンピューターは、メインフレームやミニコンピューターの足場にひたひたとコスト切り下げの圧力の波を送り込んできた。
 こいつを使ったパーソナルコンピューターやワークステーションの割安感は、実に強力だった。
 そして一九九〇年を前後して、ダウンサイジングという話になる。
 不況も加わってMIS部門に予算圧縮の圧力がかかり、メインフレーム中心のメーカーは従来のスタイルは通らないと白旗を上げた。
 ただしそこで見ておくべきは、彼らが誰に負けたのかという一点だ。
 彼らはパーソナルコンピューターにはもちろん、少なくとも現状のワークステーションにも負けたと思ってはいない。
 あの程度のネットワーク機能、あの程度の処理速度、そしてデータ保護に対する無頓着な姿勢に大型の文化が負けるわけがないと考えている。ただ彼らは、量産部品としてのマイクロコンピューターの圧倒的なコスト・パフォーマンスの良さには、完全に負けた。そこで清水の舞台から飛び降りたつもりでマイクロコンピューターの世界に飛び込み、そこで大型の文化体系を再構築しようと考えた。
 それがダウンサイジングと呼ばれるものの本質だ。
 いいかえれば、勝者は現状のパーソナルコンピューターでもワークステーションでもない。
 ダウンサイジングの戦場での最終的な勝者は、まだ誕生していないのだ。
 すべてのHMNMの提案は、空位のままに残されているこの王座をつかもうとする試みだ。SolarisとOS/2は、カスタム・アプリケーション中心の旧来の大型文化を直接継承する形で。青みがかったマックとWindows NTは、パッケージ・アプリケーションを部品化してパーソナルコンピューター文化を大型に拡張する形で。そしてACEは、両者の無自覚で不明瞭な混合によって。

 マイクロコンピューターという名のDNAには先ず、パーソナルコンピューターの誕生によってヒト一人の可能性を拡張するという遺伝子が乗った。
 そこに今、組織の効率を高めようとする遺伝子が乗ろうとしている。ダウンサイジングと書かれた白旗を掲げてメインフレームの陣地から両手を上げて出てきた連中は、彼らの流儀と彼らの文化を再び、マイクロコンピューター上に築こうとしている。
「さあ答えろ」と迫る田原氏を前にそこまで考えたオレは、正体の見えなかった怖かったものナンバー1の姿をつかんだような気になっていた。
 そうだ第一位は、「マイクロコンピューターへの大型遺伝子混入事件」だったのだ。
 そうか、正体はあんたたちか。オレが何をほざこうと、あんたたちはMIS予算の分捕り合いに血道を上げるだろう。どうぞ勝手にやってくれ。
 だが個人が向き合うコンピューターの明日は、大型文化の受容にだけあるのではない。
 そう確信した時点で、オレは生涯二度目の遺伝子関係の恐怖を乗り越えた。
 あんたがあんたの道を行くとき、オレはオレの道を行く。オレはコンピューターをヒト一人の視点から見据え続ける。


*この逆上的コラムが雑誌に載った後、「なんだかネットワーク許すまじってな調子ですね」と編集者にからかわれた。
 けれど心平らかに読んでもらえれば分かることだと思うのだが、何も「結ぶ」こと一般をオレは毛嫌いしているわけじゃない。ただ結びに至る道筋のたどり方が、「さあこれからはLANだ、ネットワークだ、あれを買え、これを買え」と大騒ぎしている連中とは違っているだけだ。
 結ぶことについて考える際、オレ自身は先ずネットワークという言葉をいったん捨てる。これに代えて中心に据えるのは、共有というイメージだ。
 共有には、大きな可能性があり、そして困難がある。
 以下、そのうちの困難の側について、少し触れる。

 パーソナルコンピューターがさまざまな局面で、実用の道具として使われはじめてはや十年。駄文を垂れ流すという職業上の要請から、オレはかなりの量の文章をマシン上で作ってきた。
 そして売文業者であるオレの原稿は、没を食らわないかぎり編集者の手をへて雑誌なりなんなりのページを汚してきた。
 出版社側が電子化された文章の受け皿を全く用意していない時期は、せっかくコード化して作ってやった文章をわざわざプリンターで打ち出し、紙の上のインクの染みに変えて郵送するなりファックスするなりした。コード化の作業をライターにやらせれば、これまで印刷屋が受け持っていた作業のなにがしかを省くことができると出版社が気づいてからは、フロッピーディスクで渡すか電話回線で原稿を送るかになった。
 このあたりまでは「電子化というやつは人の移動の必要性を省いてくれるし、なかなか結構なものだナ〜」とオレ自身ボーッと考えていた。警戒感は、ゼロだった。
 従来、不文律として存在していた書き手と編集者の原稿共有のルールが電子化で揺らぎ始めたと気づいたのは、何度か出版社相手に大立ち回りを演じてからだ。
 編集者という人種は人の書いたものにやたらけちを付け、時には書き直しを求めるといった狼藉に及び、果ては「没」と称して労作を闇に葬ろうとする不埒漢である。
 こうした非人間的な輩に対するときは、書き手の側もそうそう善人として振る舞ってばかりはいられない。赤字を入れられた原稿を前に、良心に猿ぐつわをかけて必死の自己弁護を試みるはめにもなる。
 この際のやり取りは、かなり容赦ない。
 ただし容赦はなくても、ともかくも書き手と編集者はがっぷり四つに組む。中には書き手のあずかり知らぬところで改竄しようとする性悪もいないじゃない。だが「文句があるならどうどうと言え」と胸倉でもつかんで一発かませば、とりあえず知らぬうちに直されると言った寝覚めの悪い事態は避けられた。
 それが電子化したファイルで原稿をやり取りするようになってから、改竄事件がたて続いた。しかもこちらが「なんで断わりもなく変えた」と血相を変えているのに、編集者の側にはさっぱり犯意がない。「この親父は真っ赤な顔をして、何をわめいてるのよ」てなもんである。
 さらに悪いのは、オレにとってみれば万死に値する大罪を犯した編集者が、全くもって根性悪に見えなかった点である。
 実に気立てのいい編集者が、メッチャクチャに人の原稿を変えるのだ。
 いったいこりゃなんだとしばらくは途方に暮れていたが、二度三度と似たようなトラブルを体験したところではたと膝を打った。
 犯人は電子化じゃなかろうかと思い至ったのだ。
 紙に書いた原稿を直そうとすれば、あれをこうしてここを削ってと、手を入れた跡は歴然と残る。誰がどう直したか、明々白々である。
 ところがワードプロセッサーを使えば、修正の跡は全く残らない。どんなにいじくろうが印刷とポンと押せば、少なくとも文字面はきれいな文書が吐き出されてくる。清書の手間いらずで、実に結構である。
 ところが直しの跡が残らないというワードプロセッサーのメリットは、どうやら原稿に向かう編集者の意識も変えてしまったようだ。従来なら赤ペン片手にある種の決意をもって「えいやっ」と直しを書き入れていたものが、キーボードの操作で跡を残さず変えられるとなって、変更に対する精神的な縛りが一挙に弱まった。
「この一文字に文句を付ければ、書き手は狂犬のようにたけり狂うかも知れぬ。だがそれでもここは直さざるを得ない」
 かつて編集者が心の中で踏んでいたはずのこうしたプロセスは、電子化によって今、本人もそうと気づかぬうちにお蔵入りとなりかかっている。
 電子化によるさまざまなメリットは、いやでも耳に飛び込んでくる今日このごろ。だがもう一方で、電子化が崩すものもある。少なくとも、編集者と書き手が原稿を共有する際のたがのゆるみは、オレ自身がたっぷりと経験してきた。そして今後、出版社の中間管理職は頻発する改竄事件の収拾に追われることになるだろう。
 こりゃ便利だと回線越しにファイルをやり取りするのも結構だが、新しい共有の道具は時に、従来は確かに存在したはずの共有のルールをなし崩しにしてしまう。
 人と人とが互いの思うところを共有するにあたっては、どんな線で結ぶだ、やり取りの約束ごとをどう組むだではおさまらない、より肌に近いところに実に大きな問題が生じてくる。
 パーソナルコンピューターの誕生以来、せっかく物事をヒト一人の足元から組み立てる流儀をこの世界でも育ててきた我々だ。大型から流れてきた連中が組織の運用効率の観点からネットワークを語るのは、そりゃあやつらの性分だからしょうがない。ただしそんなものに、皆がいかれる必要はさらさらありゃしない。
 自らの思うところを、電子化された空間で他者とどう共有していくか。
 電子掲示板上で実におぞましい罵詈雑言のぶつけ合いなど見るにつけ、心に引っ掛かるのはその点だ。


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ヒト一人のための明日のコンピューターは
タイプライターのエピゴーネンじゃない

「それがナンなの」とタモリにかまされてから、ヒト一人のためのコンピューティングの明日について考え込んだ。
 タモリのやっている「音楽は世界だ」というテレビ番組の「デジタモ・ドン」というコーナーを、ボーっと眺めていた時のことだ。
 山田五郎教授との名尻観賞における突発的な蘇生を例外として、タモリは早死に絶えて久しいと人は言う。だがこの音楽番組に関しては、おっさんも結構楽しみながらやっているように見える。
 なかでもデジタモ・ドンは、コンピューターが名脇役ぶりを発揮して快調である。
 ここで画面の中央にでしゃばるのは、マッキントッシュSE/30だ。
 あらかじめ打ち込んでおいたメロディーをマックがやたらテンポを上げたり下げたりと、ちょっと聞いただけではさっぱり節回しのわからない形で再生し、解答者が曲名をあてにかかる。
 マシンならではの超早引き、超遅引きが目玉になっているのだが、冒頭に毎回「コンピューターならこんなこともできるんだよ〜」というつかみが入る。
 例えばギターとキーボードの音の入れ替え。MIDI対応のギターとキーボードをマックが仲立ちするとあら不思議、ギターからはキーボードの、キーボードからはギターの音が流れだす。サンプリングによって種牛の紋次郎に「愛の賛歌」を歌わせたり、電話のベルに「八木節」をうならせたりといった趣向も何度か登場した。
 とまあコンピューターによる音の操作の実験をいろいろかましたところで、タモリが「それがナンなの」と落とす。
 ギターとキーボードを入れ替えても、二人が同時に演奏すりゃどっちがどっちか分からない。紋次郎や電話が歌っても、「はあそうですか」てなもんだ。コンピューターの万能物真似パワーはよ〜く分かりましたが、それがなんぼのもんじゃいでお次へどうぞとなる。
 この落とし加減、コンピューター音楽のちゃかしっぷりが、何だかオレには小気味良い。
 こんな本まで出していただくくらいだから、オレは多少コンピューターになじみがある。
 そして音楽にも、縁の薄いほうじゃない。
 なにしろこの歳になっても、バンドだコンサートだ、オベーションだ、体力のめっきり衰えた親父にはやっぱりスタインバーガーだと浮かれてるんだからね。
 ところがコンピューターと音楽の双方には縁があっても、オレは〈コンピューター音楽〉という奴とは無縁である。それも単に縁がないというよりはむしろ、今度街で出合ったらきっちり落とし前を付けてやっからなと、硬質の敵愾心を燃やしていると言ったほうが近い。
 音の世界におけるコンピューターの物真似ぶりが、どうにも気に入らないからだ。
 楽器に電気が絡むのは、全くもって文句ない。アンプはオレのギターを成層圏まですっとばしてくれるし、奇妙な電子音も面白けりゃそれでいい。この手の電子音に初めて出合ったのは、ビーチ・ボーイズの「グッド・バイブレーション」(一九六六年のリリースだから、オレが中二の時だ)に使われたセラミンという代物だったろう。なんだか幽霊が出てくるときの効果音が似合いそうな奇妙な音色だったが、今聞き返しても忘れ得ぬこの曲にいい味を添えていると思う。そうそう、「ペット・サウンド」にも、こいつを使ったいい曲があった。
 要するに問題は、コンピューターの物真似作法と使われ方だ。
 例えばキーボードでギターの音を出す。ついでにホルンとサックスに、三味線と琴の音も出してみましょう。それではどうぞ。はいできました。だがそれだけなら、「ナンなの」とタモリにかまされて終わりである。
 少なくとも聞いてる側は、コンピューターの音真似その物に興味はない。
 一度なら手品でも見るように驚いてはくれるかもしれないが、二度目は確実に「ナンなの」だ。
 要するに聞きたいのは胸にずんと来る演奏その物で、ホルンに見える楽器がサックスの音を出していようが、ポチがミケの声で鳴こうがそんなことはどうだっていい。
 コンピューターが何かの楽器を真似たいというのなら、それは勝手にやってもらって結構だ。だが真似たコンピューターが手本を超えていないなら、聴く側にとって積極的な意味はない。
 スピーカーから流れる音が同じなら、歌い手が美川憲一でもコロッケでもどっちだって同じだ。
 にもかかわらず、コンピューターの音真似ははびこる一方だ。
 その原因は、奏る側の都合にある。
 万能音真似機がないうちは、その楽器の音が欲しければ自分で練習するか、できる奴を見つけてくるしかない。もちろん演奏は一切人様がやるわけで、失敗があれば取り返しはつかない。諦めるか、もう一回やるかだ。
 ところが楽譜どおりの音をたどる自動演奏機能付きの万能音真似機があれば、大幅な省力化が可能である。ほしけりゃどんな音でも、すぐに入れられる。マシン・トラブル以外にはミスもない。算盤勘定を持ち出せば、ある程度格好のつく音を仕上げるコストはぐんと安くなる。
 ならばコンピューターは、本物の楽器を見事に真似た上に、自在性と編集可能性、自動演奏などの特長によって本家を超えているではないか。と人はそう言うだろうか。
 確かにそこから出てくる音を離れて話の筋道だけをたどれば、言うのかも知れないな。だがそんなことをほざく奴には、TMNだとかB'zだとかいった連中の、人の息遣いの欠如したブザー早押しクサレ音楽を、反吐を吐くまで聞かせてやるからな。
 楽譜をマシンが追いかけていくシーケンサーは、それはまあ〈便利〉といっていい側面を持っている。アレンジのシミュレーションなどやってみるには、なかなか役に立つはずだ。
 しかしこいつが肥大化すれば、やがて演奏はコンピューターのジェネレートするカラオケになる。
 そんなものにオレは興味はない。
 ベースとドラムの視線が火花を散らしてドライブがかかったり、ギターの泣き節にピアノがすがったり、ボーカルのためが崩れる一瞬を全員が息を呑んではかったりと、メンバーの鼓動が重なりあう瞬間こそがオレにとっては音楽だ。
 CPUのクロック・スピードが支配する音の重ね合わせには、乗る気もないし聴かされるのもまっぴらだ。
 デジタモ・ドンのコーナーのつかみが毎回示すとおり、コンピューターは万能の物真似機械である。
 だが見事に真似てみせることその物には、積極的な意味はない。
 真似るにあたってのプラスとマイナスを差し引きした上で、物事の本質に積極的に貢献する方向で本家を超えたか否か。そこが問題だ。
 超えていなければ「それがナンなの」とかまされて、返す言葉がない。
 さらにデジタモ・ドンは、万能の物真似パワーを持つがゆえにコンピューターが時に足を取られかねない陥穽を浮彫りにする。
 彼の物真似力をもってすれば、マシンには紋次郎に「愛の賛歌」を歌わせることも、電話のベルに「八木節」をうならせることも出来る。だが電気釜に洗濯機の真似をさせることは、そんなことが出来たとしてもやはり意味がない。
 こう考えてくると、実際あのコーナーは実に哲学的で深い。
 
 この偉大なるタモリのコンピューター批判を確認したオレの前には、今、テキストとグラフィックスの入力、そしてマシンの制御の一切を全部ペン一本に集約した、厚目のクリップ・ボードのようなコンピューターがある。
 一九九一年の六月にNCRが発表したNCR3125だ。
 電子画板といった趣のこのマシンを実際に目の前に置いて触ってみると、これが実にまたコンピューターの物真似パワーの偉大さを雄弁に語りかけてくる。
 こいつには、キーボードは付いていない。
 そのかわり、ペンを使って手書きする文字はつぎつぎにデジタル化されて表示される。
 もちろん絵も描ける。
 液晶の表示の下に電子ペンの位置を感知するセンサーを組み込んだ入出力一体のディバイスの力を借りて、このマシンが新たに踏み出したのは〈紙とペン〉の真似っこの世界である。
 そしてこうした新しい物真似技を披露されると、あらためて従来のパーソナルコンピューターがどんな技を駆使していたのかが、はっきりと意識に上ってくる。
 本質において万能物真似機械であるコンピューターは、これまで〈タイプライター〉をシミュレートして、パーソナルコンピューターと名乗っていた。この技はタモリに「それでナンなの」と切って捨てられるほど、やわなものではなかった。
 本家の技をなぞったうえに、画面上での訂正や文書の保存、カット&ペースト、欧文ならスペルのチェックと、従来のタイプライターをはるかに超えてみせた。漢字仮名混じりの厄介な文章が幅を利かせるこの国では、夢の範疇にしか存在しなかった日本語タイプライターも、見事に実現してみせた。
 さらにこの延長上には、コンピューター通信などといった芸当も可能になった。
 またタイプライターを真似たコンピューターの上では、集計表が電子化され、音楽やイラストレーション、さらには動画までここに取り込まれていった。
 あらためて振り返れば、実際、物真似四天王どころじゃない。タイプライターの真似一発で、コンピューターは実にとんでもない大成功をおさめたものではある。
 だがすでにデジタモ・ドンの真実を確認したオレは思う。
 どんなに成功したとはいえ、タイプライターねたはコンピューターの物真似芸の一つに過ぎない。その点を忘れていると、オレ達はおそらくコンピューターの新しい芸に対して不寛容になるだろう。
 さらに現在のマシンがタイプライター技で成功しているということをあらためて確認すれば、現状がそれほど理想的なものでないことはすぐに見えてくる。
 なに、電話のベルに八木節をうならせたり電気釜に洗濯させたりといった珍芸が、結構まかり通ってしまっているのだ。
 まず、ワードプロセッサに次いで広く利用されている表計算にしてからが、果たしてタイプライターを真似たマシンで処理して適当なものか。どう考えてもオレには、紙とペンを真似た環境の方が、表作りには似つかわしく思えてしょうがない。
 グラフィックスの入力は言うまでもなし。
 さんざん文句を言ってからこういうのも何だが、楽譜書きとアレンジのシミュレーション程度には我が音楽活動にもコンピューターを使おうと思っているわけで、その節はやはりタイプライターよりは紙―ペン環境だ。
 てなわけでデジタモ・ドンの真実に目覚めたオレは、ペン・コンピューティングに期待するところ大である。
 ところがざっとあたりを見渡してみるにつけ、ペンの評判はどうも芳しくない。特にパーソナルコンピューターに詳しいと自任する人ほど、こいつに懐疑的である。
 パーソナルコンピューターに入れ込めば入れ込むほど、タイプライターを真似た現在のマシンの在り方が骨身に染み付いて、これ以外の可能性が見えなくなるということだろう。
 だがここのところは何度でも繰り返したいのだが、コンピューターの本質は万能の物真似性にこそある。
 こいつらは何にだって化ける。
 必要とあれば、次から次へと化け続ける。
 芸の筋道を適切に付ければ、物真似技は完璧に近くなる。さらに完璧を突き抜けて、本物を越える。
 我々がすでに手にした何かに化けることも可能なら、今はまだ誕生していない何物かに化けることだってできる。
 過去と現在をシミュレートできると同様に、未来をシミュレートすることも可能だ。
 いったい何に化けさせるのか。そのアイデアが人の心の内で枯渇しないかぎり、永遠に変わり続ける。
 連中は、我々の想像力を映す鏡なのだ。
 確かにタイプライターの真似は大成功したし、文書作成にはこのスタイルが長く生き残るだろう。だが同時に我々は、タイプライターに絵を書かせたり音楽をやらせたりと、おかしな真似もやらかしている。
 紋次郎の「愛の賛歌」を笑えはしないのだ。


*とこう書いた直後、世話になっていた『パソコン・マガジン』の編集部と大喧嘩して(一方的にオレが怒り狂っていただけだという噂もあったが)、読者への挨拶もなく本書のもとになった連載を打ち切った。
 ただし振り上げた拳の降ろし所がなくて、最終的に「ああ止めてやる」となりはしたが、アドレナリンの過剰分泌で欲も得もなくなっていたわけじゃなかった。
 逆上しながらも、オレなりに小狡い計算はしっかり働かせていた。
 結局のところ、コンピューター村のあれやこれやへの不平不満、皆々様への文句ばかりを書き連ねてきた格好のコラムの何回目かにペン・コンピューティングを取り上げたところで、オレは「これで一まとまりついたのかな」と唐突に思い始めていた。編集部にいちゃもんを付けて実際に打ち切る前に、オレの中でこの連載はすでに終わりかけていた。
 一九八〇年代の後半、オレを支配していたのは「どうせ皆マッキントッシュの真似じゃないか」との思いだった。
 四、五年前には例の鶴岡雄二に「今のコンピューターの世界でやっていることの本質は、あそこの肉はここのより何円安いといった安売り談義でしかない」とかまされ、一時は真剣に商売替えも考えたほどだった。
 このコラムを書いている最中も、ソニーのパームトップの手書きへの先駆的な挑戦を面白いと思ったり、ジェネラル・マジックによる電話の遺伝子の取り込みなど、いくつかの新しい試みにはなるほどと心を動かされた。
 だが気分の底には、大抵のことはマッキントッシュですでに見た、との思いがあった。
 ところが一九九一年の半ばに、GOというアメリカの企業がまとめたペン・コンピューティング戦略に関するまとまった資料を読み、社長のジェリー・カプランのインタビューの翻訳を仰せ付かったあたりで、オレの中で何かが形をなし始めた。
 リサで度肝を抜かれ、マッキントッシュに「これで世界は変わる」と直感したときの胸の騒ぎが、GOのPenPointと名付けられたOS越しに蘇ってきた。面白いと思った手書きのサポートや電話の遺伝子の取り込みが、これをきっかけに一つのイメージに凝縮し始めた。
 ある時代が終わり、ある時代が始まろうとしている。
 オレはそう感じ始めた。
 世界のどこにでもたちどころに広がっていく、電子の紙とペンの時代が開けるとオレは確信し始めた。
 マッキントッシュとの初めての出合いに体験した、深く抜けわたる青空を仰いだような感覚を、オレは思いだしていた。
 今ごろになってWindowsがはやり、マッキントッシュの選択がようやく認知される足の遅い世界のことだ。
 DOSの環境に手書きを持ち込むCICのPenDOSに続いて、一九九二年四月にはGOのPenPointとマイクロソフトのWindows for Pen Computingがアメリカ市場で出荷となったが、市場で弾みがつくのにはまだ時間がかかるだろう。
 ただしオレが連載に区切りを付けたこの時点で、抜けるような青空のリスタート・ボタンは確かに押されたのだ。


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後書き

 公園の深い緑に半分飲み込まれたような今のアパートで暮らし始めてから、もう五年近くたった。
 移ってきたのは雨のクリスマスの日で、知らぬ間にいやほど増えていた荷物にもう引越はこりごりだと思ったのを覚えている。だが、冬が過ぎて初めての春が来るころには、新しい環境がすっかり気に入っていた。
 斜面に根を張ったエノキは左右に大きく枝を広げ、窓の向こうの五階の廊下にまで少し先をのぞかせていた。この枝に、春が来て葉が付き始めた。腕を突き出さずとも掌をかざせば、葉っぱを撫でながら歩くことができた。冬のあいだはゲートボール場になっている向かいの広場が見渡せていたのが、葉が育ち、小さな実がなり始めると、ボールを叩く高い音は聞こえても朝起き鳥の元気なプレイヤーの姿は見えなくなった。
 メジロが実をついばんでいるのを窓辺で眺めていると、いつまでも飽きなかった。
 だが母の入院から、緑の中の暮らしを楽しむ心の余裕がなくなった。
 満開の桜が散ったかと思うと、母が死んだ。心に開いた大きな穴から目を反らし続けているうちに、自分自身が厄介な病気にかかっていることを知った。二度目の入院を終えると、今度は父が病院に入った。長く病気を押し返してきた父だったが、今回は力絶えた。父の最期を看取ってから、三度目の入院になった。
 退院は紫陽花の季節だった。
 地域の経済の柱だった造船所を移転で失ってから、この町はすっかり肩を落とし、息をひそめるように生き永らえてきた。町内会の知らせは八十まで生きた年寄りの訃報ばかりで、たくさんのネコが暗い目で欠伸をかみ殺し合っていた。久しぶりに戻ったセピア色の町は雨の中で、紫陽花だけにぽつんと青が浮かんでいた。
 二年の闘病を経てようやく本格的な治療にこぎ付けたのだから、多少は心に薄日が差してくるのではと思いながら、我が家の玄関をくぐった。だが使っている薬の強い副作用が出始めて、その後、気分も体もますます重くなっていった。
 東京の病院に通って、横浜駅から自転車で漕ぎだしたあの日も、ペダルはやけに重かった。おまけに降り出したと思ったとたん、雨は肩を押し合いながら我先に地面を激しく叩き始めた。もうすっかりずぶぬれになってしまってはいたが、セピア色の町に入ったところで、とうとう自転車を漕いでいられなくなった。道路に少し被さった細い枝の下で、オレは灰色の目で落ちる雨を見ていた。
 立て付けの悪い玄関の戸を引いてバアサンが出てきたのは、その時だった。右手で傘を掲げたバアサンは、左手に例の安っぽい白い傘を持っていた。「ボロだから返すこたないよ」と怒ったように言って、バアサンは傘を押しつけた。
 家の近くまで傘を片手に漕ぎ返ると、ネコ屋敷の軒下に別のバアサンが立っているのが見えた。十匹近いネコに囲まれて、「ミイちゃん、車に気をつけな。ヨッちゃん、キョウちゃんに目ふいてもらいな」と一日中連中とばかりおしゃべりしているネコバアサンだった。ネコが雨に降られやしないかと心配でもしているのか、バアサンは傘を両手で杖のようについて、左右を見回していた。
 そこに、ずぶぬれになった小さな女の子が、角を曲がって歩いてきた。
 ネコ屋敷に女の子が差しかかったところで、バアサンは「入んな、家はどこだ」とこれも怒ったように言って傘を差し出した。女の子は一瞬ひるんだように立ち止ったが、むき出しの肩をぶるっと震わせてから、びっくりするほど大きな声で「ありがとうございます」と言った。
 雨の向こうに一つの傘におさまったバアサンと女の子が消えていくのを見届けてから、オレはエノキの葉についたしずくをバシバシ払いながら五階の廊下を歩いた。激しく降り出した雨は、バスタオルで頭をゴシゴシ拭き終えたころには唐突に上がりかけていた。黒い雲に覆われた空の西の端には、絵筆で掃いたように青空さえわずかに顔を出していた。
 嫌なこと続きで疎ましく感じ始めていたこの町を、オレはまんざらでもないではないかと思った。
 びしょ濡れになった服をまとめて洗濯機に放り込み、新しい下着にジーパンで机についた。つらいことばかりのここ三年、どうにか書き続けてきたこの原稿を本にまとめる作業は、体調不良で遅れ遅れになっていた。パワーブックのキーを叩いてマシンを起こすと、ディスプレイにかろうじて書き続けることのできた原稿が蘇った。
 各項目に付ける言い訳の原稿が、今日はすいすい書けそうな気がした。
 しばらくキーを叩き続けてふと見上げると、窓の外には抜けるような青空が広がっていた。
 タイトルは「青空のリスタート」だと、オレは唐突に思った。
 この原稿を書いてきた数年来、少なくともオレの目にはパーソナルコンピューターは淀んでいるように見えた。それでも業界の算盤勘定は堅調だったものが、ここに来て日本のメーカーは厳しい不況に直面させられている。創刊以来、世話になってきた『The COMPUTER』とコラムを載せてもらった『パソコン・マガジン』も同時に休刊になった。
 けれど大丈夫だと、オレは思った。
 窓を開けて雨上がりの冷たい空気を入れ、「きっと大丈夫だ」とオレは小さな声で言ってみた。
 青空のリスタート・ボタンは、押そうと思えばオレにもあなたにも押せるはずだ。

『パソコン・マガジン』への連載中は、同誌編集部の宮島淑子さんの励ましと助力を得た。暖かさと厳しさ、知性とを兼ね備えた彼女の真っ直ぐな視線に包まれていなければ、この間唯一継続しえたこのちっぽけなコラムさえ、私には書き続けることができなかったと思う。
 同紙編集長の中村明彦さんには、合わせる顔がない。何とかもう少し大人になるよう、可能性は余りないような気もするけれどともかく努めますので、ご寛恕あれ。そしてあらためて掲載の機会をいただいたことを、中村さんに感謝します。
 書きためてあったコラムをまとめるだけと高をくくっていた書籍化の作業は、体調の波に翻弄されて遅れ遅れとなった。ほんのちっぽけな作業もやり終えられなかった日の夕方は、「本当にこの本を出せるのだろうか」と不安にすらなった。この締め切り違反の連続の中で、妥協なく注文を付け、しかも辛抱強く励まし続けてくれたのは、ソフトバンク書籍編集部の沖山克弘さんだ。ガキのころのツッパリの面影を色濃く残すこのオヤジに初めて担当者として紹介されたときは、「喧嘩別れ」という文字が一瞬脳裏に浮かんで、書籍化の断念すら考えた。だが何度目かの約束を破った時、自ら病んだ体験を、伏し目がちに細い声で語ってくれたオッサンはオッサンなりの純情は、その後のオレの両脇を支えてくれた。
 人は実際、見かけによらないものである。





底本:「青空のリスタート」ソフトバンク
   1992(平成4)年9月30日初版発行
入力:富田倫生
校正:富田倫生
ファイル作成:富田倫生
1997年8月26日公開
2002年6月28日修正




●表記について