市民のためのインターネット図書館

青空文庫の挑戦


富田倫生(青空文庫呼びかけ人)
初出:「週刊金曜日」1999年7月16日号


 青空文庫とは、インターネットの上に開いた、無料公開の電子図書館だ。
 図書館を名乗ってはいるが、ここに紙の本は一冊もない。〈蔵書〉はすべて、コンピューターで扱う電子テキストでそろえてある。記憶装置におさまっている情報の固まりが正体だから、ここには建物も書棚もない。来館者への対応は、コンピューターまかせているので、二十四時間、年中無休の体制も無理なく組めている。
 青空文庫を使う人には、インターネットに繋がったコンピューターから入ってもらう。あなたのマシンが接続されているなら、http://www.aozora.gr.jp/にアクセスしてほしい。
 用意してある著者名や書名別のリストで、「これ」と思う作品が見つかったら、図書カードを開いて詳細を確認する。読みやすさを高めたものや、使い回しに考慮して基本的な形式におさえたものなど、一つの作品に、いくつかの形式がそろえてある。
「この作品をこの形式で」と指示すると、青空文庫側から利用者のコンピューターに、コピーされた〈本〉が送られてくる。通常の図書館の貸し出しに相当するのは、ここでは複写だ。誰かが引き落としても、オリジナルは残っているから、次の要求があれば、またコピーすればよい。つまり、文庫の〈本〉は、返却してもらう必要がない。
 青空文庫の〈蔵書〉は、二種類に大別できる。著者の死後五十年を経て、著作権の消滅したものと、書き手自らが「タダで読んでもらってかまわない」と決めた作品だ。
 紙の上の文字を電子テキストに変換したり、校正したりといった作業は、ボランティアの協力者によって進められている。
1997年8月の開館以来、利用者は予想もしなかった勢いで伸びてきた。今年に入ると、週あたりの参照ページ数が14万を越え、間借りしていたコンピューターでは対応できなくなって引っ越した。
 開館間もない時期、メキシコ在住20年という方から「日本語の本が読めて嬉しい」と連絡をいただいたときには、あらためて国境を越えるインターネットの力を実感した。海外からのアクセスはその後もふえていて、先日はアメリカの日本文学研究者グループからも利用報告をもらった。

コンピューターで読む本の可能性

 青空文庫は、しっかりとした組織的な基盤や、予算の裏付けがあってはじめたことではない。「コンピューターなら、本の役割を、もっと上手にこなせるのではないか」こんな期待をもった仲間の中から、たまたま四人が集まって、いわゆるホームページを作るのと同じ感覚で開いた。
 紙の本を作る際は、印刷までの前工程にたっぷり手間がかかる。印刷機、製本機ともに規模が大きくて、まとまった部数を一度に作ってしまわないと、一冊の単価が高くつく。最低でも、数百冊という話になり、当然費用がかさむ。
 まとめないと効率が悪いという性格は、本にまつわるさまざまな仕組みのあり方を決めている。個人では、本作りには手が出しにくい。専門の会社が、「まとまった数売れるか」という観点で企画をふるいにかけ、パスしたものだけが本になる。全国をカバーする流通網の存在も不可欠で、できあがった仕組みにとっては、大量生産、大量消費できる商品こそがありがたい。一部の人には大切と思える内容でも、部数が見込めなければ本にはなりにくい。評価の定まった作品でも、流通の仕組みの中をまとまった数流れなくなると、絶版の憂き目にあう。
 一九九〇年代に入って、コンピューターの画面で読む本らしきもの(以下、これを電子本と書く)が生まれた時点で、紙の本がこれまで切り捨てざるを得なかった要素を、これで救えるのではないかと考えた。
 私は、パソコンの歴史をテーマの一つとして、原稿を書いてきた。『パソコン創世記』(旺文社文庫)と名付けたはじめての本は、文庫全体の廃刊と時期が重なったために、出たとたんになった絶版になった。だが、原稿自体は電子テキストで残っている。それを、ほんのちょっといじるだけで、読みやすさを考慮した電子本に仕立てられる。後は、読んでもらいたいと思う人、読みたいと言ってくれる人が現れた時点で、フロッピーにコピーして渡せばよい。お金はほとんどかけずに、絶版本が蘇ると考えた。
 当初、「紙の本の落ち穂ひろい」くらいに考えていた電子本の可能性を再認識したのは、九〇年代半ば、インターネットが普及していく時期だった。安くは作れても、フロッピーなりなんなりにおさめている限り、配布にはコストがかかる。ところが、世界中のコンピューターが、あれよあれよという間に、みんな繋がりだした。制作に加えて配布のコストまで、大きく削減できる見通しがたった。
 そうした条件が成立してもなお、本の仕組みが変化しないとは、私には思えなかった。土台ごとひっくり返るような大きな変化が、これからどんどん起こる。中でも、もっとも効くのは、コンピューターで読む本の強みを、最大限に生かせる分野だろうと考えた。
 タダでコピーできることは、読む側にとっては福音だ。だが、商品としての本を作ろうとする人には、悪夢だろう。コピーを防ぐ確かな方法でも編み出しておかないと、心配で電子本など出せないという人もいるはずだ。ただし、どんどん読んでもらうことこそが狙いなら、インターネットと結び付いた電子本の可能性を、十二分に生かせる。

知の共有システムとしてのインターネット

 著作者の権利を守るという側面をもっぱら強調される著作権法だが、これにはもう一つ「文化的所産の公正な利用」をはかるという狙いがある。
 作者の死後五十年を過ぎれば、自由に複製物を作ってよいと、同法は定めている。時のふるいを経てなお意義を認められた作品には、誰もができるだけ安く触れられるようにしようと考えての規定だ。
 私たちは、人の考えに学び、自分なりのものの見方を育てていく。一人の人間の頭に詰まっているほとんどは、先人と同時代の仲間から与えられたものだろう。その組み合わせの配分が個性で、そこにわずかでも自分なりの新しい要素を付け加えられれば、実に創造的な人生を送ったことになるのだと思う。
 マルクスの肩に立って世界を見渡したとしても、私たちは彼の関係者から、知的所有権に基づく請求を受けることはない。肩に上るのは自由、真理はタダと設定しておくことは、生き物としてのヒトを、社会的な存在としての〈人〉として立たせるための、大切な鍵だ。
 言葉に表した考えや思いを、出来る限り自由に交換できるよう仕組みを整えておくことは、まとまりとしての我々を前進させる、必須の条件だ。印刷術は、この条件を整えた。だがある特定の仕組みには、限界がある。その限界を、今、インターネットで接続されたコンピューター群が乗り越えつつある。
 万能物真似機械であるコンピューターのもっとも意義深い可能性は、あらゆる社会システムを点検するチャンスを与えてくれることだと思う。私たちは今、本と本に関わる仕組みを物真似環境に移し替えようとしている。その中で、書き言葉を交換する仕組みにとってはなにが本質で、なにが「紙に印刷する」という条件に引きずられて抱えた属性であるのかを、選り分けられるはずだ。
 青空文庫には、時の選別を経た古典と並んで、自分の書いたものをわざわざタダで読んでもらおうとするおかしな人たちの作品が収められている。彼らは要するに、銭勘定の出来ないお人好し、あるいは、売り物の書けない素人なのだろうか。
 私はそうは思わない。
 自分の考えをはっきりと示し、人々の共感を得て、未来を自分の設計図に引き寄せようとすることは、書くことの本質的な動機の一つだ。インターネットが、知の交換の仕組みとして機能すると自覚するのなら、素早くそこに自らの言葉を送り込むことは、ごくごく自然な行為だろう。こうした人の中からは、著作者に認められた財産権をあえて「行使しない」と宣言し、自分の言葉をより広く行き渡らせようとたくらむ戦略家も現れている。
 短期的には、彼らは確かに、書いたもので稼ぐチャンスを失うかもしれない。だが、未来のデザインに及ぼす決定権のところでは、しっかりと〈稼ぐ〉可能性がある。
 インターネットは知を巡るシステムの解体と再構築を、同時に進めていくだろう。その大きな流れの中の一筋として、青空文庫を育てたい。今や百五十人を越える群となった仲間と共に、青空を仰ぎながら進んでいきたいと考えている。